2012/10/30

内側の技術(七)

 好きになればなるほど、スポーツや芸事はどんどん上達するし、理解は深まる。しかし、それを実行することは、それほど容易いことではない。

 二十代の半ばくらいまでは、一冊の本に感激したら、その世界がどこまで広く深くても、後先考えずに飛び込んで耽溺することができた。
 残念ながら、今はそうではない。

『禅ゴルフ』や『新インナーゴルフ』をおもしろく読みつつも、もうひとりの自分が「これ以上、趣味を広げる余裕はないぞ。ゴルフ、ダメ、絶対。禅やヨガには近寄るな」と忠告する。

 ガルウェイのインナーゲーム理論は、もうひとりの自分が、無意識のうちに内なる欲求に歯止めをかけ、本来の動きを抑えこむ心理をくわしく解説している。

 わたしはガルウェイの本で「好調の波」を「ストリーク(streak)」ということを知った。

《いかにスランプから脱出するか、いかにストリークを続けるか。この2つの質問には、興味深い共通項があることにも、私は気づいた。前者は、スランプにいる自分は何かをしなければそのままスランプに留まるのだと仮定し、後者は何かをしなければストリークは終わってしまうと仮定していることだ》(「スランプからの脱出」/『新インナーゴルフ』)

 たとえば、悪いショットが続く。そうすると、次も失敗するのではないかと不安になる。よいショットが続いたときに、こんなことは続かないと悲観する。
 その不安や悲観は、次のショットにも影響を与え、スランプは長引き、ストリークを失速させる。

 わたしの場合、何か新しいことに興味をもつと、気持が高揚する。そのうち仕事や生活などの現実にひきもどされ、おもしろいとおもうことよりも無難なことを選択しはじめると、いつの間にか興味をなくしてしまう。いちど冷えてしまった興味を再燃させることは困難を極める。

 もはや法則といっていいくらいにこのパターンをくりかえしている。

 今回、そのパターンを自覚できたのは収穫である。

 自分の限界は自分の心が作っている。
 齢とともにリミッターを解除することへの怖れが大きくなっている。

「書けば書くほど書くことがなくなる」
「次のテーマを温める時間がない」

 そんな不安が筆を重くしていたのだ。

 できるとおもってやってみても成功したり失敗したりするけど、できないとおもいながらやると、まずうまくいかない。

「もうすこし自分を信頼してみよう」

 まずはそこからだ。

(……とりあえず完)

内側の技術(六)

「型」と「感覚」について考えていると「どちらも一長一短ですな」というおもいがこみあげてくる。対処療法がいいのか自然治癒がいいのかといった論争みたいなものだ。

 よいレッスンを受け、上達した人は「型派」になり、自己流で技術を身につけた人は「感覚派」になる。それだけのことなのかもしれない。自分に合った方法を見つけようとすれば、どうしても自分の経験に左右されてしまう。

 ガルウェイは「型」と「感覚」は対立する概念ではなく、同じ海に流れるふたつの川のようなものと表現している。
 そのふたつの川のいずれを選んだとしても、障害になるのが「自己不信」だ。

『新インナーゴルフ』に「自己不信の克服」という章がある。

 不調のときの対処は、自分にたいする信頼を取り戻し、「リラックスした集中」を得ることだ。しかしそれができないから自己不信に陥る。

 ガルウェイの『インナーゲーム』(日刊スポーツ出版社、一九七六刊)では、無我夢中になってプレーする境地への到達方法こそが「内側のゲームそのものなのだ」と述べている。
 その方法は「好きになること」である。何かに集中するときも、その対象を好きになるのがいちばんの近道なのだ。

 あらためて『キャプテン翼』の「ボールは友だち! 怖くないよ!」というセリフは深いとおもった。
 精神集中の“持続時間”を伸ばす方法をガルウェイはヨガの教えから導きだす。

《特にインド・ヨガは、心の乱れを克服する過程で“愛”の力を発見した。バーキ・ヨガは、対象物に心を奪われることによって完全に精神統一(集中)の域に達しようとする思想だ》(「ボールに心を奪われよ」/『インナーゲーム』)

《集中がさらに深まるのは、心が集中の対象に興味を抱いたときだ。興味のないものに心を留めておくのは難しい。(中略)興味が深まれば、第一印象よりもさらに細かな、見えない部分にも興味を持ち始める。興味の奥行きが増せば、人は体験をより感じることが出来るようになり、興味を持ち続ける努力を支えることになる。けれど、興味を強制すれば興味は失われていく》(「集中技術の練習」/『新インナーゴルフ』)

 ことわざの「好きこそ物の上手なれ」と同じようなことをいっているのだが「興味の奥行き」という言葉は大事な指摘だ。
 もっとも「恋は盲目」という言葉もあるように、無我夢中の状態というのはまわりのことが見えなくなる。

……ここまで書いて、ちょっと散歩に出かけた。

 いつものように高円寺の古本屋をまわる。ゴルフやスポーツ心理学、禅やヨガの本が目に飛び込んでくる。
「しかし、待てよ」
 自分の気持にブレーキがかかる。
「今月は本を買いすぎてしまった」と反省する。

 スポーツ心理学の本は三十代半ばごろから気分転換用の本として買い続けてきたが、さすがに禅やヨガの本まで手を広げると、収拾がつかなくなるのではないか。テーマが大きくなりすぎて、探求する時間を捻出できそうにない。

