2023/03/31

桝渡式

 三月三十一日、尾崎一雄の命日(冬眠忌)。一九八三年三月に亡くなって四十年。「昔日の客」の関口直人さんから電話あり。
 この日、高円寺駅ガード下の「高円寺マシタ」がオープンしたので、散歩のついでに見に行く。そのあと桃園川遊歩道、馬橋稲荷神社、馬橋公園で桜を見て、昼すぎ西部古書会館(初日は木曜だった)。横山高治著『伊勢平氏の系譜 伝説とロマン』(創元社)を買う。刊行年は一九八五年三月——壇ノ浦の戦いの八百年後に出た本である。
 著者は一九三二年三重県津市の生まれ。元読売新聞の社会部記者だった(刊行時のプロフィールは大阪本社編集局連絡部次長)。三重県関係の史書をたくさん書いている。

『伊勢平氏の系譜』の目次に「南島町の八ガ竃」という項がある。

《この八ガ竃伝説は「平家の落人部落」の由来を伝える伝説もさることながら古式床しい民俗行事の「桝渡式」で有名である》

《桝渡式というのは、塩を焼いて暮らしていた時代に用いていた古い桝と古文書三十通からなる八ヵ竃の「宝物」を受け渡しする行事だが、この古文書は南北町時代から紀州藩領だった江戸時代のものまでという貴重な文書。この中にいわゆる平家の系図一点が含まれているのである》

 平維盛の庶子、行弘とその一党は平家一門が壇ノ浦で滅亡後、この地に入った——というのが「八ガ竃伝説」である。
 横山氏は「伝説の確証はきわめる由もない」としている。書き方が慎重で、勉強になる。

 わたしも各地の伝承、伝説の類は半信半疑というスタンスである。歴史上の人物の経歴も時代によって変わることがある。古い系図の類もあやしいものが多い。でもちょっと信じたほうが、想像が広がって面白い。

 平維盛そのものがいつどこで亡くなったか、数々の説があるのだ(有名なのは和歌山の那智の滝で入水した)。「平維盛の庶子、行弘」が実在したかどうかは定かではないが、南島町に塩を作る方法を伝えた人物はいる。壇ノ浦から南島町の間には塩の名産地がたくさんある。昔は土地ごとに塩の作り方がちがったから、その製法を調べたら、南島町に流れついた一族がどのあたりから来たのか、あるていど絞りこめるかもしれない。

2023/03/29

南島町と日野町

 月曜夕方、荻窪散策、行きは電車で帰りは歩いた。荻窪〜阿佐ヶ谷間の大陸飯店にはじめて行く(何度か店の前を通って気になっていた)。醤油ラーメン、五百五十円。

 桑野淳一著『熊野灘もうひとつの古道 南島町 浦竃の謎を追う旅』(彩流社、二〇〇九年)を読む。三重県の南島町(現・南伊勢町)は、わたしの母方の郷里(浜島町/現・志摩市)も近い。どちらも海岸線が入り組んでいて、陸の移動はけっこう大変なところだ。

 南島町は「竃」の字が付く集落が多い。このあたり「平家街道」と呼ばれる山道があるらしい。
 平家の落人が生計のため、塩を作った。塩を焼くための竃が地名の由来といわれている。
 昔は海上交通が盛んで、陸路では行きにくい地域でも人の行き来がけっこうあった。地図を見ているだけではなかなかそういうことに気づかない。

 この本、南島町のことから、和歌山、滋賀と話が広がる。
 たとえば、近江商人と伊勢商人のつながりについても紙数を割いている。
 一五八八(天正十六)年、松坂城に蒲生氏郷が入城した。

《彼は近江商人、とりわけ日野からの商人をもろとも連れてこの地に移り住んだため、今日でも松阪駅の近くに日野町という地名を見ることができる。近江の日野町から移り住んだ人々が形成した町である》

