2025/09/29

秋の気配

 九月がもうすぐ終わる。プロ野球ペナントレースも終盤、ほぼ順位も決まった。毎日、引退、戦力外のニュースが流れる。ヤクルト川端慎吾選手が引退を発表。代打で二塁打。全盛期と変わらぬ美しいスイングだった。川端選手が首位打者になったのは二〇一五年、真中満監督のころか。あれから十年。年をとると月日の流れが早く感じるのは記憶力の低下と関係しているかもしれない。すぐ忘れるから時が早く過ぎているようにおもう。

 九月二十七日(土)、二十八日(日)、二日連続午前中に西部古書会館。ひさしぶりに初日の午前十時台に行った。『中山道 板橋宿 企画展 平尾宿ー脇本陣豊田家』(板橋区立郷土資料館、一九九一年)、『図録 東海道張交圖會』(東海道広重美術館、一九九四年)など、街道関係の資料を数冊、あと辻二郎著『偏光鏡』(岩波書店、一九三六年)を買った。

『偏光鏡』は寺田寅彦を追悼したエッセイなども入っている。同書「寺田博士と随筆」に「昔先生はよく『自分はペンを持つてからは割合早く書いてしまふが、いざ書くと云ふに到る迄は非常に永い間考へて居る、だから結局非常に遅筆だと云ふ事になるだらう』と云はれて居つた」とある。

《先生は常に随筆と云ふものは何でも書きたい事を書くから随筆なので形式等の無い所が随筆の随筆たる所である、そして絵画で云へば南画が其であると云つて居られた》

 深夜、早稲田通りを散歩する。阿佐ケ谷あたりまで。 

 二十八日(日)、西部古書会館二日目。初日に素通りしたガレージのところで大判の『歴史の道 中山道』(読売新聞社、一九七八年)を見つける。二百円。よく残っていた。この日行くかどうか迷っていたのだが、行ってよかった。

『歴史の道 中山道』所収、谷内六郎「野仏のある道」を読む。

《ぼくは郷土愛に徹した人が昔から好きで、伊那路に徹した熊谷元一氏(童画とキャメラ)とか、いずれも戦前活躍した人にあこがれる風で、それらの人も多くの石地蔵、野の仏を沢山描いたせいか、自然ぼくの絵にも石仏が多いのです》

 それから武蔵野の石地蔵の話になり、地方ごとに様々な型、顔があると……。下諏訪の有名な「万治の石仏」について「文に綴ったのはぼくが一番先であった(略)」とも。わたしも「万治の石仏」を見に行ったことがある。この石仏を有名にしたのは岡本太郎だけど、谷内六郎のほうが先に紹介していた。

 谷内六郎は一九二一年十二月生まれ、一九八一年一月没。享年五十九。「野仏のある道」は五十六歳のときのエッセイ。谷内六郎のエッセイ集に収録されているのだろうか。

 文中に出てきた熊谷元一は一九〇九年七月生まれ。亡くなったのは二〇一〇年十一月。享年百一。長生きである。

 夜、野方を通り、環七の歩道橋(西友豊玉南店の近く)からスカイツリーを見て、東武ストアで買物し、練馬大鳥神社に寄り、練馬駅からバスで高円寺に帰る。夜のバス、電車とはちがう風景が楽しい。野方駅付近で乗客がいなくなり、途中から一人になる。

2025/09/25

源平物語絵

 一日中眠い。年に何回かそういう時期がある。今もそう。心身の修復期と考えている。神経痛の予防は休むか寝るかしかない。水分補給も欠かせない。
 五十半ばになると無理をしないための細かい工夫がいる。いかに余力を残すか。怠惰の言い訳におもうかもしれないが、その調整をしくじると長い低迷が待ち受けている。いっぽう休んでばかりだと体が鈍る。五年前、左肩が五十肩になったとき、しばらくの間、左腕をつかうことを避けていた。痛みが治ってきたころ、左手でフライパンを持ち上げることができず、料理をぶちまけそうになって焦った。
 体力を維持するには休息だけでなく適度な運動も必要なのだと痛感した。

