2024/10/31

選挙

 日曜、起きたら午後三時。午後五時、選挙に行く。自民党大敗。自民・公民が過半数割れ。ここまで議席を減らしたのは意外だった。

 今の世相を知る手がかりのひとつとして、選挙の結果を分析するのは面白い(自分の分析が正しいとはおもっていない。予想も当たらない)。

 国民民主党の(とくに比例票の)伸び方を見ると、自民党は嫌だけど、安全保障などに関しては現状のままでいい——みたいな層の受け皿になりつつあるのかなと。

 有権者における高齢者の増加が政治にどんな影響を与えるのか。
 自分の親(八十代)を見ていると、何十年と慣れ親しんできたものが変わってしまうのは、かなりのストレスになっていることはわかる。五十代のわたしもそうだ。この先どんどんそうなる気がしている。

 普及すれば便利になる、効率がよくなるといわれても、人生の残りの時間が少ない身からすると、これ以上、新しいことを覚えたくないのだ。使いこなせるようになるまで、自分が生きているかどうかわからない。だったら、今のままでいい。わたしもそういう感覚がわかる年になってしまった。

 迅速に制度を刷新したい層からすると、現状維持を望む層は邪魔で仕方がないだろう。

 今年の春、パソコンを十年ぶりに買い替えた。かなり不都合が生じていても、古いパソコンを使い続けてきた。原稿を書くときに利用しているテキストエディタを変えたくなかったからである。OSをバージョンアップすれば、ソフトも新しいバージョンに変えなくてはならない。新しいソフトに追加された機能をつかうことはほとんどない。前のほうがよかったと不満がつのる。そんな自分のあり方を省みると、今回議席を増やした立憲民主党の党首の「紙の保険証」発言をバカにできなくなる。

「これまで通り」を望んでいる人はおそらく数千万人という単位でいる。それが今の日本である。ただ「これまで通り」を望む人ばかりだと社会は停滞してしまう。それでも徐々に世代交代していくだろう。ゆるやかに社会は変わる。半年ちょっとで、わたしは新しいパソコンに慣れた。もう古いパソコンに戻ることはない。今月、マイナンバーカードも電子化した。

2024/10/23

掃除

 季節の変わり目、毎日、睡眠時間がズレる。よくあることだが、寒暖差の影響もあるとおもう。そういう体であることを前提に生活していくしかない。中年過ぎて急に運動すると足がもつれて転ぶみたいなことが、頭の働きにもあるような気がする。若いころのイメージと今の自分とのズレが、しょっちゅう起きる。記憶力が落ちた分、メモをとるようにするとか、しめきり前日は酒を飲まないとか、いろいろ試行錯誤はしているのだけど、仕事が捗らない。

 東京堂書店で新刊本のチェック。小諸そば、鳥から二個サービス中、とろろ丼とそばのセットを食う。帰りは代官町通りを歩いて四ツ谷駅まで。電車の中で佐藤正午著『佐世保で考えたこと エッセイ・コレクションⅡ 1991年-1995年』(岩波現代文庫)を読む。

 三十年前、長崎は深刻な水不足だった。なんとなくニュースで見た記憶がある。当然、ふだんは忘れているし、細かいことは最初から知らない。当時、佐世保の節水でグラスが洗えず、紙コップで酒を提供していた飲み屋があった。『佐世保で考えたこと』に書いてあった話。深夜、そんな話を高円寺の飲み屋で喋っていたら、たまたま佐世保出身の若者(二十代だとおもう)がいた。さらに佐藤正午と同じ高校に通っていたとも。

 ここ数日、ずっと仕事部屋の掃除。五十五歳になる前に一度おもいきってモノを減らしたいと考えていた。減らさないと本が買えない。本が買えないと心の平穏が保てない。だからやるしかない。ただ、昔と比べて取捨選択の反射神経が鈍っている。片付けようとして、余計に散らかってしまう現象に名前はあるのか。

 片付け中は古本も買い控え。未読の本なら山ほどある。「三冊まで」と上限を決め、先週末、西部古書会館。「文藝」編集部・編『追悼 野間宏』(河出書房新社、一九九一年)、『NeoUtopia 藤子不二雄Ⓐ先生 追悼号』(二〇二二年)、それから絵地図を買った。『追悼 野間宏』は、冒頭「アルバム 野間宏」に桑原(竹之内)静雄と野間(京大時代)、富士正晴と野間宏(一九五九年)の写真あり。野間と富士、桑原(竹之内)静雄は同人誌『三人』の同人仲間。武田泰淳の別荘の写真も載っていた。

