2019/12/31

歳末雑感

 年末の土日、西部古書会館。そのときそのときの関心や体調によって買う本も変わってくる。何がしたいのかわからなくなったとき、買った本に教えられることもある。

 古本ではなく、昨年、新刊で買った本だが、山本周五郎著『また明日会いましょう 生きぬいていく言葉』(河出書房新社)を再読する。

《十二月になると一日一日に時を刻む音が聞こえるようである》(年の瀬の音)

《また年末が来たには閉口する》(歳晩雑感)

 周五郎先生の年末随筆、いいぼやき節だ。

「無限の快楽 書物と人生」という随筆を読み、「周五郎流の読書こそ自分の歩むべき道だ」と目の前がぱっと明るくなった気分になる。

《私の読書は無系統で乱脈で、まったくもう(妄)読というにひとしいが、学者になるわけではないから、好きなものを読むという自由だけ確保してゆくつもりである。特にこのごろは自分の生涯の「持ち時間」が少なくなりつつあるので、読むにも書くにも、その時間とにらみ合わせるようなぐあいだから、どちらも「好きなもの」を選ぶ、という自由と権利は譲りたくない》

 その日読みたいものを読む。すこし前に自分の「偏り」みたいなものが気になって、もうすこしバランスをとるようにしたほうがいいのではないかと悩んでいた。しかしバランスをとることにエネルギーをつかいすぎて、読みたい本すら読めなくなるのはまちがった生き方といえる。今年やろうとおもってできなかったことがいろいろあるが、気にしないことにする。

2019/12/27

ああ眠い。

 すこし前に西部古書会館で永倉万治著『屋根にのぼれば、吠えたくなって』(毎日新聞社、一九八八年)を買った。角川文庫版は持っていたが、単行本も欲しくなったのだ。帯付の美本だった。二百円。『サンデー毎日』の連載だったんですね。

 永倉万治は一九四八年一月生まれだから、この本が出たころ、四十歳。連載時期は三十代後半だった。
『屋根にのぼれば、吠えたくなって』で一番好きなエッセイは「眠い。ああ眠い。」だ。

《なんでもいい、うんざりするくらい眠って、のん気に暮らしながら、しかもぼう大な仕事をやれる方法があったら知りたい。いやそうじゃないな。仕事はほとんどしないで、楽しく暮らす方法はないか。結局、いつでもそのテーマに降りていってしまう》

 このテーマに関してはわたしも二十代半ばから四半世紀ちかく思索を続けている。裕福な暮らしは望まない。食べていければいい。自分のペースで働いたり、休んだりしたい。ただ、その塩梅というか匙加減というかバランスがむずかしい。
 三十歳のころは四十歳になったら、四十歳のころは五十歳になったら、そういう生活を送れるようになることを望んでいた。
 好きな時間に寝て起きて、気が向いたときにちょこちょこっと仕事して、夜は近所の飲み屋に行って、眠くなったら寝る。そんなかんじで生きていけないものかと……。

 ほかにも永倉万治は「眠ること」や「休むこと」をテーマにしたエッセイを何本か書いている。

 睡眠と休息は、エッセイにおいて重要なテーマである。今日わたしはそのことを確信した。

2019/12/20

独居と余生

 昨晩、飲みすぎ。起きたら午後三時。冬至が近いせいか、夕方四時すぎで、すでに外が薄暗い。久しぶりに丸の内の丸善に行く。中野駅まで歩き、東京メトロ東西線——電車の車内の半分近くの人がマスクをしている。風邪、流行っているのか。車中、都築響一著『独居老人スタイル』(ちくま文庫)の川崎ゆきおのところを熟読する。

《派手に売れたことがないからな。落ちても気楽なもんやで(笑)》

「タバコ代と喫茶店代、それをキープできとったら、なんとか」というふっきれ方が清々しい。
「独居」に焦点を当てているのだが、「老人」と呼ばれる年齢になるまで歌を唄ったり、絵を描いたり、勝手気ままに好きなことを続けてきた人たちの暮らしぶりは、正直、羨ましい。同時に、家賃問題を考えさせられてしまう(この本に登場する独居老人は実家住まいの人が多い)。
 家賃のこともそうだが、とにかく支出が少ない。お金をほとんどつかわないから、そんなに働く必要がない。だから時間がたっぷりある。その時間を存分につかって、他人の評価に左右されない創作(表現)に打ち込む。
 創作の欲求はあっても、(おそらく)作品を多くの人に知ってほしい、共感してほしい——というような欲求がない。
 そうなれたら楽なのだろうか、それとも……。

 そんな考え事をしているうちに大手町駅へ。丸の内オアゾの水山で水山ちゃんぽんうどんを食べるつもりが閉店していた。

2019/12/09

貼るカイロ生活

 十二月、腰に貼るカイロの日々。木曜日、昼すぎ散歩に出かけたら、西部古書会館で歳末赤札古本市が開催中だった。コンビニのコーヒーを買って帰ろうとおもって家を出たくらいの気楽な散歩だったから、財布の中に二千円ほどしかなく、欲しい本がいっぱいあったが、抑え気味に古書会館を後にした。
 井出孫六の『峠 はるかなる語り部』(白水社、一九八四年)は収穫だった。『歴史紀行 峠をあるく』(ちくま文庫、一九八七年)も面白かったが、『峠』はそれ以上によかった。

《北国街道と別れて、中山道は追分の先で西に向うが、その辺りから和田峠にいたる沿道には、小田井、八幡、望月、芦田など随所に旧い宿場のおもかげがとどめられており、わたしの好きな道だ》

 井出孫六は信州の佐久盆地の出身である。佐久市は宿場町がたくさんある。子どものころから街道になじんできた。

 ほかにも『日本百名峠』(桐原書店、一九八二年)など、七〇年代後半から峠を攻めている。井出孫六は自腹、もしくは何か他の仕事のついでに峠を取材していた。見習わねば。

 土曜日、再び古書会館。三月書房の福原麟太郎の随筆集などを買う。福原麟太郎の随筆集は本のあいだにスクラップやハガキ、図書申込書などがはさまっていた(個人情報だだ漏れ)。

 萩原恭次郎の『死刑宣告』の復刻本も木曜日に古書会館で見かけていて、残っていたらほしいとおもっていた。残っていたので買った。デザインがすごい。

 仕事の合間、板倉梓の『タオの城』(芳文社コミックス)を読んでいたら、ヒロインが「あたしミルクティが飲みたいわ タピオカ入りの」というセリフがあった。二〇一二年の作品なのだ。天才か。

2019/12/04

年譜の話

 十二月になった。けっこう暖かい。一日の半分くらいはコタツで仕事か読書という日々を過ごしているが、電源はほとんど切ったままだ。

 講談社文芸文庫の木山捷平の年譜であることを調べていたら、自分の記憶に残っていた記述が見つからない。同じ文芸文庫の『落葉・回転窓』の年譜を見たら、あった。

《一九五六年(昭和三一年)五二歳
 囲碁を始め、生涯の趣味となる》

『木山捷平全詩集』の年譜には、この囲碁に関する一文がなく、その年発表した作品(「耳学問」など)のことや山梨県の増富鉱泉に行ったことが記されている。
 こうした「小発見」はちょっと嬉しくなる。
 今回あらためて木山捷平の年譜を見てみると、五十二歳以降に小説の代表作を書いていることがわかった。

 囲碁の効果なのか。

 五十代になって「生涯の趣味」をはじめるのもわるくない。

2019/11/29

夜の散歩

 水曜夕方神保町、神田伯剌西爾でマンデリン。JR中央線お茶の水駅から高円寺を通過して西荻窪の音羽館へ。村上文昭著『耕治人とこんなご縁で』(武蔵野書房、二〇〇六年)などを買う。耕治人は野方に住んでいた。野方は西武新宿線沿線だけど、高円寺からも徒歩圏内である。

 耕治人が亡くなったのは一九八八年一月。享年八十一。
『耕治人とこんなご縁で』には、著者以外の追悼文もいくつか収録されている。斎藤国治の「耕治人君と『丘』」にこんな一節があった。

《西武野方駅からそう遠くない耕君のお宅には一度だけお邪魔したことがある。静かなお住まいで奥様はお元気でおられた。野方は福原麟太郎先生がおられたのですぐ判った。あの頃の耕君はご夫妻ともお元気であった》

 一年くらい前に西部古書会館で買った福原麟太郎のあるエッセイ集に本人の名刺が貼られていたことがあった。その住所も野方だった。こういうのはちょっと嬉しい。
 福原麟太郎には『野方閑居の記』(新潮社)という函入りのきれいな本(野口弥太郎装丁)もある。
 福原麟太郎は一九八一年一月没。享年八十六。

 ひまなときに野方を散策したい。

 話は変わるが、音羽館の帰り道——北口から南口に抜け、荻窪まで歩いてささま書店に寄って高円寺に帰るつもりだった。
 神明通りという明るい道があり、荻窪駅方面のバスが走っていた。南東に斜めの道で荻窪駅からは確実に遠ざかっている気がしたが、そのまま歩く。
 しばらく歩くと大宮前体育館というところに出た。このあたりでバスが左折している。地図を持たず、夜の道を歩いていると不安になる。方向感覚がわからなくなる。適当に斜めの道を歩き、適当に曲る。すると与謝野公園に出た。与謝野鉄幹、晶子夫妻はかつて荻窪に住んでいて、すこし前にその終の住み処が公園になっていることを知って、何かのついでに行ってみようと考えていたのだが、まさか道に迷って夜の九時前にたどり着くことになるとはおもわなかった。

 結局、ささま書店の営業時間までにはたどり着けず、そのまま高円寺まで歩き、ペリカン時代で飲む。
 店に入ると根岸哲也さんとその親族の方々が飲んでいて、橋本治の杉並の実家の話を聞かせてもらう。近所だったらしい。

2019/11/25

知命の書

 今週五十歳になった。ここ数日、自分以外の人が五十歳くらいのころに書いた文章を読み返していた。

 久しぶりに古書善行堂の山本善行さんの『古本のことしか頭になかった』(大散歩通信社、二〇一一年)を手にとる。山本さんは一九五六年生まれ。この本で永田耕衣のエッセイ集を知って古本屋で探したけど、見つからず、そのまま忘れていたことをおもいだした。
 それにしても五十代に入ってからの古本熱がすごい。

《私の場合このように古本を買うことで自分を支えているみたいなところがあって、だからここのところが崩れると精神的にも苦しくなる。最近どういうわけか自分を支えすぎて(本を買いすぎて)、家に置けなくなり、こっそり実家に本を運んでいたのだが、それがとうとう見つかってしまったのだ。「二階の底がぬけるがな」と怒られたのだ。父は素人(?)なので、どのくらいの本で底が抜けるかわからないのだ》

 二〇〇六年三月の記。山本さんが古本屋をはじめるのはその三年八ヶ月後か。

 わたしが『sumus』に参加したのは二〇〇〇年の春——三十歳のときだった。山本さんや岡崎武志さんが当時四十代の前半で「四十代になっても、一冊百円するかしないかの本でこんなに一喜一憂できるのか」と畏敬の念を抱いた記憶がある。

