日曜日、昼起きて西部古書会館の古書展を見たあと(つい習性で……)、不忍ブックストリートの一箱古本市に行ってきた。天気もいいし、人もたくさん来ている。
「谷根千」(谷中・根津・千駄木)は、ふつうに町歩きするだけでも楽しい。
出発はオヨヨ書林。景気づけに退屈文庫で久保田二郎の『ニューヨーク大散歩』(新潮文庫)を一冊。
地図を見ながら歩いていると、次々と知りあいに声をかけられる。
「あ、こんにちは」
「どこがおもしろかったですか」
「なにかいい本、買えましたか」
一箱古本市のようなイベントのおかげで、ほんとうにいろいろな人に会って話ができるようになった。それまでは古本祭に行っても、人とぶつかりながらひたすら古本を買うみたいなかんじだったからなあ。
にぎやかでなごやかな新しい「古本文化」が誕生しているとおもった。
喫茶「乱歩゜」に向かっていると、古書現世の向井さんと会い、「晶文社の宮里さんと退屈くんがいますよ」と教えてもらう。乱歩前では「森茉莉かい堂」さんで大岡昇平の『ゴルフ 酒 旅』(番町書房)を買わせていただく。
そのあと「乱歩゜」で宮里さんと退屈くんと退屈くんの友だちと休憩していると、往来堂書店で『古本暮らし』(晶文社)を売っているのでサインをしてきてほしいと頼まれる。
ハイ、よろこんで。
とはいえ、人前で小学校高学年くらいのときに進歩が止まってしまった字を書くのはとても恥ずかしい。
サインをすませ、店長に挨拶して逃げるように退散。途中、古本カフェ「BOUSINGOT」を見てから、古書ほうろうにむかう。あんまり荷物が重くなると困るなあとおもい、ブレーキをかけながら本を買っていたのだけど、古書ほうろうの前でスイッチがはいってしまい、「しのばずくんトート」の助けを借りる状態に。
ほうろうの店内で古本を見ていたら古書往来座の瀬戸さんに会う。
「いい店だねえ」
とわたしがいうと、
「ほんと、なんか小股がきゅっとするかんじですよね」と瀬戸さん。
ですよねといわれても、わけがわからん。
ほうろうでは、大木實の詩集『故郷』(櫻井書店)を買う。初版ではなく三版。序文は高村光太郎。後記には、尾崎一雄の名前も出てくる。
《いちどでいい
聲をあげてこころから笑つてみたい
それだけである
それだけのことが私を悲しくする》( 願い )
店を出て、ふらふら歩いていたら、書肆アクセスの畠中さん(すでに酔っ払っている)と会い、いっしょに「貸はらっぱ音地」に行く。
お酒も売っているし、高野ひろしさんの写真展もやっているし、包丁とぎもやっているし、古書往来座の一箱はとんでもないことになっているし……。
ここだけで月一回くらい小さなお祭りをやってもいいんじゃないかとおもうくらいよかった。
あまりにも居心地がよくて完全にくつろいでしまう。
おかげでほとんどの会場をまわることができず。計画性なし。
午後六時からの打ち上げまですこし時間があったので、根津神社にふらっと行ってみたら縁日をやっていた。タコ焼きを買って、神社内の露店を見ていると、橋幸夫(と若草児童合唱団)の『子連れ狼/刺客道』(ビクター)のシングルレコードがあるではないか。値段は四百円。おもわず、手にとり、小島剛夕の描いたジャケットに見とれていたら、店のおじさんが「二百円でいいよ」という。もちろん買う。
「しとしとぴっちゃん・しとぴっちゃん・しとぴっちゃん」で有名な曲(作詞・小池一雄)だけど、二番のでだしは「ひょうひょうしゅるる・ひょうしゅるる・ひょうしゅるる」で、三番は「ぱきぱきぴきんこ・ぱきぴんこ・ぱきぴんこ」って知ってた?
ちなみに「ぱきぴんこ」は、霜をふむ音である。
根津神社から不忍通りふれあい館に向かって歩いていくと、「大阪の狆」あらため「高円寺の狆」こと前田青年が「今、仕事終わって来たところなんですよお」とかけよってくる。
自分があまりしらない町の路上でこんなに知人に会うのはおもしろい。
前田君といっしょに会場にはいり、各賞の受賞を見る。
会場を出て、売り上げ点数二位の「犀は投げられた!」のメンバーと小宴会をする。
「わたしも売り上げ点数二位になったことあるんですよ。第1回の一箱古本市で」
「店の名前は何だったんですか?」
「……文壇高円寺です」
さあ、次は「外市」だ。
わたしも「わめぞ」(早稲田、目白、雑司が谷)の第二回外市の一箱ゲストとして参加することになりました。
「外、行く?」 第2回 古書往来座外市 〜軒下の小さな古本祭〜
日時:5月5日(土)〜6日(土) 雨天決行!
初日 5日 11:00〜22:00
二日目6日 11:00〜17:00(往来座は22:00まで営業)
場所:古書往来座
〒171-0022 東京都豊島区南池袋3丁目8-1ニックハイム南池袋1階 古書 往来座
電話番号:03-5951-3939(電送番号同)
会場では『古本暮らし』のサイン本も発売する予定です。
2007/04/28
古本暮らしのこと
単行本『古本暮らし』(晶文社、一七〇〇円+税)が出ました。
はじめての単行本です。
晶文社ワンダーランドに「散歩は古本屋巡礼」(「出版ダイジェスト」(二〇〇七年五月一日号)の「散歩は古本屋巡礼」をもとに改稿)というエッセイが掲載されました。
*
「神保町ライター」という言葉がありますが、どちらかというと、わたしは中央線沿線の古本屋ばかりまわっているフリーライターです。
このたび『古本暮らし』(晶文社)と題する本を書きました。古本屋通いをはじめたのは高校時代、最初は大正アナキズムに興味を持つようになったのですが、そうすると新刊書店ではなかなかそのての本が売っていないので、どうしても古本屋に行くしかなく、しかも当時、三重県の田舎に住んでいたため、電車に乗って、名古屋や大阪や京都の古本屋に行ってました。
十九歳で上京後、『評伝辻潤』などの著作で知られる玉川信明さんと知り合い、アナキズムから辻潤、辻潤から吉行エイスケ、さらにその息子の吉行淳之介、それから第三の新人や同世代の「荒地」の詩人といったかんじで詩や文学に興味がひろがっていって、だんだん古本屋通いも本格化し、気がついたときにはかなり重度の活字中毒になっていました。
上京してしばらくして高円寺に住むようになったのですが、この界隈だけでも二十件以上の古本屋や古本を売っている飲み屋、古着屋、古道具屋、レンタルビデオ屋があり、さらに西部古書会館で月に三回くらい古書展が開催されていて、中央線沿線の中野駅から吉祥寺駅のあいだに百軒以上の古本屋があり、そのあたりを毎日のように巡回しています。もちろん神保町、早稲田の古本街、京都、大阪の古本祭にも行きます。年間三百六十日くらい古本屋に通っているかもしれません。仕事中も古本のことばかり考えています。
二十代はずっと食うや食わずの生活で、原稿の発表場所は、ミニコミや同人誌、小出版社の雑誌が中心だったので、年収百万円をきることもよくありました。こんなに食えないのによくやめなかったとおもいます。
そんな自分の人生の転機になったのは、高円寺のある飲み屋で知り合った岡崎武志さんに『sumus』という京都で発行していた書物同人誌にさそっていただいたことです。そのことがきっかけで、古本や文学のことを書くようになり、四年前に『sumus』に発表したエッセイを林哲夫さんに『借家と古本』(スムース文庫)という小冊子にまとめてもらいました。
この冊子はすぐ完売し、しばらく品切になっていたところ、こんどは高円寺の古本酒場コクテイルの狩野俊さんがぜひ復刻したいといってくれて、昨年秋に増補版が出ています。
そうこうするうちに、今回の『古本暮らし』の単行本の話が決まりました。編集者は中川六平さん。中川さんは、坪内祐三著『ストリートワイズ』、高橋徹著『古本屋月の輪書林』、内堀弘著『石神井書林日録』、田村治芳著『彷書月刊編集長』、石田千著『月と菓子パン』(いずれも晶文社)などを手がけた名(迷?)編集者ですが、そんな中川さんに最初の単行本を作ってもらえたことは、ほんとうにうれしくおもっています。
もともと中川さんとも十数年前に高円寺の飲み屋で知り合いました。数年前に「編集の仕事を手伝ってくれよお」という電話があって、飲むことになって、いろいろ話をしているうちに、中川さんが新人の本が作りたいというので「じゃあ、わたしの本はどうですか」というような流れで出来たのがこの本です(くわしくはあとがきを読んでください)。
装丁は間村俊一さん、装画は『sumus』の林哲夫さんにお願いしました。ふたりは大西巨人の『神聖喜劇』(光文社文庫)などを手がけ、わたしの「古本道」の大先輩にもあたります。
『古本暮らし』を簡単に説明すると、高円寺在住のひまな中年男が町を散歩して古本を買ったり、部屋の掃除をしたり、自炊したり、酒を飲んだりしている日常をつづったエッセイ集です。
天野忠、鮎川信夫、色川武大、梅崎春生、尾崎一雄、神吉拓郎、小島政二郎、十一谷義三郎、辻潤、西山勇太郎、庄司(金子)きみ、古山高麗雄、山田稔、吉行淳之介といった詩人や作家も登場します。
当り前のことですが、本を買えば、本が増えます。部屋の壁はすべて本、床も本、そして台所や玄関、トイレにも本……。
さらに本を買うとお金がかかります。本を買うために仕事をすれば、本を探す時間と読む時間がなくなります。
古本マニアにとっての永遠の葛藤といえるでしょう。わたしもまたひまさえあれば、生活と仕事の両立、読書と仕事の両立についてかんがえてばかりいて、そんなことを考えているあいだに仕事をするか、本を読めばいいのにとおもうこともよくあります。
本を買うために、上京以来、髪もずっと自分で切り、外食もほとんどせず、服もめったに買っていません。いまだに携帯電話もなく、車の免許もクレジットカードもありません。
長年そういう生活をしているおかげで、倹約の知恵と家事のノウハウだけでは身につけることができました。
洋服ダンスは、いつも二、三割空けておくのが理想とよく整理術の本に書いてありますが、同様に、本棚もいつも余裕のある状態にしておけば、本もすぐ見つかるし、気持よく本が買えます。しかしそれがおもいのほか困難であることは、本好きにとってはいうまでもない悩みです。
おもいきった処置が必要なのはわかっているのですが、おもいきるための心の準備はなかなかできないのです。
《本も売ったり買ったりしているうちに、自分がほんとうに必要とする本がわかってくるのかもしれない。でもそれがわからないうちは手あたりしだいに買うしかない。
