お金がないときはお金がないときなりの楽しみ方がある。五冊百円の文庫本の均一台でも探せばおもしろい本はある。ほんとうにお金に困ったら、古本屋に売るという手もある。
古本業界では、本は買うより売るほうがむずかしいという格言がある。売ることはほんとうに勉強になる。
たいていはじめのうちは、予想よりはるかに安く買い取られ、落ち込む。「もう二度と売るもんか」とおもう。店で高く売っていたとしても、高く買ってもらえるわけではない。逆に安くていい本を売っている店が、期待以上の値段をつけてくれることもある。こればっかりは売ってみないとわからない。
よくいわれるのは店の人と親しくなるのがいちばんいい。ただし親しくなるまで時間がかかる。わたしもずいぶん時間がかかった。店の人と親しくなると、ヘンな本を買うのが恥ずかしくなるとおもって、あんまり近づかないようにしていた。
ただ知りあいになると、古本屋さんはいろいろなことを教えてくれる。
濡れた傘を店にもちこまないとか平台の上にカバンを置かないといったマナー(古本は返品がきかないから、とにかく本をいためる行為はご法度)も教えてもらったし、古本を高く売るコツも教わった。
・本は店に持ち込む
・いちどに大量に売らない。
・ジャンルを分けて売る。
・引っ越しシーズンをさける。
もちろん教わった通り実行しているわけではないが、なにごとも経験だ。売っているうちにいろいろわかってくる。
小分けに売るのは、めんどくさい。でも手間をかけずに得しようとおもうのは虫のいい話だ。ただ、まとめて売って、時間を節約して、その分仕事をすればいいという考え方もある。
それなりに自分が苦労して買った本を売る。査定される。昔はその査定が低いと、自分も低く見られているような気がした。
今はそうおもわない。本は本だ。市場にたくさん出まわっている本は安くて当然だし、在庫がダブついている本も安くなる。本の中身のよしあしとは関係ない。
一度か二度、本を売ってみて、それがあまりにも安くて、売るのがいやになったという人はけっこういるとおもう。
あんまりむずかしくかんがえず、自分が好きな店で売るのがいいかもしれない。
多少予想より安くても、その店が続いてくれたら、それでいいと……そこまで寛容な気持にはなかなかなれないけれど、まあ、部屋が片づいたことをよしとしようとおもえばあきらめもつく。
2006/08/13
あとひと部屋
『別冊新評 星新一の世界』(新評社、一九七六年)に「本」と題したエッセイが収録されている。
《本、すなわち書物というものは、私にとってふしぎな存在である。なぜか捨てる気にならないのだ》
書斎を作ったが、すぐ本でいっぱいになった。そして「まあ二度と読まないだろうと思われる本を、百冊ずつ二回」古本屋に売った。
《しかし、こんな程度の処分では、焼け石に水。わが家の本は間断なくふえつづけている》
星新一は組立式の物置を敷地に一部に立てた。さらに家を大改造して書庫を作った。この書庫は「かなりの費用をかけた」。レールを敷いた移動式の書架を三台導入したのだ。しかしすぐ本でいっぱいになった。某所に別荘を建て、「日当たりの悪い部分を利用して、大きな書庫を作った」という。
《それにしても、読書家やほかの作家たちはどうしているのだろう》
読書家のひとりとして、この三十年前の星さんの問いに答えたいとおもう。
二DKで妻とふたり暮らしをしているわたしは買った分だけ売っている。
本棚からはみだした本をどんどんダンボールにいれて、その箱が六〜八箱くらいになったら古本屋に売る。紙袋にいれて、自転車でちょくちょく近所の古本屋に持っていったりもする。ほぼ毎月、二ヶ月に一度は本を売っていることになる。
ただ、そうするしかないからそうしているだけで、そうしなくてもいいのならそうしたくない。
近所に月八千円のトランクルームがある。たぶん借りれば、八百冊くらいは入るとおもう。今年なんどかその倉庫を管理している会社に電話をしようとした。
しかし月八千円×一二ヶ月で九万六千円。年間約十万円である。おそらくそのトランクルームにいれた本はそうしょっちゅう読むことはない。いや、まず読まない。読まない本のために年十万円。近所の飲み屋で酒が五十回飲める。
そんな計算をして、借りるのをやめる。
家のちかくに四畳半か六畳の風呂なしの部屋を借りようとおもうこともある。
JR中央線の高円寺だと、四畳半なら二万円台、六畳なら三万円台の部屋を借りることができるだろう。
部屋ならちょっとした仕事部屋にもなるし、また遠くから友だちが遊びに来たとき、宿泊所にもなる。
