先日、『本の虫の本』(創元社)という活字中毒者向けの本本を刊行。筆者は林哲夫さん、能邨陽子さん、田中美穂さん、岡崎武志さん、それとわたし。イラストは赤井稚佳さんが担当。先にお題を提出し、それについて書くかんじだったのだが、わたしは半分以上、テーマを変えてしまった。編集、大変だったにちがいない。
今年の一月末、大阪で打ち合わせ。本の虫はメガネ率が高い。そのあと紀伊半島をまわった。ずいぶん昔のことにおもえる。
それから来月、ちくま文庫から出る山川直人さんの『ハモニカ文庫と詩の漫画』の解説を書いた。単行本の『ハモニカ文庫』に江戸川乱歩、尾形亀之助、菅原克己の詩や小説を漫画化した作品が収録されている。解説を書くとき『ぐるり』の南陀楼綾繁さんのインタビューを参考にした(山川さんの特集号)。尾形亀之助の漫画はちょっと意外な作品だった。
水曜日、神保町。一年以上前からの懸案だったメガネのレンズを交換する。もともと読書用に弱めの度数にしているのだが、外出時(とくに旅行のとき)は看板や標識が見えずらくて、不便だった。釣堀で浮子の動きが見えないのも困る。
店に入った途端、「前にもお越しになっていますね」といわれる。六年前にレンズの交換をしているのだが、店舗の場所はちがう。
メガネのフレームはブラックジャーナリズムの仕事をやめたころに新調した。二十三年前だ。もう一本の予備のメガネは二〇〇二年の秋くらいに買った。その後、二本のメガネのレンズを交互に取り換え、今に至る。視力を測ると、右目の乱視も進んでいた。メガネをかけても〇・四しか見えない。〇・八まで上げてもらう。
レンズ交換のあいだ、神田伯剌西爾でコーヒー。澤口書店で東海道関係の本を数冊。あと一九九一年度版の『渓流の釣り』というムックを買う。
都道府県ごとの川のMAPがあるのだが、長野と岐阜は川が多い県であることを知る。山といえば川——というのは、人の言葉に反対することのたとえ(右といえば左みたいな意味)だが、山があれば川があるのは当然のような気がする。釈然としない。
『渓流の釣り』では中山道の奈良井宿の近くの奈良井川も取り上げられていた。街道と川というテーマも興味がある。
東海道は、わざと橋をかけず(江戸を守るためだったらしい)、川の水かさが増すと通れなかった。雨が降ると宿場町が儲かる。
新しいレンズにして視界が明るくなった。家だと床が傾斜しているかんじに見える。メガネ店で遠近両用のレンズも試してみたが、新聞が読みやすかった。レンズの下半分が度が弱い。そういう構造だったのか。
もう一本、眼鏡がほしくなる。
2018/08/29
散歩と旅行
得体の知れない人物から逃げていて、抜け道の小さな扉を見つけたら、タオルがぎっしり詰まっていて……という追われる夢を見て目が覚める。疲れているのかもしれない。
月曜日、昼から荻窪散歩。ささま書店、タウンセブン、ルミネの地下の食料品売り場をまわる。先月、焼鯖の瓶詰を買っていた近所の店が閉店し、困っていたのだが、荻窪ルミネの地下で売っていた。帰りは高円寺まで歩く。
荻窪に行くと、ジャンボ総本店のたこ焼(値下品)を買っていたのだが、高円寺にもできた。高円寺はすこし前に築地銀だこもオープンした。たこ焼がきてるのか。何年か前の話だけど、高円寺の北口のひっぱりだこという店がなくなった。好きな店だった。たこ焼といえば、中野の南口のたこまるにも行く。ソースではなく塩のたこ焼。たこ焼の味はまだまだ可能性があるはずだ。
ささま書店では街道本。太田三郎著『中山道 美濃十六宿』(大衆書房)などを買う。読みたい本が変わると、棚の見方も変わる。「道」という言葉にすぐ反応してしまう。
木曽路、美濃路など、検索語句が増えるにつれ、探求書も増えていく。中山道、知らない町ばかりだ。この感覚は三十歳前後にアメリカのコラム本を探していたときとも似ている。
平凡社の「太陽」コレクションやカラーブックスの街道本がいい。今井金吾の街道本がこの分野の基本文献になるのだろうか。本を探すにも知識がいる。最初、街道本がどこの棚にあるのかすらわからなかった。旅とか地理とか歴史とか。あと山岳の本の近くにもある。
部屋の掃除をしていたら文藝春秋SPECIALの「老後の楽園」の号が出てきた。二〇一二年の秋号。昔から余生をどこで過ごすかということを考えるのが好きだった。
三重県は松阪市の殿町付近が取り上げられている。松坂城跡の周辺だ。昔、母は鵜方のあたりに住みたいといっていた。わたしは伊勢湾フェリーに乗って以来、鳥羽が好きになった。郷愁というか、田舎にいたころは関心が本や音楽に向いていたから、土地のよさに気づけなかった。
おもしろいことをいっぱい見逃してきた。後悔はないが、焦りはある。旅行したい。
月曜日、昼から荻窪散歩。ささま書店、タウンセブン、ルミネの地下の食料品売り場をまわる。先月、焼鯖の瓶詰を買っていた近所の店が閉店し、困っていたのだが、荻窪ルミネの地下で売っていた。帰りは高円寺まで歩く。
荻窪に行くと、ジャンボ総本店のたこ焼(値下品)を買っていたのだが、高円寺にもできた。高円寺はすこし前に築地銀だこもオープンした。たこ焼がきてるのか。何年か前の話だけど、高円寺の北口のひっぱりだこという店がなくなった。好きな店だった。たこ焼といえば、中野の南口のたこまるにも行く。ソースではなく塩のたこ焼。たこ焼の味はまだまだ可能性があるはずだ。
ささま書店では街道本。太田三郎著『中山道 美濃十六宿』(大衆書房)などを買う。読みたい本が変わると、棚の見方も変わる。「道」という言葉にすぐ反応してしまう。
木曽路、美濃路など、検索語句が増えるにつれ、探求書も増えていく。中山道、知らない町ばかりだ。この感覚は三十歳前後にアメリカのコラム本を探していたときとも似ている。
平凡社の「太陽」コレクションやカラーブックスの街道本がいい。今井金吾の街道本がこの分野の基本文献になるのだろうか。本を探すにも知識がいる。最初、街道本がどこの棚にあるのかすらわからなかった。旅とか地理とか歴史とか。あと山岳の本の近くにもある。
部屋の掃除をしていたら文藝春秋SPECIALの「老後の楽園」の号が出てきた。二〇一二年の秋号。昔から余生をどこで過ごすかということを考えるのが好きだった。
三重県は松阪市の殿町付近が取り上げられている。松坂城跡の周辺だ。昔、母は鵜方のあたりに住みたいといっていた。わたしは伊勢湾フェリーに乗って以来、鳥羽が好きになった。郷愁というか、田舎にいたころは関心が本や音楽に向いていたから、土地のよさに気づけなかった。
