2025/08/25

祭りのあと

 八月二十三日(土)、二十四日(日)、高円寺の阿波踊り。土曜夕方、西部古書会館に行く(初日は木曜だった)。古書会館にいても太鼓、笛の音が聞こえた。
 午後六時すぎ、駅周辺の人だかりを避け、庚申通りの肉一のカルビ串二本、さらに小杉湯方面に迂回し、中通り、沖縄料理店の抱瓶でオリオンの生ビールを一杯。

 日曜日、ユータカラヤで牛タンを買い、キャベツといっしょに焼く。高円寺駅の南口のとんかつ松永で串かつと卵串を買う。途中、手回しオルガンのオグラさんと道で会う。

 高円寺中央公園の出店を見て、九州料理マルキュウで生ビール。一度、家に帰り、夕方五時に再び抱瓶に行き、オリオンの生ビールと焼きそばをテイクアウト。商店街で立ち往生している車を見る。高円寺は狭い道ばかり、一方通行だらけなので、他所から車で来た人には厳しい町かもしれない。

 西部古書会館は前回の均一で四十冊も買ってしまったので雑誌を中心に見る。『文学』特集「ラフカディオ・ハーン再読」(二〇〇九年七・八月号、岩波書店)、季刊『自然と文化』特集「名所[ハレ空間]の構造」(一九九〇年新春号、観光資源保護財団)、『江戸楽』特集「弥次さん喜多さん 東海道駿州の旅」(二〇二二年三月号)、同じく『江戸楽』特集「東海道完成四〇〇年 東海道“五十七次”に出会う旅」(二〇二四年二月号)を買う。

『江戸楽』の発行はエー・アール・ティ株式会社。同誌今月号の特集は「千住宿 開宿四〇〇年」と知る。バックナンバーを見ると街道や宿場の特集がけっこうある。二〇一三年十月号「お伊勢まいり」の特集も気になる。

 季刊『自然と文化』特集「名所」、小野良平「飛鳥山の名所づくり」——飛鳥山は花の名所で知られるが、その名所づくりには徳川吉宗が関わっていた。

 飛鳥山、滝野川周辺は花の名所だけでなく「滝浴み、螢狩、虫聴、看楓、雪見、釣、土器投げ、初午詣、田楽祭、そして料理屋での遊興と、多種多様の四時遊覧が繰り広げられた」とのこと。

 コロナ渦中、ちょうど桜が満開のころ、飛鳥山公園に行ったことがある。ほとんど人がいなかった。飛鳥山のある京浜東北線の王子駅は高円寺から都営バスも走っている(バス停は高円寺駅前ではなく、環七沿いにある)。四十分くらいで着く。

 歌枕は和歌に詠まれた名所や旧跡、現実に存在する土地であると同時に日本人の「心の風景」ともいわれている。物語絵巻を見ると、歌枕の地が描かれている。

 わたしは東京に三十六年暮らしながら、関東地方の歌枕をほとんど知らない。
 郷里の三重に関しても鈴鹿山や鈴鹿川が歌枕と知ったのは五十歳を過ぎてからだ。

 西行や芭蕉も歌枕めぐりをしている。力士の四股名にも歌枕の地名がついていることがよくある。たしか丸谷才一のエッセイにも相撲と地名の話があった。どの本だったか……。

 街道や歌枕のことを調べていると、あっという間に時が過ぎる。
 街道の研究をはじめる前は、地理もそうだが、日本の古典はどちらかといえば苦手分野だった。浮世絵も関心がなかった。

 訪れたことのある土地が詩や絵になっている。それだけで興味がわいて面白くなる。人間の脳は不思議である。

2025/08/22

均一市

  八月十六日(土)、十七日(日)、西部古書会館(高円寺均一古本フェスタ)。初日二百円、二日目百円。ここのところ、本の整理中で、ずっと古本に関してセーブモードだったのだが、「一行でも読みたいとおもったら買う」と決め、初日九冊、二日目三十一冊、計四千九百円。
 初日、山路閑古著『戦災記』(あけぼの社、一九四六年)は、俳句その他の戦争責任についても記されている。
 山路は一九〇〇年十月静岡生まれ(一九七七年四月没)。化学者で俳人。『古川柳名句選』(筑摩叢書、一九六八年。後にちくま文庫)などの著作もある。

