2009/07/29

岡山から京都へ

 二十五日(土)、のぞみで岡山に行き、ルネスホール内公文庫カフェのフジイユタカ写真展「オキナワノハナ」を見る。
 公文庫カフェに行くと、藤井くんが待っていた。
 写真は十年以上前のもので、そのとき、その場所にいなければ二度と撮れない写真ばかりだ。本人は「狙っていないような写真を狙って撮っている」というかもしれないが、ぱっと見、なぜこれを撮ったのかよくわからないままシャッターを押しているかんじがする。でも時を経て、そのかんじがいい具合に熟成されていた。
 そんなに昔の写真ではないのに「古写真」の味わいがある。

 公文庫カフェでアイスコーヒーを飲んだあと、倉敷に行く。この日、天領まつりだったせいか、駅前は人がごったがえしている。
 人通りをさけ、トンネルを通って、蟲文庫。
 蟲文庫の田中さんと藤井くんと三人で初の写真展開催を祝う小宴会。

 藤井くんが高円寺のアパートを引きはらい、岡山に帰ったときは、もうすこしこっちで仕事をしていれば、プロのカメラマンとしてやっていけそうだったのに、と残念だった。でも今みたいに、ふらふら旅行をしながら、気ままに写真を撮っているほうが、藤井くんには合っているのかもしれない。

 年内に蟲文庫でも、個展をひらいてはどうかという話になった。

 二十六日(日)、午前中に倉敷を出て、鈍行列車で神戸に。海文堂書店に寄る。
 福岡店長に挨拶して、山本善行さんの古本コーナーを見る。昼休みから戻ってきた北村知之くんに「善行堂行きましたか?」と声をかけられる。

 元町から三ノ宮のガード下を通って、阪急で京都、出町柳でレンタサイクルを借りて、古書善行堂を目ざす(善行堂の話は、八月発売の『小説すばる』に書きました)。

 ちょっと心配になるくらい安い。ほしいとおもった本が、ことごとく、自分の予想よりも安い。
 正宗白鳥著『文學修業』(三笠書房、一九四二年刊)、花森安治著『風俗時評』(東洋経済新報社、一九五三年刊)などを買う。
『風俗時評』は、はじめて見たかもしれない。

 自転車を返して京阪三条へ。汗だくになったのでサウナ・オーロラで一風呂浴び、六曜社でアイスコーヒー。

 夜は、徳正寺でサニーサイドアップ(増田喜昭、鈴木潤)、オグラ、友部正人のライブ「近所のお寺で涼んでいたら」。

 雨の音や風をかんじながらのライブ。サニーサイドアップは、鈴木さんの澄んだ声とシンプルなウクレレが合っていて心地よかった。
 オグラさんは、久々に名曲「架空の冒険者」のソロバージョンを熱唱。
『ガロ』の編集長、長井勝一さんが眠るお寺で、友部さんの「長井さん」を聴く。
 オグラさんと友部さんは、前の日に大阪で詩の朗読のイベントでもいっしょだったそうだ。

 お堂でのライブだったせいか、言葉がすっと入ってくる。踊りたくなる曲もあったけど、なんとなく、静粛に聞いていた。背筋をのばし、肩でリズムをとる、そのかんじが新鮮でおもしろかった。

 朝四時まで、扉野さんの両親と飲み明かした。

(追記)
 帰り、午後二時すぎのぷらっとこだまに乗るため、京都駅に行くと、新幹線の構内が厳戒態勢。トイレも封鎖されている。ホームには警察官と日の丸をふる人々。
 向いのホームに到着した新幹線から皇○子が……。

2009/07/24

小休止

 今週末は、鬼子母神通り みちくさ市(http://kmstreet.exblog.jp/)が開催されます。

 都丸書店で佐藤春夫著『窓前花』(新潮社、一九六一年刊)を買い、喫茶店で休憩する。読売新聞の夕刊に連載時は「愚者の樂園」という題だったが、すでにつかっている人がいて改題したらしい。

 本多顕彰著『聖書 愚者の楽園』(光文社、一九五七年刊)のことではないかとおもう。
 後に獅子文六が一九六六年に『愚者の楽園』という本を刊行している。
 ウィキペディアによると、川原泉の漫画の題でもあるようだ。