 昔からわたしの古本熱には波がある。今年は仕事部屋の引っ越しもあり、夏以降今に至るまで、おもうように本が買えない状態が続いている。本の置き場所がもうないですよ。地方の格安の平屋の家を買うか、蔵書を売るか。ほかの選択肢はないか。天命を知るといわれる齢になっても迷いまくっている。

『古本のことしか頭になかった』のあとがきは何度読んでもいいなあ。頭がおかしい。

2019/11/18

あと何年

 吉行淳之介は習作のころから島尾敏雄を愛読し、高く評価していた。
 吉行淳之介著『犬が育てた猫』(文春文庫)に「島尾敏雄のこと」「島尾敏雄の訃報」のふたつのエッセイが収録されている。

 何かの雑談中、「ここまでくれば、もう粘るしかないな」と吉行がいった。島尾敏雄はその言葉を気にいり、その後、挨拶代わりに会話にまぜてくるようになった。そんなエピソードを綴る。
「粘るしかないな」といった時期は定かではないが、島尾が亡くなる「六、七年前」の雑談らしいから、吉行は五十五歳くらいだろう。

「島尾敏雄の訃報」を読んでいたら、次のような記述があった。

《島尾敏雄は私より七歳年上だが、何月生まれだったろうと気になって、文芸年鑑で調べてみると「四月十八日生れ」と出ている。同じ四月の五日違い、とはじめて知って、
「あと七年かな」
 意味なくそうおもったりしたが、六十九歳というのはまだ早かった》

 どういうわけか「あと七年かな」という言葉が妙にひっかかった。。
「島尾敏雄の訃報」の初出は『新潮』一九八七年一月号。島尾は一九八六年十一月十二日没。吉行が亡くなったのは一九九四年七月二十六日——たまたまともいえるが、「あと七年かな」という言葉通りになっている。

 わたしはしょっちゅう「あと何年、仕事を続けられるのか、東京にいられるのか」といったことを考えてしまうのだが、「あと何年」なんていっていると、自分の言葉に引きずられ、そのとおりになってしまうかもしれない。
 頭に「あと何年」という言葉が浮んだら、即「いけるところまで」と打ち消すようにしたい。

2019/11/12

声高と低声

 午後三時、起床。頭が不調。寒暖の差が激しい日に弱い。
 頭がまわらず、からだが怠い日をどう過ごすか。ただひたすら休息に専念し、だらだらする——これまでそのプランを数えきれないくらい試してきたが、ここ数年は、外に出て、歩くことが増えた。そのほうがいいような気がする。あとは部屋の掃除か。

 寝起き、布団の中で古山高麗雄著『立見席の客』(講談社)を読む。
「発言は金」というエッセイの中で、古山高麗雄は(論争は苦手といいつつ)小田実の『群像』の発言にたいし、反論のようなものを試みている。初出は一九七四年六月十五日の東京新聞(夕刊)。小田実の発言も同時期のものだろう。

 小田実の発言の一部を引用する。

《声高に民主主義とか自由だとか、平等だとか、そんな声高に叫ぶのはやめてくれ、そんな恥ずかしいことやめてくれ、そんなこと叫んだって、浅薄で見てられぬ。それよりは、低声でひそかにつぶやくのがいいんじゃないか——こういう文学批評がよくあるでしょう》

《私も低声でつぶやくのは大事だと思う。ただ、そういうのが流行になって来て、そんなふうに言うこと自体が自己目的になっているのではないか》

 この意見を雑誌で読んだ古山高麗雄は小田実の批判を自分(のような人)に向けられたものと感じ、珍しく強い口調でこんなふうに述べている。

《低声でつぶやくのが大事だと思うと言うこと自体が自己目的になっているなどと、人を馬鹿にしたようなことを言ってはいけない。そうしかできない人がいて、そういう人は、そういう語り方でなければ物が語れないのである》

「発言は金」を読んだとき、「声高」というキーワードから、小田実は吉行淳之介の「戦中少数派の発言」(一九五五年)を想定した批判ではないかとおもった。
 吉行淳之介は戦前戦中の「甲高く叫んだ人種」を強く批判し、戦後の学生運動の指導者たちからも似たような不信感をおぼえると批判した。ほかのエッセイでも何度となく「一オクターブ高い声」という言葉で「声高」派への違和感を述べている。

 古山高麗雄は「低声」派は流行していないというが、小田実の立場からすると、無視できない勢力だったにちがいない。
 二十代のころ、吉行淳之介、古山高麗雄のエッセイを読み、わたしは「声高」派の多い政治活動の場から距離をとるようになった。さらにぼそぼそと小声で呟くタイプの作家ばかり読むようになった。
 いっぽう古山高麗雄は「低声」批判に抗いつつも「臆病な沈黙よりは、愚かな発言のほうがよいとは思う」とも述べている。

 わたしは「自分よりも適任者がいる」とおもう問題にたいし、沈黙を選択しがちだ。平行線になりがちな議論に参加するのも好きではない。
 なぜそんなふうになってしまったのか。

2019/11/09

コタツを出す

 毎年だいたい十一月のはじめにコタツ布団を出し、五月の連休中にしまう(気温によって、ちょっとズレることもある)。
 今年は十一月六日にコタツ生活が開幕した。

 尾崎一雄先生に倣い、十二月になったら冬眠モードに入る予定だ。昨冬は街道歩きにのめりこみ、外出することが多かった。歩いているうちに「すこし体力がついたかな」と過信していたところ、秋にバテた。やはり一年にわたって、ずっと調子を保つのはむずかしい。
 からだを冷やさず、疲れをためず——年中、自分にそう言い聞かせているのだが、すぐ忘れてしまう。

 スタンド・ブックスの新刊、スズキナオ著『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』はエッセイとルポ——なんていうジャンル分けから自由にはみだしていく雑文感が読んでいて心地よかった。あとお金をかけず、無駄な時間をかけるスタンスもいい。収録されなかったという話も読みたくなる。
 半額シールの肉パーティの話が好みだった。なんとなく、その生き方や遊び方はトキワ荘の時代っぽい雰囲気がある。

 著者は一九七九年生まれ。長年東京に暮らしていたが、今は大阪在住とのこと。今度、大阪に行ったら、この本に出てくる銭湯に寄りたくなった。

2019/11/02

桑名のこと

 気がつけば十一月。どうにか月末の仕事を乗りきる。巖谷國士著『日本の不思議な宿』(中公文庫)を読んでいたら「桑名 船津屋」の章があった。以前、『フライの雑誌』に桑名の話を書いたとき、この本は未読だった。よくあることだが、原稿を書き終わったあとに「読んでおけばよかった」とおもう本に出くわす。
 戦後まもなく永井龍男はわざわざ釣りをしに桑名に行っていた。たしかハゼ釣り。そのさい泊る旅館が船津屋だった。

 泉鏡花の『歌行燈』の湊屋のモデルといわれる船津屋はもともと桑名宿の本陣だった。かつての桑名は東海道屈指の宿場町——その本陣といえば、さぞかし豪華だったにちがいない。三重には歌行燈といううどん屋のチェーン店がある。郷里の家から徒歩の距離に鈴鹿店もあり、何度か食べにいっている。良心価格でうまい。天ぷらもうまい。今、調べたら東京の新宿店や立川店もあった。

 たまたま一昨日の深夜、仕事中にNHKのファミリーヒストリー(再放送)を観ていたのだが、桑名出身の瀬古利彦の回だった。父は海軍の衛生兵で戦場で九死に一生を得る経験をしている。
 鈴鹿にいた高校、予備校時代のわたしは桑名を素通りして名古屋に遊びに行っていた。ここ数年は頻繁に桑名界隈を歩き回っている。
 東海道においては、宮(熱田)と桑名は「七里の渡し」といわれ、船で行き来した。さらに伊勢湾は木曽三川の河口でもあるから、陸路、水路ともに交通の要所だった。
 桑名宿の研究をしている郷土史家がいたら、いろいろ話を聞いてみたい。

2019/10/31

昔日の客と古代の道

 都営三田線神保町駅十七時五十九分とメモ帳に記し、家を出る。神保町界隈で仕事をして予定の電車に乗る。
 電車の中で田村隆一著『詩人の旅 増補新版』(中公文庫)を読む。前日「奥津」まで読み、「鹿児島」から。「鹿児島」と「越前」がいい。長野は「佐久」と「伊那」を旅している。初出を見ると五十歳以降の紀行文だ。「金色のウイスキー」という言葉が出てくるたびに酒が飲みたくなる。
 今月の中公文庫は中央公論新社編『富士日記を読む』も刊行。戦中派の本がどんどん充実している。

 三田駅で都営浅草線に乗り換え、西馬込駅へ。はじめて降りる駅だ。地図は持っていたが、夜は方向感覚がおかしくなる。いきなり目的地の反対側に向かって歩いてしまい、住所表示を見て引き返す。
 西馬込駅から桜並木の道を歩いた。このあたりは「古東海道」が通っていた。地図を見ながら歩いているのに自信がない。
 オイルコンパスを持ってくればよかったと反省する。荻窪圭著『東京古道散歩』(中経の文庫)で古代東海道の話を読んでいたのだが、古道のルートは専門家のあいだでもけっこう意見が分かれる。中原街道、池上道、旧東海道、古代東海道……。大田区の街道、かなり面白そう。

 この日の目的地は「カフェ 昔日の客」。かつて山王書房のあった場所にできた関口直人さんの店。
 店内には尾崎一雄の色紙、山高登の版画などが飾られていた。山王書房店主の関口良雄の朗詠、歌唱のテープを聴かせてもらう。
 関口直人さんから尾崎一雄の書斎でアルバイトした話などを聞く。話が止まらない。先月大森にオープンしたばかりのあんず文庫を紹介してもらった。
 久しぶりに直枝政広さんとお会いした。岡崎武志さん、萩原茂さんと東京駅経由でJR中央線で帰る。

 大森界隈は、日中、じっくり歩きたい。

2019/10/28

高円寺三十年

 わたしがJR中央線の高円寺界隈に引っ越してきたのは一九八九年十月中旬——二十歳になるひと月前のことだ。
 高円寺に三十年。これまで払ってきた家賃を計算すると「中古のマンションなら買えるやん」とおもわないでもない。ただ、高円寺に移り住んできたころは、バブルの最盛期で二十三区内にマンションなんて買えなかった。というか、どこも買えなかった。三十年前どころか十年前でも無理だ。
 この三十年、高円寺内を転々としてきた。かつては敷金・礼金・前家賃と不動産屋への手数料――当時は敷・礼二ヶ月というのが相場だった。そういえば、いつまで家賃を手渡しだったのか。すくなくとも二十代のころは大家さんか不動産屋に家賃を直接払っていた気がする。

 上京後、はじめて不動産屋をまわったとき、高円寺と吉祥寺の物件を紹介された。高円寺に決めたのは西部古書会館の存在が大きかった。
 最初に住んだ東武東上線沿線の下赤塚の寮(単身赴任中の父の働いていた自動車のプレス工場の独身寮)から高円寺への引っ越しのさい、味二番という中華屋さんの角の狭い路地を曲るとき、車のドアを擦ってしまい、その修理代がかかったのも今となってはいい思い出だ。
 引っ越し当初は、テレビもエアコンもなく、部屋ではレコードを聴き、古本ばかり読んでいた。
 もしお金があったり、行動力があったりしたら、こんなに古本を読む生活を送ることはなかったにちがいない。
 人生何が幸いするかはわからない。それが幸いなのかどうかはさておき、就職もせず、高円寺でふらふらと本読んで酒飲んで原稿を書いて、まもなく五十歳になる。

