tag:blogger.com,1999:blog-319942802024-03-17T03:52:47.452+09:00文壇高円寺荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comBlogger1623125tag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-83767638649476532842024-03-15T11:56:00.001+09:002024-03-15T11:56:56.538+09:00釣り人の移住計画<p> 三月三十日(土)から県立神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」開催。六月二日(日)まで。亡くなったのが二〇一九年一月二十九日だから、もう五年になる。——文学展が開催されることを知らず、『フライの雑誌』の最新号(130)で「川は娯楽である 橋本治の時評から」というエッセイを書いた。二〇〇四年十月に起きた新潟中越地震と川の話である。</p><p> 同号の特集は「釣り人の移住計画」——全頁すごい。読みどころばかり。届いてから毎日読んでいる。移住する。当初考えていなかったことが次々と起こる。それでも決断し、新しい生活をはじめる。移住という選択の中には「釣り」が入っている。文中の小見出しに「人間いつ死ぬか分からない」なんて言葉も出てくる。</p><p>「東京から香川へ移住した2名の怪人対談」(大田政宏さん、田中祐介さん)で、田中さんが「自分は、仕事ばっかりしている皆が、何が楽しくて生きてるのか分からないです。釣りのために仕事するんじゃないですか」という言葉が印象に残った。<br /> 趣味のために仕事する——それでいいのだ。わたしもそうおもっている。しかし仕事より趣味を優先しすぎると生活が苦しくなりやすい。そのバランスをどうとるか。そんなことばかり考えている(考える時間があるなら、遊ぶか働くかしたほうがいいのだが、どういうわけかそれができない)。<br /><br />「東京から香川へ」の対談では移住してからの仕事のことも語り合っている。<br /><br />《田中 地方の中小零細企業はほとんどがワンマンのオーナー会社です。移住者が勤めるのはなかなかつらいと思います。<br /> 大田 手に特別な職があるならいいけど、未経験者が地方でカフェやそば店をやるのは無理だと思います。まず最初に就職先を決めておく、ある程度規模の大きい会社を目指す。仕事が順調でないと釣りも楽しくないから》<br /><br /> わたしも地方に移住した知り合いが何人かいる。いずれも動きながら考える、あるいは動いてから考えるタイプだ。<br /> 一時期、わたしも移住というか、二拠点生活を考えていた。決断できぬまま月日が流れ、気持がしぼんで今に至る。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-6747441288981719032024-03-10T21:34:00.005+09:002024-03-15T20:41:12.068+09:00清戸道<p> 日曜の正午。いい天気。部屋で動かずに考え事をしていると気が滅入ってくるので、妙正寺川のでんでん橋を渡り、野方経由江古田散歩。高円寺から江古田までふらふら歩いて一万歩くらい。<br /> 野方駅の北口の商店街を抜けて環七を歩く。豊玉氷川神社に寄る。豊玉陸橋の目白通りあたりで東京スカイツリーがちらっと見える。<br /> snowdropで高田宏著『雪日本 心日本』(中公文庫、一九八八年)、百年の二度寝で海野弘著『伝説の風景を旅して』(グラフ社、二〇〇八年)など。『雪日本 心日本』の「雪国考」、読み出した途端、引き込まれる。<br /> 治療施設に入っている認知症の老人の話——。<br /><br />《老人はむかし漁師であった。そのことを知った治療担当者が、ためしに老人を車にのせて海辺を走ってみたのである。ぼんやりとした老人の顔に生気がもどり、口からは失っていた言葉が切れぎれに出てきた。目に入る海の光景と肌にふれる潮風と耳にきこえる波の音と鼻に吸いこむ磯の匂いと、そしてそれらの感覚のすべてをつらぬく海の時空の感覚のようなものが、衰えしぼんでいた老人の脳をゆさぶり動かしたのであろう》<br /><br /> そうした逸話のあと、京都生まれ石川県育ちの高田宏は「私は、私がボケ老人になったとき、雪の上に連れていってもらいたいと思う」と書いている。わたしは何だろう。自分の感覚を呼び覚ます場所——西部古書会館か。</p><p>『伝説の風景を旅して』は「八百比丘尼の若狭路」「山陽路と三年寝太郎」「小栗判官と熊野路」など、伝説伝承の地をめぐる旅の本。付箋だらけになりそう。<br /></p><p> 江古田のスーパーみらべるでカクキューの味噌などを買う。珈琲林檎はしばらく休業か。残念。江古田浅間神社に富士塚(江古田の富士塚)があることを知る(ただし富士塚に登拝できる日は限られている)。<br /> 江古田駅南口の「清戸道」石碑と案内板がある(練馬区の数ヵ所あり)。清戸道は東は江戸川橋(文京区関口)、西は清戸(清瀬市)に至る。道に沿って千川上水が流れていたので「千川通り」とも呼ばれる。<br /> 清戸道を歩いて桜台駅、そこから関東バスで高円寺に帰る。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-86065269228067393552024-03-08T12:17:00.004+09:002024-03-09T21:19:55.106+09:00大正の作家<p> 木曜日、珍しく早起きしたので午前十時すぎ、西部古書会館初日。両端の棚が混雑していたので中央の棚から見ると、宇野浩二著『文學の三十年』(中央公論社、一九四二年)があるではないか。早起きしてよかった。リーチ一発ツモの気分だ。<br /> 過去何度となく背表紙を見てきたのだろうが、手にとったことはなかった。興味がないと目に入らない。目に入っても手にとらない。たぶん本にかぎった話ではない。<br /><br /> 単行本は冒頭の六頁が写真。巻末に写真解説もある。装丁は鍋井克之(天王寺中学時代からの宇野浩二の友人)。<br /><br /> 古木鐵太郎著『大正の作家』(桜風社、一九六七年)の「宇野浩二」を読む。<br /><br />《宇野さんは話好きだ。いったんなにか話し出すと、口を突いて出るような感じである》<br /><br />《宇野さんの話を聞いていると、よく脇道にそれていって、はじめの話はどこへ行ってしまったのかと思うようなことがあるが、長い話の後に、ぐるっとまわって再びもとの話にもどってくるから面白い》<br /><br />『大正の作家』の巻末に大河内昭爾の「跋 古木鉄太郎」が収録されている。<br /><br /> 古木の没後刊行された『紅いノート』の記念会に谷崎潤一郎の『痴人の愛』のモデルといわれた小林せい女史がいた。<br /><br />《小林せい女史は宇野浩二氏の「文学の三十年」(中央公論社刊)にも出てくるが、それには芥川竜之介、宇野浩二、久米正雄、里見弴氏らにかこまれた写真まで掲載されており、大正文壇では相当派手な存在だったことが想像できる》<br /><br /> この写真について『文學の三十年』では「人物は、むかつて右から、芥川、せい子(当時の谷崎潤一郎夫人の令妹)、宇野、里見、久米、である」と解説している。<br /><br /> よくあることだが、わたしは『大正の作家』に『文學の三十年』という書名があったのに読み飛ばしていた。<br />『文學の三十年』は大正から昭和初期にかけての文学の世界が描かれている。自分が文学に興味を持ちはじめたとき、この本の中に出てくる人物はほとんど故人だった。そうした作家が二、三十代の若々しい姿で登場する。百年前の文学が身近におもえる。<br /><br /> 菊富士ホテル時代、宇野浩二はそのころ時事新報の記者だった川崎長太郎と親しくなる。宇野は川崎の師の徳田秋聲の(当時の)恋愛小説をよくおもってなかった。<br /><br />《それで、その事を川崎にいふと、そのたびに、川崎は強く反対した。しかし、いくら川崎が反駁しても、私も飽くまで自分の意見を述べた。