2007/12/31

見ぬ世の友

 中村光夫は明治四十四年、西暦でいうと一九一一年生まれである。
 日米開戦のとき、三十歳だった。
 河上徹太郎に「政治に絶望」しているといわれた中村光夫は、文芸誌に「日本の戦争とは無関係」の評論を書き続けていた。当時をふりかえり、次のような感想をのべている。

《芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません。
 現代で芸術をつくる難しさの、過半はそこから来ているのでしょうが、この困難はふたつに大別できそうです。
 ひとつは、芸術家の外部からくるもので、権力の圧迫、商業主義の支配などが、その典型です。
 いまひとつは、時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目で、これが芸術家の内部に巣食う敵であるのは言うまでもありません》(「文学界」と「批評」/『憂しと見し世』)

 前者はわかるが、後者の「時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目」とはどういう意味なのか。中村光夫もそのことについてくわしく言及していない。
 ちなみにこのとき「いい気」になってやっていた仕事は「二葉亭四迷論」と「戦争まで」というフランス留学記だった。
 戦時中には「日本の戦争とは無関係」な評論を書いていた中村光夫であるが、戦後は「日本の近代」との戦いがはじまる。

《明治以来、われわれの思想や感受性の動きは、表面めまぐるしい変化の連続のようですが、ちょうど同じコップにさまざまな飲物をかわるがわる注がれたように、外国思想の影響をうけてきたあとは、見方をかえれば、変ったのは、コップに注がれた内容だけで、コップの形はむかしから少しも変わらなかったと言えます。そして僕らが観念的にでなく、実際持ち得た「近代」とは、このコップであり、これだけが、あわただしい変転のなかで、かわることのない僕らの精神の実態と言えますが、この無意識の環から抜けださない以上、僕らに自分の本当の姿を見ることは不可能であり、どのような善意も人々を幸福にもしないし、自分を救うこともできないと思われます》(「第二の開国」/『日本の近代』文藝春秋)

 わかるようなわからないような言い方だけど、「無意識の環」あるいは「時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目」から逃れたいというおもいが、中村光夫にはあった。
 明治大正は「西洋かぶれの時代」だったと中村光夫は考えていた。

 最近、中村光夫の『近代への疑惑』(穂高書房、一九四七年刊)という本を入手した。その中に「影響論」という評論がある。
 一九三八年三月、中村光夫が二十七歳のときに書いたものだ。「今日世界を蔽う電信とラジオの網」は、世界をどれほど変えたのかと問い、そのことによって、「地球を小さな塊」に変え、われわれの精神を徒らに忙しくしたのではないかという。
 かれこれひと月、わたしは二十代のころのような読書に没入する感覚をとりもどしたいとおもいながら、中村光夫を読んでいた。そして「影響論」の中に、その答えを見つけることになった。

《書物を通じてその奥に生きる人間に觸れ、彼に同感し、または反撥すること、こゝに僕らの書物に對する興味を常に新鮮に保ち、またこれを僕等の血肉に消化する誤たぬ方法があるのだと僕は信じてゐる。そしてこれは何も僕一個の獨斷ではない。サント・ブーヴも正宗白鳥氏にしろ、古今の讀書の名人は、すべて實際かうした態度で書物に接してゐる。云ひかへれば彼等の想像力は、常にその日常接する人間に對すると同じ自然さで書物の上に働いてゐる。そして彼等が一つの書物を判斷する最後の言葉は、次のやうなものである。「一體この本のどこに、どういふ風に己は身につまされたか」と。おそらく、彼等の手にする書物は、すべてこの問ひに答へることによつて彼等の身になるのである。そして彼等の批評に絶えず或る新しさを與へる素朴な健康性も、またこゝから生れると僕には思はれる》

 年々、活字を血肉にしたり、身につまされたりする読書から遠ざかっている。手っ取り早く、知識を得ようとすれば、書物の奥にいる人間に届かない。そんな当たり前のことを忘れていた。
 「影響論」はおよそ七十年前に書かれた評論だが、中村光夫は「現代における印刷物の氾濫は、僕等からめいめい自分でものを考へる力も殆ど奪ひ去ってしまつてゐる」という一文もあった。