 いくら好きになることが大事といっても、おのずと限度がある。

 古本に人生を捧げてもいいとおもうくらい好きで、しかもある意味仕事の一部になっているにもかかわらず、知らず知らずのうちにブレーキをかけてしまう。

(……続く)

内側の技術(五)

 ガルウェイはインナーゲーム理論で「正しいフォーム」に疑問を投げかける。
 つまり、人は自分の内なる欲求(感覚)に従ったほうが、より自分に合った理想にちかい動きになる。逆に頭で批評しながら、からだを動かそうとすると、ぎこちなくなる。
 簡単にいうと、ブルース・リーの「考えるな、感じろ」だ。

 コーチが言葉であれこれ説明したり、手とり足とり指示しなくても、ゲームに集中し、自分の感覚を信頼しながら、からだを動かしたほうが、はるかに上達するのが早い。

 もちろん、こうした考え方がすべての人に当てはまるかどうかはわからない。
 おそらく最初に型を徹底しておぼえることのほうが、自分の欲求に合致している人もいるだろう。
 とにかく「型」を自分のものにさえしてしまえば、こうしようああしようと悩みながらからだを動かさなくてもよくなる。

 自分に適したやり方はどちらなのか。
 いろいろなジャンルでも「型派」と「感覚派」に分かれる。

 料理でも「レシピ重視派」と「レシピ無視派」がいる。

 わたしは、その日の食材とか体調とか気分とか空腹度によって量や味つけを変える。最初は大雑把に作って、最後に味を整える。薄めに作って、後で味を足す。

 料理にかぎらず、たいていのことは感覚(自己流)でやっていて、何かを判断するときの価値基準も、楽とか心地よいとか、そういう感覚を優先する。こうした傾向はちょっとやそっとでは変わらないとおもう。

 インナーゲーム理論とはズレるかもしれないけど、自分の内なる欲求に従う人間というのは、チームプレイや共同作業にはあまり向いていない気がする。

 向き不向きでいえば、わたしは人に何かを教えたり、何かを教わるのも苦手である(まわりからもよくいわれる)。
 何かを習得するときのパターンは「観察(読書)→自己解釈(自問自答)→試行錯誤(工夫)」のみなのだ。

 自分もそうだから、人にたいしても「本人が気づかないかぎり、どうにもならない」とおもいがちだ。

 でも「感覚派」は「感覚派」で、常に自分の感覚に自信を持っているわけではない。
 自信がゆらいだときの修正は「型派」よりも厄介かもしれない。

 自分の内なる声に従ってやってきたのに、ある日突然、おもうようにできなくなる。
 急に「自己流でやってきたツケか」と反省する。
 反省しはじめると、どんどん堂々めぐりに陥って、「あれ、おかしい、こんなはずでは」と、それまで何も考えずにできたことすらできなくなる。

 この状態から脱け出す方法は「いや、俺はそうでなければいけないんだ」(尾崎一雄「暢気眼鏡」)という開き直りの自己肯定しかない。

 だめなときもふくめて自分の感覚を受けいれる。受けいれつつ、回復を待つ。
 半ばヤケクソで「寝れば直る(治る)」くらいのおもいこみも必要なのかもしれない。

(……続く)

2012/10/29

内側の技術(四)

 ここ数年、わたしは文章をまとめたり、削ったりすることに多くの時間を費やしてきた。
 枚数の決まった書評やコラムの仕事を続けていると、どうしても自分の「型」に縛られてしまいがちになる。
 頭の中では「気持よく書き飛ばして、後から直すところを直せばいい」とおもっていても、下手に筆を走らせると、文字数をオーバーするのが目に見えている。

 職業上の必要もあるのだが、自分の文章を他人の目で見る習慣もしみついている。それで知らず知らずのうちに、抑え気味に書く癖がついた。
 文章を書き飛ばせないのは、気力や体力の衰えよりも、単なる「練習不足」なのかもしれない。

 昨年の秋くらいから、調子よく筆が走らない原因を探り続けてきて、ようやくその可能性に気づいた。

 先月くらいからブログの編集機能が変わって、文章がものすごく直しにくくなって苛々していたとき、ふと「改行や文字数の調整にそこまで神経質になる必要があるのか」と疑問におもった。

 ちょうどそのころ、ペアレント博士の『禅ゴルフ』(ちくま文庫)を読み、その延長でW・T・ガルウェイのインナーゲーム理論を知った。

 わたしの「どうすれば、筆を走らせることができるのか」という悩みは、「どうすれば萎縮せず、気持のいいスイングができるのか」というテーマにも通じる。

 気持のいいスイングをすれば、いい打球が飛ぶわけではない。
 とはいえ、たまには文章のよしあしを気にせず、フルスイングする感覚で、書き飛ばさないと、どんどん筆が重くなる気がする。

《人間は、自分たち自身の邪魔をして、本来もてる能力をフルに発揮することを妨げる性癖の持ち主であるという正直な認識なしには、本当の進歩は為し得ない》(「はじめに」/『新インナーゴルフ』)

 ガルウェイは「ゴルフが難しいのではなく、人間の心がゴルフをあえて難しいものに仕立て上げているのではないだろうか」と問う。そして難しいものにしている原因に「特有の心理的重圧」と「正確さと緻密さの要求」と「特有の誘惑」などをあげている。