ところが、私がいかに理を説きつくしても、川崎は決して彼の反対意見を撤回しなかつた。(中略)ずつと後に、川崎が、その頃の話をして、あの頃は、誇張していへば、帰りに、悲憤の涙をながした、と云つた》<br /><br /> 相手が大先輩だろうが、文学に関しては意見を曲げない。川崎長太郎らしい。<br /> その後、川崎長太郎は一九二四(一九二五?)年に「無題」を書いて作家として世に出る。宇野は川崎の小説を読み、彼の苦労を知る。<br /><br />《川崎のために、心の中で、杯をあげた。——》</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-42518477728955434492024-03-06T11:36:00.004+09:002024-03-06T11:38:19.699+09:00古木と徳廣<p>『宇野浩二全集』十二巻「文學の三十年」は話が行ったり来たりし、重複箇所も多い。でも筆の勢いで読まされてしまう。知っている名前と知らない名前が次々と出てくる。<br /><br />《私が、本郷菊坂の菊富士ホテルの一室を仕事部屋のつもりで借りて、そこで殆ど寝起きするやうになつたのは、前にも書いたやうに、大正十二年の四月頃からで、それが五年ほどつづいた。<br /> 川崎長太郎と田畑修一郎を初めて知つたのは、殆ど同じ時分で、大正十二年か十三年頃である》<br /><br /> 宇野浩二は菊富士ホテルの部屋を探すとき、すでに同ホテルにいた高田保を訪ねている。<br /><br />《それから、これは、たしかに、大正十三年の五月の或る日、この菊富士ホテルの一室で、私は、かういふ人々と逢つた。逢つた順に書くと、中村正常、古木鐵太郎(今の古木鐵也)、柴山武矩、中河與一、その他である》<br /><br /> そのしばらく後にも「古木」の名が出てくる。<br /><br />《「改造」の記者といえば、たしか古木が引いてから、古木の代りに、私の係のやうになつて、私のところに来たのは、徳廣巖城であつた。初めに来た頃は、徳廣は、まだ大学生であつたやうに思はれる》</p><p>「徳廣」は高知生まれの私小説作家(中央線文士)の本名である。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-5785369430603580352024-03-05T12:04:00.003+09:002024-03-06T11:42:29.960+09:00文學の三十年<p> 三月。散歩道の河津桜は葉桜になっていた。<br /><br /> 後藤明生著『しんとく問答』(講談社、一九九五年)所収「十七枚の写真」を読んで、宇野浩二の著作の古書価を「日本の古本屋」で調べる。中央公論社の全集(全十二巻)、一万円以下もちらほら。郷里・鈴鹿に帰省する途中、たまに寄る名古屋の古本屋が出品していた。買った。届いた。<br /><br /> 宇野浩二、一八九一年七月二十六日福岡生まれ。九四年に父が急死し、神戸へ。九五年、四歳のときに大阪市東区糸屋町、一九〇〇年に奈良県の天満村(現・大和高田市)に引っ越す。<br /> 一九一〇年早稲田大学英文科予科入学を機に上京——。<br /><br /> 第十二巻を函から出す。<br />「文學の三十年」が読みたかった(単行本は中央公論社、一九四二年)。これまで読んできた文芸随筆の中でも『文學の三十年』は屈指の面白さだ(わたしが私小説好きということもあるが)。 読むと単行本もほしくなる。</p><p>「文學の三十年」は葛西善蔵の金策についても詳しい。<br /><br />《原稿料の前借は、葛西が新進作家時代から最後まで常習のごとく連続してゐた訳である。すると、仮りに葛西が小説の名人であつたとすると、彼は前借の名人でもあつた。しかし、前借の方は、彼の力より、友人たちの力の方が多かつた。さうして、私はその片棒を担いだ一人である》(※本文は旧漢字。以降も)<br /><br /> そのあとしばらくして、古木鐵太郎の名も出てくる(葛西の口述筆記をした人物として)。<br /> 葛西の口述筆記作は「椎の若葉」「弱者」「酔狂者の独白」の三篇——。<br /><br />《『弱者』の筆記をした人の名は忘れたが、共に名作と云はれてゐる他の二篇のうち、『椎の若葉』は古木鐵太郎(今の鐵也)が、「改造」の記者をしてゐた時に、筆記をしたものであり、『酔狂者の独白』は、嘉村礒多が、暑い盛りの夏の夜を、数十日通ひつづけて、筆記したものである》<br /><br /> 葛西善蔵は小説執筆のため、奥日光に出かける。そのすこし前、宇野浩二のところに金策の相談にきた。そのとき宇野が保証して「世紀」という新雑誌を出す予定の出版社から三百円借りている。その出版社は潰れてしまったので「湖畔手記」は「改造」から出ることになった。担当者は古木鐵太郎だった。<br /> 結果、前借した分に加え、「改造」からも改めて原稿料をもらうことになる。<br /><br />《かういふ点で、その他いろいろな点で、その一生が不遇であつたと思はれた葛西は、案外得な人であつた》<br /><br />「椎の若葉」「湖畔手記」はいずれも一九二四年——百年前の作品である。読むとでたらめでいい加減でも生きていける(そんなに長生きはできないが)気になる。ただし、葛西善蔵もそうだけど、でたらめな人のまわりには世話をする人がいた。宇野浩二の助けがあったおかげで「湖畔手記」が生まれた。人付き合い、大事だ。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-74694989192051448352024-02-27T11:39:00.002+09:002024-02-27T11:56:03.047+09:00しんとく問答<p> 今年のはじめあたり、西部古書会館で上方史蹟散策の会編『東高野街道』(上下巻、向陽書房、一九九〇年、九一年)を買って積ん読していた。向陽書房は関西の出版社で九〇年代に近畿地方の街道本を何冊か刊行している(今、集めている)。<br /><br />『東高野街道』の書名——どこかで見た記憶があり、なんとなく重複買いしたかなと気になっていたのだが、後藤明生の『しんとく問答』(講談社、一九九五年)に何度か出てくる本だということを思い出した。<br /><br />《私の荷物はショルダー一個である。中身はカロリーメイト、缶入りウーロン茶、地図帳(大阪府)、メモ帳、『東高野街道(上)』(編著・上方史蹟散策の会/平成二年九月/向陽書房)、「写ルンです」。「写ルンです」は普通サイズとパノラマの両方を持った。どちらもストロボ付きである。それに今回はエアーサロンパスを加えた。とつぜん起るかも知れない腓返りに備えてである》(「しんとく問答」)<br /><br /> 妙に細かい。<br /><br /> ほぼ後藤明生とおもわれる作中の「私」は『東高野街道』の上巻を持って「俊徳丸鏡塚」を見に行く。『しんとく問答』の収録作は「単身赴任の初老の男が、大阪地図を片手にあちこち歩き回る話」(「贋俊徳道名所図会」)という設定の短篇集なのだが、表題「しんとく問答」は小説というより歴史紀行エッセイのような風味がある。<br />「私」は謡曲「弱法師」、説教節「信徳丸」などの舞台となった大阪の地を散策する。週三日俊徳道駅(JRおおさか東線、近鉄大阪線)の次の駅に停車する大学に通っている。おそらくその大学は近畿大学で、もより駅は近鉄の俊徳道駅の隣の長瀬駅である。一九八九年から後藤明生は近畿大学文芸学部で教えていて、九三年から同学部長になっている。<br /><br />『しんとく問答』所収の「俊徳道」(『群像』一九九四年十月号)、「贋俊徳道名所図会」(『新潮』一九九五年一月号)、「しんとく問答」(一九九五年三月号)など、初出の時期から一九三二年四月生まれの後藤明生、六十二歳のころの作品である。「古典+街道」というテーマは今のわたしの関心事と重なる。<br /><br />「初老」はもともと数え年四十二歳(満四十歳)の異称だったが、今の感覚だと還暦あたりを示すことが多い——と辞書の定義が変わってきている。</p><p>『しんとく問答』所収「十七枚の写真」は、大阪の中央区の宇野浩二文学碑、難波宮などの話で——講演用のノートみたいな作品。宇野浩二の文学碑は「中大江公園」にある。「清二郎 夢見る子」の一節が刻まれている。