2009/08/31

そよかぜ

 仕事が一段落。
 天野忠の『そよかぜの中』(編集工房ノア、一九八〇年刊)を読み返した。
 この本は気持と生活を立て直したいときに読みたくなる。

《「余韻の中」につづく私の二番目の随筆集である。(中略)余韻といい、そよがぜといい、自分という頼りなげな存在の何かが、その中に浮いている気分である。いつでも本筋のところをはずれて、弱虫は弱虫なりに、どうにかこうにか生きてきた、生かされてきたことの不思議さに、ときどきぼんやりすることがある》(あとがき)

 わたしは天野忠と身長、体重がほぼ同じで、平熱が三十五度台という共通点がある。寒い日と風の強い日が苦手というところも同じだ。それだけなんだけど、わたしには大事なことである。
 
 ただ、東京住まいでは天野忠のようなのんびりした暮らしはむずかしい。

 先日、三十歳前後の知人と話していたら、上司に「すぐ結果を出せ」といわれ続けているらしく、かなりまいっていた。

 わたしも困ったおぼえがある。
 結果を出したくても、機会をあたえてもらえない。機会をあたえてほしいというと、経験がないからだめだといわれる。
 どないせいという話である。

 ヘタに能力のある人が、結果を出せない立場にいると自分を責めてしまう。
 適当に怠ければいいのだが、その余裕がない。

 怠け方を知らなかったせいで、有能なのに仕事をやめてしまった人を何人も知っている。

 怠けるというのは、手をぬくということではない。やりすごす、といったほうがいいかもしれない。

 仕事上の権限が何もないのに、結果を出せというのは無茶な要求なのである。
 そういう時期は力を蓄えることに専念したほうがいい。
 適当にやりすごして、自分をすり減らさないようにする。
 当然「あいつはつかえない」とか「怠け者だ」とかいわれる。
 ただ、齢をとってからいい仕事をしている人は、(若いころ)そういわれていた人が多いのも事実である。

 権限がないうちは無責任でもかまわない。
 責任はちゃんと力を発揮できる場についてから持てばいい。

 場を自分の力で勝ち取ることができればそれにこしたことがない。でもそれが非常に困難な状況もある。
 その場合、「本筋のところ」をはずれてみるのもわるくない。「逆風」を避け、「そよかぜ」の吹いているところを探す。

 若い知人にはそういうことがいいたかったのだが、うまくいえなかった。 

2009/08/27

あさかわ

 荻窪に住んでいたころの黒田三郎が、酔っぱらって中央線の終電に乗っていた。電車がホームに止まった。阿佐ケ谷というアナウンスが聞こえる。ふとみるとそこは浅川駅だった。「あさがや」と「あさかわ」の音が似ていて、まちがえたという話である。

 最近までわたしは浅川駅がどこにあるのか知らなかった。

 本を読んでいて、ちょっとわからないことがあると、インターネットで検索する。後ろめたさをおぼえつつ、便利さにあらがえない。ウィキペディアの「高尾駅(東京都)」の項をみると、一九六一年年三月二十日に浅川駅から高尾駅に改称されたとある。

 わたしも寝すごして何度か高尾駅まで行ってしまったことがある。たいてい始発まで時間をつぶして電車で高円寺に帰る。
 いちどだけ高尾から高円寺までタクシーに乗ったことがある。
 十年以上前、家賃三万八千円の風呂なしアパートに住んでいたときのことだ。
 毎日のように食費を切りつめ、倹約にはげんでいた。でもその日はたまたま財布の中にいつもよりお金がはいっていた。酔っぱらっていたせいかもしれないが、突然、つまらない出費というものをしてみたくなった。
 高尾から高円寺までタクシーに乗ったら、どんな気持になるのか。それが知りたかった。当時のわたしには想像できなかった。
 タクシー代は一万六千八百円だった。

 もちろん、後悔した。

2009/08/23

ギターと歌う

 古本酒場コクテイルで行われた前野健太「ギターと歌う vol.9」に行った。予想はしていたけど、中に入れない。ものすごい熱気だ。ビールケースを出してもらって店の外(十人以上いたかも)で、飲みながら聞く。