『NeoUtopia 藤子不二雄Ⓐ先生 追悼号』——Ⓐ先生愛がすごい。愛が重い。Ⓐ先生が亡くなったのは二〇二二年四月六日。特集以外では、連載(一挙三話掲載!)の「黒幕組合の狩猟日記 未収録ハンター 栄光と挫折の記録」が面白い。見出しに「高騰する藤子業界」なんて言葉が出てくる。単行本に収録されていない幻の「一コマ」を求め、オークションで競り合う。
 漫画にかぎらず、熱心なコレクターが世界に三人くらいいると、古書価が急騰してしまうのだ。中古レコードもそう。しかも苦労して入手しても、興味のない人からすれば、なぜそこまでして入手したいのかわけがわからない。何かを集めること、調べることに人生を捧げている人がいる。使命感のようなものに突き動かされているのか。そういう人が書いたものは面白い。

2024/10/15

三十五年

 十月、郵便料金値上げ。定型郵便物八十四円(九十四円)が百十円。スマートレターは百八十円から二百十円、レターパックライトは三百七十円から四百三十円、レターパックプラスは五百二十円から六百円になった。自分のためのメモとして記しておく。

 昨日も今日も部屋の片づけ。押入で五年十年と眠っている雑誌のコピーなどの資料をどうするか。最初からそんなものはなかったと諦めるか。掃除をしながら、体だけでなく、心や気持も動かすことが大切なのではないかといったことを考える。
 おなかがいっぱいだと何も食べたくない。ある種の空腹感、渇望感が心を動かすための鍵なのかもしれない。面白そうなイベントがあったとしても、疲れていたり、予定がつまっていたりすると「今回はいいか」となる。体は動けど、気持が動かない。

 年がら年中、誰に頼まれたわけでもない調べ事をして過ごしている。ぼんやりと全体像が見えてくるちょっと手前までは楽しい。山登りでいえば、五合目あたり。
 コレクション、収集の話でいえば、ある作家、あるジャンルを集めはじめたころは自分の知らない本やら冊子やらを見つけるたびに心が躍る。そのうちだんだん数が増え、残るは入手困難なものばかり……といった感じになってくると「たぶんないだろう。あっても高くて買えないだろう」と古本屋に行く足取りが重くなる。

 本や資料の置き場所が埋まってくると「これ以上、増やすとまずい」という気持が先立ち、ブレーキを踏む。わたしが低迷期に入るときのパターンはいつもこれ。

 金曜昼すぎ、郵便局に寄り、西部古書会館(初日は木曜だった)。本当にほしい本だけ買おうと心に決め、会場入り。『真鍋博展』図録(美術出版デザインセンター、朝日新聞社、二〇〇四年)、『戦後40年 日本を読む100の写真』(文藝春秋臨時増刊、一九八五年八月)の二冊。「戦後40年」がまもなく四十年前になる。「戦後何年」みたいな企画は五十年がピークでその後は下降気味のようにおもう(あくまでも雑誌の話)。

 掃除の合間に岡崎武志編『駄目も目である 木山捷平小説集』(ちくま文庫)を読む。「貸間さがし」も入っている。東京・中央線沿線で「正介」が下宿をさがす。「ポツダム宣言受諾後、もうすぐ四年になろうとしているのに」という文があるので一九四九年ごろの話。初出は「一九五八年二月 別冊文藝春秋」。木山捷平、五十三歳のときの作品である。

「敗戦の時の三月まで、正介は中央線の高円寺に住んでいた」が、敗戦後の東京の貸間借間事情がわからない。部屋を借りるのに数万円の権利金が必要だといわれる。「正介」にそんな金はない。
 吉祥寺の便所なしの三畳間を借りるか借りないかで迷う。作中の「正介」は四十代半ばである。
 木山捷平は淡々とした作風と評される作家だけど、四十代半ばで妻子がいて、それでも文学を続けようと再上京を考えている。もちろん筆一本で食べていける保証はない。文学への執念を秘めつつ、力の抜けた筆致でなんてことのない日常を書く。すごさを感じさせないところも含めて「奇異」な作家だ。

