2025/10/13

西へ

 歌枕への興味から土屋文明著『万葉紀行』(筑摩叢書、一九八三年)を西部古書会館で買った。もともと一九四三年に刊行された本で何度も復刊している。『続・万葉紀行』(筑摩叢書、一九八三年)もある。

 十月九日(木)、三重に帰省。小田急で新宿駅から小田原駅へ。小田急に乗っている間、東海道の宿場のどのあたりで降りるか考える。

 JR小田原駅から東田子の浦駅で途中下車。同駅に降りたのは人生初だ。家を出たときはまったく降りるつもりはなかった。富士山は雲がかかっていて見えなかった。
『万葉紀行』でも田子の浦(田児の浦)の章がある。土屋文明は清水駅で降りている。

《田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は零ける》

 わたしは東田子の浦駅から柏原海岸のほうに向かった。歌枕の「田児の浦」の場所は今の田子の浦と同じなのか、そうでないのか。そうでない説もいろいろある。このあたり陸路は難所が多く、船で移動し、海上から富士山を見たのではないかという説もある。
 東海道そのものが古代中世近世と経路が変わっている。現代に至ってもそう。

 そのあと旧東海道を歩く。途中、合の宿柏原を通った。車の交通量多し。

 夕方、JR吉原駅に到着する。田子の浦港周辺をすこし歩く。岳南電車に乗りたかったのだが、またの機会にする。浮島ヶ原の北にある根方街道も歩きたい。

 新幹線の駅——「なぜここに?」とおもう駅がいくつかある。新富士駅もそう。東海道本線+身延線が合わさる富士駅が新幹線の駅だったら、利用者はもっと増えるのではないか。気になってインターネットで検索したら宗教絡みの情報(真偽不明)が……。
 JR吉原駅から在来線で静岡駅まで行き、途中下車。駅近くの金券ショップで新幹線(自由席)のチケットを買い、名古屋駅へ。この日は寄り道せず、郷里の鈴鹿の家に帰る。

 十日(金)、母と港屋珈琲でモーニング。だし巻き卵のサンドイッチ(プラス百円でトーストから変更できる)が絶品だった。家の掃除。昼、歌行燈鈴鹿店に行く。桜海老のうどんのセット。前日の疲れが残っていたので家でごろごろする。テレビで自公連立解消のニュースを見る。連立二十六年。二十六年という年月を長いと見るか、そうでもないと見るか。

 十一日(土)、朝八時台のバスに乗ってJR関西本線の加佐登駅に行く。交通系ICの関係で亀山駅で一度改札を出て入り直す。
 JRの小田原駅から東田子の浦駅で降りたときもリモートで精算した。いつになったらこのシステムは改善されるのか。

『万葉紀行』には「大和から伊勢への大道は、万葉時代には鈴鹿すなわち加太(かぶと)と阿保の二つがあった」と記されている。

《鈴鹿加太は伊賀の柘植から伊勢の関に越えるもので、後の鈴鹿峠は万葉の時代にはまだ開かれてなかったとのことであるが、阿保は伊賀の阿保から伊勢の一志郡河口に越えるもので、今は青山峠と呼ばれている》

 関西本線は亀山駅から柘植駅までの間に加太駅を通る。万葉のころのルートと近い。
 柘植駅で草津線に乗り換える。草津線の電車が来るまで二十分以上あったので駅の外に出る。柘植駅は三重県で最初に開業した駅らしい。ちょっと意外である。
 柘植駅の外、小雨で霧が立ち込める。柘植、いつも霧。寒い。柘植は東海自然歩道、大和街道などが通っている。このあたりは横光利一が少年時代を過ごした地でもある。横光利一文学碑、横光公園あり。あと芭蕉公園もある(芭蕉も伊賀の生まれ)。

 柘植駅から草津線に乗ったところ、曇り空にもかかわらず、後から座った乗客がいきなり日除けのブラインドを下ろした。柘植駅〜草津駅間の車窓を楽しみにしていたので「すこし開けていいですか」とお願いする。

 草津駅から新快速に乗り、大津駅で途中下車し、京阪のびわ湖浜大津駅まで歩く。昼前だったが、大津祭の曳山などを見かけた。琵琶湖を見る。東海道本線と京阪の乗り換えは石山駅(京阪石山駅)のほうが楽なのだが、大津をすこし歩きたかった。
 三条京阪駅から出町柳駅。それから叡山電車で一乗寺駅。恵文社一乗寺店の「ノアの50年」に参加する。編集工房ノアの創業五十周年イベント。わたしも記念冊子に執筆した。涸沢純平さん、山田稔さんのトークイベントを聞き、そのあとの打ち上げも参加した。

 夜八時台の新幹線(のぞみ)で東京に帰る。二十分後のひかりまで待とうかと考えていたのだが、ホームに止まっていたのぞみが空いていて座れた。座ってすぐ熟睡してしまい、起きたら静岡駅だった。