おもしろいことをいっぱい見逃してきた。後悔はないが、焦りはある。旅行したい。
2018/08/26
井伏鱒二と甲州
日曜日、西部古書会館。街道と宿場関係の本を手あたりしだいに買う。十五冊。山梨関係の本も買う。三千円。一冊平均二百円。今、古道まで研究の範囲を広げるかどうか迷っている。古代史までいくと収拾がつかなくなりそうだが、街道沿いは古墳も多いのだ。
井伏鱒二著『太宰治』(中公文庫)を読んでいたら「甲府」「甲州」という言葉が頻出する。井伏鱒二は、深沢七郎との対談でも余生を甲府で釣り(隠居釣り)をして過ごしたいというようなことを語っていた。太宰治も一時期、甲府で暮していた。太宰作品の中でわたしは「十五年間」という作品が好きなのだが、とくに印象に残っているのが次の部分だ。
《私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である。誰に気がねも要らなかった》
初出は一九四六年四月。『グッド・バイ』(新潮文庫)に所収。後半、支離滅裂になる。そこもいい。
わたしは高円寺という町が好きだし、できることならずっとこの町で暮らし続けたい。といっても、お金がないと東京生活はきつい。都内で高円寺以外の場所に住む気がない。高円寺を離れるなら東京の外に出たい。
その候補地のひとつは山梨だ。移住するかどうかはさておき、高円寺から各駅電車で二時間——都心と逆方向に向かう電車だから空いていて、のんびり行けるのもいい。
井伏鱒二の『太宰治』に「点滴」という随筆が収録されている。
《甲府に疎開していたその友人は、甲府の町が戦災にあうまで一年あまり甲府の町はずれにいた。そのころ私も甲府市外に疎開していた関係から、よく甲府の町に出かけて梅ヶ枝という宿屋へ夕飯を食べに行った》
《彼の死後、私は魚釣にますます興味を持つようになった。ヤマメの密漁にさえも行きかねないほどである。甲州の谷川が私の釣場所になった》
その友人、彼は太宰治ですね。井伏鱒二が疎開していたのは、たしか石和温泉のちかくだったとおもう。
井伏鱒二著『太宰治』(中公文庫)を読んでいたら「甲府」「甲州」という言葉が頻出する。井伏鱒二は、深沢七郎との対談でも余生を甲府で釣り(隠居釣り)をして過ごしたいというようなことを語っていた。太宰治も一時期、甲府で暮していた。太宰作品の中でわたしは「十五年間」という作品が好きなのだが、とくに印象に残っているのが次の部分だ。
《私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である。誰に気がねも要らなかった》
初出は一九四六年四月。『グッド・バイ』(新潮文庫)に所収。後半、支離滅裂になる。そこもいい。
わたしは高円寺という町が好きだし、できることならずっとこの町で暮らし続けたい。といっても、お金がないと東京生活はきつい。都内で高円寺以外の場所に住む気がない。高円寺を離れるなら東京の外に出たい。
その候補地のひとつは山梨だ。移住するかどうかはさておき、高円寺から各駅電車で二時間——都心と逆方向に向かう電車だから空いていて、のんびり行けるのもいい。
井伏鱒二の『太宰治』に「点滴」という随筆が収録されている。
《甲府に疎開していたその友人は、甲府の町が戦災にあうまで一年あまり甲府の町はずれにいた。そのころ私も甲府市外に疎開していた関係から、よく甲府の町に出かけて梅ヶ枝という宿屋へ夕飯を食べに行った》
《彼の死後、私は魚釣にますます興味を持つようになった。ヤマメの密漁にさえも行きかねないほどである。甲州の谷川が私の釣場所になった》
その友人、彼は太宰治ですね。井伏鱒二が疎開していたのは、たしか石和温泉のちかくだったとおもう。
2018/08/22
街道を歩く
十八日(土)から二十一日(火)まで旅行。青春18きっぷでJR中央線(中央本線)に乗り、東京と三重を往復した。
午前七時、JR中央線で高円寺駅から高尾駅。高尾駅から甲府駅(山梨)、甲府駅から松本行の中央本線に乗ると、塩尻駅(長野)に十一時半ごろ到着する(四時間半)。
都心から離れていく電車だから空いている。ずっと座れた。
塩尻〜名古屋は普通電車でも約三時間半。塩尻〜中津川間だけ特急に乗ると、かなり楽かも。日中は塩尻〜中津川間の電車の本数が少ない。
いっぽうこの区間の中山道の宿場町の名所が多い。奈良井宿、福島宿、妻籠宿、馬籠宿……。
名駅のエスカの寿がきやラーメンを食い、快速みえで鈴鹿に帰る。四日市駅というか河原田駅から先は伊勢鉄道のため18きっぷは使えない。鈴鹿駅に着いたのは夜八時すぎ。道が暗い。もうすこし駅周辺に街燈がほしい。
十九日(日)、松阪へ。松阪から名松線で伊勢奥津駅に行く。名松線は九年前の台風の被害にあい、二年前まで運行していない区間があった。伊勢奥津は旧・美杉村(津市美杉町)ですね。こちらは『フライの雑誌』の取材……何だかどうだかわからない散歩をする。雲出川は名川。電車の窓からでも川底が見えるくらい水が透き通っている。
伊勢本街道の旧・美杉村界隈はかなり昔の雰囲気が残っている。歩きやすい。同じ県内なのだが、けっこう遠くに来た気がする。おにぎりせんべいの梅しそ味をはじめて食う。
夜、近鉄の鈴鹿市駅で降り、キング観光鈴鹿店の寿がきやでラーメン(二日連続)。こちらもエスカと同じ寿がきやの高級店だった。
基本、旅先ではラーメンかうどん、もしくはおにぎりでいい。ひとり旅だと食事を考えずにすむので気楽である。
二十日(月)、郷里の家から近鉄の四日市駅、JRの四日市駅まで歩く(青春18きっぷの有効利用)。
東京に帰る途中、木曽福島駅で下車した。中山道の福島宿、散歩の楽園みたいな町だった。福島の関所のあたりまで歩いてみようとおもったが、路地、抜け道も多く、あちこちに橋があり、急な階段、坂などがあって楽しい。木曽川もきれいだった。今のところ、中山道の中では木曽福島がいちばん歩いていて楽しかった。
この日は塩尻に宿泊。駅に着いた途端、雨。翌日は朝から下諏訪、上諏訪を歩く。
下諏訪は町中に地図や歩行者向けの標識があって旅行者に親切な町だとおもった。一時間百円のレンタサイクルの誘惑に抗いながら歩く。下諏訪は中山道と甲州街道の合流地点でもある。
上諏訪は諏訪湖沿いをのんびり散歩する。今回は塩尻に泊ったが、次は下諏訪に宿をとりたい。