 先週末の土曜日昼すぎ、西部古書会館。上方史蹟散策の会編『竹内街道』(向陽書房、一九八八年)を二百円。挟み込みの「竹内街道全図」付。ビニカバなし。向陽書房の街道シリーズの中で一番読みたかった本だ。飛鳥と難波を結ぶ竹内街道は「日本最古の官道」といわれている。

 この日、『源平物語絵セレクション』(神戸市立博物館、神戸市スポーツ教育公社、一九九七年)も買った。江戸後期から明治期の源平合戦に関する絵を収録。書き込み多し。鳥瞰図で有名な歌川貞秀の絵も入っていた。貞秀は一八〇七(文化四)年下総国布佐(現・千葉県我孫子市)の生まれ。地理好きで富士山にも登っている。清水吉康の『東海道パノラマ地図』は貞秀の影響を受けている。わたしは街道の研究を通して歌川貞秀を知った。浮世絵師は変わり者が多いのだが、貞秀もかなり偏屈な人だったようだ。

「源平物語絵」は川や海の戦いの絵がけっこうある。源平は海戦、戦国時代は攻城戦の印象が強い。

『南波松太郎氏収集 古地図の世界』(神戸市博物館、一九八三年)に「日本でも古来から『源氏物語絵巻』のように、ある高さから俯瞰した絵が書かれてきている」とある。「源平物語絵」も合戦を描いた屏風絵など、鳥瞰図っぽい絵がいくつかあった。
 鳥瞰図絵師の「目」がどうなっているのか知りたい。そういう研究はあるのだろうか。

『源平物語絵』の図録の年表は一一五三(仁平三)年、平忠盛が亡くなり、清盛が家督を継いだところからはじまっている。清盛三十四歳。清盛が太政大臣になるのが、一一六七(仁安二)年、四十八歳。このあたりが平氏の全盛期である。

 清盛と西行は一一一八(元永元)年生まれ。平安末の京は飢饉あり火事あり地震あり戦あり……災難続きだった。

 そうした背景を知ると都でそれなりの地位のあった人々が隠遁に憧れた気持もわからなくもない。隠遁するには財力も必要である。諸国を遊行するのも大変だった。

 仏教に興味がないが、旅がしたくて出家した僧もいたかもしれない。

2025/09/21

淡海の海

 十九日(金)、昼前に一度目が覚めたのだが、二度寝したら午後五時。気温は二十二度。窓を全部開け、換気する。秋風ぞ吹く。栗入りの炊き込みご飯を作る。残った出汁でそばのつゆも作る。そばを茹で食べる分をよけ、冷凍する。山形県のみうら食品の乾麺(そば、中華麺)が好きで高円寺の徒歩圏内で見つけるとつい買い込んでしまう。

 夜八時半くらいに東高円寺まで散歩。途中、高円寺南に歌舞伎町タワーが正面に見える路地を見つける。何度も通っているが、昼間歩いているときは気づかなかった。歩きながら高円寺周辺で東京スカイツリーとドコモタワーが見える道を探す。遠くが見えるということは風の通りもいい。

 東高円寺から中野駅方面に向い、中野四季の森公園(中野セントラルパーク)を通り、ブックファーストで新書を買い、家に帰る。

 帰り道の途中、環七付近で「HPSC南」と表示していたバスを見る。高円寺駅北口二十一時三十分発の赤羽車庫行のバス(国際興行バス)と知る。いつか乗ってみたい。
 HPSCは「ハイパフォーマンススポーツセンター」の略。国立スポーツ科学センター、味の素フィールド西が丘などの施設を有している。それにしてもアルファベットの略語はおぼえにくい。

 すこし前に西部古書会館で買った『文藝春秋デラックス』特集「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」(一九七四年五月号)を読む。この号が創刊号(編集兼発行人は半藤一利)。「日本の名歌百五十首」の座談会(池田弥三郎、中西進、前川佐美雄、村野四郎、山本健吉)——各人の知識のすごさについていけない。古歌のよしあしを判読するための素養が足りない。とにかく最初のうちは読みまくるしかない。いろいと読んでいると(自分の中で)イメージが広がる歌とそうでない歌がある。

「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古念ほゆ」はかつての近江朝(大津京)を懐かしむ鎮魂の歌。柿本人麻呂(人麿)の作。