 ちょっと息ぬきに読もうとおもって買った『窓前花』だけど、新聞コラムとしての完成度が高い。単行本では一本が見開き二頁ちょうどにおさまる。ほんとうに読みやすい。

《今日のベストセラーズは千萬人が讀み、さうして明日のベストセラーズはまた明日の千萬人が讀む。
 今日は二三人しか讀む人もない。多くの人々がみなその存在を忘れてゐる。しかし明日も明後日もほんの二三人の人が讀んでゐる。さうしてその二三人がいつしか二三百人にもなり、やがていつまでも讀みつづけられて讀む人の數が少しづつ増加して行く。これがクラシックといふものであらうか》

 内容は文芸から政治まで意外と幅広い。わりとリベラルな理想主義者である。

「窓前花(さうぜんのはな)」という言葉は『佐藤春夫随筆集 白雲去来』(筑摩書房、一九五六年刊)の「處士横議せず」にも出てくる。

 新聞の連載では、身辺雑事、文芸放談、時代風俗、政治および社会時評の類をその都度書こうと心がけていたが、どうしても身辺と文芸の話に片寄ってしまう。しかし、みかんの木にみかんがなるようなもので、これは当然の話だとひらきなおる。

《新聞には政治記事は自分の執筆を待つまでもなく充滿してゐる。自分の任とすべきは多忙な社会人が多忙に紛れて忘れてゐる事どもを思ひ出させるにあらう。(中略)自分は處士横議を事とせず、閑雲野鶴を望み、窓前の花を品し、時に兒孫を擁してテレビに野球と相撲とを興ずるを優れりと思ふ者である。それではいけないといはれても外に仕方もあるまい》

 そういいながらも『白雲去来』には政治記事が多い。それがまたおもしろい。

2009/07/20

批評のこと その五

 行きあたりばったりに話をすすめる。
 読者の高齢化、インターネットの隆盛などによって、このままいくと出版の世界は確実に崖が待っていると書いた。

 すべてが落ちるわけではないとおもうけど、今まで通りの人数、収入を活字産業は維持できないだろう。
 銀行が合併したように、大手の新聞や出版社の合併もありうる。中小零細はどうなるか。フリーの人はどうなるか。

 もともと活字の世界というのは、趣味と仕事の領域が曖昧だ。
 同じような原稿を同じくらいの時間、労力をかけて書いても、原稿料は出版社の規模によってまちまちだし、まったくもらえないこともある。

 お金はほしい。でもそれだけではない。
 批評の自立のためには、生活費は別に稼ぐ必要があるのではないか。長年、考え続けているが、まだ答えは出ていない。

 くりかえしになるけど、「どう生きるべきか」を主体にする、根源に置かないと駄目になるという谷川俊太郎の言葉をおもいだしながら、もうすこし批評について考えたい。

《——ぼくはこの管理された社会の中で、単に労働力として存在する人間にはなりたくない。たとえ人生を棒に振っても、ある純粋さを保持した、あるがままの人間でありたい……》(「頭上に毀れやすいガラス細工があった頃」/辻征夫著『ゴーシュの肖像』)

 十代の辻征夫が「それだけでは生活できない」とわかっていながら、詩人になりたいとおもったときの心情だという。

 詩人になりたいとおもう辻征夫は「そういうことは趣味として余暇にやれ」といわれる。

 批評も詩と似たような境遇になっているのではないか。

 かつて中村光夫は、批評家が独立の存在として認められていないと述べた。作家の解説者、読者との仲介人という役割しか与えられていないともいう。

《もし批評する者が、批評される者に従属していたら、それだけで批評の公正さは失われ、したがって価値もなくなるのは自明のことだからです》(「批評の精神」/『批評と創作』新潮社)

 ここで「批評の公正さ」という言葉が出てくる。この「公正さ」は「批評家の独立」によってしか得られないというのが、中村光夫の意見である。

 趣味あるいは余暇としての批評は、批評される側に従属する必要がない。それは批評の独立といえるのか。

「批評の精神」はこんな一文でしめくくられている。

《自分の存在をかけない言葉が人を動かすはずはないという文学の鉄則は、批評にも適用されるので、この単純な原理を忘れた批評はどんなに「問題意識」にみちていようと、空疎な大言にすぎないのです》

(……続く)