古本好きの知りあいの何人かはこの方法をとっている。「あんまり家から遠いとつらいよ。歩いて五分くらいが限度だよ」と助言された。
散歩の途中、不動産屋の貼り紙を見ながら物件をさがした。いや、今のところ貼り紙を見るだけで、中にはいったことはない。決断しかねているのである。
家賃月三万円とすると、年三六万円。さらに電気ガス水道の基本料金もかかる。生活するわけではないが、最低でも月五千円くらいはかかる。仕事部屋にするなら電話もほしい。エアコンもほしい。コタツもほしい。
いろいろ合わせると年四十万円くらいになる。さらに二年に一度更新料もかかる。
四十万円、安くはない。安いとおもうようなら、こんなことで悩まない。今より年収が四十万円くらい安いときでも生活できたことを考えると、ぜったいに無理とはいえない金額である。そこがむずかしいところである。
もし車を持っていれば、駐車場が月三万円。ガソリン代やその他もろもろの金をいれると、年四、五十万円はかかるだろう。幸い、わたしは自動車の免許をもっていない。別に車もほしくない。
だったら、いいんじゃないか? 本のためにもうひと部屋借りても……。
あとひと部屋でいいのだ。一部屋があれば、押入の中で眠っている本が片づくし、本棚からあふれだした本も片づくし、読み返すことはそうないけど売りたくない本を収容することもできる。
あとひと部屋があれば、今の悩みは解決するのだ。ただし、その悩みは解決するようで解決しないこともわかっているのだ。今よりも広い部屋にひとりで暮らしていたときも、「あとひと部屋ほしい」とおもっていたのだ。
あとひと部屋借りる。一年も住めば、その部屋は本でいっぱいになるだろう。さらに本でいっぱいになるだけではなく、住居とその部屋の往復、掃除やたまった資料の整理などの雑用も増える。家賃も増え、その分、仕事も増える。
結局、本を読む時間が減ることになる。
いやでもしかし、わたしは年間どのくらいの時間本の置き場所のことで悩んでいるだろうか? ほぼ毎日のように悩んでいるといってもいい。その時間もっと有意義なことにつかえば、立派な人間になれるかもしれない。その分、仕事をしようとおもうかもしれない。
……と、そんなことをずっと考えている。おなじことを考え続けている。「タバコをやめれば……」とよくおもうが、おもうほど簡単に実行できない。人生、そういうことが多すぎる。
「ぐだぐだ考えているひまがあれば、とりあえず動いてみることだよ」
人にはいえる。いくらでもいえる。自分のことになると、そうはいかないものだ。
動くときは、衝動とか激情とかにかられて後先かんがえずに動いてしまう。なぜだろう。すくなくとも自分とはおもえない決断をしてしまうことがある。AかBかで悩んでいるときに発作的にCを選んでしまうことがある。
そういえば、引っ越しや旅行はけっこう衝動でする。結婚もそうだった。
今住んでいる部屋も、「あとひと部屋、近所に風呂なしの四畳半はないかな」とおもって、高円寺の賃貸アパートマンション情報のホームページを見ていたら、急に引っ越したくなって、朝一で不動産屋に駆け込んで即決した。
その半年前に前の部屋の更新料を払ったばかりだったのに、なぜそんな決断ができたのか理解できない。
引っ越しする理由もしない理由もいくらでもある。いくらでもある理由は、たいていなんの役にも立たないのだ。
そもそも日々買っている本だって、買う買わないの理由はいろいろあるけど、ほしいとおもう気持が決め手になる。ほしい本はいつもわけもわからずほしくなるのだ。
住みたい部屋があれば、無理をしてでも引っ越しする。
本を置くための部屋は、住みたいという気持があまりない。家のそばで安ければなんでもいい。だから決められないのかもしれない。
これまでの自分の行動から推測すれば、たぶん、なにもかんがえずに散歩をしている最中に、衝動で借りてしまう可能性が高い。それがいつなのかはわからない。
あと星新一とわたしのちがいは(というか、共通点なんてほとんどないよ)、自分の場合、本が捨てられるのである。長年の経験で、売れそうにない本はすぐわかる。たとえば、カバーのついていない本(しかも希少価値のない本)はまず売れない。
いらなくて売れない本が捨てられるようになったのは、二度の立退のせいである。
二度の立退は、わたしの何かを変えた。
立退のあと引っ越した部屋はいずれも前の部屋よりも狭くなった。
蔵書だけでなく、本箱も捨てた。本箱を捨てるのは、本を捨てるよりも、もっとつらかった。粗大ごみなので、捨てるのにお金がかかるからだ。
これまで本棚を十架以上捨てた(半分は人にあげたのだが)。