 この座談会でも人麻呂の歌のどれを選ぶかで盛り上がっている。

《山本 〈淡海の海夕波千鳥……〉がいいじゃないですか。
 中西 わたくしも〈淡海の海〉ですね。
 池田 そうだ。〈淡海の海〉があった。あれがいい。
(中略)
 前川 だれかが言っとったよ。〈淡海の海〉これ一首あれば、日本の国が亡びてもいいって。そう、横光利一だ。
 村野 ほう? それはすごい》

 ちなみに横光利一は小学生になったころ、大津に移り住み、生涯にわたり、琵琶湖を愛した。滋賀に縁のある人は、横光利一の「琵琶湖」というエッセイを読んでほしい(青空文庫で読めます)。

 淡海(あはうみ、あふみ)が転じて、近江(おうみ)となった。また近淡海(ちかつおうみ)の異名もある。いずれも琵琶湖の古称である。

 わたしは街道の研究をはじめて以来、琵琶湖の東岸から大垣あたりの道(中山道・美濃路)が好きになった。旧街道の雰囲気が残っているところも多く、歩いていて楽しい。地形もいい。

2025/09/15

三連休

 暑さはすこし和らいできたが、湿度が高い。風の通りのよい道を選んで散歩していても汗だくになる。

 九月十三日(土)、午後二時すぎ、西部古書会館。やや二日酔い。寝起きで頭が回らないのでゆっくり棚を見る。『絵図・地図が語る上福岡』(上福岡歴史民俗資料館、二〇〇〇年)、『羽村市郷土資料館紀要 第八号 特集 中里介山』(羽村市郷土資料館、一九九三年)、島遼伍『下野街道物語 大いなる栃木の街道をゆく』(下野新聞社、一九九九年)など。最近、西部古書会館、郷土史関係のいい冊子がよく出る。しかも安い(百円〜百五十円)。夜、妙正寺川沿いの道を歩く。

 来月十月一日(水)から羽村市郷土博物館開館40周年記念事業「生誕140年 中里介山展」が開催される。介山は一八八五年、西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)生まれ。当時、西多摩郡は神奈川県だった。昨年のちょうど今頃、玉川上水を調べていて、そのことを知った(文壇高円寺「玉川上水」二〇二四年十月二日参照)。羽村市は旧青梅街道、旧鎌倉街道も通っている。

 生誕百四十年、武者小路実篤、北原白秋、野上弥生子も同年生まれ。
 長編小説『大菩薩峠』は街道小説としても面白い。「鈴鹿山の巻」の巻もある。

 十四日(日)、夜七時すぎ、新高円寺散歩。いなげやで惣菜を買い、ドトールでアイスコーヒー。青梅街道が見える窓際の席で『新編燈火頬杖 浅見淵随筆集』(藤田三男編、ウェッジ文庫、二〇〇八年)を読む。「井伏鱒二会見記」にこんな一文があった。

《井伏君が早稲田時代の恩師として敬愛しているのは吉田絃二郎氏と、それから辰野隆氏とである》

 すこし前に再読した山本夏彦の本でも辰野隆の名を見た。若き日の辰野は斎藤緑雨を愛読して、渡仏前だか後だかに緑雨の著作集を求めた――というような話だった。辰野隆著『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫、一九九一年)所収の「上田万年と斎藤緑雨」という随筆に同じ話が出てくる。緑雨は伊勢国鈴鹿の生まれ。伊勢街道の神戸(かんべ)宿の出身でわたしの郷里の家もそれほど離れていない。神戸は城下町、寺社町でもある。
 二十代半ば、山本夏彦に会ったとき、最初に「斎藤緑雨と同郷です」と自己紹介した。それがよかったのかどうか、その日はいろいろな話を聞かせてもらえた(辻潤や無想庵の話も聞けた)。

 辰野隆の『忘れ得ぬ人々』には寺田寅彦に関する随筆が四篇収録している。同書は弘文堂書房、鬼怒書房、角川文庫など、いろいろな出版社から刊行されている。わたしは学生時代に文芸文庫版を新刊で買った。三十年以上前か。昔、買った本を読み返すたびに月日の流れの早さを感じる。