街道歩きをしていると“歩道”の充実度と町のよしあしは関係している気がする。歩道の幅が狭くて、車がすれすれを走るようなところは安心して歩けない。人が歩けない町というのは町ではない……といったらいいすぎかもしれないが、歩いていて車が怖くかんじるところには住みたくない。
甲府、塩尻、中津川は交通の要所。この三つの駅の時間さえ見ておけば安心である。
青春18きっぷ、あと二回分残っている。期間中、石和温泉か下諏訪か、もう一泊くらいしたい。
午前七時、JR中央線で高円寺駅から高尾駅。高尾駅から甲府駅(山梨)、甲府駅から松本行の中央本線に乗ると、塩尻駅(長野)に十一時半ごろ到着する(四時間半)。
都心から離れていく電車だから空いている。ずっと座れた。
塩尻〜名古屋は普通電車でも約三時間半。塩尻〜中津川間だけ特急に乗ると、かなり楽かも。日中は塩尻〜中津川間の電車の本数が少ない。
いっぽうこの区間の中山道の宿場町の名所が多い。奈良井宿、福島宿、妻籠宿、馬籠宿……。
名駅のエスカの寿がきやラーメンを食い、快速みえで鈴鹿に帰る。四日市駅というか河原田駅から先は伊勢鉄道のため18きっぷは使えない。鈴鹿駅に着いたのは夜八時すぎ。道が暗い。もうすこし駅周辺に街燈がほしい。
十九日(日)、松阪へ。松阪から名松線で伊勢奥津駅に行く。名松線は九年前の台風の被害にあい、二年前まで運行していない区間があった。伊勢奥津は旧・美杉村(津市美杉町)ですね。こちらは『フライの雑誌』の取材……何だかどうだかわからない散歩をする。雲出川は名川。電車の窓からでも川底が見えるくらい水が透き通っている。
伊勢本街道の旧・美杉村界隈はかなり昔の雰囲気が残っている。歩きやすい。同じ県内なのだが、けっこう遠くに来た気がする。おにぎりせんべいの梅しそ味をはじめて食う。
夜、近鉄の鈴鹿市駅で降り、キング観光鈴鹿店の寿がきやでラーメン(二日連続)。こちらもエスカと同じ寿がきやの高級店だった。
基本、旅先ではラーメンかうどん、もしくはおにぎりでいい。ひとり旅だと食事を考えずにすむので気楽である。
二十日(月)、郷里の家から近鉄の四日市駅、JRの四日市駅まで歩く(青春18きっぷの有効利用)。
東京に帰る途中、木曽福島駅で下車した。中山道の福島宿、散歩の楽園みたいな町だった。福島の関所のあたりまで歩いてみようとおもったが、路地、抜け道も多く、あちこちに橋があり、急な階段、坂などがあって楽しい。木曽川もきれいだった。今のところ、中山道の中では木曽福島がいちばん歩いていて楽しかった。
この日は塩尻に宿泊。駅に着いた途端、雨。翌日は朝から下諏訪、上諏訪を歩く。
下諏訪は町中に地図や歩行者向けの標識があって旅行者に親切な町だとおもった。一時間百円のレンタサイクルの誘惑に抗いながら歩く。下諏訪は中山道と甲州街道の合流地点でもある。
上諏訪は諏訪湖沿いをのんびり散歩する。今回は塩尻に泊ったが、次は下諏訪に宿をとりたい。
街道歩きをしていると“歩道”の充実度と町のよしあしは関係している気がする。歩道の幅が狭くて、車がすれすれを走るようなところは安心して歩けない。人が歩けない町というのは町ではない……といったらいいすぎかもしれないが、歩いていて車が怖くかんじるところには住みたくない。
甲府、塩尻、中津川は交通の要所。この三つの駅の時間さえ見ておけば安心である。
青春18きっぷ、あと二回分残っている。期間中、石和温泉か下諏訪か、もう一泊くらいしたい。
2018/08/18
『蒐める人』イベント
来月、南陀楼綾繁さんの新刊『蒐める人 情熱と執着のゆくえ』(皓星社)の刊行記念のイベントがあります。
『sumus』『スムース文庫』初出のものにくわえ、古書日月堂の佐藤真砂さんのインタビュー、都築響一さんとの巻末対談を収録しています。出版社はちがうけど、前著『編む人 小さな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)と装丁が対になっています。
わたしは「日曜研究家」の串間努さんのインタビューに同行していて(十六年も前か)、串間さんと南陀楼さんのあまりの話の濃さにまったくついていけなかったことをおもいだした。「僕は趣味を持つときには、入門書を読んだり道具を集めたりして結局やらないタイプ」という串間さんの話は自分もその傾向があるので「それでもいいんだ」とほっとした気持になった。たしか「トランプの遊び方とか?」という質問をした。
それから「私の見てきた古本界七十年 八木福次郎」の回(二〇〇三年)は貴重だとおもいます。昭和十年代に神保町のすずらん通りで露店の古本屋が出ていた話は、その後の一箱古本市につながっているのかなと……。
第101回 西荻ブックマーク 南陀楼綾繁×岡崎武志×荻原魚雷
『sumus』から生まれた本のこと【東京篇】
西荻ブックマーク第101回目のイベント!
書物同人誌『sumus』や本について、同人である岡崎武志さん・荻原魚雷さんのお二人を交えて語り合います。
開催日:2018年9月9日(日)
開始:18時(17時30分開場)
終了:20時(予定)
会場:ビリヤード山崎2階(東京都杉並区西荻北3-19-6、西荻窪駅北口徒歩1分)
料金:1,000円
定員:50名(要ご予約)
詳細、ご予約はこちらから 西荻ブックマーク
『sumus』『スムース文庫』初出のものにくわえ、古書日月堂の佐藤真砂さんのインタビュー、都築響一さんとの巻末対談を収録しています。出版社はちがうけど、前著『編む人 小さな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)と装丁が対になっています。
わたしは「日曜研究家」の串間努さんのインタビューに同行していて(十六年も前か)、串間さんと南陀楼さんのあまりの話の濃さにまったくついていけなかったことをおもいだした。「僕は趣味を持つときには、入門書を読んだり道具を集めたりして結局やらないタイプ」という串間さんの話は自分もその傾向があるので「それでもいいんだ」とほっとした気持になった。たしか「トランプの遊び方とか?」という質問をした。
それから「私の見てきた古本界七十年 八木福次郎」の回(二〇〇三年)は貴重だとおもいます。昭和十年代に神保町のすずらん通りで露店の古本屋が出ていた話は、その後の一箱古本市につながっているのかなと……。
第101回 西荻ブックマーク 南陀楼綾繁×岡崎武志×荻原魚雷
『sumus』から生まれた本のこと【東京篇】
西荻ブックマーク第101回目のイベント!