2009/07/18

批評のこと その四

 批評の役割についておもいついたことを書く。
 たとえば、ある作品について、従来とはちがう、読み方、見方を示すこともあげられる。

 主人公ではなく、脇役にスポットを当てて読むとどうなるか。スポーツであれば、試合で目立つ活躍した選手だけ縁の下の力持になった選手を評価する。
 売れなかった作品、失敗作も、見方次第ではおもしろくなる。
 従来の常識やおもいこみをくつがえす、視点をかえる。
 それも批評の仕事だろう。

 ただ、批評の技術が発達すると、それこそ、どうとでもいえるようになる。名作でもけなせるし、どんな凡作でもほめようとおもえばほめられる。
 つまり作品の「独創性」よりも、批評の「独創性」がひとり歩きする。そこで「公平」かどうかということが問われてくる。

 もうすこし話をややこしくしよう。

 奇をてらった手法も、やりつづけていれば、凡庸になる。凡庸を批判する意見も、くりかえしていけば、凡庸になる。
 目新しいところが見られない作品にたいして「古い」と批判した場合、その批判のパターン自体が「古い」と批判されるおそれがある。
 つまり、おもしろくても批判でき、つまらなくても批判でき、批判すること自体、批判できる。

 批評の技術が進歩し、どうとでもいえるようになると、そういう問題も生じてくる。

 批評なんて意味がない。
 そういうことにもなりかねない。

 今さらとはおもいつつ、「批評とは何か」を考えてみたくなった理由もそこにある。

(……まだ続く)

2009/07/17

批評のこと その三

 批評についてかんがえているあいだ、頭からはなれなかったキーワードが「精神の緊張度」だった。
 小説ではなく、むしろ、批評にこそ、「精神の緊張度」は必要なのではないか。

 もうひとつ谷川俊太郎の次の言葉——。

《詩人の主体というのかな、どう生きるべきかみたいな、そういうものを根源に置かないとね、どうも詩が駄目だという感じがあるんですよ。いつでもその間を揺れ動いて来たんですね》

 あらゆる文学が「精神の緊張度」を高め、「どう生きるべきか」を問うべきだといいたいわけではない。
 わたしは肩の力のぬけた、とぼけた文章が好きだし、生々しい現実から逃避したくて本を読むこともある。

 おもしろいか、つまらないか。
 わかりやすいか、わかりやすくないか。
 売れるか、売れないか。

 当初、「独創」の有無、あるいは「公平」ということについて考えていたのだけど、しだいに、わたしは優秀な審判のような批評を求めているわけではないことに気づいた。

 ある作家のある作品に、自分の理想をたくし、自分のおもいを述べる。
 そういう批評のあり方について模索していたこともある。

 どう生きるか、何をすべきかということは、重要な問いである。
 ただ、もうすこし別の方向、自分の内側ではなく、外側に関心が向かうようになってきた。

 二十代、三十代の編集者と会う。書店員と会う。
 定年まで会社がもつかわからない。
 そんな話をよく聞かされる。
 あと何年かしたとき、雑誌はウェブに移行してしまうかもしれない。
 雑誌や新聞の読者が高齢化している。その高齢化にあわせていれば、しばらくのあいだはあるていど売り上げは維持できるかもしれない。
 ただし、その先、確実に崖が待っている。

 崖から落ちないようにするには、どうすればいいのか。

(……話の流れは変わってしまったが、もうすこし続けたい)

2009/07/16

批評のこと その二

 批評の公平さについてかんがえてみた。

 公平であることは大事だが、批評家の好み、価値観が反映した批評もおもしろいのではないかとおもう。
 たとえ標準、平均からズレていたとしても、ある種のおもいいれやおもいこみで強引に読ませてしまう、そんな批評があってもいい。

 昔は何らかの思想をもった人が、その思想に合致するか否かによって、作品のよしあしを決めるような偏った批評がけっこうあった。

 そのときどきの流行、潮流によっても批評のあり方は変わってくる。
 自然主義が盛んだったころは、そうでない作品はきびしく批判されたり、プロレタリア文学の隆盛期には、ブルジョワ文学が否定されたりした。
 ただ、そうした批評は、時代の変化とともに効力が失われがちだ。

 わたしの場合、時代性よりも、自分の適性、向き不向きに固執する癖がある。
 二十代のころ、「自己完結している」とよくいわれた。
 その傾向についていえば、たぶん、昔とくらべると、多方面に気をつかいながら文章を書くようになったとおもう。そうしたほうが、摩擦のすくない文章になり、わかりやすく、通りがよくなる。
 それがいいことかどうか、いまは判断保留中。

