2024/06/27

アメリカの伊能大図

 神保町、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。悠久堂書店の店頭ワゴンでアメリカ伊能大図展実行委員会編『アメリカにあった伊能大図とフランスの伊能中図』(日本地図センター、二〇〇四年)を買う。二〇〇四年四月の神戸市立博物館の特別展「伊能忠敬の日本地図展」のチケットもはさまっていた。この年、神戸市の特別展だけでなく、仙台、熱海、名古屋でも伊能図の博物館展が開催されている。

 二十数年前の展覧会の図録を見るたびに「ああもっと早く(街道や地図に)興味を持っていれば」と悔しくなる。三十代のころは古本とレコードのインドア趣味に浸っていて、街道を歩くなんて発想すらなかった。
 わたしの場合、四十代で体力の衰えを感じ、腰痛、五十肩、神経痛を経験して「歩けること」が楽しく、ありがたくおもえるようになった。季節や景色の変化もそう。五十代になると、どこを旅しても「この季節にここを歩くのはこれが最後かもしれない」みたいな気分によくなる。若いころにはなかった感傷だ。

 伊能忠敬(一七四五〜一八一八)が測量をはじめたのは一八〇〇(寛政十二)年、五十五歳。駿河〜尾張は第四次測量(一八〇三年、享和三)。遠江三河の浜名湖の地図は鳥瞰図になっている。伊能図を見ているうちに、あらためて浜名湖を迂回する姫街道をもっと歩きたくなった(ちょこちょこ歩いている)。浜名湖周辺、風景もすごくいい。天浜線も乗りたい。

 図録の「四日市、亀山」のキャプションは「東海道と伊勢参宮街道が分かれる場所である。石薬師、庄野など、東海道で馴染みの深い地名が出てくる」と記述。
 忠敬が伊勢街道を歩いたのは一八〇八(文化五)年。東海道と伊勢参宮街道が分かれる場所は日永の追分。東海道からはちょっと離れている鈴鹿市の椿大神社も記されている。現在、神社までは市のコミュニティバスあり。

 わたしは今年の秋五十五歳になる。デジタル万歩計を買ったのは二〇〇八年夏——三十八歳のときである。街道の研究をする前だが、そのころから歩くことに興味を持ちはじめていた。その後、二〇一六年五月に父が亡くなり、郷里(三重県)に帰省したとき、車なしで過ごさないといけなくなり(わたしと母は車の免許がない)、「これからは歩くしかない」という気持になった。武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)を読んだのがきっかけで街道本を集めはじめ、街道歩きをはじめた——という話をこれまで何度か書いてきたが、三重にいるときに車で移動できなくなったことも今の散歩生活につながっている。

 二十代のはじめごろ「人は頭より足から衰える」と父と同年のある評論家に教えられた。わたしが万歩計を買った翌年——二〇〇九年七月にその方は亡くなっている。お会いしたのは二回だけど、けっこう自分の記憶に刻まれている。

2024/06/25

山梨縣観光案内図

 土曜の昼、西部古書会館。『山梨縣観光案内図』(日本観光案内社/静岡市)が三百円。金沢書店(東中野・神保町)が出品。山梨の鳥瞰地図はずっと探していた。嬉しい。
 地図の作者は内藤雅文。作者名、丸一日わからなかった。山梨県と東京の県境付近、奥多摩あたりに赤い丸に囲まれた赤い文字で「ないとう」+違う字体の黒字で「雅文」と記されている。生没年不詳。
 地図の裏に山梨の名所の写真。
 別紙の身延山案内に山梨交通株式會社の広告がある。山梨交通の発足は一九四五年二月。地図の裏に山梨交通のロマンスカー(バス)の写真あり。昇仙峡あたりを走っていたとおもわれる。
 地名その他の漢字の表記を見ると旧字体と新字体が混ざっている(新字体は一九四九年〜)。地図を見ていると石和駅(現・石和温泉駅)付近に赤字で「小松農場」と記されている。地図裏の写真のキャプションには「本邦無比小松遊覧農場」とある。
 ブログ「観覧車通信」の「懐かしの遊園地 山梨県・小松遊覧農場の観覧車」に同社の創業は一九〇七年(現在の会社設立は一九五一年)とあった。同ブロクの作者は『観覧車物語』(平凡社、二〇〇五年)などの著作がある福井優子さん。『山梨縣観光案内図』の小松農場の写真には観覧車らしきものは写っていない。広い果樹園のように見える。