なにを残し、なにを売るか。バランスをとるのがいいのか。偏ったほうがいいのか。ひとつのテーマを追いかけるのがいいのか。なんにでも対処できるように懐を深くかまえていたほうがいいのか。
なにかしらの制約を自分で決めないときりがない。
向き不向き、要不要。その見極めはとてもむずかしい》(「要不要」/『古本暮らし』に所収)
限られたお金と時間と本の置き場所をどう有効に活用するかということは本好きにとっての切実なテーマです。
わたしは、本を読むことによって、知識を増やすだけでなく、自分の考えを深めたり、感覚を鍛えたりしたい。そういう意味では『古本暮らし』は、自分中心の読書のすすめになっているかなとおもいます。
とはいえ、毎日古本屋に通っていると、読書にたいする飢餓感がうすれてきますし、いろいろな本を読んでいるうちに、それなりに目が肥えてしまって、なかなか自分を満足させる本を見つけることがむずかしくなります。
好きな作家の本をたいてい読みつくし、未読のものはあと残りわずか。その残りわずかの本は、当然、入手難ということになります。読書家ならかならず経験する、そうした低迷、停滞をどう乗りこえるか、もしくはやりすごせばいいのかということもこの本のテーマになっています。
あと、どうすれば古本屋に高く本を売ることができるかという長年の経験をふまえたコツのようなものもいろいろ書いたつもりです。
はじめての単行本です。
晶文社ワンダーランドに「散歩は古本屋巡礼」(「出版ダイジェスト」(二〇〇七年五月一日号)の「散歩は古本屋巡礼」をもとに改稿)というエッセイが掲載されました。
*
「神保町ライター」という言葉がありますが、どちらかというと、わたしは中央線沿線の古本屋ばかりまわっているフリーライターです。
このたび『古本暮らし』(晶文社)と題する本を書きました。古本屋通いをはじめたのは高校時代、最初は大正アナキズムに興味を持つようになったのですが、そうすると新刊書店ではなかなかそのての本が売っていないので、どうしても古本屋に行くしかなく、しかも当時、三重県の田舎に住んでいたため、電車に乗って、名古屋や大阪や京都の古本屋に行ってました。
十九歳で上京後、『評伝辻潤』などの著作で知られる玉川信明さんと知り合い、アナキズムから辻潤、辻潤から吉行エイスケ、さらにその息子の吉行淳之介、それから第三の新人や同世代の「荒地」の詩人といったかんじで詩や文学に興味がひろがっていって、だんだん古本屋通いも本格化し、気がついたときにはかなり重度の活字中毒になっていました。
上京してしばらくして高円寺に住むようになったのですが、この界隈だけでも二十件以上の古本屋や古本を売っている飲み屋、古着屋、古道具屋、レンタルビデオ屋があり、さらに西部古書会館で月に三回くらい古書展が開催されていて、中央線沿線の中野駅から吉祥寺駅のあいだに百軒以上の古本屋があり、そのあたりを毎日のように巡回しています。もちろん神保町、早稲田の古本街、京都、大阪の古本祭にも行きます。年間三百六十日くらい古本屋に通っているかもしれません。仕事中も古本のことばかり考えています。
二十代はずっと食うや食わずの生活で、原稿の発表場所は、ミニコミや同人誌、小出版社の雑誌が中心だったので、年収百万円をきることもよくありました。こんなに食えないのによくやめなかったとおもいます。
そんな自分の人生の転機になったのは、高円寺のある飲み屋で知り合った岡崎武志さんに『sumus』という京都で発行していた書物同人誌にさそっていただいたことです。そのことがきっかけで、古本や文学のことを書くようになり、四年前に『sumus』に発表したエッセイを林哲夫さんに『借家と古本』(スムース文庫)という小冊子にまとめてもらいました。
この冊子はすぐ完売し、しばらく品切になっていたところ、こんどは高円寺の古本酒場コクテイルの狩野俊さんがぜひ復刻したいといってくれて、昨年秋に増補版が出ています。
そうこうするうちに、今回の『古本暮らし』の単行本の話が決まりました。編集者は中川六平さん。中川さんは、坪内祐三著『ストリートワイズ』、高橋徹著『古本屋月の輪書林』、内堀弘著『石神井書林日録』、田村治芳著『彷書月刊編集長』、石田千著『月と菓子パン』(いずれも晶文社)などを手がけた名(迷?)編集者ですが、そんな中川さんに最初の単行本を作ってもらえたことは、ほんとうにうれしくおもっています。
もともと中川さんとも十数年前に高円寺の飲み屋で知り合いました。数年前に「編集の仕事を手伝ってくれよお」という電話があって、飲むことになって、いろいろ話をしているうちに、中川さんが新人の本が作りたいというので「じゃあ、わたしの本はどうですか」というような流れで出来たのがこの本です(くわしくはあとがきを読んでください)。
装丁は間村俊一さん、装画は『sumus』の林哲夫さんにお願いしました。ふたりは大西巨人の『神聖喜劇』(光文社文庫)などを手がけ、わたしの「古本道」の大先輩にもあたります。
『古本暮らし』を簡単に説明すると、高円寺在住のひまな中年男が町を散歩して古本を買ったり、部屋の掃除をしたり、自炊したり、酒を飲んだりしている日常をつづったエッセイ集です。
天野忠、鮎川信夫、色川武大、梅崎春生、尾崎一雄、神吉拓郎、小島政二郎、十一谷義三郎、辻潤、西山勇太郎、庄司(金子)きみ、古山高麗雄、山田稔、吉行淳之介といった詩人や作家も登場します。
当り前のことですが、本を買えば、本が増えます。部屋の壁はすべて本、床も本、そして台所や玄関、トイレにも本……。
さらに本を買うとお金がかかります。本を買うために仕事をすれば、本を探す時間と読む時間がなくなります。
古本マニアにとっての永遠の葛藤といえるでしょう。わたしもまたひまさえあれば、生活と仕事の両立、読書と仕事の両立についてかんがえてばかりいて、そんなことを考えているあいだに仕事をするか、本を読めばいいのにとおもうこともよくあります。
本を買うために、上京以来、髪もずっと自分で切り、外食もほとんどせず、服もめったに買っていません。いまだに携帯電話もなく、車の免許もクレジットカードもありません。
長年そういう生活をしているおかげで、倹約の知恵と家事のノウハウだけでは身につけることができました。
洋服ダンスは、いつも二、三割空けておくのが理想とよく整理術の本に書いてありますが、同様に、本棚もいつも余裕のある状態にしておけば、本もすぐ見つかるし、気持よく本が買えます。しかしそれがおもいのほか困難であることは、本好きにとってはいうまでもない悩みです。
おもいきった処置が必要なのはわかっているのですが、おもいきるための心の準備はなかなかできないのです。
《本も売ったり買ったりしているうちに、自分がほんとうに必要とする本がわかってくるのかもしれない。でもそれがわからないうちは手あたりしだいに買うしかない。
なにを残し、なにを売るか。バランスをとるのがいいのか。偏ったほうがいいのか。ひとつのテーマを追いかけるのがいいのか。なんにでも対処できるように懐を深くかまえていたほうがいいのか。
なにかしらの制約を自分で決めないときりがない。
向き不向き、要不要。その見極めはとてもむずかしい》(「要不要」/『古本暮らし』に所収)
限られたお金と時間と本の置き場所をどう有効に活用するかということは本好きにとっての切実なテーマです。
わたしは、本を読むことによって、知識を増やすだけでなく、自分の考えを深めたり、感覚を鍛えたりしたい。そういう意味では『古本暮らし』は、自分中心の読書のすすめになっているかなとおもいます。
とはいえ、毎日古本屋に通っていると、読書にたいする飢餓感がうすれてきますし、いろいろな本を読んでいるうちに、それなりに目が肥えてしまって、なかなか自分を満足させる本を見つけることがむずかしくなります。
好きな作家の本をたいてい読みつくし、未読のものはあと残りわずか。その残りわずかの本は、当然、入手難ということになります。読書家ならかならず経験する、そうした低迷、停滞をどう乗りこえるか、もしくはやりすごせばいいのかということもこの本のテーマになっています。
あと、どうすれば古本屋に高く本を売ることができるかという長年の経験をふまえたコツのようなものもいろいろ書いたつもりです。
2007/04/23
木の芽時
学生のころは四月になると、進級や進学などがいろいろあって、変化にとんだ季節だったようにおもえた。大学を中退して、フリーライターになってからは、これといってなんてことのない月である。気がつけば、ゴールデンウィークに突入し、それがすぎれば、夏がくる。
自由業というのは、変化がありそうでないものだ。生活は不安定だが、その不安定さはわりと一定している。忙しかった月の翌月か翌々月は収入が増え、ひまだった月の翌月か翌々月は収入が減る。基本はそのくりかえしである。
それでも四月は、情緒不安定になりやすい。わたしは例年、穀雨(四月二十日ごろ)のころが、ちょっとだめだ。
藤巻時男著『天氣と元氣』(文藝春秋、一九六〇年)という本を読んでいたら、「春は冬の寒さが夏の暑さに変わる時期であり、秋は寒い冬のおとずれる季節で、どちらもお天気の変動激しく、寒暖交互に来たり、降ったり照ったり、体に対して色々の刺戟が加えられる試練の時であります」と書いてあった。
試練の時か。そうかもしれない。ただ、そうとわかっていれば、すこしは気も楽になる。
不安な気分になったときは、半分くらいは天候のせいだとおもえばいいのである。
(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)
自由業というのは、変化がありそうでないものだ。生活は不安定だが、その不安定さはわりと一定している。忙しかった月の翌月か翌々月は収入が増え、ひまだった月の翌月か翌々月は収入が減る。基本はそのくりかえしである。
それでも四月は、情緒不安定になりやすい。わたしは例年、穀雨(四月二十日ごろ)のころが、ちょっとだめだ。
藤巻時男著『天氣と元氣』(文藝春秋、一九六〇年)という本を読んでいたら、「春は冬の寒さが夏の暑さに変わる時期であり、秋は寒い冬のおとずれる季節で、どちらもお天気の変動激しく、寒暖交互に来たり、降ったり照ったり、体に対して色々の刺戟が加えられる試練の時であります」と書いてあった。
