2013/12/31

年末の一日

 日曜日、昼、仕事部屋に行く途中、西部古書会館に寄る。赤いドリルの那須さんがいた。わたしは「赤いドリルの夢は夜ひらく」というブログを愛読している
 文章には「流れ」みたいなものがあるのだけど、那須さんの文章は「流れ」が読めない。予想がつかない。おかしい。

 今年のゴールデンウィークにトマソン社が主催した石神井書林の内堀さん、青聲社の豊蔵さん、赤いドリルの那須さんの「古書よりも野球が大事と思いたい~夢のオールスターゲーム~」というトークショーがあった。
 あの日、亜細亜大学の野球部へのおもいを語り続ける那須さんを見ることができたのは今年最大の収穫だった。
 その収穫が何の役に立つのかは一生わからない気もするが……。

 日曜日の夜は、ペリカン時代は木下弦二さんと春日博文さんのライブ。
 春日さんは存在感とか雰囲気とかアドリブの感覚とか何もかもすごい。「テクニック+α」の「+α」が別次元だった。終始、冗談をいいながら、六、七割くらいの力でギターを弾いているように見えるのだけど、目を閉じて音だけ聴くと、とてもそんなふうにはおもえない。
 弦二さんもいつもより力が抜けて楽しそうに演奏し歌っていた。
「夜明けまえ」は、聴くたびに好きになる。バンドではなく、ソロならでは試みや遊びが増えてきた気がする。「ブラック里帰り」のソロヴァージョンも原曲からどんどん変化している。
 ふだんよりもカバー曲が多いのもソロのときの特徴。この日も「おそうじオバチャン」「トランジスタ・ラジオ」など、まったく予想もしていなかった曲を演奏した。

 そんなこんなで大晦日。
 年末年始は特別ルールで昼酒解禁。広島のマサルさん、アネモネさんからもらったサントリーのプレミアム角を飲み続ける。また禁断の味を知ってしまった。

 睡眠時間がズレまくり、昼すぎに寝て起きたらすでに紅白がはじまっている。

 妻から「イェーガー」の意味を教わった。

2013/12/28

自分の声 その四

 ピート・ハミルは、一流のコラムニストをソリストにたとえ、マイク・ルピカには「自分の声」があるといった。
 いっぽうルピカのコラムは「表現形式が不完全」とも評している。
 日刊の新聞にコラムを発表する場合、時間と字数の制約によって、どうしても不十分な原稿になる。

《たいていの場合コラムニストは、全体を断片でもって象徴的に言い表すというまやかしの手法を身につけるものだ。アフォリズムを多用し、最悪の場合には安易な近道やマンネリズムに陥ることになる》

 そんな中、「驚いたり恐れたりすることへの感受性」を保ち続けること——それが一流のコラムニストの条件だといっている。

 時間がなく、不完全で不十分な文章を書いてしまう。ピート・ハミルは「大打者だって一〇回打席に立って七回はしくじるものだ」という。
 レギュラーであれば、凡打しても次の打席がまわってくる。一軍半の選手は一打席一打席が勝負になる。
 そうした状況で「自分の声」や「感受性」を保ち続けるのはすごくむずかしい。フリーライターの多くは時間と字数の制約だけでなく、お金もない。
 妥協や保身によって「自分の声」は簡単にすり減ってしまう。

 わたしが詩や私小説に耽溺したのはそういう時期だ。

 とにかく「自分の声」を持った人々の言葉に触れたかった。「自分の声」を持ち続けている秘訣を知りたかった。

 山口瞳の男性自身シリーズの『変奇館の春』(新潮社)に「私の駄目な」というエッセイがある。
 生花、書、絵、俳句、短歌と自分の不得手なものをあげ、次のように語っている。

《書について言えば、うまいからいいというようなものではない。達者になれば達者になったで目をそむけたくなるような字を書く人がいる。字がうまくなったかわりに品格を失ってしまったということがある。絵だってそうだ。俳句でもそうだ。いつのまにか、大道で売る表札の字になり、ペンキ絵になり、横丁の宗匠になってしまって、つまり、感動というところから遠くなってしまう》