 近江の日野から松阪に移った商人たちが松坂商人(伊勢商人)になった。

 滋賀県の日野町(蒲生郡)は東海道の水口宿に近い。中山道の愛知川の少し先の五箇荘(小幡)から御代参街道(近江商人街道)という道があり、日野町を通り、東海道の土山宿に至る。御代参街道は中山道と東海道を結ぶ脇街道で、土山宿の先に鈴鹿峠があり、そこを越えると三重県である。

 歯科通い(まだしばらくかかりそう)が一段落したら、日野町(滋賀・三重)を歩いてみたい。

2023/03/26

社会恐怖症

 土曜午後一時すぎ、西部古書会館。筒井作蔵著『五日市街道を歩く』(街と暮らし社、二〇〇六年)など。同社の江戸・東京文庫シリーズが好きで少しずつ集めている。筒井作蔵は『青梅街道を歩く』も書いている。街と暮らし社、二〇一三年五月以降、新刊が出ていない。

 そのあと小雨の中、野方に散歩、肉のハナマサで米(五キロ)を買ってしまったので環七に出て野方消防署のバス停からバスで帰る。いつも買っている米だが、高円寺のスーパーより三百円くらい安かった。バス代は二百十円。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』(vol.13)に「社会恐怖症」というエッセイを書いた。四頁。
 最初にタイトルが浮んで、あとは行き当たりばったりに書こうと決めた。たまたま近所の飲み屋で流れていた曲の話も書いた。佐々木伶さんの「人間が怖い」という曲なのだが、文中ではややぼかしている。というか、執筆中は店で聞いたばかりで誰の歌なのかよくわかっていなかったのだ。すこし前のライブの映像を見たら、自分の記憶と歌詞がちょっとちがっていた。

 夜まで一冊の雑誌をじっくり読む。

2023/03/22

終わりよければ

 WBC準決勝メキシコ戦、朝から視聴。攻めの時間、守りの時間、一球一球痺れた。村上宗隆選手のサヨナラ打——テレビの前で声を上げてしまった。いい試合だった。

 近所の飲み屋で予選を観ていたとき、村上選手がずっと不調で燕党のわたしはちょっと居心地がよくなかったのだが、「栗山英樹監督も元ヤクルトだから」と……。

 決勝のアメリカ戦、両チームの投手リレーも見ごたえがあった。ここまで日本代表は僅差リードの展開がほとんどなかった。若手の投手たち、世界の舞台でも平常運転なのがすごい。中村悠平捕手、素晴らしい。ヤクルトの背番号「27」の重みが増した。

 WBC優勝を見て神保町へ。桜も満開に近い。一週間ぶりに電車に乗ったら、JRと東京メトロの運賃が値上がりしていた(三月十八日から)。JRの初乗り運賃は百五十円になった。

 ウェブの「高円寺経済新聞」に「旧高円寺ストリート2番街、『高円寺マシタ』に刷新 7飲食店オープンで」(三月十七日付)という記事があった。高円寺駅の西方面のガード下「高円寺ストリート2番街」はケンタッキーフライドチキンや洋品店、地下にラーメン店街などがあった。二〇二一年十月末に閉館し、ずっと工事中だった。
 営業再開は三月三十一日からでケンタッキーフライドチキンの高円寺店も再オープンするそうだ。

「高円寺ストリート2番街」は中古レコード屋のRARE(レア)があったエリアだ。RAREの閉店は二〇一九年四月末——かれこれ四年になる。
 わたしが上京した一九八九年、九〇年ごろは高円寺のガード下には都丸書店分店、小雅房、球陽書房分店の三軒の古本屋があった。毎日のように通っていた。ガード下の古本屋がなくなったのは寂しい。