「ゴルフ」を「文章」に置き換えても、意味が通りそうである。

 正確で緻密な文章に価値があることは認めるが、それに囚われすぎると、言葉の熱が失われてしまう。

 ガルウェイはテニスを通して培ったインナーゲーム理論をゴルフで活用しようとする。しかし厳しい現実に直面する。

《スイングをコントロールしようとすればするほど、それは機械的でぎくしゃくした動きとなり、リズム感はますます損なわれる。ますますミスが多くなる。そこで私は、もっともっとと、メカニカルな矯正に自分を駆り立てる。その結果、いつの間にかスイングを矯正ではなく、自己破壊してしまう》(「ゴルフはなぜ難しいか」/同前)

 これも「スイング」を「文章」に……以下略。

 ガルウェイのショットに関する自己分析(かなり正確で緻密だとおもわれる)を読み、自分が調子を崩すときのパターンとあまりにも似ていることにおどろいた。

(……続く)

内側の技術(三)

『新インナーゴルフ』を読んでいると、ガルウェイ自身、おもいどおりにプレーできず、もどかしい気持を告白しながら、自らの理論を実行しようとしている。

 そのもどかしさを手がかりに、わたしは自分の経験(かならずしもスポーツでなくてもいいとおもう)と重ねつつ、この本を読み進めていくことができた。
『インナーゲーム』と『新インナーゴルフ』は教える立場から書かれた本と学ぶ立場から書かれた本というちがいもある。もっとも「どちらを読んらいいのか」と聞かれたら、両方読んだほうがいいと答えるしかない。

『新インナーゴルフ』には、ガルウェイの持論がすでに一九四〇年代に出版されたゴルフの本の中にすでに書かれていたことに気づく記述がある。

 その著作はゴルフの古典といわれるE・M・プレインの『ライブ・ハンズ』である。孫引きになるが、プレインの言葉を紹介したい。

《私自身、今度こそ秘訣中の秘訣を見つけたぞと何度小躍りしたかわからない。ある日は腰の動きに永遠の法則を発見し、次の日は肩の回転がそれだと確信した。私はクローズド気味のスタンスを取るが、それを少しオープンにしてみた日は、これですべてが解決したのだと思ったほどだ》

 しかし「秘訣中の秘訣」とおもった法則はあっという間に崩れる。

『新インナーゴルフ』を読むと、さまざまな作家や詩人の話と共通するところがあるようにおもう。

《人がゴルフや人生に法則を求めるどん欲さは、失望と希望の循環サイクルとなって、決して満たされないままに、幻想の中で永遠に回り続ける。人は、薬のカプセルのようになった知恵を欲しがる。すぐに飲めて、すぐに効く知恵だ。人は本で処方箋を読み、すぐ実生活で役立てようとする。人は、法則について熟慮しようとは思わない。それはその道のエキスパートの仕事だと、勝手に押しつける》(「夢中になる価値」/『新インナーゴルフ』)

 この文章を読んで「ああ、自分のことだ」とおもった人はけっこういるかもしれない。わたしも安易に何かを理解したつもりになることを自戒しつつも、しょっちゅうすぐ役に立ちそうな答えを求めてしまう。
『新インナーゴルフ』を読めば「リラックスした集中」の秘訣がわかり、いつの間にか「マスター・スキル」が身につくのではないかと期待する気持がなかったといえば嘘になる。

 でも「内面の技術」は、自分の感覚と対話しながら、時間をかけて身につけるしかない。
 ガルウェイのいう「静かな努力」を続けるしかない。

 作品の力によって、ひたすらおもしろく読める本もあれば、自分の考えた時間や悩んだ時間に比例して、おもしろさが倍増する本もある。ゴルフにあまり興味のないわたしからすれば『禅ゴルフ』や『新インナーゴルフ』は後者にあたる。

「答え」よりも「問い」に響くものがあった。当然のように予想通りの「答え」はひとつもない。むしろ「答え」がないことをくりかえし論じている本なのである。

 自分に合った生活パターンや集中やリラックスの仕方も、何年何十年とかけて、細かい修正(失敗)をくりかえしながら作り上げていくものだ。つねに途中経過でしかない。
 昨日までうまくいったやり方がうまくいかなくなる。
 ガルウェイの著作は、うまくいかなくても怖れなくてもいいことを教えてくれる。そのためには自分の内部の感覚を鈍らせないための「静かな努力」が必要である。調子を崩したときに、どう気持を立て直すか。

 ガルウェイは「その方がいい気持ちだし、いい仕事が出来るからだ」という選択をすることを心がけている。それが何かはここでは伏せる。答えではないが、それしかないとおもえる言葉があった。
 ある人はスポーツ、ある人は音楽、ある人は絵、ある人は文学、いろいろなジャンルを通して追い求めているものがある。やってることはちがっても何かしら通じ合うものがある。
 わたしはその感触を得たくて、人と会ったり、本を読んだりしている。

(……続く)

内側の技術(二)

《誰でも、最高の能力を発揮したり、経験したときに、この「リラックスした集中」状態に達した記憶はあるはずだ。知覚力も注意力も極限に達する瞬間には、努力しなくても全身がスムーズに動き、人生そのものまでもがシンプルで、完全に調和が取れているように感じられる》(「集中力という土台」/『新インナーゴルフ』)

