2024/05/28

双六

 木曜と日曜、西部古書会館に二度行く。スティーリー・ダンの再結成後のライブビデオ(PINE KNOB,MI '96)が三百円。かれこれ三十五年、古書会館に通っているが、ビデオテープを買ったのははじめてかも。あと山本正勝著『双六遊美』(芸艸堂、一九八八年)など。『双六遊美』は大判の本(函付)で「道中双六」の詳しい解説と図版あり。

《初期の道中双六では、この江戸と京、大坂の間に六十から百五十以上の宿を設けている。幕末に近づくにしたがって宿の数は整理され、俗にいう東海道五十三次に落ち着いてくる》

 東海道の双六は箱根で止まるとふりだし(江戸)に戻ったり、大井川で二、三回休みになったりするものもあった。五街道の脇筋だけをあつかった双六も作られていたらしい。

《道中双六は決して単なる道中案内的な版画ではなく、当時の第一線の絵師・摺師・彫師の総力を結集した芸術作品であると同時に、当代の風潮や流行を敏感に反映した先端的情報文化であったと考えてよい》

 著者の山本さんは双六のコレクター。一生かけて一つのことを追い求める。「何とか一筋」みたいな人生に憧れる気持がある。そういう生き方にも向き不向きはある。

 山本さんは双六という入口から浮世絵や歴史を掘り下げている。こういう絞り込み方は隙間産業系ライターのわたしにとって非常に参考になる。
 時間もお金も体力も限りがあるから、何かしらの縛りが必要になる。

 もちろん漠然と散漫に雑駁に何かを追いかけてとっちらかる時期があっていい。大きなテーマにがっぷり四つで取り組むことが好きな人はそうすればいい。

 いずれにせよ、サイコロを振り続けるしかない。

2024/05/26

十年

 ここのところ、雨の日は高円寺〜阿佐ヶ谷のガード下とアーケードを歩き、晴れたら鷺ノ宮、野方、練馬方面を散策することが多い。
 先日、桃園川緑道経由新中野まで散歩。東高円寺と新中野はひさしぶり。三徳、肉のハナマサに寄る。帰りに天祖神社で一休み(境内にベンチがあって一服できる)。
 二〇二〇年以前、コロナ禍前までは東高円寺のあたりはたまにしか行かないところだった。今はなじみの町になった。四十代と五十代で生活習慣がけっこう変わった。意識して変えた部分といつの間にか変わってしまった部分がある。

 五十歳以降、睡眠の大切さを痛感している。七、八時間寝ると膝の痛みや肩まわりの違和感が軽減する。とはいえ、毎日熟睡できたら苦労はない。

『些末事研究』(vol.9)が届く。特集「結婚とは何だろうか」。わたしは座談会(収録は昨年の十月)に参加。同誌の創刊は二〇一四年三月だから十周年。だいたい年一回の発行でのんびり続いている。
 発行人の福田賢治さんとわたしは同い年(一九六九年生まれ)で、雑誌が続くこともそうだけど、この年までふらふら暮らしていることが感慨深くおもえる。

 創刊号でわたしは「十年後はわからんな。まだ高円寺にいるかどうか」みたいなことを喋っているのだが、自分のことでさえ十年後のことはまったくわからない。五年後だってわからん。ただ、気力や体力が低下しても、それに合わせた楽しみを見つけていけたらいいなと……。

2024/05/19

心境小説

 武田泰淳が亡くなったのは一九七六年十月、享年六十四。ちょっと前に三木卓の『When I'm 64 64歳になったら』を読み、なんとなく六十四歳つながりから、泰淳の晩年の『目まいのする散歩』(中公文庫、一九七八年)を再読した。同文庫の解説は後藤明生なのだが、以前から気になっていた一節がある。

《しかし、この一冊は決して散歩随筆集ではない。また、心境小説といったものではない》

《もちろん小説は、人間の書くものである。心境小説も私小説も、その意味では間違いなく小説といえるわけであるが、『目まいのする散歩』の作者は、最初から無理矢理、自分を他者の中へ引きずり出そうとしている》

 後藤明生は『目まいのする散歩』を「心境小説といったものではない」と論じているのだが、今回読み返してみて、わたしは「これは心境小説だろう」とおもった。私小説や心境小説は随筆、身辺雑記の延長のような作品が多い。むしろ、わたしは随筆か小説かわからないような作品が好きである(そういう作品しか読めなくなってしまう時期もある)。さらにいうと心境小説の場合、唐突に作者の思索が入ることも多い。

 たとえば『目まいのする散歩』にこんな一節がある。

《散歩という意味を広く解釈して、人間の運命が生れたときから、あらかじめ定められているというようにうけとれもするし、地球のどこかに住みついているからには、散歩とか旅とかいっても、あらかじめ空間的に決定されている行動範囲は、どうせ限定されているからだ》