 山口瞳はここで「品格」という言葉をつかっている。
 うまくなることで何かを失うことがある。わかりやすさと引き換えにつまらなくなる。
 かといって、下手で難解なものがいいという話ではない。
 そんなに単純な話ではない。

(……続く)

2013/12/27

自分の声 その三

 十八歳の菅原克己は中村恭二郎に「君の詩はナイーブでいい。自分の生地のものをなくさないように勉強しなさい」といわれた。
 以来、中村恭二郎は菅原克己の〈先生〉になる。
 わたしの好きなエピソードだ。

 知識や技術を身につける過程で「自分の生地」をなくしてしまうことがある。
 詩人にとっての「自分の生地」とコラムニストにとっての「自分の声」は同じものかどうか。

 生まれた時代、出会った人、読んだ本……。「自分の生地」や「自分の声」は、様々な影響によって作られている。同時に、どんなに本を読んでも、様々な経験を積んでも、変わらない部分がある。

 小澤征爾、武満徹著『音楽』(新潮文庫、一九八四年刊、単行本は一九八一年刊)を読んでいたら、「自分の声」という言葉が出てきた。
 昔、小澤征爾の兄が自己流でチェロを弾いていた。誰に習ったわけでもないから、お世辞にもうまいとはいえない。

《兄貴の時代はチェロの先生なんかいなかったから、自分でチェロ買ってきて、自分で教則本を買って、弾いてみる。自分の声をね——兄貴は声がいいんですよ、バリトンで。『冬の旅』なんて歌って、僕は伴奏したことがあるんだ——その自分の声を出したいような感じで、楽譜を読んで、それをチェロにあらわしている》

 そんな兄のチェロを小澤征爾は「いい」とおもう。
 その兄の十一歳の息子がヴァイオリンを始めた。最初から先生に習い、弓に赤や青の印をつけられ、それに合わせて弾くよう教えられている。
 自分の出したい音がなく、ただ単に印どおりに手を動かしているだけ。
 演奏を聴いた小澤征爾は「ひどい音」だったと嘆き、楽器の教え方として大変な間違いだと憤る。

 ちなみに、小澤征爾の兄(二人いる)が小澤俊夫なら、十一歳の息子は小沢健二の可能性もある(小沢健二の兄のほうかもしれないが)。

(……続く)

2013/12/25

自分の声 その二

『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)にアンディ・ルーニーの『人生と(上手に)つきあう法』(井上一馬訳・晶文社)の書評が収録されている。この話を書くのは何度目だろう。

 アメリカのコラムニストは政治などについて論陣を張る「有識者タイプ」と生活問題を扱う「人生派タイプ」に分かれる。
 鮎川信夫は、この分類について、「評論家と随筆家の違い、といえば分かりやすいかもしれない」と補足し、「人生派」の代表としてアート・バックウォルト、マイク・ロイコ、アンディ・ルーニーの名前をあげた。
 人生派コラムニストは、作者の個性、文章の持ち味、ユーモアと機知が問われる。

 個人の感覚(好き嫌い)を大切にし、今、自分の立っている場所から世界を切る取る。
 日本の私小説もそうだ。またアメリカのコラムニストのとぼけたかんじやしれっと嘘をつくかんじは、第三の新人のエッセイに近い。
 そう直感したとき、世界がすこし広がったとおもった。
 アメリカのコラムの形式だと、自分の書きたいことが全部できるような気がした。

『マイク・ルピカ集 スタジアムは君を忘れない』(東京書籍)のピート・ハミルの「序」では、「自分の声」について次のように説明している。

《言ってみれば、これは強烈な右のパンチを繰り出すことができるとでもいった、持って生まれた才能なのだ。教えられてできるものではないし、身につけようとして身につくものではない》