 あと田澤拓也著『無用の達人 山崎方代』(角川書店、二〇〇三年)、内田百閒著『夜明けの稲妻』(三笠書房、一九六九年)など。『無用の達人』は角川ソフィア文庫版あり。百閒の『夜明けの稲妻』、巻末に著作目録、装釘意匠者一覧が付いている。

 二日目、津田青楓著『寅彦と三重吉』(萬葉出版社、一九四七年)など。津田青楓の本、初日に行ったときは気づかなかった。残っていてよかった。同書は寺田寅彦の手紙を数多く収録している。

《寺田さんは手紙のなかで、どこかで又一緒に飯を喰はう、と云つてゐられるが、寺田さんは外に出てウマイ飯を喰ふのが好きだつた。それも洋食に限つてゐた》

 寅彦も絵(水彩、油絵)を描いていた。自著の装丁もした。青楓宛の手紙でも絵の話をよくしている。

 青楓は九十八歳まで生きた(一八八〇年生、一九七八年没)。画家は長生きの人が多い気がする。杉並区公式サイトの「すぎなみ学倶楽部」によると、一九三〇年、五十歳のときに杉並区天沼に移り住み、戦後は杉並区高井戸に暮らしたとある。

 仕事の合間、『フライの雑誌』(134号)を読む。水口憲哉「農奴と村張り」の副題は「テクノ封建制に抗う共同出資と共同経営」。文中、アナルコ・サンディカリズムという言葉も出てくる。

 樋口明雄「人生のたたみ方」は、心身が老けない秘訣に関する話のところに付箋を貼る。

 わたしは「静かに過すことを習へ 福原麟太郎の色紙の謎」というエッセイを書いた。「静かに過すことを習へ」はアイザック・ウォルトンの『釣魚大全』の言葉なのかどうか……という話である。

 福原麟太郎、随想全集は揃ったが、未入手の単行本、新書がまだ残っている。

2025/08/17

夏の読書

 年をとると、のどの渇きが鈍くなる。人体は約六十%が水分だと何かで読んだ。年とともに体の水分量は減少する傾向がある。のどの渇きの自覚が薄れるのはそのせいか。

 八十二歳の母は、夏、エアコンをほとんどつけない。わたしも夏に冷房なしでも眠れる。三十代くらいのころと比べて、暑さや寒さにたいする耐性がついたのかと考えていたのだが、単に鈍感になった可能性が高い。

 東京の銭湯のお湯は熱い。老人は平気な顔で入っている。以前は慣れの問題だろうと考えていたのだが、年をとるにつれ、わたしも熱い湯が平気になった(温泉はぬるいほうが好み)。熱い冷たいだけでなく、なんとなく痛みの感じ方も鈍くなっているかもしれない。

 八月十五日、部屋の片づけをしながら高校野球を見る。ファームのヤクルトの試合をチェックする。午後六時すぎ、阿佐ケ谷を散歩する。ブタクサの花粉が飛んでいる気がする。おなかすいたで小ぶりのタマネギ、エクランのパン(サンフラワー)、けやき公園の屋上から夜景を見る。ここから新宿方面を眺めるのが楽しい。渋谷方面に光る高層ビルを見つける。建物の名前はわからない。鳥瞰図に興味を持って以来、いろんな場所から遠くを見るようになった。
 行き詰まりそうになったら視界を変える。広く見渡せる場所に移動する。

 ニンジンをピーラーで削り、小分けにして冷凍。タマネギも刻んで冷凍。ニンジン、キャベツ、もやしをしょうがとだし酢で炒めて常備菜を作り、冷凍する。

 散歩野球家事読書の日々。穏やかなり。

 山本夏彦が小泉八雲の話を書いていた記憶があるのだが、どの本だったか。本棚から『「戦前」という時代』(文春文庫、一九九一年)を取り出す。「明治の語彙」をパラパラ読む。