<br /> わたしは高円寺、野方、鷺ノ宮あたりを転々と暮らした古木鐵太郎(元『改造』編集者)への興味から、宇野浩二の自伝や随筆を読みたいとおもいつつ、バラで集めるか全集で買うかで迷っているうちに時間が過ぎてしまった。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-30077600699791193542024-02-18T17:24:00.002+09:002024-02-18T23:24:51.346+09:00練馬駅のバス<p> 今週は西部古書会館の古書展のない週末(第三週は開催しないことが多い)。<br /> 先週の西部の古書展では梅棹忠夫、多田道太郎編集『論集 日本文化』(energy特別号、エッソ・スタンダード石油株式会社広報部、一九七一年)や「エナジー対話」シリーズの大岡信、谷川俊太郎『詩の誕生』(第一号、一九七五年)、多田道太郎、安田武『関西 谷崎潤一郎にそって』(第十八号、一九八一年)など、エッソの広報部関係の本が大量に出ていたので数冊買った。まとめて売った人がいたのか。<br /><br /> エッソ石油(現・ENEOS)のPR課は高田宏が長く編集者をつとめていたことでも知られる。</p><p> 土曜日、妙正寺川のでんでん橋、野方の商店街を通って練馬散歩。東武ストアでスガキヤのインスタント麺、プラザトキワで衣類を買う。昔は中央線沿線の高円寺の光和堂、阿佐ケ谷のヌマヤなど、近所に衣類、タオル類などを揃えている大きめの総合衣料の店があったが、今はない。<br /><br /> 練馬駅から関東バスで高円寺に帰る。練馬駅発の豊橋、三河田原行きの夜行バス(新宿・豊橋エクスプレスほの国号)があることを知る。<br /> 練馬駅(二十三時五分)、中野駅(二十三時二十五分)、バスタ新宿(二十三時五十五分)を経て、愛知県内だと豊川駅(五時九分)なども通る。豊橋駅(五時四十分)、三河田原は六時二十分着。時期によって値段は変わるが、二月だと三千二百円(火・水曜)という日もある。金・土・日は四千七百円〜五千七百円。<br /> バスで豊川駅あたりまで行き、東海道を散策しつつ名鉄+近鉄で郷里の三重に帰省するルートはありかも。<br /> 渥美半島の三河田原から伊良湖岬、それから船で鳥羽に渡り、鈴鹿に帰るルートも新幹線より、かなり安く行ける。<br /> 中野駅も通るから、家から徒歩で深夜バスに乗れる。</p><p> 一九八九年二月に三重から上京したときは鈴鹿から池袋までの高速バス(西武のバス)に乗った。片道七千円くらいだった。 三十五年前か。その年の十月まで東武東上線の下赤塚駅周辺の寮(家賃千円)にいた。練馬駅からは下赤塚駅経由の成増駅行のバスもある。</p><p> 高円寺〜練馬〜下赤塚は南北にほぼ直線。前からバスを乗り継いで行ってみたいとおもいつつ、まだ実行していない。行きは高円寺から練馬駅まで歩いてバスで下赤塚駅、帰りは下赤塚駅から練馬駅まで歩いてバスで高円寺——という散歩がしたい。 <br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-75611364916640777032024-02-16T11:04:00.001+09:002024-02-16T11:04:45.489+09:00新居格随筆集<p> 二月十一日(日)、午前八時、高円寺駅の総武線のホームから富士山がきれいに見えた。小田急で小田原駅、JR東海道本線、身延線と乗り継いで西富士宮駅へ。<br /> この日は「ふじのみや西町ブックストリート」という一箱古本市(わたしも出品した)に参加した。おしるこ食べる。今月、編著の『新居格随筆集 散歩者の言葉』(虹霓社)が刊行――虹霓社も富士宮市の出版社である。二月二十二日発売予定。<br /> 新居格は一八八八年三月、徳島県板野郡(現・鳴門市)生まれ。アナキストで戦後初の杉並区長でもあった。<br /><br /> 二〇一七年十月、秋山清のコスモス忌で虹霓社の古屋さんと会った。新居格著『杉並区長日記 地方自治の先駆者』(虹霓社)が復刊されたのもそのころである。<br /> 新居格は高円寺に暮らし、雑文で生計を立てていた人物ということもあり、特別な親近感がある。<br /><br />《わたしは微小な存在でしかないところの文士である。わたしは、それ故に、大きな存在でありたく望みはしない。わたしはわたしが書きうるものを書いて行くことでいゝ》(「小さな喜び」/同書)<br /><br />《過去のことが古いのではなく、今日と明日のことが新しいのでもない。過去のうちにもあまりにも時流を抜いてゐたために埋もれてゐた新しさが無数にあるのだ》(「本と読書の好み」/同書)<br /><br /> 新居格の意見は温和なものが多い。戦前戦中に散歩と読書の日々を送り、平静を保ち続けた。<br /><br /> 西富士宮駅から富士宮駅まで歩く。浅間神社、人がたくさんいた。富士宮は二十代のころから何度か来ているが、町の雰囲気がのんびりしていて心地よい。ニジマスの養殖でも有名な土地だ。<br /> ペリカン時代で教えてもらった麺屋ブルーズに行きたかったのだが、午後二時から五時までは営業時間外だった。場所は覚えた。次こそは。<br /><br /> JR在来線で藤沢駅まで行き、駅周辺をうろうろする。小田急で帰る。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-79879240975199650642024-02-06T06:54:00.004+09:002024-02-08T21:16:22.510+09:00ネリマ市<p> 寒い寒いとぼやいているうちに二月。外は雪。雨や雪の日はアーケードの商店街やガード下を歩くことが多い。<br /><br /> 先週土曜日、西部古書会館(初日は金曜だった)、『出雲と都を結ぶ道 古代山陰道』(島根県立古代出雲歴史博物館、二〇二二年)、『中村草田男と石田波郷』(松山市立子規記念博物館、一九八五年)など。山陽道と山陰道を結ぶ道は「陰陽連絡路」と呼ばれていることを知る。<br /><br /> 古書会館のあと、午後二時すぎから妙正寺川散歩。鷺ノ宮周辺をうろつき、中野区と杉並区の境を越え、妙正寺公園(この公園内の妙正寺池が妙正寺川の源らしい)、荻窪駅まで歩いて電車で帰る。家を出てすぐは億劫でも歩いているうちに元気になる。体温が上がって脳が活性化するからか。<br /><br /> アニメ『SSSS.GRIDMAN』(円谷プロダクション、二〇一八年)の舞台は架空のネリマ市だが、鷺ノ宮駅や荻窪駅の周辺の風景、善福寺川っぽい川も出てくる(昨日、全十二話を視聴したばかり。作画がすごい)。自分の夢に出てくる町もこんなふうにいろいろな場所が混ざっていることがある。<br /><br /> 漫画やアニメの架空の風景にはモデルになっている場所があったりなかったりする。知らず知らずのうちにそうした景色が記憶に残っていて、そこを訪れた途端、ふと思い出す。デジャヴ(既視感)と呼ばれる現象にはそういうこともあるのではないか。<br /> はじめて訪れたはずの町なのに「あれ? この場所、来たことがある」と錯覚するのは、映画やドラマ、なんとなくつけていたテレビで見た(忘れていた)景色の記憶が呼び覚まされた——のかもしれない。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-75435254332993922092024-01-31T05:23:00.003+09:002024-02-01T13:18:42.795+09:00鷺ノ宮<p> 二十七日土曜昼すぎ西部古書会館。橋本治著『義経伝説』(河出書房新社、一九九一年)、安田武著『型の文化再興』(筑摩書房、一九七四年)など。『義経伝説』はあまり見かけない本だ。安田武の『型の文化再興』の「士農工商」にこんな一節がある。<br /><br />《モノの生産に関しても、人間関係においても、総じて人の生活そのものにおいて、ただ損をしないことだけを念頭に行動し、損得を度外視して頑張ったり、そのために時に大損をしても痩我慢をするといった、そういう「風」を失ってしまった人間の群れ、集団が作り出す社会は、それが、どのような制度、組織、あるいは「憲法」をもっていようと、結局のところ、つまらぬ社会でしかありえないのではないだろうか》<br /><br /> この問題はむずかしい。