2019/04/30

平成の終わり

 土曜日、西部古書会館。初日。大型連休……は関係なし。仕事、時々、酒。日曜日、西荻窪Clop Clopでペリカンオーバードライブのライブ。ペリカン、二十年くらいライブを観てきた。平成最後のライブ(わたしにとって)。

 仕事のあいまに橋本治の本を読み返す。『貧乏は正しい!』(小学館文庫)はすごい……というか、二十代のときにこの連載を読んでいなかったから、まったく別の人生を送ることになったとおもう。

《技術というのは、身につけることがしんどいだけではなくて、それを維持し続けるというのもまた大変なものなのである。そういうことを忘れると、かつては魅力的な技術を持って輝いていた人間も、いたって安易な“つまんない人間”になる。安易なものはつまんなくなって、つまんないものは、魅力をなくして、結局みずからの墓穴を掘るという悲劇だけが待っている》

 この文章は一九九〇年代前半の若者雑誌(マンガ雑誌・グラビア雑誌)とその読者にたいする警鐘である。
 橋本さんによれば、当時のライター(の多く)は“なんにも言えないでヘラヘラ笑っているやつ”に変わってしまったらしい。読者もそう。

《人間というものは、訓練というものを必要とする生き物で、言うべきことをさっさと、しかも簡単に言うなんてことは、ちっとやそっとじゃ出来ない。なかなか言えなくて、グダグダグダグダしているという状況をへて、それを克服して、やっとまともなことが言える人間になる。肝心なことをあっさり言うためには、「くどくどしか言えない」という危機状況を乗り越えるしかないんだ。そしてきみらの最大の悲劇は、この“訓練の段階”を奪われていることにある》

 一九八九年にフリーライターをはじめたわたしは最初から危機に直面していた。書きたいものが書かせてもらえない。文章がヘタだったからというのもあるが、「(無名の書き手の)意見はいらない」という方針の編集者が多かった。今もそうかもしれない。
 ライターとしては「内容はないけど、読ませる」というのは褒め言葉でもあるのだが、そんな文章ばかり書いていたら“なんにも言えないでヘラヘラ笑っているやつ”になってしまう。

 二十代のころ、時代に適応せず(できず)、フリーターをしながら古本ばかり読んでいた。
 ライター生活も三十年。「言うべきこと」を書けるようになったのか。

2019/04/25

香川にて

 土曜日、新幹線で新神戸に行き、三ノ宮からジャンボフェリーで高松へ。ジャンボフェリー、値上げしていた。船旅、楽しい。桟敷席でごろごろしているうちに、港に着く。船で港に到着すると「旅をした」という気分になる。まったく疲れない。
 高松は行くたびに好きになる。人も空間もどことなくゆったりしている。季候もいい。
 玉藻公園に寄って、琴電で仏生山。仏生山温泉に入る。
 翌日、丸亀の金毘羅街道、琴平界隈を歩く。丸亀に行くのは、はじめてだった。骨付き鶏をはじめて食べる。金毘羅街道、素晴らしい。古い建物がたくさん残っていて、あちこちに灯籠がある。

 夜、本屋ルヌガンガで『些末事研究』を発行している福田賢治さんとトークショー。福田さんに難しい質問を連発され、答えに窮す。
「なぜ書くのか」という話になったのだが、自分でもわからないのだ。昔から書かないと頭の中だけで考え続けることができなかった。
「読者を意識するか」という質問もむずかしく、うまく答えられなかった。
 福田さんは同世代で『思想の科学』の最後のほうに関わっていて、当時はすれ違いだったのだが、鶴見俊輔さんの影響を多大に受けたという共通点がある。

 もともと福田さんは中央線沿線に住んでいて、高円寺の飲み屋で知り合ったのだが、四年ほど前に高松に移住している。
 イベント中、しどろもどろになっている時間が続いたが、最後のお客さんの質問で自分のいいたかったことがすこしいえた気がした。
 トークショーのあと、帰りの電車で読む本がほしくなり、橋本治著『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』(朝日新書)を買う。帯の「追悼 橋本治」の文字を見て、あらためて橋本さんの不在を痛感する。

 鶴見俊輔もそうだが、橋本治も百年、千年という大きな時間の幅の中でものを考えられる人だった。『鶴見俊輔対談集 未来におきたいものは』(晶文社)に鶴見さんと橋本さんの対談が収録されている。初出は『広告批評』の二〇〇二年一月号。

