2016/12/30

よいお年を

 今年もあとすこし。仕事、終わったんだか終わってないんだが、すでに来年しめきりの原稿を書きはじめている。

 くらもちふさこの『花に染む』の八巻を読んでいたら、近鉄の名古屋駅から宇治山田駅に向かうシーンがあった。近鉄の特急が漫画で描かれているのを見たのは、はじめてかもしれない(他にもあるのかなあ)。車内で食べているのは天むす弁当か。この巻には同じ花染町が舞台で登場人物が重なっている『駅から五分』も収録されている。昔からひとつの町に暮す人々が交錯する物語が好きだ。

 世田谷ピンポンズさんが高円寺に来て、コクテイル、ペリカン時代をハシゴ。ヨコイタカヒロさんの展示を見る。今回はジャズをモチーフした墨絵なのだが、墨のにじみもふくめて、計算できる部分と計算できない部分が絶妙に混ざり合っているかんじがおもしろかった。
 さらに飲んでいたら、ペリカン時代の増岡さんがヨコイさんの展示を見に来る。こういう日があると高円寺にいてよかったとおもう。

 自分が選んだ町に住み、自分が選んだ仕事をする。自分の生き方を自分で決めたかった。それ以外のどんな生き方をしたとしても、うまくいかない自信があったからだ。

 どの卵を買うかで悩むひまがあったら、とりあえず、卵を買って、それをどう料理するかで悩んだほうがいい。……という言葉が天啓のごとくひらめいた。今、酔っぱらっている。

2016/12/23

『神吉拓郎傑作選』トークイベント

『神吉拓郎傑作選』(国書刊行会)刊行記念トークイベント 大竹聡×荻原魚雷「神吉拓郎を語ろう!」開催。

◆出演:大竹聡、荻原魚雷
◆日時:2017年1月14日(土)
    17:00〜18:30 (16:30開場)
   ※終演後、会場にて懇親会を予定しております。
◆会場:古本バル 月よみ堂
    東京都杉並区西荻南2-6-4-103
    TEL 03-6454-2037
    Facebook:https://ja-jp.facebook.com/tsukiyomidou/
◆入場料:1500円(ワンドリンク付き)
    2杯目以降はキャッシュオン形式でご利用いただけます。
◆定員:20席
◆予約方法:メールでのご予約をお願いいたします。
    件名に「神吉拓郎トークイベント申込み」、
    本文に「お名前」「人数」「電話番号」をお書きいただき
    tsukiyomidou@gmail.comまでお送りください。

 詳細は国書刊行会のホームページを参照してください。
http://www.kokusho.co.jp/news/2016/12/201612221538.html

 わたしが神吉拓郎を知ったのは、色川武大のエッセイだったか、山口瞳のエッセイだったか。とにかく色川武大と山口瞳が褒めていた。読みはじめてすぐ夢中になった。最初に読んだのは『ブラックバス』(文春文庫)である。大人のほろ苦小説、さらっと書いているけど、すごく緻密。それから『男性諸君』(文春文庫)、『たたずまいの研究』(中公文庫)などのエッセイをひまさえあれば読み返すようになった。
 二十代のころ(今もだが)、わたしはいろいろなことに無自覚で人間関係における失敗をくりかえしていた。神吉拓郎のエッセイは、大人の男としての立振舞い、気づかいみたいものをさりげなく教えてくれる。
『神吉拓郎傑作選』の2巻「食と暮らし編」の「お洒落」もそうだった。

《一、相手の距離、部屋の広さなどによって、話し声の音量に、実に適当なコントロールが出来》

《一、百知ってることは、七十まで話し(百知っいてるのに、三十までで留めるのは、相手に失礼である)》

《一、つねに表情を涼しく(または暖かく)保つようにつとめ》

《一、挨拶がわりに、太ったとかヤセたとか、顔色が悪いとかいわず》

《一、他人の趣味には極めて寛大で》

……といった「お洒落」の条件(まだまだたくさんある)をあげ、「もちろん私は全く失格である」と綴っている。
 神吉拓郎の短篇も涼しさと暖かさを保ちながら、百のうち七十くらいの加減でいつも書いている印象がある。

