2013/07/29
久々の下北
下北沢には年に数回、知り合いのミュージシャンのライブを見るためにふらっと訪れるくらいなのだが、それでも今回の再開発はどうなんだろうと疑問におもう。
時代とともに町が変わっていくのは避けられないことだが、そのスピードはゆっくりのほうがいい。
日曜日のライブは、NEVER NEVER LANDで小川剛&イトウサチpresents“サンデーソングライターズ ”vol.7という企画だった。
弱者同盟/BLANKET GROUP/イトウサチ&ブンケンバレエ団
BLANKET GROUPの小川剛さんは飲み屋で知り合って、話(言葉)がおもしろい人という印象だったが、音楽は多彩で渋い。もっとストレートなかんじでギターをかきならして歌うのかと想像していたのだが、けっこう作り込むタイプだとおもった。完全に誤解していた。ベースがめちゃくちゃうまくてビックリした。
イトウサチ&ブンケンバレエ団は、東京ローカル・ホンクの井上文貴さんと新井健太さんが参加。イトウサチさんの三人編成を見るのははじめてだったのだが、心地よくて、ずっと聴いていたくなる。ライブの前はけっこう店内がざわついていたのに、歌いはじめた途端、場の空気が変わった。ライブならでは醍醐味ですね。
弱者同盟は、ペリカン時代でCDを聴かせてもらってファンになったユニット(バンド名だけはずいぶん前から知っていた)。詞はSF調でメロディーメーカーとしての才能は破格だ。いちど聴いただけで、曲が頭に残る。アンコールの「お月見どろぼう」もうれしかった。たぶん、この曲、二十年とか三十年後かにカバーするバンドがぜったい出てくるとおもう。
三種三様の音楽なのに、不思議と調和がとれていて、盛り上がり方のちがいも楽しめた。
いいライブでしたよ。
2013/07/28
ある仕事とない仕事(三)
八年連続二百本安打を記録し、俊足強肩で知られたメジャーリーガーのウィリー・キーラー(1872−1923)は、記者になぜそんなにヒットが打てるのかと訊かれ、こんなふうに答えている。
「よく見て、誰もいないところに打て」
キーラー本人よりもこの言葉のほうが有名かもしれない。シンプルだが、含蓄のあるいい言葉だ。
自分のスイングをして会心の当たりを打つ。でもどんなにいい当たりだったとしても、打球が野手の正面に飛べばアウトになる。逆にいい当たりではなくても、人がいないところに打てば、ヒットになる。
そうした〈感覚〉が小柄でパワーがなかったキーラーの持ち味だった。
わたしはフリーランスの仕事はすき間産業だとおもっている。というか、お金も人脈も実績もない個人はすき間産業から始めるしかない。
すき間産業というものは、何の応用も工夫もせず、簡単にうまくいく方法なんてないとおもったほうがいい。
もしそんな方法があったら、すぐ人に模倣され、通用しなくなる。だから一見うまくいかなそうな方法だったり、周囲からちょっと無謀とおもわれるくらいのやり方のほうが可能性がある。
キーラーの言葉に話を戻すと「誰もいないところに打て」というのは、プロなら誰でも考えることだろうが、簡単にできることではない。
キーラーは身長が一六〇センチちょっとしかなかった。その体格でメジャーで生き残るためには、人と同じことをやっていてはだめだと考えたはずである。おそらく誰もいないところに打つために、人知れず、誰もしないような練習をしたのだろう。
「何をすればいいですか」
「どうすればいいですか」
その質問にたいしては「それはずっと考え続けるしかないんだよな」としかいえない。
いろいろなことを調べて、いろいろなことを考えて、いろいろなことを試して、たまにうまくいく。
だから、うまくいく方法だけでなく「何をやってもおもうようにならないときに、どうやって自分を磨り減らさずにしのげるか」を考えたほうがいい。
それから何をやってもうまくいかないときは、努力や練習が足りないだけでなく、ルールを半知半解のままプレーしていることがけっこうある。
この話はまたいずれ。
2013/07/23
『僕、馬』できました
造本(角背ドイツ装)やレイウアトは扉野さんが手がけている。細かいところまですごく凝っている。
東日本大震災の一ヶ月後、岡山在住の藤井さんは、(たぶん)居ても立ってもいられない気分になって、青森に行き、そこから福島まで海岸線に沿って歩いた。
もしかしたら単なる衝動で東北に行っただけかもしれない。その場所を歩きたかっただけかもしれない。ひたすら歩いて、撮って、暗室にこもる。そうした時間の中で、大震災のことを考えたかったのかもしれない。