書物同人誌『sumus』や本について、同人である岡崎武志さん・荻原魚雷さんのお二人を交えて語り合います。
開催日:2018年9月9日(日)
開始:18時(17時30分開場)
終了:20時(予定)
会場:ビリヤード山崎2階(東京都杉並区西荻北3-19-6、西荻窪駅北口徒歩1分)
料金:1,000円
定員:50名(要ご予約)
詳細、ご予約はこちらから 西荻ブックマーク
2018/08/17
色川武大、志摩に行く
十四日から十六日の三日間で四十時間くらい寝ていた。睡眠時間以外もほぼ横になっていた。熱はないが、すこし咽が痛くて、首と背中がこっている。夏風邪ですな。
風邪をひいたときは珈琲が飲めなくなる(ふだんは一日四、五杯飲む)。からだが楽になって、もう治ったかなとおもっても、珈琲が飲みたくないときは、すこし寝て起きると、やっぱり風邪のかんじが残っている。とくに起きぬけ一時間がきつい。風邪のせいとわかっていても、心が弱って自分の将来を悲観しまくってしまう。
風邪が治ったかどうかは、珈琲が飲みたくなるかどうかでわかる。珈琲は健康じゃないとおいしくない飲み物なのだ。
今日は風邪がぬけた感覚があったので、コンビニ(ファミリーマート)のコーヒーを飲んでみた(たまに飲みたくなる)。だいたい七十二時間休むと回復する。
病中、色川武大がどこかに愛知県の渥美半島の伊良湖から三重県の鳥羽に船でわたる話を書いていたなと本棚をあさっていたら『引越貧乏』(新潮文庫)の「暴飲暴食」にあった。ただし、未遂。
色川武大が東京から鳥羽か伊勢行き、そこから和歌山に行く旅の計画を立てる。和歌山に色川と名のつく村があり、以前から行きたいとおもっていた。その話を聞いた逐琢(ちくたく)が「俺も行く」といいだす。逐琢は鳥羽の奥のほうの村の生まれで学校を出たりやめたり入ったりを四十歳くらいまでくりかえし、四、五ケ国語をよくする同人雑誌仲間である。
《「——行き方に二通りあるんだ。どっちにするかね。豊橋でおりて、渥美半島の尖端まで行き、そこからフェリーで鳥羽に渡る」
「なにィ——」
「名古屋まで新幹線で行って、近鉄の特急に乗りかえて、伊勢市か鳥羽でおりる。——おい、どうしたんだ」》
さらに「急ぐ旅じゃァないだろ。お互い休暇のつもりだ。伊勢に泊ろうと渥美に泊ろうと、泊るというだけのことさ。——渥美半島はいいところらしいぜ。ところが俺は一度もそのコースで帰ったことがないんだ」と逐琢。結局、豊橋ではなく、名古屋までの新幹線の切符を買い、船で鳥羽にわたる話はうやむやになる。
「暴飲暴食」では、鳥羽に行く途中、松阪で下車、ステーキを食い、鳥羽で海の幸を食いまくる。さらに赤福も食べる。その後、鳥羽から逐琢の郷里の奥志摩へ。どこだろうとおもったら船越という土地だった。チャーターした車の運転手は「昔は船でしか行けんかった一帯ですがね。よう開けたもんですわ」と説明する。
わたしの母は志摩の生まれで子どものころよく行っていたのだが、船越のほうには行ったことがない。すこしはなれたところに深谷水路という太平洋と英虞湾を結ぶ運河がある。いつか行ってみたい。
鳥羽滞在後、ふたりは和歌山を訪れる。新宮駅に降り、レストランに入った途端、店に出入りする老若男女の顔つきに自分の顔に似ているとおもう。色川武大の顔はほりが深く、目鼻立ちがはっきりしている。若いころはハンサムだった。
《「おそろしいものだねえ、俺は生まれてはじめて、自分の国へ来たという感じがする」》
『引越貧乏』は色川武大が五十歳になって書きはじめた連作なのだが、そのくらいの齢になると自分のルーツのようなものが気になりだすのか。
先日、母から祖母と叔母が暮していた志摩の家は取り壊しが決まったと電話があった。元気なうちに行きたいところ行っておかないと……と病み上がりの頭で決意した。
風邪をひいたときは珈琲が飲めなくなる(ふだんは一日四、五杯飲む)。からだが楽になって、もう治ったかなとおもっても、珈琲が飲みたくないときは、すこし寝て起きると、やっぱり風邪のかんじが残っている。とくに起きぬけ一時間がきつい。風邪のせいとわかっていても、心が弱って自分の将来を悲観しまくってしまう。
風邪が治ったかどうかは、珈琲が飲みたくなるかどうかでわかる。珈琲は健康じゃないとおいしくない飲み物なのだ。
今日は風邪がぬけた感覚があったので、コンビニ(ファミリーマート)のコーヒーを飲んでみた(たまに飲みたくなる)。だいたい七十二時間休むと回復する。
病中、色川武大がどこかに愛知県の渥美半島の伊良湖から三重県の鳥羽に船でわたる話を書いていたなと本棚をあさっていたら『引越貧乏』(新潮文庫)の「暴飲暴食」にあった。ただし、未遂。
色川武大が東京から鳥羽か伊勢行き、そこから和歌山に行く旅の計画を立てる。和歌山に色川と名のつく村があり、以前から行きたいとおもっていた。その話を聞いた逐琢(ちくたく)が「俺も行く」といいだす。逐琢は鳥羽の奥のほうの村の生まれで学校を出たりやめたり入ったりを四十歳くらいまでくりかえし、四、五ケ国語をよくする同人雑誌仲間である。
《「——行き方に二通りあるんだ。どっちにするかね。豊橋でおりて、渥美半島の尖端まで行き、そこからフェリーで鳥羽に渡る」
「なにィ——」
「名古屋まで新幹線で行って、近鉄の特急に乗りかえて、伊勢市か鳥羽でおりる。——おい、どうしたんだ」》
さらに「急ぐ旅じゃァないだろ。お互い休暇のつもりだ。伊勢に泊ろうと渥美に泊ろうと、泊るというだけのことさ。——渥美半島はいいところらしいぜ。ところが俺は一度もそのコースで帰ったことがないんだ」と逐琢。結局、豊橋ではなく、名古屋までの新幹線の切符を買い、船で鳥羽にわたる話はうやむやになる。
「暴飲暴食」では、鳥羽に行く途中、松阪で下車、ステーキを食い、鳥羽で海の幸を食いまくる。さらに赤福も食べる。その後、鳥羽から逐琢の郷里の奥志摩へ。どこだろうとおもったら船越という土地だった。チャーターした車の運転手は「昔は船でしか行けんかった一帯ですがね。よう開けたもんですわ」と説明する。
わたしの母は志摩の生まれで子どものころよく行っていたのだが、船越のほうには行ったことがない。すこしはなれたところに深谷水路という太平洋と英虞湾を結ぶ運河がある。いつか行ってみたい。