 打ち上げで酔っぱらう。終電がなくなり、瓦町から仏生山まで二時間ほどかけて歩いて帰る。LEDライトが役に立つ。
 翌日、JR高徳線で引田、それから徳島港に行き、南海フェリーで和歌山へ。フェリー+和歌山港〜なんばまで二千円の切符がある。大阪の梅田街道をすこし歩き、新大阪から新幹線で東京に帰る。

2019/04/18

連休進行中

 火曜日、新橋で取材(インタビューを受ける)。
 そのあと日比谷公園を通り、東京メトロの霞ヶ関駅から丸ノ内線で新高円寺駅に帰る。地下鉄だとJRより百円ちょっと安い。
 東京はすこし歩くと交通費が安くなるルートがたくさんある。これまでは百円ちょっとの差なら最短ルートを選択しがちだったが、街道歩きをはじめてからは遠回りが苦にならなくなった。というか、むしろ楽しい。

 何年か前に猪瀬直樹が都知事だったころ、東京メトロと都営地下鉄の料金を一本化する案が浮上していたのだけど、あの話は流れてしまったのか。一本化されたら、都内の移動がずいぶん楽になるのだが。
 それからいつの間にかJRの回数券が新幹線の切符と同じサイズになった。これは改悪だとおもう。

 連休進行(出版業界では大型連休前はしめきりが一週間くらい早まる傾向がある)。仕事中、一球速報でヤクルト阪神戦をチェック。延長十二回引き分け。両チーム勝ちの譲り合い。疲れて仕事にならず。目先の勝ち負け、順位に一喜一憂せず、淡々とペナントレースを楽しめればいいのだが、それができない。

2019/04/13

電車の話

 水曜日、神保町帰り。雨。寒い日。地下鉄に乗っていたら、男性(たぶん五十代前半くらい)が乗ってきた。しばらくすると男性はびしょ濡れの折り畳み傘を網棚の上に置いた。網棚の下に座っていた女性の服や鞄にポタポタと水滴が落ちてくる。女性は茫然としていた。男性はすぐ傘を網棚から降ろしたが、一言も詫びず、その場を立ち去った。

 男性はたまたまうっかり濡れた傘を網棚に置いてしまったという可能性もある。水滴が落ちたことに気づいて、すぐ逃げたということは、たぶん悪気はなかったのだろう。
 水滴の被害の女性は黙って濡れた鞄を拭いていた。
 もし自分が濡れた傘の下に座っていて古本を読んでいて本の上に水滴が落ちてきたら……と考えたら平静を保つ自信がない。かといって、追いかけて文句をいうこともしないかもしれない。自分が被害者ではないが、もやもやする。

 話はズレるが、満員電車でリュックなどを前に持ったり足元に置いたりするというマナーはそれなりに浸透した。それでもかなり混んでいる電車の中でもリュックを背負った人は一定数見かける。
 すこし前、夕方、満員の中央線で山登り帰りとおもわれるおじさんがデカいリュックを背負ったまま乗ってきた。電車が揺れるたびにまわりの人にリュックが当たる。周囲の人はリュックを押し返したり、小声で「なんだよ」と呟いたりしていた。
 それでもリュックおじさんは平然としている。強心臓というか鈍感というか。こういう人は満員電車でリュックを背負ったままだと邪魔とおもわれることに、どのタイミングで気づくのか。それとも気づかず一生を終えるのか。

 あと電車の中でイヤホンで音楽か何かを聴きながら、咳払いをくりかえす人がいる。自分は周囲の音を遮断し、まわりに不快な音を聴かせるという行為はずるい気がする。

2019/04/08

怠惰の技法

 日曜日、哲学堂公園に散歩。中野から新井薬師を通り、満開の桜を堪能する。哲学堂、久しぶりに行ったのだが、高低差があって面白い公園だ。花見客もほどよいかんじでのんびりできた。
 帰りは沼袋の氷川神社を通り、野方方面に歩いて高円寺に帰った。

