土曜起きたら午後三時半、毎日睡眠時間がズレる。コーヒーを飲んで頭がぼーっとしたまま西部古書会館へ。『季刊銀花』特集「串田孫一の世界」(文化出版局、第百二号、一九九五年)、佐藤正午原作、根岸吉太郎監督の映画『永遠の1/2』(一九八七年)のパンフレットなど。
『銀花』所収、串田孫一「闇に厭きた風」は数行ずつの思索の断片を連ねたエッセイで、もしかしたら単行本に入っているのかもしれないが、調べる気になれない。一九三七年から一九九五年までの著作目録は三百七十六冊、年に平均六、七冊本を出している。
そのあと西武新宿線方面を散歩する。野方から沼袋に向かって歩いていたつもりが、いつの間にか環七に戻っていた。
家に帰ると『些末事研究』(vol.8)が届いていた。特集は「行き詰まった時」。わたしは世田谷ピンポンズさん、尾道の古本屋「弐拾dB」の藤井基二さん、福田賢治さんとの座談会に参加した。昨年七月三十日、ふくやま文学館に寄ってから尾道駅で降りたら、福田さんと道で会った。飲み屋で座談会をしたあと、コンビニで酒を買って波止場で語り明かす。この日は「あなごのねどこ」というゲストハウスに泊った。
翌日、尾道から岡山に向かう途中、写真家の藤井豊さんが駅のホームにいて、そのまま倉敷の蟲文庫に行き、高松の福田さんの家へ。高松は二泊——帰りの飛行機、午前中の便を予約していたのだが、運行中止になって夕方の便に変更し、空港で六時間くらい過ごした。
この号で執筆しているつかだま書房の塚田さんと飲んだとき、「福田さん、楽しそう」という話になった。塚田さんのエッセイに出てくる「一生幸せでいたければ」の古諺は「釣りをおぼえなさい」というバージョンもある。
2023/01/30
行き詰まった時
2023/01/28
桑名の駅
押入のレコードを整理していたら、友川かずき(現在はカズキ)『俺の裡で鳴り止まない詩 中原中也作品集』(一九七八年)が出てきた。二十年ぶりくらいに聴く。このアルバムはA面五曲目に「桑名の駅」という曲がある。桑名の夜は暗かつた〜。アレンジはJ・A・シーザー。JR桑名駅のホームに中也の「桑名の駅」の詩碑もある。一九九四年七月、桑名駅開業百周年のときにできた。
中原中也の詩集の「桑名の駅」には「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪間の不通のため、臨時関西線を運転す」と付記されている。一九三五年の詩。
わたしは郷里に帰省するときは近鉄を利用することが多い。だから最近までJR桑名駅の中也の詩碑のことを知らなかった(わたしが上京したのは一九八九年春で郷里にいたころはなかった)。
「桑名の駅」のころの中原中也は四谷花園アパートから市ヶ谷谷町に引っ越したばかりだった(ちなみに中也は高円寺に住んでいたこともある)。村上護著『文壇資料 四谷花園アパート』(講談社、一九七八年)に、青山二郎を慕って中原中也が花園アパートに引っ越してきた後の話が詳細に記されている。
《青山二郎が住んで以後は、文士たちの往来も多くなったが、いろんな人物の出入りがあった。いまの作家のように紳士面もしなければ、名士ぶったりしない。彼らは談論風発、朝まででも飲み明かし、大いに青春を謳歌した》
当時、青山二郎の部屋にはステレオがあり、レコードも二千枚ほど持っていた。中也も青山に刺激され、蓄音機を買い、レコードに凝った。著者の村上護は「彼の音楽に示した関心の深さは、もちろん詩にも反映している」と書いている。
2023/01/23
歩くだけ
ついこのあいだ年が明けた気がするのだが、もう一月下旬。何をしていたのかあやふやなまま時が流れていく。カタールのW杯の決勝戦もちょっと前くらいにおもえる。一ヶ月以上前か。