「損得を度外視して」といっても損が続けば行き詰まるし、といって得ばかり求めていると人間関係その他いろいろ荒む。商売なら「損して得とれ」みたいな考え方もあるが、それはそれでシビアな駆け引きが必要で面倒くさい。損得を考えなくてすむだけの余裕がほしい(それがむずかしい)。</p><p> 古書会館のあと日当たりのいい道を歩こうと妙正寺川に沿って鷺ノ宮へ。ジョギングをしている人、犬の散歩をしている人、平日と比べて人が多い。<br /> 妙正寺川は鷺ノ宮駅に近づくにつれ、大きく蛇行する。冬のよく晴れた日に歩くと気持いい。<br /><br /> 鷺ノ宮の白鷺せせらぎ公園〜高円寺北口のコミュニティバス(二時間に一本くらい)が走っている。まだ乗ったことがない。<br /><br /> 西武新宿線の鷺ノ宮駅北口の中杉通りを歩いて西武池袋線の中村橋駅方面を散策する。<br /> 鷺ノ宮は駅周辺は中野区だけど、すこし北に行くと練馬区になる。区が変わっても町の連続性がある。練馬区は一九四七年八月に板橋区から分離独立した区である。<br /><br /> いなげや中村南店で金トビ名古屋きしめん、お好み焼きなどを買う。ごま油、オリーブオイルなど、油類が値上りしている。<br /><br /> いなげやの周辺をうろうろして帰りは中村南三丁目から阿佐ケ谷駅行きの関東バスに乗り、駅の手前の世尊院前で降りる。中野区鷺宮と杉並区阿佐谷を通るから「中杉通り」か。<br /><br /> 豊島園(練馬城址)、中村八幡神社、鷺宮八幡神社(鷺宮大明神)、世尊院は鎌倉古道沿いにある。所沢道も気になる。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-68585352048048805432024-01-29T21:46:00.002+09:002024-01-29T21:46:21.283+09:00体内電池<p> 毎年一月二月は生活のリズムが不安定になる。<br /> 伊藤比呂美著『たそがれてゆく子さん』(中公文庫)所収「不眠」というエッセイに「昆布の薄皮」という言葉が出てくる(二〇二二年一月十一日のブログでも紹介した)。<br /><br />《頭のシワに、さば寿司にかかっているような昆布の薄皮がぴったり貼りついた気分である》<br /><br /> この数年、わたしは晴れの日一万歩(雨の日五千歩)の散歩を続けている。腰のあたりに貼るカイロもつけている。汁もの、炒めものにしょうが入れる。肉を食う。酒を減らす。睡眠をとる。<br /> 冬対策はそれなりにやっているのだが、それでも「昆布の薄皮」状態になる。今年もなってしまった。<br /> 一月二十三日、二十四日、二十五日の三日間——朝寝昼起、昼寝夜起、夜寝朝起と睡眠時間がズレ、体が重く、頭がぼんやりする日が続いた。<br /><br /> わたしはこの状態を「冬の底」と呼んでいる。<br /><br /> 古くなったバッテリーみたいなもので、こまめに充電していてもすぐ残量が数パーセントになる。不調時に焦ってもしょうがない。今は修復期くらいの気持でだらだら過ごすしかない。<br /><br /> 二十代のころはこの体内電池の残量が五%くらいになっても一晩寝ればフル充電状態に回復する。<br /> 四十代五十代になると電池の残量がわずかになると回復に三日、ヘタすると一週間くらいかかる。<br /><br /> 冬に体調を崩す人が多いのは日照時間が短いとかいろいろな説があるけど、寒中、体温の維持のため、普段以上にエネルギーをつかっているからではないか。体を冷やさず、ちゃんとメシを食い、よく寝る。冬を乗り切るにはそれしかない。 <br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-91285785612465322252024-01-22T16:46:00.004+09:002024-01-22T17:42:53.151+09:00心細し<p> 先週、池袋で打ち合わせ。目白駅から池袋まで歩く。途中、古書往来座、カフェ・ベローチェ南池袋一丁目店でコーヒー。池袋はベローチェが八店舗もある。高円寺には一軒もないので羨ましい(中野は三店舗)。</p> 往来座では森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫、一九七九年)など。学術文庫の『十六夜日記』は現在品切で古書価は定価の四倍くらいになっている。『十六夜日記』は鎌倉中期の日記文学——作者・阿仏尼は十代で出家し、その後、三十歳前後で藤原為家の側室になった。<br /><p> 一二七九(弘安二)年、阿仏尼は正妻との相続問題を幕府に訴えるため鎌倉に向かう。<br /><br /> 阿仏尼は一二二二(貞応元)年の生まれ(推定)。没年は一二八三(弘安六)年ごろ。<br /><br /> 同書「旅路の章」は不破の関、笠縫の駅、洲俣、一の宮などを通る美濃廻り東海道の旅の記録である。<br /><br /> 時代によって東海道は伊勢廻り、美濃廻りなど、コースがちがう。<br /> 現在の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。<br /> 街道史と鉄道史は密接な関係がある。「駅」という言葉にしても街道由来である。<br /><br /> 洲俣の注に「美濃の国安八郡。源を飛騨山に発し、尾張の国との境を流れる。当時はかなり大河だったらしい。古くは『更級日記』にもみえる」とある。</p><p>《二十三日、天竜の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔もおもひいでられて、いと心細し》<br /><br />《二十四日、昼になりて小夜の中山越ゆ》<br /><br /> 学術文庫の解説では西行の「いのちなりけり小夜の中山」を紹介している。<br /><br /> 西行は一一一八(元永元)年生まれ、一一九〇(文治六年)年没。阿仏尼が生まれる三十年ちょっと前に亡くなっている。年は百歳以上離れている。<br /><br /> 阿仏尼は西行の歌だけでなく、様々な逸話にも精通している。阿仏尼にとって西行は憧れの人だった。</p><p>『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』によると、古典語の「心細し」は「『源氏物語』などで一種の美感を示す語として用いられている」とある。<br /> 阿仏尼は西行が天竜川で武士に「人数が多い」と舟を降ろされ、鞭で打たれた逸話を思い出し、心細くなった。でも阿仏尼からすれば、天竜の渡りの「いと心細し」は単なる不安ではなく、かつて西行が渡った川を自分も渡ることにたいする感慨もあったかもしれない。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-38979974292112927032024-01-17T00:00:00.004+09:002024-01-22T06:42:50.151+09:00上路<p> 土曜昼すぎ西部古書会館。大均一祭初日(一冊二百円)——『別冊山と溪谷 歩く旅』(NO.1、一九九九年)含め九冊。『歩く旅』の特集は「中山道六十九次を歩く」。綴込付録「中山道533kmを歩く パーフェクト・ガイド&マップ」(三十五頁)。<br /> 午後三時、新中野まで散歩。途中、小雨そのあと雪(霙)がすこし降る。<br /><br /> 室町時代の作・謡曲「山姥」の百万山姥は琵琶湖北岸から礪波山へ。<br /> 礪波の関は万葉集——大友家持の歌「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添え君を留めむ」の歌でも知られる。<br /><br /> 礪波山は越中と加賀の国境にあり、標高二百七十七メートル。もうすこし高い山かとおもっていた。場所は金沢と高岡の中間くらい。北上すれば能登半島である。</p><p> 木下良編『古代を考える 古代道路』(吉川弘文館、一九九六年)の「北陸道 その計画性および水運との結びつき」(金坂清則)の付箋を貼ったところを読み返す。