《したがつて、僕等の精神は、絶えず消化の出來ぬ言葉を一杯に詰めこまれる状態に生きるほかはない。そしてこれらの言葉は僕等の頭のなかで不消化のまゝ、次々に新しいものに代つて行く》

《知識の普及の異常な容易化が、人間精神の本來の機能の異様な衰耗と相通ずる點に、現代文化の最大の病弊が横たはるのではなからうか。(中略)言葉が僕等の精神に與へられた唯一の思考の要具である以上、言葉を粗略に扱ふ人間はかならずその言葉に復讐を受けずにはゐない。言葉を粗略に扱ふとは、粗略に物を考へることだ》

 くりかえすが、これは一九三八年に書かれた文章なのである。それから七十年、印刷物の氾濫は当時の比ではないし、テレビ、インターネットも登場した。ますますわたしたちは、消化しきれないほどの言葉に精神がさらされている。
 不消化の言葉が蓄積してゆくにつれ、「精神の生きた機能」や「自分でものを考へる力」が麻痺してゆくと中村光夫はいう。

 また中村光夫は「見ぬ世の人を友とする」ことこそ、読書の歓びであるという。この「見ぬ世の人……」云々というのは、吉田兼好の「徒然草」にある言葉だ。
 これだ、とおもった。
 わたしは中村光夫が生涯に書き残した文章の、まだほんの一部しか読んでいない。でもなにかある、とかんじたのは、期せずして「書物の奥の人間」に触れてしまったからなのだろう。いい読書をすると、「書物の奥に人間」が自分の中に住みはじめる。

 中村光夫、友だちになれるだろうか。

2007/12/27

なしくずし

 年末進行、忘年会、いろいろあって、更新停滞。
 寝ちがえて、からだが動かすのもしんどい状態になる。こんなにひどい寝ちがえは久しぶりだ。首がまわらない。

 中村光夫の『文学回想 憂しと見し世』(中公文庫)を読んでいて、ようやく戦前から戦中の文学の世界になじんできたところで、中断してしまった。一人の作家の本をずっと読み続ける集中力がなくなってきている。その時間を捻出するのもむずかしい。
 二十代のころは読書に没頭することなんてわけなかった。逆にのめりこみすぎないようにブレーキをかけないと仕事に支障をきたすのが悩みの種だった。今は読書に没頭する感覚をとりもどすために、あがいているかんじだ。

 戦前戦中の言論弾圧の激しかったころの「時代の空気」が、わかるようでわからない。
 反体制でなくても、ちょっとした発言でも取締りの対象になるという状況下で、文章を書いたり、本を出版したりする仕事を続けるのは、たいへんなことだった。軍の批判なんか、まったくできない。ちょっとしたことで警察につかまってしまう。文学者の集まりなんかにもスパイがまざっていたという。
 弾圧の対象は、マルクス主義から自由主義にまで拡大されていった。

《自由主義は、マルクス主義と違って、本来あいまいにしか定義できないものです。したがって、そのレッテルは誰にも簡単に貼れるので、それが罪悪とされるようになったのは、一部の御用思想家以外は誰でも、当局の意のままに犯罪者として拘引できるということです》

 今の世の中なら、かつての戦争、軍国主義を批判することはいくらでもできる。しかし、当時その流れを食い止める方法はあったのかどうか。

《当時の軍人たちのやりかたは、戦争をまず勝手に起しておいて、これを口実にして政権を壟断し、国内を統制し、支配しようとするので、そのために平和の到来を何よりも恐れて、戦争を神聖化し、永久化しようとする傾きさえそこから生まれました》

 中村光夫は、日本の軍国主義に疑問をもっていたが、河上徹太郎に「君は政治に絶望しているから駄目だ」といわれた。しかし時勢に協力したり、抵抗したりする河上徹太郎のような人がいたおかげで、「僕はいい気になってやりたいをやっていられた」と中村光夫はふりかえっている。
 ほかにも当時の日本のあり方はおかしいとおもっていた人はいた。しかしそれを口に出していえば、政治家は除名され、文学者は表現の場所を失う。批判すればするほど、取締りが強化される。
 そんな状況になったら、どうすればいいのか。
 かつてのような軍国主義の復活を危惧しているわけではない。
 でも『文学回想 憂しと見し世』を読んでいると、とにかく身につまされるのだ。
 昭和十八年、日本の敗色が見えはじめると、だんだん日常生活が、乏しく、不潔で、不便になった。