「神奈川近代文学館」の機関誌(第159号/二〇二三年一月十五日発行)に「尾崎一雄没後40年 “天然自然流”に生きる」というエッセイを書いた。文学館の仕事ははじめてかもしれない(文学館に雑誌をコピーしに行くアルバイトはしたことがある)。神奈川近代文学館は一九八四年開設、晩年の尾崎一雄も同文学館の設立に尽力し、亡くなる一年前に名誉館長に就任している。カフェ「昔日の客」の関口直人さんから「読んだよ」と電話があった。尾崎一雄、尾崎士郎の話をいろいろ聞かせてもらった。
尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)に収録した「歩きたい」(初出『小説公園』一九五四年二月号)は五十四歳のときの作品である。
大病から回復して、すこしずつ歩けるようになってきた。かつて行った土地を再訪したいと野心を抱くようになる。尾崎一雄の「踏切」(『虫のいろいろ』新潮文庫などに所収)でも再訪したい土地の話を書いている。五十二歳くらい。
《昔通った小学校への道を、再び辿ってみたいという私のひそかな、しかし割に強い願望は、よく考えてみると私のこの頃の傾向の——大げさに言えば象徴なのかもしれない》(「踏切」)
——「小学校への道」は三重県の宇治山田の明倫小学校の通学路である。
土曜日午後、野方まで散歩した。ここのところ、ひまを見つけては西武新宿線沿線の野方駅〜鷺ノ宮駅あたりを歩いている。通りのあちこちに駅や学校までの距離を記した標識がある。
野方の北原通り商店街の肉のハナサマ、肉のモモチでいろいろ食材を買う。肉のハマナサ、二十四時間営業だったのか。ハナマサのプロ仕様シリーズの喜多方ラーメン(三玉入り)が好みの味だったのでまた買う。プロ仕様シリーズ——乾物も充実している。
野方駅の踏切で立ち止まっているとドラえもんのラッピング電車(DORAEMON-GO!)が通り過ぎた。
高円寺、野方を往復すると八千歩くらい。行きはでんでん橋、帰りは宮下橋を通った。
野方を歩くようになって耕治人も読み返している。耕治人は野方四丁目に住んでいた。福原麟太郎の家の近所だった。
本を読むこと、歩くこと——どこかで重なり、つながるとおもっているのだが、どうなるか今はわからない。ただ歩くだけ。歩きながら、何ができて何ができないか、そんなことばかり考えている。
2023/01/17
銭湯デモクラシー
月曜日、午前中から西部古書会館の大均一祭(三日目一冊五十円)。千百円分買う。この日、『日本現代写真史展 終戦から昭和45年まで』(日本写真家協会、一九七五年)の図録も五十円だった。「人物写真25年」に吉川富三の「尾崎一雄」の写真あり。尾崎一雄は着物姿で頬がげっそり痩せている。髪はまだある。何歳のときの写真か気になる。
大均一祭、三日間楽しかった。値段を気にせず、本や雑誌を買う。ふだん手にとらないような本も読んでみたら面白い。
初日、桑原武夫、加藤秀俊編『シンポジウム 20世紀の様式 かたちと心 1930−1975』(講談社、一九七五年)という縦長の大判(二百九十二頁)の本も入手した。アート・ディレクターは辻修平。
この本に鶴見俊輔「風俗から思想へ」(語り)も収録されている。
《たとえば銭湯デモクラシーということばがあります。戦後にできたことばなんだけれども、「それは銭湯デモクラシーにすぎない」というふうにいうわけですね。これはデモクラシーの初歩というふうにみられる学術用語ですけれども、私はその中にはたかが銭湯デモクラシーという、ひじょうに銭湯を見下げた態度があると思うんですよね。だけど、銭湯に入るときに自然の行儀があるでしょう。湯をよごさないようにとか、熱い湯で人に迷惑をかけないようにとか、知らない人が突如としてそこで殴り合いをしないとか、けんかを避けるようないろんな話題がありますね。そういうルールが江戸時代に発達した。それはひじょうに高いものであって、たかが銭湯デモクラシーにすぎないというふうにはいえないと思う》