 わたしはこの秋(十月中旬)で高円寺に移り住んで三十五年になる。上京して最初の半年は下赤塚の寮(単身赴任中の父が働いていた工場の寮)に住んだ。寮を出たのは二十歳になるひと月前。以来、高円寺内を何度か引っ越した(台車で本を運んだりもした)。二十代のころは、ずっと「何とか荘」というアパートに住んでいた。三十代後半から五十歳になるすこし前まで借りていた仕事部屋も「何とか荘」だった。こんなに長く同じ町に住むことになるとはおもわなかった。アパートの取り壊しによる立ち退きは三度(仕事部屋も含む)経験した。いつまで自分は高円寺にいるのだろう。そんな疑問が頭によぎる。先のことはわからない。わからないまま三十五年の月日が流れた。

2024/10/08

実篤と三鷹

 昨日暑く(最高気温二十九度)、今日寒くて(最高気温二十度)、しかも雨、終わりの見えない部屋の掃除。

 月曜午後三時、水中書店に寄り、三鷹から武蔵境まで玉川上水沿いを歩く。三鷹駅北口の独歩碑(武者小路実篤の書)、桜橋の独歩碑を見る。水の流れる音を聞きながら、ただ歩いた。気分がいい。
 町を見る。風景を見る。四十代半ばすぎまで、わたしはそういう楽しさを知らなかった。本を読む。音楽を聴く。文化に触れることで心を満たそうとしていた。

 桜橋から武蔵境駅へ。北口の商店街散策。おへそ書房に寄る。『一枚の繪』の「追悼 武者小路実篤先生」(一九七六年七月)を買う。同号の年譜によると、一九三七(昭和十二)年、「市外三鷹村牟礼へ転居」とある。
『武者小路実篤記念館 図録』(調布市武者小路実篤記念館、一九九六年)の年譜には、一九三七(昭和十二)年六月、「北多摩郡三鷹村牟礼三五九に転居」とあり、一九四〇年九月、「三鷹村牟礼四九〇に転居」と記されている。「牟礼四九〇」に転居したとき、実篤五十五歳。四十代後半から五十代半ばにかけて、武者小路実篤は吉祥寺〜三鷹の間で転居をくりかえしている。『牟礼随筆』(大日本雄弁会講談社、一九三九年)という本を刊行している。気になる。

 一九五五(昭和三十年)、調布市若葉町(当時は入間町荻野)に引っ越す。前の年に京王線の仙川駅の近くに土地千坪購入。七十歳で引っ越し。若葉町は京王線の仙川駅、つつじヶ丘駅の間(調布市武者小路実篤記念館もこの地にある)。市は変わるが、三鷹市牟礼と調布市若葉町はけっこう近い。仙川駅は吉祥寺駅、三鷹駅行きのバス(小田急バス)もある。

 武蔵境のTAIRAYAというスーパーで焼き鳥とほうじ茶を買う。武蔵境駅、自分の記憶とかなり変わっている。仙川や調布は三十年以上行ってない。

 JR中央線の三鷹駅と京王線の調布駅もバス(小田急バス)が走っている。バスだと片道四十分くらいか。都内西部、南北の縦移動はバスが便利である。

2024/10/04

夜景

 水曜夜七時、神保町から東京メトロ東西線の竹橋駅方面に向かい、代官町通りを歩いて千鳥ケ淵へ。千鳥ケ淵警備派出所の近くから東京スカイツリーと東京タワーが見える。東京タワー方面の夜景がいい。坂道を下り、東京メトロ有楽町線麹町駅、JR四ツ谷駅から新宿通り(旧甲州街道)を散策する。当初は四ツ谷駅からJR中央線で高円寺に帰る予定だったが、先週秋花粉(ブタクサ)の症状が出て、外出を控えていたので、もうすこし歩きたかった。東京メトロ丸の内線の四谷三丁目駅から新宿御苑駅に向かう途中、ドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見えた。
 ドコモタワーは二〇〇〇年九月竣工。二十四年前。わたしは三十歳だった。アルバイトしながら、同人誌にエッセイを書いていた。

 今の自分のいる場所から何が見えるか。散歩中、そんなことを意識するようになった。東京の風景は目まぐるしく変わる。夜景も変わる。

 新宿駅に着いたのは午後九時前。タワーを見るためにうろうろしたので、その分、時間がかかった。

 新宿は「江戸四宿」のひとつ。もともと甲州街道の第一宿は高井戸宿だった。新宿=内藤新宿は一六九八(元禄十一)年に設けられた新しい宿場(だから「新宿」という)。新宿は甲州街道と青梅街道の「追分」でもある。