《昔の女は芸術家になろうと歌をよんだのではない。子規は古今は字句の遊戯にすぎないというが、字句の遊戯のどこがいけないのだろう。歌枕をたずねるのがどこがいけないのだろう。ラフカジオ・ハーンは若くして死んだ明治二十年代の婦人の一生を書いている。主人に当る人は月給十円にたりない下級吏員である。夫婦は三畳二間の家に住み、妻は三人の子を生むが次々と死なれてやがて自分も死ぬという薄倖の人である。この薄給のなかで二人は義理をはたそうと千々に心をくだき、そして立派にはたしている。どんな些細な親切にも感謝の念をいだいている。嬉しいにつけ悲しいにつけ歌をよんでいる》

 それらの歌をハーンは英語に訳した。最近、こういう話が身にしみる。「歌枕をたずねるのがどこがいけないのだろう」という一文は忘れていた。興味がないときに読んでも記憶に残らない。街道の研究をはじめて、歌枕に興味を持ち、旅先で句碑や歌碑を書き写すようになった。旅に行けないときは古い地図を見て歌枕の地を探す。楽しいわけではないが、飽きない。

 夜、高円寺散歩。純情商店街の提灯が明るくていい。

2025/08/12

腓返り

 晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課。猛暑、天候不順で晴れの日一万歩の目標を達成できない日が続く。
 後藤明生著『しんとく問答』(講談社、一九九五年)の表題作「しんとく問答」に郷土史散策に向かうカバンの中に地図や街道の本の他、「カロリーメイト」「缶入りウーロン茶」「写ルンです」「エアーサロンパス」を入れていると記されている。
「エアーサロンパス」は「とつぜん起るかもしれない腓返りに備えてである」とのこと。

 初読時、夏の話かとおもったが、今回再読したら十月下旬と書いてあった。けっこう読みちがいをしている。

 一万歩の散歩を控えていたのは、数日前、近所の公園を歩いていたときに右のふくらはぎが腓(こむら)返りになったからだ。腓返りは就寝中や運動中の水分やミネラル不足が原因といわれている。出かける前、水で薄めたソルティライチを水筒に入れていたのだが、飲まずに歩き続けてしまった。中年になると、のどの渇きが鈍くなる。足の痛みはおさまったが、まだすこし違和感あり。

「しんとく問答」の初出は『群像』一九九五年三月号。後藤明生は一九三二年四月生まれだから、六十二歳のときの作品である。後藤明生の「エアーサロンパス」云々のところは、本当に「とつぜん」くるのだなと痛感した。

 体のさまざまな部位の中で、足に水分不足のシグナルが出るのは面白い。これ以上動いたら危ないということだ。
 心労や頭の疲れは気づきにくい。休まないといけない状態にもかかわらず、つい無理をしてしまう。わたしは目の疲れを自覚したら、横になって休むか、軽めの散歩をするようにしている。外に出て歩くと気分がいい。すっきりする。

 雨の日が続き、小雨の中、高円寺界隈を歩く。駅すぐの東急ストアは店内を改装——調味料などの割引コーナーで十勝豚丼のたれを買う。高円寺駅の北口のロータリーと芸術会館通り、それから南口の南中央通り(高円寺南四丁目)は風がよく通る。夏の夜に歩くと心地よい。

 八月上旬の散歩中、右足のふくらはぎをつってしまったのだが、ようやく完治した。高校野球やプロ野球でも、選手が足をつって倒れているシーンを目にする。
 選手たちは痛めたほうの足を上げて水分補給をしている。

 九日の土曜日、西部古書会館夕方、『没後一五〇年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳』(太田記念美術館、NHKプロモーション、二〇一一年)の図録を買う。手にとった瞬間、「ほしい」とおもった。縦二十八センチ、横二十五センチの大判で二百九十頁くらいある。「没後一五〇年記念」の国芳の図録は、岩切友里子監修、日本経済文化事業部編の『没後150年 歌川国芳展 Kuniyoshi』もあるようだ(他にもあるかもしれない)。表紙、判型、ページ数もちがう。「日本の古本屋」で四、五千円(送料込み)くらい。
 図録の相場はよくわからない。国芳は猫や金魚の絵が有名だが、東都名所、東都冨士見三十六景などの風景画もよかった。洋画の手法をけっこう取り入れている。今回買った図録は元の西洋画と国芳の絵を並べて掲載している。解説にも国芳が西洋画の影響を受けていたことについて詳しく記されていた。
 明治期の文学は海外の作品を換骨奪胎したものが多い。模倣から独自性を生み出していく過程は興味深い。