2025/10/08

三十六

 高円寺に移り住んだのは一九八九年十月中旬。かれこれ三十六年。干支三周。若いころの社会不適応は、年をとり、すこしずつ改善してきた自負があるのだが、今度は時代不適応になりつつある。無人レジで同じ商品のバーコードを二度読み込み、店員を呼んでやり直すみたいなことをしょっちゅうやってしまう。インターネットで何かを予約する——そういうのも苦手だ(なぜか途中から先に進まなくなる)。

 それでも五十代半ば(来月五十六歳)までどうにかこうにか生きてきた。年をとるにつれ、自分の凡庸さを受け入れ、淡々とした日々が送ることに喜び……とまではいかないが、そんなにわるくないとおもえるようになった。

 自分が常に進歩や革新性を目指す人間だったら、三十歳前後で行き詰まっていたにちがいない。同じことをくりかえす。一見、退屈におもえることの中にも何らかの面白味はある。
 わたしには同じ本やレコードを百回くらい読んだり聴いたりしても飽きない。日課の散歩にしても、たまに知らない道を散策することもあるが、行き先も数パターンでたいてい同じ道を歩く。でも飽きない。

 若いころから何度も読み返している山本周五郎著『青べか日記』(大和書房、一九七一年)に「金銭について」というQ&A形式の文章がある。

 勤倹貯蓄について訊かれ、周五郎は「美徳でもなんでもないと私は考えます」と答える。
 美徳とはおもわないが、否定もしない。貯金だろうが何だろうが、その人が情熱を持って打ち込んでいることがあるなら、他人の評価は余計なことだ——というのが周五郎の意見である。

《たとえば蚤のサーカスというのがありますが、蚤をあそこまで訓練するということを考えると、だいたいならば、その馬鹿馬鹿しさにあきれるだろうと思います。この場合、爪に火をともす生活と、蚤のサーカスをこしらえることは、決して区別すべき問題ではないんで、人間がある一つのことに情熱をついやすということになれば、それは金を貯めようと蚤のサーカスをつくろうと同じだと考えます》

 有益か無益かはどうでもいい。自分が面白いとおもえることに打ち込めるかどうか。ただ、趣味を続けるにも金がいるし、健康も大切である。だから仕事もすれば節約もする。節酒もする。

 二十代半ばの不遇だったころの周五郎は「遊べ、三十六、急ぐな。いくらでも遊ぶが宜い」(「青べか日記」)と自分に言い聞かせるような言葉を日記に書いている。「三十六」は周五郎の本名清水三十六の「三十六(さとむ)」。

「遊べ」「急ぐな」のあと、しばらくして父に金を借りている。そこもよし。

《昨日は東京から本屋を招いて蔵書を売払った。八拾円の金が手に入った。借金を支払えば残りは僅かである》

 三十六青年はしょっちゅう本を売っている。親近感がわく。 

《金が欲しい 食える丈の金欲しい》 

 名著である。

2025/10/03

新宿まで

 月末しめきりの原稿を一本書いて、次の仕事に取り掛かる前に頭を切り替えたくて東高円寺まで散歩する。途中、天祖神社に寄る。涼しい。歩いているうちに体が軽くなってきたので前から気になっていた青梅街道のひとつ南の道を散策することにした。新渡戸文化学園の南、杉並区和田三丁目から中野区本町六丁目あたり。杉並区と中野区の区境がある。そこからさらに南に行くと善福寺川と神田川の合流地、東京メトロ丸の内線の中野富士見町駅がある。

 地図は持ってこなかったが、新宿方面に歩いていけば、どこかで神田川に辿り着くだろう。その先は青梅街道に出てバスで帰るか、そのまま新宿まで歩いて電車で帰るか。どちらでもいい。

 青梅街道のひとつ南の道はとくに名前はない。でも道幅が旧街道っぽい。昔の参道なのかもしれない。歩いているうちに鍋屋横丁の手前まで来た。もう一本南に行けば、十貫坂もあるが、そのまま東に進む。
 居酒屋が何軒かある。ヤマザキショップ中野本町はコンビニだけど、昔の個人商店みたいな感じだ。そのまま東に行くと本町卓球場、中華料理店……。住宅街だとおもっていたが、意外と店がある。
 しばらく歩くとパンダのある広場があった(家に帰って地図を見て、名前を知る)。そこから道がすこし斜め(南東)になり、なんとなく東に向う。東京メトロの中野坂上駅界隈を通り、神田川(相生橋)に着いた。
 東京メトロの中野坂上駅周辺(山手通りと神田川の間あたり)、細い路地が無数にある。この日は相生二番坂通り、相生通りを歩いた。
 他にも下本郷通り、本一通りなど、斜めの道がある。暇なときにふらふら歩きたい。

 相生橋から十二社通りを過ぎ、西新宿へ。
 そこから青梅街道に出て、新都心の歩道橋を渡る。夕方四時、新宿西口ハルクからドコモタワーを見る。

 高円寺駅あたりからの歩数は一万歩ちょっと。高円寺〜西新宿は年に何回か歩いている。東高円寺から先は知らない道がけっこうある。

 新宿駅から総武線で高円寺に帰る。今回の散歩は二時間くらい。深夜、飲み屋で本町卓球場の話をしたら、店主もカウンターの常連さんもみんな知っていた。映画のロケに使われたという話も聞いた。映画の名前は忘れた。