試練の時か。そうかもしれない。ただ、そうとわかっていれば、すこしは気も楽になる。
不安な気分になったときは、半分くらいは天候のせいだとおもえばいいのである。
(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)
2007/04/21
酒ヲノモウカ
連日、神保町に通い続ける。一昨日は、仕事の前にダイバーの「ふるぽん秘境めぐり」をのぞく。店主にあいさつすると、わたしの名前から坊主頭の大男をイメージしていたといわれる。仕事のあと、吉祥寺の「百年」という古本屋に行き、『現代詩手帖』(一九七九年五月号)の「特集ライト・ヴァース」を買う。
ライト・ヴァースには、いろいろ定義があることを知る。理屈っぽくて読んでいていやになる。
それからまんだらでペリカンオーバードライブのライブを見る。お互い家を行き来して夜から昼にかけて酒を飲んでいたこのバンドのギタリストが亡くなって二年ちょっとになる。四人組のバンドが三人組になって、しばらくのあいだはいないはずのギターの音が頭の中でずっと流れていたのだが、すっかり三人組の軽快な音になっていた。どんどんすごくなっている。
いっしょに出演していたバンドはヘタすると二十歳くらい若い。四十代でロックンロールを続けるのはすごいことである。
ライブのあと閉店まぎわのバサラブックスに寄り、三木卓の『日々のたわむれ』(福武書店)を買って、そのあと福井さんといっしょに古本酒場コクテイルに飲みに行く。酔っ払う。
昨日、書肆アクセスで畠中さんに取り寄せてもらっていた近代ナリコさんの新刊『どこか遠くへ ここではないどこかへ 私のセンチメンタル・ジャーニー』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を受け取る。旅の本だけど、ただの旅の本ではない。数ページごとにはっとする言葉が出てくる。
仕事場で読んでいたら、まっすぐ家に帰りたくない気分になり、早稲田で途中下車する。午後七時前に古書現世をおとずれると、やはりというかなんというか飲み会があるというので参加させてもらう。酒が飲みたくなると、閉店まぎわの古本屋に行くというのは、どうかとおもうが、いいのである。
それにしてもみんな酔うのが早い。一まわり以上若い書店員さんとアナキズムの話で盛りあがる。自分が二十四歳のときはどんなかんじだったのかなあ。学生時代から知りあいのなつかしい顔にもひさしぶりに再会する。
「変わってないねえ」
そうかね。
しばらく飲んでいると、古書現世の向井さんから、紙袋にはいった本を渡される。
辻征夫詩集『いまは吟遊詩人』(思潮社)の「黒田三郎様」あての署名本だ。向井さんはまもなく出る予定のわたしの本の出版記念にこの本をプレゼントしてくれた。辻征夫は少年時代から大酒飲みの詩人、黒田三郎が好きだった。もちろん、わたしはこのふたりの大ファンである。
すごくうれしい。家宝にしたい。
《酒ヲノモウカ……
ハア……
で のみはじめる
私はいつものように静かにのむ
しらふで酒のむのにさわぐなんて
私のしようにあわない
一杯のむ すると
二杯目はもうしらふじやないわけだ理論的には
どこかで 新宿ブルースがきこえていた
それから あとはおぼろ……》
(「ある訪問から」抜粋/『今は吟遊詩人』)
辻征夫著『ゴーシュの肖像』(書肆山田)に、「将棋」という題のエッセイがあって、そこにはこんなことが書いてある。
《将棋を始めたのは、三十歳を過ぎてから。二十代のときの詩をまとめて『いまは吟遊詩人』を出したら、何もすることがなくなってしまったような気持ちになって、そんなときふとしたきっかけで百科事典の「将棋」を引いてみたのが最初です。ノートを取ってそれを見ながら指しました。
将棋の本も、並べれば二メートルくらい読んだけれど、理論的なところはいつもさーっと読みとばして、棋士たちのエピソードとかその他のところばかり読んだみたいです。彼ら、時代小説に出てくる剣客、それから詩人みたいなところもあってとても好きです》
わたしも将棋の本は、そういう読み方しかしていない。羽生善治さんをはじめ、同世代のプロの棋士の考え方、将棋に打ち込む姿勢にはすごく刺激を受けている。
齢をとる。体力や記憶力がおとろえる。それをどうやっておぎなうか。
彼らはいつもわたしよりすこし早く、そしてかなり深く、そういうことをかんがえている。
ここのところわたしも「何もすることがなくなってしまったような気持ち」になっているのだが、そういうこともあるよなあ、と今は楽観している。時間がたってみないとわからないことはいろいろある。
自分がどこに向かっているのかわからない。いっぽうでは安易な目標をもちたくないというおもいもある。しばらくはなりゆきにまかせてみたい。おもいどおりにならないことやおもいがけないことをいろいろ味わってみたい。
《なあ おれたち
こうしてうろついてばかりいて
きつとこのままとしとるな
二十代の次には 三十代がくる
その次は たぶん 四十代だな》
( 「きみがむこうから…」抜粋/『今は吟遊詩人』 )
二十代のころは、このままとしをとるのかとよくおもっていたが、おもいどおりにとしはとれない。
いっしょに酒を飲んでいた友人がいなくなってしまうこともある。
今日は酒を飲まないつもりだったが、やっぱり飲んでしまった。
ライト・ヴァースには、いろいろ定義があることを知る。理屈っぽくて読んでいていやになる。
それからまんだらでペリカンオーバードライブのライブを見る。お互い家を行き来して夜から昼にかけて酒を飲んでいたこのバンドのギタリストが亡くなって二年ちょっとになる。四人組のバンドが三人組になって、しばらくのあいだはいないはずのギターの音が頭の中でずっと流れていたのだが、すっかり三人組の軽快な音になっていた。どんどんすごくなっている。
いっしょに出演していたバンドはヘタすると二十歳くらい若い。四十代でロックンロールを続けるのはすごいことである。
ライブのあと閉店まぎわのバサラブックスに寄り、三木卓の『日々のたわむれ』(福武書店)を買って、そのあと福井さんといっしょに古本酒場コクテイルに飲みに行く。酔っ払う。
昨日、書肆アクセスで畠中さんに取り寄せてもらっていた近代ナリコさんの新刊『どこか遠くへ ここではないどこかへ 私のセンチメンタル・ジャーニー』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を受け取る。旅の本だけど、ただの旅の本ではない。数ページごとにはっとする言葉が出てくる。
仕事場で読んでいたら、まっすぐ家に帰りたくない気分になり、早稲田で途中下車する。午後七時前に古書現世をおとずれると、やはりというかなんというか飲み会があるというので参加させてもらう。酒が飲みたくなると、閉店まぎわの古本屋に行くというのは、どうかとおもうが、いいのである。
それにしてもみんな酔うのが早い。一まわり以上若い書店員さんとアナキズムの話で盛りあがる。自分が二十四歳のときはどんなかんじだったのかなあ。学生時代から知りあいのなつかしい顔にもひさしぶりに再会する。
「変わってないねえ」
そうかね。
しばらく飲んでいると、古書現世の向井さんから、紙袋にはいった本を渡される。
辻征夫詩集『いまは吟遊詩人』(思潮社)の「黒田三郎様」あての署名本だ。向井さんはまもなく出る予定のわたしの本の出版記念にこの本をプレゼントしてくれた。辻征夫は少年時代から大酒飲みの詩人、黒田三郎が好きだった。もちろん、わたしはこのふたりの大ファンである。
すごくうれしい。家宝にしたい。
《酒ヲノモウカ……
ハア……
で のみはじめる
私はいつものように静かにのむ
しらふで酒のむのにさわぐなんて
私のしようにあわない
一杯のむ すると
二杯目はもうしらふじやないわけだ理論的には
どこかで 新宿ブルースがきこえていた
それから あとはおぼろ……》
(「ある訪問から」抜粋/『今は吟遊詩人』)
辻征夫著『ゴーシュの肖像』(書肆山田)に、「将棋」という題のエッセイがあって、そこにはこんなことが書いてある。
《将棋を始めたのは、三十歳を過ぎてから。二十代のときの詩をまとめて『いまは吟遊詩人』を出したら、何もすることがなくなってしまったような気持ちになって、そんなときふとしたきっかけで百科事典の「将棋」を引いてみたのが最初です。ノートを取ってそれを見ながら指しました。
将棋の本も、並べれば二メートルくらい読んだけれど、理論的なところはいつもさーっと読みとばして、棋士たちのエピソードとかその他のところばかり読んだみたいです。彼ら、時代小説に出てくる剣客、それから詩人みたいなところもあってとても好きです》
わたしも将棋の本は、そういう読み方しかしていない。羽生善治さんをはじめ、同世代のプロの棋士の考え方、将棋に打ち込む姿勢にはすごく刺激を受けている。
齢をとる。体力や記憶力がおとろえる。それをどうやっておぎなうか。
彼らはいつもわたしよりすこし早く、そしてかなり深く、そういうことをかんがえている。
ここのところわたしも「何もすることがなくなってしまったような気持ち」になっているのだが、そういうこともあるよなあ、と今は楽観している。時間がたってみないとわからないことはいろいろある。
自分がどこに向かっているのかわからない。いっぽうでは安易な目標をもちたくないというおもいもある。しばらくはなりゆきにまかせてみたい。おもいどおりにならないことやおもいがけないことをいろいろ味わってみたい。
《なあ おれたち
こうしてうろついてばかりいて
きつとこのままとしとるな
二十代の次には 三十代がくる
その次は たぶん 四十代だな》
( 「きみがむこうから…」抜粋/『今は吟遊詩人』 )
二十代のころは、このままとしをとるのかとよくおもっていたが、おもいどおりにとしはとれない。
いっしょに酒を飲んでいた友人がいなくなってしまうこともある。
今日は酒を飲まないつもりだったが、やっぱり飲んでしまった。
2007/04/16
箱の日
昨日(十五日)は西荻窪の昼市に行ってきた。この日は昼本市(ひるほんいち)もやっていて、軒先で箱にいれて古本を売っていた。午後二時すぎに行くと、退屈男君と書肆アクセスの畠中さんが並んで古本を売りながらビールを飲んでいたので、酒宴にまぜてもらう。