収入も増えたり減ったり、部屋も広くなったり狭くなったりする。
本を増やし続けられる人生をうらやましくおもうこともあるが、無理なことを望まない節度ある生活もきらいではない。
欲をいえばキリがない。
なんどそう己に言い聞かせてきたことか。
でもキリがないくらい強い欲に突き動かされたいとおもうこともよくある。
《本、すなわち書物というものは、私にとってふしぎな存在である。なぜか捨てる気にならないのだ》
書斎を作ったが、すぐ本でいっぱいになった。そして「まあ二度と読まないだろうと思われる本を、百冊ずつ二回」古本屋に売った。
《しかし、こんな程度の処分では、焼け石に水。わが家の本は間断なくふえつづけている》
星新一は組立式の物置を敷地に一部に立てた。さらに家を大改造して書庫を作った。この書庫は「かなりの費用をかけた」。レールを敷いた移動式の書架を三台導入したのだ。しかしすぐ本でいっぱいになった。某所に別荘を建て、「日当たりの悪い部分を利用して、大きな書庫を作った」という。
《それにしても、読書家やほかの作家たちはどうしているのだろう》
読書家のひとりとして、この三十年前の星さんの問いに答えたいとおもう。
二DKで妻とふたり暮らしをしているわたしは買った分だけ売っている。
本棚からはみだした本をどんどんダンボールにいれて、その箱が六〜八箱くらいになったら古本屋に売る。紙袋にいれて、自転車でちょくちょく近所の古本屋に持っていったりもする。ほぼ毎月、二ヶ月に一度は本を売っていることになる。
ただ、そうするしかないからそうしているだけで、そうしなくてもいいのならそうしたくない。
近所に月八千円のトランクルームがある。たぶん借りれば、八百冊くらいは入るとおもう。今年なんどかその倉庫を管理している会社に電話をしようとした。
しかし月八千円×一二ヶ月で九万六千円。年間約十万円である。おそらくそのトランクルームにいれた本はそうしょっちゅう読むことはない。いや、まず読まない。読まない本のために年十万円。近所の飲み屋で酒が五十回飲める。
そんな計算をして、借りるのをやめる。
家のちかくに四畳半か六畳の風呂なしの部屋を借りようとおもうこともある。
JR中央線の高円寺だと、四畳半なら二万円台、六畳なら三万円台の部屋を借りることができるだろう。
部屋ならちょっとした仕事部屋にもなるし、また遠くから友だちが遊びに来たとき、宿泊所にもなる。
古本好きの知りあいの何人かはこの方法をとっている。「あんまり家から遠いとつらいよ。歩いて五分くらいが限度だよ」と助言された。
散歩の途中、不動産屋の貼り紙を見ながら物件をさがした。いや、今のところ貼り紙を見るだけで、中にはいったことはない。決断しかねているのである。
家賃月三万円とすると、年三六万円。さらに電気ガス水道の基本料金もかかる。生活するわけではないが、最低でも月五千円くらいはかかる。仕事部屋にするなら電話もほしい。エアコンもほしい。コタツもほしい。
いろいろ合わせると年四十万円くらいになる。さらに二年に一度更新料もかかる。
四十万円、安くはない。安いとおもうようなら、こんなことで悩まない。今より年収が四十万円くらい安いときでも生活できたことを考えると、ぜったいに無理とはいえない金額である。そこがむずかしいところである。
もし車を持っていれば、駐車場が月三万円。ガソリン代やその他もろもろの金をいれると、年四、五十万円はかかるだろう。幸い、わたしは自動車の免許をもっていない。別に車もほしくない。
だったら、いいんじゃないか? 本のためにもうひと部屋借りても……。
あとひと部屋でいいのだ。一部屋があれば、押入の中で眠っている本が片づくし、本棚からあふれだした本も片づくし、読み返すことはそうないけど売りたくない本を収容することもできる。
あとひと部屋があれば、今の悩みは解決するのだ。ただし、その悩みは解決するようで解決しないこともわかっているのだ。今よりも広い部屋にひとりで暮らしていたときも、「あとひと部屋ほしい」とおもっていたのだ。
あとひと部屋借りる。一年も住めば、その部屋は本でいっぱいになるだろう。さらに本でいっぱいになるだけではなく、住居とその部屋の往復、掃除やたまった資料の整理などの雑用も増える。家賃も増え、その分、仕事も増える。
結局、本を読む時間が減ることになる。
いやでもしかし、わたしは年間どのくらいの時間本の置き場所のことで悩んでいるだろうか? ほぼ毎日のように悩んでいるといってもいい。その時間もっと有意義なことにつかえば、立派な人間になれるかもしれない。その分、仕事をしようとおもうかもしれない。