 新宿駅の東口は工事中。ドコモタワーを近くで見るため、南口に向かう。

 ひさしぶりに新宿駅南口のエスカレーターに乗る。若いミュージシャンが何人か歌っている。

 夜中、高円寺の南口、高南通りのミニストップ高円寺南2丁目店のすこし北の斜めの道(松應寺などお寺が並ぶ通り)に入るあたりから東(新宿方面)に歩いている途中、ドコモタワーが見える。ライティングの色によって見えるとき、見えないときがある。

2024/10/02

玉川上水

 気がつけば十月。忘れていたが、ちょっと前の八月下旬、わたしは生まれて二万日になった。インターネットの「生まれて何日チェック」で知った。一万日は二十七歳——一九九七年四月。何をしていたかおぼえていない。

 土曜夕方四時すぎ、西部古書会館刻『市街線入 東京最新全図(明治時代の東京地図)』(帯付、すずき印刷)を買う。明治三十八年改正版の地図の復刻版で「発売元(有)すずき印刷 立川支所」とシールが貼ってある(復刻年不詳)。さらに『最新大東京地図』(大正十四年版の復刻)もセットで五百円だった。お買い得。

 前回、国木田独歩の『武蔵野』が渋谷から小金井あたりが舞台と書いたが、この日の古書会館には北村信正他著『小金井公園』(東京公園文庫、一九八一年、一九九五年改訂版)があったので、買うことにした。『武蔵野文学散歩展』の江戸東京たてもの園(江戸東京博物館分館)も小金井公園内にある。

 部屋の掃除していたら『玉川上水散策』(坂上洋之:文、桜井保秋:写真、羽村市教育委員会、一九九五年)が出てきた。
 何年か前に西部古書会館で買った冊子。小金井桜、境浄水場の写真も載っている。羽村市は福生市のすこし北に位置する。『大菩薩峠』の中里介山が羽村生まれ(一八八五年四月)。羽村は神奈川県西多摩郡西多摩村だったが、一八九三年に東京府に編入——。

「三鷹駅のせせらぎ」というページに「駅北口東側の交番の後ろに、武蔵野市が建立した、『山林に自由存す』で有名な『独歩詩碑』があります」と記されている。

《駅北口から西側のけやき橋までの間の上水路は暗渠になっていて、その上がせせらぎの流れる小公園になっています》

 一九九三年七月、三十年以上前の写真なので、三鷹駅周辺の風景は今とかなり変わっている。

 二万日も生きていると、世の中も変わる。もちろん望ましい変化ばかりではないが、玉川上水にかぎらず、各地の川は昭和後半と比べて、きれいになった。
 同冊子の地図には玉川上水と野火止用水の分岐しているあたりに「清流復活放流口」とある。東京都水道局小平監視所の近くに「清流の復活の碑」(小平市中島町)があり、野火止用水にも「清流の復活の碑」(小平市向原)がある。

 一九六六年四月「玉川上水を守る会」 、一九七四年七月「小平市玉川上水を守る会」などが発足。いくつもの保護団体が行政に働きかけ、一九八一年に清流復活事業計画が具体化し、導水管敷設工事がはじまった。一九八四年八月に野火止用水、一九八六年八月に玉川上水の清流が復活した。

 以前、板橋から川越まで二日かけて川越街道を歩いたとき、JR武蔵野線の新座駅の手前に野火止という地名を見かけた。新座市(埼玉県)は野火止用水が通っている(野火止緑道もある)。

 昭和の終わりから平成のはじめにかけて、河川や大気の汚染を改善しようという動きが広まった。一九六〇年、七〇年代の反公害運動からの流れもあるだろう。

 社会が豊かになり、そして行き詰まり、ようやく経済成長の負の部分を見直すことができるようになったともいえる。

 昭和から平成になって「失われた何年」みたいなことをいわれ続けてきたが、高度成長期以降、失ったものを取り戻そうとした歳月でもあったのではないか。

 年をとり、いずれこの世から去る身であることを自覚するにつれ、きれいな河川、海、山を次世代に残したいとおもうようになった。おもうだけで何もしていない。