天気もよく、インド料理屋とタイ料理屋に囲まれたほそい路地なので、飲んでいるうちに旅先にいるような、いい気分になる。バサラブックスの福井さんにハンサム食堂の人を紹介してもらう。
退屈君が気になるといって注文した「インド中華」が妙にうまかった。とんこつではない白い塩味のスープに短めの麺で、けっこう酒と合う。
途中、音羽館に行く。『尾形龜之助全集 増補改訂版』(思潮社)が売っていたので、酔っぱらったいきおいで買ってしまう。
《夕方になつてみても
自分は一度飯に立つたきりでそのまゝ机によりかゝつて煙草をのんでゐたのだ。
そして 今
机の下の蚊やりにうつかり足を触れて
しんから腹を立てて夜飯を食べずに寝床に入つてしまつた
何もそんなに腹を立てるわけもないのに
こらえられない腹立たしさはどうだ
まだ暮れきらない外のうす明りを睨んで
ごはんです−−と妻がよぶのにも返事をしないでむつとして自分を投げ出してゐる態は……
俺は
「この男がいやになつた」と云つて自分から離れてしまいたい》
(「愚かしき月日」)
天下一品のだめ人間の詩。尾形亀之助の詩は、ほとんど部屋の中で寝っころがっている詩ばかりなのだ。
《( 服と帽子が欲しい )
私は酒ばかり飲んでゐたので
このひと月は何もしないでしまつた
二月は二十八日でお終ひになつてゐた》
(「春が来る」)
尾形亀之助の詩にたいして「だからどうした」といってもしかたがない。
貧血気味なので、近所の大将三号店でレバー三本、ハツ一本持ち帰りで買ってひとりで食う。ひさびさに体重計に乗ったら、昨年末から五キロくらい減っている。酒ばかり飲んでメシをあまり食わないのがいけないのはわかっている。太るためにはまず酒を減らさないといけないのもわかっている。ただ残念なことに酒の量を減らす方法がわからないのである。
最近どうも爪がよく割れたり、ふけがすごく出たりして、老化がすすんだのかとおもっていたのだが、どうやら栄養不足が原因だったようだ。でもやっぱり齢のせいも多少はあるのか。
夜は、古本酒場コクテイルで南陀楼綾繁さんとオヨヨ書林の山崎有邦さんのトークショー。ゲストは岡崎武志さん。西荻窪の昼本市から流れてきたお客さんが多数いる。まあ、わたしもそのひとりなのだが……。
その日のお題は、まもなく開催される不忍ブックストリートの一箱古本市にからめて本の「函」の話だった。それにしてもマッチ箱からミニコミから戦前の本まで、南陀楼さんのその守備範囲の広さにはいつも驚かされる。オヨヨさんが函入の中原弓彦(小林信彦)の『汚れた土地』(講談社)を出すと、すかさず岡崎さんが「ハイ、百円から」と振り市の掛け声。
そのまま二次会(また焼鳥屋であった)にも参加し、なんだかんだと十時間くらい酒を飲んだ。
家に帰って、テレビを見て、三重県で震度五強の地震があったことを知る。わたしは震源地の亀山市のとなりの鈴鹿市に十九歳まで住んでいたのだけど、ほとんど地震の記憶がない。
鈴鹿で震度五なんてはじめてじゃないかなあ。
いちおう朝、親に電話してみた。
「ちょうど車に乗っとってわからんかったわ。電車は止まったみたいやけどな」
その後、三十分説教される。
無事でなにより。
天気もよく、インド料理屋とタイ料理屋に囲まれたほそい路地なので、飲んでいるうちに旅先にいるような、いい気分になる。バサラブックスの福井さんにハンサム食堂の人を紹介してもらう。
退屈君が気になるといって注文した「インド中華」が妙にうまかった。とんこつではない白い塩味のスープに短めの麺で、けっこう酒と合う。
途中、音羽館に行く。『尾形龜之助全集 増補改訂版』(思潮社)が売っていたので、酔っぱらったいきおいで買ってしまう。
《夕方になつてみても
自分は一度飯に立つたきりでそのまゝ机によりかゝつて煙草をのんでゐたのだ。
そして 今
机の下の蚊やりにうつかり足を触れて
しんから腹を立てて夜飯を食べずに寝床に入つてしまつた
何もそんなに腹を立てるわけもないのに
こらえられない腹立たしさはどうだ
まだ暮れきらない外のうす明りを睨んで
ごはんです−−と妻がよぶのにも返事をしないでむつとして自分を投げ出してゐる態は……
俺は
「この男がいやになつた」と云つて自分から離れてしまいたい》
(「愚かしき月日」)
天下一品のだめ人間の詩。尾形亀之助の詩は、ほとんど部屋の中で寝っころがっている詩ばかりなのだ。
《( 服と帽子が欲しい )
私は酒ばかり飲んでゐたので
このひと月は何もしないでしまつた
二月は二十八日でお終ひになつてゐた》
(「春が来る」)
尾形亀之助の詩にたいして「だからどうした」といってもしかたがない。
貧血気味なので、近所の大将三号店でレバー三本、ハツ一本持ち帰りで買ってひとりで食う。ひさびさに体重計に乗ったら、昨年末から五キロくらい減っている。酒ばかり飲んでメシをあまり食わないのがいけないのはわかっている。太るためにはまず酒を減らさないといけないのもわかっている。ただ残念なことに酒の量を減らす方法がわからないのである。
最近どうも爪がよく割れたり、ふけがすごく出たりして、老化がすすんだのかとおもっていたのだが、どうやら栄養不足が原因だったようだ。でもやっぱり齢のせいも多少はあるのか。
夜は、古本酒場コクテイルで南陀楼綾繁さんとオヨヨ書林の山崎有邦さんのトークショー。ゲストは岡崎武志さん。西荻窪の昼本市から流れてきたお客さんが多数いる。まあ、わたしもそのひとりなのだが……。
その日のお題は、まもなく開催される不忍ブックストリートの一箱古本市にからめて本の「函」の話だった。それにしてもマッチ箱からミニコミから戦前の本まで、南陀楼さんのその守備範囲の広さにはいつも驚かされる。オヨヨさんが函入の中原弓彦(小林信彦)の『汚れた土地』(講談社)を出すと、すかさず岡崎さんが「ハイ、百円から」と振り市の掛け声。
そのまま二次会(また焼鳥屋であった)にも参加し、なんだかんだと十時間くらい酒を飲んだ。
家に帰って、テレビを見て、三重県で震度五強の地震があったことを知る。わたしは震源地の亀山市のとなりの鈴鹿市に十九歳まで住んでいたのだけど、ほとんど地震の記憶がない。
鈴鹿で震度五なんてはじめてじゃないかなあ。
いちおう朝、親に電話してみた。
「ちょうど車に乗っとってわからんかったわ。電車は止まったみたいやけどな」
その後、三十分説教される。
無事でなにより。
2007/04/08
ライトヴァース
生活の基本は現状維持なんだなあとおもう。とはいえ、現状維持に徹していると、だんだん身動きがとれなくなってくる。むしょうに引っ越しがしたくなる。でもそういう気分になるのは、ちょっと疲れているだけなのだ。一日のんびりして、一日掃除をすれば、だいたいおさまる。
ところが、すきまがあれば本をいれてしまうように、空いている時間があれば予定をいれてしまう。
もうすこし時間のやりくりを考えないといけない。
この間、黒田三郎の本を読んでいて、そこから派生して、たくさん読みたい詩人が出てきた。黒田三郎に「今の世に詩人らしい詩人というのは、ひっそりと京都に暮らしている天野忠ひとりではないかというふうに、僕は考える」とまでいわれたら、そりゃあ天野忠の詩を読み返したくなるよ。
黒田三郎も天野忠も「ライト・ヴァース(light verse)」といわれる軽くてやわらかい詩を書く詩人だった。そうなると「ライト・ヴァース」の詩人の作品もひととおり読んでみたくなる。
たとえば、杉山平一、菅原克己、辻征夫の詩も「ライト・ヴァース」だろう。
平易なことばで書かれた詩を読むと、わたしはよく赤面してしまう。ほら、やさしいでしょ、純粋でしょ。そんな作者の性根が透けてしまうのである。
文章はわかりやすくても、天野忠の詩は、とても難解だ。何通りにも読める。読むときの気分によって、あるいは自分の読解力に応じて、その印象もかわる。ただ簡単な言葉で書くのではなく、言葉にならない気分をわかりやすい言葉で表現する。ほんとうにすごい「ライト・ヴァース」はそういうものだ。
《あなたの詩は
よく利く薬のように
はげしい副作用がある。
だから用心して
時間を置いて
ほんの少量をたしなむ。
あなたの詩は
おだやかな薬のように
利きめは薄いけれど
つよい副作用がない。
だから安心して
長く服用する。
あなたの詩には
全く副作用がない。
しかし、残念なことに
本作用もない。
だから
服むこともない。》
(「エピローグ」/『天野忠詩集』思潮社現代詩文庫)
《あたまをかかえていたいときがある
両手で顔をおおつていたいときがある
義務と気取りと約束とお世辞に
わたのように疲れて
家路につく途中の
暗い道をゆく五分間
子供も寝て 妻も眠り
一人眠りにつくまでの五分間
ああそれらわずかなひととき
そのとき私は私であり
私は私と話すのだ》
(「五分間」/『杉山平一詩集』土曜美術社)
《やさしい人がいて、
ぼくが年をとっているというので、
しきりに慰めてくれる。
——老年は、ほんとうは
いちばん豊富なのだ、
稚いときからのいろんな人生が
いっぱいつまっている、と。
そうなのか、
それはどうも、と
ぼくはちょっとまぶしそうに答える、
何かいい贈りものでももらったように。
そう思えば
そう思えぬこともない。
そう思えぬこともないのだ……。》
(「年月の贈りもの」抜粋/『菅原克己詩集』思潮社現代詩文庫)
《こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて
びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている
こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜをひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる
それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく
かぜです
と
つぶやいてしまう
すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである》
(辻征夫著『かぜのひきかた』書肆山田)
こういう詩の世界にずっとひたっていたい。でも今は仕事に追われている。せっぱつまっている。詩を読むあたまと仕事をするあたまは同じではない。その切り替えがむずかしい。
