2021/06/29

暇つぶし

 土曜日曜、高円寺の西部古書会館。二日連続で岡崎武志さんと会う。精算後、喫茶店で雑談。仕事の話、街道の話など。
 最近、西部でばかり本を買っている。あとこの一週間くらい部屋の掃除ばかりしている。いろんな本が行方不明だ。買ったり売ったりしているから、もう売っちゃたかなとおもって買い直すと忘れたころに出てくるのはいつものことだ。売らなければよかったと悔いることもあるが、売らなければ本を買い続けられない。

 何を売って何を残すか。その判断はそのときどきの気分にもよるが、対談や座談集はなるべく売らずに残しておくことが多い(なんとなく探すのに苦労する)。

 古書会館では『街道歴史散歩』(日本通信教育連盟)という冊子を買った。刊行年は未記載。刊行年のわからない場合、文中に「国鉄/JR」でJRであれば一九八七年以降のもの、東京二十三区の電話番号が「九桁/十桁」で十桁なら一九九一年以降(例外あり)、郵便番号が「五桁/七桁」で七桁なら一九九八年以降——と判別できる。都内の電話番号が十桁、郵便番号は五桁。ほかにも六十里越え・羽州街道の「羽黒手向・楢下」のところに「JR山形新幹線」とある。山形新幹線の開業は九二年。九二年から九七年に刊行された本だろう。あと市町村名の変更など、もうすこし読み込めば、年代を特定できそうだ。

 ちなみに日本通信教育連盟はユーキャンの前身の組織。九〇年代に「街道」の通信講座があったのだろうか。

 日曜日、『話の特集』の九一年八月号も買った。「特集 ゆっくり瞑れ!竹中労」の号で刊行時に買った記憶があるのだが、いつの間にか行方不明になっていた。

 座談会では出版プロデューサーの伊藤公一さんがこんな話をしている。

《竹中さんが無署名から署名家になったのもルポライターと言い出したころですね。『処女喪失』という本で初めて竹中労という名を使った。だから無署名時代から付き合いのある人は「竹」とか「タケさん」と呼ぶ。それ以後の人は「ロウさん」が多い。それで何となく知り合った年代の区別がつく》 

 竹中労が亡くなったのは九一年五月十九日。三十年前か。当時、玉川信明さんと読書会をしていて、竹中労と玉川さんは古い知り合いで「今度会わせてやるよ」といわれていた。そのころの自分が何をやっていたのか。二十代の自分は何を読んで何を考えていたのか。記憶が薄れている。ただし、西部古書会館には通っていた。

2021/06/25

そのへんのアクタ

 グーグルの検索で「と」を入力すると「東京コロナ」が一番上にくる。
 二十五日、都内の感染者数は五百六十二人、連日、前週の同じ曜日より百人以上の増加――まだまだ収束の見通しは立たず、というか、急激にものすごくひどい状況になる心配はないが、よくなりそうな気配もない。

 手洗い、うがい、マスク、密を避けるという感染症対策だけでなく、日々の栄養と心身の休養も大切だろう。気晴らしは大事だ。

 稲井カオル『そのへんのアクタ』(白泉社)は、地球外生命体と人類の存亡をかけた戦いが膠着状態に陥った日常を描いた漫画——。鳥取県が舞台なのだが、鳥取支部そのものが元ドライブインがあった場所が基地になっている(隣はレストラン)。赴任した元英雄の芥は、犬の散歩をしたり、隊員のための夜食を作ったりする。人類滅亡の危機は去ったが、人々は「終わりそうで終わらないでもちょっとだけ終わりそうな世界」に暮らしている。

《しかし私達はどんな時でも毎日を過ごしていかなくてはいけません》

 いっぽう地球外生命体による侵略よりも少子高齢化の人口減のほうが深刻という日本の現実が見え隠れする。

 おそらく新型コロナが収束しても日本の人口は減り続け、地方の衰退も止まらない。解決の難しい問題を抱えながら、「そのへん」の人として食って寝て働いて遊んで生きていく。そういう生き方はありかなしか。わたしは「あり」派だ。

2021/06/23

ボロ家の春秋

 書いては消してをくりかえしているうちに六月下旬、今年の夏至は二十一日だった。先週は掃除ばかりしていた。

 今日発売の梅崎春生著『ボロ家の春秋』(中公文庫)の解説を書いた。直木賞受賞作、候補作を並べたオリジナル編集本である。解説にも書いたことだが、『ボロ家の春秋』と題した文庫は角川文庫、旺文社文庫、講談社文芸文庫から出ていて、その収録作はすべてちがう。

 中公文庫版は野呂邦暢の巻末エッセイも入っている。野呂邦暢の筆名の「野呂」は「ボロ家の春秋」の主人公の名からとった。すこし前に出た『愛についてのデッサン 野呂邦暢作品集』(ちくま文庫)の解説で岡崎武志さんもそのことに触れている。