<br /><br />《京への公式日数は、越前が六日、加賀が八日、能登と越中が二七日、越後が三六日、佐渡が四九日であり、越後と佐渡の日数は出羽の五二日次いで長かった》<br /><br />「加賀が八日、能登と越中が二七日」——地図を見るとこんなに日数の差が出るのは信じ難い。それほど難路だったのか。古代の道、わからない。<br /><br /> 北陸道は「重要な水運ルート」で湊を兼ねる駅が多かった。積雪期に陸路が通れなくなると船で移動した。<br /><br /> 謡曲「山姥」の場合、百万山姥は従者を連れていて、途中、乗物(駕籠?)も利用している。琵琶湖以外は船に乗っていないと仮定すると京から礪波山まで十日、あるいは二週間くらいかかっているかもしれない。<br /><br /> 礪波山を経て、いよいよ百万山姥は境川へ。<br /><br />《雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとゞ都は遠ざかる、さかひ川にも着にけり》<br /><br /> 三越路(みこしじ)は越前・越中・越後の三国、または三国への道である。<br /> 越中と越後の境を流れる境川から山姥の里までは上路(あげろ)を通る。現在の県道115号と上路はほぼ重なっている。<br /><br /> 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂、一九七八年)の「滄海駅」の項に「境川を渡った後、さらに海岸をたどると親不知子不知の天険を通ることになる訳で、平野団三は『境川を過ぎた駅馬は上路を越え歌に下ったと思われる』と述べている」とある。<br /><br /> 百万山姥も親不知を避け、上路を通り、山姥の里に迷い込む。<br /><br /> 上路は滄海に通じる。滄海から信濃の善光寺までの道は謡曲「山姥」には記されていない。<br /> 古代の北陸道から善光寺までは水門(みと)から上越妙高を通る道がある。ちなみに、水門は現在の直江津あたり。古代の国府も直江津にあった。<br /><br /> 百万山姥の歩みに関して、糸魚川から姫川沿いに歩いて白馬経由で善光寺に向ったのではないかと考えていた。しかし海沿いの難路を迂回したことを考慮すると、多少遠回りになっても水門(直江津)から善光寺に向かう安全なルートを選んだかもしれない。</p><p> 仮に百万山姥が善光寺に辿り着いていたとしたら、帰路は東山道(中山道)を通った可能性もある。行きと帰りで別の道を通るのは江戸期の伊勢参りなどでもよくあった。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-70435957299348296662024-01-12T13:47:00.007+09:002024-01-12T17:05:13.475+09:00礪波山まで<p> 誰に頼まれたわけではないが、謡曲「山姥」の百万山姥の歩みを調べている。<br /> 百万山姥は京を出て、琵琶湖北岸から北陸道に向う途中、「愛発(あら地)」を通る。古代三関の愛発の関がどこにあるのか——古道に関する本を読んでも諸説いりみだれている。<br /><br /> 愛発関に限らず、和歌の歌枕の地でもそういうことがよくある。<br /> 白河の関(福島県白河市)の場所は江戸後期(一八〇〇年ごろ)に特定されたが、それまでは不明だった。</p><p> 謡曲「山姥」に出てくる地名は「あら地」を経て「袖に露ちる玉江のはし」「かけてすゑある越路の旅」「こずゑ浪立しほこしの」「あたかの松の夕けぶり」「きえぬうき身のつみをきるみだのつるぎのとなみ山」と続く。<br /><br /> わたしは「玉江のはし」がどこなのか見当もつかなかった(のでネットで検索した)。福井市花堂北に「玉江二の橋」という橋がある。JR北陸本線の越前花堂駅、福井鉄道福武線の花堂駅がもより駅で旧北陸道、狐川にかかる。玉江二の橋が謡曲「山姥」の「玉江のはし」と同じ場所かどうかはわからない。かつてこのあたりは湿地だったという説もあり、川の流れが変わることもある。<br />「こずゑ浪立しほこしの」の「しほこし」は「塩越(汐越)」で福井県あわら市——西行が歌を作っている。<br /><br />《夜もすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松》<br /><br /> あわら市は福井県と石川県の県境の市。二〇〇四年三月に坂井郡芦原町、金津町が合併してあわら市になった。<br /> 今年三月十六日、北陸新幹線芦原温泉駅が開業予定である。芦原温泉からは東尋坊も近い。<br /><br />「あたかの松」の「安宅(石川県小松市)」もかつて関所があった地で「勧進帳」の舞台である。小松空港のすぐそばだ。<br /><br />「となみ山」は「礪波山(富山県小矢部市)」で源平合戦で有名な倶利伽羅峠もある。倶利伽羅峠の戦い(一一八三年)は礪波(砺波)山の戦いともいう。<br /><br /> 謡曲「山姥」の信濃の善光寺行きの道のりは古代の関所、古戦場跡など史蹟めぐりもかねていたようだ。<br /> 室町時代は関所が乱立していた時代だった。関所を通るたびに関銭(通行料)がかかる。<br /><br /> 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社)には「文明十一年(一四七九)には、奈良から山城・近江をへて、美濃の明智に至る間に二十九関をもうけたと伝えている」とある。<br /><br /> 謡曲「山姥」の遊女が東山道(後の中山道)ではなく、北陸道から善光寺に向ったのは当時乱立していた関所を避けようとしたのかもしれない。ちがうかもしれない。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-83231565737562105842024-01-09T12:17:00.005+09:002024-01-11T02:13:56.591+09:00愛発関<p> 先週、西部古書会館で買った『古代の宮都 よみがえる大津京』(大津市歴史博物館、一九九三年)を読む。<br /> 前回のブログで「古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り」と書いたが、愛発関は七八九(延歴八)年に廃止されている。謡曲「山姥」は室町時代の作なので、厳密には「愛発(あら地)の関」ではなく「愛発(あら地)と呼ばれる山域」と書くべきだった。<br /><br /> 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社、一九六四年)の「天下の三関」の項には「三関とも近江の国境で大津の外側におかれていることから、大津京の守りのために設置されたのであろう」と記されている。<br /><br />『古代の宮都 よみがえる大津京』に「大津京時代の近江における東山道」(足利健亮)には、大津京(近江京)以前「東海道は飛鳥から出て伊賀盆地を経、柘植から鈴鹿を通って東国へ向かっていた」とある。後のJR関西本線に近いルートだ。ちなみに江戸期の東海道は柘植を通らない(近江の土山宿から鈴鹿峠を越える)。<br /><br /> 東海道も東山道も時代によって様々なルートがある。それを調べて何になるのか。小人が不善をなさないための閑つぶしになる。<br /><br />『完全踏査 古代の道』によると、古代三関のうち愛発関の場所は「考古学的な確証はまだ得られていないが、おおむね近世の塩津街道(現国道8号)と七里半越の西近江街道(現国道161号)との合流点である敦賀市疋田が有力視されている」とのこと。<br /><br /> 愛発関は疋田以外に新道野、追分、道ノ口、関屋などの説もある(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』大明堂、一九七八年)。<br /><br /> 謡曲「山姥」で百万山姥は、陸路ではなく、琵琶湖を船で渡り、そこから「あら地」を通る。<br /> 琵琶湖のどこまで船で行ったかで「あら地」への道も変わってくる。<br /> 仮に琵琶湖最北の塩津あたりまで船で行ってそこから陸路を辿ったとすると、百万山姥は近世の塩津街道(現国道八号)を通り、深坂峠から追分、疋田を通った可能性が高い。これはほぼ現在のJR北陸本線のルートなのである。