おだやかな「ライト・ヴァース」にもちょっとした副作用はある。
(追記)
今回紹介した天野忠や杉山平一の本をたくさん手がけている編集工房ノアが梓会出版文化賞特別賞を受賞しました。涸沢さん、おめでとうございます。
ところが、すきまがあれば本をいれてしまうように、空いている時間があれば予定をいれてしまう。
もうすこし時間のやりくりを考えないといけない。
この間、黒田三郎の本を読んでいて、そこから派生して、たくさん読みたい詩人が出てきた。黒田三郎に「今の世に詩人らしい詩人というのは、ひっそりと京都に暮らしている天野忠ひとりではないかというふうに、僕は考える」とまでいわれたら、そりゃあ天野忠の詩を読み返したくなるよ。
黒田三郎も天野忠も「ライト・ヴァース(light verse)」といわれる軽くてやわらかい詩を書く詩人だった。そうなると「ライト・ヴァース」の詩人の作品もひととおり読んでみたくなる。
たとえば、杉山平一、菅原克己、辻征夫の詩も「ライト・ヴァース」だろう。
平易なことばで書かれた詩を読むと、わたしはよく赤面してしまう。ほら、やさしいでしょ、純粋でしょ。そんな作者の性根が透けてしまうのである。
文章はわかりやすくても、天野忠の詩は、とても難解だ。何通りにも読める。読むときの気分によって、あるいは自分の読解力に応じて、その印象もかわる。ただ簡単な言葉で書くのではなく、言葉にならない気分をわかりやすい言葉で表現する。ほんとうにすごい「ライト・ヴァース」はそういうものだ。
《あなたの詩は
よく利く薬のように
はげしい副作用がある。
だから用心して
時間を置いて
ほんの少量をたしなむ。
あなたの詩は
おだやかな薬のように
利きめは薄いけれど
つよい副作用がない。
だから安心して
長く服用する。
あなたの詩には
全く副作用がない。
しかし、残念なことに
本作用もない。
だから
服むこともない。》
(「エピローグ」/『天野忠詩集』思潮社現代詩文庫)
《あたまをかかえていたいときがある
両手で顔をおおつていたいときがある
義務と気取りと約束とお世辞に
わたのように疲れて
家路につく途中の
暗い道をゆく五分間
子供も寝て 妻も眠り
一人眠りにつくまでの五分間
ああそれらわずかなひととき
そのとき私は私であり
私は私と話すのだ》
(「五分間」/『杉山平一詩集』土曜美術社)
《やさしい人がいて、
ぼくが年をとっているというので、
しきりに慰めてくれる。
——老年は、ほんとうは
いちばん豊富なのだ、
稚いときからのいろんな人生が
いっぱいつまっている、と。
そうなのか、
それはどうも、と
ぼくはちょっとまぶしそうに答える、
何かいい贈りものでももらったように。
そう思えば
そう思えぬこともない。
そう思えぬこともないのだ……。》
(「年月の贈りもの」抜粋/『菅原克己詩集』思潮社現代詩文庫)
《こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて
びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている
こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜをひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる
それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく
かぜです
と
つぶやいてしまう
すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである》
(辻征夫著『かぜのひきかた』書肆山田)
こういう詩の世界にずっとひたっていたい。でも今は仕事に追われている。せっぱつまっている。詩を読むあたまと仕事をするあたまは同じではない。その切り替えがむずかしい。
おだやかな「ライト・ヴァース」にもちょっとした副作用はある。
(追記)
今回紹介した天野忠や杉山平一の本をたくさん手がけている編集工房ノアが梓会出版文化賞特別賞を受賞しました。涸沢さん、おめでとうございます。
2007/04/05
とはずがたり
昨日、仕事から帰ってくると、郵便物が届いていた。インターネットの古本屋で注文した黒田三郎著『赤裸々にかたる 詩人の半生』(新日本出版社)だ。
ちっとも「赤裸々」にかたっていないと鮎川信夫が酷評していた本ではあるが、もともとの連載のタイトルは「とはずがたり」なのだがらしょうがない。
黒田三郎は、本のタイトルのつけ方があまりうまくない気がする。『死と死のあいだ』(花神社)にしても、せっかくいい本なのに、この題だとちょっと買う気がしない。
そもそもわたしが『荒地』の詩人に興味をもったのは、十五、六年前、鮎川信夫のコラムや対談を読み、「世の中にはこんなに明晰にあらゆる事を分析できる人がいるのか」と打ちのめされたことがきっかけだった。自分が六十歳になったころ、こういう文章が書けるようになるためには、どうすればいいのか。すごいとはおもうが、どのくらいすごいのか、当時のわたしにはまったく見当がつかなかった。晩年になって、鮎川信夫はこれまでたくわえていた力を一気に放出したようなかんじもした。
とにかく、一歩一歩登っていかないと、その頂上は見えない。
鮎川信夫はわたしにとって仰ぎ見る山のような存在だった。
鮎川信夫の『自我と思想』(思潮社)の黒田三郎の追悼対談のさいの巻末付録の「書き下ろし解註」に、「私は、ひどく憂鬱だった」「長期にわたるスランプ状態が極点に達していた」というような箇所がある。昔、読んだときはそれほど気にとめていなかったが、今回はとても気になった。
鮎川信夫は、六十一歳で詩をやめようとおもっていた。それから詩人の鮎川信夫は、コラムの鮎川信夫になった。
『時代を読む』の帯には「コラムの金字塔」と書かれているが、この帯の文句に偽りはない。
『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)の解説で向井敏は「『荒地』の詩人としての名声は名声として、その知力の透徹と社会認識の確かさはむしろこの『時代を読む』において本領を発揮した」と記している。
《鮎川信夫の批評、わけても「時代を読む」で行った一連の批評は、批評として自立したものであって、詩の才能の支えを借りなくてはならないような、あるいは詩に収斂されてしまうような半端なものではなかった》
いっぽう鮎川信夫、吉本隆明著『全否定の原理と倫理』(思潮社)では、鮎川自身、『時代を読む』で行っている批評について次のように語っている。
《鮎川 あのねえ、最近一つだけ自分で変わったなと思うことに、間違いってものをやりたくなったってことはありますね。おかしな言い方だけど、とにかくぼく、間違いってことはやってないんですよ。戦争中からずっと続いて一ぺんもやったことがない。もし間違いがあったらどっからでもかかってこいと言えるくらいやってないわけ。だけどそれには一つの秘密があって、ぼく自身が一種の受動態なんですよ。だから間違うかもしれないってとこには足を出さない。だけどそんなのちっとも感心したことじゃないということに近頃気が付いたんだよ。だってみんなすごくいい加減なことを平然とやって、その割にはしゃあしゃあとしてるよね(笑)。だからおれも少しああいうふうにやってもいいんじゃないかと。間違いを犯してみないと間違った時の気持ちはわからないしね》(「全否定の原理と倫理」)
昔、読んだときは「またすごいこというなあ」と感心したのだが、今のわたしの印象はすこしちがう。これは鮎川信夫の「老化」ではないかとおもう。鮎川信夫ほど、目が見えすぎる人、頭がよすぎる人でも、自分のことになるとわからないものなのかと考えさせられた。
この対談で吉本隆明は、そのことを指摘する。本人を前にして、かなりいいにくいことだとおもうが、あえて諌めようとしたのではないか。
《吉本 だけど鮎川さん、ぼくは鮎川さんのこの二冊の本(『時代を読む』と『疑似現実の神話はがし』)を読んで、生命曲線の踏み方が違うんじゃないかと思えて仕方ないんですがねえ。
鮎川 だけど、きみは最近、「老い」とか「死」についていろいろ言っているけど、どうもぼくは自分の死まで考える余裕がないんだな。まあいずれは自分も直面する問題だけど、今はあんまり考えたくないんだなあ。
吉本 だけど鮎川さん、そういうふうにおっしゃるけど、ぼくは「老い」や「死」の問題は無意識的にあって、はっきり言えば鮎川さんは老い込んでるなという感じがするんですよ。印象としてですがね
鮎川 あっ、そりゃあね。さっきも言ったけど、ぼくはもう踏みはずすのは構わないよって気になったってことはあって、もう面倒臭くなったということはあるだろうね。
それはやっぱり年を取ったからかもしれないね。だけど自分の若い時というのをぼくはそんなにいいとも思っていない》
このやりとりを見るかぎり、鮎川信夫は吉本隆明の言葉を深く受け止めているようにはおもえない。
これはたいへんまずいことだとおもう。
長年対談してきた“盟友”の吉本隆明が鮎川信夫に「老い込んでいる」というのは、よっぽどのことだとおもうのだ。
この対談は一九八五年六月二十八日に行われた。その翌年の十月に鮎川信夫は亡くなっている。
鮎川信夫くらい「偉く」なってしまうと、まわりの人もなかなか注意できなくなる。生半可な批判なら鮎川信夫はすべて反論できる。
また鮎川信夫がそうなってしまった理由は、老いだけではない。その後、吉本隆明とも絶交してしまうのだが、それ以前から鮎川信夫は多くの友人と距離をとるようになっていた。孤立、あるいは孤絶の道に踏み込もうとしていた。
そのことによって研ぎ澄まされた部分もあるかもしれないが、わるい作用のほうが大きかったような気がしてならない。
同世代の友人で自分がおかしくなったとき、ちゃんと注意してくれる人はいるだろうか。さらに自分が齢をとったとき、ひとまわり下、ふたまわり下の若い人の批判を受け止めることができるだろうか。
なんとなく注意しやすい人と注意しにくい人がいる。ちょっとでも批判すると、ものすごく激高したり、逆にすぐへこんでしまう人だと何もいえなくなる。