風景と藤井さんが自問自答しているような写真だった。
一ヶ月ちかくに渡る旅を終え、帰りに高円寺に寄った。
行きつけの飲み屋で待ち合わせをしていると、髭が伸び、痩せこけ、野人化した藤井さんが現われた。
手には流木の杖を持っていた。
それから二年以上の月日が流れた。写真集にするという話を聞いてから、ずいぶん時間がかかった。
「被災地を徒歩で縦断するより最近までやっていたブロッコリーの収穫のアルバイトのほうがきつかった」
ものすごく実感がこもっていたので、ほんとうにそうだったのだろう。
「徒歩で旅をすると、人間がちょうど疲れるくらいの距離に町が見えてくる。ほんま不思議ですよ」
そんな話もしていた。
旅先ではあちこちで偶然通りかかった人に助けられた。写真集そのものも、扉野さんの力なしには(まちがいなく)できなかった。
藤井さんにはそういう才能がある。人柄や人間の面白味もそうさせるのだとおもうが、とにかく動いた先でいろいろな偶然を引き寄せてしまうのである。
ようやく『僕、馬』が完成。八〇〇部。三八〇〇円(税込)です。
わたしと河田拓也さんが栞を書いています。
詳細は、ぶろぐ・とふん http://d.hatena.ne.jp/tobiranorabbit/ にて。
来月八月三〇日(金)から九月三日(火)まで、目白のブックギャラリーポポタムで「僕、馬 I am a HORSE 展」を開催します。初日のトークショーもあります。
■ブックギャラリーポポタム http://popotame.m78.com/shop/
■〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-15-17
■営業時間:12:00〜19:00 /(金曜日)12:00-20:00
◇トーク
8月30日(金)
「僕、馬の話をしようか」
藤井 豊 - 荻原魚雷 - 扉野良人
場所 ブックギャラリーポポタム
19時15分開場、19時半スタート
(当日は18時から整理券配布)
定員40名 1000円
※詳細は、ぶろぐ・とふん http://d.hatena.ne.jp/tobiranorabbit/ にて。
2013/07/19
ある仕事とない仕事(二)
蒸し暑い日もあるが、この時間帯の風は気持いい。
みちくさ市のトークショーは、予想(理想?)通り、五っ葉文庫の古沢さんが喋り、わたしは相づち役という展開になった。
古沢さんは愛知県犬山市で「きまわり荘」というギャラリーと古本屋を運営し、「痕跡本」以外にも、本に関する新機軸のイベントを次々と企画している。
「日本一よく喋る古本屋」としても有名である。
この日も「最近、人の話を聞くようにしているんですよー」といいながら、ずっと喋り続けていた。
打ち上げも楽しかった。あまり話ができなかったが、隣にインターネット古書店のドジブックスさんがいた。帰りの電車も新宿まで いっしょだった。別れた後、すこし前に中央線沿線の三十代の古本屋さんがドジブックスさんのことを絶讃していたことをおもいだした。
*
世の中には、就職情報誌やハローワークでは見つからない仕事もたくさんある。それも「ない仕事」といえば、「ない仕事」だろう。
他の地方と比べたら、東京にいると、そういう仕事は見つけやすい。ただし、東京にいても、探さないと見つからない。
上京してよかったことのひとつは、いろいろなジャンルのプロに身近で接することができたことだ。
二十歳前後でフリーライターをはじめたころ、五、六歳年上のフリーの仕事をしている人で、年収一千万円くらい稼いでいる人が何人もいた。
だからといって、わたしも五、六年後にそのくらい稼げるようになるとはおもわなかったが、あの人が一千万円だったら、自分も三百万円くらいは稼げるんじゃないかと楽観できた。
(その後、バブルがはじけ、出版不況になって、その思惑は外れた)
本棚の整理をしていたら、『本の雑誌』の二〇一一年五月号が出てきた。
わたしの原稿は震災前の三月はじめに書いたものだ。
連載で紹介したのは、プレス75の『趣味で儲ける若者企画集団のすごい利益』(ワニブックス、一九七七年刊)という本である。
《プレス75というのは、戸井十月が主宰していたフリーライター集団。わたしが十九歳でフリーライターをはじめたころ、お世話になった人もこの本のスタッフだった》
わたしは原稿の中でこんなことを書いた。
《今、就活中の学生は何十通もエントリーシートを書いて、試験を受け、面接を受け、わけがわからないまま不採用になる。そんな彼らを見ていると、もうすこし自分で自分の仕事をつくるという〈感覚〉と〈行動力〉があってもいいのではないか》