「自分の声」=「特別な才能」なのか。
 わたしは特別というより、失われやすい資質ではないかと考えている。また「自分の声」という才能は、何かをした量に比例して伸びる力ではない気がする。

 文章の技術面を軽んじるつもりはない。ただ、そうした技術は齢をとってからでも伸ばせる。
 でも「自分の声」は、いちど失ってしまうと取り戻すことは至難である。
 だからこそ、表現をする人間にとって生命線になる。

「自分の声」は生きていく上では支障をきたしたり、周囲との摩擦の原因になったりもする。「自分の声」は、独断や偏見と紙一重……というか、ほとんど同じといってもいい。

(……続く)

2013/12/24

ギンガギンガvol.8

 年内の仕事は終わり。部屋の掃除をして、雑誌、新聞のスクラップをする。
 コタツ布団を省スペース用に買い替えた。こんないいものがあったとは。コタツで原稿を書いていると、コタツ布団をどんどん手前側に引っ張ってしまい、反対側に隙間ができる。一日一回はコタツ布団を元に戻さないといけない。
 新しいコタツ布団は天板の形に合わせて作られているため、ちょっと引っ張ったくらいではズレないのだ。発明した人に感謝したい。

 二十二日(日)、高円寺ショーボートでギンガギンガvol.8に行く。ペリカンオーバードライブ、オグラ&ジュンマキ堂、しゅう&宇宙トーンズの三組。オープニングはアネモネーズ。
 ペリカンは今年三人揃うのははじめて。つまり年一回しかライブをしていない。練習もしていない。なのに、息がピッタリ。曲によってはリードベース+サイドギターみたいな展開になるのだが、今のスリーピースのペリカンに合っている気がする。
 MCでは『THE VERY BEST OF MORI-KUN』(名曲「ロックバカ一代」「家を出た」など収録)の話もしていた。初回限定版にザ・ポテトチップスの一九九一年のライブがついている(来年一月発売)。ポテトチップスは、ペリカンのギターの小島史郎さん、ベースのマサルさんがいたバンドだ。
 オグラ&ジュンマキ堂はひさしぶりに「犬と私」が聞けたのがうれしかった。後半はキーボードの原さん、ベースのマサルさんも加わり、ラストは800ランプ時代の「君にハンバーグ」。
 しゅう&宇宙トーンズは、サックスも入って、スモークと赤いビーム(頭部に装着していた)もすごかった。ちょっと音酔いしてしまった。宇宙酔いか。

 家に帰っても「君にハンバーグ」の詞が残っていたので、アルバム『架空の冒険者』(一九九九年)を聴き直す。

《理解されたいと 思い始めてからのぼくは
 君がいうように つまらなくなっちゃったのかな》(君にハンバーグ)

 ハンバーグステーキが食べたくなって、君とレストラントに出かける。ぼくは酒場以外の場所だと落ち着かない。せっかくのごちそうも五分で平らげて、そわそわする。あっという間に店を出て、ふたりでクリスマスの飾りのある街を歩く。

 そんな歌の中で《理解されたいと……》の詞がくりかえされる。

 オグラさんとはじめて会ったのは『架空の冒険者』が出るすこし前だ。その後、バンドは解散し、オグラさんはソロ活動をはじめた。
 そのころのオグラさんの印象は、才能のかたまりが酔っぱらって歩いているかんじだった。

 オグラさんの歌の中には、いろいろ形を変えたオグラさんがいる。楽しそうな曲でも所在ないおもいやいたたまれない気分が根っこにある。

 だから聴いていると、自分の心細さや気まずさがふいに呼び覚まされて、たまに困る。

2013/12/17

西荻ブックマーク

 日曜日、午後四時起床。
 西荻ブックマークの《「古ツア」さんが、再びやって来た!!》〜『古本屋ツアー・イン・ジャパン』(原書房)刊行記念に行く。
 出演は小山力也さんと岡崎武志さん。
 会場はビリアード場の二階。大盛況。