鮎川信夫のことを仰ぎ見る山のような存在だったと書いた。わたしはすこしずつその山を登ってきた。今、自分が何合目あたりにいるのかはわからないが、黒田三郎の追悼対談を読んだときの違和感がきっかけとなり、すこし冷静に鮎川信夫のことを考えられるようになった気がする。
それ以上に、黒田三郎の詩の素晴らしさに気づくことができたのはほんとうに大きな収穫だった。
これからすこしずつ黒田三郎という山を登ってゆきたいとおもっている。そして『荒地』という山脈も……。
というわけで、「黒田三郎・鮎川信夫」シリーズはひとまず終了します。
また時間ができたら、この続きを書きたいとおもっています。
(追記)
黒田三郎の『赤裸々にかたる』には、古山高麗雄の小説『螢の宿』(「玩具の蛇」)のことが出てくる。
この小説には古山さんの亡母の友人からの手紙が出てくる。
《鹿児島では、私共他国者は「よそもん」或は「ヤドカリサー」とよばれ鹿児島県の方々は区別して卑しんで居りましたが、学校ではそんな事はありませんでした。知事令嬢、七高造士館長令嬢、地方裁判所長令嬢、税務監督局長令嬢みなヤドカリサーです》
それを読んだ黒田三郎は次のように記している。
《もし、僕の母が「玩具の蛇」の作中人物たち、主人公孝雄の亡母みのり、その旧友萩原とき代たちと同年だとしたら、ここに書かれている地方裁判所長令嬢は僕の母のことである》(父母の記)
つまり古山高麗雄の母と黒田三郎の母は同級生だったのである。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、どことなく、古山高麗雄さんと似たようなものを感じていた。
それにしてもほんとうに不思議な縁だなあ。
ちっとも「赤裸々」にかたっていないと鮎川信夫が酷評していた本ではあるが、もともとの連載のタイトルは「とはずがたり」なのだがらしょうがない。
黒田三郎は、本のタイトルのつけ方があまりうまくない気がする。『死と死のあいだ』(花神社)にしても、せっかくいい本なのに、この題だとちょっと買う気がしない。
そもそもわたしが『荒地』の詩人に興味をもったのは、十五、六年前、鮎川信夫のコラムや対談を読み、「世の中にはこんなに明晰にあらゆる事を分析できる人がいるのか」と打ちのめされたことがきっかけだった。自分が六十歳になったころ、こういう文章が書けるようになるためには、どうすればいいのか。すごいとはおもうが、どのくらいすごいのか、当時のわたしにはまったく見当がつかなかった。晩年になって、鮎川信夫はこれまでたくわえていた力を一気に放出したようなかんじもした。
とにかく、一歩一歩登っていかないと、その頂上は見えない。
鮎川信夫はわたしにとって仰ぎ見る山のような存在だった。
鮎川信夫の『自我と思想』(思潮社)の黒田三郎の追悼対談のさいの巻末付録の「書き下ろし解註」に、「私は、ひどく憂鬱だった」「長期にわたるスランプ状態が極点に達していた」というような箇所がある。昔、読んだときはそれほど気にとめていなかったが、今回はとても気になった。
鮎川信夫は、六十一歳で詩をやめようとおもっていた。それから詩人の鮎川信夫は、コラムの鮎川信夫になった。
『時代を読む』の帯には「コラムの金字塔」と書かれているが、この帯の文句に偽りはない。
『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)の解説で向井敏は「『荒地』の詩人としての名声は名声として、その知力の透徹と社会認識の確かさはむしろこの『時代を読む』において本領を発揮した」と記している。
《鮎川信夫の批評、わけても「時代を読む」で行った一連の批評は、批評として自立したものであって、詩の才能の支えを借りなくてはならないような、あるいは詩に収斂されてしまうような半端なものではなかった》
いっぽう鮎川信夫、吉本隆明著『全否定の原理と倫理』(思潮社)では、鮎川自身、『時代を読む』で行っている批評について次のように語っている。
《鮎川 あのねえ、最近一つだけ自分で変わったなと思うことに、間違いってものをやりたくなったってことはありますね。おかしな言い方だけど、とにかくぼく、間違いってことはやってないんですよ。戦争中からずっと続いて一ぺんもやったことがない。もし間違いがあったらどっからでもかかってこいと言えるくらいやってないわけ。だけどそれには一つの秘密があって、ぼく自身が一種の受動態なんですよ。だから間違うかもしれないってとこには足を出さない。だけどそんなのちっとも感心したことじゃないということに近頃気が付いたんだよ。だってみんなすごくいい加減なことを平然とやって、その割にはしゃあしゃあとしてるよね(笑)。だからおれも少しああいうふうにやってもいいんじゃないかと。間違いを犯してみないと間違った時の気持ちはわからないしね》(「全否定の原理と倫理」)
昔、読んだときは「またすごいこというなあ」と感心したのだが、今のわたしの印象はすこしちがう。これは鮎川信夫の「老化」ではないかとおもう。鮎川信夫ほど、目が見えすぎる人、頭がよすぎる人でも、自分のことになるとわからないものなのかと考えさせられた。
この対談で吉本隆明は、そのことを指摘する。本人を前にして、かなりいいにくいことだとおもうが、あえて諌めようとしたのではないか。
《吉本 だけど鮎川さん、ぼくは鮎川さんのこの二冊の本(『時代を読む』と『疑似現実の神話はがし』)を読んで、生命曲線の踏み方が違うんじゃないかと思えて仕方ないんですがねえ。
鮎川 だけど、きみは最近、「老い」とか「死」についていろいろ言っているけど、どうもぼくは自分の死まで考える余裕がないんだな。まあいずれは自分も直面する問題だけど、今はあんまり考えたくないんだなあ。
吉本 だけど鮎川さん、そういうふうにおっしゃるけど、ぼくは「老い」や「死」の問題は無意識的にあって、はっきり言えば鮎川さんは老い込んでるなという感じがするんですよ。印象としてですがね
鮎川 あっ、そりゃあね。さっきも言ったけど、ぼくはもう踏みはずすのは構わないよって気になったってことはあって、もう面倒臭くなったということはあるだろうね。
それはやっぱり年を取ったからかもしれないね。だけど自分の若い時というのをぼくはそんなにいいとも思っていない》
このやりとりを見るかぎり、鮎川信夫は吉本隆明の言葉を深く受け止めているようにはおもえない。
これはたいへんまずいことだとおもう。
長年対談してきた“盟友”の吉本隆明が鮎川信夫に「老い込んでいる」というのは、よっぽどのことだとおもうのだ。
この対談は一九八五年六月二十八日に行われた。その翌年の十月に鮎川信夫は亡くなっている。
鮎川信夫くらい「偉く」なってしまうと、まわりの人もなかなか注意できなくなる。生半可な批判なら鮎川信夫はすべて反論できる。
また鮎川信夫がそうなってしまった理由は、老いだけではない。その後、吉本隆明とも絶交してしまうのだが、それ以前から鮎川信夫は多くの友人と距離をとるようになっていた。孤立、あるいは孤絶の道に踏み込もうとしていた。
そのことによって研ぎ澄まされた部分もあるかもしれないが、わるい作用のほうが大きかったような気がしてならない。
同世代の友人で自分がおかしくなったとき、ちゃんと注意してくれる人はいるだろうか。さらに自分が齢をとったとき、ひとまわり下、ふたまわり下の若い人の批判を受け止めることができるだろうか。
なんとなく注意しやすい人と注意しにくい人がいる。ちょっとでも批判すると、ものすごく激高したり、逆にすぐへこんでしまう人だと何もいえなくなる。
鮎川信夫のことを仰ぎ見る山のような存在だったと書いた。わたしはすこしずつその山を登ってきた。今、自分が何合目あたりにいるのかはわからないが、黒田三郎の追悼対談を読んだときの違和感がきっかけとなり、すこし冷静に鮎川信夫のことを考えられるようになった気がする。
それ以上に、黒田三郎の詩の素晴らしさに気づくことができたのはほんとうに大きな収穫だった。
これからすこしずつ黒田三郎という山を登ってゆきたいとおもっている。そして『荒地』という山脈も……。
というわけで、「黒田三郎・鮎川信夫」シリーズはひとまず終了します。
また時間ができたら、この続きを書きたいとおもっています。
(追記)
黒田三郎の『赤裸々にかたる』には、古山高麗雄の小説『螢の宿』(「玩具の蛇」)のことが出てくる。
この小説には古山さんの亡母の友人からの手紙が出てくる。
《鹿児島では、私共他国者は「よそもん」或は「ヤドカリサー」とよばれ鹿児島県の方々は区別して卑しんで居りましたが、学校ではそんな事はありませんでした。知事令嬢、七高造士館長令嬢、地方裁判所長令嬢、税務監督局長令嬢みなヤドカリサーです》
それを読んだ黒田三郎は次のように記している。
《もし、僕の母が「玩具の蛇」の作中人物たち、主人公孝雄の亡母みのり、その旧友萩原とき代たちと同年だとしたら、ここに書かれている地方裁判所長令嬢は僕の母のことである》(父母の記)
つまり古山高麗雄の母と黒田三郎の母は同級生だったのである。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、どことなく、古山高麗雄さんと似たようなものを感じていた。
それにしてもほんとうに不思議な縁だなあ。
2007/04/04
荒地の遺産
黒田三郎を読みながら、老いと死の問題を無視して、ひとりの人間の一生をとらえることはできないとおもうようになった。
鮎川信夫の晩年にしても、二十代のころの自分の理解がまったくアテにならないことに気づいた。そうなってくると、ほかの作家についても読み返せば、誤読がいろいろ判明するにちがいない。どこから手をつければいいのやら……。
わたしは一冊の本があったとして、その中でいちばん共感できるポイントを探し、それをもとにその人物の物語を作ってしまう癖がある。黒田三郎であれば、喪失感、あるいは卑小感といったキーワードがある。そのキーワードで人物像を組み立てる。でも当り前だけど、それでは黒田三郎にはならないのである。
もちろん本を自分勝手に読みたいように読むのはありだ。黒田三郎の詩から、黒田三郎のことを考えるのではなく、自分のことを考えればいいとおもっている。でも今はそれだけではもったいない気がする。そのくらい黒田三郎の存在はおもしろい。
