2016/05/20

疲れているほうが

 すこし前にラジオのナイターで解説の山本昌がおもしろいことをいっていた。
 調子がよくてストレートのキレがいいときは変化球が曲らない。回が進み、疲れて腕のふりがすこし鈍くなると変化球が曲り出す。
 うろおぼえだが、だいたいそんなかんじの話だった。

 別の中継ぎ投手は、肩が軽くて調子がいいときはコントロールが乱れる。やや不調なくらいのほうが、その分、慎重になって狙ったところにボールが行くというような話をしていたこともある。

 わたしもちょっと疲れているときのほうが、本が読んだり文章を書いたりするにはいいとおもっている。もちろん、疲れすぎるのはだめだ。そうなると、何もできない。熟睡して頭も気分もすっきりしていると、本を読む気になれない。ずっと座って仕事をするのがつらくなる。四十代後半にもなると、やや不調の日ばっかりだ(そうじゃない人もいるかもしれないが)。油断すると、やや不調ですら維持できなくなる。

 山本昌の解説では、自分の現役時代をふりかえり、シーズンを通してほとんど万全な状態はなく、普通かやや不調かのどちらかだったとも語っていた。
 逆にいうと、やや不調なときでも「わるいなりにまとめる」力があったからこそ、現役最年長投手になることができたともいえる。

 ある海外の作家は、調子よくすらすら文章が走り出すとわざといったん筆を置くと語っていた。その話を聞いたときは「なんてもったいない」とおもったが、今はその理由がすこしわかる。
 調子よく書きすぎてしまうと次の日に反動がくる。すこし余力を残す。その匙かげんがむずかしいわけだが。

2016/05/18

働くのはそれからだ

 先週、『フライの雑誌』の堀内さんとあきる野市の養沢毛鉤専用釣場に行く。初フライフィッシング。四十代以降、すこし頑張れば達成できる目標がほしいとおもっていた。新しい趣味がほしいともおもっていた。
 初心者にはむずかしい釣りだが、うまくいかない中にも楽しさがある。釣りというのは、魚が釣れるからおもしろいとおもっていたのだが、たまにフライのついた糸が自分が狙ったところに飛ぶだけで嬉しくなった。今までやってきた釣りとまったくちがう。最初の一時間くらいは、ほとんど糸を絡めたり、木に引っかけたりしていた。
 フライフィッシングはおもっていたより忙しい。そのことは以前、堀内さんからすこしだけ聞いていたが、やってみないとわからないことだった。

 この続きはいずれまた。

 すこし前に読んだデビッド・マカルー・ジュニア著『きみは特別じゃない 伝説の教師が卒業生に贈った一生の宝物』(大西史士訳、ダイヤモンド社)に『マクリーンの川』の話が出てきた。

《ノーマン・マクリーンはその美しいエレジー『マクリーンの川』の中で「すべての良いことは……神の恩寵によるものだが、神の恩寵は人の行いによるものであり、人の行いというのはそう簡単なものではない」と書いている。まずは自分の時間をつぎ込んでもよいと思えるものを見つけることだ。求められているのは打ち込むこと——目標を持つこと——働くのはそれからだ》 

 デビッド・マカルー・ジュニアはボストンのエリート高校の先生で、卒業生にたいし、「きみは特別じゃない」という言葉をくりかえす。詩や文学、読書の素晴らしさを語りかけ続ける。打ち込めるもの、没頭できるものがある幸せをひとりでも多くの卒業生に伝えようとする。
 役に立つとか立たないとか関係なく、自分が没頭できるものを見つけること。ただし、何かにのめりこみすぎると、仕事や生活に支障をきたすこともある。ある時期から没頭する対象にブレーキをふむことが増えた。どこまでブレーキをふまずに打ち込めるか。

 頭ではわかっていることが、なかなかできない。

2016/05/14

これからの本屋

 五月の連休中、荻窪のささま書店、Titleに行った。Titleでは北田博充著『これからの本屋』(書肆汽水域)を買う。ささま書店には、鶴見俊輔の本が大量に並んでいた。棚一列以上はあったかもしれない。そのあと歩いて西荻窪の音羽館に行く。