 感覚の話は言葉にしにくい。文章で書いても伝わるのか伝わらないのか、あまり自信がない。
 わかりやすい説明は、いろいろなものを端折った要点にすぎない(ミもフタもないのことをいえば、誰にでもすぐわかり実行できるようなことには、それほど価値はない)。

「リラックスした集中」は、一日、二日で習得できる技術ではないだろう。体得のレベルもピンからキリまである。
 自分でもよくわからないまま、気がついたら「リラックスした集中」を経験していたというレベルもあれば、自由自在に「リラックスした集中」を操ることができるという達人級のレベルもある。

 ものすごい高いレベルの「リラックスした集中」をマスターするには、当然、厳しい修業が必要だし、場合によっては、私生活を犠牲にする覚悟もいる。

 会社勤めをしたり、生活費を稼ぐための仕事をしたりしながらでも、ガルウェイの唱えている「リラックスした集中」の境地に辿りつくのは不可能ではない(とおもう)。

 さらにいえば、「リラックスした集中」ができたとしても、当然、元の能力に左右される。いくら「リラックスした集中」状態にあっても、草野球の選手が、プロ野球選手の投げる球が打てるわけではないし、テニスのサーブのスピードが格段に上がるわけでもない。
 でもなんてこのないゴロをエラーしたり、ダブルフォールトしたりすることは減らせる気がする。
 つまり「リラックスした集中」は、今の自分のできる範囲で最善にちかいものを発揮するための技術といえるかもしれない。

 今のわたしが「リラックスした集中」を駆使して文章を書いても、他人が読んでおもしろいものになるかどうかは別の話である。
 それでも「リラックスした集中」をすれば、そうでないときより、執筆中の充足感は大きい。これは読書についてもいえる。

 ガルウェイのいう「リラックスした集中」は、「今の米国では『イン・ザ・ゾーン』(IN THE ZONE)とか『ゾーン』と表現するのが流行」しているそうだ。
 日本のテレビのスポーツ番組などでも「ゾーン」という言葉はよく取り上げられている。

《最高の集中状態に達するための魔法の方式や方程式は、残念ながら存在しない。頭で考えて得られるものではないし、考えること自体が極限の集中への妨げになる》(同前)

 たぶんわたしがよく躓くのもここである。「考えるひまがあったら、手を動かせ」というような助言もこの話に通じる。

 たとえば、このやり方で集中できた、リラックスできたという経験があったとしても、毎回、同じ手順でやってみたとしても、おもいどおりになるとはかぎらない。
 でも、そこそこ「リラックスした集中」に達する方式はある気がする。

 自分に合う方法、合わない方法をいろいろ試していく中で、すこしずつ勘所のようなものが見えてくる。

 いろいろ試す過程では『禅ゴルフ』のときに論じた「イメージ」も役に立つかもしれない。
 あと自分の性格(嗜好)にも左右される。大雑把なやり方のほうが合う人もいれば、緻密な手順のほうが合う人もいる。

 一日のうち、だいたいこの時間からこの時間に「リラックスした集中」状態に持っていこう——そう漠然と考える。
 そうすると、その時間から逆算してその日一日のペース配分をする。
 フリーランスの場合は、月のはじめが忙しいとか、もしくは月末が忙しいとか、仕事の量に波があることも多い。
 あくまでも「イメージ」でしかないのだが、その日その日、その月その月のピークに合わせて、自分の調子を上げていく意識を持つ(自己暗示でもいい)。

 でもそうやって苦労して作り上げた「リラックスした集中」状態も、ほんの些細なことで崩れる。すると、わたしは平静を失い、不機嫌になる。

 調子が崩れたときの立て直し方も研究したいとおもっている。

(……続く)

内側の技術(一)

《何事であれ、卓越した能力を発揮するには、専門的技術の土台となる「マスター・スキル」が必要なのだ。練達の基本能力であり、熟練のための極意だ。この技術を、私は「リラックスした集中」と呼ぶ。これさえ出来れば、人はどのような技術でも上達出来る。しかしこれがなければ、習得し、習熟すること自体が困難になる》(「集中力という土台」/W・T・ガルウェイ著『新インナーゴルフ』後藤新弥訳、日刊スポーツ出版社、二〇〇二年刊)

 W・T・ガルウェイは、一九三八年サンフランシスコ生まれ。ジュニア時代にテニスのナショナル・ハードコート選手権で優勝。ハーバード大学でもテニス部の主将として活躍し、その後、ヨガや東洋思想の研究を経て、一九七二年に『ザ・インナーゲーム(THE INNER GAME OF TENNIS)』という本を発表した。七六年には日本語版も出ている。

 ガルウェイの理論は、スポーツだけでなく、ビジネスやコーチングなどの分野にも多大な影響を与え、その著作はいまだにロングセラーを続けている。

 ところが、「ちょっと大きな書店に行ったら、すぐ見つかるだろう」とおもって、都内の大型書店をまわってみたところ、ガルウェイの本はスポーツの棚、ビジネス書の棚、音楽の棚とあちこちに散らばっていて、意外と探しにくい。三、四軒の書店をまわったが、すべて揃えることはできなかった(おかげで「古本心」に火がついたのだが)。

 どれか一冊といわれたら、『ザ・インナーゲーム』の改訂版の『新インナーゲーム』(後藤新弥訳、日刊スポーツ出版社)を読めば、ガルウェイの理論の大筋はわかるだろう。
 この本は、ガルウェイの本職(?)のテニスを元に「内面の技術」を論じている。

