2025/07/19

期日前投票

 高円寺駅の南口を散歩する。ひさしぶりに新高円寺のドトールでアイスコーヒー。二階の窓際、青梅街道が見える。

 毎日散歩しているので、途中、いくつか参院選の演説を聞いた。国という大きな枠組ではなく、地域のことを考えると、多くの人がつつがなく過ごせるための地味な整備——修繕、修復は政治の大切な仕事である。ただ、そういうことは選挙の争点にはなりにくい。

 金曜、仕事部屋に本(図録)を運ぶ。その帰り、階段で足を滑らせ、後ろにひっくり返る。ただ、背負っていたノートパソコン用のリュック(空になっていた)がクッションになり、無傷ですんだ。たぶん運がよかった。

 そのあと参議院選挙の期日前投票に行く。東京都選出と比例、投票までの間、新聞、インターネットなどの予想を参考に検討したが、今回、当落予想がむずかしすぎる。

 家に帰って、臼井吉見著『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)の「良書と悪書」というエッセイを読んでいたら「新シイ本ガ出タト聞イタラ、古イ本ヲ読メ」という一文があった。
 小泉八雲の読書論の言葉だそうだ。臼井は「いゝ言葉」「りっぱな言葉」と称賛している。小泉八雲、読みたくなる。
 同書の「すぐれた一冊に味わう楽しみ」でも、臼井は小泉八雲の読書を論じている。八雲は、古典をくりかえし読むことの大切さを強調していた。

 それから臼井は吉田兼好の『徒然草』の次の言葉を紹介する。

《「ひとりともしびのもとに書をひろげて見ぬ世の人を友とするこそ、こようなぐさむわざなれ。書は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇」と書きつけた兼好の言葉ほど、読書の真髄を道破しているものはない》

「見ぬ世の人を友にする」は『徒然草』の第十三段の言葉。中村光夫もこの言葉が好きでエッセイで何度か紹介している。

 木曜日、芥川賞と直木賞の発表——二十七年ぶりに「該当作なし」。

 同書「作家と文学賞」というエッセイでは「自主性に乏しい日本の読書界では受賞作家は一せいに注目される結果になり、受賞と同時に執筆依頼が殺到し、それに翻弄されて、なけなしの才能を底まではたいてしまうものが多く、そこをきりぬけて自分を成長させることのできるものは十人のうち一人か二人にすぎない。(中略)悠々と自分の文学の成熟を待つ余裕など決して許されないのである」と記す。

 選挙のさい、文学賞の選考委員のような気持で候補者を選ぶというのも面白いかもしれない。迷った末、「将来性に期待し……」と心の中で呟き、ある候補に票を投じた。

2025/07/08

社会のカガミ

 七月四日、午前十時半、西部古書会館。西部古書会館は土日開催が多いのだが、今回は金曜が初日だった。

 この日は『特別展 北前船』(船の科学館、一九九三年)、『奥州道中氏家宿 開宿四〇〇年記念』(ミュージアム氏家、二〇〇一年)、『中山道板橋宿と加賀藩下屋敷』(板橋区立郷土資料館、二〇一〇年)、太田文平著『寺田寅彦の作品と生涯』(七曜社、一九六二年)などを買う。古書会館のあと、桃園川緑道を散歩して寝る。起きたら夜。毎日、睡眠時間がズレる周期に入った。一日の大半、ぼんやりしている。

 気を引き締めるため、鮎川信夫著『一人のオフィス 単独者の思想』(思潮社、一九六八年)を再読する。

《議会制民主主義に対する失望、不信が、ただちに全体主義や独裁制へのあこがれに通じるとはおもっていない。しかし、議会制民主主義に対する国民の幻滅を土壌にし、独裁が育ってくることを忘れてはならない。戦前において、軍閥の進出を許したのもそれであったのである》(「国会は社会のカガミ 『政治』ばかりが早くよくなることはない」)

 同コラムの初出は一九六六年。六十年近く前のコラムだが、どの時代にも通じる意見だろう。
 全体主義や独裁は右にも左にもある。中道にもある。最近、「極右」でも「極左」でもない「極中道(エキストリーム・センター)」という概念を知った。
「無駄をなくそう」「効率をよくしよう」みたいな一見穏当そうな考えですら徹底(反対派の粛清など)すれば、大いなる脅威になる。
 人は自分の認識を「普通」かつ「妥当」だと考えている。だから自分にたいする批判者を「異常」と見なす。さらに一歩進むと批判者だけでなく、自分の考えに賛同しない人間を「敵」と規定するようになる。

 昨今は自分の「普通」や「正しさ」を補強する材料には事欠かない。さらにインターネット上には偽画像や偽動画が溢れている。

 今のわたしは政治不信以前に情報不信になっている。

 今月の参院選の投票先はまだ決めていない。

2025/07/04

静観

 七月。ちょっと前にコタツ布団をしまって夏用の肌掛けを出した気がする。今週はやや夏バテ気味である。人類が働ける気温ではない。
 自分の体調のバロメーターはコーヒーがうまいかどうか。味もそうだが、体がカフェインを受けつけないときは要注意だ。今週のはじめコーヒーが飲めなかったので、睡眠優先の生活を送った。昨日あたりから回復した。

 先週の土曜、西部古書会館、均一祭(初日二百円)。午前十時に行く。
『司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス 単行本・文庫版両用総索引』(朝日新聞社、二〇〇一年)など七冊。「エッセンス&インデックス」は読み物の部分が四百五十一頁、索引が三百十二頁。
「街道をゆく」関係だと「司馬遼太郎『「街道をゆく」人名・地名録』(朝日新聞社、一九八九年)という本もある。「人名・地名録」は『街道はゆく』全四十三巻中の三十一巻までの索引で九百頁くらい。この本も西部古書会館の均一祭で買った。二冊で一・七キロちょっと。重い。
 資料もそうだけど図録(街道&地図関係)を買うと置き場所に困る。

 物語を楽しむ読書と文章を味わう読書はちがう。『街道をゆく』はどちらでもない。知らない名前、知らない土地が出てくる。それらが頭の片隅におぼろげに残る。知らなかった名前や土地がほんのすこしなじみになる。自分の知っている場所と知らない場所のバラつき――傾向のようなものが朧げと見えてくる。雑駁なままとっ散らかっていた知識がふとした瞬間、何かとつながる。すぐつながることもあれば、五年十年……もっと長い時間かかることもある。

 人名にせよ地名にせよ、点と点がつながる感じが好きなのだとおもう。

 話は変わるが、昔の作家、あるいは学者は時代なり社会を「文明」という括りで考える人が(今と比べると)多かった。司馬遼太郎の随筆も「文明」という言葉がよく出てくる。

 戦後八十年、冷戦後三十数年——今の時代も文明の曲がり角に来ているのかもしれない。時代の評価はその渦中にいるときにはわからないことが多い。
 日本の経済が低迷しているのは、政治のせいか、少子高齢化のせいか、グローバル企業のせいか、新興国の追い上げのせいか……おそらく全部絡んでいる。どこの国も混乱している。戦乱がないだけでもよしと考えるべきか。

 先が見えない。動き回る体力がない老体は静観するのも一策か。怠ける言い訳か。