『山梨縣観光案内図』の発行年は旧字体と新字体の移行期、一九五〇年前後かなと……。

 すこし前に読んだ土橋治重著『甲斐路 日本の風土記』(宝文館、一九五九年)に「石和及び笛吹川附近」(内田義広)の「果実郷の随所から三十八度の温泉が湧出」し、「石和温泉郷の名で呼ばれ、親しまれる日もま近なことであろう」と記されていた。
 わたしは石和温泉が好きで町も気にいっている。笛吹市と甲府市の境あたりに宿をとり、甲州街道を歩く。すこし歩くと酒折の古道もある。石和が温泉郷になったのは昭和三十年代でそんなに昔の話ではない。

(追記)『山梨縣観光案内図』の別紙、頁が抜けている(……ことに後日気づいた)。

2024/06/17

かくしあらば

 旅行から帰ってくるとしばらく朝型になる。そのうち夜型に戻るだろう。
 つかだま書房T氏に教えてもらった野方の喫茶店で窪田空穂記念館編『窪田空穂 人と文学』(柊書房、二〇〇七年)を読む。
 ぱっと開いた頁に「隠者ぞとおもふにたのしかくしあらば老のこころに翅の生ひむ」という歌があった。
 一九四六年、数え年七十のときの歌らしい。付箋貼る。「かくしあらば」の意味合いは後で調べる。

 空穂の老境の歌には「命一つ身にとどまりて天地(あめつち)のひろくさびしき中にし息す」というのもある。あと「最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり」は没後に発見された歌だけど、ただただすごいなと。

 窪田空穂は一八七七年六月長野生まれ。一九六七年四月没。享年八十九。最晩年まで歌集を出し、新聞に連載もしていた。

 窪田空穂記念館は長野県松本市にある。一九九三年六月開館した。
 かれこれ二十五年くらい文学館関係の本や資料を集めている。よく知らない詩人作家の本も買う。写真や年譜を見ているうちに作品も読みたくなってくる。

 野方から練馬まで散歩。日傘+歩きスマホの人が直進してくる。避けづらい。環七の歩道橋からスカイツリーを見る。東武ストア、プラザトキワ、ライフを巡回する。プラザトキワ、品揃えが郷里のショッピングセンターっぽい。夏用の通気性がよさそうで丈夫そうな靴下を買う。東武ストアでスガキヤの袋麺、ライフでパンを買う。練馬駅からバスで高円寺に帰る。

 高円寺三キロ圏内の散歩をしているうちに西武線沿線の野方駅〜鷺ノ宮駅は暮らしやすそうだなとおもうようになった。
 鷺宮は中央線の高円寺駅〜荻窪駅に歩いていけるし、バスもある。
 散歩好きの古木鐵太郎は高円寺大和町野方と転々と引っ越し、終の住処を鷺宮に決めた。わたしは鷺宮付近の妙正寺川沿いのくねくねした道が気にいり、よく行くようになった。歩いていて楽しい町である。

 木曜、曇り空だったけど、高円寺駅(阿佐ケ谷寄りのホームの端)から富士山が見えた。冬の晴れた日ほどではないが、くっきり見えた。
 先日、国立市の富士見通りのマンション解体のニュースがあったが、わたしは高円寺駅から見える富士山を隠す建造物ができたら、すごくいやだ。でも国立市のような反対運動は起きないだろう。
 景観の問題がむずかしいのは「衣食足りて」の先の案件だからかもしれない。食うに困ることに比べたら、富士山が見えるか見えないかの優先順位が低くてもしょうがない。それでも声を上げるが人はいたほうがいい。
 そもそも大気汚染がひどかったころは晴れていても富士山は見えなかった。海も川もどろどろだった。