 年々欲しいものはなくなっているが、行きたい場所はどんどん増えている。時間がほしい。自分の中にこんな欲があったとは……。とはいえ、さすがにこの齢になると、大幅な人生の軌道修正みたいなことは考えにくい。「この道を選んだよかった」とおもえるよう努力するしかない。

2019/10/23

余生の研究

 五十歳という年齢が近づき、自分の関心が「余生」に移行している。
 このまま東京にいるのか。ずっと賃貸の部屋に住み続けるのか。蔵書をどうするのか。

 働き方や暮らし方も含めて、もうすこし楽な方向に切り替えたい——ということに関しては二十代半ばあたりから考えていたわけだが、そのおもいがより切実になってきた。

 余生や老後のあり方にしても、平均寿命がのびた今と昔ではちがう。自分の考え方も変わってきている。

 若いころ、というか、わりと最近まで老後は田舎の平屋の一軒家に住むのが夢だった。現実問題として都内に平屋を買うのはむずかしいというのもその理由だ。しかし齢をとってから知らない土地に移住するのは楽ではないだろう。
 いっぽう今より狭い部屋になり、駅からの距離が遠くなっても、今まで通り高円寺界隈のアパートの一室に暮らし続けるという選択肢もある。今は仕事があるからいいが、仕事が減ったりなくなったりしたら、当然、東京での賃貸生活は厳しくなる。

 三木卓著『降りたことのない駅』(文和書房)に「夭折の研究」というエッセイがある。

《しかし、同時に年譜を見ていて思うことがある。それは夭折した者のものである。あきらかにそうなる、と思われるような仕事の仕方をしている者がある。量としてみても、この期間では、あきらかにエネルギーや栄養の収支からいっても疲労度からいっても肉体はすかんぴんになって、喰われている、と思われる。また質としてみると、なんとなく、やはりこの人は、大いそぎで自分の仕事を終わらせて死んだんだな、と思わせるものがままあって、ふしぎである》

 このエッセイでは「肉体の収支」という言葉も出てくる。

 余生あるいは老後というものは細やかな自分の肉体における収支計算が必要になってくる。これだけ働いたらこれだけ休む。休めないなら働かない。

 昔からそんなことばかり考えていた気もするが、老いによる体力の低下は体感してみないとわからない。

2019/10/21

ドラフト後

 Suicaを記名式に切り替えた。古いカードは反応が鈍くなっていた(郷里に帰省したとき、近鉄の自動改札でいつもひっかかっていた)。新しいSuicaは紛失再発行サービスもあるようだ。それだけでも交換する意義ありだ。今さらなのだが。

 ドラフトから一夜明けて……と書いていたら、もう四夜。ドラフト一位の競合九連敗中だったヤクルトはようやく星稜の奥川恭伸投手を引き当てた。たまたま出先でテレビを見ていたのだが、おもわず「よし!」と声が出てしまった。野球好きの知り合い(ホークスファン)に「おめでとう」と声をかけられる。これが余裕というやつか。
 二〇〇七年、五球団競合の仙台育英の由規(佐藤由規)投手以来か。十二年前か。当時の高卒ルーキーも今年三十路か。月日が経つのは早い。

 毎年ドラフトから数日間は、新入団の選手の情報を追いかけるため、インターネット漬けになる。二、三時間、あっという間に経ってしまう。ゲームをしていたときもそうだった。酒もそう。人生って何だろう。

 もし仮に野球を観ず、ゲームをせず、酒を飲まず、ひたすら仕事に打ち込んでいたら……とたまに考えるのだが、そうすると人間関係もすべて変わってしまい、もはや自分ではない。

2019/10/17

寝てみたり

 先週金曜日の夜から台風十九号の情報を追いかける。ここ数日、寒暖の差が激しく、睡眠時間がズレ続ける。寝起きから数時間、頭がぼーっとしている。
 テレビを見ながら開高健の『白いページ』(全三巻、角川文庫)を再読する。

《毎日、毎日、寝てみたり、起きてみたり、書いてみたり、ちょっと飲んでみたり、ちょっと破いてみたり、また寝てみたり、また起きてみたり》(「励む」/『白いページⅡ』)

 昔からこういう書き出しが好きだ。
 このエッセイにある人物の名前が出てきた。ある日、開高健が銀座のバーに行くと、吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作がいた。

《それにまじって古山高麗雄氏がすみっこにすわっていた。古山氏と私は初対面だけれど、かねがねその『プレオー8の夜明け』に感心していたところなので、さっそくその話をはじめた》

 酔っぱらった開高健は古山氏に着ていたセーターや帽子を進呈してしまう。
 ちなみに講談社文庫版の『プレオー8の夜明け』の解説を開高健が書いている。この夜の出会いが、解説を書くきっかけになったのかもしれない。

《いつか、古山さんと酒場ではじめて出会ったとき、かねてから感心していたものですから、非礼と知りつつそのことをむきだしに述べたところ、たまたまよこにいた吉行淳之介さんが、ちょっと考えてから、
「歳月のせいだね」
 といったことがあります》

《この空前の大量消費時代に“文学”を守りぬくには怠惰か病気ぐらいしかない》

 いずれも『プレオー8の夜明け』の開高健の解説の言葉だ。ちょっと勇気づけられる。

2019/10/11

同じメニュー

 水曜日、神保町、小諸そばのち神田伯剌西爾。からだが快復したら、小諸そばの秋メニューのうどんを食べようとおもっていた(ふだんはから揚げうどん)。
 昔から同じ店で同じメニューばかり頼んでしまう傾向がある。同じものばかり食べても飽きない。

 内田百閒は毎日同じ店の蕎麦を食べていた。

《蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである。続けて食つてゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまつてゐる為に、箸に縺れる事もなく、日がたつに従つて、益うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである》(「菊世界」/『無絃琴』旺文社文庫)

 百閒の随筆の中でも有名なものなので読んだ人もいるかもしれない。題の「菊世界」は昔の煙草の銘柄。子どものころから吸っていた煙草の変遷を回想し、「今の常用は朝日である」と綴る。

《どうして朝日にきめたかと云ふ特別な理由もなささうである。ただきめた以上は、時時変つては困るのである》

2019/10/08

中央線文化

 ようやく秋らしい季候——とおもったら夕方から雨。ここ数日、からだに痛みもなく、いい睡眠ができている。元気になったので、秋用のシャツや冬用の布団カバーの洗濯、雑誌のスクラップ、パラフィンがけをやる。コタツを出すのはあとひと月ちょっとか。

『橋本治雑文集成 パンセⅤ 友たちよ』(河出書房新社)をひさしぶりに読み返していたら、戸井十月との対談(「欲望を計算に入れない『理性』なんて、もうとっくに死んでいるんだよ……)の中でこんな発言があった。

《戸井 俺の感じだけど、例えば中央線文化っていうのか、中央線から石を投げると作家に当たるというぐらい、学校の先生をやっていて書いてますとか、自称作家なんていう人がいっぱいいるわけよね。それが、なにか違うと俺は思うんだ。「そんな、たいそうなものなの?」って感じがしちゃう。べつに、バカにしてるんではなくてね。(略)》

 戸井十月の発言を受け、橋本治は「ぼくは、近代文学なんてまず読んでないよ。読んでないから、作家が中央線に多いなんていうのも、わりと新しい知識なんでね」と答えている。
 この対談は一九八〇年ごろのものだが、その約四十年後の今でも「石を投げると」という状況は残っている。
 わたしが高円寺に引っ越してきた当時、深夜、近所の飲み屋のカウンターで飲んでいると、しょっちゅう物書や編集者と会った(自分を棚に上げていわせてもらえば、面倒くさい話になることが多い)。こうした「中央線文化」の雰囲気は好き嫌いが分かれる。

 とはいえ「中央線文化」がどういうものか説明がむずかしい。
 中央線文士の時代、七〇年代のフォーク、ヒッピー文化、八〇年代から九〇年代にかけてのインディース、バンドブーム期でもその色調は異なる。あるいは高円寺と荻窪と吉祥寺では町の雰囲気はけっこうちがう。
 共通点があるとすれば何だろう。貧乏くさいところか。みんながみんなそうというわけではないが。

2019/10/01

井戸の絵

 東京メトロの東西線で高円寺に帰るとき、中野駅止まりの電車だったら、中野から高円寺に歩いて帰る。線路沿いではなく、住宅街をあみだくじ方式で通り抜ける。桃園川の遊歩道もよく歩く。午後六時前なのに空は暗い。

 日曜日、西部古書会館。井伏鱒二の九十歳の誕生日を記念して作った絵本『トートーという犬』(白根美代子絵、牧羊社)などを買う。収録作の「すいしょうの こと」の絵にたいし、井伏鱒二が「この井戸の石組はちがうわ」といって、描き直すことになったという逸話がある。
 井伏鱒二は「井戸も城壁の石組みも、基本は同じなんだ」と白根美代子に説明した(川島勝著『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』文春文庫より)。
 なぜかこのやりとりが記憶に残っていて、「すいしょうの こと」の井戸の絵を見たいとおもっていたのだ。
 先日、岡山の矢掛や総社の旧山陽道を歩いているときに、石組の壁をいろいろ見た。いわゆるレンガのような均等な積み方ではなく、大小さまざまな形の石を複雑に組み合わせている。この話を知らなかったら、気づかずに通りすぎていたかもしれない。

 帯状疱疹の症状もおさまってきた。まだすこし脇腹付近に神経痛が残っているが、かなり楽になった。とはいえ、確実に肉体は衰えてきている。
 電子レンジが神経痛に反応するというのも発見だった。レンジのあたためボタンを押した途端、脇腹あたりがピリピリ痺れた。ちょっと気持いい。

2019/09/27

頭がまわらない

 WEB本の雑誌で連載中の「街道文学館」の第十六回を更新——。今回は山陽道編。五月に歩いた宿場の話を九月末になって書いたわけだが、矢掛宿の風景は、かなり鮮明に覚えている。

 先週末に帯状疱疹を発症し、それにともなう神経痛が厳しく、一日のうち、一、二時間、薬が効いているあいだ、ちょこちょこ原稿を書いた。

 最近、クリス・ルイス著『なぜ、あなたはいつも忙しくて頭がまわらないのか』(小佐田愛子訳、マイクロマガジン社)という本が刊行された。この中で「部外者だからできた教育改革」というイギリスのポーツマス大学の学長スティーブ・フランプトンの話を興味深く読んだ。

 彼が手がけた改革のひとつに大学の時間割の変更がある。

《そもそも時間割がどこから来たのか、誰も知りませんでした》

 始業時間は午前10時、1日の授業は2コマ(授業は3時間1コマ)。この改革により、学生たちの学業面で大きな成果があったらしい。それだけではない。

《たとえば、スタッフの多くが子育て中で、朝、時間通りに子どもたちを学校にやるので一苦労。午前中からせわしなくて疲れた雰囲気になることが多いようすだったそうです。スタッフにとっても、朝が遅いことは、より多くのエネルギーと熱意を授業に注ぎ込めることになり、集中する時間も長くなりました》