 いつも以上に声がよく通る。軽やかなのに、まったく誤魔化しがなくて、自分の中でいろいろなことがせめぎあっている感覚も伝わってくる。すこし前までのやや不安定で、ピリピリしながら客に音楽をぶつける姿勢も好きだけど、くつろいで楽しんで歌っているかんじもよかった。いや、断然いい。

 階段を一段飛ばしくらいでかけのぼっていく時期がある。もちろん、それはずっと続かなくて、たいていペースが落ちたり、それまでの疲れがどっと出たりするわけだけど、それを乗りこえた後に新境地がある。

 今おもうと『さみしいだけ』を作っていたころの前野さんは、そういう時期だったのかなあという気がした。

 年末に松江哲明監督の『ライブテープ』(前野健太ゲリラライブドキュメント映画)の公開も決まったという。いいニュースだ。

2009/08/21

脱貧困の経済学

 飯田泰之、雨宮処凛著『脱貧困の経済学』(自由国民社)という本を読んだ。

 経済学は、ある種の倫理の問題をふくんでいる。とはいえ、潔癖な理念が通用するほど、甘くない世界であることもわたしの中では動かし難い実感になっている。大雑把に、清濁あわせもちながら「わるいようにはしない」というくらいが、落とし所なのではないか。

 この対談本では「個人が安心して暮らし」「様々な可能性へのチャレンジ」をすることができる「再配分政策」(最低賃金の引きあげやベーシックインカム)について語られている。

 読みながら「さすがにそれは無理だろう」とおもう箇所はいくつかあったけど、「無理だろう」とおもってしまう自分は、なぜ「無理だ」とおもってしまうのか、もう一巡してかんがえさせられる本だった。

 ものすごく簡単に図式化すれば、若い人が職につけず、働いても働いても貧乏にあえいでいる中、豪華客船で世界一周の旅をしているような裕福な高齢者がたくさんいる。もちろん、若者がわるいわけでもなく、自分が働いてきた貯めた金と年金で旅行をする高齢者がわるいわけでもない。

 でもなんとなく、釈然としないものがある。

 経済の話からズレるかもしれけど、飯田さんの「失敗するのも成功するのも、努力と運が半々ぐらいだということを、みんながもうちょっと理解しないといけない気がするんです」という言葉は、ほんとうにそうだとおもった。そうした意識なくして「公平な分配」を制度化するのはむずかしい。
 人々の意識を変えることは制度を変えるよりも厄介である。
 その困難をふまえた上で何ができるのか。

 はっとさせられたのは「人間はほっといても何となく器用になってしまう。仕事に慣れてしまう」ため、個人レベルでは「足るを知る」みたいな感覚でもなんとかなるのかもしれないが、ある程度は経済成長がないとかならずどこかにしわ寄せがいくという話。

 切実な問題を論じつつも、新鮮な知見が随所にちりばめられている。

《「財源はどこにあるんだ!」は質問封じとしては非常によくできています。
 しかし、「財源はどこにあるんだ論」には大きな見落としがあります。どうしても必要なこと、それによって社会を大きく改善していける政策ならば、財源は「作るもの」のはずです》

 一見、絵空事におもえるような議論の中に、希望の種を見出すことができた。  

2009/08/20

コラム等

 気がつけば、月末がさしせまっている。いろいろやることがあるはずだが、何も考えられない。
 読まなければいけない本を読まずに、今、読む必要のない本を読む。書かなければいけない原稿を書かずに、書いても書かなくてもいい原稿を書く。

 テレビのチャンネルをいろいろさわっていたら、NHKの衛星放送が映るようになった。理由はわからないまま、大リーグの試合などを観る。

 池袋の古書往来座に行き、松田友泉著『コラム等(ひとし)』(有古堂)を購入。五百円。表紙版画は下坂昇。

 この版画のことを語った一文——。

《寂蓼感がありながらも叙情のある、素朴な風景を、木に彫る事のできる、希有な作家だと、私は思ったし、単純に言うとすごく好みだった》

「山口昌男とベンジョンソン」というコラムは、タイトルからはまったく内容が想像できないけど、読みごたえあり。「洗濯の失敗」「銭湯」「カルシウム不足」「野菜不足」といった「生活」コラムもおもしろく読んだ。