 ものすごく斬新におもえる作品もたいてい元ネタがある。どのような影響の受け方をするかも個性なのかもしれない。

2025/08/09

立秋

 庄野潤三著『世をへだてて』(講談社文芸文庫、二〇二一年)を読む。冒頭の「夏の重荷」の初出は『文學界』一九八六年七月(に発表……と同文庫の年譜にある)。庄野潤三は一九二一年二月生まれ、六十五歳のときの随筆である。「夏の重荷」は、福原麟太郎著『命なりけり』(文藝春秋新社、一九五七年)所収の「秋来ぬと」の話からはじまる。
 ここ数年、福原麟太郎の話を何度となく書いているが、『世をへだてて』を読んだことも関係している。
 福原が六十歳で心臓の発作で入院、病院で五ヶ月過ごした。庄野潤三も「六十の坂を越したところで突然予期しない病気にかかって入院加療を余儀なくされた」。予期しない病気は脳内出血だった。
 福原と同じくらいの年齢のときに庄野も入院し、「秋来ぬと」を「一層身近な気持で読み、励ましを受けるようになった」。庄野は福原の随筆を読みながら「手探りで健康と生活の立て直し」を計ろうとする。

 わたしは今年の秋で五十六歳になる。「健康と生活の立て直し」か。中年以降、大病はしていないが、やや不調が続いている。もはやそれが常態なのだと認めざるをえない。

 福原が「秋来ぬと」を書いた夏の話。

《八月七日。三十三度九分の暑さと新聞に出ていたから、郊外の私の家でも三十二度には昇ったであろう》

 福原が狭心症で入院したのは一九五五年。「秋来ぬと」の文中「私は去年の七月から心臓病をわずらって」とあるから「八月七日」は一九五六年の立秋。この年、七月の終わりから急に暑くなった。

《この暑さは、結局、十日続いた。翌九日からは、思いがけず、すこし曇って来て、湿度も上らず、久しぶりに息をついた》

 昭和の昔、立秋(八月七日ごろ)を過ぎると、徐々に涼しくなりはじめた。今はちがう。夏が終わりそうな気配がまったくない。気温三十三度九分なら、ちょっと楽かとさえおもってしまう。

 わたしはこの文章を八月七日の夜から書きはじめ、九日の昼になった。昨日の夜、すこし散歩をしようとおもっていたのだが、高校野球(綾羽対高知中央)の試合が続いていて最後まで見た。九回表二アウトから相手チームのエラーで綾羽が同点に追いついた。さらに九回裏のピンチを乗り切り、延長十回のタイブレークで勝敗を決した。午後十時四十六分の試合決着は高校野球では“史上最遅”と知る。

 野球を見ていると時間が溶ける。

 福原麟太郎、庄野潤三の二人も野球好きだった。

 庄野潤三著『山の上に憩いあり』(新潮社、一九八四年)に福原麟太郎との「対談 瑣末事の文学」(一九七五年)が収録されている。
 福原は午後六時にプロ野球のナイターがはじまると最初の一時間はラジオを聴き、午後七時からテレビで見る。庄野もまったく同じことをしていると対談で語っている。

 この対談で印象に残っているのは福原の次の言葉である。

《福原 わたしはね、もっと若いときは、十二時から二時まで勉強していたんです。(中略)そんなことをやっていましたが、朝はだめなんです。朝した仕事というのはほとんどありません。(笑)低血圧的なんですよね。低血圧の人というのは、午前中は頭が働かないんじゃないですか》

 わたしも朝が弱い。というか、だいたい寝ている。朝寝昼起ということもあって、寝起きの昼も頭が働かない。夜が近づくにつれ元気になる。昨日今日の話ではなく、子どものころからそうだった。

