2025/08/12

腓返り

 晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課。猛暑、天候不順で晴れの日一万歩の目標を達成できない日が続く。
 後藤明生著『しんとく問答』(講談社、一九九五年)の表題作「しんとく問答」に郷土史散策に向かうカバンの中に地図や街道の本の他、「カロリーメイト」「缶入りウーロン茶」「写ルンです」「エアーサロンパス」を入れている。
「エアーサロンパス」は「とつぜん起るかもしれない腓返りに備えてである」とのこと。

 初読時、夏の話かとおもったが、今回再読したら十月下旬と書いてあった。けっこう読みちがいをしている。

 一万歩の散歩を控えていたのは、数日前、散歩中に右のふくらはぎが腓(こむら)返りになったからだ。腓返りは就寝中や運動中の水分やミネラル不足が原因といわれている。出かける前、水で薄めたソルティライチを水筒に入れていたのだが、飲まずに歩き続けてしまった。中年になると、のどの渇きが鈍くなる。足の痛みはおさまったが、違和感が残っている。

「しんとく問答」の初出は『群像』一九九五年三月号。後藤明生は一九三二年四月生まれだから、六十二歳のときの作品である。後藤明生の「エアーサロンパス」云々のところは、本当に「とつぜん」くるのだなと痛感した。

 体のさまざまな部位の中で、足に水分不足のシグナルが出るのは面白い。これ以上動いたら危ないということだ。
 心労や頭の疲れは気づきにくい。休まないといけない状態にもかかわらず、つい無理をしてしまう。わたしは目の疲れを自覚したら、横になって休むか、軽めの散歩をするようにしている。外に出て歩くと気分がいい。すっきりする。

 雨の日が続き、小雨の中、高円寺界隈を歩く。駅すぐの東急ストアは店内を改装——調味料などの割引コーナーで十勝豚丼のたれを買う。高円寺駅の北口のロータリーと芸術会館通り、それから南口の南中央通り(高円寺南四丁目)は風がよく通る。夏の夜に歩くと心地よい。

 八月上旬の散歩中、右足のふくらはぎが傷めたのだが、ようやく完治した。高校野球やプロ野球でも、選手が足をつって倒れているシーンを目にする。
 選手たちは傷めたほうの足を上げて水分補給をしている。

 九日の土曜日、西部古書会館夕方、『没後一五〇年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳』(太田記念美術館、NHKプロモーション、二〇一一年)の図録を買う。手にとった瞬間、「ほしい」とおもった。縦二十八センチ、横二十五センチの大判で二百九十頁くらいある。「没後一五〇年記念」の国芳の図録は、岩切友里子監修、日本経済文化事業部編の『没後150年 歌川国芳展 Kuniyoshi』もあるようだ(他にもあるかもしれない)。表紙、判型、ページ数もちがう。「日本の古本屋」で四、五千円(送料込み)くらい。
 図録の相場はよくわからない。国芳は猫や金魚の絵が有名だが、東都名所、東都冨士見三十六景などの風景画もよかった。洋画の手法をけっこう取り入れている。今回買った図録は、元の西洋画と国芳の絵と並べて掲載している。解説にも国芳が西洋画の影響を受けていたことについて詳しく記されていた。
 明治期の文学は海外の作品を換骨奪胎したものが多いのだが、模倣から独自性を生み出していく過程は興味深い。

 ものすごく斬新におもえる作品もたいてい元ネタがある。どのような影響の受け方をするかということも個性なのかもしれない。

2025/08/09

立秋

 庄野潤三著『世をへだてて』(講談社文芸文庫、二〇二一年)を読む。冒頭の「夏の重荷」の初出は『文學界』一九八六年七月(に発表……と同文庫の年譜にある)。庄野潤三は一九二一年二月生まれ、六十五歳のときの随筆である。「夏の重荷」は、福原麟太郎著『命なりけり』(文藝春秋新社、一九五七年)所収の「秋来ぬと」の話からはじまる。
 ここ数年、福原麟太郎の話を何度となく書いているが、『世をへだてて』を読んだことも関係している。
 福原が六十歳で心臓の発作で入院、病院で五ヶ月過ごした。庄野潤三も「六十の坂を越したところで突然予期しない病気にかかって入院加療を余儀なくされた」。予期しない病気は脳内出血だった。
 福原と同じくらいの年齢のときに庄野も入院し、「秋来ぬと」を「一層身近な気持で読み、励ましを受けるようになった」。庄野は福原の随筆を読みながら「手探りで健康と生活の立て直し」を計ろうとする。

 わたしは今年の秋で五十六歳になる。「健康と生活の立て直し」か。中年以降、大病はしていないが、やや不調が続いている。もはやそれが常態なのだと認めざるをえない。

 福原が「秋来ぬと」を書いた夏の話。

《八月七日。三十三度九分の暑さと新聞に出ていたから、郊外の私の家でも三十二度には昇ったであろう》

 福原が狭心症で入院したのは一九六五年。「秋来ぬと」の文中「私は去年の七月から心臓病をわずらって」とあるから「八月七日」は一九六六年の立秋。この年、七月の終わりから急に暑くなった。

《この暑さは、結局、十日続いた。翌九日からは、思いがけず、すこし曇って来て、湿度も上らず、久しぶりに息をついた》

 昭和の昔、立秋(八月七日ごろ)を過ぎると、徐々に涼しくなりはじめた。今はちがう。夏が終わりそうな気配がまったくない。気温三十三度九分なら、ちょっと楽かとさえおもってしまう。