鳥羽滞在後、ふたりは和歌山を訪れる。新宮駅に降り、レストランに入った途端、店に出入りする老若男女の顔つきに自分の顔に似ているとおもう。色川武大の顔はほりが深く、目鼻立ちがはっきりしている。若いころはハンサムだった。
《「おそろしいものだねえ、俺は生まれてはじめて、自分の国へ来たという感じがする」》
『引越貧乏』は色川武大が五十歳になって書きはじめた連作なのだが、そのくらいの齢になると自分のルーツのようなものが気になりだすのか。
先日、母から祖母と叔母が暮していた志摩の家は取り壊しが決まったと電話があった。元気なうちに行きたいところ行っておかないと……と病み上がりの頭で決意した。
2018/08/14
古山高麗雄の新刊
今日も暑いなあとおもってたら雷。急に強い雨が降ってきた。外に干していた洗濯物を慌ててしまう。夕方、小雨になったので買い物に行くと、駅近くのスーパーの店先に土嚢が積んであった。町に人が少ない。
四十代後半になり、十年前にはじめておけばよかったとおもうことがよくある。手間や体力を必要とすることが億劫になる。いってもしょうがないことだが、何をするにも時間が足りない。
《とにかく、わからないことだらけです。わからないことだらけで、結局私も、近々死んでしまいます。それでいいのだ、と思います》(古山高麗雄著『人生、しょせん運不運』草思社)
《人は、なんとか食っていけさえすればそれでいい、としなきゃ、とも思いました》(同書)
この八月、古山高麗雄の新刊が二冊刊行される。『プレオー8の夜明け』(P+D BOOKS)は表題作を含む短篇十六作。目次を見たら、わたしがもっとも好きな古山さんの短篇「日常」も収録されている。
《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》(「日常」)
二十代のころ、この短篇を読んで古山さんのファンになった。第三の新人と「荒地」の詩人が好きだったのだが、「戦中派」の作家の中で、古山さんの書くものがしっくりきた。「日常」を読んだとき、「文学はここにある」とおもえた。勘違いかもしれない。
もう一冊、今月二十一日に『編集者冥利の生活』(中公文庫)が刊行予定。中公文庫のほうは解説を担当した。表題の「編集者冥利の生活」はPR誌『春秋』の連載していた回想録——『本と怠け者』(ちくま文庫)でも紹介している。編集者だけでなく、仕事がうまくいっていない人に読んでほしい。
戦後、復員して河出書房の編集者の職についたが、会社が倒産。食べていくためにゴーストライターや校正の外注もした。転々と出版社を渡り歩いたが、そのたびに条件はわるくなる。
《反省すると、私には儲かる商品の企画力がない。組織の中の者として可愛げがない。ヘンな野郎である。お上手が言えない。好んで毒舌を弄したり、相手の嫌うことを言ったというわけではないのに、身に備わっている人間の持ち味が出世を拒む》
《私は学校を中途退学して以来、ずっと、しがない場所を歩き続けてきた。その自分を、諦めた目で見ている。そして、なんのよりどころもなく、まあなんとかなるだろうさ、と思っている》
『編集者冥利の生活』では古山さんが二十八歳のころに書いた幻のデビュー作「裸の群」も収録している。「裸の群」と「プレオー8の夜明け」とかなり似ている。ぜひ読み比べてほしい。今日、見本が届いた。すごくいい文庫だとおもいます。安岡章太郎との対談のことも書きたかったが、長くなるのでいずれまた。
わたしは今年の秋、四十九歳になる。ようやく古山さんが小説を書きはじめた齢になった。
この先も寝たり起きたりしながら文章を書く生活を続けたい。
四十代後半になり、十年前にはじめておけばよかったとおもうことがよくある。手間や体力を必要とすることが億劫になる。いってもしょうがないことだが、何をするにも時間が足りない。
《とにかく、わからないことだらけです。わからないことだらけで、結局私も、近々死んでしまいます。それでいいのだ、と思います》(古山高麗雄著『人生、しょせん運不運』草思社)
《人は、なんとか食っていけさえすればそれでいい、としなきゃ、とも思いました》(同書)
この八月、古山高麗雄の新刊が二冊刊行される。『プレオー8の夜明け』(P+D BOOKS)は表題作を含む短篇十六作。目次を見たら、わたしがもっとも好きな古山さんの短篇「日常」も収録されている。
《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》(「日常」)
二十代のころ、この短篇を読んで古山さんのファンになった。第三の新人と「荒地」の詩人が好きだったのだが、「戦中派」の作家の中で、古山さんの書くものがしっくりきた。「日常」を読んだとき、「文学はここにある」とおもえた。勘違いかもしれない。
もう一冊、今月二十一日に『編集者冥利の生活』(中公文庫)が刊行予定。中公文庫のほうは解説を担当した。表題の「編集者冥利の生活」はPR誌『春秋』の連載していた回想録——『本と怠け者』(ちくま文庫)でも紹介している。編集者だけでなく、仕事がうまくいっていない人に読んでほしい。
戦後、復員して河出書房の編集者の職についたが、会社が倒産。食べていくためにゴーストライターや校正の外注もした。転々と出版社を渡り歩いたが、そのたびに条件はわるくなる。
《反省すると、私には儲かる商品の企画力がない。組織の中の者として可愛げがない。ヘンな野郎である。お上手が言えない。好んで毒舌を弄したり、相手の嫌うことを言ったというわけではないのに、身に備わっている人間の持ち味が出世を拒む》
《私は学校を中途退学して以来、ずっと、しがない場所を歩き続けてきた。その自分を、諦めた目で見ている。そして、なんのよりどころもなく、まあなんとかなるだろうさ、と思っている》
『編集者冥利の生活』では古山さんが二十八歳のころに書いた幻のデビュー作「裸の群」も収録している。「裸の群」と「プレオー8の夜明け」とかなり似ている。ぜひ読み比べてほしい。今日、見本が届いた。すごくいい文庫だとおもいます。安岡章太郎との対談のことも書きたかったが、長くなるのでいずれまた。
