2011/12/31
北の無人駅から
『北の無人駅から』は、原稿用紙一六〇〇枚の大著なのだが、これだけの枚数を費やさなければ書けないことが書いてある。無人駅のある町の歴史、そこで暮らす人々の半生を丹念に描いていて、まったく知らない町、知らない人のドラマにどんどん引込まれてしまった。
大学時代から札幌に移って、フリーライターになり、八年前に『こんな夜更けにバナナかよ』で大宅賞と講談社ノンフィクション賞を受賞。『北の無人駅から』は、それ以来の本である。
渡辺さんとは一年前にも高円寺で会って飲んでいる。
そのときは『北の無人駅から』を執筆中ということを知らなかった。
観光情報誌で、北海道について書こうとすると、どうしても雄大な自然や食物のおいしさを讚えるといった「定型」をなぞらなくてはならない。渡辺さんは、そのことに疑問をおぼえる。
それから果てしない取材がはじまる。これほど贅沢な(非効率な)時間の使い方をして書かれた本はそうない。
飲み屋では、渡辺さんが山田太一さんの大ファンだという話になった。『北の無人駅から』を執筆中、山田さんからの励ましの手紙を何度も読み返していたらしい。
その前日、山田太一さんと原恵一さんの対談が掲載されている『For Everyman/フォーエブリマン』を編集した河田拓也さん、松本るきつらさんと同じ店で飲んでいた。
一日ズレたことが悔やまれる。
*
どうでもいい話を書くが、高円寺は住んでいる人口にたいし、郵便局のキャッシュディスペンサーの数が少なすぎる気がする。
年末、行列にひるんで、お金を引き出せなかった。何に負けたのかわからないが、敗北感を味わった。
今年も携帯電話を持たなかった。もはや自分との戦いになっている。持ったら負け。でもいつか負けそうだ。ふだんはなくてもいいのだが、旅先で困る。
鮎川信夫は「その日その日の消費に浮かれる自己喪失者」と現代(といっても一九八〇年代)の日本人を評したことがあった。
わたしもそうした時代を通過し、日々、モノや情報を消費することに追われている。
来年はもうすこし平穏にすごしたい。平穏な一日を送るにもそれなりに手間がかかる。
たっぷり睡眠をとって、ちゃっちゃと部屋を片づけて、じっくり時間をかけて本を読み、文章を書きたい。
「自己喪失」しないためには、ひとりで静かに思索する時間が必要なのではないかとおもう。
2011/12/28
ゆるやかな崩壊
震災後、悲観しがちではあったが、なんだかんだいって、日本は恵まれた国だという実感はある。
内乱もなければ、飢饉もなく、医療、衛生、治安は非常に優れている。
これほどの災害に見舞われても、大きな混乱が起こらなかったのは、社会にたいする信用があったからだともいえる。
今回の震災でも、道路や線路の復旧、流通網の回復の早さは心強くおもえた。
世界から賞賛された日本の被災者のモラルを支えていたのは、個人の善良さだけではなく、自国の技術や国力への信頼も大きかったのではないか。
きっと救助が来る。水や食糧が届く。今さえしのげば何とかなる。
大震災と原発事故後の日本は安心や安全にたいする信用も揺らいだ。揺らいだけど、瓦解はしていない。今のところは。
すこし前のこのブログで紹介した「福島の惨事:未だ何も終わってはいない」(ジョナサン・ワッツ記者)の締めは次のような言葉だった。
《原子力の惨事は恐ろしいものだったが、想像していたほどではなかった。1年前に誰かが私に原子炉3基が同時にメルトダウンすると言っていたら、それは世界の終わりだと思っただろう。でも、今の日本は想像していたような終末の様相を呈していない。その代わり、ゆるやかな崩壊が起こっている。福島を3回訪問して1年前より放射能に対する恐怖は小さくなったが、日本に対する心配は大きくなっている》
この記事を読んでから「ゆるやかな崩壊」という言葉が引っ掛かっている。急激にではないが、徐々に「何か」が壊れはじめている。信用とか信頼とか目には見えない、これまで社会を支えていた何か。
安全といわれてもそれを信じない。
同時に危険といわれてもピンとこない。
そんな思考停止が世の中に蔓延しつつあるようにおもえてならない。
わたしもそうなってきている。
2011/12/25
鈴の音
求道型というか、年月を重ねて、渋く巧くなるという方向性だけではなく、新鮮さや楽しさを追い求めたり、どんどん独特で変になったり(どのバンドがどうということではなく)、ミュージシャンにはいろいろな道があるなあとおもった。
