2025/05/26

梅里

 土曜夕方、西部古書会館。『イメージの冒険1 地図 不思議な夢の旅』(河出書房新社、一九七八年)、『鳩よ!』特集「山本周五郎」(一九九二年九月号)、『もう一度読みたい あの記事あのエッセイ 「文藝春秋」昭和・平成傑作選』(文藝春秋、二〇〇七年、非売品)、『田島征三 '80〜展』(中村正義の美術館、一九八九年)、『谷川晃一展 南の庭のアトリエ』(三鷹市美術ギャラリー、二〇一一年)、小林惟司著『寺田寅彦の生涯』(東京図書、一九七七年)など。

 この二ヶ月、西部古書会館に行くと、何かしら寺田寅彦の本を買っている。『寺田寅彦の生涯』によると、寅彦は「あきれるほどの甘党」で、そのことが寿命を縮めたのではないかといった記述もある。
 寺田寅彦は一八七八年十一月生まれ、一九三五年十二月没、享年五十七。今の感覚だと五十代で亡くなるのは早くおもえるが、一九三〇年代の男性の平均寿命は五十歳以下だった。長生きではないが、それほど早死でもない。

 寅彦の随筆「科学者とあたま」(一九三三年)を電子書籍で読む。発表時、五十四歳。文中に「老科学者の世迷い言」という言葉も出てくる。
 科学者になるには「あたま」がよくないといけない、同時に「あたま」が悪くないといけない——という話。

《いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある》

 年をとったせいか、何事もゆっくり、のろのろ、ぐだぐだやりたい気持になっている。歩くこともそう。読書もそうありたい。
 とりあえずわからないことは保留する。一人合点に気をつける。門外漢であることを自覚する。

 この日は小雨。馬橋公園経由で妙正寺川を散歩する。馬橋公園で若者二人組が漫才の練習をしていた。夜道で身長二メートルくらいの大男に出会う話。オチは聞いていない。マルエツ中野若宮店で金トビの名古屋きしめん、惣菜を買う。金トビの名古屋きしめんは茹でたときに麺がくっつきにくい。西武新宿線鷺ノ宮駅周辺にはマルエツ、オーケー、いなげやなどのスーパーがあるが、高円寺と比べるといずれも店舗が大きい。自炊中心の生活を送っている人には暮らしやすい町だとおもう。

 日曜日、昼すぎ新高円寺の青梅街道を散策する。梅里中央公園に行く。家を出る前に地図を見たが、道に迷う。梅里中央公園は臘梅(ロウバイ、中国原産)で有名らしい。臘梅の実を見る。梅里は寺がけっこうある。帰りにいなげや(ina21杉並新高円寺店)に寄る。たけのこのおこわを買う。

2025/05/18

図録買い

 先週の五月十二日の読売新聞の夕刊「本よみうり堂」の「梅崎春生 心救う『怠け』」という記事にコメントした。短篇「寝ぐせ」の冒頭の一節「寒くなると、蒲団が恋しくなる。一旦蒲団に入れば、そこから出るのがいやになる」が新聞に載った。よかった。

 十七日金曜、十八日土曜、高円寺の西部古書会館(初日は木曜)。古地図と文学展の図録が充実。新日本書籍が稀少な鳥瞰図を出品していた。
 吉田初三郎の『日本鳥瞰近畿東海大図絵』(大阪毎日新聞附録、一九二七年)を買う。同じ地図が二点出ていた。金子常光の伊勢参宮の鳥瞰図もあったが、迷った末、買わなかった。小さな古地図は保存がむずかしい(どこかに紛れてしまいそう)。金子常光の地図はインターネットで見ることができるし、いいかなと……とおもいつつ、未練、未練。ここで買えないところが、自分の弱さなのだろう。古本(地図だが)は買うかどうか迷うところにも趣がある。

『図録 昭和はじめの「地図」の旅 横浜初 日本ひとめぐり』(横浜都市発展記念館、二〇〇六年)を買う。全頁カラー。印刷がいい。吉田初三郎の鳥瞰図が満載の図録である。初三郎の新潟市鳥瞰図(一九三七年)は見惚れてしまう。
『露伴、茂吉、寅彦と小林勇展 一本の道 ある出版人の軌跡』(神奈川近代文学館、二〇〇六年)、『生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並』(杉並区郷土博物館、二〇二二年)、『熊野道中記 いにしえの旅人たちの記録 みえ熊野の歴史と文化シリーズ』(みえ熊野学研究会編、二〇〇一年)など。