 イベント当日はちょっと珍しい神吉拓郎の資料を持っていきたいとおもっている(忘れてなければ)。

2016/12/19

三つの「み」

 一ト月ほど前、鮎川信夫のコラムを再読して、次の箇所を引用した。

《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ》

 このブログを書いたあと、ひさしぶりに野坂昭如の雑文を読み返したいとおもっていたところ、野坂昭如著、坪内祐三編『俺の遺言 幻の「週刊文春」世紀末コラム』(文春文庫)が刊行された。わたしはコラムやエッセイは一気に読むのだが、この本はもったいなくて、外出したとき、電車と喫茶店で数十頁ずつ読んでいる。だからまだ読了していない。
 野坂昭如の『週刊文春』でコラムを連載していた一九九〇年代後半、わたしは商業誌の仕事を干されて、社会どころか同時代にたいする関心を失っていた。野坂昭如の本は古本で七〇年〜八〇年代のものはちょくちょく買っていたのだが、九〇年代の文章はほとんど知らない。坪内さんの「編者解説」によれば、二〇〇二年の『文壇』まで「野坂さんは二〇世紀末にスランプがあった」とある。

《当節、見るもの聞くもの、すべてが怪態くそ悪い、年寄りのひがみ、そねみ、ねたみと判っているが、もともとぼくの雑文は、この三つの「み」が基本となっている、ほぼ同年代の、石原、開高、大江が小説家として脚光を浴びていた第一次安保の頃、ぼくは新宿文化演芸場で漫才をやっていた、ラジオ、TV、CMソング作詞にうんざりしての宗旨変え、三つの「み」は当然で、それは才能がないせいなのだが、やはり芥川、直木賞発表の時期、悪酔いする》(「連載三百回を機にふり返る、わが雑文遍歴」一九九五年十二月七日)

 このコラムに続く「司馬さんは『国民作家』なんてありふれた存在ではなかった」(一九九六年二月二十九日)では、九四年六月、神吉拓郎、九四年七月、吉行淳之介、九五年八月、山口瞳、九六年一月、結城昌治、九六年二月、司馬遼太郎……と野坂昭如と同時代(やや年上)の作家の死について綴っている。

 九〇年代半ば、戦中派の人たちの訃報が続いた。記憶が甦る。クロニクルと回想がいりまじる雑文らしい雑文だ。

2016/12/14

練馬と阿佐ケ谷

 火曜日、昼すぎ、バスで練馬に行く。『フライの雑誌』の堀内さんと駅前で待ち合わせ……のつもりが、わたしは西武池袋線、堀内さんは地下鉄の駅にいた。
 練馬駅で一信堂書店の閉店(十二月十五日)を知る。昔、自転車で古本屋をまわっていたころ(三十歳くらいまで)、野方〜練馬の古本屋はちょくちょくのぞいていた。

 練馬では「Catch&Eat」という釣り堀兼カフェでホンモロコ釣り。釣ったら、天ぷら&唐揚げにしてその場で食べることができる。
 わたしは一時間で二匹。堀内さんは十匹以上釣っていた(それでも不満そうだったが)。
 昼からハイボールを飲みながら、釣り糸をたれる。エサ、すぐとられる。むずかしい。忙しい。ホンモロコはうまかった。

 そのあとバスで高円寺。古本屋と喫茶店をまわって、ガード下を歩いて阿佐ケ谷に行く。阿佐ケ谷も個人営業の喫茶店がずいぶん減った。いっぽう新しい喫茶店もできていて、堀内さんおすすめの店を教えてもらう。

 フライの雑誌の「あさ川日記」(十二月八日)の「阿佐谷の金魚も揺れる。」にも書いてあったけど、阿佐ケ谷の「吐夢」が来年三月で閉店する。堀内さんと知り合ってからは阿佐ケ谷の釣り堀に行ったあとは「吐夢」で飲むのがいつものコースになっていた(そのあと高円寺の飲み屋にハシゴすることも)。
 夕方六時すぎ、吐夢に向かうと準備中だったので、また喫茶店に入る。『フライの雑誌』最新号(特集「ベストなベスト」)の裏話などを聞く。釣りの道具のコレクターの世界も奥が深い。古いルアーなどは数百万円もするものがあるらしい。
 吐夢で『フライの雑誌』の執筆者で詩人で編集者の四釜裕子さんも合流する(名前はずいぶん前から知っていたけど、はじめて会う)。
 楽しい酒だった。

2016/12/12

ギンガギンガ

 入江喜和『たそがれたかこ』(講談社)の八巻を読んでいたら、主人公のたかこが大ファンのミュージシャンがDJをしているラジオ番組で「——あ ハイ 曲いきますか」といった後、The ピーズの「クズんなってGO」をかけるシーンがあった。