*
文章を書くときに「伝えたい」という欲求と「考えたい」という欲求があるのだけど、今は後者の時期なのかもしれない。
「考えたい」ときの文章は、どうしても重くなりがちで、行き詰まりやすい。
でも行き詰まる経験を積み重ねることも、何かの足しにはなっている気がする。
*
二十代のころ、古山高麗雄さんの『身世打鈴』(中央公論社)を読んで、どんどんわからない、書けない方向に進んでいくような文章に魅了された。
《私たちは、過去を思い出しているつもりでいて、実は、思い出せないのかも知れないのだ。思い出せない状態が続くことで、過去は失われているのかも知れないのだ》
二十代半ば、仕事を干されて、まったく書いていなかったころ、古山さんは「そのときでないと書けないことがあるから、どんどん書いたほうがいいですよ」といわれたことがある。
《多かれ少なかれ、人は恰好づけなしに自分を語ることはできない。その恰好づけに誤謬や錯覚を加えて、人は自分を語る。身上話とは、しょせん、自分だけにひそかに聞かせる自慰的な詠歌である。しかし、恰好づけと思い違いに充ちた他人の自慰的な詠歌を懇切に聞いて、その詠歌の底で鳴っている鈴の音を聞きださなければならないのだと思う》
言葉の中に「鈴の音」を聞く、あるいは鳴らす。
この「鈴の音」は何なのか。古山さんは自問自答をくりかえす。
わたしもなんとなくそういうものがあるということしかわかっていない。
たぶん「鈴の音」は人によって聞こえたり聞こえなかったりする。人によって聞こえる「音色」がちがうこともある。
その日の体調や得手不得手によって「鈴の音」を聞き逃してしまうこともある。
三十代前半で音楽ライターの仕事を辞めたのも、自分の好きなジャンル、ミュージシャン以外の「鈴の音」を聞き取れなくなってしまったからだ。好きなものはどんどん好きになるのだけど、好きになれるものが狭くなってしまった。
自分には聞こえないけど、聞こえる人には聞こえる。批評は、ちゃんと「鈴の音」が聞こえる人が書いたほうがいい。
*
そんなことをうつらうつら考えていたら、前田和彦さんから磯部涼著『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)が届いた。前田君が編集者の卵かそれ未満くらいのときから、ずっと著者の文章が好きだということを聞いていた。
第三章の前野健太評から読みはじめた。「鈴の音」が聞こえる人が書いた文章だとおもった。
言葉の奥に「静かな熱い問いかけ」がある。
それは「音楽」というジャンルにおさまり切らない、「人生」あるいは「世界」にたいする問いかけだろう。
二〇〇〇年代の音楽をほとんど通りすぎてきたわたしにもその問いかけは深く響いた。
2011/12/23
震災後に考えたこと その三
本を読んで、原稿を書いて、酒を飲んで、寝る。
いつも通りの日常。
でもどこかちがう。(自分の)日常の脆さを意識しながら、なるべく普段通りにすごしているかんじだ。
一言でいうと落ち着かない。
このままふだん通りの生活に戻ってしまうことは、今なお日常をとりもどせない人との溝を深めてしまうのではないか。
今回の震災や原発事故によって浮上した問題を解決しないまま、元に戻ろうとしていいのか。
東京に暮らしながら東京一極集中を批判するのは、満員電車に乗りながら「なんでこんなに人が多いんだ」と文句をいうようなものだけど、大地震でライフラインが寸断されたら……。
すでにベクレルやシーベルトという単位を目にする日常になっている。
近所のスーパーに行くと「お客様の要望にこたえて」というポップのついた西日本の牛乳や卵が売られている。
今回被災しなかった地域にしても安泰なわけではない。
全国いたるところに老朽化した原発があり、活断層がある。
古くなった原発を廃炉にするには数十年、さらにもっと長い歳月を要するかもしれない。放射性廃棄物の処理や管理をふくめて、財政を蝕み続けるだろう。
生きているあいだにこんなことになるとはおもわなかった。
政治や経済のことは誰かがなんとかしてくれる。なんとかならなくても、自分は自分のできることをやるしかない。
わたしはそんなふうに考えていたのだが、それではだめだとおもうようになった。
先のばしのツケはどんどんひどくなる。
しかしそこから目をそらしたところに希望はない気がする。