 ここのところ、寝る前に寺田寅彦をすこしずつ再読している。

 『改造』に吉村冬彦名義で発表した「空想日録」(一九三三年)の「身長と寿命」にこんな一節がある。

《朝生まれて晩に死ぬる小さな羽虫があって、それの最も自然な羽ばたきが一秒に千回であるとする。するとこの虫にとってはわれわれの一日は彼らの千日に当たるのかもしれない》

「空想日録」の生原稿は高知県立文学館にある(生原稿が発見されたのは二〇〇八年)。

 みえ熊野学研究会のシリーズ、気になる本がけっこうある。
 三重に長期間帰省するときがあったら、尾鷲と熊野はゆっくり歩きたい。母方の祖母が暮らしていた志摩(浜島町)も行きたい。鵜方や鳥羽には何度か行っているが、浜島は二〇〇四年十月に志摩市(旧・志摩郡)になって以降は一度も訪れていない。いまだに三重県の市町村合併を把握しきれていない。久居市が津市と合併していたこともわりと最近知った。市町村合併は郡や市の名前はそのまま残し、近隣の市と「提携」する形のほうがよかった気がする。

『詩人・尾崎喜八と杉並』はまだ郷土博物館に残っているかも。すこし前に北川太一著、石黒敦彦編『高村光太郎と尾崎喜八』(蒼史社、二〇二五年)を読んだばかり。尾崎喜八が会員だった雑誌『霧の旅』は高円寺で発行していたことを知る。
 今回、図録の出品がよくて、ひさしぶりに予算オーバー(上限五千円。普段は三千円)しそうになり、ほしい図録があと五冊くらいあったが抑えた。
 金曜は古書会館のあと、蓮華寺と馬橋公園あたりを散歩する。昨年、馬橋公園は拡張整備でトイレがきれいになった。馬橋公園から阿佐ヶ谷の神明宮に向かう斜めの道もいい。旧街道っぽい。
 土曜日は小雨だったけど、野方と練馬を散歩した。肉のハナマサのち、環七と分岐する北町豊玉線(豊玉南住宅沿い)を歩いて、東武ストアで調味料を買う。『高村光太郎と尾崎喜八』を作った蒼史社の奥付を見たら、住所が東武ストアの近くだった。蒼史社、山頭火の本も刊行している。梅崎春生も豊玉中(二丁目)に暮らしていた。

 練馬駅北口の平成つつじ公園の土の道を歩く。ライフココネリ練馬駅前店で串カツのセットを買う。バスで高円寺に帰る。けっこう混んでいた。

(追記)誤字多し。新聞の日付間違えていた。蓮華寺も蓮花寺と書いていた。

2025/05/16

走光性

 昆虫が光に反応して集まる習性を「走光性」という。
 人も同じ習性があるとはいわないが、都会に人が集まるのは「夜が明るい」というのも理由のひとつだろう。
 夜中の散歩中、光るタワーを見るとなんとなく嬉しくなるのは、昔の人が街道を歩いていて常夜燈が見えたときの心理に通じるような気がしている。

 夜、九段下から四谷まで歩く。靖国通り。高燈籠(常燈明台)から九段坂公園を通り、靖国神社の駐車場内の喫煙所で一服する。一口坂の小諸そばで鳥から丼セット(冷たいそば)を食べる。文教堂書店に寄り、市ヶ谷橋を渡り、外濠沿いの道を歩き、日高屋の先から市ヶ谷駅を眺める。夜の市ケ谷駅、水に浮いているように見える。外濠から市ヶ谷駅の電車の発着を見る。

 市ケ谷駅に向かう途中、ドコモタワーを見る。そのとき雪印メグミルクの大きな看板も視界に入る(夜は白く光る)。外濠公園の野球場の近くに雪印メグミルクの本社がある。意外と近い。

 電車に乗っているとあっという間に通りすぎてしまうのだが、市ケ谷駅から四ツ谷駅の間は歩道が広い。樹木も多い。チェーン店もたくさんある。四ツ谷駅前にも小諸そばがある。
 学生のころから高円寺と神保町を数えきれないくらい行き来してきた。人生後半になって、市ケ谷駅周辺の夜道のよさを知った。
 いつでも行ける。いつでも歩ける。いつまでそれができるかわからない。この先何ができるのか。行きたい場所に行く。読みたい本を読む。それがなかなかできない。
 年をとると、できないことばかり増えていく。いっぽうできることにありがたみをおぼえる。散歩が面白くなる。近所が面白くなる。すこし歩いただけでこれまで知らなかった景色が見えてくる。