 自分が拠って立つ場所を守るために、あえて独断と偏見を貫く。
 ただ、その姿勢を貫いたとしても、対立や衝突が起こりにくくなっている。

「あの人はそういう人なんだ」
「そういう意見もあるね」

 そんなかんじで受け流されてしまうのである。

 若い知り合いの文章を読んでいると、いつもバランスがよくて器用でうまくておどろくのだけど、もうすこし、そこからはみだすもの、空回りするもの、ぎこちないもの、あとで読み返して恥ずかしくなるようなものがあってもいいのではないかという気がする。

(まだ続く……はず)

2009/07/15

批評のこと その一

 たまに批評の意味についてかんがえる。
 批評とは何か。

 こうした問いにはかならずしも正解があるわけではないが、作品を紹介し、感想を述べるだけではなく、批評する以上、作者の「独創」とおもわれる部分をつかまえることは大事なことではないかとおもう。

「独創」とは何かという問題もある。

 ある独創家が、紫色のスープのラーメンを作った。でも紫色のスープはオリジナリティにあふれているが、まずいということがある。独創であれば、いいというものではない。
 逆に、一見、ふつうのラーメンのようにおもえても、隠し味にこれまで誰もつかったことがないようなダシがはいっているということもある。批評というのは、ダシの分析のようなところがあるかもしれない。

 ラーメンの批評には、そうした微妙な味わいがわかる舌、そのちがいを表現できる言葉が必要である。
 そのためにはかなりの量のラーメンを食い、種類を知っていなければならない。

 うまいか、まずいか。それにも個人差がある。
 こってりしたものが好きな人とあっさりしたものが好きな人がいる。
 ラーメンにかぎらず、批評家の好みによって、評価もちがってくる。
 好き嫌いをこえて、公平な分析ができるかどうか。
 でも公平とは何かとなると、わけがわからなくなってくる。

 味、値段、スピードみたいなポイントごとに評価をする方法はあるかもしれない。でも最後は個人の好みや懐事情に左右されるだろう。

 批評の能力ということにかぎっていえば、細部の味わい、ちがいに気づくことができるかどうか。

 あまり詳しくないジャンルのことは鈍感になる。
 音楽にしても演芸にしても、みんな、同じに見えたり、聞こえたりする。

「私小説は貧乏と女と病気の話ばかりだ」
「現代詩は難解だ」

 よくそういう「批評」がある。そのジャンルが好きな人にいわせれれば、同じような貧乏話でも作者によってまったく味わいがちがうし、難解におもえる詩でも、その作者のこれまでの作品を読んでいれば、緻密な工夫や仕掛けを楽しむことができる。

 細部がわかるかどうか。批評の浅さ、深さはそういうところに出てくるとおもう。

(……続く、かもしれない)

2009/07/14

オキナワノハナ

 週末、横浜に行く。飲んで食って新しいブックオフ(アクロスプラザ東神奈川店)に行って帰ってきた。

 大口駅の商店街(あけぼの通商店会)にあったナカトミ書房にも行ったけど、閉まっていた。二階建の古本屋で店の奥のほうに階段がある、おじいさんがやっていたものすごく古いかんじの店で、二年くらい前に行ったときには、昔の文庫本が昔のままの値段で売っていた。
 もう(店頭の)営業はしていなさそうだったが、どうなったのだろう。

 横浜への行き帰りに、JRの湘南新宿ラインに乗る。
 新宿横浜間三十分。
 ふとおもったのだが、名古屋や京都から東京に帰るときに新横浜駅で降りて横浜駅に出て、湘南新宿ラインで高円寺に帰るというのはありかもしれない。
 
 河北新報の夕刊「まちかどエッセー」の連載はじまりました。
 7月13日が第1回掲載。以後、8月3日、17日、31日、9月14日の5回の予定です。

 それから7月16日(木)から7月30日(木)までカメラマンの藤井豊さんが岡山のルネスホール内公文庫カフェで「写真展 オキナワノハナ」という個展をします。
 午前11時〜午後10時まで(火曜日定休)

 これまで東京、京都、岡山で何度も撮影現場に立ちあっているのだけど、藤井さんは撮影しているときの雰囲気がちょっと独特(かなりヘン)である。

 被写体との距離感もおかしい。でも写真はいい。それがいつも不思議なのである。
 なんとか時間を作って、見に行こうとおもっている。
    
 詳細は、フジイユタカ写真記録(http://fujiiyutaka.seesaa.net/)にて。

2009/07/10

8月のライオン

 若手のお笑い芸人がわからなくなってきている。齢かもしれない。
 テレビを見ていて、おもしろかったとおもうものが、あんまりウケてなかったり、まったく笑えなかったネタが会場その他で盛り上がっていたりすることも多くなった。