(……続く)
2011/12/22
震災後に考えたこと その二
三月から五月くらいの記憶も薄れつつある。
スーパーやコンビニでは水や電池などが品不足になり、節電の影響で町も暗くなった。
三月下旬、東京の水道水に放射性物質が検出されたときは、この先どうなるのかと心配した。
でも原発の話することは避けがちだった。すくなくとも愉快な話題ではないし、意見も分かれやすい。
原発の賛否だけでなく、内部被曝の問題に関しては、夫婦や親子ですら一致しないこともある。
たとえば、東北、関東の農家の心配をしている人と国の安全基準を心配している人がこの問題を話しあっても、おそらく平行線をたどるだろう。
同じように放射性物質のことを心配していても、人によって危機感もちがう。
年齢、住んでいる場所、小さな子どもがいるかいないか……。
日々の食事をどうするか。家族がいれば、自分だけの問題ではすまない。
とはいえ、あまりにも気にしすぎていたら、食べるものがなくなる。
・どこまで気をつければいいのか。
・いつまで気をつければいいのか。
そういったことを個人個人が判断せざるをえない(気にしないこともひとつの判断である)。
情報環境の差によって、その判断は大きく変わってくる。
*
原発事故は誰も望んでいたことではない。しかし起こってしまった。その結果、さまざまな理不尽と不平等が生じ、拡大しようとしている。
国や自治体に何とかしてもらいたいところだが、政治にできることは限られている。事故の収束とガレキの処理のほうが、何年後かに発症するかもしれない(しないかもしれない)放射性物質の影響よりも優先課題なのだとおもう。
国にできること、個人にできること。
その隙間がどんどん広がっている気がする。
ひとりひとりの安全と健康に関しては自衛していくしかない。
(……続く)
2011/12/19
震災後に考えたこと その一
といっても、まだ気持の整理がついていない。
生活が落ち着いたのは五月下旬にマンションの壁の修理が終わったころかもしれない。余震のたびに、ひびが大きくなって、天井のパネルが落ちてくる。
一時は引っ越しも考えた。引っ越しを考えているから、崩れた本を本棚に戻す作業をする気になれない。
*
三年くらい前から年に数回仙台に行くようになって、今回津波の大きな被害があった町も何度となく訪れていた。ふだん観光なんかしないのに、松島や塩釜に行って、フェリーにも乗った。
震災後、自分の知っている風景が一変してしまった。沿岸部のかつて店や家があったはずの場所は更地になり、海から離れた場所でも打ち上げられた漁船、横転した車を見かけた。
ある知りあいは「時間が経つにつれ、(被災地にいる)自分たちのことが忘れられてしまうのではないか」といっていた。
家も仕事も失った人がいる。半壊の住居で暮らしている人もいる。家族を失った哀しみが癒えない人もいる。
被災地では、日々の生活に追われて、安全な水だとか食べ物だとかそんなことを考える余裕のない人もたくさんいる。
電気が止まって、情報がまったく入らなかった場所では、その日その日の食料やガソリンを手にいれることが最優先の課題だった。
そういう経験をした人からすれば、原発の話をされても「今はそれどころではない」という気持になってもおかしくない。
ものの感じ方には個人差はあるから一概にはいえないが、わたしの場合、心身が弱っていると、厳しい論調や語調の文章や言葉を受けつけなくなる。
(……続く)
2011/12/17
浮かれ楽しむこと
……色川武大著『唄えば天国ジャズソング』(ちくま文庫)を読む。「アム・アイ・ブルー?」の冒頭の文章に目が止まった。
《今年の正月は私にとって、ジャズで明け暮れた。暮に私の師匠の藤原審爾が亡くなって、沈痛な気持になっていたので、浮かれ楽しむ機会があって救われた。哀しいから、浮かれられないということはない。浮かれているから、哀しくないというのでもない》
沈痛な気持になったら、楽しんだり浮かれたりしてバランスをとる。
無意識のうちにわたしもそうしている。
でもそのことにどこか後ろめたさがあった。
単なる現実逃避ではないかと……。
*
というわけで、本題にはいる。
「Genpatsu 福島原発事故に関する海外メディア報道」というサイトがある。国内のメディアとはちがった視点から原発のことを考える上で、ずいぶん参考になる。