 広い世界を知る楽しさとはまたちがう。
 働くことで知ることもあれば、暇になったり心身にガタがきたりして知ることもある。

 昔、地味で退屈におもえた小説や音楽のよさがわかるようになる――というのと近いかもしれない。

 このところ「余生」について考えている。「余生」を楽しむために必要なことは何だろう。
 活発に動けなくてもいい。静かに暮らせればいい。
 金のかからない趣味は重要である。あと健康は大事である。

 四ツ谷駅から総武線で高円寺に帰る。

2025/05/12

九段坂公園

 十年前、二〇一五年のブログを読み返していたら、四月三十日に「昨日、コタツ布団しまう」と書いている。
 昨年五月のブログに「上京して三十五年になるが、これまで四月にこたつ布団を片付けた記憶がない。自己新かもしれない」と書いているがちがった。勘違いに気づくのに一年以上かかった。

 何の役にも立たなさそうな備忘録も記憶の一助にはなる。
 これまで読んできた本の内容もいろいろ思い違いがあるにちがいない。

 日曜午前中、部屋の換気のち西部古書会館。臨時開催の高円寺均一まつり。二日目全品百円。『近世武相名所めぐり』(神奈川県立博物館、一九九一年)、『挿絵と装幀の小宇宙 竹下夢二から川上澄生まで』(北海道文学館、二〇〇〇年)、辰野隆編『酒談義』(日本交通公社出版部、一九四九年)など十二冊。『酒談義』は折込の「一目で分かる 全國名酒分布図(地図)」付。地図中と欄外に各地の日本酒の名前がびっしり。詳細すぎて一目で分からない。『続・酒談義』も刊行された。いったん家に帰り、妙正寺川沿いの道を歩く。

 散歩中、少子高齢化社会は平和や安定、それと衛生と医療の向上の副作用なのかもしれないとぼんやり考える。今の時代も政治にせよ経済にせよ、何かと問題はあるが、昔と比べると、ひとりでも生きやすい社会になっている(とくに都市部は)。

 先週は二日連続で神保町から靖国通りを歩いた。九段坂公園は東京タワーだけでなく、東京スカイツリーも見える。両方見えるポイントもある。タワーを意識するようになって、ときどき後ろを振り返る習慣が身についた。九段坂公園付近、街路樹が繁ってくるとスカイツリーが見えにくい。天候や季節によって見えたり見えなかったりする。

 一口坂から市ケ谷駅に向かうまでの間、武道館側の歩道だとドコモタワーが正面方向にはっきり見える。これまで靖国神社側の歩道ばかり通っていたので気づかなかった。

 靖国通りは武道館側(南)の歩道か靖国神社側(北)の歩道かで見える景色が変わる。水曜日は小雨が降ってきたので市ケ谷駅から電車に乗った。木曜日は四ツ谷駅まで歩いた。市ヶ谷橋を渡って市ヶ谷濠沿いの道を歩く。途中、高力坂という坂があり、そのすこし先に外濠公園野球場がある。草野球のナイターを見る。市ケ谷駅〜四ツ谷駅間は近い。八百メートルちょっと。

 二十歳前後——三十五、六年前、麹町の編集プロダクションに出入りしていた(雑用係)。高円寺駅から四ツ谷駅まで行き、麹町まで歩いた。当時、仕事が終わると寄り道せず、高円寺に帰った。

 四ツ谷駅から乗った総武線が中野駅止まりだったので代々木駅で降り、新宿駅寄りの十号車乗り場付近からドコモタワーを見る。

 高円寺駅は中央線と総武線のホームでドコモタワーやスカイツリーの見え方がちがう。
 わたしは総武線のホームの八号車と九号車乗り場(阿佐ケ谷駅寄り)の間くらいからドコモタワーと都庁を見ることが多い。たまに中央線のホームの新宿側からのドコモタワーとスカイツリーを見る。新宿寄りの二号車の乗り場あたりに両方見えるところもある。

 またタワーの話を書いてしまった。タワーが見えると嬉しい。タワーが見える場所を見つけるのも楽しい。この感情は何なのか。

2025/05/05

適齢期

 五月四日、午前中にコタツ布団を洗濯し、押入にしまう(昨年は四月三十日だった)。
 午後、西部古書会館。清水博著『有島兄弟三人列伝 武郎・生馬・里見弴』(須坂新聞社、一九八八年)、『秋の特別展 夢二と華宵展』(愛媛県立美術館、一九七四年)、『面白半分 全特集 佐藤愛子と田辺聖子』(一九七五年三月臨時増刊号)、『江戸後期歌舞伎資料展目録』(国会図書館、一九八一年)など。