『新インナーゴルフ』は、テニスで培ったインナーゲーム理論の応用編といえる本である。先の引用文もそうだけど、「リラックスした集中」はこの本の大きなテーマである。

《究極の集中状態とは、自分を忘れて没頭するときだ。その「リラックスした集中」に自分自身を導く道は、自分を信じて「感じ取る」ことに始まる》

 ガルウェイの著作を読んでいて、将棋の谷川浩司さんや羽生善治さんの本と共通点が多いとおもった。集中やリラックスにたいする考え方、あるいは勝負観はかなり似ている気がする。
「リラックスした集中」に至る道は、人によってちがい、「こうすればいい」というひとつの答えはない。

 わたしも何かに没頭しているとき、どうしてそれができるのかよくわからない。まだうまくコントロールできない。不完全な技術であることは自覚している。

 尾崎一雄や永井龍男は原稿を書く前に部屋の片づけをしたり、拭き掃除をしたりする。河盛好蔵は仕事の前にトランプ占いをしていた。「リラックスした集中」を作ったり、掴まえたりするには、人それぞれの「儀式」のようなものがある。村上春樹のランニングもそうかもしれない。

 体力のある人とない人でも「リラックスした集中」の持続時間やその状態はちがうし、自分に合った方法を見つける必要がある。どんな人でも「リラックスした集中」は長く続かない。その「リラックスした集中」ができている時間に何をするかも大切だ(わたしは読書と執筆にあてたいと考えている)。

 話は脱線するが、新刊書店や古本屋をまわっていても、すごく集中して本の背表紙が見ることができるときとそうでないときがある。

 本を読んだり、文章を書いたりしているときも、集中の仕方によって、時間の流れ方がちがう。
 何かに没頭していると、すごく楽しくかんじる。たまに楽しいから、没頭できるのか、没頭しているから、楽しいのかわからなくなる。ふだんはあまり気のりしない雑用や単純作業ですら、没頭すると楽しくなることがある。
 あまりにも没頭しすぎると、後からどっと疲労が押し寄せてくる。

「リラックスした集中」は、作り方だけでなく、使い方もむずかしい。

(……続く)

2012/10/27

さてこれから

「知る」と「わかる」、「わかる」と「できる」、「できる」と「ごく自然にできる」のあいだには、いろいろな段階がある。「知る」だけでも「ちょっと知っている」と「ものすごく知っている」というちがいもある。
 ほとんど知らないのに「できる」こともあれば、ものすごく熟知しているのに「できない」ことがある。

 気がついたらできるようになっていた。なぜできるようになったのかよくわからない。
 世の中にはそういう感覚で生きている人もいる。彼らがまったく努力していないとはいわない(努力を努力とおもっていない可能性はあるかもしれないが)。

 将棋のプロ棋士やアマチュアの高段者になると、頭の中に将棋盤があって、いわゆる「目隠し将棋」ができるようになる。
 初心者からすれば、神技のようにおもえるかもしれないが、おそらく「目隠し将棋」のものすごい特訓をしたのではなく、毎日好きで将棋を指しているうちに、できるようになっていたのだとおもう。

 そうした能力の習得は、たいてい大人よりも子どものほうが早い。
 スポーツの場合だと、理屈よりもからだが反応し、それを反復することで体得する……と言葉で説明しようとすると、どうしても理屈っぽくなる。

 あることを初心者に教えるとき、たくさんの言葉をつかって説明するよりも、お手本を見せて、それをじっくり観察させて、理屈ぬきにやらせてみたほうが、早くおぼえるという説がある(W・ティモシー・ガルウェイのインナーゲーム理論)。

 ああしろ、こうしろと細かく指示されると、ぎこちなくなったり、苛々したりして、うまくいかないことが多い。見て学びたいとおもうような人にならないかぎり、どんなに言葉をつくして教えても、あまり効果はないのかもしれない。

 というわけで、『禅ゴルフ』(ちくま文庫)に続いて、「ヨガテニス」の異名をもつガルウェイの本を読んでいくことにする。今のところ、着地点はまったく見えてない。

2012/10/24

島へ免許を取りに行く

 来月、星野博美さんの『島へ免許を取りに行く』の刊行を記念して、古本酒場コクテイルでトークショーを行います。

出演 :星野博美・荻原魚雷
場所 :古本酒場コクテイル(コクテイル書房)
日時 :11/18(日) 16:30開場 17:00開始
チャージ:1000円

※要予約。
電話:03-3310-8130 または cocktailbooks@live.jp まで。

コクテイルのHP http://koenji-cocktail.com/

《抽象的な目標ではなく、手が届きそうな、具体的な目標が欲しい。
 それを達成できたら、この先も少しがんばれるような気がする》

《何かができるって、こんなに楽しいんだ。
 そして、人から褒められるとはこれほど嬉しいことだったのだ。
 何十年も忘れていた感覚だった。
 私は車という未知の世界に自分を放り込んだ。
 多分、免許に救済を求めていたのだと思う》(『島へ免許を取りに行く』本文より)

 手が届きそうな「目標」、そして「救済」——。『島へ免許を取りに行く』を読み終えた後も、この言葉がずっと残っている。

 三十代後半から四十代に入って、わたしはどんどん新しいことをはじめるのが億劫になってきている。
 これまでやってきたことですら、なんとなく全力投球できない。余力を残しておかないと、燃え尽きてしまうのではないかとおもってしまうのである。