銭湯の世界には上下関係はないし、学歴や職業や地位も関係ない。いわゆる裸のつきあいだ。ただし銭湯にはルールはある。
湯船に入る前に体を流す。タオルは浴槽に入れない。頭を洗っているときに隣の人になるべくお湯や泡が飛ばないようにする。床はすべるからゆっくり歩く。他にも細かいルールはあるが、基本はまわりの人に気をつかえるかどうかだろう。お湯につかってさっぱりして気持よく銭湯を出て家路につく。そのためにその場にいる人たちが協力し合うのが銭湯デモクラシーなのではないか。
最初は初心者だから、知らないことがいろいろある。一から懇切丁寧に教えてくれる人がいるとはかぎらない。知らないままだと不都合なことが起こる。だから見よう見まねで暗黙のルールみたいなものを学んでいく。すぐ身につける人もいれば、時間のかかる人もいる。
わたしは学生時代——一九九二年の夏ごろ、鶴見俊輔さんと知り合った。当時、鶴見さんは七十歳前後だったけど、誰にたいしても態度が変わらない人だった(すくなくともわたしの印象では)。『シンポジウム 20世紀の様式』はまだまだ紹介した話がある。一九七五年の本だけど、今の時代にも通じる提言の宝庫だ。というわけで、続く。
2023/01/15
ほんとの本
日曜日夕方、西部古書会館の大均一祭二日目(一冊百円)。十三冊。『月刊ことば』の一九七七年十一月号(創刊号)と七八年二月号など。『月刊ことば』の版元は英潮社、編集人は外山滋比古である。エディトリアルデザインは戸田ツトム。七八年二月号は「文章読本」の特集で山本夏彦が「谷崎文章読本」と題したエッセイを書いている(これが読みたくて買ったといっても過言ではない)。
《本というものは、それを読んだときの年齢と関係があって、弱年のときに読んで感心した本がほんとの本で、それ以後読んだ本はほんとの本でないと、勝手ながら私は区別している》
《本と人の間は縁である。縁で結ばれること人と人の間のごとしと私は思っている。人が本を選ぶことはよく知られているが、本もまた人を選ぶのである》
山本夏彦は一九一五年六月生まれ。谷崎潤一郎の『文章読本』は一九三四年十一月、萩原朔太郎『氷島』は同年六月の刊行である。当時山本夏彦は十九歳。「この二冊は私にとってそういう時期の本である」と書いている。
何を「ほんとの本」とするかは意見が分かれるだろうが、十九、二十のころに読んだ本の影響は長く続く。たぶん音楽もそうだろう。
山本夏彦は谷崎潤一郎の『文章読本』を読み、「耳で聞いてわからない言葉なら使うまい」と決めた。さらに「私は朔太郎以後に詩人はいないと思っている」という。「朔太郎以後」云々の件はそのすこし後で「ずいぶん失礼な言い草で、他の詩人には申訳けないが、目がくらんでほかのものが見えなくなったのだからご勘弁願いたい」と断っている。
山本夏彦著『完本文語文』(文春文庫)に「萩原朔太郎」というエッセイがある。冒頭で朔太郎の詩集『氷島』の「珈琲店 酔月」を抜粋——。「坂を登らんとして渇きに耐えず」ではじまる文語詩である。
《この年代の詩人は文語を捨て口語に転じるのに悪戦苦闘している。それ以後生まれながら口語自由詩で育った詩人の詩は多く朗誦に耐えない。以後口語文は散文も詩も原則として黙読するものになった》
《朔太郎は天才だと少年の私は思った。その詩人が昭和九年の「氷島」では全部文語であらわれたのである》
『完本文語文』の単行本(文藝春秋)は二〇〇〇年、文庫は二〇〇三年に出ている。以来、何度か読み返しているが、山本夏彦がこれほど朔太郎に傾倒していたことに気づかなかった。
2023/01/14
新宿のハーモニカ横丁
土曜日、西部古書会館の大均一祭(初日二百円)。『現代の随想17 井伏鱒二集』(小沼丹編、彌生書房、一九八二年)など。彌生書房の「現代の随想」シリーズは古本屋でよく見かけるが、この井伏集は持っていなかった。家に帰って目次を見て「新宿のハーモニカ横丁」という随筆を読む。
