2016/04/25

ペリカンのワンマン

 日曜日、西荻窪CLOPCLOPでペリカンオーバードライブのワンマンライブ。初ワンマンは意外だった。CLOPCLOPは二十五周年。ペリカンの増岡さんはCLOPCLOPで十年くらい前に働いていた。店は超満員で入り口のドアをパタパタして、空気の入れ替えをしていた。ペリカンらしいパブロック。いつも尻上がりに調子がよくなっていく。歌もいいし、曲もいいし、演奏もかっこよくて、楽しくて、文句なしのライブだった。久しぶりに「ギターの中から」も聴けた。春の曲も春に聴けた(ここ数年、ペリカンオーバードライブは十二月にしかライブをやっていない)。

 途中からCLOPCLOPで知り合ったミュージシャンが次々と登場して、即興のパフォーマンスを魅せる。アンコールでは、ペリカン時代の常連組もギターやベースで参加。わたしもステージに上がりました。ちょっと恥ずかしかった。

 深夜〇時すぎまで打ち上げ、そのあと高円寺のネブラスカで朝まで。ネブラスカ、ひさしぶり。いい店。酔っぱらった。そのあと十二時間くらい寝た。不思議なくらい頭も気分もすっきりしている。

 また今日も飲む予定。

2016/04/23

ここが私の東京

 東京堂書店で岡崎武志著『ここが私の東京』(扶桑社)刊行記念(対談 岡崎武志×牧野伊佐夫)のイベントに行った。

 牧野伊佐夫さんは『ここが私の東京』の表紙、挿画も手がけている。
 佐藤泰志、出久根達郎、庄野潤三、司修、開高健、藤子不二雄(A)、友部正人、石田波郷、松任谷由実、富岡多惠子、そして最後に岡崎さん自身の上京物語——。
 東京堂書店での対談では「明暗」でいうと「明」の部分をおもしろおかしく語っていたが、「これが私の東京物語」では、上京するまでの「暗」の部分も綴られている。

『ここが私の東京』は、登場する人物のエピソードを掘り下げつつ、彼らが上京したころの時代背景も描いている。調べたことの半分以上は書かなかったとおもう。

 話は変わるが、わたしの父も昭和三十年代に鹿児島から上京している(『ここが私の東京』の出久根達郎さんとほぼ同時期だ)。ベニア板の工場から電気工場、それから自動車の部品を作る工場……。東京、静岡、三重と太平洋ベルト地帯に沿って仕事を変えた。東京時代の話は、ほとんど聞いたことがない。
 給料が安くて、服や靴が買えなかった。月に一本映画を観ることだけが愉しみだった。
 父は鈴鹿で母と知り合い、一九六九年の秋にわたしは生まれた。家は長屋だった。
 一九八九年春に上京した。最初は、東武東上線の下赤塚、その年の秋に高円寺に引っ越した。
 大学に通いながら、ライターの仕事をはじめた。仕事がおもしろくなって、大学を中退した。高円寺の風呂なしアパートに暮らし、古本屋と喫茶店と飲み屋をぐるぐるまわる日々を送っていたころ、岡崎さんと知り合った。

「これが私の東京物語」に高円寺の飲み屋「テル」の話が出てくる。わたしは丸めがねでおかっぱ頭の、声の小さな若者の「魚雷くん」として登場する。
 そのころのわたしは二十五、六歳、岡崎さんはひとまわり年上なので三十代後半だった。ときどき「もし上京しなかったら?」「高円寺に住まなかったら?」と考える。

 フォークが好きだった岡崎さんは、高円寺に憧れて上京した。
 この本の中にも中央線沿線の町がよく出てくる。
 今とは時代がちがう。それぞれ東京にたいするおもいもちがう。だけど、「上京者」には、どこか共通しているところもある。
 生まれ育った町を出て、上京する。ありふれた話だが、そこにはひとりひとりの特別な物語がある。

2016/04/19

気分転換

 熊本の地震から五日。数日、ニュースとネットに釘付けになっていたが、「これはいかん」と我に返る。あまりにも多くの情報に触れすぎると、混乱してしまう。いろいろ不安になる。日中、いつもより長く散歩することを心がける。

 今年に入って食わず嫌いだった梅干が食えるようになり、梅とおかかの和風チャーハンを週に二、三回作っていた。齢をとって味覚が変化したのか。納豆が食えるようになったことも関係あるかもしれない。
 食生活、味覚の変化は、人の性格にどのような影響を及ぼすのか。

 ゴールデンウィーク進行に入り、部屋が散らかりまくる。すこし前に「部屋の乱れは心の乱れ」という文章を書いたばかりなのに言行不一致である。
 約一週間、酒を飲んでいない。

 遊びたい。

2016/04/13

日常の椅子

 山川直人さんの『菅原克己の風景 日常の椅子』(ビレッジプレス)をゆっくり読んでいる。
 菅原克己の詩をもとにした漫画を集めた一冊なのだが、ところどころ、原詩とは言葉の順序がちがう。コマ割りが、そのまま詩のリズムになる。「ヒバリとニワトリが鳴くまで」がよかった。

《お前は詩を書くぼくを
 幸福だと思っているが、
 ぼくはよく眠るお前を
 幸福だと思っている》(ヒバリとニワトリが鳴くまで)