わたしは今年の秋、四十九歳になる。ようやく古山さんが小説を書きはじめた齢になった。
この先も寝たり起きたりしながら文章を書く生活を続けたい。
2018/08/09
武田泰淳と東海道
東名高速道路の全線開通が一九六九年五月二十六日。来年五十周年になる。東海道新幹線の開通が一九六四年十月(東京オリンピックの年)。西ドイツを抜いて日本のGNPが二位になったのが一九七〇年。いわゆる「東洋の奇跡」である。
武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中公文庫)は一九六八年十一月に旅立つ(連載開始は毎日新聞で翌年一月四日から)。つまり東名高速道路の全線開通の年に執筆していたことになる。
《静岡と岡崎のあいだに高速道路が開通したばかりで、私たちはその前日、牧の原のサービスエリアで中食をとっていた。「祝開通東名高速道路 コカコーラ」その他、スポンサーつきのアドバルーンが赤白だんだらで十ヶ以上も揚がっていた》
自動車(運転手は武田百合子)による東海道漫遊記は時代風俗資料としても貴重である。武田泰淳の『新・東海道五十三次』では東海道をそれ、愛知県のあちこちをまわる。泰淳の兄は知多半島の新舞子の水産試験場で伊勢湾、三河湾の水産資源の生態を研究していた。戦後、「『愛』のかたち」の執筆時、泰淳は新舞子で一ヶ月ほどすごしている(原稿はほとんど書けなかった)。
《椎名麟三、梅崎春生の両氏が講演会の帰途、たち寄ってくれたのが何よりうれしかった》
『新・東海道五十三次』では、知多半島の常滑に下り、半田市、高浜町、碧南市、西尾市、一色町、幡豆町(はずちょう)を走る(一色町と幡豆町は二〇一一年に西尾市に編入)。幡豆町は名鉄蒲郡線。名鉄三河線の「山線(猿投〜西中金)」「海線(碧南〜吉良吉田)」といわれる区間が廃線になったのは二〇〇四年四月。西尾市には予備校時代の友人が住んでいるのだが、行ったことがない。
話がそれてしまったが、泰淳と百合子は三河湾沿いの町から浜名湖に行き、さらに豊橋に引き返し、伊良湖岬に向かう。
《渥美半島の突端まで行くには、豊橋から半島の内側を貫通する、田原街道の良く舗装された快適なドライブウェイがある》
伊良湖岬に向かう途中、武田泰淳は杉浦明平と会ったのかどうか。「会った」という記述はない。そのかわり——。
《杉浦明平氏には、ルポルタージュ「台風十三号始末記」(岩波新書)がある。
氏が町会議員となっていた福江町が、今では泉村、伊良湖岬村と合併して渥美町となった》
渥美町の合併は一九五五年四月十五日。さらに渥美町は二〇〇五年十月に田原市に編入された。伊良湖岬から再び豊橋を経て名古屋に向かう。名古屋では東山動物園、名古屋城、平和公園に行っている。
そして三重へ——。
自動車で東海道を走り抜けた泰淳はこんなふうに述懐している。
《峠の茶屋。その名物。およそ「峠をこえる」という感覚は、東名、名神の二つの高速道路を走っていれば、消え失せてしまう。橋もトンネルも坂も峠も一直線に同じ平面でつながっているのだから「河を渡った」という感覚さえうすれてしまう》
新幹線、高速道路は、日本人の旅をどう変えたのか。『新・東海道五十三次』は五十年後の「今」を予見している。
来年の東名高速道路全線開通五十周年にあわせて復刊してほしい。
武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中公文庫)は一九六八年十一月に旅立つ(連載開始は毎日新聞で翌年一月四日から)。つまり東名高速道路の全線開通の年に執筆していたことになる。
《静岡と岡崎のあいだに高速道路が開通したばかりで、私たちはその前日、牧の原のサービスエリアで中食をとっていた。「祝開通東名高速道路 コカコーラ」その他、スポンサーつきのアドバルーンが赤白だんだらで十ヶ以上も揚がっていた》
自動車(運転手は武田百合子)による東海道漫遊記は時代風俗資料としても貴重である。武田泰淳の『新・東海道五十三次』では東海道をそれ、愛知県のあちこちをまわる。泰淳の兄は知多半島の新舞子の水産試験場で伊勢湾、三河湾の水産資源の生態を研究していた。戦後、「『愛』のかたち」の執筆時、泰淳は新舞子で一ヶ月ほどすごしている(原稿はほとんど書けなかった)。
《椎名麟三、梅崎春生の両氏が講演会の帰途、たち寄ってくれたのが何よりうれしかった》
『新・東海道五十三次』では、知多半島の常滑に下り、半田市、高浜町、碧南市、西尾市、一色町、幡豆町(はずちょう)を走る(一色町と幡豆町は二〇一一年に西尾市に編入)。幡豆町は名鉄蒲郡線。名鉄三河線の「山線(猿投〜西中金)」「海線(碧南〜吉良吉田)」といわれる区間が廃線になったのは二〇〇四年四月。西尾市には予備校時代の友人が住んでいるのだが、行ったことがない。
話がそれてしまったが、泰淳と百合子は三河湾沿いの町から浜名湖に行き、さらに豊橋に引き返し、伊良湖岬に向かう。
《渥美半島の突端まで行くには、豊橋から半島の内側を貫通する、田原街道の良く舗装された快適なドライブウェイがある》
伊良湖岬に向かう途中、武田泰淳は杉浦明平と会ったのかどうか。「会った」という記述はない。そのかわり——。
《杉浦明平氏には、ルポルタージュ「台風十三号始末記」(岩波新書)がある。
氏が町会議員となっていた福江町が、今では泉村、伊良湖岬村と合併して渥美町となった》
渥美町の合併は一九五五年四月十五日。さらに渥美町は二〇〇五年十月に田原市に編入された。伊良湖岬から再び豊橋を経て名古屋に向かう。名古屋では東山動物園、名古屋城、平和公園に行っている。
そして三重へ——。
自動車で東海道を走り抜けた泰淳はこんなふうに述懐している。
《峠の茶屋。その名物。およそ「峠をこえる」という感覚は、東名、名神の二つの高速道路を走っていれば、消え失せてしまう。橋もトンネルも坂も峠も一直線に同じ平面でつながっているのだから「河を渡った」という感覚さえうすれてしまう》
新幹線、高速道路は、日本人の旅をどう変えたのか。『新・東海道五十三次』は五十年後の「今」を予見している。
来年の東名高速道路全線開通五十周年にあわせて復刊してほしい。
2018/08/08