 ザ・イロモネアを見ていて、もやもやした気分になって、その原因をさぐろうとインターネットを検索していたら、チャルさんという人の「8月のライオン」というブログにたどりついた。

 素晴らしいの一言。我を忘れて読みふけってしまった。
 わたしが雑誌の編集者だったら、すぐスカウトしたい。

 観察が細かくて的確、文章に芸がある。軸もぶれない。深い。

 「オードリーの若林の試練」だけでも読んでみてほしい。

《オードリーは、とにかくインパクトのあるボケの春日に、トークができて仕切りもできるツッコミの若林という、最近珍しいほどの王道路線を突っ走っているコンビです。遅かれ早かれ、大きな番組のレギュラーになったり、深夜の冠番組を持つことになると思います。
その時に成長しなければならないのは、やはり若林です》

《これから先、オードリーが大きい仕事を任されていくにつれ、若林にはものすごくたくさん勉強しなければならないことが出てくると思います。ツッコミの人は売れてからの方が成長を強いられることが多いのです。浜ちゃんだって上田だって名倉だって、自分の相方だけを相手にしていた時よりもはるかにたくさんのことを求められて、それに応えるための努力をして、今の地位を得ているわけです。爆笑問題の田中は…田中のままでMCをしているような気がします》

 オードリーの若林を論じ尽くした、ほんとうに愛のある批評だ。決められた枚数(八百字か千字くらいの)のコラムも読んでみたい。

2009/07/08

出口の方向

 最近、酒飲んで下書き(手書き)、シラフで清書(パソコン)という執筆パターンが自分には合っていることがわかってきた。
 鉛筆、万年筆、いろいろためしてみたけど、この五年くらいパイロットのジェルインクのボールペンをつかっている。楽に書ける。自分の頭の中のイメージにちかい字になる。
 替え芯が安く買えるのもありがたい。

 たっぷり睡眠をとり、古本屋に行き、喫茶店に寄り、食料を買いこみ、掃除と洗濯をして、レコードを聴きながら、本を読み、料理を作る。
 ひさしぶりにのんびりした気がする。

 鮎川信夫の『一人のオフィス 単独者の思想』(思潮社、一九六八年刊)を読みかえした。
 二十代のころからこういう文章が書きたいと憧れていた。ただ、どうすれば、その域に達することができるのか。そのことをかんがえると途方にくれた。
 自分の専門領域ではない問題にたいして、(あるていど大雑把でもいいから)大きく外れない判断ができるようになるにはどうすればいいのか。
 鮎川信夫の頭脳はどうなっているのか。

 世の中が複雑になっている。昔とは比べものにならないくらい文化が分散している。専門外のことはわからなくても当然なのかもしれないが、それだけではない。何が大事で、何が大事でないか。鮎川信夫はそうした「均衡の感覚」を重視していた。

『時代を読む 鮎川信夫 コラム批評100篇』(文藝春秋、一九八五年刊)の「あとがき」で、「この時代の迷路が、入組んだ壁や紛わしい曲り角でいかに錯綜していても、出口の方向を見失うことはなかった」と述べている。

『一人のオフィス』では、未来にたいして楽観はしたくはないが悲観もしたくないといっている。
 鮎川信夫は、シニシズムに陥らないことを自分に課していたのではないかとおもう。安易なヒューマニズム、理想主義を手厳しく批判することはあったが、けっして冷笑、嘲笑はしなかった。

 二十代、三十代、迷路の中で文章を書いてきた。
 出口の方向を示すような仕事がしたくなってきた。
 準備不足、勉強不足をいいだしたらキリがない。

『一人のオフィス』の最終回は「『たしかな考え』とは何か ある知識人にみるゆるぎない知性」というコラムである。

 ある知識人とは、津田左右吉のこと。
 場所がなくて何年も押入にしまったままの『津田左右吉全集』を出そう。その分の蔵書を整理しよう。

 まずはそれから。

2009/07/06

入り口

 古書往来座外市、終了。
 行くたびにおもうことだけど、往来座(店内)の棚はおもしろい。
 たとえば、文学が好きな人にとって、「入り口」になるような本(いわゆる代表作)とマニア向けの本のバランスがほんとうにいい。