 あとフランプトンは「iPhoneどころか、モバイル機器をいっさい使っていない」という。

《仕事をする邪魔になりますからね。(中略)なにかができるからといって、それをするべきだとは限らないことを知っておくべきです》

 長年、わたしは朝七時に寝て午後二時ごろ起きる生活を送っている(ときどき睡眠時間が五、六時間ずつズレてしまう時期もある)。起きてからもスロースタートで、だいたい夕方までは掃除や洗濯、散歩、あんまり頭をつかわなくてもできる作業などをして、そのあと本を読んだり、資料を調べたりして、日付が変わるくらいの時間から調子が出てくる。それがいいかわるいかは別として。

 自分にとっては好きな時間に寝て起きて、疲れたらすぐ横になれることが、職業選択のさいの優先事項だった。その選択はまちがってなかった——といいたいところだが、成果らしい成果を出していないので小声で呟きたい。

2019/09/19

安心と油断

 仕事部屋の引っ越しから二ヶ月ちょっと。つい最近のような気もするし、ずいぶん前のことのようにもおもえる。
 荷物の整理をしながら、自分の興味をどこまで広げるか、あるいは絞るかを考えた。
 大切なこと(もの)は、そんなに多くないほうが、気楽に過ごせる。

 残りの人生——といったら大ゲサかもしれないが、今の仕事がいつまでできるのかわからない。といっても、三十歳のときも四十歳のときもそうおもっていたわけで、この悩みに関しては「わからないままやり続けるしかない」という答えを出している。

 高円寺での生活もまもなく三十年になる。
 ひとつの町に三十年。おそらく、この先、それ以上に長く住む町はないだろう。さすがに高円寺界隈では道に迷わない。

 次の目標は四十年……といいたいところだが、三十五年にしておく。仕事部屋もあと五年くらいはどうにかしたい。

 どんなことでも五年続けるというのは大変だ。でも「週三日、自炊する」くらいの目標でも五年くらい続けると料理の腕はけっこう上がる。味付け云々ではなく、野菜の皮むきとか下ごしらえみたいな手際がよくなる。あまり考えなくてもできる作業が増える。

 仕事でも考えなくてもできる作業が増えていくと、三時間かかっていたことが二時間、一時間ですむようになる。そのことが余裕につながる。ところが、忘れたころに大きなミスをしてしまう。慣れることは大事だが、慣れすぎるのも考えものだ。

2019/09/14

ウッデンの父の話

 金曜日、徹夜。土曜日、起きたら夕方五時、生活リズムがおかしい。

 部屋の掃除をしていたら、バスケットボール、UCLAの伝説のヘッドコーチのジョン・ウッデン著『まじめに生きるのを恥じることはない』(ディスカヴァートゥエンティワン、二〇〇〇年)が出てきた。今、アマゾンの古書価は五千円以上になっている。
 わたしはウッデンの父の「人生で大切な六つの教え」に感銘を受けた。

《1 自分に正直であれ。
 2 他人を助けよ。
 3 一日一日精いっぱい生きよ。
 4 良書を精読せよ。
 5 友情を芸術の域まで高めよ。
 6 自分が享受している恵みに日々感謝せよ》

 ジョン・ウッデンが小学校の卒業式のあと、父からもらったカードに書かれていた言葉だそうだ。ウッデンは読書を愛し続けたことが、生涯の財産になったと回想している。
 ウッデンの父の教えでもっとも心に響いたのは次の助言である。

《自分がどうにもできないことに惑わされると、自分がどうにかできることに悪影響を及ぼす》(「批判にも称賛にも影響されるな」/同書)

 自分のコントロールできないことに時間や労力を費やすなら「自分がどうにかできること」に最善を尽くしたほうがいい。

 ストア派の哲学とも近い考え方かもしれない。ある種の利己主義なのだが。

2019/09/07

節制と休息

 三泊四日の旅から帰ってきて、頭が日常モードに切り替わらない。足のふくらはぎの筋肉痛も三日くらい治らない。
 疲れているときは肉だ。それからオクラやなめこなどネバネバしたものもいい。

 色川武大の「節制しても五十歩百歩」という言葉はかぎりなく真理にちかいとおもっているが、人並以下の気力体力でどうにか生活していくためには、心身の調整だけは怠るわけにはいかない。
 昔、ある年輩のライターが多作なのに仕事の質がまったく落ちない同業者のことを「あの人は搭載しているエンジンがちがうから」といっていた。
 でも小さなエンジンなら、小さなエンジンなりに運転の技術を磨いて、燃費のかからない生き方を目指すというのもわるくないとおもうようにしている。
 スピードを出さず、大きなエンジンを積んだ人たちが通りすぎてしまう場所に立ち寄るのもそれはそれでおもしろいものだ。

 三十歳をすぎたころエクナット・イーシュワラン著『スローライフでいこう ゆったり暮らす8つの方法』(スタイナー紀美子訳、ハヤカワ文庫)という本を読んだ。

《今の世の中、多くの人が時間がないとこぼしていますが、正確には少し違うようです。単に「時間がない」のではなく、「自分のやりたいことをすべてやるための時間がない」ということなのです》

 中年になると疲労の回復にも時間がかかる。からだだけでなく、頭を休ませる時間も必要になる。やりたいことの優先順位を決め、さらにやらないことも決め、のんびりだらだらすごす日を作る。余裕がなくなってくると、ふだんどおりの力を出せば、できることすらできなくなる。自分の欲求をコントロールするのはむずかしい。

 イーシュワランは「わたしたちは、たえずお金を稼いでいたり、物を作っていたりする代わりに、人生が投げかける深い問いについて思索する時間を持つことが必要です」と述べている。
 ぼんやり過ごす日をもうすこし増やしたい。

2019/09/05

街道記

 月末、三重に帰省。四日市あすなろう鉄道に乗り、終点の内部駅から、東海道の石薬師宿あたりまで歩く。車の心配をしていたが、意外と旧街道が残っている。
 夕方、ゲリラ豪雨にあう。お寺に避難し、雨が小降りになるまで待つ。石薬師宿から定五郎橋を渡り、牧田小学校へ。そこから鈴鹿ハンターまで行き、ゑびすやのうどんを食べて、郷里の家へ。

 翌日は朝七時に家を出る。JR中央本線を途中下車しながら、奈良井宿、洗馬宿などを歩く。この日の宿は、塩尻のホテル中村屋。長野、涼しい。快適だ。

 翌日、安曇野(臼井吉見文学館)をまわって、十三時半ごろ、篠ノ井駅へ。長野と東京を行き来しているつかだま書房の塚田さんに駅まで車で迎えに来てもらう。
 高速で信濃追分まで。篠ノ井から信濃追分まで、ちょうど電車がない時間だったから助かった。
 追分コロニーで街道本を買う。長野の宿場町はどこも素晴らしい。ただし夕方に店が閉まる。あと冬期、営業していないところがけっこうある。
 この日は塚田家に宿泊。びんぐし湯さん館で温泉に入る。明け方まで飲んでしまう。野菜をたくさんもらう。

 上田から高崎まで新幹線で、そこから18きっぷで途中下車しながら東京に帰った。足の裏が痛い。

2019/08/27

岡山の山村

 午前十時に寝て、起きたら夕方十六時半。ぼーっとした頭のまま、原稿の校正作業と掃除。
 季節の変わり目はいつも睡眠時間がズレる。家にこもりがちなのもよくないようだ。

 枕もとに置いてある色川武大著『戦争育ちの放埒病』(幻戯書房)を読んでいたら、移住の話が出てきた。

《現に、私の気持ちの中にあるいくつかの地方で住むことを空想してみることがある。たとえば、鹿児島。あるいは、岡山あたりの山村。徳島県の東南の海岸端。東北の横手盆地あたり——。いずれも私の好きなところだ》(「引越し症候群」)

 色川武大は引っ越し魔だった。一ヶ所に定住すまいと決め、借家を転々としていた。

「私の日本三景」(『いずれ我が身も』中公文庫)でも似たような記述がある。この「日本三景」は「鹿児島県薩摩半島の外海側」「高知県東部海岸、甲浦付近白浜」「新幹線岡山駅手前の山村」とある。
 岡山は何度となく行っているが、岡山駅手前の山村はどこなのか。

 まだ行ったことがないのだが、岡山と兵庫の県境付近にある山陽道の三石宿も気になっている。岡山から下久井につながる金毘羅往来という街道も歩きたい。時間がほしい。

2019/08/26

仕事の喜び

 イギリスの歴史学者、政治学者のP・N・パーキンソンは「パーキンソンの法則」でその名を知られている。
 彼が提唱した法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」というもの。

 パーキンソンはさまざまな人生訓も残している。
 久しぶりに『パーキンソンの経済を見ぬく目』(三田貞雄訳、至誠堂)を読んでいたら、こんな言葉を見つけた。

《いちばん幸福な人間は、働く時間がいちばん短い人間ではなく、自分の仕事によろこびを見出す人間である》

 この言葉のすこし前にパーキンソンは、古い自宅の話をしている。一九一〇年、パーキンソンが生まれた一年後に建築された家は細部にいたるまで熟練職人による加工が施されていた。

《箪笥や靴箱の戸を開けたり閉めたりすると「フーシュ」という音をたてた。指物大工がこの戸を文字どおり気密につくっておいたのだ》

 大工たちはみな自らの仕事、技術に誇りを持っていた。

 わたしの母方の祖父も大工だった。当時としては珍しいひとりっ子で乳母日傘で育った。母からは気がのらないと仕事をしない人だったという話を聞いた。欄間を作るさい、いい木材じゃないと、やる気をなくしたらしい。
 そのかわり、いい木材が入ると採算度外視し、手間ひまかけて仕事した。
 つまり、仕事をしてもしなくても貧乏だった。それでも祖父の話を聞くと羨ましい働き方だなとおもう。

阿波踊り

 土曜日、高円寺、阿波踊りの日。午後、西部古書会館。古書会館近くの中華料理屋でチャーハンをテイクアウト。夕方くららで生ビール、KYOYAさんの店で祭り用のステーキ、抱瓶で焼きそばを買い、仕事部屋の掃除の続き。今週はずっと本の整理していた。再読したい本がいっぱい出てくる。
 日曜日、夕方くららで生ビール、KYOYAさんの店でスープカレーをテイクアウト。松永の串カツとだし巻き卵。あと北口のあずま通りで大道芸(エキセントリック吉田)を見て、芋煮を買って帰る。この二日間、自炊せず、屋台メニュー三昧だった。

 なるべく人通りの少ない道を選んで移動していたのだが、あちこちから笛や太鼓の音が聞こえてきて、お祭りの雰囲気も堪能した。
 ちょっと涼しくなった。これから仕事をせねば。