 自分の中の「目標」もすこしずつ、大きなものから小さなものに変化している。
 その結果、無理せず気楽に長続きするようなやり方ばかり選んでいる。
 でもそうするとこんどは夢中になったり、没頭したりすることへの渇望感がくすぶりはじめる。

 未知の世界に自分を放り込む。

 たぶん今のわたしに足りないのはこの感覚だ。

 ここ数年、何か困ったことがあると星野さんのエッセイ(『銭湯の女神』、『のりたまと煙突』など)をくりかえし読んできた。
 どこにも属していない、何者でもない——星野さんはそういうところから言葉を発する。
 読み返すたびに何かを教えられる。
 しゃきっとした気持になる。

 今回の本もそう。
 この話の続きはコクテイルで……。     

2012/10/21

禅ゴルフ(五)

 ペアレント博士の「イメージ」の話を読みすすめていくうちに、すこしだけ頭の中のもやが晴れてきた気がする。

 これまで自分がずっと苦手だとおもっていたことは、うまく「イメージ」することができなかったからではないか。
 わたしは人前で話すのが苦手である。何をしゃべっていいのかわからなくなる。でも、それはそういう場面にいるときの自分の姿をちゃんと「イメージ」できていないからだともいえる。

 場数をふむということも「イメージ」と関係ある。
 多少苦手なことでも何度かくりかえしているうちに、すこしずつ「イメージ」ができあがってくる。
 完璧にできなくても「このくらいやれば許される」というだいたいの目安がわかってくると、気持に余裕ができてくる。
 たぶんこの余裕も「イメージ」の産物なのである。

「イメージ」は経験(練習や実戦やその他)を積むことによって、その精度も上がる。

 しかし精度の高い「イメージ」を作るにはかなりの集中力がいる。
 雑念があると、気持が散漫になり、集中力が続かない。
 この問題を改善するためのヒントも『禅ゴルフ』の中にあった。

 音楽家が、瞑想の練習はどうすればいいのかと釈迦に教えを乞う。
 釈迦は答えのかわりに「楽器を調律するとき、弦を張り過ぎたり緩め過ぎたりするだろうか」と質問する。

 弦楽器の調律をしている人の姿を見ると、今、無心になっているなあとおもうことがよくある。
 調律を「イメージ」するだけでも、精神衛生にいい気がする。
 逆に、調子がよくないときというのは、チューニングがズレたまま、楽器を演奏しているようなものと考えることもできそうだ。

 何とかして自分の心の調律の仕方をおぼえたい。

 まだまだ考えたいことはあるのだが、『禅ゴルフ』の話からどんどん脱線していきそうなので、このあたりで一区切りつけることにする。

2012/10/17

禅ゴルフ(四)

 前回の「イメージ」の話で「ここまでは、まだ序の口」と書いた。

 何でもいいのだが、一回戦突破、ベスト8、県大会、全国大会、プロ……と自分がそこに進んでいこうとする「イメージ」によって、日々の生活は変わってくる。

 目の前の試合だけを「イメージ」している人とプロになる、いや、プロで活躍することを「イメージ」している人は、最初は同じくらいのレベルでも一年、三年、五年と経つうちに、かなり大きな差がついてもおかしくない。
 プロのスポーツ選手を目指すのであれば、勝つための小手先の技術だけではなく、一年通して戦える体力、ケガをしにくい体づくり、さらにメンタルの強化にも取り組まなければならないし、引退後、コーチや指導者になるための勉強も必要である。

《意図したことのイメージを心にはっきり描けば、体は自然にそれを実現しようとする》

 どれだけ鮮やかな「イメージ」を持って行動するか。意志とか精神力とかいわれるようなものも、明確な「イメージ」がともなうことで、より強くなる。また自分では「イメージ」のつもりが、現実離れした妄想になっていることもある。
 その「イメージ」の精度がきめこまやかであればあるほど、そのためにやるべきことが明瞭になるし、それを遂行するための覚悟も生まれる……のではないかとおもう。

「趣味の範囲で楽しくやれたらいいや」という場合でも、それなりの「イメージ」があったほうが、より楽しく長く続けられるはずだ。

 二十代のころ、わたしは「好きな時間に寝て起きて、古本屋に行って、酒を飲んで、酔っぱらって、文章を書いて、なんとか暮らしていきたい」とおもっていたら、だいたいそんなかんじになってしまった。
「もうすこし高望みしておけばよかった」とちょっと悔やんでいる。

《五感を正しく認識することは、ショットを効果的にイメージするために必要である。人間の五感は、われわれがゴルフのショットや、それ以外のすべてのことを行う際に、心と体に適切な指令を与えるために必要な情報を収集する。だから、感覚認識の実態と、それがどのような形で体験されるかを自覚する練習は、大変ためになる》

 この視覚、聴覚、触覚(筋感覚)などの認識を深めるための方法も『禅ゴルフ』には記されている。

(……続く)

2012/10/16

禅ゴルフ(三)

 熟読というよりは、行きつ戻りつ脱線しつつ、頭の中を整理しているかんじになってきた。でも今回の読書の目的はたったひとつだ。「自分の操縦法」が知りたいのだ。

『禅ゴルフ』には、その重要なヒントが書かれている予感がする。

 わたしはゴルフ未経験者である。しかしペアレント博士の言葉にしたがえば、ヘタな先入観はないほうがよいのかもしれない。別にわたしはホールインワンを狙っているわけではない。一打一打ていねいに最後まで自分なりの最善のプレーを心がけたい。