 人生五十年といわれた時代と人生八十年、九十年の時代では生きる難易度がちがう。人の寿命はわからない。作家の年譜を見ていると、今の自分の齢より若くして亡くなった人はいくらでもいる。
 笠井潔が聞き手の山田風太郎ロングインタビュー「〈人生貼雑話〉忍びの読書術入門」(『文藝別冊 我らの山田風太郎』河出書房新社、二〇二一年)に「僕は、人間の死ぬ適齢期は六十五歳だとみています」という言葉があった。初出は『GQ JAPAN』(一九九五年三月)。風太郎、七十三歳。山田風太郎は二〇〇一年七月二十八日没。享年七十九。

 昨年秋、わたしは五十五歳になった。六十五歳……もそうだが、還暦まで四年半。二十代三十代のころはずっと先のことにおもえた齢が近づいている。
 六十五歳はシビアな数字におもう人もいるかもしれないが、今、五十五歳のわたしは「そこまでどうにかなれば御の字だな」という気分だ。たぶん六十五歳が近づけば、考えも変わるだろう。今は長生きしすぎてしまうほうが怖い。

………ここまで書いたところで昼寝二時間(十四時半から十六時半)。古代の中国みたいな町(看板がすべて漢字だった)の八差路で迷う夢を見る。
 夜の散歩。十九時半、そぞろ書房の「よりみち短歌展」を見る。帰りは小雨。高円寺駅北口芸術会館通りの東急ストアの前〜やよい軒前の信号あたりの歩道から東京スカイツリーを見る。緑のライティング。途中、色が変わる。高円寺の北口からスカイツリーが「見える」とわかって以降、朝でも昼でも夜でも「見える」ようになった。雨の日は見えないこともある。中央線の東方面の延長戦上にスカイツリーは建っている。しかしそのことを認識するまでまったく気づかなかった。
 人の目は見ているようで見ていない。高円寺駅の総武線・中央線の両ホームの新宿側からもスカイツリーは見える。いずれは建物に遮られ、見えなくなる日も来るかもしれない。

 古本もそういうことがある。長年探していた本を買う。一度入手すると、その後、頻繁に見かけるようになる。単行本と文庫ばかり買っていたときは図録などの大判本は視界に入っていなかったようにおもう。ずっとほしかった随筆集が新書で気づず、なかなか見つけられなかったこともある。
 興味のない分野の本は見ても記憶に残りにくい。目は脳の一部だから、脳が衰えれば目も弱る。その逆もあるだろう。

 衰え弱る過程も人生である——とはまだ達観できない。

2025/05/03

単純な事実

 気がつけば五月。コタツ布団を片付ける時期だが、明け方まだちょっと寒い。
 野方をうろうろ。上越泉(銭湯)に行く。ぬるめのお湯がありがたい。

 尾崎士郎著『京濱國道』(朝日新聞社、一九五七年)を読む。装丁は寺田政明(買ったときは気づかなかった)。街道小説としても面白い。「第三章 鈴ケ森・権八茶屋」にこんな一節がある。

《古い文献によると、大森から品川まで東海道は海とすれすれにつづいていて、ずっと昔は、鈴ケ森は笠島と呼ばれ、海中の島であったらしい》

《今日、八景坂という名前の残っているのは、大井と新井宿の境にある高地から見た景観を近江八景に模して名づけたものである》

 このあたりは古東海道(旧平間街道)も通っている。十年前ならこうした記述を読み飛ばしていたかもしれない。今はすぐ地図を見る。八景坂は東海道本線大森駅山王口前の近く(池上通り)。何年か前、「カフェ昔日の客」に行く前、駅前の八景天祖神社に寄った。

 作中、空襲の話も出てくる(第二十五章 「イエス」「ノー」)。

《昭和十九年の終りから二十年にかけて、東京市内の主要な場所はほとんど空襲をうけていた。山王一帯に強制疎開が始まったのは十九年も終りに入ってからであるが、朝から晩まで危険のなかに身をさらしている私たちにとっては、人間関係も、季節の変化も、もはや、ただ生きているという単純な事実としてうけるだけのことである》

 八十年前の五月二日、ドイツは首都ベルリン陥落。東京は五月二十四日、二十五日、山の手大空襲があった。今は「ただ生きている」ということに関しては恵まれている。空襲がない。強制疎開もない。食料事情、衛生、医療も向上した。

 いっぽう「ただ生きている」がややこしくなった。日々の営みが複雑になった。散歩と読書、家事ときどき仕事。それで生きていければいいのだが、それがむずかしい。