2019/08/19

私小説の話

 二十代後半から三十代の前半にかけて、年がら年中、文学や音楽の話をしていた旧友と久しぶりに飲んだとき、「(いろいろ本を読んできたけど)結局、私小説に戻るんだよなあ」といっていた。
 これまでも私小説が好きな理由をあれこれ書いてきた気がするが、読み慣れた作家の本を再読するのは精神安定剤のような効能があるような気がする。
 もちろん、私小説作家であれば、誰でもいいというわけではない。
 わたしは破滅型よりは調和型の作家が好みで、困ったときはその調和型の代表格の尾崎一雄の作品を読み返す。

 高松の本屋ルヌガンガで福田賢治さんとトークショーをしたときに会った若者が書いている「ボログ」というブログを読んでいたら、こんな一節があった。

《尾崎一雄「ある私小説家の憂鬱」読み終える。
「口の滑り」という話に古本屋の関本良三という人物が出てきたので、あれ?と思い調べてみたら、「昔日の客」の関口良雄がモデルのようだ》

 今、尾崎一雄の私小説を読んでいて、「関本良三=関口良雄」に気づく人は日本中探してもそんなにいないとおもう。

 岡崎武志さんの『古本病のかかり方』(ちくま文庫)の「視力がよくなる」でも似たような話を書いている。

《知識が増えていくと、それに比例して目が拾う情報も増えていく。極端なことを言えば、以前には見えなかったものが、のちに見えてくるようになるのだ》

 こうした「古本の視力」が何かの役に立つのかといえば、正直、わからない。
 読書にかぎらず、知識が増えたり、年を重ねたりするうちに、いろいろな発見がある。

「口の滑り」では尾崎一雄の二歳年上の大崎五郎という先輩作家も出てくる。たぶん「大崎五郎=尾崎士郎」だろう。
 ちなみに、尾崎一雄と尾崎士郎の娘はたまたま「一枝」という名前でよく間違えられた。

2019/08/15

新陳代謝

 青春18きっぷで京都に行こうとおもっていたが、台風が来そうだというので迷っているうちにお盆になってしまった。
 部屋の掃除をしながら、山本夏彦の文庫をいろいろ読み返す。

《隠居とはむかしの人はうまいことを考えたものです。親は未練を断ち切って、家督を子に譲って以後いっさい口出しをしません。こうして十年たてば子は三十代になって、親が口出ししたくても今後は出せなくなって、自分は全き過去の人になったと知って安心して死ねるのです。
 これを新陳代謝と言います》(「人間やっぱり五十年」/山本夏彦著『つかぬことを言う』中公文庫)

 隠居とまではいかなくても、もうすこしのんびり暮らしたいとおもっている。しかし「人生五十年」といわれても、いざ五十歳(ちかく)になってみると、精神年齢は三十代半ばくらいの気分だ。三十年前、ライターの仕事をはじめたころ、同業者の最年長は四十歳くらいだった。書く仕事よりも、雑誌のブレーンや最終稿をまとめるアンカーといわれる仕事をしていた記憶がある。

 すこし前に就職氷河期の人の就労支援のニュースがあった。今、四十歳前後の人たちは就職難だった。
 二〇〇〇年代のはじめ、大きな書店に行けば、三十歳以下はみんなアルバイトといったかんじだった。図書館の司書の平均年齢が五十代という記事を新聞で読んだ。団塊の世代、あるいはバブル期に社員をとりすぎて、そのしわよせを若い人たちが食らった。

 山本夏彦著『かいつまんで言う』(中公文庫)に「これを新陳代謝という」というコラムがある。

 内容は「人間やっぱり五十年」とほぼ重なっている。

《隠居するというのは、昔の人の叡知で、爾今自分は現役ではないと友人知己に声明して、口出しすることを自らに禁じたのである。そして五年たち十年たって、なお生きていれば、今度は口出ししたくても出せなくなって、文字通り過去の人になるのである。
 薄情のようだが、これが自然なのである。新陳代謝といって、古いものは去らなければいけないのである》

 さらに「こんなことを言うのは、寿命がのびたから定年をのばせという説があるからである。それはむろん老人の説で、若者の説ではない」と綴る。

 あらゆる分野で新陳代謝の失敗が蔓延している。シルバー民主主義を批判する若者たちもいずれ年をとる。
 わたしも老害といわれる日が来るだろう。
 その前に隠居したいのだが……。

2019/08/12

五分の理

《あの戦争は別に悪かったわけじゃないという理屈はいくらでもありますよね。日本って国は近代化をあわててやって、とにかく生き残ることに成功して、要するに西洋の植民地主義を真似しただけであり、他の連合軍であるイギリスとかフランスとかは植民地主義の面では札つきだったわけですし。だから理屈では合理化できると思う。そもそも理屈ってのは「泥棒にも三分の理」というくらいなんだから、普通の人だったら五分の理くらいまで持っていけるもんですよ。だからそういう眼で見てしまえば全部間違ってしまう》(「〈戦争〉と〈革命〉が終った時代へ」/菅谷規矩雄、鮎川信夫の対談/『すこぶる愉快な絶望』思潮社)

 ここ数日、鮎川信夫の「そういう眼で見てしまえば全部間違ってしまう」という言葉の意味を考えていた。

「(日本だけが)悪かったわけじゃない」というのは戦後ずっと多くの日本人の中にくすぶっていた気分だとおもう。でも当時の多くの日本人は戦争はもうこりごりだという気持やアジアの国々にたいして後ろめたさもあった。戦争に負けた以上、大っぴらに「五分の理」を主張するのは気が引けたとおもう。戦時中の日本が行ったといわれる「蛮行」や「戦争犯罪」にしても事実とそうでないものはあるだろう。当時の記録の中にも事実もあれば、捏造もある。戦争初期と後期でまったく事情が変わってくる。

《いろいろあって何が真実かわからないとき、大衆の好むものが真実になる。大衆は、自分にとって、最も面白いことや都合のよいことを真実にしたがる》(「信ずべし信ずべからず」/古山高麗雄著『反時代的、反教養的、反叙情的』ベスト新書)

 親日国の人たちの「日本の統治のおかげで豊かになった」という言葉を聞けば、わたしも悪い気はしない。いっぽう日本によって凄惨な目に遭った人たちの話を聞いたり、読んだりすると、申し訳ない気持になる。

 都合のいい史実だけを並べて「自分たちは間違ってなかった」という結論を出すのは、たぶん間違っている。

2019/08/05

いろいろな時計

 日曜日、暑くて頭が回らない。やる気が出ない。昼すぎ、西部古書会館。街道本三冊。千円。土鍋でメシを炊き、カレーを作る。橋本治の『思いつきで世界は進む』(ちくま新書)を読み返す。

 わたしの優先順位としては、仕事や生活のことが大半を占め、残りは趣味といった按配なので、政治について考える余力がほとんどない。だからなるべく信頼できる人の意見を参考にしたいとおもって本を読む。
 鮎川信夫がそうだし、それ以降は橋本治がそうだ。

《世界中には、いろいろな時計がある。近代という時代を示して引っ張って来たヨーロッパ製の時計は、ネジが切れたのか、もう先を示せなくなった。「ヨーロッパに於ける極右勢力」というのは、進んで行く「近代」の時計の陰でおいてけぼりを喰らわされていた、同じ国内の「周辺の土着」だろう彼等が、遅れていた「自分達用の時間」を進めるために、新しい時計のネジを巻き始めたというのに近いはずだ。
 かつては「後進国」として取り残されていた国々が、経済発展のおかげで「先進国並」を当たり前に主張する。でもそれが実現されたら、多分、地球は過飽和状態でぶっ壊れる。今や、それを知るのが「先進国水準」なのだけれど》(「時間は均一に進んでいないの?」/『思いつきで世界は進む』)

 同時代でも、それぞれの国、あるいは人が過ごしている時間はちがう。今の時代にも中世みたいな考え方をする人はいくらでもいる。気にいらなければ、倒せばいい——といった言動をする人間は二十一世紀の日本にも当たり前に存在する。でもさすがに同じ国の人間同士が戦をしていた時代に戻りたい人はいないだろう。いないとおもいたいのだが、自信はない。

 何かを嫌いになるためにつかう時間があるなら、好きなことをしたい。

2019/08/02

親米と反米

《最近は情報だけが溢れかえって、いろんな意味でものが見えなくなってきている。価値の均等化、平等化があらゆる分野ですすみ、よほどフンドシを締めてかからなければ、認識を誤り、選択を誤るということになりかねない。このことは、知識人の問題であると同時に、ジャーナリズムの問題でもあり読者の側の問題でもある。
 では、どうすればいいのか》

 一九八四年十一月の「『ベ平連』はどこへ行った」というコラムで鮎川信夫はそう問いかけた。

《アメリカ人を嫌うのは勝手である。外国人なんて、それほど好きになれるものではないからだ。しかし、アメリカ人が寄りつかなくなれば、だんだん自由もなくなることくらいは知っておいていい》

 親米と反米——わたしはしょっちゅうそのふたつのあいだで揺れている。アメリカは正義のごり押しをする。怖い国だとおもっている。しかし敵対陣営も怖い。ようするにどっちも怖い。

 三十五年後の今はテレビ、新聞、雑誌にくわえ、インターネットの情報も加わり、何が正しいのか判断に困ることが増えた。
 年々自分の社会分析と周囲とのズレが大きくなってきている。政治に興味のないフリをして黙っている。

2019/07/31

老人性冗舌

 天野忠著『余韻の中で』(永井出版企画)を読んだあと、山田稔著『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』(編集工房ノア)を再読する。

《いちばん好きな作家は、と問われ、私が返答に窮していると、
「わしは井伏鱒二やなあ」
 と天野さんは言った》

 天野忠は木山捷平も好きだった。
 わたしのいちばん好きな作家は尾崎一雄である。私小説を好きになったのも尾崎一雄がきっかけだ。尾崎一雄の交遊関係を追いかけているうちに、井伏鱒二、木山捷平を読むようになった。

『北園町九十三番地』では天野忠の仕事ぶりも印象に残っている。
 天野忠は「原稿の締切りなども『完璧に』に守ったそうだ」と山田稔は書いている。

《天野忠は、つねに「励んでいる」人と仲間で噂されていた詩人である。天野忠を師と仰ぐ玉置保巳によると、彼はあるとき、こういう言われたという。あまたいる詩人のなかで人より抜きんでたものを書くためには、ふっといい詩が浮ぶのを待っているようではだめで、「自分を机の前へ引き据えるように」せねばならぬ》

 他にもこんなことも天野忠は語っていた。

《物書き、とくに名の通った物書きのこわいところは老いてから書けなくなることでなく、抑制がきかなくなって、下らない作品をつぎつぎと書くことだ。老人性冗舌、表現における失禁。書かずにいるというのは、努力の、辛抱のいることなのだ》

 老い……についての感覚はまだまだわからない。書かずにいる努力というのは未知の領域だ。

2019/07/23

この先のこと

 日曜日、夕方、選挙と散歩——。
 テレビの選挙速報などを見た後、頭を仕事に切り替える。
 五月の連休明けから引っ越しでバタバタし、それから歯医者にも通っていたのだが、ようやく通常モードに戻りつつある。仕事部屋の本が片づくのは九月くらいか。