 昨晩からひたすらひとつの単語のことを考えていた。

 ペアレント博士は、よいショットを打つためには、明確な「イメージ」を持つことが大切だと述べている。

 さらっと読み流しそうになったのだが、「ここはすごく大事だ」とふみとどまる。「イメージ」という単語から何をイメージするか。
 英和辞書をひくと「姿、形、象徴、化身、典型、印象、表象、観念、概念、心象、比喩的表現」といった意味が並んでいる。

 わたしはイメージトレーニングの「イメージ」くらいに受け取った。

 では、ペアレント博士が「イメージ」という言葉をつかっている文章をいくつか抜き書きしてみる。

《だが、もしスウィングする目的が、ボールがターゲットに向かって空中に飛ぶ、あるいはグリーン上を転がるイメージを実現することになれば、心はそうしたイメージで満たされるから、体が自然に回って自由なスウィングができることになる》

《つまり、ボールの止まる地点と、そこに行き着くまでのボールの飛び方や転がり具合を、できるだけ具体的にイメージすることである。そうするためには、あらゆる状況を迅速かつ正しく判断して戦略を立て、それをイメージに変えることが必要になる》

《だが、あえて私が“イメージ”という言葉を使うのは、イメージはもちろん視覚に関連のある言葉だが、触覚と音を含むと思うからである》

《心の中の肉体的機能を司る部分は、イメージで動く》

《意図したことのイメージを心にはっきり描けば、体は自然にそれを実現しようとする。そのイメージこそ、“ターゲット”なのである。イメージが鮮やかであればあるほど、体はそれをより効果的に体現する》

《だから、最高のスウィングを生むヒントは、観念的な思考ではなくて、できるだけ具体的なイメージなのである》

 ここまでは、序の口。
 ペアレント博士のいう「イメージ」はおそろしく多彩で緻密で深い。わたしは「触覚と音を含む」でまいった。たった一語にもかかわらず、ペアレント博士の説く「イメージ」を身につけるには、どのくらいの時間と鍛練が必要なのか、まだイメージできない。
 しかし「これが鍵だ」という確信はある。

 今の自分の停滞感や閉塞感は「イメージ」が弱まっているからではないか。
 だんだんそんな気がしてきた。

(……続く)

禅ゴルフ(二)

 毎日、本を読んだり、文章を書いたりという生活を送っていると、惰性に陥るときがある。けっこう頻繁に。
 そういうときは活字にたいする感度が落ちていることがわかる。

 新刊書店や古本屋の棚を眺めていても、意識が散漫で、背表紙の題名や著者名が頭にはいってこない。

 また長年、本を読み続けてくると、「この作家はだいたいこんなかんじだろう」と漠然と判断できるようになる。
 ジャンルや出版社にたいしても、どうしても自分の色眼鏡を通して判断してしまいがちだ。しかし色眼鏡の度数が上がるにつれ、自分には関係ないとおもえる本ばかりになって、だんだん行き詰まってくる。

 最初は『禅ゴルフ』も「禅もゴルフも、どっちも興味ないなあ」というかんじだった。

 禅に関する万巻の著書を読破した若者が、ある偉大な禅師の元を訪れ、教えを乞うた。
 禅師は若者に茶碗を出し、茶をなみなみと注ぐ。さらに注ぐと、茶があふれだした。

《お前の心は、この茶碗と同じようなもので、身勝手な意見や先入観で一杯である。最初に茶碗を空にしないで、何か学べるとでも思っているのか》

 冒頭付近で、ペアレント博士は、そんな逸話を紹介する。もしかしたら、どこかで聞いたことがあるような話かもしれない。社長の訓示にもよく出てきそうな話である。
「白紙になれ」云々の説教は、一歩まちがえば、マインドコントロールの手口にもつながる。
 いつもならこの手の話が出てくると警戒心を強めるのだが、今回は妙に腑に落ちるものがあった。

 さらに博士は次のように述べる。

《取り組む対象が瞑想であろうと、ゴルフあるいはその他のものであろうと、われわれが体験することは、初めはすべて新鮮で啓発的である。何かを始めた当初は、それをすでに達成したという意識は誰も持たない。そのような状態なら、われわれは多くのことを学ぶことができる。しかし、しばらくすると新鮮さが失われてしまう場合がある。すでに何かを悟ったような気になって、やる気が失せることがある。つまり、心の“茶碗”が満たされ始め、何か新しいものを受け入れるスペースが少なくなってしまうのである》

 今のわたしの感覚もこの“茶碗”の話と同じかもしれない。
 お茶があふれているのではなく、茶碗が欠けてもれだしている可能性もなくはないが、今の自分の低迷の原因は情報過多にあるようにおもえてならない。

 四十代以降、のんびりぼーっとする時間が減った。雑務に追われ、日々の生活が細切れになり、なんとなく落ち着かないまま、本を読んだり、資料を調べたりしている。

 今の生活を見直したい。

 というわけで、『禅ゴルフ』の熟読を続ける。

(……続く)

2012/10/15

禅ゴルフ(一)