「喫茶店の中の二階で」は、山川さんのオリジナルの漫画といわれても信じてしまいそう。

『日常の椅子』の刊行を記念して五月三日(火)〜九日(月)まで、谷中ボッサで山川直人原画展も開催。
 12:00〜20:00

2016/04/11

私一個の見解 その二

……二十代半ばから三十代後半くらいまで、わたしは「古本好きのフリーター」という立場で文章を書くことが多かった。定職についたことがなく、ずっと不安定な生活をしている「わたし」が文章を書いたところで、何の説得力もない。
 どんな立場であろうと「私」には属性や肩書がつきまとう。それらから自由に「私一個の見解」を綴るのは簡単なことではない。また「私」と「現実の自分」は、時間の経過とともにズレていく。
 昔の文章の「わたし」と今の文章の「わたし」は同一人物だけど、別人でもある。昨日と今日でもちがうことがある。

 すこし前にテレビのコメンテーターの経歴詐称が話題になったが、出自や経歴や肩書の力なしに「私一個の見解」を伝えるには、何かと面倒なことが多い。
 いっぽう、いちど肩書がついてしまうと、そこに縛られる。仕事の依頼者は「元○○」や「現○○」の視点を求めてくる。当然だろう。

 縛られるものがないほうが、自由に文章は書ける。しかしわかりにくいものになることもある。「私一個の見解」の「私」が何者かわからない。匿名かそうでないかという話は関係がない。匿名でも「私一個の見解」を書き続けているうちに、ある種の「キャラ」もしくは「役割」のようなものが出来上がってくる。
 その「キャラ」や「役割」と現実の自分があるていど一致しているうちは問題はない。しかし、それも時間とともにズレていく。ズレをなくそうとしすぎるとおかしな文章になる。

 生活だけでなく、趣味嗜好は変わり続ける。その変化に文章が追いつかない。「私一個の見解」を綴るには「私」を微調整しないといけない。その微調整を怠ると、文章の「私」と現実の「私」のズレが大きくなってしまう。

 四十六歳の鮎川信夫は四十年前に書かれた津田左右吉の「日信」を読んで、こんな感想を述べる。

《すきなことをすきに書いて、そこに、てらいもなければ無理もなく、余裕しゃくしゃくとしているのである》

 どうすれば、そういう文章が書けるのか。その鍵は「ぼんやりした知識」だと鮎川信夫は述べている。「私一個の見解」もまたそうした「ぼんやりした知識」から抽出されたものかもしれない。

……続く。

2016/04/09

私一個の見解 その一

 日々の仕事や家事に追われて、新しいこと、やってみたいことに取り組めない。もう四月か。早い。こんなに早かったら、あっという間に一年すぎて、また齢をとってしまう。
 それでもだらだらと本を読む。本の中の言葉にすこしだけ背中を押される。考えているひまがあったら、からだを動かせ——というようなことが書いてあった。そのとおりだ。ただ、その動くための時間が、細切れでバラバラだから、形にならない。

 鮎川信夫著『一人のオフィス 単独者の思想』(思潮社)を読み返す。とくに最後の「『たしかな考え』とは何か」は何回読んでも身にしみる。

《物かきが、書くことに興味と自信を失ってしまえばおしまいである。物かきとして、おしまいなだけでなく、人間としておしまいであると思っている。にもかかわらず、そうした虚無感におそわれることは、しょっちゅうある》

「一人のオフィス」の連載(『週刊読売』)は一九六六年——鮎川信夫が四十五歳から四十六歳のときだ。「私一個の見解」を書くことがこの時評の軸だった。

「私一個の見解」は、どこまで「私一個」のものなのか。何を書いても、すでに似たようなことは誰かがいっている。自分の「見解」とおもっていることも、どこかの誰かの意見をそのままトレースしているだけの可能性もある。
 それ以上に「私一個の見解」を伝わりやすいように、あるいは反論がしにくいように、無難なものにしてしまうことが多い。

……続く。

2016/04/04

睡眠読書野球酒

 日曜日、寝起きの頭で西部古書会館最終日——。
 読書停滞期に入っている気がする。そういうときは未知の分野を開拓すべきであろう。しかしそう簡単に開拓できるのであれば、苦労はない。新規のジャンルを開拓するには熱意が必要である。
 とはいえ、不調なときは熱意が薄れているわけで……。だから何が何でも新規開拓しなきゃとおもいすぎないほうがいい。マンネリや退屈を楽しむ能力みたいなものは、調子がよくないときには重宝する。

 たぶん、マンネリやワンパターンというのは、褒め言葉ではないけど、ひょっとしたら長続きの秘訣かもしれない。

 日々の家事では、ワンパターンと自己模倣の連続といっていい。もちろん、多少は創意工夫もあるが、毎回ごはんの炊き方やみそ汁の味を変える必要はない。すくなくともそんなことをしていたら面倒くさくて続かない。
 新メニューは年二、三品あれば、十分だとおもう。年二、三品でも十年で二十、三十になる。

 本人はだしのとり方を変えたつもりでも、食べる人からすれば、いつもと同じ味としかおもえないということはよくある。

 プロ野球の試合だと、先発のローテーションがあり、リードしている場面では勝ち継投、同点や僅差ビハインド、敗戦処理など、それぞれの局面で投げるピッチャーは決まっている。いわゆる「勝利の方程式」といったパターンがあるチームは強い。
 シーズン通して調子のいい選手は稀だし、昨年うまくいった「勝利の方程式」が今年も通用するとは限らない。中継投手は「勤続疲労」も避けられない。

 話を強引に戻すと、読書生活みたいなものもローテーションがあり、継投パターンがある。一年くらいの単位ではあまり変化がなくても、五年十年という単位で見ると、読書傾向もずいぶん変わる。

 読書停滞期というのはローテーションや継投パターンの衰えかもしれない。深刻だが、よくあることだ。

 長年、好不調の波を経験してきたけど、食べて寝ること以上の解決策はない。結論が、ワンパターンで申し訳ない。