 古ツアさんこと小山さんは、全国千五百軒の古本屋をまわっているだけあって、語るべきことが溢れて溢れてしょうがないというかんじだった。
 この会で岡崎さんがいっていたのだが、古本屋や店主の形容にどれも工夫が凝らされている。
 古本屋の訪ね方も独特で完全に効率を無視。どこかの店を拠点に、短期間でなるべくたくさんの店をまわるのではなく、行き当たりばったりに「次、どこに行くのか、わからないようにしたい」とのこと。
 ブログをおもしろくする工夫でもあるのだが、たぶん変わり者なのだとおもう。
 営業中かどうかも事前に確認しない。本人いわく「電話が苦手だから」。電話してから訪ねると、店主の自然な雰囲気が見られなくなるからという理由もあるそうだ。

 スライドショーでは数十キロの山道を自転車で訪ねた長野の古本屋の写真などを披露する。急勾配で途中自転車を押して歩いた。
 その苦労が報われるくらいの掘り出し物を見つける(百円均一の棚の写真に会場がどよめく)。

『古本ツアー・イン・ジャパン』は、二〇〇八年以降の個人営業の古本屋の記録者という時代の証人としての役割もあるのではないか。
 ちょっと大ゲサかもしれないが、ほんとうに貴重な仕事をしている。

 帰りは、NEGIさん、退屈君と西荻のビーイン(Be-In)という喫茶店でコーヒーを飲む。十一月に音羽館の広瀬さんの出版記念会のあと 行った店で居心地がすごくよかった(居心地のよさには個人差があります)。いつかモーニングの時間に行ってみたい。

 NEGIさん、退屈君とは駅前で分かれ、それぞれ古本屋をまわることに……。

2013/12/13

古ツアさんのこと

 珍しく平日の午前中に目が覚めてしまったので、西部古書会館の赤札市に行く。かなりいい本(といっても、あくまでもわたしの趣味だけど)があった。
 久々に袋がいっぱいになるくらい買う。

 今年は蔵書減らし年だったので買った冊数(キンドルでダウンロードした分は別)よりも売った冊数のほうが多い。おもう存分、本が買えないのはつらい。しかしそんなつらい年がないと、古本屋めぐりを続けられない。

 もうガマンはやめよう。そうおもった。

 小山力也著『古本屋ツアー・イン・ジャパン 全国古書店めぐり 珍奇で愉快な一五〇のお店』(原書房)を読んで、くすぶっていた古本魂に火がついた。

《最初は確かに趣味のひとつのようなものであった。その程度の心構えであった。しかしそれは、いつの間にか己の人生と激しく混ざり合い、その人生を喰い尽し始めていた。長い移動時間と旅費が、生活をビシビシと痛めつけてくるのだ》(「はじめに——古本屋を訪ねる旅は、長く果てしなく、そして愉快だ」)

 ひとつひとつの文章が濃い。労力もすごい。いかに古本(古本屋)が好きとはいえ、ここまでくると一種の苦行だとおもう。

 全国各地の古本屋(古本屋ではなく、古本を置いている店も含めて)を踏破しようとしている人物がいるらしい。

 古ツアさんのブログがはじまって以来、この謎の人物の噂をあちこちで聞いた。

 職業は何なのか?
 齢は何歳くらいなのか?
 何のためにこんなのことをしているのか?

 その疑問が判明したのは今から二年前——だったことを古ツアさんの本を読んでおもいだした。

 最初は古本酒場コクテイルで古本の話をして、二軒目のペリカン時代で古ツアさん曰く「特殊な音楽」の話になった。
 飲んでいたので記憶はあやふやなのだが、なぜかナゴムの話で盛り上がり、「ペリカン時代の原さんはグレイトリッチーズや青ジャージのキーボードだよ」と教えると、「あの、THE青ジャージですか!」と急に顔つきが変わった。