 わたしはこの文章を八月七日の夜から書きはじめ、九日の昼になった。昨日の夜、すこし散歩をしようとおもっていたのだが、高校野球(綾羽対高知中央)の試合が続いていて最後まで見た。九回表二アウトから相手チームのエラーで綾羽が同点に追いついた。さらに九回裏のピンチを乗り切り、延長十回のタイブレークで勝敗を決した。午後十時四十六分の試合決着は高校野球では“史上最遅”と知る。

 野球を見ていると時間が溶ける。

 福原麟太郎、庄野潤三の二人も野球好きだった。

 庄野潤三著『山の上に憩いあり』(新潮社、一九八四年)に福原麟太郎との「対談 瑣末事の文学」(一九七五年)が収録されている。
 福原は午後六時にプロ野球のナイターがはじまると最初の一時間はラジオを聴き、午後七時からテレビで見る。庄野もまったく同じことをしていると対談で語っている。

 この対談で印象に残っているのは福原の次の言葉である。

《福原 わたしはね、もっと若いときは、十二時から二時まで勉強していたんです。(中略)そんなことをやっていましたが、朝はだめなんです。朝した仕事というのはほとんどありません。(笑)低血圧的なんですよね。低血圧の人というのは、午前中は頭が働かないんじゃなですか》

 わたしも朝が弱い。というか、だいたい寝ている。朝寝昼起だが、昼も頭が働かない。夜が近づくにつれ元気になる。昨日今日の話ではなく、子どものころからそうだった。

 福原麟太郎は入院して以降、「蒸留したお酒ならばいい」と医者にいわれ、ウイスキーを飲んでいた。一週間でボトル一本。「瑣末事」なのだが、わたしはこういう話を読むのが好きである。
 二十代三十代のころは本を読むことで自分を変えたいという気持があった。五十代半ばを過ぎると「こんな人生だけど、これでいいや」とおもえるような文章が読みたくなる。
 自己批判とまではいかなくても自己検討は体力を要する。年をとり、自分の判断能力にたいする懐疑をなくす。それでダメになった先人をたくさん見てきた。

 知りたいこと、調べたいことがあちこちにバラけて収拾がつかなくなる。 

2025/08/05

雑記

 月曜、夕方神保町。新刊書店を回る。小泉八雲の本が目立ちはじめる。秋からNHKの朝のドラマが放映されるようだ。八雲の人生論や読書論が復刊されたら読んでみたい。福原麟太郎の随筆にも八雲の名はちょくちょく出てきた。すずらん通りで神田伯剌西爾の竹内さんと会う。神保町の三省堂書店の近況を教えてもらう。そのまま店に行き、アイスコーヒーを飲む。

 このところ神保町に行くと帰りはだいたい四ツ谷駅まで歩く。夜、外濠付近は風が気持いい。建物が密集している場所より涼しく感じる。靖国通りの歩道を左右に行き来しつつ、東京タワー、スカイツリー、ドコモタワー、雪印の看板(たぶん午後八時ごろ消える)を見る。
 市ケ谷駅のすこし手前から新宿方面、屋上が波形で赤とか青とかに光っているビルが見える。ずっとこの建物の名前がわからなかったのだが、東急歌舞伎町タワー(二〇二三年四月開業)と判明した。高さは約二百二十五メートル。

 福原麟太郎著『天才について』(講談社文芸文庫、一九九〇年)を再読する。太平洋戦争末期、福原麟太郎は強制疎開で家を失いながらも、東京に残り、英文学の講義を続けていた。

《私は日本が敗けたら英語の教師など馬鹿馬鹿しくてやっていられないだろうと思っていた。然し敗けるまで、生きている限り、英文学を勉強していようと思っていた》(「猫」/『天才について』)

「猫」の初出は一九四八年一月。

 今年の夏、戦後八十年。わたしは散歩をしたり、冷房の効いた部屋で古本を読んでいる。平和を当たり前のように享受し、日頃はそのありがたみを忘れている。

『天才について』は『野方閑居の記』(新潮社、一九六四年)所収の随筆とも重なっているのだが、「或る土曜日」の中に「鉄道唱歌」で知られる詩人、国文学者の大和田建樹の話も出てくる。大和田建樹は「散歩唱歌」も作っていると知った。福原麟太郎は同氏を「確かに研究する価値のある人」と評している。

 同書の「古典と人間の知恵」というエッセイにこんな言葉がある。

《古典文学が自分の国にあるということは、たいしたことなのだ。そして古典を読む力を養っているということは、つまり人生の知恵を貴ぶことを知っており、その蓄積を楽しむゆとりがあることなのである》

 初出は一九六二年一月六日の東京新聞。

 千年昔にさかのぼれる自国の文学があるというのは、当たり前のことではない。

 老年の入口に立って、古典がだんだん好きになってきた。もともと中国の古典は好きで『菜根譚』はくりかえし読んでいる。わが人生でもっとも再読回数の多い古典だ。人生の知恵を学ぶというより、現実逃避の心地よさに浸りたくて読んでいるようなところもある。

 街道の研究を通して、昔の日本の風景、人の行き来を想像するようになった。
 旅先で旧道を歩いて句碑や歌碑を見つける。能因、西行、芭蕉の旅に思いをはせる。句や歌の意味はすぐにわからなくてもいい。遠い昔のことがすこし近くにおもえるだけでいい。