中でも「福島の惨事:未だ何も終わってはいない」(ジョナサン・ワッツ記者)という英ガーディアンの記事は出色のものだ。
《他の国々では、人々は放射線源からの距離をもっと遠くしたいと思うかもしれないが、それは人口密度が高く雇用が固定している島国では困難だ。それにもかかわらず何千人もの人達が移住したが、しかし震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない。それも科学者や政治家から明確なガイダンスがあれば少しは容易になるだろうが、しかし、この点においても現代の日本は特に脆弱なようだ。最近、日本の首相は5年間で7回変わった。学者達とマスメディアは原子力産業界の強力な影響力によって腐敗している。その結果、体制に順応することで有名な国民が、突然、何に順応すればよいのか確信が持てなくなった》
《「食べて安全なものは何なのか、どこなら安全に暮らせるのか、政府がはっきり言わないので、個々人が決断することを余儀なくされています。日本人はそういうことが不得意です」と、臨床心理学で著名な高橋智氏は述べている。彼は、福島のメルトダウンの精神面への影響は、身体的な直接の影響より大きいだろうと予想している》
昨日、福島第一原発が冷温停止状態になったという宣言があった。ただし、安全な状態とはほど遠いというのが大方(海外の通信社など)の見解だ。安全か安全でないかは確率の問題だから、ある人は大丈夫で、ある人はそうでないということも起こりうる。
記事中のロシア人医師のコメントには「影響を受けた地域の人々は健康と生活状態に対する自己評価が極端に否定的で、自分の人生がコントロールできないと強く感じています」とあった。
わたしが知りたいのは「人口密度が高く雇用が固定している島国」で「震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない」状況下でどうすればいいのかだ。
《一方では、運命とあきらめている人達を見つけるのは難しくない。何人かは放射能より、ストレスと激変のほうがリスクが大きいと述べている。意見の食い違いは家族、世代、そして共同体の分割をもたらした。「留まるべきか、避難すべきか?」という問いが無数の人々に重くのしかかっている》
今いる場所に「留まる」という選択をした以上、心配しすぎることについても気をつける必要があるだろう。
電力会社に利する意見と受け取られるのは本意ではない。わたしは経済の停滞をまねいたとしても再生可能エネルギーへの転換を支持したい。でもそれと原発事故のストレスの問題は別だ。
原発事故の収束までの道のりは険しい。
心配性の人(わたしも)に心配するなといっても無理だろう。
だからこそ、心配しつつも、浮かれたり楽しんだりして心のバランスをとることの大切さも忘れないようにしたい。
それは諦めや開き直りではなく、生きるための知恵である。
2011/12/13
さよならカーゴカルト
この間、東京ローカル・ホンクの新しいアルバム『さよならカーゴカルト』を何度となく聴いていた。
アルバムに収録されている「昼休み」という町の風景と心情が溶け込んだ曲にやられて、そのまますぐあとの京都のライブを見に行った。
木下弦二さんのお父さんは労働歌や合唱曲をつくっていた音楽家なのだが、「昼休み」の曲調や詩は現代の労働歌として聞こえなくもない。もしかしたら、ホンクのコーラスは“うたごえ運動”を踏襲している……といったら、さすがにこじつけすぎか。
十年ちょっと前の話になるけど、東京ローカル・ホンク(当時は「うずまき」という名前だった)のドラムのクニオさんが、大晦日から正月にかけて五日間、当時住んでいた高円寺の下宿に入り浸っていたことがあった。後にも先にもあれほど酒を飲み続けた経験はない。
あのころ、まわりの友人たちもアルバイトをしながら、音楽をやったり、文章を書いたりしていた。
わたしも古本とレコードを売って、食費や酒代を捻出していた。
「こんな生活を続けていたら、ダメになる」と危惧しつつ、「こんなおもしろい日々はもう二度と味わえないかもしれない」とおもい、遊んでいた。
当時は文章を発表する場所もなかったし、そういう場所を自分で作る発想もなかった。
文章や音楽はある種の薬のようなものだとおもう。多くの人に必要とされる市販の風邪薬もあれば、かなり少数の人の症状にしか効かない薬もある。