《うかうかしているうちに
一年たち二年たち
部屋中にうずたかい書物を
片づけようと思っているうちに
一年たった
昔大学生だったころ
ダンテをよもうと思った
それから三十年
ついきのうことのように
今でもまだそれをあす
よむ気でいる
自分にいまできることが
ほんの少しばかりだとわかっていても
でも そのほんの少しばかりが
少年の夢のように大きく
五十歳をすぎた僕のなかにある》(「あす」/『定本黒田三郎詩集』)
自分が五十歳をすぎたとき、こんなふうにおもうのだろうか。
すこし深読みすれば、この「あす」という詩で、よもうと思って読めないままになっている本は「ダンテ」でなければならない。
五十歳をすぎて、黒田三郎は大学生だったころの詩の仲間とずいぶん生活も思想も離れてしまった。
鮎川信夫は「詩の機能について」(荒地同人編『詩と評論1』国文社)というエッセイで、「T・S・エリオットは、現代において最も深くダンテを讀み、ダンテの影響を強く受けた詩人」だったと書いている。
黒田三郎が「詩の難解さについて」で、「ヨオロッパやアメリカの絢爛たる藝術運動に並んで作品を示している日本の詩人が、ひと度、自分の身の廻りの現實に詩の素材を求め、或いは、自分について語るとき、まるで調子を合わせたように示す日本的貧困さというものを見逃すわけにはゆかないのである」と批判し、鮎川信夫は「詩の機能について」で、「ダンテの『神曲』を理解するのは、バイロンやハイネを理解するほどたやすくないし、ながい詩的體験によつて徐々に理解される詩もあるわけである」と主張した。
かなり早い時期から鮎川信夫と黒田三郎の価値観は食い違っていた。
そうかんがえると、「あす」という詩は、「おれはまだダンテのことを忘れていないよ」という鮎川信夫への黒田三郎のメッセージのようにおもえる。わたしはそう読みたい。
《「荒地」の基盤とは、戦前から続いていた、新しい詩を書こうとしてそれぞれがやってきた仕事をお互いが見つめあうことだった。そこから生まれる一種の遺産のようなものが、永く記憶するに足るものとして、お互いに交換されてきた作品の連鎖のうちがわで形成されてきた。いわば文学的に表現された精神的な遺産といえるものである。これを誰がつくった、どんな形のものであるとは簡単にはいけない。しかし確実に自ずから成る価値として遺ってきているのである》(「風俗とどう関るか」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
「荒地」には「相互酷評集団」というだけでなく、そういう一面もあった。しかし黒田三郎の「あす」という詩が発表されたころ、「〈荒地〉の共同理念が彼の内部で無効化していった」(北川透著『荒地論』思潮社)と見られていたのも事実だった。
黒田三郎の詩は、新しい詩でもない。身辺雑記のような軽い詩になってゆく。でもそれはそれで、重厚な詩を書く鮎川信夫という存在がいたからこそ、黒田三郎は軽い詩の世界に向ったのではないか。
憶測だけど、黒田三郎からすれば、鮎川信夫、あるいは田村隆一とはちがう詩の世界を築きたかったのではないか。
《二十何年も勤めなれた
会社へ行く以外 この人生に
行くところがないなんて
一日会社をさぼっても
明日はまた行かねばならぬ
二日さぼっても同じこと
五十歳をすぎて
いま僕は愚かにも秤にかける
そこで得た多くの金銭と
そこで失った目に見えぬものとを》
(「ひとりの個人」抜粋/『定本黒田三郎詩集』)
たぶんこういう詩は鮎川信夫や田村隆一には書けない。『荒地』の中から、こういう詩をつくる詩人が生まれたことで、「荒地の遺産」はより豊かになったともいえる。
黒田三郎が失った目に見えぬものを失わなかった詩人がいたとしても、その詩人には黒田三郎のような詩はつくれない。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、考えさせられる。
多くの金銭を得なかったかわりに、なにを得てきたのか。自分が失ってしまったものはなにか。うかうかしている間に時間ばかりがすぎてゆく。
鮎川信夫の晩年にしても、二十代のころの自分の理解がまったくアテにならないことに気づいた。そうなってくると、ほかの作家についても読み返せば、誤読がいろいろ判明するにちがいない。どこから手をつければいいのやら……。
わたしは一冊の本があったとして、その中でいちばん共感できるポイントを探し、それをもとにその人物の物語を作ってしまう癖がある。黒田三郎であれば、喪失感、あるいは卑小感といったキーワードがある。そのキーワードで人物像を組み立てる。でも当り前だけど、それでは黒田三郎にはならないのである。
もちろん本を自分勝手に読みたいように読むのはありだ。黒田三郎の詩から、黒田三郎のことを考えるのではなく、自分のことを考えればいいとおもっている。でも今はそれだけではもったいない気がする。そのくらい黒田三郎の存在はおもしろい。
《うかうかしているうちに
一年たち二年たち
部屋中にうずたかい書物を
片づけようと思っているうちに
一年たった
昔大学生だったころ
ダンテをよもうと思った
それから三十年
ついきのうことのように
今でもまだそれをあす
よむ気でいる
自分にいまできることが
ほんの少しばかりだとわかっていても
でも そのほんの少しばかりが
少年の夢のように大きく
五十歳をすぎた僕のなかにある》(「あす」/『定本黒田三郎詩集』)
自分が五十歳をすぎたとき、こんなふうにおもうのだろうか。
すこし深読みすれば、この「あす」という詩で、よもうと思って読めないままになっている本は「ダンテ」でなければならない。
五十歳をすぎて、黒田三郎は大学生だったころの詩の仲間とずいぶん生活も思想も離れてしまった。
鮎川信夫は「詩の機能について」(荒地同人編『詩と評論1』国文社)というエッセイで、「T・S・エリオットは、現代において最も深くダンテを讀み、ダンテの影響を強く受けた詩人」だったと書いている。
黒田三郎が「詩の難解さについて」で、「ヨオロッパやアメリカの絢爛たる藝術運動に並んで作品を示している日本の詩人が、ひと度、自分の身の廻りの現實に詩の素材を求め、或いは、自分について語るとき、まるで調子を合わせたように示す日本的貧困さというものを見逃すわけにはゆかないのである」と批判し、鮎川信夫は「詩の機能について」で、「ダンテの『神曲』を理解するのは、バイロンやハイネを理解するほどたやすくないし、ながい詩的體験によつて徐々に理解される詩もあるわけである」と主張した。
かなり早い時期から鮎川信夫と黒田三郎の価値観は食い違っていた。
そうかんがえると、「あす」という詩は、「おれはまだダンテのことを忘れていないよ」という鮎川信夫への黒田三郎のメッセージのようにおもえる。わたしはそう読みたい。
《「荒地」の基盤とは、戦前から続いていた、新しい詩を書こうとしてそれぞれがやってきた仕事をお互いが見つめあうことだった。そこから生まれる一種の遺産のようなものが、永く記憶するに足るものとして、お互いに交換されてきた作品の連鎖のうちがわで形成されてきた。いわば文学的に表現された精神的な遺産といえるものである。これを誰がつくった、どんな形のものであるとは簡単にはいけない。しかし確実に自ずから成る価値として遺ってきているのである》(「風俗とどう関るか」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
「荒地」には「相互酷評集団」というだけでなく、そういう一面もあった。しかし黒田三郎の「あす」という詩が発表されたころ、「〈荒地〉の共同理念が彼の内部で無効化していった」(北川透著『荒地論』思潮社)と見られていたのも事実だった。
黒田三郎の詩は、新しい詩でもない。身辺雑記のような軽い詩になってゆく。でもそれはそれで、重厚な詩を書く鮎川信夫という存在がいたからこそ、黒田三郎は軽い詩の世界に向ったのではないか。
憶測だけど、黒田三郎からすれば、鮎川信夫、あるいは田村隆一とはちがう詩の世界を築きたかったのではないか。
《二十何年も勤めなれた
会社へ行く以外 この人生に
行くところがないなんて
一日会社をさぼっても
明日はまた行かねばならぬ
二日さぼっても同じこと
五十歳をすぎて
いま僕は愚かにも秤にかける
そこで得た多くの金銭と
そこで失った目に見えぬものとを》
(「ひとりの個人」抜粋/『定本黒田三郎詩集』)
たぶんこういう詩は鮎川信夫や田村隆一には書けない。『荒地』の中から、こういう詩をつくる詩人が生まれたことで、「荒地の遺産」はより豊かになったともいえる。
黒田三郎が失った目に見えぬものを失わなかった詩人がいたとしても、その詩人には黒田三郎のような詩はつくれない。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、考えさせられる。
多くの金銭を得なかったかわりに、なにを得てきたのか。自分が失ってしまったものはなにか。うかうかしている間に時間ばかりがすぎてゆく。
2007/04/02
友情の強度
黒田三郎は、『小さなユリと』で政治性のある詩をつくらなくなったかのように見えた。ところが、この詩人はそんなに単純ではない。
《『羊の歩み』の中のある詩は、自民党系の新聞『今週の日本』などに発表されている。これが次の詩集『ふるさと』では『民主文学』、社会党系の『社会新報』などに発表されるようになり、さらに晩年の詩集『死後の世界』の詩のあるものは、共産党系の『詩人会議』に発表したものであり、やがて自らこの『詩人会議』という詩人団体の委員長となった。エッセイはしばしば『赤旗』に発表される。このあたりにいまだにわかりにくい黒田の一つの変貌がある》(観賞、飯島耕一/『現代の詩人4 黒田三郎』中央公論社)
一九六九年三月、長年の友人で黒田三郎のほとんどの詩集を出版してきた昭森社の森谷均が亡くなった。飯島耕一によると、当時、神田神保町にあった昭森社の事務所には、書肆ユリイカ、審美社などが同居していた。ユリイカの編集人伊達得夫もずっと森谷と机を並べていたそうだ。
この年の十二月、黒田三郎は五十歳でNHKを退職する。当時、定年は五十五歳だったので、あと五年残しての退社ということになる。森谷均の死とは無関係ではあるまい。