 この漫画に「“世の中とうまくやっていけないけどなんとか生きてる”先輩」という言葉が出てくる。高円寺にはそういう先輩がたくさんいる。“世の中の何の役にも立たないことばかりやっているけどなんとか生きてる”先輩も多い。
 四十五歳でたかこがはじめてライブに行くシーンもよかった。

 日曜日、今年も高円寺ショーボートでギンガギンガVol.11。ペリカンオーバードライブ、オグラ&ジュンマキ堂バンド、しゅう&宇宙トーンズを見る。いつものことだが、すごいものを目の当たりにした気分になる。いいライブを見ると「ここにいてよかった」と自分の過去をすべて肯定したくなる(その効果がもっと長続きすればいいのだが)。

 二十代のころは、四十代の後半になって、ライブハウスで飲んでいる自分の姿を想像できなかった。同じバンドやミュージシャンを十年、二十年と見続けられるともおもってなかった。いろいろあったなあ。

 三時間以上のライブで体力が底をつく。打ち上げ前にいったん抜けて、家で横になっていたらそのまま寝てしまった。

 もう今年が終わったような気がする。

2016/12/08

日常

 水曜日、神保町。夕方、小諸そばでから揚げうどんを食べようとおもったら、うどんが品切だった。期間限定の味噌煮込みうどんが売れたせいかもしれない。ひさしぶりにそばを食う。小諸そば、うどんとそばでつゆ(だし)がまったくちがう。小諸そばのうどんのだしは関西風(さぬき風ではない)で好みの味なのだ。そばもうどんのだしで食いたい。邪道か。
 そのあと新刊書店と古本屋をまわる。岩波ブックセンターは神保町に行くとかならず寄る店だった。灰色のブックカバーも好きだった(型くずれしにくい)。神田伯剌西爾でマンデリン。仕事せず、だらだらすごす。

 木曜日、珍しく午前中に目が覚めたので、西部古書会館の歳末赤札古本市の初日に行く。釣りの本、野球の本、あとちょうど探していた大きさの皿(未使用)が売っていて、悩んだ末に買う(五百円)。古書会館で本以外のものを買うのはひさしぶりだ。
 釣りの本はジャック・H・N・ヘミングウェイ著『青春は川の中に フライフィッシングと父ヘミングウェイ』(沼沢洽治訳、TBSブリタニカ、一九九〇年刊)。ジャック・ヘミングウェイは、アーネスト・ヘミングウェイの長男でフライ釣り師としても知られていたらしい。
 ジャックは釣りのガイドの仕事をしていたとき、全盲のピアニストにフライフィッシングを教えたこともあった。

《フライ竿の支度をし、ウェイダーを着せてあげ、シルヴァー川の下流の入りやすい地点を選んで水に入った。ここは小型だがのんびりしたトラウトがおり、ウェットフライを流すとかかること請け合いである。私のコーチをよく守り、ほどほどにキャストした彼は、じきに小さなレインボーをかけ、引き寄せて私の手の届く所まで持って来、私が水から上げると、網の目ごしに魚を撫でてから、放してやってくれ、と言うのだった。(中流)サンヴァリーへの帰途、釣りの感想を聞くと、人生最高の経験だったが、一番楽しかったのは水に入ったことで、ウェイダーごしに流れを足に感ずる快さがすばらしい、と言う。風呂桶の中か、せいぜいプールでしか、水中を歩いたことがなかったのである》

 この話を読めただけでもよかった。でもジャックは釣りの初心者にけっこう厳しい。

 先月、改装中だったOKストアが復活したが、中華めん(棒状のラーメン。スープなし)が売っていない。でも、あいかわらず安い。

2016/12/07

強情さが必要(八)

 三十歳前後の数年間、わたしがもっとも熱心に読んだ作家は尾崎一雄である。その後も折りにふれて読み返している。何度も読むのは尾崎一雄の生き方や考え方にしっくりくるものがあったからだ。

 尾崎一雄の「亡友への手紙」に次のような言葉がある。

《大体こういう場合、僕は、その穴からスタコラ逃げだすことにしている。或いは、触らぬ神にたたりなし、と横目でちょっと見て通り過ぎようとする。その手は喰わない、と肚に力を入れてみたりする。僕が俗物だからだ》

《僕はスタコラ逃げ出したいんだ。厭なんだ僕は。僕は、そんな穴に入るのは厭だし、いわんやどこまでもおっこちてゆくなんて、真っ平なんだ》

 この「穴」が何かはあえて説明しない。
 深刻になる、真面目に考えることが、かならずしも、よい解決策ではない。スタコラ逃げる。興味本位で「穴」をのぞきこむこともしない。