新宿の飲み屋街の「道草」「龍」などに通っていたころの話である。
《もうそのころ私は五十前後の年になつてゐたが、私より年上の青野(季吉)さんもこの横丁の常連であつた》
青野季吉は酒癖があまりよくない。
《酒を飲むと人に講釈するたちであつた》
《上機嫌に文学を談じてゐるかと思ふと、不意に威丈だかになつて怒りだすことがあった》
井伏鱒二は「青野さんの飲みかたを見て、自分は六十になつたら、いつぱい屋で飲むのは止そうと思つてゐた」と書いている(が、実行できず)。
青野季吉は一八九〇年二月、井伏鱒二は一八九八年二月生まれだから、年の差は八歳。井伏鱒二が五十歳前後のころ、青野季吉は五十七、八歳だった。
今、わたしは五十三歳でその間くらい年齢なのだが、酔っぱらうと若い人相手に「講釈」してしまうことがよくある。気をつけよう。
「新宿のハーモニカ横丁」を執筆時、井伏鱒二が何歳だったのか。『井伏鱒二集』には初出が載っていなかった。
松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九九年)を見る。すると、一九六三年七月、雑誌『芸術生活』に「ハーモニカ横丁」を発表、その後「新宿のハーモニカ横丁」と改題し、『現代の随想17 井伏鱒二集』に初収録した——ことがわかった。
井伏鱒二、六十五歳。年譜考、ありがたい。
ちなみに『芸術生活』は古山高麗雄が編集者をしていた雑誌だ。
古山高麗雄の年譜(『プレオー8の夜明け』講談社文庫の自筆年譜)によると、一九六二年二月「教育出版株式会社を辞し、株式会社芸術生活社に入社、『芸術生活』の編集に従事す」とある。芸術生活社はPL教団の外郭団体で古山さんが退社したのは一九六七年十月——ひょっとして井伏鱒二に原稿を依頼したのは……。わからないのが、もどかしい。
2023/01/12
そういう日
毎年恒例の一月半ばから二月はじめの間の体がおもうように動かなくなる時期を「冬の底」と名づけて幾星霜。今年は一月十日だったかもしれない(まだわからない)。睡眠時間がズレる。寝ても寝ても眠い。頭が回らない。指に力が入らない。昼すぎに寝て夜八時くらいに起きて、二、三十分過ぎたかなと時計を見ると、二、三時間過ぎている——脳内の時計がヘンな感じになるのも「冬の底」の症状のひとつだ。ずっと継続していた日課の散歩(一日五千歩以上)の記録も途絶えてしまった。また明日から歩こう。
四十代以降、貼るカイロのおかげでかなり楽になった。簡単には比較することはできないが、ほんとうに何もできなくなるほどつらい人からすれば、カイロ一枚で改善してしまうわたしの症状は軽度なのだろう。
若いころのほうが心身ともにきつかった。今より元気な分、落差が激しかったせいもあるだろう。部屋そのものが古い木造のアパートで寒かった。冬の朝方、室温が十度以下になることもしょっちゅうあった。
今は天気のせいと割り切り、余計なことを考えないよう心がけている。部屋をあたたかく保ち、あたたかいものを食う。そして自分のエネルギーのすべてを回復につかうのだ……とイメージしながらゆっくり休む。ようするに怠けている。
《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》
《ろくに物も考えず、ぐうたらぐうたら時を過ごしたような気がする》
——「日常」/古山高麗雄著『二十三の戦争短編小説』文春文庫。初出は『別冊文藝春秋』一九九一年夏号。古山さん、七十歳、まもなく七十一歳になるころに書いた作品である。古山さんも寒さが苦手だった。初出は夏号だけど、冬がくるたびに読みたくなる。
2023/01/08
古書展
土曜日、今年最初の西部古書会館。暇つぶしに読む本を……くらいのつもりで棚を見ていたら、カゴいっぱいになった。