 辰野の名前を知ったのは小林秀雄だったか中村光夫だったか。辰野は小林、中村の恩師でもある。年譜を見ると、辰野が早稲田で講師をしていたのは一年くらい(一九一九年)。そのころ井伏鱒二は学生だった。教育者としての辰野隆が日本の文学に与えた影響は計り知れない。

 十五日(月・祝)、夕方五時起床、午後六時半、高円寺駅前から中通り、馬橋公園、公園から阿佐谷の神明宮に向かう斜めの道を散策する。日没早くなった。馬橋公園、犬の散歩をしている人が多い。途中、セブンイレブン阿佐谷北店がある五叉路のところで南に向かう。玉の湯(月・火が定休日)、阿佐谷弁天社のある細道——この道、風がよく通る。そこから阿佐谷けやき公園(屋上部)に行き、夜景を楽しむ。東京スカイツリーとドコモタワー、歌舞伎町タワーを見る。スカイツリーは中央線の線路と同じ方向(東)にある。
 ちょっと気になっている渋谷方面の光るビルの名前はまだわからない。

 阿佐ケ谷けやき公園は中央線のガード沿いにあり、桃園川緑道からも近い。桃園川(暗渠)は天沼弁天池公園(荻窪)が水源のひとつといわれている。かつては阿佐谷弁天社も池だった。弁財天は水神である。ちなみにけやき公園はプールがあった(二〇一六年十一月に廃止)。わたしはこのプールで泳いだことはないが、屋上庭園ができてからはしょっちゅう寄り道している。行きはエレベーター、帰りは階段で降りる。階段の近くも絶景ポイントである。
 高円寺・阿佐谷間は中央線のガード下を通るのが一番近い。ただし風が通らないせいか、ガード下はかなり蒸し暑い。すこし遠回りになるが、南口なら桃園川緑道、北口なら馬橋公園〜神明宮の道を歩きたい。目的地に早く着く必要はない。

2025/09/13

老人の型

 怪獣造形師の村瀬継蔵さんのドキュメンタリー映画『怪獣と老人』が来月十月十三日(月・祝)に池袋HUMAXシネマズで特別公開(十四時二十分〜)。昨晩、そのチラシをもらった。

 監督の中野伸郎さんとペリカン時代で知り合い、編集中の映像を見せてもらったり、いっしょにタイトルを考えたりした。村瀬継蔵さんの風貌や一人暮らしの様子がよかった。記憶に残る言葉もいくつかある。好きなことを仕事にし、生涯、情熱を捧げる。変人っぽさとかっこよさが同居している感じの老人だった。

 音楽は増岡謙一郎さん(ペリカンオーバードライブ)が担当。新曲二曲、素晴らしい。

 映画の話から離れるが、この数年、老年期の創作について考えている。
 十代二十代の激しく煌めくような才能によって生み出された作品とちがい、老年の作品は継続の末にたどりつく境地のようなものが味になるのではないか。といっても、枯淡の味わいとかそういうものばかりではない。長い年月、お金にならない趣味にのめりこみ続けてきた結果、面白おかしくなる人がいる。その人なりに地道な努力、勉強をしているのだが、世の中の風潮とちょっとずつズレていき、気がつくと、わけがわからないものを作り続けている。

 結局、“正解”がない世界なのだとおもう。長い時間をかけてようやく辿りついた自分の“正解”ですら壊したり、崩したりの連続である。

2025/09/09

歌枕と相撲

 九月六日(土)、七日(日)、西部古書会館の均一まつり。本の整理中につき、初日(一冊二百円)は五冊まで。『特別展 東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新』(品川区立品川歴史館、一九九九年)、『日本万歩クラブ編『東海自然歩道全ガイド』(集団形星、一九七〇年)、『環境文化』55号「特集 歴史の道 海上の道」(環境文化研究所、一九八二年)、『環境文化』58号「特集 歴史の道 行基の道」(環境文化研究所、一九八三年)、皇學館大學『伊勢志摩を歩く』(皇學館大學出版部、一九八九年)など、街道関係の資料を買う。『環境文化』の古道の特集は面白い。八〇年代の雑誌、ページに熱がある。今回は買えなかったが、51号の特集「歴史の道 河内古道と伊勢みち」も読みたい。
 歴史の道シリーズはガイドブックも刊行しているようだ。