『尾崎一雄対話集』の「現在・過去・未来」と題した三浦哲郎、秋山駿、平岡篤頼との座談会で、尾崎一雄が「三島っていうのは本当に頭がいいと思いますね」という。ただし「三島は勉強しすぎですよ。頭がいいし、よくわかるんだけど、自分が傑作を書こう、偉くなろうという、傑作意識に刺激されて無理してるの」とも……。

《僕は三島君てのは、非常に反発するところがありますけども、頭がよくてぱっとわかるというところは非常に敬服してますよ。ただあんまり野心が強すぎるために背伸びしすぎて、それで折れちまった、そういう人ですよ》

 尾崎一雄の思考はどこかぼんやりしている。自分のことを「凡人」といえる強がらない強さみたいなものがある。
 文学とは、私小説とは……その答えはわからない。答えが知りたいわけでもない。「現在・過去・未来」という座談会では「私小説は駄目だ」「文壇が沈滞する」と攻撃されていた時期のことを尾崎一雄が回想している。

《僕らは私小説でなきゃいけないとはけっして思っていなかったんですよね。だけどあったっていいじゃないかと。牡丹の花もあるし、桜の花もあるし、野菊だってあるし、いいじゃないかと。そのものとしていっぱいに咲いていればいいじゃないかと。僕はそう言うんですよ》

 また「昭和文学奈良時代」では、学生時代に敬愛する志賀直哉を片上伸に批判されても尾崎一雄はまったく屈しなかった。

《理屈でいくら片上さんにやられても僕はいいと思っているんだから。けれどもこっちはそれを理屈でやり返すことはできないんだ。理論はなんにもわからないんだから。だけれどもいいと思っている、これはしようがないです。知情意というのがあるんだ。知は片上さんにかなわないですよ。けれども志賀さんのいいところを感じる力は、おれのほうがある。正確だと思っているからそれは納得しなんですよ》

 尾崎一雄にとって志賀直哉は批評の対象ではなかった。作品を読み返し、養分にし、自分が文章を書き続ける力にした。何をいわれても、自分は「いいと思っている」気持はゆるがない。私小説にかんしても「あったっていいじゃないか」の一言であらゆる批判に対抗できた。

《他人の批評に右往左往してゐたら何も出来ないことは、絵も文章も同じだな》

 怠けたり、時にはスタコラ逃げたりしながら「いいと思っている」ことをやり続ける。
 わたしもこういう人生を送りたい。

(……とりあえず、完)

2016/12/06

強情さが必要(七)

 寄り道ついでに『尾崎一雄対話集』を読んでいて、気になったところをもうすこし紹介したい。
 尾崎一雄と安岡章太郎の対談(昭和文学奈良時代)の冒頭——。

《安岡 尾崎さんを悪人だというのは、だれが言ったんでしたか。
 尾崎 辻潤だよ。失礼なことを言いやがる》

 このエピソードは尾崎一雄著『あの日この日(下)』(講談社)の「辻潤の一喝『君は悪人だ!』」に綴られている。
 あるとき志賀直哉、辻潤、尾崎一雄が飲んでいたら、しだいに酔っぱらった辻潤の独演になった。

《するうち、突然、辻氏が私の顔を正面から見て、
「君は悪人だ!」と声を張つた。
「え?」
「悪人だ、君は」
「どうしてでせうか」
「君は酒を飲んでもしやアゝとしてゐる。その態度で判る。悪人だ」》

 若き日の尾崎一雄は辻潤の言葉にうろたえ、顔が真っ赤になった。そのあと辻潤の尺八を聴いた。

《辻潤といふ異色ある人に会つたのは、その時だけである》

 尾崎一雄は辻潤の熱心な読者だったが、「結局、氏のアウト・ロウ振りにくすぐられながらも、これではいけない、といふ気になつてゐた」。

《とにかく、辻潤の尺八は、よかつた》

 それはさておき、辻潤に「悪人」といわれた逸話から、安岡章太郎は、尾崎一雄に「悪人じゃないけれども、見掛けによらず強いところがありますね」と語る。

 それからしばらくして昔の作家の「よゆう」に話題が変わる。

《安岡 志賀さんの、たとえば尾道へ行つて客観的に見ればふらふらと遊んでいたわけでしょう、それが何年間も……。ああいうことはちょっといまどんな金持ちでもできないな。
 尾崎 だって、家賃溜めるとか、酒屋とか米屋だって盆と暮れに払えばいいという時代でしょう。いけなければ夜逃げしてしまうということができた時代だからね。いま現金払いでしょう》