 ブログ「正式の証明」で書いている文章よりも「途上感」がある。まだまだ、いろいろできそう。「どんどんやれ」とけしかけたくなる。

2009/08/17

批評のこと その十

 どこにも行かず、酒飲んで寝ているうちに、夏休みといえるような期間が終わってしまった。

 新しい知識を仕入れなくても、それなりにこれまでの蓄積と応用で生きていけるのではないか、というような錯覚に陥ることがある。ただし、蓄積と応用に甘んじていると、ある時期、ぱたっと文章が色あせる。文章がパターン化し、書けば書くほど、みずみずしさを失う。

 いっぽう書くことで自分の意識が変わった(ような気がする)という経験もこれまで何度かある。自分の書いた文章だけでなく、引用するために書き写した文章も含めて、言葉にひっぱられるような形で、すこしずつ、感覚や考え方が変わる。すぐにはその変化はわからない。すこしずつわかる。

《文章の結論がどこへ行くかわかってしまえば、自分でもおもしろくないですね。だからわかっていることはぼくはけっして書こうとは思わない。どうなるか楽しみなんだな。そのかわり、書いていくことと考えることがいっしょなんですよ。ぼくなんか書かなくちゃ絶対にわからない。考えられもしない》(「教養ということ」/『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫)

 田中美知太郎との対談で六十歳をすぎた小林秀雄はこんなふうに語っている。

 正解があるクロスワードパズル(ナンクロなど)にしても、当てずっぽうで升目に言葉をいれていくことでしか、次の言葉は見つからないようにできている。まちがえても、しばらくすると、つじつまがあわなくなることで、その言葉が不正解であることに気づく。

 わたしが考える「批評」、あるいは「生活的教養」もそうしたパズルの解き方にちかいかもしれない。パズルもやっているうちに、ある種のパターンがわかってくる。わかるとすぐ解けるようになる。すぐ解けると、つまらなくなる。

 ひょっとしたら、つまらなくなるのは、パターン化のせいかもしれない。生活のパターン化、仕事のパターン化、趣味のパターン化。パターンには、一定したパターン、変動するパターンがある。さらにパターンをどう変えていけばいいのか。あるいは変えないほうがいいのか。変えるとすれば、どのくらい変えればいいのか。

 小林秀雄と田中美知太郎の対談は、再読するつもりもなく、なんの気なしに再読した。そして(あくまでも自分にとっての)重要な問いに気づいた。

《小林 このごろは、ひところのように、いろんな条件をはっきり記憶して、ひとつの問題を考え抜くことが億劫になりましてね。考えるということは文体(スタイル)で考えるわけなんだけれども、なにかその辺で工夫はないものかと思っているんですけれど……
 田中 文章の問題といえば、プラトンの場合なんかも、六十歳くらいで文体がガラッと変わりますね》

 ふたりの対談は文体の話からはじまっている。
 さらに田中美知太郎は、「自分の文体があって、考えることがその文章の枠内に納まっちゃう。考え方を変えようと思っても、自分の書きなれた文章で考えるほうが楽なんだから」とも語っている。
 書きなれた文章というのもひとつのパターンである。そのパターンができあがるのには時間がかかる。時間をかけて作ったパターンを変えることは容易ではない。パターン自体に愛着があるし、自分の感覚や生理と不可分なものになっている。
 しかし、すぐに行き詰まってしまうような文体では、なかなか「ひとつの問題を考え抜く」ことができない。

 その後、小林秀雄が『本居宣長』を十数年にわたって書き続けることになるのだが、この執筆は「ひとつの問題を考え抜く」文体を作るための実験という意味合いもあったのではないか。ふとそんな気がした。

「批評とは何か」について考えているうちに、「文体とは何か」という問いが出てきた。

 書きはじめたころから、「その十」を区切りにやめようとおもっていた。どんどん収拾がつかなくなってきている。
 とりあえず今回でこのシリーズは完結する。続きは、タイトルを変えて、ときどき書くことになるとおもう。

 しりきれとんぼ、あしからず。

2009/08/13

批評のこと その九

 ここのところ、ずっと「批評」について考えている。わたしの関心事は「大正の」「昭和の」あるいは「近代文学の」といった前置を必要とする「批評」である。「構造」やら「記号」やらで作品を分析したり、解読したりする「批評」に興味のある人からすれば、かなり「時代錯誤」かつ「ベタ」な「批評」といわれるかもしれない。