 そこから共通の知り合いの名前が出るわ出るわ。

 その日の話もこの本の中に書いてあった。

2013/12/12

自分の声 その一

……試行錯誤の続きだけど、タイトルを変更。

 三十代の一時期、東京書籍の「アメリカ・コラムニスト全集」をバラで揃えたくて、古本屋をずいぶんまわった。
 全集の中で、とくに好きなのはマイク・ルピカ集『スタジアムは君を忘れない』である。

 この本、ピート・ハミルの「序」がいいのだ。ルピカの紹介というより、コラムニスト論になっている。

 一流のコラムニストはオーケストラにおけるソロイスト(ソリスト)のような存在であり、「自分の声」を持っていなければならない。

 要約すると、そういうことが書かれている。

 ソリストであること。
「自分の声」を持つこと。

 オーケストラのメンバーの誰もが独奏者になれるわけではない。ソリストは、卓越した演奏技術だけでなく、スター性のようなものが不可欠である。

 出版の世界で、かけだしのライターが、ソリストのようにふるまうことはむずかしい。
 まわりと調和し、雑誌のカラーに合わせて書く技術にしても、ある種の能力が必要だし、簡単に身につくものではない。

 職人としての書き手になるのか。
 あくまでもソリストとしての書き手を目指すのか。

 わたしはどちらにも徹し切れずに二十代、三十代をすごしてしまった。

 生活の安定のためには、職人に徹したほうがいいと考えていたこともあるし、同時に「自分の声」をなくしたくないという気持もあった。

 ピート・ハミルの序によれば、マイク・ルピカは「生意気な若者」ではあったが、最初からソリストだったわけではない。
 はじめのうちは、ひたすら新聞の添えもの記事を書いていた。
 しかしすこしずつ「耳のいい読者」に彼の「声」が届きはじめる。

 スポットライトを浴びない場所でも「自分の声」をなくさず、小さな工夫や研鑽を積み重ねる。

 たぶん、それはコラムニストに限った教訓ではない。

(……続く)

2013/12/10

京都と三重

 九日、京都へ。徳正寺で行われた「釈六平 百カ日法要・中川六平を語る会」に出席する。
 六平さんのベ平連、ほびっと時代の知り合い、それから東京からの出版関係者がたくさん集まった。
 若き日の六平さんの写真をスライドで映したり、六平さんの思い出を喋ったり(お酒をたかられた話が多かった)、終始、笑いに満ちた会合だった。

 わたしは編集者の六平さんしか知らないのだけど、はじめて会ったのは一九九四年ごろ、二〇〇七年に『古本暮らし』を作ってもらうまで、十年以上、仕事らしい仕事しないまま、ふらっと六平さんが高円寺に寄ったついでにお酒を飲んだ。
 会うたびに「ちゃんと食えてるのか」といわれた。
 こちらの生活苦を気にしてかどうか、国会図書館のコピー取りなどのアルバイトを頼まれた。あと六平さんが書評集の編集をしていたとき、新聞の縮刷版から原稿を探すのを手伝ったこともある。

 翌日、三重に帰省する。途中、二十数年ぶりに松阪駅で降りて、殿町方面を散歩した。
 月曜日で本居宣長記念館をはじめ、ほとんどの施設は休館日。道路沿いのあちこちに「小津安二郎青春の町」というのぼりが立っている。
 映画の仕事をする前、小津安二郎は松阪で学校の先生(代用教員)をしていた。
 松阪は梶井基次郎の『城のある町にて』の舞台でもあった(松坂城跡に文学碑がある)。

 そのあと平田町に行って鈴鹿ハンター内のゑびすやでうどんを食う。わたしの好きだったかやくうどんがメニューからなくなっていたので肉しゃぶうどんを頼む。

 生家の長屋(十九歳のときまで住んでいた)が取り壊されたことを知る。

 親と老後、葬式、墓の話をする。気が滅入る。

 年末進行のため、午前中の新幹線で東京に帰る。

 これから仕事。

2013/12/06

試行錯誤 その四

 前回、「続く」と書いたあとも、しばらくこの話を書き継いでいた。ところが、時間が経つにつれ、「なんでこんなことを書いているのか」というおもいにとらわれてしまった。ちょっとした自己嫌悪に陥った。それで一晩文章を寝かせているあいだに、すこし前に、小泉「原発ゼロ」発言のことをあれこれ考えていたことをおもいだした。