……と、そんなことをずっと考えている。おなじことを考え続けている。「タバコをやめれば……」とよくおもうが、おもうほど簡単に実行できない。人生、そういうことが多すぎる。
「ぐだぐだ考えているひまがあれば、とりあえず動いてみることだよ」
人にはいえる。いくらでもいえる。自分のことになると、そうはいかないものだ。
動くときは、衝動とか激情とかにかられて後先かんがえずに動いてしまう。なぜだろう。すくなくとも自分とはおもえない決断をしてしまうことがある。AかBかで悩んでいるときに発作的にCを選んでしまうことがある。
そういえば、引っ越しや旅行はけっこう衝動でする。結婚もそうだった。
今住んでいる部屋も、「あとひと部屋、近所に風呂なしの四畳半はないかな」とおもって、高円寺の賃貸アパートマンション情報のホームページを見ていたら、急に引っ越したくなって、朝一で不動産屋に駆け込んで即決した。
その半年前に前の部屋の更新料を払ったばかりだったのに、なぜそんな決断ができたのか理解できない。
引っ越しする理由もしない理由もいくらでもある。いくらでもある理由は、たいていなんの役にも立たないのだ。
そもそも日々買っている本だって、買う買わないの理由はいろいろあるけど、ほしいとおもう気持が決め手になる。ほしい本はいつもわけもわからずほしくなるのだ。
住みたい部屋があれば、無理をしてでも引っ越しする。
本を置くための部屋は、住みたいという気持があまりない。家のそばで安ければなんでもいい。だから決められないのかもしれない。
これまでの自分の行動から推測すれば、たぶん、なにもかんがえずに散歩をしている最中に、衝動で借りてしまう可能性が高い。それがいつなのかはわからない。
あと星新一とわたしのちがいは(というか、共通点なんてほとんどないよ)、自分の場合、本が捨てられるのである。長年の経験で、売れそうにない本はすぐわかる。たとえば、カバーのついていない本(しかも希少価値のない本)はまず売れない。
いらなくて売れない本が捨てられるようになったのは、二度の立退のせいである。
二度の立退は、わたしの何かを変えた。
立退のあと引っ越した部屋はいずれも前の部屋よりも狭くなった。
蔵書だけでなく、本箱も捨てた。本箱を捨てるのは、本を捨てるよりも、もっとつらかった。粗大ごみなので、捨てるのにお金がかかるからだ。
これまで本棚を十架以上捨てた(半分は人にあげたのだが)。
収入も増えたり減ったり、部屋も広くなったり狭くなったりする。
本を増やし続けられる人生をうらやましくおもうこともあるが、無理なことを望まない節度ある生活もきらいではない。
欲をいえばキリがない。
なんどそう己に言い聞かせてきたことか。
でもキリがないくらい強い欲に突き動かされたいとおもうこともよくある。
2006/08/05
二DKの読書生活
自分にとって必要な本を残し、不必要なものは売る。もしくは捨てる。その判断はむずかしいがおもいきって決断するしかない。理想をいえば、もっと広い部屋に住みたい。でもその分、家賃も高くなる。家賃が高くなれば当然生活が苦しくなる。すると今度は本が買えなくなる。本を買うために仕事を増やすと、本をさがす時間と読む時間がなくなる。
もうすこし家賃の安い郊外に引っ越すという手もあるが、今度は交通費その他の行動の不自由が出てくる。
今、住んでいるところは二DKのマンションだが、同居人がいる。同居人はマンガの編集者なので、毎日のように漫画を買う。今わが家は玄関から台所からトイレ押入れまで本だらけといった状態だ。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)
もうすこし家賃の安い郊外に引っ越すという手もあるが、今度は交通費その他の行動の不自由が出てくる。
今、住んでいるところは二DKのマンションだが、同居人がいる。同居人はマンガの編集者なので、毎日のように漫画を買う。今わが家は玄関から台所からトイレ押入れまで本だらけといった状態だ。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)
2006/08/01
本のマナー
五年ほど前、立退きをせまられ引っ越しをすることになった。
七月末、テレビで毎日のように熱中症のニュースが報じられているころだった。からだの水分がすべて入れ替わるくらい汗をかいた。
それにしても本は重い。
ヤマト運輸でアルバイトしている友人と元ペリカン便のセールスドライバーの友人に手伝ってもらった。