買ったのは『井伏文学のふるさと』(ふくやま文学館、二〇〇〇年)、『昭和の風俗画家 長瀬寶』(大磯町郷土資料館、一九九〇年)、『こぶし 鉄道百年記念号』(東京西鉄道管理局 一九七二年、非売品)、他に街道関係の紙ものなど。
『こぶし』の鉄道百年記念号に「中央線鉄道唱歌」(福山寿久作詞、福井直秋作曲)が載っていた。一九一一(明治四十四)年の作。
《五 「中野」「荻窪」「吉祥寺」 「境町」より十余町 多摩上水の岸の辺は 桜ならざる里もなし》
当時「高円寺」「阿佐ケ谷」「西荻窪」はなかった(この三駅は一九二二年開業)。この冊子の「中央線鉄道唱歌」は「二十」の「小淵沢」まで。中央線の唱歌はまだまだ続く。明治末、東京〜甲府間は約六時間かかった。甲州街道を徒歩で行くと三、四日、今は特急に乗れば一時間四十分である。
時代と共に移動の速度は上がる。移動時間の短縮により、世の中が変化する。しかし変化の速度はしだいにゆるやかになる。進歩の鈍化といえばいいのか。技術の世界にかぎらず、表現の世界にもそういうことがあるようにおもう。
2023/01/06
仕事始め
水曜日、神保町、神田伯剌西爾、マンデリン。古本屋をまわる。
家に帰ると金井タオルさん編集の『月刊つくづく』一月号が届いていた。ホチキスで止めた手作り冊子。定価百円。金井さん、この三年間ひたすらミニコミを作り続けている。わたしはこの号で金井さんの雑談の相手をした。
以前、金井さんにインタビューしてもらったこともあるのだが、こちらが言いよどんでも、うまく拾ってくれるので、すごく話しやすかった記憶がある。
今回の雑談は高円寺の喫茶店で一時間くらい。そのあとのほうがいっぱい喋った。終電、間に合ったのか。
年が明け、(完全に自分のせいで)止まっていた仕事にとりかかりはじめる。本調子になるまで待っていたら何も進まない。一歩ずつやるしかない。わかっていても、いや、言い訳はよそう。とりあえず、作業のための時間を作る。どのくらいで形になるか、量は足りているのか、ゴールがぼんやりとでも見えるところまで行ければどうにかなる。まだ何も見えない。
2023/01/03
正月
年末年始、高円寺で過ごす(阿佐ケ谷まで散歩したが)。おせちを食べた。一日、氷川神社も馬橋稲荷神社も人でいっぱいだった。初詣は二日にした。町に人があまりいない。年中無休の店もあるが、三日か四日まで休みの店が多い。
年末から晴天続き、星がよく見えた。気温は低いが風がないので歩きやすい。
電子書籍で漫画のセールがいろいろあり、五十冊くらい購入した。星里ちもる『夜のスニーカー』(ゴマブックス&ナンバーナイン)を読む。連載時期は二〇〇九年〜二〇一〇年(「週刊プレイボーイ増刊 漫'sプレイボーイ」など)——。
主人公の男性はウォーキングが趣味。第一話では合コンで知り合った女性とホテルにいっしょに入るが、何もせずに出て歩いて高円寺のアパートに帰る。鞄の中には常にウォーキングシューズが入っている。
その後、飲み会で知り合うヒロイン(書店員)は中野に住んでいる。二人とも異性にたいし、苦手意識を持っているのだが、いっしょに歩いているうちに……という話。
「歩いて高円寺まで!?」「こっからだと3時間は歩きますよ」というセリフがある。
どこから歩いたのかは描かれていないが、徒歩三時間は約十二キロ。日本橋〜高円寺がだいたいそのくらいの距離である。別の飲み会のシーンでは東京タワーが見える場面があったので品川あたりから歩いたのだろうか(確証なし)。
最近、漫画を読んでいて、この場所はどこらへんだろうとよく想像する。正月に読んだ別の漫画で登場人物(小説家)が歩いている道を見た瞬間「ここは青梅街道の荻窪付近かな」と……。
『夜のスニーカー』は特別読み切り「晴れた日に遠くが見える」という短篇も収録——。漫画家志望の高校生が主人公で住んでいるのは方言の感じから九州(たぶん福岡県)だろう。この作品も川沿いの絵が素晴らしい。でも何という川なのかはわからない。