 落ち着かない日々が続いていたせいか、地味な随筆が読みたくなる。
 天野忠の『余韻の中』(永井出版企画)の「時の流れ」を読む。

《風邪をひいて三日つづけて勤めを休んだ。
 その間中、雨が降ったりやんだりした。こっちもねたり起きたりした。もうすぐ退職の手前で、ずるけ休みのように思われるのが癪と思うが、どうも躰の方で無理せんでもええやないかと調子を下げているようでもある》

 この随筆の日付は一九七一年五月。この年、奈良女子大の図書館の仕事をやめている。

「自適」という随筆では、勤めをやめてひと月後の心境を綴っている。

《悠々ではないが、自適の暮らしをしているのが肩身が狭いとは私には思えない。何とか喰えれば、何もひ弱な神経をつかって、世間様の中で揉まれる必要はないと思うのだが、といって、喰えなくなれば、そして躰の方の辛抱がきくうちなら、私だってその嫌な世間様の中へもう一度お辞儀して入れてもらわねばならんことは嫌々覚悟しているのだが》

 この秋、わたしは五十歳になるが、たぶん、五十代になったら仕事も減るだろう。今まで通り働けるかどうかもわからない。仕事が減ったら、生活レベルもそれに合わせて縮小する。すこしずつ蔵書を売り、なるべくお金をつかわない暮らしをする。のんびり楽しい日々を送るための工夫をする。
 それでも週一くらいは外で酒を飲みたいし、喫茶店にも行きたい。年に二、三回、国内を旅したい。「悠々ではないが、自適の暮らし」を目指したい。

 それは覚悟というよりは、心の準備のようなものだ。

2019/07/17

ようやく

 六月下旬から雨続き。昨日のニュースでは日照時間が十九日連続(二十日連続に更新?)で三時間未満というのは統計史上初だそうだ。
 天候不順のせいか、毎日睡眠時間がズレる。今朝は午前四時に起床。頭がぼーっとしている。日照時間不足は心身にも影響する。ニュースではきのこ、肉を食べるといいといっていた。

 雨の中、仕事部屋の引っ越し。先に本棚は自力で移し、組立終わっていた。引っ越し業者の人には本を運搬してもらう。ペットボトルの段ボール、百箱以上。「これで半分」「あと三分の一くらい」と声を出し、ずっと笑顔。箱を三段に積み、上のふたつを持っていく。
 引っ越しは一時間ちょっとですべて完了。プロの仕事はすごい。床がほとんど見えない。その後、大家さんの代理に入っている会社の人に鍵を返す。
 立退きは三回目。過去二回は大家さんともめた。大家都合による立退きであっても、こちらから請求しないと引っ越し費用を出してもらえない(何もいわないと自腹になる)。
 今回は最初の話し合いで引っ越しに関する費用がすべて出ることが決まった。面倒な話し合いは直接利害の絡まない第三者があいだに入ると楽だ。

 まだ本棚に本を戻す作業が残っている。

 この二ヶ月、引っ越しのことで頭がいっぱいだった。もともと梅雨時は街道を歩く予定はなかったのだが、それでも予定以上に歩けなかった。そのあいだも古書会館通いを続け、資料だけは増えていく。日本海側の街道も歩きたい。

 引っ越し前、仕事部屋に置いていた夏用の肌掛けを捨てようとしたら、「粗大ゴミです」というシールを貼られ、ゴミ置き場に残っていた。小さなゴミ袋に入るくらいの大きさなのだが、それでもダメなのか。前に捨てたときは大丈夫だった記憶があるのだが。結局、ハサミで切って小さくして捨てたが、いまだにゴミのルールがわからない。

 そういえば、古い座布団も燃えないゴミで出せなかった。座布団は一度洗濯し、完全に乾ききる前に、綿を出して小分けにすると楽なことがわかった(綿が縮んで小さくなる。埃も出ない)。今後、布団系を捨てるときはこのやり方で処分することにする。

2019/07/09

引越やつれ

 引っ越しが終わるまで仕事が手につかない。毎日掃除したり散歩したり酒を飲んだりして過ごしている。

 上京三十年で借りた部屋の数は九軒(下赤塚一軒、高円寺八軒)になる。四十代に入ってから、引っ越しから遠ざかっていた。たぶん四十代最後の引っ越しになるだろう。

 最初の単行本の印税で書庫兼仕事部屋(木造の風呂なしアパート)を借りたのは二〇〇七年十一月。赤字になったらすぐ撤収するつもりで借りた。
 綱渡りながら十二年ちかく維持することができた。その部屋が老朽化のため、取り壊しが決まった。三回目の立ち退きである。
 新しい書庫探しのため、不動産屋をまわる。最初に下見をした物件は家賃も間取りもほぼ条件通りだった。「ここでいいかな」とおもいながら不動産屋の担当者と下見に行った。そのとき、借りようかどうか迷っていたアパートの手前で引っ越しのトラックが前にも後ろにも進めず、立ち往生していた。
 数分間だろうか。かなり長い時間におもえた。

 その下見のさい、道でばったり旧友の河田拓也さんと会った。知り合ったころは、お互い、風呂なしアパート暮らしだった。下見のあと喫茶店で待ち合わせし、知り合いがはじめた店で昼酒(レモンサワー)。河田さんと話しているうちに、もうすこし探してから決めようと気が変わった。

 何日か後、転居先の場所を絞り、近所の不動産屋に行くと、前の仕事部屋から歩いてすぐのアパートの一室が空く予定があると教えてもらった。
 再び下見。部屋に入って数秒で「借りたいとおもいます」と即決した。まったく迷いがなかった。
 部屋を借りるとき、そこでの暮らしが想像できるかどうかはすごく大事だ。新居は明るい未来が見えた……ような気がした。家から仕事部屋までの道のりが好きなコースだったのも即決した理由である。

 新居に本を運ぶ前に本棚を並べておきたい。経験上、本を入れてしまうと本棚を組み立てる場所がなくなるからだ。ちょうど世田谷ピンポンズさんが高円寺に来たので手伝ってもらった。助かった。

 この本棚に本が収まるのはいつの日のことか。それまでは落ち着かない日々が続く。自宅と旧仕事部屋と新仕事部屋の三軒をぐるぐるとまわる。いつまで新しい部屋を維持できるのか。あと何年くらい仕事ができるのか。そんなことを考えるひまがあったら、午後の散歩にでかけたほうがいい。

2019/07/01

終わらない歌

 五月下旬から予定外のことが重なり、終わりの見えない作業に追われている。
 諸事情により仕事部屋を引っ越すことになった。近所のスーパーに行くたびにペットボトルの段ボールを六、七枚もらう。ひたすら段ボールに本を詰める。箱がどんどん積み上がっていく。途中、古本屋に二度ほど本を売ったが、変化を感じられない。

 掃除も仕事もいっぺんにやろうとせず、何分の一かずつ分割して順番に片付けていくのがコツだ。とりあえず、五分の一くらいを目安にはじめる。五分の一まで進めば、残りは五分の四。それまでにかかった時間や労力を基準に、残りの作業がどのくらいかかるか、漠然と見えてくる。

 ここ数年、原稿を分割方式で書いている。十枚の原稿ならまず二枚書く。二枚書いたら休み、また続きを書く。細かく区切っていくほうが、時間の配分がしやすい。気持に余裕もできる。
 自己啓発書では、よく「小さな目標」を立てろというアドバイスがある。目標までの道のりをなるべく小さく刻み、階段のように一段ずつのぼるイメージといっていいだろう。

 困ったときは吉行淳之介の「草を引っ張ってみる」(『ずいひつ 樹に千びきの毛蟲』講談社ほか)という随筆の言葉をおもいだす。

《今日から十日のあいだに、短篇を一作書かなくてはいけない。五里霧中の状態で唸りはじめなくてはならないのだが、唸るにも体力がいる。本当に唸り声を上げることもしばしばある。こういうとき支えになるのは、これまでも何十回も切り抜けてきたことだから、たぶん今回もなんとかなるだろう、こういう考え方だけである》

2019/06/24

理想の暮らし

 山口瞳の男性自身シリーズの『隠居志願』(新潮社)の「なるようになれ」というエッセイを再読した。ここ数年、自分の頭の中でぐるぐると堂々巡りしている話と重なる。
 四十代半ばすぎの山口瞳は、国立市の自宅と都心のアパートのふたつの住居を持っていた。
 一九七〇年代、東京は光化学スモッグがひどく、郊外に住むことにしたものの、通勤に時間がかかり、疲れる。それで都心に部屋を借りることにした。

《私の友人たちの間には、いままでの郊外とか都心から遠い所というのではなくて、静岡県、長野県などの、海のそばとか山奥に家を建てる者が多くなった。東京の家を売り払って、出ていく。これは別荘というものではない。そこが本居である。それでは仕事にならないので、別に、都心に事務所がわりにアパートを借りる。もっとも、これは自由業の友人たちであるが》

 わたしの知り合い(やはり、自由業)にも四十代以降、生活の拠点を地方に移した人が何人かいる。家賃の高い都内にいるとものが置けない、作業スペースを確保できないなど、場所の制約がある。

 高円寺だと2DKの中古マンションでも二千五百万円くらいする。仮にローンの申請が何かの間違いで通ったとしても、その金額を築五十年ちかい集合住宅の一室に払う気になれない。買った後も修繕費、管理費、固定資産税がかかる。持ち家だろうが、賃貸だろうが、住まいのために働き続ける生活は変わらない。
 だったら、新幹線や特急に乗らずに二時間くらいで東京へ出てこれる場所に住み、「都心に事務所がわり」の寝泊まりできる住まいを借りたほうがいいのではないか……。

「なるようになれ」の地方移住の話には続きがある。

《一人の友人が、もう少し齢を取って、娘が嫁に行ったら、夫婦二人で、都心のアパートの2DKに住むのだと言った。(中略)実際、都心にちかい公団アパートに初老の夫婦が二人で住むというのが、ひとつの理想的な住まい方だろう。たとえ、十年間という短期間であっても》

 山口瞳は小金さえあれば、田舎にひっこんで何もしない暮らしがしたいという。

《四十六歳というのは隠居になってもおかしくない年齢だ。しかしながら、小金というのが大問題である。いったい、いくらあったら暮らせるだろうか》

 すこし前に政治家の老後二千万円発言が騒ぎになった。都内で暮らすのであれば、それでも足りない(自由業、自営業なら尚更足りない)。
 長生きするより、ちょうど貯金の残高がゼロに近づいてきたら、家にある本やらレコードやらをすこしずつ処分し、最後は部屋を空っぽにして天寿をまっとうできたら……。
 たまにそんな晩年を妄想することがあるが、計算通りの人生が送れるなら苦労はない。

2019/06/22

家の話

「土地鑑」という言葉は元々警察用語だったらしい。長いあいだ、わたしは「土地勘」とおもっていた。

 インターネット上では、しょっちゅう「持ち家か賃貸か」という議論がまとめられている。わたしは生まれてこの方、ずっと賃貸暮らしである。家を買うという発想もなかった。
「持ち家か賃貸か」の議論は、仕事、収入、家族構成、年齢その他によって意見が分かれる。何より個人の価値観もちがう。単に損得の問題ではない。
 賃貸は引っ越しが楽だし、収入に応じて住み替えられる気楽さがある。持ち家だと、自分の好みの間取りができるし、何より家賃を払い続けるプレッシャーから解放される。

