2016/10/26

ドラフトの季節

 月曜日昼、古本屋に行こうとおもって駅に向かうと、JRの総武線、中央線ともに止まっていた。すでに改札は抜けていたが、そのままSuicaで出れば、電車賃はかからないという放送が流れていた。
 いったん駅を出て近所を散歩し、食材などを買い、家に戻って掃除する。
 夕方、荻窪ささま書店。そのあとタウンセブンで数日前に割ってしまったふた付きの丼を買う。ささまではジョン・サザーランドの『現代小説38の謎』と『ジェイン・エアは幸せになれるか?』(みすず書房)などを買う。

 プロ野球のドラフトの季節――前後一週間くらいは生活のリズムがおかしくなる。誰に頼まれたわけでもないのに、ドラフト前はひいきのチームの指名候補(誰かわからないけど)のことを調べたり、ドラフト後は新しく入団した選手を分析したりする。
 即戦力として期待されて入団した選手が、かならずしも活躍するとはかぎらない。おもうような結果を出せなかった選手が現役引退後、スカウトやコーチとして、チームに貢献することもある。
 ドラフトの結果は即断できない。何が起こるかわからない。

 五年前のドラフトでひいきのチームに六人の新人が入団した(育成はのぞく)。すでに六人中五人は戦力外である。悲しい。

 二軍ではそこそこの成績を残すのに一軍では通用しない選手がいる。二軍は一軍と比べると、守備のうまい選手が少ない。一軍ではアウトになる打球がヒットになる。コースヒット狙いで打率を稼いでも一軍では厳しい。また打ってアピールしたいファームの打者相手にストライクゾーンで勝負しない投手がいる。このタイプも一軍では通用しない。

 ドラフトで指名される選手は、アマチュアでは立派な「数字」を残している。「数字」だけ見ると、即プロで通用しそうにおもえるのだが、現実はそうではない。
 
 長く現役を続けている選手は「才能」という一言では片づけられない「何か」がある。その「何か」を考えることもドラフトを追いかける面白さなのだが、それを知って何がどうなるのかはわからない。

2016/10/16

コタツ生活

……向き不向きのことをいろいろ考えていたのだが、その前に関係ない(すこしは関係ある)話を書く。

 わたしは長屋で生まれ育った。十九歳で上京するまで、ずっとコタツで食事をしていた。読書も勉強もだ。
 つまり、机(テーブル)と椅子の生活になじみがなかった。今もコタツ生活だ。上京して、はじめて買った電化製品もコタツだった(質屋で千五百円)。

 小学生のころ、通信簿に「落ち着きがない」と書かれていた。今おもうと、授業中、椅子に座っているのが苦手だったからかもしれない。家ではコタツ+座布団の生活をしていて、疲れたらすぐ横になることができた。学校では横になれない。その緊張感のせいで、そわそわしていた……ような気がするのだ。

 中学、高校に通うようになっても、机と椅子で勉強することに慣れなかった。
 もしコタツ+座布団で仕事ができる会社があったら、わたしはそこそこやっていけるのではないか。コタツの後ろに布団が敷いてあって、すぐ横になれる環境なら、たぶん、長時間労働も可能だ(可能だからといって、したいわけではない)。

 体力が人並以下だから肉体労働はしんどい。机と椅子の生活が苦手だからデスクワークもきびしい。
 どうすればいいのか。さすがに日本中の会社をコタツで仕事ができるように変革するのはむずかしい。でも自宅で仕事すれば、解決する。毎日、睡眠時間がズレても大丈夫だ。

 仕事ができるできないは、能力の問題だけでなく、環境の問題も大きい。
 自分の適性を考える場合、能力が足りないのか、それとも環境が合っていないのか——その両面を検討したほうがいい。

 これからコタツ布団を洗濯しようとおもう。

2016/10/13

告知

十月三十日(日)、下北沢の本屋B&Bで世田谷ピンポンズさん、山川直人さんといっしょに「音楽と漫画と文学」というトークショーに出ます。世田谷ピンポンズの『僕は持て余した大きなそれを、』発売記念のイベントです。音楽、漫画、文学や古本の話をしつつ、弾き語りのライブもあります。

時間  19:00〜21:00(18:30開場)
場所  本屋B&B 世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F
入場料 1500円+1 drink order

詳細は、
http://bookandbeer.com/event/20161030_setapon/
にて。

2016/10/12

睡眠優先

 急に涼しくなる。肩がこる。気温の変化にからだがなじまない。毎日、睡眠時間がズレる。季節の変わり目にはよくある。
 というわけで、睡眠と休息を優先した生活を送っている。

 体力がないという自覚は子どものころからあった。

 仕事を選ぶときも、そんなに稼げなくてもいい。時間さえあれば、自炊もできるし、電車に乗らずに歩けばいいから、お金もつかわなくてすむ。からだが楽なほうがいいとおもっていた。
 そのせいか「若さがない」「やる気がない」「世の中をなめている」とよく怒られた。