《いまから考えると、よくあんな生活に堪えられたものですが、その当時はだんだん馴らされたせいか、むしろそれが当たり前のように思っていました。(中略)そのくせ一杯の酒、一椀の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体が囚人の集団に似てきました》

 馴れるということに、常に警戒心を持っていないとまずい。貧乏だけでなく、浪費だってそうだ。馴れてしまって、破滅をむかえる。いざ経済危機や食料難に陥ってしまえば、個人としては、ほとんどなす術がない。

《昭和十九年になると、敗戦の徴候はますますはっきりして来ました。と言うより、もう勝てるとは誰にも思えなくなったが、負けたら一体どうなるのか、どうすればよいのか、見当がつかない状態といった方が当っているかも知れません》

 見当がつかなくて、手をこまねいているうちに、被害はどんどん拡大する。
 無為無策、打つ手なし。
 これは戦時中にかぎった話ではない。

2007/12/17

厄介な才能

 特別区民税・都民税の督促状の払込み期限がすぎてしまったので、杉並区役所に行く。ついでに阿佐ケ谷の文房具屋でパラフィン紙を三十枚買う。そのあと区役所に行ったら、払込用紙を忘れてきたことに気づく。面倒くさいので、そのまま荻窪のささま書店まで歩く。そのあとCO-OPのインスタントラーメンを買う。CO-OPは高円寺にないので、いつもささま書店に行ったついでに寄る。
 たぶん、そのときだろう。パラフィン紙を置き忘れたのは。ああ、四百五十円が。うう。
 荻窪から丸ノ内線で新高円寺駅に行って、「七つ森」で休憩しているときに気づいた。戻る気力なし。
 中村光夫のことばかり考えているせいかもしれない。
 以下は、年末進行の最中、しめきりのあいまに書いた原稿を公開です。
                *
 中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』(中公文庫)に、中原中也という、人としてはかなり厄介だけど、とんでもない詩の才能をもった人間のことを回想するくだりがある。
 中原中也は、昭和を代表する評論家である中村光夫ですら、自分を凡人だとおもわせてしまうような存在だった。しかし中原中也は凡人たちに嫉妬した。詩をつくる以外、生活能力とよべるものが何もなかったからだ。
 かつて、中原中也は「俺の詩はみんな筋金がはいっているからな。ぶったって、たたいたって、四十年や五十年は」というようなことを中村光夫にいったそうだ。

《実際、おれの作品にはおれの命が注ぎこんである。だからそれは生きるに違いないという自負だけが、不幸と孤独のなかで氏を支えていたようでした。
 この自負は正しかったのですが、氏の心を安らかにするほど、確固としたものではなかったようです》

 そのせいかどうか、中原中也は同時代の作家の悪口ばかりいっていた。中村光夫もそのとばっちりをくらったひとりだ。ビール瓶で頭を殴られたり……。
 その後、中村光夫は鎌倉から東京に引っ越し、中原中也と疎遠になった。

 中原中也の「生きていること自体が苦痛であるような」挙止は、その美しい詩句とつながるのか、そうではないのか。詩人の人生は、通常人とはちがうものなのか。
 中村光夫はそんなことを考えていた。

 世の中とうまく折り合いがつかないから、表現や趣味の世界にのめりこんでしまうということはある。そういう世界にのめりこみすぎてしまって、生きがたい人になってしまうということもある。
 中原中也ほどの才能があるかどうかは別にして、わたしのまわりにも、しょっちゅう不用意としかおもえない衝突や摩擦をひきおこしてしまうことによって、せっかくの能力をうまく活かせていないとおもう人間が何人かいる。
 もったいないとおもうが、ちょっとうらやましい気がすることもある。
 友人のひとりは、とにかく楽に生きている連中が許せない。自分はこれほどまでに生活やらなんやらを犠牲にして、ものを作っているのに、相手はただの仕事としか考えていなかったりする。
 そうすると、「どうしてもっと苦しんで、もっとおもしろいものを作ろうとしないんだ」と不満におもうわけだ。
 世の中と折り合えないから、文学やら音楽やらの世界に来たつもりなのに、そこもまたつまらないルールが支配しているのか、要領のよさがものをいうのか。そういいながら憤ったり、嘆いたり、やる気をなくしたりする。