 野呂邦暢と梅崎春生の本が同じ月に復刊されたのは偶然だが、なんとなく本と本が呼び合ったような気がしてならない。そういえば、梅崎春生をすすめてくれたのは岡崎さんである。一作の短篇を読んですぐ全集を買いに行った。三十歳前後だったか。かれこれ二十年くらい前の話なので記憶があやふやなのだけど、「梅崎春生は面白いよ。魚雷君、気にいるよ」といわれたような……。飲み屋だったか、電車の中だったか。

 わたしは梅崎春生の戦争文学ではなく、日常文学から入った。日常の中にも文学がある。

 ちなみに梅崎春生は新書(文芸新書)が多い作家でもある。三十代前半、梅崎春生の新書を揃えたくて毎日のように古本屋に通った。そのころ文芸の新書をずいぶん集めたが、その大半は売ってしまって手元にない。

2021/06/14

初心

 土曜日、午前中から西部古書会館。五月のあいだ、古書展が中止だったせいか、前回、今回ともに本をたくさん買ってしまう。

 この日は署名本が大量出品。値段は五百円から二千円くらい。ほしい本が十冊くらいあったが、悩んだ末、武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中央公論社)、福原麟太郎著『チャールズ・ラム伝』(垂水書房)、伊馬春部著『土手の見物人』(毎日新聞社)の三冊購入。伊馬春部は劇作家。太宰治の友人としても有名かな。『土手の見物人』にも「太宰治ノオト」や「“ぴのちお回想”」など、太宰関連の随筆がたくさん入っている。“ぴのちお”は阿佐ケ谷会のたまり場だった中華料理店ですね。永井龍男の兄が経営していた。

 サイン本はたまに偽物もある。福原本と伊馬本は贈り先が学者(福原と同じ大学の卒業生)と編集者(わたしも会ったことがある)なので、ほぼ間違いないだろう。
 福原麟太郎は本に直接書かず、別紙にサインしている。わたしは名刺に相手の名前だけ署名した福原本を持っている。
 買うかどうか最後まで迷ったのが泰淳の署名本だ。「武」の字は原稿用紙などでよく見かける癖のある字なのだが、それゆえ真似しやすい。マジックペンのカクカクした字なのも引っかかる。他の署名本をいろいろ見てみないとわからない。でも買わずに後悔するよりも、買って後悔したほうがいいと判断した。迷ったら買う。

『フライの雑誌』の最新号は「はじめてのフライフィッシング」。初心者向けといっても、ほんとうに何も知らない人、まったく興味がない人には何をどういっても伝わらない。数ある釣りの中で「なぜフライフィッシングなのか?」。語れることはそれだけなのかもしれない。どんな趣味でもその面白さと奥の深さはやってみないと、やり続けてみないとわからないことだらけだ。

 フライフィッシングを構成する三要素は「キャスティング(フライを思い通りに操る)」「タイイング(望みのフライを作る)」「観察と実践(楽しく釣るための知識と技術の蓄積)」とある。

《たまたま魚が釣れた、釣れた、では進歩がありません。釣れたのがなぜか。いったい何がよかったのか。(中略)五感をフルに活用して自然を観察して、悩んでクリエイトして技術を磨いて、釣れたなら、また悩む。その繰り返しです》

 傍から見れば、なんでこんなことをやっているんだと不思議なのだが、おそらく当人もしょっちゅうそうおもっている。それでもやめられないのは「知識と技術の蓄積」——それを元にした経験の末にしか味わえないものがあるからだろう。

 はじめたときはできなかったことが、いつの間に難なくできるようになる。しかし一つのことができるようになると、二つ三つできないこと、知らないことが増えていく。

 初心者といわれる時期にどれだけわけがわからないままのめりこめるか。基本に躓き、自己流に走るもうまくいかず、結局、基本からやり直す——みたいなこともよくある。基本の大切さも「知識と技術の蓄積」の末にしかわからない。

2021/06/10

一生の方向

 水曜日、夕方、神保町。『大正の詩人画家 富永太郎』(渋谷区松濤美術館、一九八八年)を購入し、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。同図録の大岡昇平の「富永太郎における創造」というエッセイを読む。

《私は太郎が死んだ年の十二月、成城学園中等部へ入って、太郎より八歳下で私と同じ年の、弟の次郎と同級になったのです。太郎の画が壁にかけてある家を訪れ、小林秀雄たちとやっていた同人雑誌『山繭』に載った「秋の悲歌」「鳥獣剥製所」など、散文詩を読んだのでした。

 十七歳の少年にはよくわからぬながら、その硬質な文体に惹かれたのが、私の一生の方向を決定したといえます》

 大岡昇平著『昭和末』(岩波書店)に「富永太郎の詩と絵画」という松濤美術館の講演が収録されている(初出『群像』八九年一月号)。

《この松濤美術館の位置は私が十二歳から二十二歳まで住んでいた家から三十メートルぐらいしか離れていないので、昭和二年に家蔵版『富永太郎詩集』が最初に出たときには、三十七篇ですぐ読めますから、十八歳の私は一日に一度全部読んでいたわけです》