(……続く)

強情さが必要(六)

『尾崎一雄対話集』(永田書房、一九八一年刊)に三島由紀夫との対談が収録されている。
 この対談で三島由紀夫は「これは『解説』にも書いたんですけど、志賀さんにしても、尾崎さんにしても、なまけ者の作家ですね、失礼ながら。なまけ者という意味は、時間を自然に流れさせるということ、時間をけっして人工的に扱わないということなんで、これは自分が生きるということですよ」と語る。

 そして尾崎一雄の「なまけ者の精神」を「たいへんな技術」と絶讃し、「尾崎さんは絶対にノイローゼにならない人だと思う(笑)。そういう点では精神の強い人だ」という。

 三島由紀夫の『作家論』(中公文庫)でも「尾崎一雄氏は、呑気なようでいて呑気でない、感傷をちらりとも見せない、したたかな作家である」「だらしないようでいて、浪曼派的自己破壊に陥らず、ストイックできゅっと締まっている」「ユーモラスかと思うと、油断のならない警抜な目が光り、宿命論者かと思うと、実によく『生きること』を知っている」と述べている。この文章は、対談の中で「これは『解説』にも書いたんですけど」の「解説」と同じである。

《怠け者であること、すなわち時間をビジネスライクに機械的に使わず、時間というものをなるたけ自然に使おうとする心性、およびそれに伴う生活態度は、私小説家たるの必須条件と言ってよい。もし時間が人生乃至生活を規制するように動きだしたら、そのとたんに生はそのありのままの存在感——私小説のエッセンスというべきものを——を喪う。(中略)つまり自分の人生が「生きる」ということ以外の意味を持たぬようにたえず留意すること。この技術は時として狡知にまで及ぶが、依然として彼の誠実さの最後の実質である》

 もうすこし簡単にいえば、「無理をしない」ということ、自分のペース(リズム)で淡々と生きること。その生き方は「なまけ者」に見えて「たいへんな技術」である——というのが三島由紀夫の見解だ。

 尾崎一雄は三島由紀夫との対談中、「追い立てられないと走り出さない、凡人である証拠ですよ」「私なんか病気をごまかしてきた。そのごまかしが、あとから考えればうまかったんですね」と語っている。おそらく、こういう感覚も三島由紀夫には「たいへんな技術」に見えたかもしれない。

 わたしが『尾崎一雄対話集』を本棚から取り出したのは、別の作家との対談を再読しようとおもったからなのだが、つい寄り道してしまった。

(……続く)

2016/12/04

強情さが必要(五)

「自分がやりたいことだけでなく、相手にもプラスになるような仕事のやり方」云々の話が途切れたままだった。

 二十代のころのわたしは、やりたい仕事ばかり選んできたわけではない。毎回、自分のやりたいことだけやって、お金がもらえるともおもっていない。厳しいスケジュールの仕事も引き受けることもあったし、誰かが落とした原稿の代わりに突貫工事のような穴埋め記事を書くこともあった。

 出版界の景気がよかったころは、二回一回くらいは好きに書かせてもらえたのが、それが三回に一回になり、五回に一回、十回に一回といったかんじで、しだいにやりたくない仕事ばかりやらされるサイクルに陥っていた。

 古本屋に行く時間や本を読む時間や酒を飲む時間を削って、やりたくない仕事ばかりやる生活は耐えられなかった。それでアルバイトで生活費を稼ぎ、金にならないけど、好きなことが書ける仕事だけをやるようになった。
 こうしたやり方が正しいとはおもっていない。でも、わたしには合っていた。だから続けられた。

 二〇〇〇年代になると、フリーター・バッシングが激しくなった。わたしはフリーターという働き方にいいもわるいもないという考えだ。本人が合っているとおもうのであればそれでいい。すべての人が就職し、フルタイムで働くことをよしとする社会のほうがおかしい。自分の目には狂っているように見える。

 定職につかず、ふらふらしていると「そんな生活、いつまでも続かないぞ」と忠告される。二十年前にそういわれた。

 わたしは寝たいときに寝て、好きなだけ本が読める生活を望んでいた。その生活を続けるためなら、お金のかかる趣味とか老後の安心とかはいらないとおもっていた。
 正しいかどうかはわからないが、やりたいことと楽しいことはわかる。やりたいことと楽しいことがわかっているなら、あとはどう実現させるか。わたしはそればっかり考えていた。