 『今はむかし』を読みすすめていると、こんな一文に出くわした。

《むろんこれは詩人だけの問題ではなく、小説家でも批評家でも、同じことなのですが、ふつうの文学者には遊び、あるいは余裕があります。この常識人という反面で、彼は人生に触れ、そこから養分を吸収するのですが、ときにこれがすぎて、彼のなかの芸術家まで人生と溶け合ってしまうことがあります。しかし、その人自身はそれで幸福であるわけです。
 ところが中原氏の場合は、そういう余裕や遊びはまったくないので、氏と人生、社会との間にはただ断然があるだけです。こういう言い方は誇張と聞こえるかも知れませんが、若かった氏がそう生き、また若かった僕らの目に氏がそう見えたはたしかです》

 遊びと余裕。人生、社会との断絶。
 わたしは遊びと余裕を必要とする。ただ、余裕がありすぎると、切実に本が読めなくなり、文章も書けなくなる。
 あるていど、与えられた条件で自分のできる仕事をこなすという技術がないと暮らしは安定しない。
 その安定とひきかえに失ってしまうものもある。なにもかも、というわけにはいかないのは、世の常だ。

 中村光夫にしても、若いころは、論争相手の大家にむかって「齢はとりたくないものです」といい、物議をかもしたことがあった。
 でもいずれは自分も齢をとる。
 四十代、五十代になったとき、自分はどうなっているのか。そんなことを今から考えていても、たぶん、そのときにならないとわからないんだろうなあ。

2007/12/10

文学共和国

 問:中村光夫の本で、今、新刊書店で買える本は何冊あるでしょうか?
 答:一冊。三島由紀夫との共著『対談 文学と人間』(講談社文芸文庫、二〇〇三年刊)のみ。

 ただし中野区と杉並区の図書館には中村光夫全集が揃っているようなので、とりあえず一安心だ。
 昨日から中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』『文学回想 憂しと見し世』『戦争まで』(中公文庫)の三部作を読んでいる。
 学生時代に先輩の高見順から、文壇デビューしたあとの心がまえを教えてもらったり、小林秀雄や中原中也や青山二郎といっしょに飲んだりしている。そういう場所に居合わせることも才能だとおもう。
 この三部作は再読だけど、読みはじめると、この世界にずっとひたっていたいという気分になって、読み終えるのがおしくなる。
 中村光夫は、学生時代に左翼文学の同人誌にかかわっていたことがある。でもしだいに関心が薄れていったという。

《要するに、そのころ僕が気付いたのは、世の中の不正や不合理は相変わらずであるにしろ、自分にとって革命とは厭世の一形式にすぎず、結局、年少な嫌人家である自分に、たしかな元手は自分自身しかないということです》

 そう考えつつも、中村光夫は「その元手が、あまりゆたかなものではなさそうだ」と悩んでいた。わたしは「元手」という言葉が好きなのだが、これは吉行淳之介の影響かもしれない。

 『今はむかし』を読んでいて、印象に残ったのは「文学共和国」という言葉だった。
 中村光夫は、横光利一が「純粋小説論」を発表したころの反響を回想し、次のように語る。

《当時の僕は、国境と時代を越えたひとつの「文学」を信じていました。西洋という子供のときからことばで聞いているだけの世界を理解しているつもりでいました。同時代の多くの人々と同様に、世界の中心は西欧であり、日本は辺境と思っていましたが、文学という形のない共和国では市民はだれもが平等、少なくともそうあるべきだと信じていました》

 さらに中村光夫は、今の日本の社会を描くには、十九世紀の西洋を代表する作家たちの技術が必要で、近い将来、そうした技術をきちんと消化した作家がわが国にもあらわれるだろうと考えていた。