2023/03/20

昭和十年代 その三

『文学・昭和十年代を聞く』の阿部知二の社会分析(自己分析も含む)をもうすこし紹介したい。

《さらに憶説に過ぎないのですが、明治以来の文学をみても田舎から出て来た人が、たとえば写実主義とか自然主義とか西洋の主義を受け容れたと思います。藤村や花袋や独歩にしてもそうです。都会人は自己の文化伝統があるから、それ以上受け容れる余地がない。田舎から出て来た人は伝統的文化に恵まれないから、かえって素朴に抵抗なく西洋近代を受け容れたということがあると思います》

 阿部知二は一九〇三年、岡山県勝田郡湯郷村(現・美作市)の生まれで、生後すぐ島根県大社町、九歳のときに姫路市に移り住んだ。その後、旧制高校(名古屋)を経て、東京帝大に入る。
 経歴を見るかぎり、阿部知二自身、「田舎から出てきた人」である。いっぽう父が中学の教師で「田舎ではいくらか本を読んだりする階層」だったとも語っている。

『冬の宿』でも卒業間近の大学生が、合理性を気にせず生きる人々に戸惑い、翻弄される場面がたびたび描かれる。
 阿部知二は『文学・昭和十年代を聞く』のインタビューでこんなことを語る。

《ぼくは今だって年は寄りながら叙情的なものへの傾斜をなかなか脱却しきれない。(中略)その一方で、いよいよ強く主知的なものの必要というのが考えられる。それはぼくの身にとっては不幸な精神分裂です》

 旧制高校から帝大に進んだエリートであり、「文化的リベラリズム」を身につけた阿部知二だが、世の中の多くの人は「主知的なもの」では動かない。しかも阿部知二自身、「叙情的なもの」にも愛着がある。

 知と情の調和を目指すのか、あくまでも知を貫くのか、情に流されるのか。ひとりの人間の中にもそうした揺れがある。

(……続く)

2023/03/18

昭和十年代 その二

『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房)の「新興芸術派の周辺 阿部知二氏」は、一九七〇年三月十六日の日付がついている。五十三年前のインタビューである。
 阿部知二は一九〇三年六月生まれ。一九七三年四月、六十九歳で亡くなった。今年生誕百二十年、没後五十年になる。
 数社の日本文学全集にも入っている著名な作家で、『白鯨』『宝島』『ホームズ』などの翻訳者としても有名だが、わたしは素通りしてきた。一年ちょっと前に『冬の宿』(P+D BOOKS)を読み、こんなにすごい作品を書く人だったのかと……。一九三六(昭和十一)年の作品だが、人物描写の冷徹さが容赦ない。主人公の下宿先の大家さん一家の生態(妻に暴力をふるいまくり、とにかく金にだらしない)が微細に描かれている。

 それはさておき、阿部知二は昭和十年代についてこんなふうに語っている。

《昭和十年代の前半期にはこの日本でも資本主義というものがかなりな程度成熟していたということがあったのではないでしょうか。もちろん、その資本主義は根本的には矛盾をもっていた弱いもので、性格的にはミリタリズムと絶対君主制がくっついた黒い危険なもので、もちろんそれが本質的な部分であったとすべきでしょう。(中略)しかし、同時に、そこに資本主義的リベラリズムも混じりあっていたのです》

 資本主義の成熟によって教育水準も上がり、文学、思想の読者も増えた。その結果、「文化的リベラリズム」も育った。
 阿部知二も青年期にそうしたモダニズム文学の洗礼をうけ、その思潮に身を置くようになった。

 小林秀雄の誘いで阿部は『文学界』に参加する。

《ぼくは——あるいはぼくたちは、『文学界』の座談会か何かで、昭和十四年か五年ぐらいでも、日本における家族主義といいますか、この島国の中で、よくいえば調和、わるくいえばなれ合いのようなものがある、と話し合ったような記憶もありますが、それは戦争が終るまで「ムード」としてつづいたと思います》

(……続く)

2023/03/17

昭和十年代 その一

 文学的立場編『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房、一九七六年)は、阿部知二、井伏鱒二、金子光晴、中野重治、舟橋聖一、中島健三、石川淳、久野収の名が並ぶ。

