2025/07/08

社会のカガミ

 七月四日、午前十時半、西部古書会館。西部古書会館は土日開催が多いのだが、今回は金曜が初日だった。

 この日は『特別展 北前船』(船の科学館、一九九三年)、『奥州道中氏家宿 開宿四〇〇年記念』(ミュージアム氏家、二〇〇一年)、『中山道板橋宿と加賀藩下屋敷』(板橋区立郷土資料館、二〇一〇年)、太田文平著『寺田寅彦の作品と生涯』(七曜社、一九六二年)などを買う。古書会館のあと、桃園川緑道を散歩して寝る。起きたら夜。毎日、睡眠時間がズレる周期に入った。一日の大半、ぼんやりしている。

 気を引き締めるため、鮎川信夫著『一人のオフィス 単独者の思想』(思潮社、一九六八年)を再読する。

《議会制民主主義に対する失望、不信が、ただちに全体主義や独裁制へのあこがれに通じるとはおもっていない。しかし、議会制民主主義に対する国民の幻滅を土壌にし、独裁が育ってくることを忘れてはならない。戦前において、軍閥の進出を許したのもそれであったのである》(「国会は社会のカガミ 『政治』ばかりが早くよくなることはない」)

 同コラムの初出は一九六六年。六十年近く前のコラムだが、どの時代にも通じる意見だろう。
 全体主義や独裁は右にも左にもある。中道にもある。最近、「極右」でも「極左」でもない「極中道(エキストリーム・センター)」という概念を知った。
「無駄をなくそう」「効率をよくしよう」みたいな一見穏当そうな考えですら徹底(反対派の粛清など)すれば、大いなる脅威になる。
 人は自分の認識を「普通」かつ「妥当」だと考えている。だから自分にたいする批判者を「異常」と見なす。さらに一歩進むと批判者だけでなく、自分の考えに賛同しない人間を「敵」と規定するようになる。

 昨今は自分の「普通」や「正しさ」を補強する材料には事欠かない。さらにインターネット上には偽画像や偽動画が溢れている。

 今のわたしは政治不信以前に情報不信になっている。

 今月の参院選の投票先はまだ決めていない。

2025/07/04

静観

 七月。ちょっと前にコタツ布団をしまって夏用の肌掛けを出した気がする。今週はやや夏バテ気味である。人類が働ける気温ではない。
 自分の体調のバロメーターはコーヒーがうまいかどうか。味もそうだが、体がカフェインを受けつけないときは要注意だ。今週のはじめコーヒーが飲めなかったので、睡眠優先の生活を送った。昨日あたりから回復した。

 先週の土曜、西部古書会館、均一祭(初日二百円)。午前十時に行く。
『司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス 単行本・文庫版両用総索引』(朝日新聞社、二〇〇一年)など七冊。「エッセンス&インデックス」は読み物の部分が四百五十一頁、索引が三百十二頁。
「街道をゆく」関係だと「司馬遼太郎『「街道をゆく」人名・地名録』(朝日新聞社、一九八九年)という本もある。「人名・地名録」は『街道はゆく』全四十三巻中の三十一巻までの索引で九百頁くらい。この本も西部古書会館の均一祭で買った。二冊で一・七キロちょっと。重い。
 資料もそうだけど図録(街道&地図関係)を買うと置き場所に困る。

 物語を楽しむ読書と文章を味わう読書はちがう。『街道をゆく』はどちらでもない。知らない名前、知らない土地が出てくる。それらが頭の片隅におぼろげに残る。知らなかった名前や土地がほんのすこしなじみになる。自分の知っている場所と知らない場所のバラつき――傾向のようなものが朧げと見えてくる。雑駁なままとっ散らかっていた知識がふとした瞬間、何かとつながる。すぐつながることもあれば、五年十年……もっと長い時間かかることもある。

 人名にせよ地名にせよ、点と点がつながる感じが好きなのだとおもう。

 話は変わるが、昔の作家、あるいは学者は時代なり社会を「文明」という括りで考える人が(今と比べると)多かった。司馬遼太郎の随筆も「文明」という言葉がよく出てくる。

 戦後八十年、冷戦後三十数年——今の時代も文明の曲がり角に来ているのかもしれない。時代の評価はその渦中にいるときにはわからないことが多い。
 日本の経済が低迷しているのは、政治のせいか、少子高齢化のせいか、グローバル企業のせいか、新興国の追い上げのせいか……おそらく全部絡んでいる。どこの国も混乱している。戦乱がないだけでもよしと考えるべきか。

 先が見えない。動き回る体力がない老体は静観するのも一策か。怠ける言い訳か。