彼らは本の多い家の引っ越しがいちばんいやだといっていた。
ダンボールにぎっしり詰めこんであったりすると、プロでもキツいのだそうだ。
愛書家なら、引っ越しや古本屋に本を売るとき、運ぶときに苦にならないような荷造りをするべきだとおもう。
わたしはペットボトルのダンボールをよく利用する。一・五リットル×八本と二リットル×六本のものがある。コンビニやスーパーに行けば、いくらでももらえる(店によってはすぐ裁断してしまうところがあるので、前もって必要な数をいっておくといい)。
文庫がちょうど三列はいる(二リットル×六)。単行本のおさまりもよい。ちなみにCDやレコードもうまい具合にはいる。
二段、三段に積んでおけるし、それほど重くならない。以前、本を売ったときに使ってみたら、「これは運びやすいですね」と古本屋さんにも好評だった。
とはいえ、二百箱以上になると話は別だ。結局、新居には三分の二しか運ぶことができず、残りは売ることになった。
本のマナーについていろいろ考えてみたい。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)
七月末、テレビで毎日のように熱中症のニュースが報じられているころだった。からだの水分がすべて入れ替わるくらい汗をかいた。
それにしても本は重い。
ヤマト運輸でアルバイトしている友人と元ペリカン便のセールスドライバーの友人に手伝ってもらった。
彼らは本の多い家の引っ越しがいちばんいやだといっていた。
ダンボールにぎっしり詰めこんであったりすると、プロでもキツいのだそうだ。
愛書家なら、引っ越しや古本屋に本を売るとき、運ぶときに苦にならないような荷造りをするべきだとおもう。
わたしはペットボトルのダンボールをよく利用する。一・五リットル×八本と二リットル×六本のものがある。コンビニやスーパーに行けば、いくらでももらえる(店によってはすぐ裁断してしまうところがあるので、前もって必要な数をいっておくといい)。
文庫がちょうど三列はいる(二リットル×六)。単行本のおさまりもよい。ちなみにCDやレコードもうまい具合にはいる。
二段、三段に積んでおけるし、それほど重くならない。以前、本を売ったときに使ってみたら、「これは運びやすいですね」と古本屋さんにも好評だった。
とはいえ、二百箱以上になると話は別だ。結局、新居には三分の二しか運ぶことができず、残りは売ることになった。
本のマナーについていろいろ考えてみたい。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)
売るべき本の基準
本でも映画でも音楽でもそうなのだろうが、読む力、見る力、聴く力があればあるほど、たのしめるという作品がある。逆に、読む力や見る力や聴く力がわざわいして愉しめないこともある。
わたしはあまり映画を見ない。映画を見ることにも慣れていない。だからその年の大ヒット映画を(テレビとかで)見ると、たいていはおもしろい。お金のかかっている映画を見ると、得した気分になる。
すると、年数百本映画を観ている知り合いは怪訝な顔をして「あの映画は、○○と比べたら、ぜんぜんだめだね」といったりする。正直、あまりいい気持はしない。
しかしこれが本になると、わたしも同じことをおもう。書評の仕事をしている関係で年に百冊くらい新刊本は読む。さらに趣味で古本を同じかそれ以上読む。「泣いた、感動した」といわれるような作品を読むたびに「え? どこが?」とおもう。
かつて自分が読んだ名作と比べ、「ぜんぜんだめ」とおもってしまうのだ。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)
わたしはあまり映画を見ない。映画を見ることにも慣れていない。だからその年の大ヒット映画を(テレビとかで)見ると、たいていはおもしろい。お金のかかっている映画を見ると、得した気分になる。
すると、年数百本映画を観ている知り合いは怪訝な顔をして「あの映画は、○○と比べたら、ぜんぜんだめだね」といったりする。正直、あまりいい気持はしない。
しかしこれが本になると、わたしも同じことをおもう。書評の仕事をしている関係で年に百冊くらい新刊本は読む。さらに趣味で古本を同じかそれ以上読む。「泣いた、感動した」といわれるような作品を読むたびに「え? どこが?」とおもう。
かつて自分が読んだ名作と比べ、「ぜんぜんだめ」とおもってしまうのだ。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)