《昭和十年代という時代は、だれにとっても、むつかしい、つらい時代だったが、文学者にとっても、それを切りぬけるということの特別に困難な時代だった》(まえがき)

 この本を読むのは二度目だが、内容はほとんど忘れていた。
 阿部知二は一九五〇年ごろ、ペンクラブでイギリスに行ったとき、ジョン・モリス(ウィリアム・モリスの孫)が制作にかかわったラジオドラマの話を聞く。
 アメリカで捕虜になった日本人の兵隊が民主主義者になって帰国する。父は戦前戦中と変わらぬ超国家主義者のままで、親子の対立が起き……。そんな筋書だったらしい。
 阿部知二はその話を聞いた帰り道に「どうもおかしい」とおもう。西洋人と日本人はちがうし、インテリと庶民もちがう。

《日本の場合は、「お父さん、帰りました」と言ったら「イヨーッ、帰ったか。一杯呑め」。つまり、そこでは思想の問題で、おれは絶対天皇崇拝の国家主義だ、ぼくは民主主義だといって喧嘩しません》

 多くの日本人は、人と人との衝突を避ける温和な雰囲気、生活知みたいなものを大切にする。自らの思想を表明せず、何事もうやむやにしがちである。

《ぼくは現在もそういう精神風土が日本において、よかれ悪しかれ残っていて、思想の問題をあいまいにしていると思います》

 阿部知二は、そうした「矛盾した渾沌とした人間の情動」について考えることが文学の重要な役割とし、「文学における知性」の問題を追究していた。

 何が正しくて何が間違っているのか。人間の情はそうした思考には収まらないところがある。わたしも「一杯呑め」の側に親近感をおぼえ、思想信条で敵味方を分ける世界になじめないまま今に至っている。

(……続く)

2023/03/13

西鷺宮駅

 土曜、西部古書会館(初日は金曜)。朝日新聞社編『人さまざま』(朝日文化手帖、一九五三年)など。『人さまざま』は文壇や画壇で活躍する著名人(百二十名)の寸評、エピソード集——古木鐵太郎著『折舟』(校倉書房)に寄稿していた浜本浩も収録されていた。
 浜本は高知の人(生まれは愛媛)で「『改造』の記者を辞めてから、大衆小説を書き出した」とある。

『折舟』所収、浜本浩の「微笑の人」に次のような記述あり。

《「改造」創刊以来、作家係として働いた編集部員は少くない。が、今もなほ、往年の大家連から、好意を以て記憶されている者は、三人か四人しかゐない。古木鉄太郎君はその一人であつた》

『古木鐵太郎全集』の追悼文を読むと、古木の人柄を「温厚」「素直」と評した文言が並ぶ。編集者としては得難い資質だったかもしれないが、作家としては不遇だった。しかし人の縁には恵まれた人生だったのではないか。

『折舟』所収作だと、わたしは「月光」が好みの作品だった(全集では題名が「月の光」になっている)。

《鷺宮に越してから今日は四度目の十五夜である》

 古木が野方から鷺宮に引っ越したのは一九三八年四月——。
 鷺宮の八幡神社の祭、家族の話などが続く。子どもたちは野方の国民学校に電車で通っている。買物も野方に行っていたようだ。
 散歩中、古木はこんな思索をする。

《……自分は自分の貧しい生活を想ふと、どうにかしなければならないと思つた。いゝ小説を書きたいと思ふが、それがなかなか出来ないのだ。そして自分は自分の現在の仕事のことや、将来の生活のことなどをいろいろ考へながら帰つて来た》

 わたしも散歩中にこういうことをよく考える。どうにかしなければ。

 今回「月光」を読んでいて次の一文が気になった。

《線路の所まで来て、そこから線路に沿つて畠の傍を歩いて行くと、すぐ向うに、ついこの前出来た新しい駅が見える》

 新しい駅は何駅か。作中「自分は踏切の所から西鷺宮の駅の方へ向つて」という文章がある。ネットで検索。西鷺宮(西鷺ノ宮)駅はかつての西武新宿線の駅で一九四二年九月五日開業(一九四四年八月二十日閉鎖、一九五三年廃止)した駅のようだ。鷺ノ宮駅と下井草駅の間にあった。

