2016/09/28

今、わたしがいる場所は

 先週末、中央線で東京駅、総武線快速に乗り換え、新小岩。待ち合わせよりも三十分くらい早く着いたので、商店街を散策する。歩いているとおなかが空いてくる。いい商店街だ。書肆スクラムの砂金一平さん、上原隆さんと飲む。商店街の中にある居酒屋だった。レバテキがうまかった。

 なぜか鶏ガラのスープを作るのが楽しいという話になる。映画の話、本の話……いろいろな話をした。
 上原さんはアンナ・クィンドレンのコラムのコピーを見せてもらった。東京書籍のアメリカ・コラムニスト全集のアンナ・クィンドレン集『グッド・ガール、バッド・ガール』(廣木明子訳)は読んでいたが、他にも邦訳がある。アンナではなく、アナ・クィンドレン名義の本のほうが多い。

 クィンドレンに「今、わたしがいる場所は」というコラムがある。

 アンナ・クィンドレンは、大学時代に新聞記者の家にベビーシッターのアルバイトを申し込み、その機会を活かして新聞社で仕事をするようになった。それ以来、仕事一筋の生活を送っていたが、結婚して子どもが生まれ、考えが変わる。

《仕事はわたしの人生の大きな部分を占めていたけれど、経験がそれ以外にも――友人、家族、ひとりで過ごす時間など――わたしの深い欲求を満たすものがあることを教えてくれた》

《今、わたしが唯一恐れているのは、自分があまり好きになれない誰かになることだ》

 中年といわれる齢になってから、このコラムにあるような「深い欲求」について考えることが増えた。仕事に追われ……というほど働いていたわけではなかったが、仕事以外の時間が大切におもうようになってきた。もともと体力が人並以下ということもあるが、休み休みでないとすぐバテる。あれもこれもやろうとして、何もかも中途半端になってしまうという経験をたくさん積んだ。

 今、自分のいる場所で何ができるか。何がしたいのか。

 ここ数日そんなことを考えていた。

2016/09/21

命賭けの読書

 鶴見俊輔、関川夏央著『日本人は何を捨ててきたのか』(ちくま学芸文庫)を再読する。

 鶴見さんは、岩明均の『寄生獣』に大感激したと語るところがあるのだが、そのときの言葉がすごい。

《鶴見 これを読んでいるうちに、心臓麻痺が起こって死んでもいいと思って読んだ。
 関川 大袈裟だなぁ。
 鶴見 ほんと、ほんと。命賭けて読むのでなければ読書とはいえませんよ。たかが漫画、そんなものじゃない、私にとっては》

——命賭けて読むのでなければ読書とはいえない。

 わたしは携帯電話(スマホ)を持っていない。パソコン(電子書籍も)も家の外に持ち出したことはない。
 郷里に帰省中、今、パソコンがあったら、電車の時刻表や乗り換えがすぐ調べられて便利だろうなとおもったが、なければないでどうにかなる。電車が来なければ、周辺を散策すればいいだけだ。

 わたしがコンピュータを買ったのは一九九八年一月、インターネットに常時接続できるようになったのは二〇〇二年である。
 そのあたりから時間の細切れ化がはじまった気がする。

 命賭けて読む……ほどではなかったが、二十代のころは飲まず食わずで本を読み続け、立ちくらみすることがよくあった。若かったからそういうことができたのか。そうではない。覚悟の問題だ。

連休中

 十八日、三重に帰省。新幹線では、渡辺京二×津田塾大学三砂ちづるゼミ『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)を読む。この本、五回くらい読んでいるかも。
 名古屋駅の地下街をぶらついて傘を買う。午後二時すぎ、ひさしぶりに四日市で途中下車すると1番街でジャズ・フェステバルが開催されていた。五年くらい続いているらしい。
 四日市あすなろう鉄道で内部駅(うつべえき)に出て、内部駅から平田町駅行きのバスで帰ってみようと考えていたのだが、今回はやめた。
 夕方、港屋珈琲。スーパーマルヤスで調味料(おでん用の味噌など)と酒を買う。
 母、おじ(弟)にネットオークションで戦記(三十冊)を千円で落札してもらったと自慢。一冊千円くらいの古書相場の本が四、五冊はあった。
 五月末に父が亡くなって、いろいろな手続きも無事終わり、ようやく一息。片づけはゆっくりやることにする。

 翌日、おじの車で母と関宿へ。鈴鹿と関は近いのだが、JR沿線(わたしが生まれ育ったのは近鉄沿線)ということもあって、あまりなじみがない。久住昌之著『野武士、西へ』(集英社文庫)では「奇跡の宿場・関」と絶讃。
 子どものころは古い町並を見てもピンとこなかった。今は電信柱もなくし、景観の保全に力を入れている。喫茶店が多い。
 街道の裏には、寺や神社もたくさんある。
 昼食は関のドライブインのレストランに行く。連休中もあって観光客(団体)も多い。
 そのあと亀山駅まで送ってもらう。亀山駅のまわりをすこし散策。亀山みそ焼きうどんの看板をあちこちで見かける。
 亀山駅から京都まで千三百二十円。近鉄や高速バスよりもはるかに安い。ただし電車は一時間に一本くらいしかない。
 安西水丸著『ちいさな城下町』(文藝春秋)に亀山城の回がある。安西さんも関宿を訪ねている。「関の小万の仇討」の話から、小万を育てた山田屋は、今、会津屋という食事処になっていることを知る。