 七日(日)も古書会館(一冊百円)。昨日、街道関係の資料をいろいろ買って満足したので行くかどうか迷ったが、夕方ちょっとだけ見に行く。『西脇順三郎対談集 詩・言葉・人間』(薔薇十字社、一九七二年)など六冊。武田泰淳や福原麟太郎との対談も収録。行ってよかった。本に呼ばれたような気がする。

 夜、馬橋稲荷神社の例大祭。神楽を見て生ビール。帰り道、西友でサーモンとイクラの寿司を買う。
 深夜日付が変わって午前二時半、駅前まで歩いて皆既月食を見る。

 八日(月)、午後三時すぎ、野方散歩。ひさしぶりに妙正寺川のでんでん橋を渡る。肉のハナマサで調味料と乾物と喜多方ラーメン(しょうゆ味、三袋入り)など。帰りは大和町を通り、高木精肉店でアジフライを買う。この店、惣菜が何でもうまい。ササミチーズカツ、クリームコロッケもおいしい。湿度が高くて汗だくになる。家に帰ってしばらくして雨が降りはじめる。

 八月二十五日の文壇高円寺「祭りのあと」に「たしか丸谷才一のエッセイにも相撲と地名の話があった。どの本だったか……」と書いた。

 先週、コクテイル書房に飲みに行った。品品(世田谷ピンポンズ)さんのライブもあった。隣の共同書店に丸谷才一著『袖のボタン』(朝日文庫、二〇一一年)があり、帯の「相撲と和歌」という言葉が目に入る。これだ。

《相撲と和歌は切つても切れない仲であつた》

 という一文から同エッセイははじまる。歌合を主催していた在原行平は、節会相撲の統括者でもあった。

《相撲の年寄名が、
  春日野
  九重
  宮城野
  片男波
  放駒
 などと優美なのはもちろん歌語であるせいだが、おそらく行平は左右の相撲人たちに、歌枕その他を引いて醜名をつけ、それが伝統となつたのではないか。それとも歌ことばを醜名とする風俗は、行平を記念するこころで生じたものか》

 街道、歌枕に興味を持つようになって、春日野は奈良、片男波は和歌山の地名と知った。それまで相撲を見ていてもそういうことを考えたこともなかった。
 ほかにも歌枕をもちいた年寄名に音羽山や田子ノ浦などがある。

 相撲と和歌の話を続けると、相撲が季節ごとに東京、大阪、名古屋、福岡と巡業するのも歌枕と関係あるかもしれない。地図を見る。

 春場所の大阪府立体育会館のある難波は歌枕の地だし、九州場所の福岡国際センターは歌枕の地である荒津崎と近いといえば近い。名古屋場所の愛知県体育館は名古屋城の近くだが、同市内であれば、熱田、年魚市潟(あゆちがた)、鳴海など歌枕の地で開催してもらいたい。

 ちなみに両国は数多くの和歌に詠まれた隅田川(すみだ川、すみだ河)が流れている。行平の異母弟の在原業平と隅田川は縁が深い。ふと業平橋はどのあたりにあるのか気になる。もともと、とうきょうスカイツリー駅(東武伊勢崎線)は業平橋駅(一九三一年改称)という駅名だった。

 さらに昔は吾妻橋駅(一九〇二年開設)、浅草駅(一九一〇年改称)と名前がころころ変わっている。業平橋駅に改称したのは一九三一年、とうきょうスカイツリー駅になったのは二〇一二年である。

 東京の東側、いまだに土地鑑がない。

2025/09/07

生息圏

 季節の変わり目、朝寝昼起、昼寝夜起、夜寝朝起と毎日睡眠時間がズレる周期に入る。ただしけっこう熟睡できているので調子はそこそこいい。

 すこし前、小雨降る中、阿佐ケ谷散歩。高円寺駅付近からガード下を通り、阿佐ケ谷のアーケードの商店街を歩くと傘なしでも歩数を稼ぐことができる。雨の日の高円寺阿佐ケ谷間、桃園川緑道も人が少なくて歩きやすい。阿佐ケ谷のパールセンター商店街の薬局、カルディ(乾麺のうどん。細くてうまい)に寄る。一時期、冷凍うどん派だったこともあるが、乾麺派に戻った。乾麺はすこし多めにゆでて冷凍している。
 駅南口の八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店(旧・書楽阿佐ヶ谷店)に寄る。高円寺の徒歩圏だと新刊書店は中野か阿佐ケ谷に行くことが多い。