「月光」のころは駅ができたばかり。「四五日前の夜、そこでその落成祝の余興」があった。バラックの舞台があり、「素人の万才や浪花節や落語」が演じられた。西鷺宮駅のことを調べてなければ、この作品が一九四二年の秋の話と気づけなかった。

 古木の家(当時は借家)には畑があり、さつまいも、里芋、れいし、韮などを作っている。それを世田谷に住む病気で療養中の兄におすそわけする。野菜をあげたり、もらったり。古木は日常の些事をよく記した。
 兄の家に行き、故郷(鹿児島薩摩郡さつま町)の話をする。

《「君はまだ家屋敷と、地所も少しあるから、郷里に帰つても何とか暮せるよ。僕はもう何も無いから、何処か、U(少し離れた温泉場)の辺りに家をこしらへて、そこで百姓をしたり釣をしたりして暮したいと思ふよ」と云ふので、そんなら自分は郷里へ帰れば何とか暮して行けるのか知らと思つて、そのことが一寸不思議な気もした》

 戦時中の話だが、わたしも近所の友人と似たような話をよくする。温泉、釣り、畑か。「U」はどこだかわからないが、地図を見ながら、さつま町の川の近くのこのあたりかなと予想する。

2023/03/07

折舟

 先月から歯科通い。今回初診のさい、過去のレントゲン写真が手前のディスプレイに映し出され、その日付が二〇〇八年、一一年、一五年、一九年とだいたい四年間隔で自分が歯の治療をしていることがわかった。開業した年からずっと同じ歯科である。
 やはり先送り癖はよくない。目に見えるくらい悪化してから行って、いつも後悔する。

 麻酔が効いたまま、荻窪へ。岩森書店で古木鐵太郎著『折舟』(校倉書房、一九六六年)を買う。『折舟』は古木鐵太郎の十三回忌に刊行された本で古木の作品だけでなく、尾崎一雄、小田嶽夫、上林曉、木山捷平、外村繁、中谷孝雄、浜本浩の追悼文も収録。あとがきは浅見淵。函や表紙の題簽(だいせん)は尾崎一雄が書いている。

 古木鐵太郎は改造社の編集者で上林曉と同僚だったこともある。
 木山捷平の回想に高円寺(旧地名・馬橋)の話あり(かつて古木も高円寺に住んでいた)。

《私は昭和七年から十一年にかけて馬橋にゐた。
 そのころ同人雑誌はちがつてゐたが、古木さんはその馬橋のうちによく立ち寄つてくれた。(中略)古木さんは他にちよつと類がないほど散歩ずきな人だつた》

 戦前の文士はみなよく歩いた。その中でも「類がないほど散歩ずき」といわれるのは、よっぽどのことである。

 小田嶽夫の追悼文には——。

《文学青年と言ふと、何か狷介な、若しくは無頼な感じのものの多いなかにあつて、古木君は若いときから改造社に何年かゐたせいもあつてか、そんなクセのまつたく無い非常に温和な人柄であつた。大人であつた。葛西善蔵の「湖畔手記」を取つたのが彼ださうであり、彼は聞かれるままにわれわれに葛西善蔵をはじめ、いろいろ有名作家の印象を語つてくれ、それがわれわれに大きな刺戟になつたものだ》

『折舟』所収の「山の花」は、葛西善蔵のことを書いた随筆のような小説である。葛西が滞在していた日光湯本の板屋旅館に行き、同じ宿に泊る。

《自分はあんなに度々催促に其所まで行くつもりはなかつたのだが、葛西さんの小説がなかなか出来上がらないので、仕方なく何度も行くことになつたのだつた》

 葛西善蔵と古木鐵太郎は二人でよく湯ノ湖の路を散歩した。朝夕の食事もいっしょだった。

《酒を飲んで生活が乱れてゐるやうに世間では思はれることもあつたが、自分は決してそんな感じのものではなかつたと思ふ。自分はよく葛西さんの仕事をされる様子を傍で見てゐたが、それは実に真剣な感じのものだつた》