 先日、読んだ議論には、築年数の浅い中古のマンションを買って、価格が下がらないうちに買い替えるのがいいという意見もあった。
 人気の町の駅近のマンションだと不動産価格はそんなに下がらない。買ったときと同じ値段くらいで売れたら、ただ同然で住んだようなものだ。多少、値下がりしても、その差額が家賃を払い続けた額よりも安ければ、得したことになる。そういう暮らし方をするには、それなりに物件を見る目、知識も必要だろう。世の中には賢い人がいる。

 五十歳を前にして、一生賃貸という信念に迷いが生じている。不動産屋のサイトで地方の格安の一軒家を見つけるたびに「仕事がなくなったら移住もありかな」と考える。もし移住するなら、元気なうちがいい。最近、百円の家の広告を見た。百万円の誤植ではない。
 ただし、土地鑑のない場所、知り合いがひとりもいない場所はちょっと不安だ。わたしは車の免許を持っていないので歩いて暮らせる町という条件だけは譲れない。

 町の様子は住んでみないとわからない。駅の南口か北口か、三丁目か四丁目か、ちょっと道を一本こえるだけで、町の雰囲気が変わる。同じ町内でももより駅がちがう場所もある。知らない町だと、そういうことが判断できない。

「持ち家か賃貸か」の話で、もし家を買うなら、最初は賃貸に住み、しばらく暮らしてからのほうがいいとアドバイスしている人がいた。今のところ、買う予定はないが、わたしもそうしたい。移住するしないにかかわらず、土地鑑のある町を増やしたい。

2019/06/21

漫画の話

 二日くらい前から寝起きにくしゃみ。たぶんブタクサの花粉が飛びはじめている気がする。昔と比べると、ずいぶん楽になった。首都圏はブタクサが減っているという噂は本当かもしれない(西に行くと電車を降りた瞬間、花粉症の症状が出る)。

 月末、すこし仕事が重なって、のんびりできなくなりそうなので今のうちに漫画を読もうと新刊情報を見ていたら、惣領冬実の『チェーザレ』の十二巻が出ていた。四年ぶりか。嬉しい。完結まで読み続けたい漫画だ。この四年くらいのあいだに七、八回再読している。また一巻から読み返したい。

 吉田秋生の『海街diary』と池辺葵の『プリンセスメゾン』は最終巻が出たときに何か書こうとおもったが、読後の満足感に浸りまくっているうちに時間が経ってしまった。
 電子書籍の端末を導入するまで本の置き場所がなく、漫画を買わなかった時期があった。『チェーザレ』も電子書籍で買った。最初の数ページで完全に画力とストーリーに魅了され、まとめ買いした記憶がある。

2019/06/13

どうすれば

 本屋Titleでトークショー。『思想の科学』つながりでもある福田賢治さんが聞き手だったこともあり、玉川信明さんや鶴見俊輔さんの話をけっこうした。時間あっという間だった(聞いているほうはどうだったかわからない)。最後のほうで街道の話になり、打ち上げの席でもが止まらなくなる。お酒が入ると街道のことを話し続けてしまう癖をなんとかしたい。

 あと五十歳からどうするかというのはうまく言葉にできなかった。やっぱり街道歩きは続けたい。知らない場所をたくさん訪ね、大げさかもしれないが、終の住み処にしてもいい町を見つけたいというおもいがある。ずっと高円寺にいられたらいいですけどね。でも地方への移住もしょっちゅう考えている。
 何年か前に群馬県の桐生に行ったとき、途中、電車の窓から平屋の一軒家がたくさん見えた。昔から老後は平屋で六畳二間くらいの家で暮らすのが夢だ。旅先でも小さな平屋の家を見ると「こんな家に住みたいなあ」とおもう。山梨の甲府から石和温泉あたりも候補地のひとつである。また行きたくなってきた。

 上京して三十年になるが、生活を拡大する方向で進んできた(二度、前より狭い部屋に引っ越したが)。この十年くらいは現状維持だ。五十代くらいから縮小の準備をしたほうがいいのではないか——部屋を小さく、モノを少なく、お金のかからない暮らしを構築したい。週三日くらい働いて後は遊んで暮らすのが理想だ。

 とはいえ、計算通りにいかないのが人生の常である。モノの少ない暮らしを目指しながら、モノだけでなく、厄介事も増え続けている。

2019/06/10

トナラー

 電車やラーメン屋、立ち食い蕎麦のカウンターでけっこう席が空いているのに隣に座ってくる人のことを「トナラー」というらしい(インターネットで知った)。
 駐車場がガラガラにもかかわらず、隣に車を駐めてくる人も含まれるようだ。

 三人掛けの席で最初は三人座っていて、途中で端の人が降りる。そのまま端が空いたのに、ずっと真ん中の席を動かない。三人席で両端が空いてもずっと真ん中から動かない人もいる。二人組が来て「つめてもらえますか?」といわれてやっと動く。
 最初は混んでいて途中で人がたくさん降りて空席ができる。それでもつり革につかまった人が自分の前で立ち続けているのも居心地がわるい。
 この不動の人を表すいい言葉はないかと考えていたのだけど、おもいつかない。

 子どものころからそういうことに敏感な人もいれば、大人になってもずっと気づかないままの人もいる。
 わたしも二十代半ばすぎまで、あまり気にしてなかった。後から来る人のためにエレベーターのボタンを「開」ボタンを押し続けるとかドアをおさえるといったことはいつ学ぶのか。

2019/06/05

高齢ドライバー

 昨年八月に刊行された樋口裕一著『65歳 何もしない勇気』(幻冬舎)に「運転しなくていい」というエッセイがある。

《私は、歩くことと運転することは同じ程度の能力を要するのではないかと考えています。つまり、年齢のせいで近くのスーパーまで歩くのが億劫になったら、気づかずにいるだけで、運転能力も間違いなく、同じように落ちていると思うのです。ですから、歩くのを億劫に感じ始めた時、自分から返納を考えようと思っています》

 わたしは車の免許を持っていないのだが、この意見には賛成だ。足の衰えだけでなく、目も大事だ。免許の更新にかんしては、今も認知機能検査はあるようだけど、医師による足や目の検査も義務づけたほうがいいのではないか。そこでドクターストップがかかれば、免許を即返納する。
 父は七十四歳で亡くなったが、七十歳のときに次は更新しないといっていた(五十年以上、無事故無違反)。そのころ白内障の手術をしていた。母に聞いたら、運転中に体調不良になり、そのまま病院に行ったこともあったという。一歩間違えば、大きな事故を起こしていたかもしれない。

「歩くのが億劫」になった人が免許を返納していたら助かった命があると考えるとやりきれない気持になる。

2019/06/03

セーフティネット

 忘れ物をする夢と道に迷う夢をよく見る。昨日見た夢は忘れ物をして行ったことのない町で道に迷い、大切な待ち合わせに遅刻する夢だった。
 夢は記憶が元になっているという説がある。まったく経験がなくても、本や映画の記憶が、現実の記憶や体感と混ざり合う。
 たとえば、空を飛ぶ夢で不安定にしか飛べないのは、おそらく映画や漫画で見た記憶があっても、実際には飛んだことがないからだろう。

 この十日間、同じ時期にしめきりが重なって、切羽詰まっていた。
 十日前の自分に教えたいのは、どんなに忙しくても、休息をとり、気分転換をしたほうが、仕事は早く片づくということだ。切羽詰まった状態でずっとパソコンと向き合っていても、仕事が捗るわけではない。
 ふだん通りに家事をしたり散歩したりし、睡眠も充分とる。慌てず、焦らず、ひとつひとつ順番にやるべきことを片付ける。それが最善策だ。
 十日間のうち、休養日を二、三日作ったほうがよかった。
 この間、わたしが長年応援している球団も十六連敗した。勝利が遠のいていた焦りからか、僅差で負けている試合でも勝ち継投をつぎこみ、連敗を長引かせてしまった感がある。十六試合中の三、四試合くらい、主力を休ませ、捨て試合を作ったほうがよかったのではないか(結果論だが)。

 焦ったり不安になったりする時間があるなら、酒飲んで寝ちゃったほうがいいのです。

 仕事漬けの日々の合間、中年のひきこもり関連のニュースが続いた。
 もっと早くセーフティネットを構築しておくべきだったのではないか。どんなセーフティネットを作ればいいのか。そんなことをぐるぐると考え込んでしまい、仕事が手につかなくなってしまった(言い訳)。生活保護もいいが、その手前にもうすこし軽い社会保障がほしい。
 たとえば、失業して次の仕事が見つからない。そういうときに自治体などが週二日か三日の短期の仕事を斡旋するような仕組みがあれば、ずいぶん気持が楽になるのではないか。
 失業は身も心もすり減る。そこから履歴書を書いて面接を受けるというのはしんどい(そこで失敗すると立ち直るのに時間がかかる)。だからこそ、面倒な手続きなしで(そんなにハードではない)仕事ができるようにする。心身が弱っているときにブラック企業みたいなところで働けば、高確率で病んでしまうだろう。それを防ぐだけでも多くの人が助かる気がする。

2019/05/24

本屋Titleでトークショー

 一九八九年春に上京し、六月からライターの仕事をはじめました。
 その後、大学を中退し、アルバイトをしながら書評や音楽評などを書いていたのですが、三十歳のとき、商業誌の仕事を干され、ふらふらしていた時期にたまたま近所の飲み屋で岡崎武志さんと知り合い、『sumus』という同人誌に誘われ、古本エッセイをちょこちょこ発表するようになりました。「どうせ食えないんだったら、好きなことを書こう」と開き直った結果、今に至っています。
 そんなこんなで文筆三十年。
 来月JR中央線・荻窪の本屋Title(1階特設スペース)で「ライター生活30年と古本」というトークイベントを開催します。『古書古書話』(本の雑誌社)と高松発リトルプレス『些末事研究』第四号の刊行記念です。

 聞き手は『些末事研究』の福田賢治さん。福田さんは現在香川県在住ですが、以前は中央線沿線の荻窪に長く暮らしていた。年齢はわたしと同じで二十代のころ、『思想の科学』界隈にいたという共通点もあります。
 福田さんは矢継ぎ早に答えに窮する質問をしてくるので当日けっこう心配です。

○6月11日(火) 19:30〜
○場所 本屋Title 杉並区桃井1-5-2(八丁交差点すぐ セブンイレブン隣)
○料金 1,000円(+1ドリンク 500円)
○定員25名

◎申し込み方法
◎メール件名にイベント名「ライター生活30年と古本」、本文にお名前/電話番号/枚数(1人2枚まで)を明記して、以下のアドレスに送信してください。
title@title-books.com
(参加費は当日会場受付にて)

2019/05/21

旅の疲れ

 土日、一泊二日で山陽道——広島の福山、岡山の矢掛などを歩く。広島と岡山は写真家の藤井豊さんといっしょに歩いた。福山は井伏鱒二、矢掛は木山捷平と縁のある土地である。
 以前、木山捷平の生家を訪れたときは宿場町(矢掛宿)のほうには寄らなかった。本陣も残っている。町全体に歴史が根づいている。
 矢掛宿のことは岡山出身の河田拓也さんからも何度か話を聞いていた。木山捷平の生家付近を見て「矢掛ものどかな里山みたいなところだろう」とおもいこんでいたら「あのあたり街道筋の宿場町で、昔はすごくにぎわっていたんです」と教えてくれた。
 山陽道は瀬戸内海から離れたところに街道が通っている。翌日は藤井さんが運転する軽トラで昨年の西日本豪雨の被害にあった地域も回った。小田川はずっと見ていたい川だった。