 今では「批評」というジャンル自体、広く細かく分類されるような種類のものになっている。
 その世界から一歩外に出ると言葉が通じなくなる。
 それは「批評」の話にかぎったことではない。そもそも、むずかしくいおうが、わかりやすくいおうが、興味のないことには興味がない。

 かけだしのフリーライターのころ、よく「印象批評」を書くなといわれた。そういわれて、はじめて自分の文章が「印象批評」と呼ばれる種類のものだということに気づいた。
「印象批評ってなんですか」
「つまり、感想文ってことだよ」
 たしか、そんな会話をしたとおもう。
 今のわたしなら「感想文のどこがいけないのか」と反論するだろう。

「批評」の効用のひとつは、従来の読み方とはちがう新しい見方を提示し、作品や世の中の理解を深めるといったような意義がある。
 時代がすすむにつれ、「批評」は自分の生活や生き方に反映しない「知」のゲームのようなものになってきた。
 そうした「批評」にも読む快楽がある。読んでいると、複雑な世界が単純明解におもえてくる。

 時間が経つと、それが錯覚にすぎないこともわかってくる。

 自分の言葉の通じやすい世界から抜け出すこと。
 わかる人にわかればいい(長年、わたしはそうおもっていた)という考え方をあらためること。

《批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養に属するものだ》(「批評」/小林秀雄『栗の樹』講談社文芸文庫)

 小林秀雄は、今(というのは一九六〇年代半ばくらいのことだけど)の批評表現は複雑多様になっているが、それは批評精神の強さ、豊かさの証ではないという。批評家は「批評の純粋な形式」を心に描いてみるのは大事だといい、「自分のうちに、批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと努力するという、その事にほかならない」ともいう。

 なにをどう批評するのかをかんがえる前に、なぜ批評するのか、そこから考える(心に描く)必要がある。

(……続く)

2009/08/11

台風・地震・古本

 二日間、ほとんど家にこもっていた。からだがだるい。ときどき台風情報を見ながら、朝五時、ようやく仕事を片づく。

 よし、これで京都に行ける。

 そのとき、音を消してつけていたテレビに「地震が発生しました。津波に気をつけてください」というような緊急テロップが映った。
 とりあえず、本棚のそばをはなれる。それから十秒くらいして部屋がゆれた。

 ニュースに釘付になる。静岡で震度六弱。
 新幹線も東京−名古屋間で運転見合わせのようだ。復旧しても大混雑はまぬがれないだろう。

 下鴨古本まつりに行くことは断念した。
 とりあえず、このまま起きつづけて、BIGBOXの納涼古書感謝市の初日に行くことにする。

2009/08/08

ハチマクラ一周年

 高円寺のハチマクラが一周年を記念して「紙市」開催。一日遅れになるけど、わたしも九日(日)から古本を出品する予定です。

ハチマクラ紙市&チャルカのアジ紙バザール
●8月8日(土)〜16日(日)までの9日間
●時間 午後1時頃〜午後9時頃

(追記)
 下鴨納涼古本まつり。前日から行かなくても、当日のぞみで行くという道があることに気づいた。とにかくギリギリまであきらめないことにした。

 前野健太さんの「鴨川」をききながら仕事する。

仙台、七ヶ宿

 八月五日〜七日、仙台に。今回は遊びではなく、取材である。たとえ往復の交通費や現地での飲み食いで完全に赤字になったとしても、あくまでも仕事なのである。
 五日の夜は、火星の庭で小宴会。九月の仙台写真月間に伊東卓さんの写真展が開催されるそうだ。
 前野健一さんが作った「晴ーリー」の動画も見せてもらった。傑作。

 六日、宮城県刈田郡七ヶ宿へ。大きなダム湖があり、そこに沈んだある村のことを知りたかったのである。七ヶ宿町水と歴史の館にも行きたかった。この館に古山高麗雄さんの展示室もある。七ヶ宿は、古山さんのお父さんの故郷だった。

 現地までは前野さんに車で行く。さらに七ヶ宿在住(近辺かな?)の漫画家の小松里佳さんを紹介され、地元をいろいろ案内してもらった。
 七ヶ宿は想像していた以上に素晴らしいところだった。
(詳しいことは河北新報のエッセイに書く予定)