 阿佐ケ谷駅北口アーケード街のマリヤ洋品店が八月三十一日で閉店した。先々月あたり閉店が決まってから、靴下を何足か買った。

 コンコ堂で『三重県立美術館所蔵作品集』(二〇〇三年)、『尾崎士郎/中谷孝雄』(新学社近代浪漫派文庫、二〇〇四年)など。

 五十歳前後、老年に向かう途で郷土文学や郷土史に興味をおぼえるようになった。文学も歴史も範囲が広大でキリがない。老いゆく身には未来もそんなにない。しかし「郷土」もしくは「地元」に絞れば、残り少ない時間の中でも見えてくるものがあるのではないか。

 中野区大和町の仕事部屋の掃除をしていたら『文藝春秋SPECIAL』特集「老後の楽園」(二〇一二年秋号)が出てきた。渡辺京二「連嶺の夢想」というエッセイを読む。題の「連嶺の夢想」は伊東静雄の詩「わが死せむ美しき日のために 連嶺の夢想よ!」(曠野の歌)の一節からとったものとおもわれる。

《もともと人はおのれの棲みかを選びとったのではない。何かの事情でたまたまそこに住みついた。どうしてもそこが合わぬというのなら、住まねばならぬ事情が解消し次第、より気に入ったとこへ移ればよい。だが、たいていの人が余儀なく住んだ場所と折り合ってゆくのは、その場所で自分なりの生息圏を構築しているからだ》

 渡辺京二は一九三〇年京都生まれ。北京、大連で過ごし、一九四七年に大連から引き揚げ、熊本市に暮らした。
 熊本に移り住んだ後、五高時代に大喀血し、熊本市近郊のサナトリウムで四年半過ごすことになった。療養所生活がなければ、東京の学校に進む予定だった。
 そのあと東京に出るが、すでに妻子がいた。一九六五年、生活が行き詰まり、熊本に戻る。

《熊本へ帰れば親族友人がいるし、何とかなるだろう》

「連嶺の夢想」を読み、「生息圏」という言葉が頭に残った。新居格は「生活地帯」といった。

 わたしの生息圏は東京といっても中央線高円寺界隈の徒歩圏内である。昨年十二月、仕事部屋を中野区大和町に移した。妙正寺川と西武新宿線の野方駅が近くなった。
 大和町に引っ越す前、高円寺、野方、鷺ノ宮と転々とした編集者で作家の古木鐵太郎、それから野方に長く暮らした福原麟太郎の著作を読み、西武線沿線の町をよく散歩するようになった。

 四十代後半あたりから、本を読んで感じとるものと同じかそれ以上に町歩きから得られるものを大切におもうようになった。夜、人の少ない川沿いの道を歩く。空が広く感じる。気持のいい風が吹いている。隣の町の公園や神社に立ち寄る。楽しい、というか、落ち着く。いや、歩かないと落ち着かない体になってしまった。

 長く住んでいる生息圏でも知らない道がいくつかある。その道の先に知らない場所がある。
 郷里に帰省したとき、離れていた時間がある分、町歩きが面白くなった。鈴鹿の家は徒歩圏内(まあまあ歩くが)に東海道と伊勢街道が通っている。それ以外にも旧街道っぽい曲がりくねった道がある。
 東海道の亀山宿と伊勢街道の神戸宿を結ぶ脇街道のような道だったのではないかとおもいながら、その道を歩く。

 特集「老後の楽園」は「全国52カ区 地方紙が選んだ『我が郷土の楽園』」という企画が秀逸だった。紹介されている町を地図で調べているだけであっという間に時間が過ぎる。