 亀山から柘植、柘植から草津、草津から京都で二時間。電車が柘植あたりに差しかかったとき濃霧がすごかった。外の景色がまったく見えない。高校時代、柘植から通っている「ツゲちゃん(本名はちがう)」というあだ名の級友がいたことをおもいだした。

 京都は六曜社でコーヒー。夜はまほろばで世田谷ピンポンズ、市村マサミ、オグラのライブ。三者三様の独特の言葉の世界を堪能する。楽しくて飲みすぎる。酔っぱらって、記憶があやふやなまま、気がついたら扉野さんの家で寝ていた。朝ごはん、おいしかった。

 台風接近中ということもあって、午前中に東京に帰る。名古屋まで新幹線の席をまちがえて座っていた。気づかなかった。車中、熟睡。
 家に帰って洗濯して、うどん作って、また寝る。寝ても寝ても眠い。

2016/09/18

残りの一分

 昨年の『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬)を読んでいたら、渡辺京二さんの「二つに割かれる日本人」というインタビューが収録されていた。

《長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです》

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》

 二十代のころ、わたしはアナキズム(無政府個人主義)を理想としてきたが、今のわたしは渡辺さんの政治観にかなり近い。
 いうなれば、紆余曲折を経て、穏健主義者になった。
 まずは自分が食っていくこと。健康であること。それから余力があったら、世の中のことを考えたい。
 社会の変革には時間がかかる。そのあいだも家賃や光熱費を払う必要がある。本や酒だって、ただではない。

《僕はこれまで生きてきて、困ったなと思ったこと、解決しなければならない問題の九割九分までは、金で片付くことでした。ところが、残りの一分が片付かない。
 その残りの一分、人としての生きがいは、やっぱり人との関わりの中にしかないんです。女、家族の次には、仲間です。ともに仕事した、一緒に遊んだ、近くに暮らした人たちに、ちゃんと取るべき態度が取れたら、死ぬときに満足感が持てるのではないか》

「近くに暮らした人たちに、ちゃんと取るべき態度」はどんな態度なのか。それを見つけ、実践することは今後の課題にしたい。

2016/09/15

まとまった時間

 高円寺のOKストアが耐震工事でしばらく休業(十一月半ばくらいまで)。上京以来、自炊生活の軸になっていたスーパーの休業は困る。どうにかしのぐしかない。

 忙しいわけではないが、ちょっとした雑用が多くて時間が細切れになっている感覚がある。まとまった時間がとれない。現代人は、テキパキといろいろなことを素早くこなす能力が重宝されている。その分、ひとつのことを長く考えたり、一冊の本をぶっ通しで読んだりする時間が減っているのではないか。

 ちょっとずつつまみ読みしていると、なんとなく不完全燃焼になる。物語に入りこめない。
 重厚な長編小説を読むとか、全十巻以上の漫画を一気に読むとか、それなりに時間をかけないと味わえない高揚感がある。
 今はちょこまかネットを見たり、メールをチェックしたり、家事をしたり、何かと時間が寸断される。

 二十代後半から三十歳くらいまで、お金もなく、やることもなかった。おかげで読書の時間はたっぷりあった。そのころの生活に戻りたいとはおもわないが、切実に本を読んだり音楽を聴いたりする時間はすこし取り戻したい。

2016/09/07

マニアとは

 たまに「マツコの知らない世界」(TBS)を見ていると、いわゆるマニアの人たちのひとつのことに傾ける尋常ではない熱量に圧倒される。
 趣味、あるいは好きというだけで生活に支障が出るくらいの時間とお金を費やす。自分にはできない。わたしも仕事そっちのけで、趣味(古本)に溺れていたこともあるが、「これ以上はまずい」というところでブレーキを踏んでいた。

 すこし前に番組に出ていた人は、生活雑貨が好きすぎて一千万円の借金を作った人物として紹介されていた。
 本業は別にあり、あくまでも生活雑貨を買うのは趣味である。趣味で一千万円の借金を作ってしまう感覚がわからない。一千万円の借金はどういう種類の借金かはわからない。資産家の親から借りたのか、金融機関から借りたのか。借金にもいろいろある。

 番組に登場した人は雑貨の話になると止まらなくなる。溢れんばかりの雑貨愛はすごいとしかいいようがない。
 何かを伝えるさい、好きで好きでたまらないから紹介したい——というおもいがある人には敵わない。

 生活雑貨マニアの人が買うグッズは、わたしが買う古本の値段とそんなに変わらない。ほとんどがワンコインで買えるものだ。ただ、海外まで雑貨を探しに行く。「どうしてそこまでして」とおもうが、マニアとはそういうものだともいえる。

 制御不能になるくらいのめりこむことがマニアの証なのではないかとおもっていた。でもそれでは続かない。
 趣味の持続のためには自己規律が必要だ。しかし、自己規律が強くなりすぎると、何かに熱中、没頭しにくくなる。

 世の多くの人はおこづかいの範囲内で趣味を楽しんでいる。お金がないときはガマンする。生活を犠牲にして趣味にのめりこんでいる人は少数派だろう。少数派の世界は気になるし、おもしろい。おもしろいが、わたしにはできない。

 話は変わるが、朝の情報番組で広島カープのユニフォームを着たアナウンサー(?)が、最後のほうにほんとうは阪神のファンだとカミングアウトしていた。
 広島ファンにも阪神ファンにも失礼だ。