木山捷平と伊良湖岬
木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』(講談社文芸文庫)を再読していたら「伊良湖岬——愛知」という一篇があることに気づいた。読んでいたことをすっかり忘れていた。今年、伊良湖岬に行ったときにもおもいだせなかった。
《名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ》
木山捷平は、島崎藤村の詩「椰子の実」の海を九州の南海岸のほうだとおもっていた。ところが、この詩の舞台は愛知県の伊良湖岬である。
新幹線で豊橋へ。A新聞の記者とカメラマンも同行。そこからハイヤーで伊良湖岬に向かう。この紀行文の初出は一九六五年二月の『週刊朝日』。途中、今、走っている道のことを運転手にたずねると、よく知らないと答えた。
木山捷平は、途中、渥美町に暮らす杉浦明平の家に寄る。杉浦明平は風邪をひいて寝込んでいた。杉浦明平に渥美半島を案内してもらうつもりだったが、アテが外れた。この部分は完全に忘れていた。杉浦明平の助言で陸軍試砲場の跡地に行く。
その後、渥美町から伊良湖岬に行き、船で鳥羽にわたる。鳥羽と伊良湖を結ぶ伊勢湾フェリーは一九六四年四月に設立で営業開始は同年十月——木山捷平はこのフェリーの運行開始直後に乗ったことになる(当時の船事情はもうすこし調べてみたい)。
《鳥羽からかえりみると、伊良湖は一つの島であるかのように見えた。万葉時代は伊勢の国の内であった事情ものみこめたような気がした》
今年、わたしは鳥羽のほうから伊良湖岬に渡って帰ってきたのだが、鉄道が普及する前は、東海道の吉田宿(豊橋)から伊良湖岬に出て船で伊勢に行く最短の道だったことを知った。ただし、伊良湖から鳥羽のあいだは波が穏やかではない。今のフェリーで約一時間の距離の船旅はけっこう大変だったとおもう。
今は三重県の津から中部国際空港に行く高速船もある(四十五分)。空港から名鉄空港線で常滑駅に出て、名鉄河和線の知多半田駅方面のバスに乗り、さらに武豊線で亀崎駅、そこから歩いて名鉄三河線の高浜港駅(三キロくらい?)に行き、東海道刈谷駅……というルートで東京に帰ってみたい。かなり遠回りになるが。
《名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ》
木山捷平は、島崎藤村の詩「椰子の実」の海を九州の南海岸のほうだとおもっていた。ところが、この詩の舞台は愛知県の伊良湖岬である。
新幹線で豊橋へ。A新聞の記者とカメラマンも同行。そこからハイヤーで伊良湖岬に向かう。この紀行文の初出は一九六五年二月の『週刊朝日』。途中、今、走っている道のことを運転手にたずねると、よく知らないと答えた。
木山捷平は、途中、渥美町に暮らす杉浦明平の家に寄る。杉浦明平は風邪をひいて寝込んでいた。杉浦明平に渥美半島を案内してもらうつもりだったが、アテが外れた。この部分は完全に忘れていた。杉浦明平の助言で陸軍試砲場の跡地に行く。
その後、渥美町から伊良湖岬に行き、船で鳥羽にわたる。鳥羽と伊良湖を結ぶ伊勢湾フェリーは一九六四年四月に設立で営業開始は同年十月——木山捷平はこのフェリーの運行開始直後に乗ったことになる(当時の船事情はもうすこし調べてみたい)。
《鳥羽からかえりみると、伊良湖は一つの島であるかのように見えた。万葉時代は伊勢の国の内であった事情ものみこめたような気がした》
今年、わたしは鳥羽のほうから伊良湖岬に渡って帰ってきたのだが、鉄道が普及する前は、東海道の吉田宿(豊橋)から伊良湖岬に出て船で伊勢に行く最短の道だったことを知った。ただし、伊良湖から鳥羽のあいだは波が穏やかではない。今のフェリーで約一時間の距離の船旅はけっこう大変だったとおもう。
今は三重県の津から中部国際空港に行く高速船もある(四十五分)。空港から名鉄空港線で常滑駅に出て、名鉄河和線の知多半田駅方面のバスに乗り、さらに武豊線で亀崎駅、そこから歩いて名鉄三河線の高浜港駅(三キロくらい?)に行き、東海道刈谷駅……というルートで東京に帰ってみたい。かなり遠回りになるが。
2018/08/06
葛西善蔵の口述筆記
古木鐵太郎の全集を買った……という話を書いたが、その何年か前に古木が葛西善蔵の小説の口述筆記をしていたことをどこかで読んだ気がしていた。今朝、おもいだした。木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』(講談社文芸文庫)の「椎の若葉——青森」である。
木山捷平は、青森の碇ケ関温泉に泊り、翌日、三笠山に登り、葛西善蔵の文学碑を見に行く。
《椎の若葉に
光あれ
親愛なる
椎の若葉よ
君の光の
幾部分かを
僕に恵め》
文学碑の裏には友人の谷崎精二による葛西善蔵の略伝が彫ってある。
《この碑文はいうまでもなく善蔵の名作『椎の若葉』の中の一節だが、この作品は当時(大正十三年)雑誌「改造」の青年記者だった古木鉄太郎氏が口述筆記したものである》
《筆記の場所は本郷の何とかという下宿屋で、酒ずきの善蔵は一ぱいやりながら口述をはじめた。はじめたのは午後三時ごろで、終ったのが午前三時ごろだった》
このエッセイは『古木鐵太郎全集』の別巻にも「『椎の若葉』より」として収録されている(途中、省略あり)。「何とかという下宿屋」は本郷の西城館だろう。
口述に行き詰まった葛西善蔵が犬や牛の物真似をした話も「椎の若葉――青森」で紹介している。わたしはそこだけ覚えていた。
葛西善蔵の口述筆記といえば、「酔狂者の独白」は嘉村礒多が担当している。
《自分は、今日も、と言つても、何んヶ年も出してみたことはないのだが、押入れから新聞紙包みの釣竿を出して見た》
「酔狂者の独白」はのんびりしたかんじではじまる小説だが、口述筆記の最中、葛西善蔵は嘉村礒多に「早く筆記して!」と急かした。ようやく筆記した原稿をその場で破り捨てることもあった。嘉村礒多の小説にも葛西善蔵の口述筆記をしていた話がある。
『葛西善蔵集』(山本健吉編、新潮文庫)で「湖畔手記」と「酔狂者の独白」を読んだのだが、字が小さくて苦労した。眼鏡を外したほうが読みやすい。老眼か?