<br /><br /> 古代三関の鈴鹿関、不破関も明治期に開通した鉄道のルートと重なることを考えると、愛発も北陸本線のどこかにあったのではなかろうかと想像する。<br /><br /> 街道の研究をしていると、つい水路のことを忘れがちである。とくに土地鑑のない場所だとそうなる。<br /><br /> 街道にかぎらず、何か一つのことに熱中している時期はそれ以外の視点を見失いやすい。</p><p> 今のわたしは古典を読んでいても、ストーリーより作中人物の移動のことばかり考えてしまう。何年か後に読み返したら「え? こんな話だったの?」となるかもしれない。若いころは地理や歴史をすっとばして人生の教訓みたいなものを探り当てたいとおもっていた。</p><p> そのときどきで読み方が変わる。読書は面白い。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-57697589526206350662024-01-06T18:50:00.007+09:002024-01-06T19:22:54.451+09:00北陸道<p> 土曜昼、今年最初の西部古書会館。後藤淑他編『元和卯月本 謡曲百番(全)』(笠間書院、一九七七年)など。<br /><br /> 年末、福原麟太郎の随筆を読み、謡曲「山姥」を知り、古代・中世の北陸道について調べていた。<br /> 謡曲「山姥」が作られた室町時代、京から善光寺に向かうさい、北陸道、中山道(東山道)のどちらがよく利用されたのか。<br /><br />「山姥」の遊女(百万山姥)は京から西近江街道を通って……と考えていたのだが、『謡曲百番(全)』を読むと「志賀のうら船こがれ行、末はあら地の山越えて、袖に露ちる玉江のはし(以下略)」とあった。<br /> 百万山姥は琵琶湖を船で渡り、古代三関(鈴鹿・不破・愛発)のうち、愛発(あら地)の関を通り、玉江のはしに至る。<br /><br /> 木下良監修、武部健一著『完全踏査 古代の道』(吉川弘文館、二〇〇四年)によると、北陸道は海岸の近くまで山が迫り、陸路の移動がむずかしかったので「水路あるいは海路による交通が盛んであった」そうだ。<br /><br /> ここ数年、愛読している『全国鉄道絶景パノラマ地図帳』(集英社、二〇一〇年)の大糸線の頁のパノラマ地図を見ると、山姥神社の近くの市振から親不知、青海(旧北陸本線、現えちごトキめき鉄道)にかけては海岸線と山が近い。『完全踏査 古代の道』でも「親不知は、古来から現在に至るまで交通の難所としては全国有数の場所である」と記されている。</p><p> 親不知〜青海の海岸の道はこんな感じだった。<br /></p><p>《ここを通る旅人は、切り立った海岸縁の断崖の下の狭い砂浜を、波が退いたときをねらって走り抜け、波が寄せたときは岩穴に身を避けて辛くも切り抜けた》(『完全踏査 古代の道』) <br /></p><p> 謡曲「山姥」の遊女は海岸沿いではなく、上路の里に迂回して山道で迷い、まことの山姥と出会う。<br /></p><p> ここから(作中には描かれていない)善光寺までの道のりが知りたい。「山姥」の里から青海まで出て、鉄道の大糸線に近いルートで姫川沿いの谷間を抜け、白馬〜簗場あたりから信濃の善光寺に向かったのか。直江津から信越本線に近いルートもあるが、室町時代の道路事情を考えると糸魚川〜直江津間も大変そうである。<br /><br /> 今すぐ答えが知りたいわけではないので気長に調べることにする(答えがあるのかどうかもわからない)。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-28726742841410661782024-01-04T14:29:00.003+09:002024-01-05T12:31:34.267+09:00冲方丁の読むラジオ<p> 元日午前中、JR総武線高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷寄り)から富士山を見る。雪が積もり、稜線らしきものが見える。湘南新宿ラインの武蔵小杉駅をすこし過ぎたところでも富士山が見えた。<br /><br /> 正月くらいはいいかと昼酒。夕方、能登半島地震のニュースを見る。<br /><br /> 今年の初読みは昨年十月刊の『サタデーエッセー 冲方丁の読むラジオ』(集英社文庫)——刊行後すぐ読んだので再読である。この本はNHKラジオ第一『マイあさ!』内の「サタデーエッセー」を元に書き下ろしたものだ。<br /><br /> 同書「約束されたレール」は著者が十四歳のときにネパールの学校で学んだことを紹介している。<br /><br />《責任というと日本ではルールを守らせるという風にとらえがちだと思うんですけれど、そうではなく、「あなたのマストは何だ」と、先生方や大人たちが訊いてくるんですね。自分にとって今最もやるべきことは何だ、それがどう将来につながるのかと》</p><p>《最初から「自分はこれをやるべきだ」と自覚し、「いずれこれを成し遂げるために研鑽する」といった意識がなければ、ただ周囲の状況に合わせた受動的な態度ばかりが身についてしまいます》<br /><br /> わたしはなるべく身軽に気楽に生きたいという欲求が強い。冲方さんの考え方や姿勢とはかなりちがうのだが、それでもこの文章は心に響いた。</p><p> 同書「正義感は正義ではない」に「正義中毒」という言葉が出てくる。<br /><br />「正義感」は社会の維持や改善に有用だが、そうではないこともある——という趣旨のエッセイだ。<br /> インターネット上のまちがった情報をうっかり信じてしまい、拡散してしたり、無実の人を誹謗中傷したりする。</p><p>《お酒を飲むことがやめられなくなるのと同じように、「正義感」から行動することがやめられなくなるのであれば。立派な病気と考えるべきでしょう》<br /><br /> 冲方さんは「正義感」こそが、今もっとも警戒すべき感情だという。自分の正しさに酔い、人を裁く。「正義中毒」になると、その気持よさに抗えなくなる。だからこそ「正義感」の抑制が重要になる。自分の感情が不安定なときは情報と距離をとり、いったん熱を冷ます。</p><p> わたしは散歩をすすめたい。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-85607947203054822972023-12-29T15:01:00.009+09:002024-01-08T00:42:02.242+09:00山姥<p> 気がつけば年末、やや低迷気味の一年、充電の年だったと前向きに考えることにする。<br /><br /> 土曜日(二十三日)、午後三時すぎに起き、午後四時前に西部古書会館。入口前のガレージで福原麟太郎の『詩心私語』(文藝春秋、一九七三年)を見つける。二百円。ずっと探していたのだ。嬉しい。白い背表紙の「人と思想」シリーズの一冊で二段組五百頁超(「チャールズ・ラム傳」が丸々収録されている)。<br /><br /> 同書「芸術の鬼」に次のような一節がある。<br /><br />《芸術は真似事である。真似事は技巧であり、形である。そしてまた伝習でもある。しかし、技巧や形や伝習ばかりでは芸術は生きることが出来ない》<br /><br /> 福原麟太郎は謡曲「山姥」について考察しつつ、芸術に「生命」を与えるものは何かを問う。<br /><br /> 京の遊女が信濃の善光寺詣での途中、越中越後の境の山で道に迷い、山姥と出会う。山姥は遊女に“山姥”を題材にした曲舞を所望する。もともと遊女は“山姥”の曲舞を得意としていたが、まことの山姥は彼女の芸にたいし「心を失っている」と手厳しい。<br /><br /> 遊女が出会った山姥は芸の精神を伝える「霊鬼」でもあった。<br /><br />《芸術というのはその鬼を探す仕事、鬼に触れる経験である》<br /><br /> 初出は一九四一年九月——福原麟太郎四十六歳。<br /><br />《生命のある芸術が生れるときには、何かしらの精神を掴まえているのであるが、それが形として技巧として伝えられてゆくうちにその精神を失ってしまい、心を取り違えた技術がそれから派生してはびこる。これを芸術の堕落という》<br /><br /> 舞台に立ち、場数を踏む。