2024/07/05

新しい習慣

 東京都心気温三十五度。二日連続猛暑日。午後三時すぎ西部古書会館。先週の大均一祭で買った本が山のままだ。買いすぎないようブレーキを踏みながら棚を見る。『芥川龍之介展 生誕一〇〇年』(神奈川近代文学館、一九九二年)、『横浜市歴史博物館 企画展 東海道保土ヶ谷宿』(横浜市歴史博物館、二〇一一年)など。保土ヶ谷も何度か歩いて好きになった町である。旧街道の雰囲気も残る。

 前回、年をとると変化を望まなくなる……と書いたが、スーパーに無人レジが導入されたとき、最初は面倒くさいなとおもったが、いつの間にか慣れた。某飲食チェーンのタッチパネル式の券売機には苦戦している。

『考える人』特集「あこがれの老年時代」(二〇一〇年冬号、新潮社)の橋本治のインタビューを読んだ流れで『いつまでも若いと思うなよ』(新潮新書、二〇一五年)を読む。

『新潮45』の連載時、わたしは毎号読んでいた。同誌の休刊が発表されたのは二〇一八年九月。かれこれ六年か。橋本治の「年をとる」の連載は二〇一四年だから十年前。

 前回『いつまでも若いと思うなよ』の「年寄りは、今のことに関心がない。関心を持とうとしても、どうも頭に入りにくい」という文章を引用した。その続き。

《どうして入りにくいのかと言うと、根本のところで「今のことになんか関心を持つ必要がない」と思っているからですね。自分の頭の中を探ってみたらそうだった》

 このとき橋本治、六十代半ば。初読時——わたしは四十四、五歳。「今のことになんか関心を持つ必要がない」という言葉が十年前に読んだときよりも現在のほうが身にしみる。もちろん、それじゃいかんという気持もある。
 変化を望まない人たちが多数派かつ主流になると世の中は停滞する。少子高齢化社会のひとつの難題である。
 日本の全人口の年齢の中央値(中位年齢)は一九八〇年に三十四、五歳だったのだが、今年か来年あたりで五十歳を超えるといわれている。近い将来、人口の中央値が五十五歳くらいまで行くという予想もある。

 そんな現実もしくは未来にたいして、自分はどうするかと考える。そもそも自分はいつまで生きるのか、その答えがわからない。

 今月から新紙幣が登場したが(まだ未入手)、『いつまでも若いと思うなよ』に店をやっていた橋本治の祖母の話が出てくる。
 祖母は八十歳を過ぎたあたりからお釣りを間違えるようになった。

《なんでそんなことになったのかというと、その理由は簡単で、実はその時、紙幣のデザインが一新された。五千円、一万円札から長く続いた聖徳太子が消えて、派手な伊藤博文の千円札が地味な夏目漱石に変わった。その切り換え時だから、新旧六種類の紙幣が混在して流通している》

 一万円札が聖徳太子から福沢諭吉に変わったのは一九八四年十一月——今から四十年前。ちなみに五百円玉(初代)は一九八二年四月である。野口英世(千円札)、樋口一葉(五千円札)は二〇〇四年十一月から。

 四十年前の新紙幣にまつわる祖母のエピソードを通して、橋本治はこんな考察をする。

《人間はかなりのことを、考えずに条件反射的に処理しているから、それが成り立たなくなると混乱する。「そういうこともあるか?」と我が身に問うたら、「あるな」という答が返って来たので、「人間の行動の多くは習慣的で、だからこそ、“習慣”が満杯状態になっている人間の体に、脳が新しい習慣を教え込むのは大変だ」ということが分かった》

 この話にも続きがあるのだが、暑さで頭が回らなくなってきた。本日はここまで。