 この一年くらい、野球を軸にひたすらスポーツ関係の本を収集してきた。

 海外のスポーツライティングの技法——スポーツ統計学や経済学や最先端の科学の知見を織り交ぜながらも娯楽性をそなえた文章に刺激を受けたからだ。

 中でも『禅ゴルフ』(ちくま文庫)を手にしたとき、ひさびさに「わたしが読みたかったのはこの本だ」という感覚を味わった。

 ペアレント博士の「禅ゴルフ」の教えは、不安定で不自由な「自分の操縦法」である。

 ゴルフ(わたしはやったことがない。この先やる予定もない)は、スポーツの中でも個人プレーの度合いが高い。チームメートと協力する必要もない。

 インターバルが多いスポーツほど、メンタルが影響する度合も大きい。

 今のところ勘でしかないが、ゴルファーのためのメンタルトレーニングは、仕事や生活への応用がかなり効きそうな気がする。

 それも『禅ゴルフ』を読み解きたいとおもった理由である。

 ペアレント博士は、どうすれば気性の荒い暴れ馬のような心の落ち着きを取り戻せるかについて老師が語るエピソードを紹介し、「思考と感情」の持論を展開する。

《よく考えてみると、思考はわれわれの心の中から湧いてくるものであり、決して心自体ではない。思考と感情の一連の流れを観察することによって、われわれは刺激→思考→行動の過程に一定のギャップが生じることを体験できるようになり、その結果、ある事態に無条件に反応するのではなく、知的に対応することが選択できるようになるのである》

 この部分だけ引用しても話は見えにくいかもしれない。

 おそらく、この教えは単純に感情を抑制しろという話ではない。

 心の中に焦りや不安が生じる。
 その焦りや不安は自分の心が作りだしたものであり、心そのものではない。
 そう認識することで、感情と思考を分ける。

 何かしらの感情が芽生えたとき、そのまま思考と直結させない。
 とりあえず、一呼吸置く。

 博士によれば、思考の本質を知るための第一歩は、「背筋を伸ばして椅子に座るか、クッションの上に胡座を組むかして、できるだけ静かな姿勢を保つ」といいそうだ。

《思考が湧いてきたら、あえて取り込んだり捨てたりしないで、自然に去来させてやるようにする。思考の存在を感知するだけで十分であり、分析したり判断したりする必要はない。(中略)どのような思考や感情が湧いてきても、いちいち反応することなく、単に認識するだけでいい》

 もちろん、あるていど訓練しないと身につかない。

 たとえば、疑心暗鬼の陥ったとき、そのことに気づけるかどうか。
 わたしの場合、訓練以前に、それが問題なのだが……。

(……続く)

2012/10/14

今後の課題

 先月からいつの間にかブログの編集機能が変更されて戸惑っている(うまく説明できないのだが、かなり面倒くさくなった)。前にもいちど変更があり、一行目を最初の一文字目が空けられなくなった。しかたなく「……」から書きはじめていたのだが、それは元に戻った。

 十月の二週目から毎日新聞夕刊で連載している「そのほかのニュース」の掲載日が水曜日から火曜日になった。しめきりも週明けから金曜日に変わり、今、生活を組み立て直しているところだ。しばらくは木曜日が休肝日になりそう。

 先月刊行されたスポーツ関係の本ですごく感銘を受けた本がある。ひさしぶりに本に呼ばれた気がした。手にとって目次を見た瞬間、「これは読まなきゃ」とおもったのだ。

 Dr.ジョセフ・ペアレント著『禅ゴルフ メンタル・ゲームをマスターする法』(塩谷紘訳、ちくま文庫)という本なのだが、読書や仕事にも通じるヒントがたくさんあった。

 本を読んだり、文章を書いたりしていて、自分の感覚よりも時間が経つのが早くおもえるときがある。五分、十分くらいかなとおもうと、時計の針が三十分くらい進んでいる。
 二十代、三十代のころは、それほど意識しなくても、その感覚を味わうことができた。本を読んでいて、電車を乗りすごすこともよくあった。それが自分の調子のバロメーターになっていた。
 今はたまに調子がいいときがあっても長続きしない。

 十年くらい前にエクナット・イーシュワラン著『スローライフでいこう ゆったり暮らす8つの方法』(スタイナー紀美子訳、ハヤカワ文庫)という本を読んで以来、メンタル・トレーニングの方法を試行錯誤してきた。
『スローライフでいこう』も『禅ゴルフ』も共通している点も多い。

 どちらも呼吸や瞑想の大切さを説いているのだが、つきつめれば、いかに自分を操縦するかについて書かれた本といえるだろう。

 もうすこし理解を深めるために、何回かにわけて『禅ゴルフ』の感想を書いてみたいとおもう。

2012/10/06

小さな古本市

 この秋で5周年を迎えるメリーゴーランド京都で「小さな古本市」が開催。わたしも「文壇高円寺古書部」として参加します。

 絵本・読みもの・画集・詩集など、とっておきの本が、贅沢にも二日間だけメリーゴーランド京都に集まります。
 今年は、2年前に出来た本屋の隣のギャラリーで、イラストレーターの武藤良子さんの展覧会を開催予定。

 10月12日は武藤良子さんのギャラリートークを扉野良人さんを聞き手に迎えて開催します。

○開催日 2012年10月14日(日)・15日(月)

○会場 〒600-8018 京都市下京区河原町通四条下ル市之町251-2 寿ビル5F メリーゴーランド店内

http://www.merry-go-round.co.jp/