《当時の氏(小林秀雄)はやはり世界的な文学共和国の住人であり、その地図には横光(利一)氏や僕と大差なかったのです》

 そんな「文学共和国」を夢見ていた中村光夫だったが、そのころの純文学作家、批評家は貧乏だった。

《むろん、だからといって卑屈になったり、恥じたりすることはまったくなく、金はなくともみんなしたいことはしていたし、今では考えられない爽やかな貧乏でしたが、大体がその月暮らし、住居は借家で、電話はひいていない、というのが一般の状態でした》

 わたしは「世界の文学」ということはほとんど考えたことはない。むしろ中村光夫が批判しているような日本の私小説が好きである。さらにいえば、私小説が世界に通用しないともおもわない。時代とか、読んだときの年齢とか、そうしたちがいは大きい。私小説の全盛期だったら、わたしも私小説を読まなかったかもしれない。
 中村光夫は時代をこえて読まれてほしい。中村光夫が夢見たような日本の文学も読んでみたい。

 話はかわるけど、中村光夫は、大学三年生くらいから文芸時評の仕事をしている。今では考えられないし、当時でも「早すぎる」という反対者がいたようだ。中村光夫自身、知識や経験不足でうまく書けないこともあったと述懐しているが、そういう失敗もふくめた場数をふんでいかないと成長しない。

 編集者はもっと冒険してもいいのではないかと……。

2007/12/08

中村光夫を読んで寝る

 これからすこしずつ中村光夫を読んでいこうとおもっている。そうおもいながら、五、六年の月日が流れている。全集を買おうかなとおもったら、高いんだね、知らなかった。
 読みたいのは、エッセイと文学論関係だけなので、地道に集めることにする。
 中村光夫に「作家の文明批評」と題するエッセイがある。初出は一九四七年八月の『文學界』で、わたしは『百年を単位にして』(芳賀書店、一九六六年刊)で読んだ。

《作家はその生きる時代の性格を把みこれを批評する間に、まずその与えられた環境のなかで、どういう風にうまく立廻るかを考えるようになりました。「現実」という合言葉が、この場合絶好の遁辞になりました。これは世の中が世知辛くなったためかも知れませんが、同時に文学の堕落だったと言えましょう》

《その日暮らしの無気力、自分の無能にさえ気付かぬ怠惰、お互に自分だけ有利な地位をしめようとするこすからい競争心、こういった気風が、——戦後の社会一般と同様に——文学界を風靡しているようです。文学とはこんなところまで「時代の鏡」にならなければならないのでしょうか》

 文学が「時代」にたいする何らかの役割を担っていたというのは、昔話になってしまったという気がする。テレビやインターネットのスピードにはかなわないし、活字の分野でいえば、週刊誌、新書、漫画がかろうじて「時代の鏡」になっているかもしれない。もしくはケータイ小説か。
 中村光夫がこのエッセイを書いたのは、三十六歳のときである。昔の批評家は二十代、三十代でこういうことを考えていたのかとおもうと、ちょっと感慨深いものがある。

 その日暮らしの無気力にどっぷりつかっている。
 世の中が複雑になった、というのは言い訳にすぎないが、文学は文学、政治は政治、経済は経済、科学は科学、さらにそれぞれのジャンルの専門化が進んで、大まかに文明を論じる余裕がなくなった。
 わたしが無気力になっている理由をひとつあげるとすれば、「なにをいってもしかたがない」とか「なるようにしかならない」といった諦めの気分があるのはたしかだ。

 中村光夫というと「私小説批判」の人という印象があったのだが、読んでみて、そんなに単純ではないこともわかった。

 「自分と他人」と題するエッセイでは、「自分のために小説を書くのと、他人のために書くのと、どっちがむずかしいか」と問いかける。

《私小説の作家は、他人を描くむずかしさを捨て、自分を描くむずかしさに徹することで、ともかく一つの新しい道をひらいたのですが、今日の作家はこういう根本の問題にふれないところで、自分の職業を成り立たせているようです》

《考えてみればものを書くという行為が自分のためだけということはありえません。放っておけばそのまま消えてしまう思想や感情を紙の上にのこすのは、ひとりの読者を予想してはじめて成り立つことで、この読者は、かりに自分であっても、いまの自分とは他人です》