◎今月、香川県高松市の本屋ルヌガンガで『古書古書話』(本の雑誌社)と『些末事研究』第四号の刊行記念の「怠惰の技法 創作の技法」というイベントを開催します。

日時 :4月21日(日) 19:30 – 21:00
場所 :高松市「本屋ルヌガンガ」 〒760-0050 香川県高松市亀井町11−13
参加費:1500円(1ドリンク付) 
定員 :30名

『些末事研究』は創刊号から座談会に参加していて、仕事や生活のことなどを喋ってきた。今回のトークショーのテーマの「怠惰の技法 創作の技法」となっているが、わたしは常々、怠けたり、休んだりしないと仕事もうまくいかないとおもっていて、その考えが正しいと主張するつもりはないが、「労働時間の長さ」だけが評価される世の中はちょっと変だよなと……。

 わたしは就職したことはないが、一時期、一つの職場に長時間拘束されて、家に帰って寝るだけの生活を送ったことはある。疲れてミスをくりかえし、本を探す時間も読む時間もなく、人とも会う時間もなく、旅行もできず、やることなすことうまくいかなかった。
 自分がフリーランスという働き方を選んだのも時間がほしかったというのが大きな理由だ。

 何か企画を考えようとおもったら、一人の時間は必要だとおもうし、遊ばないとおもしろい(とおもう)ことが浮んでこない。自由業の場合も雑務はたくさんある。手を動かす時間だけでなく、いろいろなことを調べたり、考えたりする時間も必要だ。
 さらにいうと目先の仕事と関係ないことをする時間もほしい。そういう時間がないと次の仕事につながらない。

 仕事はいわゆる適性——向き不向きを重視したほうがいい。
 陸上でいえば、短距離と長距離でそれぞれ得意なタイプが分かれるように、仕事のやり方もそういうところがある。
 週五日コンスタントに働くことが合っている人もいれば、週三日くらい集中して働いて後はだらだらしたほうがいいという人もいるだろう。
 共同作業が得意な人、一人でこつこつ働くのが得意な人もいる。
 一日の労働時間にしても短距離型の人はけっこういるはずだ。わたしは三十分おきくらいに休憩しながら働くのが好きだ。

 どんな話をするかはまだ決めてないが、四十代で東京から高松に移住し、半農生活を送っている福田さんの話もいろいろ聞いてみたいと……。

2019/04/04

ヒップとスクエア

 三月末、豊橋まで新幹線、あとは青春18きっぷであちこち寄りながら、京都へ。ホホホ座で橋本倫史さんの『ドライブイン探訪』(筑摩書房)のトークショー。
 本も素晴らしいが、取材の仕方もおもしろい。
 今、多くのライターは取材費に困っている。取材費を稼ぐために仕事をしているようなところがある。取材すればするほど赤字になる。
 トークショーのあと扉野良人さん宅に泊めてもらい(『些末事研究』の福田賢治さんもいっしょ)、翌日、メリーゴーランド京都店の古本市に寄り、三重に帰省する。

 途中、近鉄の青山町駅で途中下車し、初瀬街道を歩いたのだが、泣きたくなるほど寒かった。気温五、六度。しかも快晴の空が一転して雨。山の天気は目まぐるしく変わる。
 ここのところ、街道歩きは雨ばかりだ。
 郷里の家に二泊し、青春18きっぷで東京に帰る。

 旅行中も植草甚一の「ヒップ」と「スクエア」の問題を考え続けた。

《なにか楽しいゲームをやりましょう。仲間に入れてあげるけどルールはちゃんとまもっておくれ。そうしないとヒドイ目にあうぞ。これがスクエアの世界であって、みんながビクビクしながらリーダーのいいなりになっている。そこから制度が生まれ、政府や教会や保険会社や電話局ができあがった。そしてそういういろいろな施設がスクエアを保護し、そのなかで彼らは生活をエンジョイしている。
 だからヒップのほうでは、なんというつまらない生活だろう、と考えるようになるのだ》

「サブカル」と略される以前のサブカルチャーは、政治におけるスタンスだけでなく「世俗に染まらない」「多数派の価値観に順応しない」というスタンスもあった。
「ヒップ」は、ヒッピー、ヒップホップの語源でもある。

 今は「ヒップ」と「スクエア」といった対立軸そのものが曖昧になっている。「スクエア」の一員として安定した生活を送り、「ヒップ」なカルチャーを消費するのが「クール」……というのが皮肉にならないくらい時代風潮は変わってしまった。