 わたしは週刊誌であのスピーチを読んで感心した。同時に、小泉純一郎元総理の発言だからこそ、あれだけ注目されたのだということについても考えさせられた。
 おそらく他の人が同じことをいっても、こんなに話題にはならなかったとおもう。
 正しい意見をいっているだけでは伝わらない。
 同じ元総理の肩書の別の人も似たような主張をしているが、その説得力や影響力はまったくちがう。

 では、説得力や影響力って何なのか。そういう疑問が頭の片隅にひっかかっていたのだ。

 強引に話をもとに戻す。

 三十歳のときにペンネームを変えようとおもったが、変えなかった。そのかわり、主語を「私」から「わたし」に変えた。
 当時、私小説の文体でアメリカのコラムのようなものが書けないかと試みていた。アメリカのコラムといっても千差万別だが、鮎川信夫が“人生派”と評したコラムニストは、私小説にも通じるという確信があった。

 私小説は(ごく一部の)古本好きのあいだでは、根強い人気がある。
 たぶん、少数派向けの文学なのだろう。いつの時代にも少数派のための文学はある。またそれを必要とする人もいる。わたしもそのひとりだ。

 でもアメリカのコラムはちがう。
 何百紙もの新聞に記事が配信されるような有名コラムニストの発言は大きな影響力をもっている。
 しかしその発言の中には日本の私小説にちかいの感性がある。

 アメリカのコラムニストの著作を読みはじめたとき、わたしは彼らのことをまったく知らなかった。
 生まれた時代も国もちがうし、どこの誰だかわからない彼らのコラムのどこにわたしは魅かれたのか。どんな言葉が自分の気持をゆさぶったのか。

 それがわかったら、わたしのことをまったく知らない人にも届く文章が書けるのではないか。

(……続く)

2013/12/04

試行錯誤 その三

 三十歳になって、文章の主語を「私」から「わたし」に変えた。瑣末なことかもしれないが、わたしにとっては大きな変化だった。

「私」が主語の文章と「わたし」が主語の文章では意識がちがう。
そもそも主語を「わたし」に変える以前、商業誌ではほとんど主語なしで文章を書いていた。

「主観はいらない。情報を書け」

 編集者にそういわれ、ずっと違和感をおぼえていた。違和感をおぼえた理由は一読者としてそういう文章が好きではなかったからだ。

 情報を書くにせよ、好き嫌いはある。屁理屈をいわせてもらえば、「主観はいらない」という意見だってその人の好き嫌いではないのか。

 また、語尾を「おもう」「気がする」「かもしれない」と書いて、よく怒れた。「断定できないようなことは書くな」というのもひとつの意見だろうけど、自分には断定調の文章がしっくりこなかった。どうしてあやふやで曖昧な気分を書いてはいけないのか。そういう文章に共感する人もいるのではないか。すくなくとも自分はそうだ。
 でもそのことを自信をもって言い切ることはできなかった。

 そうこうするうちに、アンディ・ルーニー、マイク・ロイコ、ビル・ブライソンといったアメリカのコラムニストを知った。

 自分の視点、あるいは自分の日々の生活から世の中を切り取る。私小説風のコラムもあれば、身辺雑記風のコラムもある。政治も経済も科学もスポーツも「わたし」という立場から書くことができる。
 しかも文句なしにおもしろい。

 今の自分は未熟でヘタクソだから通用していないけど、方法論はまちがっていない。
 だけど、わたしは「おまえ、誰やねん」という存在でしかない。
 無名の書き手が「わたし」という主語をつかえば、どうしても「わたし」の説明がいる。

 三十歳、フリーライター、高円寺在住。就職経験なし。趣味は古本と中古レコードと将棋。食事は自炊。車の免許と携帯電話はもっていない。朝寝昼起。ほとんど家でごろごろしている……。