この〈感覚〉と〈行動力〉について、もうすこし細かく書いてみたいとおもうが、飲みに行きたくなったので、続きは後日。
(……続く)
2013/07/14
ある仕事とない仕事(一)
ここのところ、地方都市のことを考えている。地方は、昔から堅実な職に就く以外の選択肢が少ない。とくにこの十年くらいは、大手のチェーン店が乱立し、零細の自営業が苦戦するという構図もある。
旅先の地方都市で「ここはいいところだなあ」とおもう。そんな感想を述べると、よく「でも仕事はないですよ」といわれる。
なぜ仕事が「ない」のだろう。
人口が少ないからだろうか。
とはいえ、昔、もっと人口が少なかったときにも仕事はあった。
人口の多い少ないの問題(だけ)ではない。
たまに郷里(三重県鈴鹿市)に帰ると、行きつけの喫茶店、文房具屋はすでにない。
文房具は、コンビニか100円ショップで買う。
わたしは某メーカーの1・0ミリのジェルインクのボールペンを愛用しているのだが、それはコンビニ、100円ショップでは売っていなくて、とりあえず、間に合わせのもので妥協した。
文房具屋がなくなったら、パラフィン紙はどこで買えばいいのか。
地方のコンビニや100円ショップでパラフィン紙を置いても、まず売れない。
古本屋や中古レコード屋で、稀少本やレア盤を置いていても、近所の人は滅多に買わないだろう。
郷里に帰ると、ふらっと立ち寄って、趣味の話ができる店がない。
昔、行きつけだった喫茶店もなくなった。
もしわたしが郷里に帰って、コーヒーが好きで喫茶店で働きたいとおもったら、「ある仕事」だとチェーン店のアルバイトしかない(たぶん年齢制限その他の理由で不採用だろう)。
では、古本や中古レコードの話ができるような喫茶店を自分で作ったらどうか。
もともとそういう趣味の人があまりいない土地だから、お客さんは来ない。すぐ潰れるだろう。
「ないもの」はたくさんある。ただし「ないもの」を売ったり、作ったりしたとき、その需要があるかどうかは誰にもわからない。
五年、十年、二十年というスパンで考えると、昔、なかったものができたり、あったものがなくなったりしている。
そう考えれば、ないものができる可能性はいくらでもある。またなくなったものを新たに甦らせる余地もある。
今、「ないもの」を作るためには、何が「ない」のか知る必要がある。
それはどうすれば知ることができるのか。
(……続く)
2013/07/04
『夜バナ』の文庫化
解説は山田太一。
《できないといえば、この人には、すべてのことができない。
かゆいところをかくことができない。自分のお尻を自分で拭くことができない。眠っていても寝返りがうてない。すべてのことに、人の手を借りなければ生きていけない》
大枠は、筋ジスの患者の介護現場を描いたノンフィクションなのだが、その枠の中では濃密な人間ドラマが展開され、渡辺さん自身もまた登場人物のひとりになってしまっている。
取材し、引き込まれ、振り回されながら見た光景、掴み取った言葉。「フツウ」や「常識」が通用しない世界。生きること、人との 関わり方——答えの出ない問いを考えさせられる。
シリアスに書こうとおもえば、どこまで深刻になりそうなテーマをユーモアたっぷりに書くことができたのは、それだけ深く入り込んで突き抜けた証だとおもう。
渡辺さんは大学を中退し、北海道でフリーライターになったが、「専門分野も、得意分野もとくにない」まま「雑多な文章を書いて糊口をしのでいた」という。
仕事は少ない。そのくせ、気にいらない仕事は引き受けない。
当然、生活は厳しい。
「プロローグ」から、文章に共振する。内容の素晴らしさ、問いかけの深さもさることながら、渡辺さん自身の「地」のおもしろさも文章の中にしみこんでいる。
はじめて渡辺さんと引き合せてくれた某社の編集者は「仕事をしないフリーライター同士、気が合うとおもって」といって、わたしを飲み屋に呼びだした。
渡辺さんは二〇〇三年に『こんな夜更けにバナナかよ』で講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞後、二〇一一年刊行の 『北の無人駅から』(北海道新聞社)まで八年ちかい空白期間がある。
とにかく膨大な時間と精神力を注ぎ込んで書かれた本である。
注釈その他、加筆にも手間をかけている。
頭は下がるが、渡辺さんの仕事のやり方は特殊すぎる。追随者は出ないのではないか。
この続きはまた。