 この先、本の世界が拡大していく可能性は低い。ただし、すくなくとも小さな商売が成り立つ程度には本が好きな人はいる。とにかく活字に触れていないと生きていけない“病人”もいる。
 個人の新刊書店の一角で古本を売り、個人の古本屋の一角で新刊を売る。『これからの本屋』という言葉から自分が連想したのは新刊と古本の境界がぼんやりしている世界だ。おそらく今後の新刊書店は、膨大な本を売る大型書店と小回りがきいて「一芸」に特化した小さな書店に分かれていくような気がする。

 出版不況はまだまだ続く。たぶん、ずっと下り坂だろう。書店に限った話ではないが、これまで人が行っていた仕事が機械化されていくだろう。
小さな店の場合、大きな店と同じやり方をしても通用しない。量やスピードではかなわない。零細自営業、フリーランスもそうだ。個人営業の本屋や喫茶店のある町も減り続けている。
 散歩のついでに本屋に行って、ふらっと喫茶店に入って、買ったばかりの本を読む。
 わたしの読書生活は限られた地域でしかできない贅沢になりつつある。

『これからの本屋』にはTitleの辻山良雄さんのインタビューも収録されている。

 本屋さんをはじめようとおもっている人に物件を探すためのアドバイスを訊かれ、辻山さんはこう答えている。

《できるだけ自分が好きな場所はどこなのか、という自分の気持ちに正直になった方がいいと思います》

 わたしは本屋のある町が好きで、本に囲まれた生活を続けたい。これからも。
 そのためにはどうすれば……ということを考えているのだが、今はまだ答えが見つからない。

2016/05/02

ひとつの窓

 一日、コタツ布団と電気ストーブをしまう。以前は六月までコタツをつかっていたのだが、ここ数年、ゴールデンウィークあたりにしまうことが増えた。
 エアコンの掃除、窓拭きもする。

 フィッツ・ジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(小川高義訳、光文社古典新訳文庫)が電子書籍化されていたのでダウンロードした。
 冒頭付近で「私」は、読書の幅を広げようと考え、「もっとも専門性に乏しい専門家、いわゆる『オールラウンド』な人間になろうとした」とふりかえる。そのあとに続く文章が素晴らしかったので、おもわずメモした。

《いや、べつに警句を吐きたくて言ったのではない。人生は一つの窓から見るのがよい。最後にはそうなる》

 それから数日「ひとつの窓」について考えていた。いわんとすることはわかる。だが、どのくらいわかっているかは自信がない。

 世の中にたいし、漠然としたおもいしか抱けないのは、「ひとつの窓」を持っていないからではないか。たぶん「ひとつの窓」は、「専門」と同じ意味ではないだろう。
 わたしはどうも隙間産業気質が抜けず、小さな「窓」をたくさん作ってしまいがちである。その結果、どの「窓」から見たらいいのかわからなくなる。

 フィッツ・ジェラルドの「ひとつの窓」でおもいだしたのは、星野博美さんの『銭湯の女神』(文春文庫)の「一〇〇円の重み」だ。
 一〇〇円ショップで買ったプラスチック製の健康青竹から町工場を経営していた父の話になる。一〇〇円の健康青竹を見た父は「これ、型を作るの大変なんだ」とつぶやく。プラスチックの容器を見ると、どんな金型で作られたのか気になってしかたがない。一〇〇円の商品だと金型を作る人たちにはいくらお金が入るのか。

《父は金型というドアから、社会の仕組みを見ている。金型から生まれた物すべてに愛着を持っている。そんな揺るぎないドアを持っていることが、私には羨ましい》

 わたしの知り合いだと、『フライの雑誌』の堀内正徳さんも「ひとつの窓」の人だ。釣り人の立場から、魚のこと、川のこと、自然のこと、社会のことまで持論を展開する。わたしもそうありたい。自分にとっての「ひとつの窓」を曇らせないようにしたい。