(……続く)

2016/12/03

強情さが必要(四)

《文学者には、苦悶と冒険が必要だと云はれるがそれはその通りだ。私は、平凡な庶民生活の中に、それがいつぱいあることに気づいてゐる。家常茶飯事の中に、危機と冒険がある。それを単に平凡で退屈だと見るのは、見る方の感度が鈍いのである。われわれの生活も、生きると云ふことも、生そのものも、謂はば「一寸先は闇」なのだ》(「異議あり」/尾崎一雄著『わが生活わが文學』)

 ある座談会で、自分の作風を「保守的」「反逆精神がない」と批判されたことにたいし、尾崎一雄はそう反論した。ちなみに、この座談会で三島由紀夫は終始、尾崎一雄を擁護している。

 尾崎一雄の家は、神主の家筋で、父は神道系の学校の先生をしていて、子どものころは厳格な躾けのもとに育てられた。

《私のやうに厳重なカセをはめられてゐた者には、それを脱するだけですでに大仕事だ》

 厳格な家で育ち、文学の道を志し、無頼放蕩の日々を送り、親類縁者のあいだで鼻つまみになり、「逃亡奴レイ」のような生活をしていた時期もある。しかし、その生活を改める。

《「逃亡奴レイ」がまた鼻について来たからである。そいつがまた一つの型に思はれて来て、これではつまらんと気づいたのである》

《今では、平凡で善良な庶民の一人として、その中に生きることを心がけてゐる》

 尾崎一雄は、放蕩無頼の生活を立て直していく過程をくりかえし小説に書いている。

『わが生活わが文學』の「気の弱さ、強さ」では、「独自の作風をうち出した作家は、他人の云ふことなど気にしない、あるひは鼻であしらふ一面を有つてゐると思ふ」と綴っている。

(……続く)

2016/12/02

強情さが必要(三)

 尾崎一雄は、友人や先輩の批評に右往左往してしまう画家のSにたいし「やはり、強情さが必要だと思ふ」といった。この場合の「強情さ」について、もうすこし考えてみる。

 わたしはよく道に迷う。地図を見ず、知らない土地でもまっすぐ歩き続けてしまうからだ。いつまで経っても目的地に着かない。同じところを行ったり来たりする。完全に迷っているにもかかわらず、人に聞こうとしない。
 今はスマホや携帯電話があるから、道に迷っても……わたしはスマホや携帯を持っていない。しょっちゅう道に迷うくせに。「強情さ」とはちがうかもしれないが、多かれ少なかれ、人の忠告に耳を傾けないタイプはすこしズレたところがある。

 仕事にしても、自分のやり方で進めてしまい、途中から共同作業になっても、誰にも合わせられないという経験をずいぶんした。わざとそうやっているのではなく、ついそうなってしまうのだ。まちがっていても、なかなか認めない。そこに「強情」の「強情」たるゆえんがある。
 長年、自分の時間をすべて、自分のために使いたいとおもっていた(今だって、できればそうしたい)。ひとりっ子だから、というと、当然、そうではないひとりっ子もいるわけだが、自分がそういう人間になったのは、家庭環境の影響が大きいとおもっている。
 学校から帰ってきたら、家ではずっと好きなことができた(やりすぎると注意された)。そのまま上京して、フリーライターになっても、その習性は変わらない。それが当たり前だとおもっていた。

 画家Sは「自分の仕事を批評されると、それをそのまま受け入れる」。その結果、いつまで経っても自分の作風のようなものを確立できずにいる。こうした批評に右往左往してしまう人は「強情さ」ではなく、「受け流す」感覚を身につけてほうがいいのではないかとおもっている。
 誰にたいしても、きつい言い方をする人がいる。あるいは相手によって言うことや態度がコロコロ変わる人がいる。それはその人の癖だ。その癖を差っ引いて話を聞くようにする。同時通訳の人が、そのまま伝えたら相手が激怒するような言葉を絶妙に言い換える作業に近いかもしれない。面倒くさかったら、聞いているフリをする。何でもかんでも真に受けないこと。

 わたしが尾崎一雄を読みはじめた二十代後半は商業誌の仕事を干され、プータローをしていた。まわりからも説教という名の忠告を受けた。
 当然のように無視を決めこんでいたのだが、「自分がやりたいことだけでなく、相手にもプラスになるような仕事のやり方もおぼえたほうがいいよ」という言葉には考えさせられた。ただし、そのやり方はわからなかった。

(……続く)