売り上げでいえば、風邪薬のほうが売れるのだろうけど、かといって少数の人のための薬が不要ということにはならない。
自分の好きな文学は「売れる/売れない」という価値観でいえば、「売れない」ものばかりだ。でも「効く/効かない」でいえば、まちがいなく自分には効く。
当たり前だけど、「よく効く」=「よく売れる」とは限らない。
自分の中にも、多くの人に受け入れられる考え方とごく少数の人にしか理解されない考え方がある。
たとえば、世の中には活字中毒だとか音楽中毒といわれる人がいる。
彼らを満足させるような作品というのは、それほど多くない。
もちろん少数派を満足させながら、ちゃんと売れるものを作ることができる人だっている。そういう人は風邪薬と少数の人にしか効かない薬の両方を作る能力がある人なのだろう。
『さよならカーゴカルト』はわたしにはよく効いた。前作の『生きものについて』と同じくらいか、それ以上に。
懐かしいけど、未知の音がする。
アルバムの最後の曲を聴き終わって、余韻に浸る。
詩と音がからだ中に染みわたってくる。
忙しい日々の中ではなかなか余韻が味わえない。
本を読んだり、音楽を聴いたりする時間だけでなく、もっと余韻に浸る時間も作っていきたい。
2011/12/07
おとのわ
来年2月に一番町のライブハウス「Rensa」で、音楽イベント「おとのわ」が開催されます。
会場ではライブのほかに、おいしいフードやスウィーツのあるカフェブース。手仕事の販売ブース。そして、原発や放射能について情報を得たり、気軽に相談できるコーナーもあります。
《おとのわ》
2012.2.19(日)13:00〜19:30
会場:Rensa(レンサ) http://www.rensa.jp/
仙台市青葉区一番町4-9-18 TICビル7F
TEL:022-713-0366
【交通アクセス】地下鉄・勾当台公園駅 南口出口徒歩2分
JR仙台駅より徒歩17分 三越アーケードななめ向い。
1Fは「ツルハドラッグ」。
入場料/前売3500円 当日3900円
(ドリンク代別¥500/当日)
全席自由 *中学生まで無料
【LIVE】開場13:00 開演14:00〜19:00
<とものわ>
友部正人 曽我部恵一 タテタカコ
東京ローカル・ホンク 小野一穂
<せんのわ>
yumbo tenniscoats
rachael dadd & ichi おとのわこども楽団
【おちゃのわ】
うつろひカフェ せんだいコミュニティカフェ準備室
【もののわ】
飾人(かざりびと) Kitone
仙台こけしぼっこ+おりづめ Notre Chambre
【原発・放射能なんでも相談コーナー】
みやぎ脱原発・風の会
三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会(わかめの会)
子どもたちを放射能から守るみやぎネットワーク
5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会 せんだい みやぎ にじのたねプロジェクト
ブログはこちら。http://otonowa.blogspot.com/
2011/12/05
アンディ・ルーニーのこと
一九一九年一月十四日生まれ。アメリカのベストセラーコラムニストでコメンテーターだった。鮎川信夫は彼のことを「人生派コラムニスト」と定義した。
わたしは鮎川信夫経由でアンディ・ルーニーのコラムに親しむようになった。日本でいえば、山口瞳の『男性自身』のようなコラムを書いていた。
もっと後期のコラムも訳してほしいとおもいつつ、晶文社から一九八〇年代から九〇年代にかけて刊行された六冊くらいが何度も読み返すにはちょうどいい分量かなという気もする。
アンディ・ルーニーは、身辺雑記からスポーツ、文学、政治、経済、科学まで、守備範囲が広く、とぼけた口調、辛辣な毒舌、シリアスな文章の書き分けも鮮やかだった。
わたしの好きなアンディ・ルーニーの言葉をいくつか——。
●希望をもつこと、お祈りをすることは簡単だが、残念ながら懸命に努力をしたときほどはよい結果を生まない。
●それほど多くの人間がことさら自分の人生を変えられるわけではない。多かれ少なかれだれもがいまの自分に永遠に縛られている。しかし、そうでないふりをして前に進まなければならない(「人生の教訓」/『人生と(上手に)つきあう法』井上一馬訳)