 夜、仙台に戻って、七夕まつりも見た。
 とりあえず、今回の旅の目的であった取材も終わったので、おおいに飲む。

 翌日、昼から東京で仕事があったのだけど、またしても前野家で熟睡してしまう。起きたら、テーブルに鍵が置いてあった。
 午後一時半。どうかんがえても、間に合わない。
 あきらめてというかひらきなおって、しかも新幹線はつばさの指定は満席だったので、やまびこに乗って、東京に帰る。

 夜、神保町で毎年恒例の飲み会があり、やはり仕事が一段落したのと、NEGIさんがいたので、多少、酔っぱらっても家に帰れるとおもい、かなり飲む。

 来週は下鴨の古本まつりに行きたいとおもっていたのだが、仕事が山づみでどんなに無理しても、間に合いそうにない。

 今回はあきらめることにした。

2009/08/05

批評のこと その八

 動く前に考えるか、動いた後で考えるか。
 同じ考えるでも、ずいぶんちがうのではないかとおもう。

 仕事をしていても、引き受ける前にいろいろ悩むのだけど、(後悔もふくめて)引き受けた後に悩むことのほうが、得たものは多い気がする。
 現実のきびしさを突きつけられて、わかることはバカにできないものだ。

 昔、ある人の文章で、フリーの仕事をするのであれば、一年分くらいの生活費をためておいたほうがいいというような話を読んだことがある。
 フリーの仕事は、収入も不安定だし、失業保険もない。それはそれで有効な助言だとはおもうが、すくなくとも、わたしのまわりには、そんな堅実な計画を立てて、フリーになった人間はいない。
 わけもわからずはじめて、わけもわからず貧乏して、人に助けてもらったり、アルバイトしたり、それでもやめずに続けているうちに、いろいろ仕事をおぼえる。自分の能力(才能)の不足をおぎなったり、ごまかしたりする術を身につける。
 ふりかえると、ほんとうに冷や汗が出るようなあぶなっかしい道を歩んでいる。

 そういいつつも、二十年前にフリーの仕事をはじめるのと今とでは、条件がちがう。今のほうが、たいへんだとおもう。
 それでも条件のよしあしにかかわらず、やる人はやるし、続ける人は続ける。

 若き日の小林秀雄は、「賭は賭だ、だから嘘だ」といっていたけど、結局、何かに賭けるしかない。賭けないという人生を選ぶことだって、賭けの一種といえる。

 小林秀雄に「青年と老年」(『栗の樹』講談社文芸文庫)というエッセイがある。

 正宗白鳥は「つまらん」というのが口癖だった。それでも「つまらん」といいながら、あきもせず、本を読み、物を見に出向いていた。
 そんな正宗白鳥のことを「『面白いもの』に関してぜいたくになった人」と小林秀雄はいう。

《私など、過去を顧ると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要のなかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなって、初めて人生が始まったように思うのだが、さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍すると言った惰性的な道を、いつの間にか行くようだ》

 四十歳を前にして、この文章を読み、ちょっと救われた気持になった。

 自分の感覚が鈍ったのが、好奇心が衰えたのか、あるいは「『面白いもの』に関してぜいたくになった」のか、何をしても、停滞感をおぼえることがふえた。
 若いころは、世間のかたすみでひっそり、好きなことを続けられたらいいなとおもっていたけど、年々、情熱の持続の困難さを痛感している。

 いろいろなものがつまらなくなっていく。
 自分がつまらなくなっていく。

 そうした気分から脱け出すには、どうすればいいのか。

(……続く)

2009/08/04

批評のこと その七

 自分の考えていることに一般性はあるのか。ないとすれば、どのくらいないのか。世の中と自分のズレ、しっくりこないかんじ、そういうものを埋めるために、本を読んだり、文章を書いたりしているところがある。

 ここ数日、大岡昇平著『中原中也』(講談社文芸文庫)を読みかえしていた。

 中原中也の亡くなって十年後、大岡昇平は山口県の中也の故郷をたずねる。
 そこで告別式のときに飾られた無帽背広姿の中原中也の写真を見る。そして中原中也にたいする考えが変わったという。