 今はそういうことをあまりいわれなくなった。十年、二十年と続けていれば、周囲の人が何といおうが、自分のやり方は自分に合っていたといえる。

 疲れてくると判断が鈍る。同じ仕事量でも自分のペースでやるのとそうでないのとでは疲れ方がちがう。自分の時間が管理されるのはストレスになる。
 疲れたらすぐ横になる。怠けながらのほうが、ずっと机に向かい続けるよりも仕事がはかどる。もちろん、こうしたやり方は共同作業には向かない。

 働き方の選択肢はいろいろあっていいとおもうし、会社勤めよりフリーランスのほうが向いている人もいる(当然、逆も)。
 仮に安定した職に就いていても不安になる人はなる。会社が倒産したり、リストラにあったりする可能性もある。何をやっていたとしても十年後、二十年後のことなんかわからない。
 だから就職しなくてもいいという話ではないので誤解しないように。

 仕事には向き不向きがある。自分が何に向いているかは時間をかけないとわからないが、不向きなことはすぐわかる。むしろ苦手なことがはっきりしている人のほうが、決断しやすい。

 向き不向きの話はいずれまた。

2016/10/10

完璧の手前

 先月、郷里に帰省したとき、四日市で途中下車して、ジャズフェスを観た。そのとき、もやもやしたというか、「これって何だろう」とおもったことがあった。
 音楽における「うまい」「へた」と「おもしろい」「つまらない」は別だ。「うまいけど、早く終わらないかな」とおもってしまうバンドがあったり、一心不乱に演奏している高校の吹奏楽部のビッグバンドに心が揺さぶられたり……。

 数日前、家に帰ってテレビをつけたら、「たけしのニッポンのミカタ!」がやっていた。途中から観たので、どういう流れでそういう話になったのかはわからないが、(芸は)完璧になると客は飽きるというようなことをいっていた。

 ちょっと危なっかしくて観ているほうがハラハラするくらいのほうが客にウケる。その状態をビートたけしは「完璧の手前」と表現していた。

 このことはあらゆる芸事に通じるかもしれない。
 整いすぎたもの、おとなしくまとまったものには感情移入しにくい。ひっかかりがないと印象に残らない。ひっかかりは何かといえば、危なっかしさみたいなものだ。

「うまい」=「失敗が少ない」みたいな勘違いもある。
 ミスを減らす方法はふたつある。ひとつは「ものすごく努力する」、もうひとつは「難しいことに挑戦しない」だ。
 難しいことに挑戦しなければ、失敗は減らせる。一見、うまくなったような気がする。でもおもしろくなくなる。
 それに「うまい」というのは、数ある評価軸のひとつでしかない。「かっこいい」とか「おもしろい」とか「勢いがある」とか「ノリがいい」とか「瑞々しい」とか「めちゃくちゃ」とか「珍しい」とか、いろいろな価値観があって「うまい」というのも、その一要素にすぎない。見る側にもそれぞれの好みがある。

 そうしたいろいろな要素をぜんぶひっくるめた上で「技術」や「持ち味」が問われる。「完璧」が目標ではない世界がある。

 わたしがもやもやしていたのは、音楽を聴いたり、本を読んだりしているときに「うまい」「へた」の評価をしてしまう自分の狭さ、堅苦しさだったのかもしれない。

2016/10/05

気がつけば、十月

 衣替えの準備はしているが、いまだ夏服ですごしている。涼しくない。というか、蒸し暑い。怠い。
 二十代のころは、十月の中旬くらいにはコタツ布団を出していた記憶がある。

 九月から生活リズムがおかしくなり、どうにか修正を試みているのだが、うまくいかない。先週買った古本が袋にいれっぱなしのまま、仕事に追われる日々。何を買ったかもう忘れた。さらにずっと前に買ったまま忘れていた本を今読んでいて、仕事がはかどらない。よくあることだが、何をやっているのかという気分になる。

 部屋の掃除をしていたら、『編集会議』の二〇〇四年十二月号が出てきた。巻頭特集は「フリーライター大研究」。

 パラパラと読んでいたら、大下英治さんの「『いずれ何かを書こう』と思っている程度では、自分の時間は作れない。書くテーマすら見つからないですね。そういう人は、毎日ゴールデン街で朝まで飲んで、酔っぱらって体を悪くして終わっていく」というコメントがあった。

 フリーランスは勤勉でなくてはいけない。とはいえ、それだけではつまらない。人生の一時期、後からふりかえって笑えるていどの失敗を経験しておくことも必要かも……。仕事をせず、金がないのに毎晩飲み明かしていた日々がちょっと懐かしい。