 毎回、冒頭で自己紹介するわけにもいかない。

 そんなこと別に知りたくないという人もいるだろう。でもどこの誰だかわからない人の読んだ本の話や音楽の話だって知りたくない人もいるとおもう。

 何かを語ろうとすれば、結局、自分を語ることになる。
 たぶんそのとおりだ。
 三十歳のころのわたしはそうおもうことができなかった。

(……続く)

2013/12/02

試行錯誤 その二

 はじめて行った場所で行き先のちがう電車に乗ってしまう。すぐ降りて引き返したほうがいいのか、快速や急行の止まる駅で引き返したほうがいいのか。
 おかしいとおもいながらも、何もできず、自分の行きたい場所からどんどん遠ざかっていく。

……そういう夢をよく見る。夢とはいえ、目がさめたあと、ぐったり疲れる。

 当時は、何をやってもうまくいかない時期だった。何をやっても裏目で、努力しようにもその方向性がわからない。

 編集者と会う。「最近、どんな仕事をしてますか」と聞かれても、何も答えられない。
 自己紹介も困る。「ライターをしてます」といえば、「どんなものを書いてますか」と聞かれる。言葉をにごすしかない。
 たまに雑誌の仕事をして、プロフィールを求められても、生年月日と出身地以外、書くことがない。

「自分はこういうものです。こんな仕事をしています」と答えられるようになりたい。

 三十代になって、ようやくそういう気持になった。でも何をどうすればいいのかというところで足踏み状態が続いた。

 お金ほしさにどんな仕事でもする。好きでもないものを褒めたり、興味のないものに興味のあるふりをしたり、自分の価値観に反するような文章も書かざるをえない。
 食べていけないんだから、しょうがない。自分で自分に言い訳する。その分、自分の言葉の信用がどんどん失われていく。

「今の名前を捨てて、まったく別のキャラクターで新人として再デビューしようかな」

 再デビュー用のペンネームも考えた。そのくらい気持が追い詰められていたのである。

 とりあえず、自分の行きたい場所から遠ざかっていくような仕事はやめよう。生活費が足りなくなったら、バイトすればいい。
 世間の基準から外れてもいいから、自分の声質にちかい文章を書いていきたい。

 当時、知り合った中央線沿線のバンドマンと毎晩遊んでいるうちに、だんだんそうおもうようになった。

 新しいペンネームは封印した。

(……続く)

2013/12/01

試行錯誤 その一

 三十歳以降、漫画をあまり買わなくなった。映画を観なくなった。それからインタビューや対談や座談会の構成の仕事をやめた。
 あれもこれもと手をひろげてしまうと、どうしてもひとつひとつのことが薄くなる。

 そのころ、アパートの立退きになって、「このまま高円寺に住み続けるか、もっと蔵書を増やすために郊外に引っ越すか」で迷っていた。
 当時のわたしは昔の学生寮の二階を三部屋丸ごと借りていた。本もレコードも置き場所を気にせずに買うことができた。

 高円寺内で引っ越すとなると、広い部屋には住めない。
 かなり頑張っても2Kか2DKが限度だろう。
 だったら、その居住スペースを前提とした生き方をするしかない。

 上京以来、年に四桁(冊数)ペースで本を買ってきた。当然、そんな買い方をしていたら、あっという間に置き場所がなくなる。本棚から溢れた分はどんどん売る。
 場所をとる大判の本、巻数の多い漫画は買わない。SF、ミステリ、時代小説には手を出さない。
 CDやレコードもくりかえし聴くもの以外、売ってしまった。

 そのころ、漠然とだけど、半隠居がしたいとおもっていた。
 不安定な生活に関してはそれなりに免疫がある。だったら、あまりお金をつかわず、なるべくやりたい仕事だけしよう。

 三十代はそのための試行錯誤に費やした。
 しかし「こうしよう」とおもっても「そのとおりにならない」ことが多い。

 十年かかって、ようやくそれがわかった。