飯島耕一がいうところの「わかりにくい黒田のひとつの変貌」について、鮎川信夫はシビアに分析している。
《鮎川 とかくぼくらの考え方っていうのはいつでも沈滞していて、気分が重たく、実存主義的だったんだけどね。サルトルの「嘔吐」はロカンタンっていうのが主人公なんだけど、生活的にはあれに近い感じになっちゃう。何処にも出口無しって状態でね。たまにいい詩が書けりゃいいや、って程度で、あとは全部八方塞がりって感じになっちゃうでしょ。だからそういう状態っていうものは、普通の人には耐えられないんだろうね。それよりは、間違ってようとなんだろうと、他者との連帯っていうか、隣人と手を繋ぎたいって感覚の方がロカンタン的実存よりは、ましだということになるでしょう》(「戦後の歴史と文学者」/鮎川信夫、吉本隆明著『詩の読解』思潮社)
鮎川信夫は、かつて「純粋詩」をやっていた福田律郎の晩年もそうだったという。「純粋詩」が潰れたあと、彼のところを訪ねたら、家の中じゅう選挙のポスターが貼ってあった。鮎川は「ある意味で希望に輝いていたんだなあ」と回想し、それと同じかんじを黒田三郎にもいだいたと語っている。
森谷均の死によって、黒田三郎も死を意識したのだとおもう。死、あるいは衰えを意識したとき、人の行動はいろいろ分かれる。最後の最後まで自分の小さな世界を掘り下げようとするか。それとも自分のことはどうでもよくなり、政治とか宗教とか、大きな世界に身を捧げるか。このあたりのことは、わたし自身、そういう齢になってみないとわからない。
鮎川信夫は北川透との対談で黒田三郎を批判したことについても、次のようにふりかえっている。
《鮎川 あれは思っていることを言っただけで、むしろかなりぼくとしては控え目なんですよ。だけど、「詩人会議」の人たちから見ると、黒田をバカにしてるようにみえたんでしょうね。でもそれは全く嘘だね。(中略)だってバカにしたって仕様がないし、第一、黒田と知り合ったのは戦争前だからね。彼の晩年、十年そこそこの人とは違うんで、こっちは四十年ぐらいの付き合いがあるんだからね。言葉を交わさなくたってお互いに書いたものは全部見てるし、本も全部交換してるんだからね》(「戦後の歴史と文学者」)
わたしはちょっと誤読していたかもしれない。
鮎川信夫の黒田三郎批判は、『荒地』のメンバーにとって、たいしたことではなかった。そんなことは日常茶飯事だったのだ。『荒地』がそういう人間関係だったことは、つい先月読んだばかりの田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)にも言及されていた。ただそういうことをきちんと受けとめられるだけの経験がなく、ちゃんと理解できなかったのである。
《詩の批評では詩壇的といっていい傾向がないわけではない。その一つに、本当に言いたいことは伏せておいて攻撃する態度をあげたい。かつて僕が黒田三郎について発言したことに対する「詩人会議」の連中の攻撃は、そのようなものであった。黒田三郎については「詩人会議」より僕の方がずっとよく知っているし、黒田がそのことで怒るなどということは仮定としてもありえない。また怒ったところで、どうということもない》(『一九八四年』の視線/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
『荒地』の中桐雅夫も、やることなすこと鮎川信夫に反対を表明する行動をとった。それは半ば、嫌がらせに近いものだった。黒田三郎の件で鮎川信夫と「詩人会議」が論争になったときも、日頃共産党嫌いだった中桐は、急に彼らにシンパシーをかんじ、嬉しくてそわそわしていたという。
《一時が万事そんな風だったから、私としてはかなり鬱陶しく思うことがあった。彼の反対行動は、どこまでやったら私が怒るか、それによって友情の強度を試しているようなあんばいだったのである》(「『美酒すこし』解説」)
わたしは友情の強度という言葉にしびれた。
中桐の訃報に接して、鮎川信夫は通夜に行かなかった。その死顔を見たくなかったし、中桐も見せたくないだろうと考えたからだという。
《一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか》(「『美酒すこし』解説」)
黒田三郎も中桐雅夫も大酒飲みだった。とくに黒田三郎の目がすわってくると中桐雅夫や田村隆一ですら逃げ出すほど、酒癖がわるかったそうだ。
追悼を趣旨した対談で、鮎川信夫が黒田三郎を批判したのも、彼らの友情の証であり、半ばヤケクソで喋っていたのではないか。うーんなんというか、面倒くさい友情だなあともおもう。
《『羊の歩み』の中のある詩は、自民党系の新聞『今週の日本』などに発表されている。これが次の詩集『ふるさと』では『民主文学』、社会党系の『社会新報』などに発表されるようになり、さらに晩年の詩集『死後の世界』の詩のあるものは、共産党系の『詩人会議』に発表したものであり、やがて自らこの『詩人会議』という詩人団体の委員長となった。エッセイはしばしば『赤旗』に発表される。このあたりにいまだにわかりにくい黒田の一つの変貌がある》(観賞、飯島耕一/『現代の詩人4 黒田三郎』中央公論社)
一九六九年三月、長年の友人で黒田三郎のほとんどの詩集を出版してきた昭森社の森谷均が亡くなった。飯島耕一によると、当時、神田神保町にあった昭森社の事務所には、書肆ユリイカ、審美社などが同居していた。ユリイカの編集人伊達得夫もずっと森谷と机を並べていたそうだ。
この年の十二月、黒田三郎は五十歳でNHKを退職する。当時、定年は五十五歳だったので、あと五年残しての退社ということになる。森谷均の死とは無関係ではあるまい。
飯島耕一がいうところの「わかりにくい黒田のひとつの変貌」について、鮎川信夫はシビアに分析している。
《鮎川 とかくぼくらの考え方っていうのはいつでも沈滞していて、気分が重たく、実存主義的だったんだけどね。サルトルの「嘔吐」はロカンタンっていうのが主人公なんだけど、生活的にはあれに近い感じになっちゃう。何処にも出口無しって状態でね。たまにいい詩が書けりゃいいや、って程度で、あとは全部八方塞がりって感じになっちゃうでしょ。だからそういう状態っていうものは、普通の人には耐えられないんだろうね。それよりは、間違ってようとなんだろうと、他者との連帯っていうか、隣人と手を繋ぎたいって感覚の方がロカンタン的実存よりは、ましだということになるでしょう》(「戦後の歴史と文学者」/鮎川信夫、吉本隆明著『詩の読解』思潮社)
鮎川信夫は、かつて「純粋詩」をやっていた福田律郎の晩年もそうだったという。「純粋詩」が潰れたあと、彼のところを訪ねたら、家の中じゅう選挙のポスターが貼ってあった。鮎川は「ある意味で希望に輝いていたんだなあ」と回想し、それと同じかんじを黒田三郎にもいだいたと語っている。
森谷均の死によって、黒田三郎も死を意識したのだとおもう。死、あるいは衰えを意識したとき、人の行動はいろいろ分かれる。最後の最後まで自分の小さな世界を掘り下げようとするか。それとも自分のことはどうでもよくなり、政治とか宗教とか、大きな世界に身を捧げるか。このあたりのことは、わたし自身、そういう齢になってみないとわからない。
鮎川信夫は北川透との対談で黒田三郎を批判したことについても、次のようにふりかえっている。
《鮎川 あれは思っていることを言っただけで、むしろかなりぼくとしては控え目なんですよ。だけど、「詩人会議」の人たちから見ると、黒田をバカにしてるようにみえたんでしょうね。でもそれは全く嘘だね。(中略)だってバカにしたって仕様がないし、第一、黒田と知り合ったのは戦争前だからね。彼の晩年、十年そこそこの人とは違うんで、こっちは四十年ぐらいの付き合いがあるんだからね。言葉を交わさなくたってお互いに書いたものは全部見てるし、本も全部交換してるんだからね》(「戦後の歴史と文学者」)
わたしはちょっと誤読していたかもしれない。
鮎川信夫の黒田三郎批判は、『荒地』のメンバーにとって、たいしたことではなかった。そんなことは日常茶飯事だったのだ。『荒地』がそういう人間関係だったことは、つい先月読んだばかりの田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)にも言及されていた。ただそういうことをきちんと受けとめられるだけの経験がなく、ちゃんと理解できなかったのである。
《詩の批評では詩壇的といっていい傾向がないわけではない。その一つに、本当に言いたいことは伏せておいて攻撃する態度をあげたい。かつて僕が黒田三郎について発言したことに対する「詩人会議」の連中の攻撃は、そのようなものであった。黒田三郎については「詩人会議」より僕の方がずっとよく知っているし、黒田がそのことで怒るなどということは仮定としてもありえない。また怒ったところで、どうということもない》(『一九八四年』の視線/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
『荒地』の中桐雅夫も、やることなすこと鮎川信夫に反対を表明する行動をとった。それは半ば、嫌がらせに近いものだった。黒田三郎の件で鮎川信夫と「詩人会議」が論争になったときも、日頃共産党嫌いだった中桐は、急に彼らにシンパシーをかんじ、嬉しくてそわそわしていたという。
《一時が万事そんな風だったから、私としてはかなり鬱陶しく思うことがあった。彼の反対行動は、どこまでやったら私が怒るか、それによって友情の強度を試しているようなあんばいだったのである》(「『美酒すこし』解説」)
わたしは友情の強度という言葉にしびれた。
中桐の訃報に接して、鮎川信夫は通夜に行かなかった。その死顔を見たくなかったし、中桐も見せたくないだろうと考えたからだという。
《一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか》(「『美酒すこし』解説」)
黒田三郎も中桐雅夫も大酒飲みだった。とくに黒田三郎の目がすわってくると中桐雅夫や田村隆一ですら逃げ出すほど、酒癖がわるかったそうだ。
追悼を趣旨した対談で、鮎川信夫が黒田三郎を批判したのも、彼らの友情の証であり、半ばヤケクソで喋っていたのではないか。うーんなんというか、面倒くさい友情だなあともおもう。