*ものごとがうまく行かなかったら、熱いシャワーを浴びよ。
*長い眼で見れば、たとえまちがいが多くても決断は迅速にしたほうがいい。時間をかけて決断したことでも、まちがいの数でいえばそれほど変わりはしない(「一セントを貯めるのは時間の無駄」/『自己改善週間』北澤和彦訳)
2011/12/04
カーネーションのライブ
前に観たときは骨太でソリッドなロック色が強いかんじだったけど、今回は多彩でファンキー(という言葉が適切かどうか自信はない)なステージだった。
カーネーションが、音楽の壁を迂回せずにぶつかって、よじのぼって、乗り越えてきた歴史をかいまみた気がする。
「夜の煙突」や「It's a Beautiful Day」も聴くことができて大満足——。頭の芯からしびれました。
ゲストは梅津和時さん、武田カオリさん、渡辺シュンスケさん。
直枝さんの曲は、四、五人のバンド編成だと、より艶や華、あと宇宙感のようなものがかんじられるともおもった。
《新作構想中の3.11に時間が止まってしまった。失いかけた歌を取り戻すことについて考えていた4月、梅津和時さんとtatusとセッションする機会に恵まれ、過去に旅した石巻や女川の白い浜辺に捧げる「女川」を即興演奏した。
8月の終わりには南相馬の巨石ブラウンノーズと再会し、海を遠く眺めながら歌った。どたばたな日常を暮らす中で溢れ出してしまう想いが言葉や音になっていった。出会い、全力で楽しみ、祈り、歌う。
おそらくこのディスクはそれだけで成り立っている》(ミニアルバム『UTOPIA』より)
MCでは、梅津和時さんは仙台出身、直枝さんも親族が宮城にいるという話を聞いた。
ライブ会場で、学生ライター時代(大学時代)の先輩のIさんと再会する。十九歳のとき、スタッフ募集の告知を見て応募した雑誌の面接をしてもらった人。
わたしは、いきなり鞄からドストエフスキーの『悪霊』を出して、文学について語りはじめたらしいのだが……まったくおぼえていない。
Iさんにはドゥービー・ブラザーズやジャクソン・ブラウンの来日公演のものすごくいい席のチケットをとってもらったこともある。
2011/12/01
『SUB!』と神戸
打ち合わせから打ち上げまで、北沢さん、森山裕之さんと雑誌やコラムの話ができて楽しかった。
北沢さんは、雑誌は何か(自分がいいとおもうもの)に張らなければおもしろくならない……というようなことを語っていた。
有名か無名か、新しいか古いか、売れる売れない。そうした基準でものを考えることを疑い、その基準を壊す。
「ない」から作る。「自分が読みたい(見たい、聞きたい)」から作る。
編集の仕事のおもしろさもそこにあるし、それは書き手にもいえる。
『SUB!』の由来は、サブカルチャーの「サブ」で、命名者は谷川俊太郎。現代詩から音楽、写真、美術と幅広いジャンルの人が参加していた。辻まことや富士正晴の連載もあった。今、見ると、豪華な執筆陣に驚くのだけど、当時は大半は知る人ぞ知るくらいの存在だった。
この雑誌が神戸で作られていた。ただし『QJ』連載時、わたしは神戸の土地勘がほとんどなかったから、そのことを深く考えていなかった。
トークショーの当日、『SUB!』の発行人の小島泰治の父で歌人の小島清の『對篁居』(小島清歌集刊行委員会、一九八〇年刊)という遺歌集を持っていったのだけど、紹介しそびれた。
小島清は明治三十八年東京生まれ。大正四年に父のイギリス神戸総領事館就職に従い、神戸に移る。
《レインコートを肩にしてパイプくゆらし神戸は今も若き日の街》
《作品の上から見ても、彼の青春のすべては神戸にあった。
若き頃から国文学に身を置く希望は強く、国学院大学に入学しながら、東京大震災にはばまれて、空しく神戸に戻り、あとは独学で僅かに渇を医したという話にしても、戦中戦後の職の転々も》(「後記」頴田島一二郎)
小島清は後に古本屋を開業するのだが、店は昭和十三年の関西大水害で流され、さらに昭和二十年の神戸の大空襲で家屋が全焼し、戦後は京都で暮らした。
《こう見て来るとなまやさしい生き方ではなかったはずの神戸なのだが、多くの友に恵まれた神戸。妻子を得た神戸。何よりも爽やかな青春のすべてを燃焼した神戸は、彼にとって忘れようとしても忘れ得ない土地であったに違いない》(同書)
神戸に行きたくなってきた。
『Get back, SUB!』の刊行記念イベントは、関西でも行われる予定だそうです。