 何年か前まで、夏になると、日中、環七付近はしょっちゅう光化学スモッグ警報が鳴っていた。そんな中、散歩しようとはおもわない。
 油が浮いていた郷里の川が透明になったのを見たとき、この何十年の(経済の)停滞にも意味があったとおもえた。

2024/06/12

帰郷

 梅雨の前に郷里の家のカビ対策をしたいと考えていた。先週、高松の福田賢治さんが近々岡山の宇野港で「途中でやめる」の山下陽光さんのイベントがあると教えてもらい、帰省と絡めて岡山に旅行することにした。

 土曜午前中の新幹線で名古屋。エスカの寿がきや、五月二十七日に閉店していたことを知る。
 近鉄で久居に行き、日々詩喫茶室。アイスコーヒーとトースト。そのあと三時すぎ、白子駅に行き、そよら鈴鹿白子に行く。今年三月末、そよらにたこやき専門店たこ寿併設のスガキヤができたのだ。肉入ラーメンを食う。
 そよらの前の広場(つどいの広場)に長蛇の列ができていた。シンガーソングライターの伊藤歌詞太郎さんのフリーライブがあったようだ。伊藤さん、サインしながらファンに話しかけていた(わたし遠くから見ただけ)。
 白子からバスか近鉄かすこし歩いて伊勢鉄道で帰るか迷った末、近鉄で帰った。夜まで家の掃除をする(激落ちくんと小型のブラシを持参)。母から三月に鈴鹿で起きたある事件の詳報を聞く。

 日曜午前中から近鉄阪神山陽電鉄で山陽姫路駅——私鉄だけで鈴鹿から姫路まで行くというのが今回の旅の目標の一つ。姫路岡山間は新幹線に乗る。岡山駅から宇野駅と鈴鹿から七時間かけて宇野港に向かう。「途中でやめる」のイベント会場の東山ビルに到着した。人がいない。ビルにいた人に聞くと「昨日じゃないですかね」といわれる。
 日にちを間違えた。山下さんのイベントの日を聞いて、その前後のどちらかに三重に帰省する計画を立て、そうこうするうちに勘違いしてしまったのだ。でも宇野港と茶屋町の周辺の金毘羅街道を歩けたのでよしとする。

 夕方六時半ごろ、再び姫路へ。おひさまゆうびん舎に行く。高木護著『なんじゃらほい』(未来社、一九八一年)を一冊。その後、西明石のスマイルホテルへ。格安(三千円台)で大浴場付で最上階の広い部屋に泊まれた。荷物を置き、駅前の餃子の王将で食事、コンビニでビールとつまみを買う。

 月曜午前九時、西明石駅から新快速。岡山と兵庫の県境あたりは昔話に出てきそうな風景が残る。そのあと野洲駅で乗り換え米原駅。米原から垂井駅に正午前に到着。早起していたが、平日の移動は通勤通学の時間をズラしたほうがよいと判断した。
 JR西日本の駅から電車に乗り、JR東海の駅で降りたのでスイカのエラーが出た。垂井駅は無人駅。インターホンで鉄道会社の人とやりとりして無事精算できた。前に小田原駅から三島駅に移動したときも同じ経験をした。有人駅でも不便だと感じたのだが、無人駅だとかなり面倒くさい。交通系ICを利用している海外の旅行者はかなり困るのではないか。

 この日は垂井宿から赤坂宿まで中山道を歩く。宿場間は五・七キロ。近い。でも暑い。垂井宿は美濃路と中山道が合流する宿場町。青墓にも寄る。青墓は浄瑠璃「小栗判官」の舞台でも知られる土地である。杭瀬川も渡る。道に中山道、美濃路の標識があり、安心して歩けた。
 美濃赤坂駅まで歩いたが午後二時あたりだったせいか、電車がない。養老鉄道の東赤坂駅まで歩くと、ちょうど大垣方面の電車が来ていたのだが、踏切がしまっていてホームに行けない。踏切が開くのを待っているうちに電車が行ってしまった。次の電車は四十分後である。いい休憩になった。あらかじめ電車の時間くらい調べておけとおもう人もいるかもしれないが(自分でもおもう)、養老鉄道は一時間に一、二本走っていることは知っていたし、仮に電車が来なければ大垣まで歩けばいいと考えていたのだ。
 そのまま電車に乗れていたら、大垣から墨俣まで歩くつもりだった。予定を変更して大垣駅周辺をすこしだけ歩いて田中屋せんべい総本家で土産(自分用)を買い、名古屋から新幹線で東京に帰る。