技術が向上し、形が洗練され、安定してくる。同時に初々しさ、緊張感が失われる。技巧を磨くことは容易ではないが、心に響く芸に至るにはそれだけでは足りない。<br /> 仮に演者の側に「鬼」が宿っていたとしても、観る側聴く側が感じとれないこともあるだろう。</p><p>「芸術の鬼」の話から横道にそれるけど、「山姥」の遊女が京から東山道(中山道)ではなく、北陸道を通り、信濃に至る道筋が気になる。京から善光寺に行く場合、琵琶湖西岸から敦賀あたりに出て北陸道経由のほうが近いのか。さらに船をつかえば、かなり早く辿り着ける。<br /><br /> 地図を見ると、えちごトキめき鉄道の市振駅の東南に山姥神社がある。謡曲「山姥」の物語がこの地(糸魚川市上路)に民間伝承として伝わっている。上路の里、行ってみたいが、大変そうだ。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-26711617060760148212023-12-22T02:20:00.008+09:002023-12-22T02:29:54.959+09:00暮らしの型<p> 二十年くらい前に買ったコタツから異音が出るようになったので、ヒーターの部分だけ買って取り換えた。新しいコタツのヒーターは省エネタイプで、今のところ快適である。<br /> コタツヒーターは「弱」から「強」の間に五段階のメモリがあるのだが「弱」でもけっこう暖い。</p><p> 部屋の掃除中、安田武、野添憲治編『暮らしの型再耕』(現代書館、一九九二年)をぱらぱら読む。一九八二年八月号から『望星』で連載していた座談会(鼎談)をまとめたもの——安田武は一九八六年十月、六十三歳で亡くなっているから、没後しばらくして刊行された本ということになる。安田さん、野添さん、武者小路規子さんとの鼎談「生活の周辺をいかに耕すか」でこんな話をしている。<br /><br />《いまの日本の、特に都会の生活のテンポは早過ぎるというか、適正じゃない。どこか山奥深いところにでも隠遁して暮らさない限り、どうしても回りの時間に引きずられてしまいますね》(武者小路さんの言葉)<br /><br /> 四十年以上前の発言である。今、生活のテンポはもっと早くなっているだろう。とくに仕事は、周囲のテンポと足並みを揃えることが求められ、いつも急かされるような圧を受ける。また日常の選択肢が多すぎて、やらなくてもいいことをやって余裕を失うこともある。<br /><br />《今後いかにわれわれ自身が自己抑制を回復していかなきゃならないかということですね》(安田さんの言葉)<br /><br />《人間は本来、五感で生きているはずなのに、いまは二感か、三感でしか生きていない。だから身体全体で見たり、聴いたり、さわったり、感じたりしていく部分がものすごく少なくなってきた》(野添さんの発言)<br /><br />『暮らしの型再耕』の多田道太郎がゲストの鼎談「遊びは生活を深める」では、原っぱの喪失についても論じている。<br /><br />《昔といまの遊びを比較して、一番大きな変化は何だろう? 僕は路地がなくなったこと、広く言えば原っぱがなくなったことが第一だと思う》(安田さんの言葉)<br /><br />《しかし、京都には原っぱはほとんどなかったからなあ。奥野健男氏も『文学の原風景』の中で「原っぱ論」を展開していたけれど、安田さんもそういう思い出があるんだな》(多田さんの言葉)<br /><br />——奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない。同書は一九八九年に増補版も出ている。古書価高い。<br /> 橋本治が講演で「原っぱの論理」を語ったのは一九八七年十一月だから『暮らしの型再耕』のほうがちょっと先か。安田武と橋本治、歌舞伎が好きだったり、いろいろ共通点がある。『些末事研究』の福田賢治さんは、安田武の影響をけっこう受けているようにおもう。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-62358963099775955672023-12-11T13:48:00.007+09:002023-12-30T06:14:59.126+09:00水屋<p> 金曜日、西部古書会館で歳末赤札古本市。大野利兵衛訳編『外人記者のみた横浜 “ファー・イースト”にひろう』(よこれき双書、一九八四年)ほか、郷土史の冊子、パンフレットを買う。<br /><br />『外人記者のみた横浜』の「水屋」一八七〇(明治三)年八月の記事を読む。<br /><br /> 水屋は肩に棒をのせ、その両端に桶をつり下げ、水を運ぶ仕事である。当時、横浜の外国人居留地は塩水の沼地を埋め立てた町ということもあって、給水は水屋が頼りだった。<br /><br />《多くの場合、彼らは毎日一定量の水を配って、毎月安い運び料をもらっている。一方、家の使用人とともに一定期間雇われ、水運びの仕事のみならず、すべての力仕事に使われる場合もある》<br /><br /> 昔の話を読むと、蛇口をひねれば、水やお湯が出る暮らし——というのは夢のような話なのだな。何でもそうだが、どんなに便利なものでも普及するとありがたみが薄れる。ふとサッカーの故イビチャ・オシム監督の「水を運ぶ人」という言葉を思い出した。<br /><br /> 夕方、野方まで散歩、途中、大和北公園のイチョウを見る。<br /><br /> 十二月になると毎年のように時間が経つのは早いなとおもう。一年で自分にできることはほんのちょっとしかない。<br /> 一年通して首、肩、腰、膝のどこかしらが痛い(今は右肩)。仕事のトラブルをどうにか乗り切ったかなとおもったら、住居の水回りその他の問題で右往左往——一難去ってまた一難のくりかえしである。無理をすれば体のあちこちガタがくるし、住まい(賃貸)は直しても直してもすぐどこか壊れる。まあそういうものだと諦めている。<br /><br /> 世の中への興味とか自分の将来の不安とか、本を読むにしてもそのきっかけみたいなものがある。しかし四十代以降、そうしたきっかけ待ちで何かをする余裕がなくなった気がする。<br /><br /> やる気がまったくなくても仕事をしたり、家事をしたり、散歩したり、習慣によって頭や体を動かしているようなところがある。それでもささやかな喜び、小さな達成感みたいなものが得られる。そんな感じで年をとり、いずれは終わりの日を迎える。</p><p> 明日、水回りの工事があるのでこれから掃除する。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-8987374062518926862023-12-05T09:47:00.006+09:002023-12-05T18:48:49.367+09:00古書店マップ<p> 金曜午前中、西部古書会館。平日開催。『中央線沿線古書店ガイドブック』(東京都古書籍商業協同組合中央線支部、一九八五年)、『かながわ古書店地図帖』(神奈川古書籍商業協同組合、一九九三年)、『大阪古書店案内』(大阪府古書籍商業協同組合、一九九三年)『埼玉県古書店地図』(埼玉古書籍同業組合、一九九四年)、『古書マップ 愛知・岐阜・三重』(尾洲会、一九九四年)、『京都古書店巡り』(京都古書籍商業協同組合、一九九六年)、『増補改訂 大阪古書店案内 平成10年版』(大阪府古書籍商業協同組合、一九九八年)『二〇〇一年版 大阪古書店案内』(大阪府古書籍商業協同組合、二〇〇一年、CDROM付)など、昔の古書店マップをいろいろ買う。前の持ち主の書き込みも参考になる。</p><p> 一九八五年の中央線沿線のマップの高円寺のところを見ると十九軒。同じところで営業しているのは南口の大石書店だけ。二十代から三十代にかけて巡回して