 この部分を読み、心境小説の代表作といわれる、ある作品のことが頭に浮かんだ。

《自由は、あるのだろうか。あらゆることは予定されているのか。私の自由は、何ものかの筋書によるものなのか。すべてはまた、偶然なのか、鉄壁はあるのかないのか。私には判らない。判るのは、いずれそのうち、死との二人三脚も終る、ということだ》

「散歩という意味を〜」と「自由は、あるのだろうか」は同じことをいっているわけではない。引用した部分だけで心境小説か否かを論じるのは無理かもしれない。というか、二〇二四年の今、心境小説か否かなんて、世の中のほとんどの人にとってどうでもいい問題だろう。
 ちなみに「自由は、あるのだろうか」は尾崎一雄の「虫のいろいろ」(一九四八年)の一節である。
 戦時中、四十代半ばに尾崎一雄は大病を患い、医者から「余命三年」と宣告される。「虫のいろいろ」を書いていたころは「余命三年」が過ぎ、すこしずつ健康を取り戻しつつあった。

 武田泰淳の散歩中の思索、尾崎一雄の病床の思索はいずれも人間の一生とは何かというテーマとつながっている。個を突き詰めていけば普遍に通じる。

『目まいのする散歩』の「いりみだれた散歩」に荻窪の映画館のことが出てくる。

《荻窪の映画館に、たびたび出向いたのは、私が新聞の映画月評をひきうけたからである。したがって、小学校に通いはじめた幼女も、映画見物がクセになった》 

 当時、荻窪には大映、東映、松竹の映画館があった。そのころ、泰淳は高井戸に住んでいた。高井戸から荻窪へはバスで行った。小学校に通いはじめた幼女は武田花。一九五一年十月生まれ。今年四月末に亡くなった。花が小学校に通いはじめたのは一九五八年——武田泰淳は四十六歳、武田百合子は三十三歳。年の差十三歳。

 尾崎一雄(一八九九年)と武田泰淳の年の差は十三歳である。尾崎一雄と松枝(芳兵衛)の年の差も十三歳か十四差だった。芳兵衛と武田泰淳は年が近い。

 それがどうした話というかもしれないが、自分のためのメモとして記す。

2024/05/08

押入

 今年は四月三十日にこたつ布団とこたつカバーを洗濯し、押入の天袋にしまい、扇風機を出した。
 上京して三十五年になるが、これまで四月にこたつ布団を片付けた記憶がない。自己新かもしれない。二月以降、貼るカイロもほとんどつかわなかった。
 三十年前と今と比べると、気候の変化もあるだろうが、自分の体質も変わったのかもしれない(体重が十キロ増えた)。

 本と資料をどうするか迷っている。すでに生活空間を圧迫していて、これ以上増やすのはむずかしい。どうするもこうするも減らすしかない。その選り分けのための時間がない。押入に雑誌のコピーなどの紙類を詰め込んでいる。中身を確認せずに処分する方法もあるのだが、それは最終手段にしたい。

 そんな断捨離(計画)の合間、三木卓著『When I'm 64 64歳になったら』(小学館、二〇〇一年)を読む。
 冒頭「自炊のすすめ」の書き出し。

《作家、上林暁(一九〇二~一九八〇)の晩年の闘病を献身的に助けたのは、妹の睦子さんだった》

 もともと上林は自炊していた。ご飯、みそ汁、焼き魚、おひたし……。それが定番、ほぼ同じメニューだった。上林暁っぽい。
 三木卓も料理する。

《仕事場では本を読み、原稿を書き、電話でゲラゲラ笑い、腹が減ると冷蔵庫を開けて、今ある材料で何が作れるか、そのうちもっとも旨い料理は何だろうと考え、いざプランが成立するとそれに向かって一路進撃を開始する、という、それだけの生活である。いってみれば書生さんの暮らしがいまだに続いている、というわけだ》

《食事や洗濯や掃除に時間を使うのは、文筆業者としてもったいない、という人もあるかもしれない。が、実際にはよほど締切が切迫しているときでもないかぎり、そういうものではない》

 三木卓は一九三五年五月生まれ。昨年十一月に亡くなった。享年八十八。このエッセイの初出は一九九七年十二月。六十二歳のときに「書生さんの暮らし」を楽しそうに綴っていた。前半、数篇のエッセイは中高年の自炊のすすめである。

 三木卓は古本好きの作家だった。「境内の白秋」にこんな一節がある。

《少年のころから、古書店をあさるのが好きである。どこか初めての町を、気ままに旅するときなど、古書店を見つけるとどうしても入りたくなる》

「どんな老人になりたいか」では〈今まで当たり前だと思って見逃していたことが、実はちっとも当たり前じゃないということの発見〉を心掛けたい――と書いている。

 わたしは今五十四歳。六十代はそう遠くない未来である。先のことがどうなるかわからないが、確実に気力体力は落ちるだろう。そうなる前に押入の中のものくらいは減らしておきたい。蔵書も半分くらいにしたい。