 行きも帰りもひかりに乗った。東京〜新大阪、新大阪〜東京のひかりは自由席が空いている確率が高い(自由席の車両も多い)。時間はのぞみと数分しか変わらない。
 家に帰ると右足の指にマメができかけていた。大垣〜墨俣散策を決行していたら、すくなくとも五、六キロは歩いていたとおもうので電車に乗り遅れて結果オーライか。
 予定通りいかないことばかりだったけど、こういう旅もそれなりに面白い。

2024/06/07

途中下車

 高松から『些末事研究』の福田賢治さんが上京し、高円寺南口の蟹ブックスで待ち合わせ。そのあとコクテイル書房。ビールを注文したら「珍しいね」といわれる。酒を飲んだ翌日、ウイスキーだと手の痺れを感じたことが何度かあった。ウイスキーと神経痛と相性がよくないのではないかと考え、すこし前から、ちがう酒を飲むようにしている。この日はウイスキーは一杯だけ飲んだ。一杯くらいなら大丈夫と判明した。どうでもいい話だ。

 日常というものはどうでもいいことの積み重ねである。散歩して読書して家事をして仕事してという一日をくりかえしている。

 五月中旬、掃除機が壊れた。二十年くらい同じメーカーの小型掃除機(日立のこまめちゃん。深緑色)を愛用していた。今は製造していない。仕事部屋でつかっているリサイクルショップで七百円で買った同じメーカーの同型同色の掃除機を自宅に運び、新たな掃除機を探す。

 高円寺は無人のカプセルトイの店が増えた(阿佐ケ谷も)。ここ数年、コインランドリーも増えた。コンビニ、スーパーの無人レジも増えた。高円寺と阿佐ケ谷のガード下に牛タンやらラーメン(冷凍)やらの自販機が並ぶエリアもある。

 JR中央線の高円寺駅と阿佐ケ谷駅はみどりの窓口がなくなった。営業が終了したのは二〇二二年三月十八日。それ以降、隣の中野駅のみどりの窓口に二度行った。いずれも金券ショップで買った新幹線の切符を日付変更するためである。無人化するのであれば、券売機で日付の変更できるようにしてほしい。

 かつての金券ショップは新幹線の回数券を買取、販売していた。近年は一ヶ月くらい先の乗車日指定券を取り扱っていることが多い。だから使うときに日付変更の手続きが必要になる。

 以前、郷里(三重)に帰省するときは東京から名古屋の新幹線(自由席)の切符をよく買っていた。帰りの切符も名古屋駅の地下街(エスカ)の自販機で買う。七、八百円安くなる。コロナ禍中は東京名古屋の新幹線(自由席)の切符が八千円台のときもあった。さすがにもうその値段では買えない。

 わたしの場合、中野や荻窪あたりは散歩圏だけど、電車で往復すれば三百円かかる。仮に金券ショップで通常の切符より七百円くらい安く買ったとしても隣駅のみどりの窓口に電車で往復して手続きするのはかなり面倒くさいし、割りに合わないとおもう人も多いだろう。

 わたしも以前と比べて金券ショップを利用しなくなった。新宿駅から小田急で小田原駅まで行って、在来線で途中下車しながら三重に帰省するようになったからだ。急ぎのときは小田原、熱海、三島のいずれかの駅からこだまに乗り浜松まで行く。浜松まで行けば豊橋まであっという間だし、豊橋まで行けば名古屋までJRも名鉄もある。

 三重に帰省中、京都に遊びに行くときも、途中、岐阜と滋賀の宿場町に寄る。途中下車は楽しい。