いた都丸書店、飛鳥書房、青木書店、佐藤書店、西村屋書店も今はない。この三十年、神奈川、埼玉の古書店の数もずいぶん減ってしまった。</p><p> 店内が薄暗くてレジの後ろのガラスケースの中に稀少本が並んでいるような古本屋も少なくなった。<br /></p><p> この日、西部古書会館の収穫は『児玉幸多翁追悼文集』(二〇〇八年)——街道関係の著作をたくさん書いている歴史家の小冊子。二百円。それから奈良の街道冊子を数冊。街道本、郷土史関係の小冊子がまとめて出品されているのを見ると同じ人が集めていたのかなと……。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-72194666118585665752023-11-21T13:03:00.005+09:002023-12-01T14:00:58.956+09:00停年<p>『現代の随想 福原麟太郎集』(河盛好蔵編、彌生書房、一九八一年)の「停年」を読む。<br /><br />《停年というのは、普通、銀行会社などでは五十五歳だそうだが、私の勤めていた大学(東京文理科大学)では六十歳であった》<br /><br /> 福原麟太郎が大学を退職したのは一九五五年三月、その四ヶ月後に心臓病になり、半年近く入院した。糖尿病だったこともわかった。自分の病気に気づかなかった。教師をやめる前、「講演をたのまれれば講演をし、委員を依頼されれば委員を勤めた」。<br /><br />《つまり、心臓病にしても糖尿病にしても、疲れすぎてはいけないということで、これは停年に近くなったかたがたに、是非注意していただきたいことである》<br /><br /> わたしは今月五十四歳になった。七十年前であれば、停年一年前だ。今は七十年前ではないし、働かずに暮らせる身ではない。それでも仕事にせよ遊びにせよ、減速を心がけようという気持になっている。蔵書にしても増やすのではなく、減らす方向に舵を切るべきだろうと考えている(気が変わる可能性もある)。<br /><br /> 五十歳すぎたあたりから体が疲れにたいしていろいろなシグナルを発するようになった。素直に従うのみである。<br /><br /> 体の老いよりも厄介なのは精神もしくは感情の老いかもしれない。<br /><br /> 福原麟太郎は「停年」の中で「静かに過すことを習え」という古人の言葉を紹介している。もっとも福原自身は「のんびりした途端に病気になってしまった」とも述べている。</p><p> 平穏に暮らすのは簡単ではない。</p><p>(付記)『福原麟太郎集』の出版社名をまちがえていました(メールで教えてもらった)。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-51111189985875529502023-11-20T19:08:00.005+09:002023-11-21T11:26:54.306+09:00コタツメモ<p> 今年は十一月十二日(日)にコタツ布団とハロゲンヒーターを出した。十三日(月)には長袖ヒートテックを着た。貼るカイロは十八日(土)に貼った。神経痛の二、三歩手前の症状(手のひらにピリっとした痛み)があったので活動を控え、湿布を貼る。この時期、体調を崩しやすいので何事も慎重になる。 <br /></p><p> この一、二年、自分の足に合う靴をいろいろ試しているのだが、爪先が窮屈だったり、理想に近い靴は値段が高かったりして、まだまだ模索中といったところだ。<br /> 今、愛用している靴も雨の日に弱い(それ以外は快適なのだが)。同じメーカーの全天候型の靴を買ったのだけど、履くときにちょっと窮屈な感じがする。むずかしい。<br /><br /> 服に関しても着心地を重視しているのだけど、これもしばらく着てみないとわからない。同じメーカーのシャツでも肩や首のあたりがちょっときつく感じるものがある。せっかく買ったのだからと我慢して着る。洗濯しているうちにほどよくなじむこともあるが、それまでの辛抱が面倒くさい。というわけで、衣替えのさい、寸法その他しっくりこなかった服を処分した。<br /></p><p> 五十代以降、大きな変化は望まなくなったが、その分、日々の微調整に神経をつかうようになった。日課の散歩もそのひとつである。最初のうちはそんなに調子がよくなくても、歩いているうちにすこしずつ元気になる。</p><p> 元気にならなかったら、諦めてだらだらする。</p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-26569157051406363222023-11-08T13:30:00.003+09:002023-11-20T19:10:10.825+09:00中年散歩道楽<p> 都内、十一月に入って夏日(二十五℃以上)を記録。毎年十一月のはじめにコタツ布団を出しているのだが、今年はまだである(コタツ布団の洗濯はすませた)。<br /></p><p>……というわけで、告知を一つ。</p>◎十一月十八日(土)十五時〜十七時、佐藤徹也さんとの「中年散歩道楽」というトークショーに出演します(チャージは1000円)。<p>佐藤徹也 新著『東京近郊徒歩旅行――絶景・珍景に出会う』(朝日文庫)&荻原魚雷 新著『100年前の鳥瞰図で見る 東海道パノラマ遊歩』 (ビジュアルだいわ文庫)W刊行記念 <br /><br />◎本の長屋<br />高円寺の古本居酒屋コクテイル書房の阿佐ヶ谷寄り三軒目、四軒長屋の一角を改装したシェア型書店です。<br />〒166-0002 東京都杉並区高円寺北3-8-13<br /><br />◎お申込みはこちらから。
日付、イベント名、お名前、ご連絡先をお書きいただき下記のメルアドまでお送りください。<br />honnonagaya@gmail.com<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-31994280.post-17644179325434002922023-11-03T20:12:00.001+09:002023-11-03T20:42:04.275+09:00一週間<p> 今年の神田古本まつりは十月二十七日、十一月一日、二日——御茶ノ水、神保町での仕事(対談やら何やら)のついでに寄った。『国指定史跡 草津宿本陣』(史跡草津宿本陣、二〇〇六年)、『ビデオガイドブック 人生は映画で学んだ』(河出書房新社、一九九四年)など十冊ほど。『人生は映画で学んだ』の巻頭は橋本治「その頃僕はそこにいた」。橋本治、十八頁も書いている(他の執筆者は三頁くらい)。<br /><br />《初めて『ウエスト・サイド物語』を見たのは中学三年の時だった。世界は一九六二年で、僕は一四歳だった》<br /><br /> 神田古本まつり開催の間、土・日・月(十月二十八日〜十月三十日)は三重と大阪へ。<br /> 小田急で新宿から小田原まで行って、こだま(駅近くの金券ショップの自販機で切符を買った)で浜松、JR在来線で浜松から豊橋、それから豊橋から名鉄、近鉄と乗り継いで三重に帰省した。<br /> 名鉄の沿線、鎌倉古道(二村山、豊明市沓掛町など)に寄りたかったのだが、今回は見送り。知立駅から名古屋駅に向かうつもりが、津島線直通の電車だったので遠回りして弥富駅まで行く。途中下車しなかったが、旧鎌倉街道――萱津宿の近くを通る(新川橋駅、須ヶ口駅)。<br /> 弥富駅はJRと名鉄、あとちょっと離れたところに近鉄弥富駅もある。弥富は佐屋街道(宮〜桑名)、巡見街道(亀山〜関ヶ原)などが通る。<br /><br /> 久々に近鉄四日市駅で降り、近鉄百貨店内の歌行燈でうどんを食う。<br /><br /> 新幹線で名古屋まで一本で行くより、適当に途中下車しながらのんびり移動するほうが楽しい。青春18きっぷの時期だと、ほぼJRの在来線の移動になるので、それ以外の時期はなるべく私鉄に乗りたくなる。清水吉康の地図(『東海道パノラマ遊歩』ビジュアルだいわ文庫)を見ながら、車窓からの景色をチェックする。<br /><br /> 旅行中は一日二万歩くらい(約三時間歩く)。体力を温存しつつ、休憩多めに歩くようにしている。足の裏全体に体重が分散するウォーキングシューズ、快適である。そんなに疲れない。<br /><br /> 翌日、日帰り(三重に)で大阪(茨木市)に行く。行きは近鉄(伊勢中川から特急に乗る)+環状線(鶴橋駅から大阪駅)+阪急。茨木市立中央図書館で富士正晴の講演会。講師は世田谷ピンポンズさん。講演&ライブ(十曲以上歌ったのではないか)。富士正晴の詩にも曲をつけていた。いい講演だった。</p><p> 来年は中山道をもうすこし歩きたい。<br /></p>荻原魚雷http://www.blogger.com/profile/07735496491598599004noreply@blogger.com