《生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人の姿がここにある》

 中原中也は、詩を書いたから詩人になったのではなく、詩人にしかなれないから、詩を書くしかなかったという詩人だ。

 大岡昇平は『中原中也』の中で「多分富永太郎宛の手紙の下書」という一行のあとの小林秀雄の文章が紹介している。

《雨が降る何処にも出られぬ。実につらい、つらい、人が如何しても生きなければならないといふ事を初めて考へたよ。要するに食事をしようといふ獣的な本能より何物もないのだな。又それでなければ嘘なのだな。だからつらいのだな。芸術のために生きるのだといふ事は、山椒魚のキン玉の研究に一生を献げる学者と、何んの異なる処があるのか。人生に於いて自分の生命を投げ出して賭をする点で同じぢやないか。賭は賭だ、だから嘘だ。世には考へると奇妙なセンチメンタリスムが存在する者だ》

 二十代のころ、わたしは小林秀雄のこの「手紙の下書」を引用したエッセイを書いたことがある。

 小林秀雄は、「新人論」を書けといわれ、「僕の身のうちに青春が感じられる限り、新人という名前は、僕の興味を惹かない。(中略)ほって置いても消え易い火に、何故水をかける様な事ばかりしているのか」(「新人Xへ」/『Xへの手紙・私小説論』新潮文庫)と語る。

「賭は賭だ、だから嘘だ」とおもう小林秀雄は、小説を書かなくなり、批評家になる。

 小林秀雄は「新人Xへ」で、いかに新しい批評方法を論議したとしても、その声は文壇を離れて遠いところまでとどくものではないというようなことも述べている。
 批評についてあれこれ考えていると「山椒魚のキン玉」という言葉が頭をちらつく。世の中の多くの人は、そんなものには興味がない。

 でも「人生に於いて自分の生命を投げ出して賭をする」ことは「嘘」なのか?

(……まだ続く)

2009/08/01

批評のこと その六

《自分の存在をかけない言葉が人を動かすはずはない》

 中村光夫のこの一文を読んだとき、わたしはそうかもしれないとおもった。しかし半分くらい釈然としない気持が残った。

 昭和の文人たちがどういう緊張感の中で小説を書き、批評していたのか。中村光夫の文章を読んでいると、そんなことも考えさせられてしまう。
 もちろん戦後の日本では、そこまでの緊張感はない。かつて「俗物」といわれることはかなりの打撃をあたえる批判ではあった。今の目で見れば、いったもの勝ちのレッテル貼りというかんじもしなくはない。

「ホンモノ」「ニセモノ」という評価の仕方もあった。
 はっきりと正統といえるものがないとこうした批評は成立しない。
 考え事をしていて、行き詰まったときに、古本屋に行くと、ちょうどいい助け船になるような本に出くわすことがある。
 仕事帰り、古書現世にふらっと寄ると、矢野誠一編『話がご馳走』(廣済堂出版、一九八五年刊)があった。
 目次を見ると、色川武大と太地喜和子、山本夏彦と結城昌治、神吉拓郎と品田雄吉といったゲストをむかえての座談会。この名前を見たら、読みたくなるというものだ。

 最初は、山藤章二と吉行和子がゲストの「男の笑い、女の笑い」。
 吉行和子がタモリ、ビートたけしの話を聞いているとちょっと緊張するけど、明石家さんまだと安心して聞いていられるというような話をしたあと、山藤章二が次のように述べる。

《山藤 いまの緊張という言葉が一つの目安みたいですね。プロというのは何となく緊張感を感じさせるところがあるでしょう。寄席がある程度の教養とか感性がないとプロの芸は味わえないという約束事があったりする。そういうのは若い子にはしち面倒なんですね》

 受け手側の変化。わかりやすさを求める。矢野誠一は、戦後まもなくの寄席で客席が笑うとガラスがゆれる、それがはっきりわかったと語る。今、どんなにおもしろいものがあっても、そんなふうには笑えない。
 笑いだけでなく、文学や映画もそうだ。今のように情報が飽和状態になると、言葉や文章にたいする飢えは、どうしても薄れてくる。

 ガラスがゆれるような笑いの話を読んで、わたしは二十年くらい前のライブハウスの様子をおもいだした。
 会場のまわりではケンカだらけ。鋲のついた服を着た客がごったがえし、客が酸欠で倒れて演奏中止。ステージに金網が張られているなんてこともあった。ライブのあと服はボロボロ、腕から血がたら〜。なんだったんだろうね、あれは。

 文芸への熱も、ある種の欠乏感、渇望感……飢餓感と無縁ではない。
 かならずしも、それはいいことばかりではない。いや、あんまりいいものではない。  

(……続く)