 この「入り口」をちゃんとおさえていくのは、すごく大事なことなのではないか。ここ数年、わめぞのイベントに参加するようになって以来、そのことを意識するようになった。
 ライター業にしても、同じことをくりかえしていてはいきづまる。仕事の幅をひろげたり、せばめたり、すこしずつ変化を試みているのだが、ついつい楽なほうに流れてしまいがちになる。

 わめぞ民、若手が増え、活躍している。いつの間にか、u-sen君、本の縛り方がうまくなっている。実は、仕事ができる男なのかもしれない。

 ゲストのBOOKONNの中嶋大介くんは、本業はデザイナーだけど、インターネットの古本屋、大阪で「三人の本棚」、あと京都のガケ書房でも古本を販売している。
 まもなくメルマガ「早稲田古本村通信」の連載もはじまるそうです。

 打ち上げの途中、睡魔におそわれ、午後十時前に帰る。七夕の短冊に「体力がほしい」と書けばよかった。

(追記)
 往来座の瀬戸さんに話した雑司ケ谷が出てくる尾崎一雄の小説は「霖雨」でした(『小鳥の聲』三笠書房、『懶い春・霖雨』旺文社文庫にも収録されています)。

2009/07/05

外市初日

 午前九時、十時くらいに寝て、起きると午後三時、四時という生活が続いている。

 予定がまったく組めない。
 疲れもとれない。
 困っている。

 外市初日、池袋往来座に着いたのは午後七時であった。
 後片づけをちょっと手伝って午後八時から打ち上げ。

 起きてから四時間しかたっていない。

 前日も十時間くらい飲んだ。
 からだがだるい。
 こんな生活をしていてはいかんとおもう。

 朝から外市の補充用の本の値付をする。

 京都では今日、山本善行さんの店(古書善行堂)がプレ・オープンする。
 ほんとうにいい本が並んでいるんだろうなあとおもう。
 最近、山本さんの『古本泣き笑い日記』(青弓社)を読みかえした。読み出したら、止まらなくなった。あとがきにじーんときてしまった。

 いつか下鴨古本まつりに(岡崎武志さんと)特別出店したいというようなことも書いていた。
 もし山本さんが下鴨で売る側になったら、両手いっぱいにその日の収穫をかかえて見せびらかしたい。

 あと藤子不二雄の『オバQ』が全集で復活するみたいですね。古本漫画界に激震か?

2009/07/01

今週末は外市

 どうにか六月の仕事をのりきることができた。まだ大丈夫、まだ大丈夫とおもっているうちに、どんどん時間がなくなって、満遍なくすべてのしめきりを遅らせてしまうことに……。

 精神疲労の回復ため、部屋をまっくらにして、ひたすらCDを聴く。スピーカーのコードをつなぎなおしたら、ちょっとだけ音がよくなった気がする。

 夕方、気分転換のため、神保町に行く。三崎市場でかすうどんを食い、神田伯剌西爾でコーヒーを飲んで、田村書店の均一を見に行くと、赤丸羊三クンがいた。
 とりあえず、気がつくまで横に立ってずっと凝視していたら、めちゃくちゃおどろかれた。

 高円寺のアニマル洋子で村上春樹、川本三郎著『映画をめぐる冒険』(講談社、一九八五年刊)を買う。
 次号の『小説すばる』の連載の資料。

 まもなく出る『別冊本の雑誌 SF本の雑誌』は、かなり読みごたえありそうですよ。

 夜、外市の集荷。立石書店の岡島さんと羊三クンが来る。
 天気がちょっと心配だけど、今回は補充も力をいれるつもりです。

 ◎2009年7月4日(土)〜5日(日)
 第15回 古書往来座外市〜軒下の古本雑貨縁日〜
 ゲスト BOOK ONN
 4日⇒11:00ごろ〜19:00(往来座も同様)
 5日⇒12:00〜18:00(往来座も同様)

 詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/wamezo/

 最近、リンクの貼り方をおぼえました。

 日本屈指のパブロックバンド(誰が何といおうとそうおもう)、ペリカンオーバードライブが、「サマソニ」に応募していた。最近までメンバーのマサルさん(ベース)も知らなかったらしい。
 もしよかったら、投票おねがいします。
 http://emeets.jp/pc/artist/1664.html