 たぶん編集者が横にいれば、作家はそうする。

2023/03/03

趣味の会

 戦前の中央線界隈の文士の趣味について調べているうちに、高円寺に暮らしていた龍膽寺雄がシャボテン(サボテン)にのめりこんだのはいつごろか知りたくなった。龍膽寺雄が高円寺から神奈川県高座郡大和村下鶴間(現・大和市中央林間)に転居したのは一九三五(昭和十)年十一月。彼が中央林間に引っ越したのは、シャボテンを栽培するための広大な敷地が必要だったというのも理由の一つである。つまり、それ以前からシャボテンの栽培はしていた。

 ちなみに「阿佐ヶ谷会」がはじめて開かれたのは一九三六(昭和十一)年といわれている(諸説あり)。

 一九二五(大正十四)年に中村星湖の「山人会」、一九三四(昭和九)年に中西悟堂の「日本野鳥の会」、そして一九三六(昭和十一)年に「阿佐ヶ谷会」と時期はバラバラだけど、趣味の集まりが誕生した。さらにいうと、星湖、悟堂、井伏鱒二のいずれも旧・井荻町(豊多摩郡)に住んでいたのも面白い。

「阿佐ヶ谷会」の初開催は一九三六年(昭和十一)四月——というのは木山捷平の年譜の記録なのだが、この年、二・二六事件が起きている。

 井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)の目次を見ると「阿佐ヶ谷将棋会」「続・阿佐ヶ谷将棋会」のすぐ後に「二・二六事件の頃」という見出しが並んでいる。「二・二六事件の頃」も「阿佐ヶ谷将棋会」の話からはじまる。

《阿佐ヶ谷将棋会の連中は、ABCDEF……お互に世間的には丙と丁の間ぐらいの暮しをしていたが、お互に意地わるをする者もなく割合に仲よく附合っていた》

 そんな話から「左翼文学が華々しく見えていたが、軍部が頻りに政治に口出しするようになる時勢であった」と井伏鱒二は回想する。

《二・二六事件があって以来、私は兵隊が怖くなった。おそらく一般の人もそうであったに違いない》

『荻窪風土記』所収の「阿佐ヶ谷の釣具屋」の冒頭に「戦前、釣の流行で東京に釣師の数が殖えるようになったのは、昭和八、九年頃であったと思う」という記述もある。そのころ、中央線のどの駅にも釣具屋があったらしい。

「阿佐ヶ谷の釣具屋」では一九三三(昭和八)年「大塚金之助検挙。河上肇検挙」「小林多喜二、築地署に検挙、虐殺される……(後略)」と岩波書店の「日本史年表」を引用している。

 小林多喜二は、その後「阿佐ヶ谷会」のたまり場となるピノチオにも出入りしていた。

《多喜二が亡くなったという速報が伝わった日に、私は外村繁や青柳瑞穂とピノチオに集ったが、刑事がお客に化けて入って来ているのがわかったので、私たちはこそこそ帰って来た》

「阿佐ヶ谷会」が誕生した時期に「諸説あり」と付けたのは、以前から井伏鱒二や青柳瑞穂はピノチオにしょっちゅう集まっていたからである。

 わたしは「山人会」「日本野鳥の会」「阿佐ヶ谷会」も一癖も二癖もある文士や学者が集まって、戦前の中央線界隈は楽しそうだなとおもっていた。昭和十年前後は「文芸復興時代」と呼ばれ、華やかな印象を抱いていたのだが、その背景には軍部の圧迫があり、さらに不況も重なり、そんなに単純な話ではないなと……。