《他人のために書くことは、今日の多くの作家にとって、他人の思惑に忖度して気に入りそうなことを書くことです。この場合、彼が読者に示すのは、彼のなかの計算された部分だけであり、両者の間に芸術的交流はおこりません。こういう計算のもとに文学(芸術)がつくれると思っている人は、他人を面白がらせようと思えば、思いどおり面白がらせることができると考えている点で、自他の区別がはっきりしない精神の持主です》

 中村光夫の意見にかならずしも同意するわけではないが、「根本の問題」を考えさせられる人だとおもう。さらっと読めるが、考えはじめるとキリがない問題でもある。
 中村光夫には「文学信仰」がある。

《中村 もっともらしくいえばね、ぼくなんかも同じだな。やっぱり信じるに足るものは文学よりほかないんじゃないか、せめて文学を信じたいというような気持にいろんな原因で青年時代になるでしょう。
 三島 なるね。
 中村 その点は少なくとも戦争中くらいに文学を志した人までは同じじゃないかと思うんだ
 三島 ぼくも絶対そうです 〉
   (中村光夫、三島由紀夫『対談 人間と文学』講談社文芸文庫)

 いろいろ本を読んでいるうちに、自分が好きになる作家、詩人は、いずれも「文学信仰」の持ち主だったということに気づいた。
 はっきりそのことに気づいたのは、二十代後半くらいで尾崎一雄の「暢気眼鏡」を読んだときだったのだが、吉行淳之介や鮎川信夫も文学にしか「自分の生きる場所」はない(なかった)というようなことをいっている。
 中村光夫は、いまの人は自由で、追いつめられていないから、金を儲けようとか、名声をえようとか、そういう気持で文学をやっていて、でもそれはそれで不純とはいえないともいっている。また人間、齢をとると、視野が変わってきて、だんだん文学でなければいけないとおもえなくなってきているとも……。
 そんな話を三島由紀夫と対談していたころの中村光夫は五十代半ばすぎである。

 ひょっとしたら「文学信仰」が弱まっているから、わたしは無気力になっているのかもしれない。すくなくとも切実に本が読めなくなっている。活字にたいする飢えがいやされてしまったからだろうか。それもあるとおもう。齢をとって、本を読んでも、自分の考え方や感じ方をゆさぶられることがすくなくなったせいもあるだろう。「文学信仰」を強化するような読書に励むか、それとも青年時代の「文学信仰」が薄らいでしまった先の読書のありかたを考えたほうがいいのか。
 その先の読書生活を充たしてくれる本はあるはずだ。毎日のように新刊書店、古本屋に通い、読みきれないほどの本を買い漁り「読書疲れ」している人間のための文学が、きっと。

 中村光夫はけっこういけるかも。

2007/12/03

地盤さがし

 日曜日の駅前の薬局で「温楽」(衣類に貼るカイロ)を「箱」買いする。去年から、外出時には欠かせなくなった。三十個入りで六〇〇円くらいなので一個二〇円。年間九〇個つかうとして、一八〇〇円。このカイロのおかげで、二、三回は風邪をひかずにすんでいるかもしれない。

 昼前に西部古書会館に行く。少年サンデー編集部=編、根岸康雄=取材・文『オレのまんが道』(全二巻、小学館)を買う。「温楽」三十個分とほぼ同じ値段だった。まんが家のインタビュー本なのだが、刊行年が一九八九年、一九九〇年ということもあって、今となっては貴重な本になっている。
 なかでも若いころの浦沢直樹が「ぼくは売れることがまんが家としての第一条件だと思う」という発言は興味深い。

 かけだしのころ、編集者から「いい作品だけども、これじゃ売れない」といわれた浦沢直樹は、いちから漫画の勉強をしなおそうと決意する。

《半年間ペンを持たずに、バイトのかたわら本を読みまくり、映画を見まくった。その中で、自分にとって面白いものはどれだったか、逆に面白くないものはどれか、ベストテンみたいに並べて、自分の中でメジャー性を捜す作業をしたんです》

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)