 富永太郎展は一九八八年十月十八日から十一月二十七日まで開催された。大岡昇平が亡くなったのは同年十二月二十五日——。

 一九八八年といえば、わたしは一浪中だった。高校時代から京都の私大の文学部を志望していたのだが、一浪して東京の私大を受験しようと気が変わった。何度か書いていることだが、予備校の講師の人に「物書きになりたい」と話したら「だったら東京に行ったほうがいい」と……。

 若いころはちょっとしたことで人生が変わってしまう。一冊の本、一本の映画、一枚のレコード、誰かの何の気なしの一言によって「一生の方向」が決まってしまうこともある。

 十九、二十のころに考えていた方向からはどんどんズレてしまっているが、その話はまとまりそうにないし、眠くなってきたので終わり。

2021/06/06

途中でやめる

 金曜日、荻窪、古書ワルツ。そのあと木下弦二さんのCD(『ノッス・ノイズ』)をペリカン時代に届け、アイスコーヒーを飲みながら聴く。ノンアル営業なので喫茶店にいるような気分になる。

 家に帰ると山川直人さんの『はなうたレコード』(平凡社)が届いていた。「ウェブ平凡」に連載していた作品。毎回楽しみに読んでいた。散歩のついでに古本屋と中古レコード屋に寄って、喫茶店で珈琲を飲んで——といったかんじの日々の暮らし。つつましいけど、都会の贅沢ともいえる。「夜の散歩」の回、ライブハウスっぽい場所の地下の階段に「〜ピンポンズ」「〜野清隆」「吉上恭太」といったチラシが貼ってある。山川さんの漫画は細かい遊びや描き込みが多い。表紙もレコードのジャケット風でカバーを外すと……。

 土曜日、昼すぎ、東中野まで散歩し、夕方、ひと月ちょっとぶりの西部古書会館——。
 街道資料、文学展パンフ、ヤクルト・スワローズの一九九二年の優勝記念の写真集などを購入する。街道本に関しては集めても集めても「道半ば」という気持になる。

『些末事研究』の最新号(vol.6)の特集は「途中でやめる」。昨年十一月、京都の飲み屋で座談会を行った。たまたま店に「途中でやめる」の山下陽光さんがいて(リメイクした古着の展示販売をしていた)、途中から座談会に参加し、そういう話になった。メンバーは山下さんの他、福田賢治さん、東賢次郎さん、世田谷ピンポンズさん、わたし。久しぶりに酔っぱらって、妙なトーンというか、酒癖のわるいおっさんみたいな喋り方になっている。山下さん、面白い人だったなあ。半年前の話だが、楽しい一夜だった。

 京都では哲学の道と奈良街道などを歩いた。時間に余裕があれば、鞍馬のほうの街道も歩きたかった。

 わたしは現役のころに京都の私大に落ちて、一浪して東京に出てきた。とはいえ京都でも東京でも散歩して古本屋に寄って喫茶店で珈琲を飲んでという日々を送っていた気がする。

2021/06/01

人気マンガ家Tさんの話

 先週、先々週と新刊本のチェックのため、新宿に行った。雨の日、新宿は地下の通路で移動できるので助かる。

 元人気マンガ家T著『元人気マンガ家のマンション管理人の日常』(興陽館)は、百万部超の漫画誌に連載し、テレビドラマ化した作品を何作も持っていた漫画家の話。本業の仕事が途絶え、現在はマンション管理人をしながら、アルバイトを掛け持ちしている。おそらく「T」は姓ではなく、名だろう。『大東京ビンボー生活マニュアル』の人だとおもう。

《わたしは売れないマンガ家である。いや、あったというべきか》

 Tさんには妻子がいる。管理人の仕事はゴミ出し、清掃作業、電灯の好感、破損部のチェック、植栽の水やり、落ち葉拾いなどがある。自宅(別のマンション)から電車や自転車で通う。

 管理人の仕事の話も興味深いが、第6章の「わたしのマンガ家時代」が何かと身につまされる教訓でいっぱいだった。
 Tさんは大学は法学部だったが、文学にのめりこみ、就職活動をしないまま卒業してしまう。その結果、アルバイト生活——ある日、定食屋で四コマのマンガ誌を読んでいたら、「新人募集」の告知が載っていた。Tさんは早速四コマを描いて、応募——郵送ではなく、編集部に直接持ち込む。すると「ウチの社風には合わないが他の出版社ならどこかで採用してもらえるかも……」といわれる。
 そして別の出版社を訪れ、作品を見せると「次号に載せよう!」とデビューする。

 とんとん拍子で漫画家になったように見えるが、何の経験も基礎もないままプロになってしまったTさんはすぐ行き詰まり、自信を失う。ところが「連載はいったんやめ、単発で短い好きなものを描くように言われ、大学時代のなんの変哲もない生活を描いたところ、これが意外に評価され」た。後にこの作品はTさんの代表作になった。

 ヒット作を出してもTさんは自信が持てない。仕事が減ってもどうにかしようとしない。絵を描くのは好きだが、読んでもらいたいという情熱に欠ける——と自己分析している。

 この第6章でTさんは残りの人生で何がしたいかについても書いている。おそらくTさんの年齢はわたしの一回りくらい上だ。今のわたしもそのことばかり考えている。