 福原麟太郎は入院して以降、「蒸留したお酒ならばいい」と医者にいわれ、ウイスキーを飲んでいた。一週間でボトル一本。「瑣末事」なのだが、わたしはこういう話を読むのが好きである。
 二十代三十代のころは本を読むことで自分を変えたいという気持があった。五十代半ばを過ぎると「こんな人生だけど、これでいいや」とおもえるような文章が読みたくなる。
 自己批判とまではいかなくても自己検討は体力を要する。年をとり、自分の判断能力にたいする懐疑をなくす。それでダメになった先人をたくさん見てきた。

 知りたいこと、調べたいことがあちこちにバラけて収拾がつかなくなる。 

(追記)福原が狭心症で入院した年を一九六五年と書いていた。一九五五年に訂正した。 

2025/08/05

雑記

 月曜、夕方神保町。新刊書店を回る。小泉八雲の本が目立ちはじめる。秋からNHKの朝のドラマが放映されるようだ。八雲の人生論や読書論が復刊されたら読んでみたい。福原麟太郎の随筆にも八雲の名はちょくちょく出てきた。すずらん通りで神田伯剌西爾の竹内さんと会う。神保町の三省堂書店の近況を教えてもらう。そのまま店に行き、アイスコーヒーを飲む。

 このところ神保町に行くと帰りはだいたい四ツ谷駅まで歩く。夜、外濠付近は風が気持いい。建物が密集している場所より涼しく感じる。靖国通りの歩道を左右に行き来しつつ、東京タワー、スカイツリー、ドコモタワー、雪印の看板(たぶん午後八時ごろ消える)を見る。
 市ケ谷駅のすこし手前から新宿方面、屋上が波形で赤とか青とかに光っているビルが見える。ずっとこの建物の名前がわからなかったのだが、東急歌舞伎町タワー(二〇二三年四月開業)と判明した。高さは約二百二十五メートル。

 福原麟太郎著『天才について』(講談社文芸文庫、一九九〇年)を再読する。太平洋戦争末期、福原麟太郎は強制疎開で家を失いながらも、東京に残り、英文学の講義を続けていた。

《私は日本が敗けたら英語の教師など馬鹿馬鹿しくてやっていられないだろうと思っていた。然し敗けるまで、生きている限り、英文学を勉強していようと思っていた》(「猫」/『天才について』)

「猫」の初出は一九四八年一月。

 今年の夏、戦後八十年。わたしは散歩をしたり、冷房の効いた部屋で古本を読んでいる。平和を当たり前のように享受し、日頃はそのありがたみを忘れている。

『天才について』は『野方閑居の記』(新潮社、一九六四年)所収の随筆とも重なっているのだが、「或る土曜日」の中に「鉄道唱歌」で知られる詩人、国文学者の大和田建樹の話も出てくる。大和田建樹は「散歩唱歌」も作っていると知った。福原麟太郎は同氏を「確かに研究する価値のある人」と評している。

 同書の「古典と人間の知恵」というエッセイにこんな言葉がある。

《古典文学が自分の国にあるということは、たいしたことなのだ。そして古典を読む力を養っているということは、つまり人生の知恵を貴ぶことを知っており、その蓄積を楽しむゆとりがあることなのである》

 初出は一九六二年一月六日の東京新聞。

 千年昔にさかのぼれる自国の文学があるというのは、当たり前のことではない。

 老年の入口に立って、古典がだんだん好きになってきた。もともと中国の古典は好きで『菜根譚』はくりかえし読んでいる。わが人生でもっとも再読回数の多い古典だ。人生の知恵を学ぶというより、現実逃避の心地よさに浸りたくて読んでいるようなところもある。

 街道の研究を通して、昔の日本の風景、人の行き来を想像するようになった。
 旅先で旧道を歩いて句碑や歌碑を見つける。能因、西行、芭蕉の旅に思いをはせる。句や歌の意味はすぐにわからなくてもいい。遠い昔のことがすこし近くにおもえるだけでいい。