 三重県は松阪市殿町と多岐郡大台町大杉谷地区が選ばれている。大台町はJR紀勢本線三瀬谷駅がもより駅。わたしは行ったことがない。

2025/09/02

歌枕

『季刊 自然と文化』(日本ナショナルトラスト)のバックナンバーに「歌枕」の特集号があると知り、インターネットの「日本の古本屋」で買うかどうか迷う。急に「歌枕」という言葉が頭から離れなくなってしまった。

 先日、高円寺の西部古書会館で入手した同誌の特集「名所」(一九八九年十二月)は読みごたえがあった。表紙・目次デザインは杉浦康平+赤崎正一。杉浦康平はデザインだけでなく、号によっては編集企画にも関わっていた。
 特集「名所」は河原武敏「中国の自然観と園林思想」を興味深く読んだ。古代の中国人は「隠遁の地」を讃美した。隠遁は老荘思想とも関係がある。

 それより前に入手した『季刊 自然と文化』の特集「地方の都市空間」(一九八六年)の表紙は近江八景の絵。同号「[町人町]松坂の複街村」(藤本利治)を読み返す。松坂(三重県)は城下町であり、“松坂商人”で知られる商人の町。参宮街道(伊勢街道)、和歌山街道など、街道に沿って町が形成されている。歩きたくなる町だ。

 梶井基次郎の「城のある町にて」の舞台も松阪である。松坂城跡(松阪公園)に梶井基次郎の文学碑もある。「城のある町にて」は一九二五年発表、今から百年前の小説だったことを数日前に中日新聞の記事で知った。
 梶井の文学碑は中谷孝雄(三重県出身。一志郡、現津市)が揮毫している。梶井と同世代の中谷は一九九五年九月まで生きていた。九十三歳没。
 あるインタビューで中谷孝雄は高円寺に暮らしていたと語っていた。三重県出身(しかも高校の先輩)で高円寺に縁がある物書きということで気になっている。芭蕉に関する本も書いている(未読)。

 ちなみに梶井基次郎は姉夫婦が松阪に住んでいた。梶井は療養のため、松阪に一ヶ月ほど滞在した。

 今度三重に帰省する機会があれば、松阪と伊勢中川あたりを歩きたいとおもっている。伊勢中川は川沿いに小さな神社がたくさんあり、松浦武四郎記念館もある。

 ここまで書いて数日後、迷った末、『季刊 自然と文化』特集「歌枕 [空想の天地]」(一九九〇年春季号)をインターネットの「日本の古本屋」で注文した。そのうち古書会館で見つかるような気もするが、読みたいおもいが高まっているときに読んだほうがいいと判断した。

『季刊 自然と文化』の特集「歌枕」の鼎談(塚本邦雄、谷川健一、馬場あき子)を読む。能因、西行からヤマトタケル(三重県の四日市の話)まで、全ページ面白い座談会だった。
 わたしが歌枕に興味を持つきっかけになった小夜の中山の話もしている。

《塚本 あそこは『伊勢物語』や古今集の「東歌」以前にも詠まれているんですか。
 馬場 …さあ、どうでしょう。
 塚本 あの辺が一番始めだと思うんですけど。
 谷川 …やっぱり東国に行く境かもしれませんね。小夜の中山の近くの掛川のあたりが東日本と西日本の文化の境なんですね。考古学的にみると。
 馬場 …今は道もよくなったけど、昔はほんの小さな車しか通れないような細い道が西から続いていた。あそこの最後の急坂は足で登った》

 東海道の三大難所の鈴鹿峠、小夜の中山、箱根峠は、時代によって、それぞれが文化の境(混合地帯)になっていた。鈴鹿山、箱根山も歌枕の地である。

 晩年の西行が詠んだ「年たけて又こゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」にちなみ、福原麟太郎は『命なりけり』(文藝春秋新社、一九五七年)所収の同題の随筆を書いた。福原の「命なりけり」がわたしの古典熱の発端となった。

 歌枕は地理と歴史と文学の交差する重要なポイントである。さらに歌枕には巡礼の要素もあるから宗教も絡んでくる。

 高校時代、古典の授業はほとんど寝ていたのだが、五十歳すぎてこれほど夢中になるとはおもわなかった。睡眠学習の効果かもしれない。