木山捷平は、青森の碇ケ関温泉に泊り、翌日、三笠山に登り、葛西善蔵の文学碑を見に行く。
《椎の若葉に
光あれ
親愛なる
椎の若葉よ
君の光の
幾部分かを
僕に恵め》
文学碑の裏には友人の谷崎精二による葛西善蔵の略伝が彫ってある。
《この碑文はいうまでもなく善蔵の名作『椎の若葉』の中の一節だが、この作品は当時(大正十三年)雑誌「改造」の青年記者だった古木鉄太郎氏が口述筆記したものである》
《筆記の場所は本郷の何とかという下宿屋で、酒ずきの善蔵は一ぱいやりながら口述をはじめた。はじめたのは午後三時ごろで、終ったのが午前三時ごろだった》
このエッセイは『古木鐵太郎全集』の別巻にも「『椎の若葉』より」として収録されている(途中、省略あり)。「何とかという下宿屋」は本郷の西城館だろう。
口述に行き詰まった葛西善蔵が犬や牛の物真似をした話も「椎の若葉――青森」で紹介している。わたしはそこだけ覚えていた。
葛西善蔵の口述筆記といえば、「酔狂者の独白」は嘉村礒多が担当している。
《自分は、今日も、と言つても、何んヶ年も出してみたことはないのだが、押入れから新聞紙包みの釣竿を出して見た》
「酔狂者の独白」はのんびりしたかんじではじまる小説だが、口述筆記の最中、葛西善蔵は嘉村礒多に「早く筆記して!」と急かした。ようやく筆記した原稿をその場で破り捨てることもあった。嘉村礒多の小説にも葛西善蔵の口述筆記をしていた話がある。
『葛西善蔵集』(山本健吉編、新潮文庫)で「湖畔手記」と「酔狂者の独白」を読んだのだが、字が小さくて苦労した。眼鏡を外したほうが読みやすい。老眼か?
2018/08/01
古木鐵太郎の話
朝五時、近所を散歩。空は明るい。月が見える。
古木春哉著『わびしい来歴』(白川書院)がおもしろかったので、父の古木鐵太郎の本を読んでみたくなった。
読みたいときが買いどき。『古木鐵太郎全集(全三巻+別巻)』を衝動買い。すこし前に、別の古木鐵太郎の本をネットで購入したら、目次にびっしりと書き込みがあり、本文中に線引があった。安い本ではなかった。返品を申し入れたところ、返金してもらえた(本を返すための送料はどうすればいいのだろう? その後、何の連絡もない)。
古木鐵太郎は一八九九年七月十三日生まれ(一九五四年三月二日に亡くなった)。
もともと改造社の編集者で志賀直哉の「暗夜行路」、葛西善蔵の「椎の若葉」を担当した。「椎の若葉」は古木鐵太郎が口述筆記している。酔っぱらった葛西善蔵は犬の物真似をした。「湖畔手記」の担当も古木だった。
先日『フライの雑誌』の堀内正徳さんも、あさ川日記に葛西善蔵のことを書いていた。
《葛西善蔵はあの時代に、仕事をするために籠った湯ノ湖の宿へわざわざ自前の釣り竿を持ち込んでいる。温泉入って釣りなんかしてたら、そりゃ作はできないですよ善蔵さん》(「きれいな川と元気な魚」/あさ川日記より)
『古木鐵太郎全集』所収の随筆を読むと、日光には葛西善蔵だけでなく、古木も同行していた。
《この日光湯本滞在の時が、葛西さんには最も楽しかつた期間ではなかったらうか。よく二人で湖畔を歩いたり、戦場ケ原に遊びに行つた》(葛西さんのこと)
『湖畔手記』は二、三年に一回くらい読み返したくなる。ぐだぐだ感がたまらない。
古木鐵太郎は「散歩の作家」とも呼ばれていた。
高円寺から野方あたりをよく歩いている。上林曉や木山捷平の随筆にも古木鐵太郎の名前は出てくる。改造社時代に上林曉と知り合い、いっしょに同人雑誌も作った(上林曉と共著もある)。井伏鱒二とも親交があった。中央線文士とのつながりがけっこう深い。
古木の妻は佐藤春夫の妻(谷崎潤一郎の元妻)の妹でもあった。生活苦に陥っていた古木鐵太郎に佐藤春夫が編集の仕事を紹介しようとしたが、それを断り、以後、疎遠になったらしい。
全集の別巻には尾崎一雄の古木鐵太郎の追悼文も収録されている。
《古木君の作品は、非常に特色あるものだ。即ち、古木君の作品ほど、素直な小説を、私は古今東西に亘って読んだことがないのだ。(中略)気持にも文章にも、全然ヒネつたところや企んだところの無い小説――どう考えても珍しい小説だと思ふ》
読みはじめたばかりなのだが、すでに古木鐵太郎に魅了されている。いい人そう。
古木春哉著『わびしい来歴』(白川書院)がおもしろかったので、父の古木鐵太郎の本を読んでみたくなった。
読みたいときが買いどき。『古木鐵太郎全集(全三巻+別巻)』を衝動買い。すこし前に、別の古木鐵太郎の本をネットで購入したら、目次にびっしりと書き込みがあり、本文中に線引があった。安い本ではなかった。返品を申し入れたところ、返金してもらえた(本を返すための送料はどうすればいいのだろう? その後、何の連絡もない)。
古木鐵太郎は一八九九年七月十三日生まれ(一九五四年三月二日に亡くなった)。
もともと改造社の編集者で志賀直哉の「暗夜行路」、葛西善蔵の「椎の若葉」を担当した。「椎の若葉」は古木鐵太郎が口述筆記している。酔っぱらった葛西善蔵は犬の物真似をした。「湖畔手記」の担当も古木だった。
先日『フライの雑誌』の堀内正徳さんも、あさ川日記に葛西善蔵のことを書いていた。
《葛西善蔵はあの時代に、仕事をするために籠った湯ノ湖の宿へわざわざ自前の釣り竿を持ち込んでいる。温泉入って釣りなんかしてたら、そりゃ作はできないですよ善蔵さん》(「きれいな川と元気な魚」/あさ川日記より)
『古木鐵太郎全集』所収の随筆を読むと、日光には葛西善蔵だけでなく、古木も同行していた。
《この日光湯本滞在の時が、葛西さんには最も楽しかつた期間ではなかったらうか。よく二人で湖畔を歩いたり、戦場ケ原に遊びに行つた》(葛西さんのこと)
『湖畔手記』は二、三年に一回くらい読み返したくなる。ぐだぐだ感がたまらない。
古木鐵太郎は「散歩の作家」とも呼ばれていた。
高円寺から野方あたりをよく歩いている。上林曉や木山捷平の随筆にも古木鐵太郎の名前は出てくる。改造社時代に上林曉と知り合い、いっしょに同人雑誌も作った(上林曉と共著もある)。井伏鱒二とも親交があった。中央線文士とのつながりがけっこう深い。
古木の妻は佐藤春夫の妻(谷崎潤一郎の元妻)の妹でもあった。生活苦に陥っていた古木鐵太郎に佐藤春夫が編集の仕事を紹介しようとしたが、それを断り、以後、疎遠になったらしい。
全集の別巻には尾崎一雄の古木鐵太郎の追悼文も収録されている。
《古木君の作品は、非常に特色あるものだ。即ち、古木君の作品ほど、素直な小説を、私は古今東西に亘って読んだことがないのだ。(中略)気持にも文章にも、全然ヒネつたところや企んだところの無い小説――どう考えても珍しい小説だと思ふ》
読みはじめたばかりなのだが、すでに古木鐵太郎に魅了されている。いい人そう。