 旅行中、藤井さんはフィルムのカメラを持っていた。藤井さんにはフィルムで写真を撮り続けてほしいとおもっている(たぶんデジカメは合っていない)。
 総社界隈(五重塔がある)を散策したあと、吉備線に乗って岡山駅へ。時間があれば、岡山の吉備路文学館にも行きたかった(以前、行ったことがある)。内田百閒の特別展が開催中だった。
 岡山駅から新幹線で姫路駅へ。
 姫路文学館の望景亭で世田谷ピンポンズの「文学とフォーク」のライブ。姫路のおひさまゆうびん舎主催。
 木山捷平の「船場川」を元にした曲を聴くことができた。木山捷平は姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業し、小学校の先生をしていたこともある。姫路と縁がある。
 今、どんどん曲ができる時期なのか。曲の中に世田谷さん自身の固有の記憶が埋め込まれていて、それが詩の核になっているようにおもった。
 姫路の商店街を歩いて、茶房大陸(世田谷さんの歌がある)で焼きミートスパゲティを食べてから在来線で新大阪へ。新大阪から新幹線で帰る。

 姫路は広くて半日では足りない。一泊二日の旅はむずかしい(月曜日の夜、仕事があった)。岡山から姫路に行くあいだにある三石という宿場町にも寄りたかった。姫新線にも乗りたかった。こういう心残りはわるくない。また行けばいいのだ。

 いつか岡山と兵庫の県境付近もゆっくり歩きたい。

2019/05/13

コタツをしまう

 日曜日、ようやくコタツ布団をしまう。今日はすでに暑い。室温は二十五度。仕事の合間、掃除をしなら、旅行の計画を立てる。時間があっという間にすぎてゆく。最近、TVのニュースをあまり観なくなった。

 四十代もあと半年ちょっとで終わる。もうすぐ五十歳。生まれ育ちその他、自分のおもい通りにならない部分はさておき、どうにかこうにか生きてきた。ふとした瞬間、「あと何年くらい仕事をするのだろう」と考えてしまう。自分のピークは過ぎてしまったとよくおもう。ただ、そこから先の手立てはないわけではない。
 あるていど手間暇をかける部分を絞る。体調管理(とくに休息)は四十代よりも五十代のほうが切実な課題になるだろう。
 気力さえあれば何とかなるのは三十代後半くらいまでだ。今は気力で乗りきった後、その反動がきつい。
 わたしは水木しげるの「睡眠至上主義」の信奉者なのだが、四十代以降、寝ても疲れがとれない日が増える。そういう日は無理せず、のんびりしたい。しかし、のんびりしていると、焦りが生じてしまう。

 焦りは自分の頭が作り出している。だから切り離すこともできる——これはわたしがスポーツ心理学で学んだもっとも有益な知識のひとつだ。焦りの大半は「勝手に不安になっているだけ」なのだ。

 二軍から一軍に上がってきた選手が、フォームを崩してしまうことはよくある。実績のある選手とちがい、与えられるチャンスは限られている。
 結果を出すことにとらわれ、ぎこちないフォームでボールに当てにいく。そうこうするうちにフォームを崩してしまい、再び二軍に戻る。
 ヒットを打ちたい。ホームランを打ちたい。打点を上げたい。しかし相手もプロだから、そう簡単には打たせてくれない。いい当たりが好守に阻まれてしまうこともよくある。
 打者であれば、いかに迷いのないスイングをするか。そのことに専念するのがいちばんいいのではないか……というのは、野球の素人の意見ですけどね。

 若いライターもかならずといっていいくらいそういう壁にぶつかる。わたしもぶつかった。ぶつかりまくっていた。別にお金にならなくてもいいから、ずっと取り組みたいとおもえることがあれば、ちょっとくらいの足踏み状態は気にならなくなる。

 時間をかけた小さな積み重ねがものをいう。そのことにもっと早く気づきたかった。

2019/05/08

本の整理

 毎年五月のだいたい連休中にコタツ布団を洗い、押入に片付けているのだが、今年はまだ明け方が寒くてコタツ生活を継続している。そのかわりカーテンを洗濯した。洗濯機の水が真っ黒になるくらい汚れていた。

 掃除をはじめると止まらない。本の整理もしたい。
 たぶんわたしは整理整頓欲というものが強い。といって、きれい好きなわけではない。どちらかと適度に散らかっている状態を好む。ただしその適度さを保つのがむずかしい。

 一度に大量に本を売ることは避けたいのだが、そうもいってられなくなってきた。
 何を残し、何を売るか。昔からそんなことばかり考えている。それでも残す本と売る本の仕分けは悩みの種だ。
 蔵書の整理は、部屋の本棚に並んでいる本と自分の心境や関心のズレを微調整できる効能はある。

 昔と比べると、生活の変化にたいして慎重(億劫)になっている。このままではいけないとわかっていても、おもいきった取捨選択ができない。

 目先の問題を片付けると次の問題が出てくる。次の問題にとりかかっているうちに別の問題が浮上する。
 ずっと人生設計を怠ってきたツケかもしれない。
 
 ゴールがあったほうがいいのか、ないほうがいいのか。むずかしい問題は時の経過に解いてもらうという方法もある。それも万全の方法ではない。

2019/05/06

商店街散策

 この数日、ブログを投稿しようとしても「読込中…」の表示が出たまま動かなかった。原因不明。

 この連休は読書野球掃除酒の日々。山浦正昭著『「歩き」の文化論』(経済界、一九八六年)が令和初読書。

《「歩くことは遅れたものである」というイメージこそ、もっとも遅れた人(国)の考え方であり、「歩くことをどう文明に組み入れるか」といったイメージを持つ人こそ、これからの文明をつくっていける人たちだと思う》

 八〇年代半ばに出た本だけど、これからの世の中は「徒歩」の文化が重要になるだろう。歩いて暮らせる町——だけでなく、町と町を歩いて行き来できるような社会になってほしい。

 二日、横浜の保土ケ谷へ。保土ケ谷は東海道の宿場町。今年に入って神奈川宿、保土ケ谷宿は何度か歩いていた。ほどよい距離で見所がたくさんある。
 今回はJRの保土ケ谷駅から相鉄線の天王町駅方面に歩いて、松原商店街に行った。商店街内はカートで移動できる(商店街は旧東海道とも重なっている)。

 ある東海道関係の本を読んでいたら、神奈川宿あたりの東海道について「街道の名残りがない」といったかんじの記述があった。
 著者は旧東海道ではなく、第一京浜(だけ)を歩いている。神奈川宿界隈の旧東海道は史跡だらけで前に進むのに苦労するくらいなのだ(幕末から明治にかけて諸外国の領事館だった寺社があちこちにある)。わたしもこういうおもいこみの失敗はよくやってしまうので気をつけたい。

 今、神奈川宿や保土ケ谷宿の町中には宿場関係の案内板などがたくさん出ている。
 昭和期は道幅の狭い街道は、どんどん拡張され、石碑、常夜燈、一里塚は消えていった。
 昭和に失われつつあった街道文化が、平成(二〇〇〇年代)になって保全や修復の動きが出てきた。神奈川宿の案内板や地図なども二〇〇〇年代に作られたものが多い。
 八王子道の追分から江戸以前の東海道もすこし歩いた。八王子と横浜を結ぶ道は「絹」の道だった。
 そのあと横浜駅に出て、地下街(ジョイナス)を散策する。横浜駅の工事はいつまで続くのか。

 翌日はJRの東神奈川駅から東急東横線の白楽駅まで歩いた(けっこう近い)。イオンスタイル東神奈川(すこし前まではサティだった)で夏用の長袖シャツを買う。

 数年前まで、中野から阿佐ケ谷にかけて、おっさん向けの衣類が(安く)買える店が何軒かあったのだが、どんどんなくなっている。服(靴下や下着も)は旅先で買うことが増えた。

 白楽は六角橋商店街がある。この商店街も活気がある。ごちゃごちゃした小さな路地が残っているのもいい。古本屋もある。
 六角橋は旧綱島街道で、この街道も今年に入ってからすこしずつ歩いている。階段を登り、篠原園地にも寄る。横浜は坂が多い。
 神奈川県も面白い街道がたくさんある県だ。
 活気のある商店街とシャッター商店街は、どこで差がついてしまうのか。

 帰り、久しぶりに東急東横線に乗り、渋谷駅へ。JRへの乗り換えが面倒くさい。改修工事によって前より不便になった。

2019/04/30

平成の終わり

 土曜日、西部古書会館。初日。大型連休……は関係なし。仕事、時々、酒。日曜日、西荻窪Clop Clopでペリカンオーバードライブのライブ。ペリカン、二十年くらいライブを観てきた。平成最後のライブ(わたしにとって)。

 仕事のあいまに橋本治の本を読み返す。『貧乏は正しい!』(小学館文庫)はすごい……というか、二十代のときにこの連載を読んでいなかったから、まったく別の人生を送ることになったとおもう。

《技術というのは、身につけることがしんどいだけではなくて、それを維持し続けるというのもまた大変なものなのである。そういうことを忘れると、かつては魅力的な技術を持って輝いていた人間も、いたって安易な“つまんない人間”になる。安易なものはつまんなくなって、つまんないものは、魅力をなくして、結局みずからの墓穴を掘るという悲劇だけが待っている》

 この文章は一九九〇年代前半の若者雑誌(マンガ雑誌・グラビア雑誌)とその読者にたいする警鐘である。
 橋本さんによれば、当時のライター(の多く)は“なんにも言えないでヘラヘラ笑っているやつ”に変わってしまったらしい。読者もそう。

《人間というものは、訓練というものを必要とする生き物で、言うべきことをさっさと、しかも簡単に言うなんてことは、ちっとやそっとじゃ出来ない。なかなか言えなくて、グダグダグダグダしているという状況をへて、それを克服して、やっとまともなことが言える人間になる。肝心なことをあっさり言うためには、「くどくどしか言えない」という危機状況を乗り越えるしかないんだ。そしてきみらの最大の悲劇は、この“訓練の段階”を奪われていることにある》

 一九八九年にフリーライターをはじめたわたしは最初から危機に直面していた。書きたいものが書かせてもらえない。文章がヘタだったからというのもあるが、「(無名の書き手の)意見はいらない」という方針の編集者が多かった。今もそうかもしれない。
 ライターとしては「内容はないけど、読ませる」というのは褒め言葉でもあるのだが、そんな文章ばかり書いていたら“なんにも言えないでヘラヘラ笑っているやつ”になってしまう。

 二十代のころ、時代に適応せず(できず)、フリーターをしながら古本ばかり読んでいた。
 ライター生活も三十年。「言うべきこと」を書けるようになったのか。

2019/04/25

香川にて

 土曜日、新幹線で新神戸に行き、三ノ宮からジャンボフェリーで高松へ。ジャンボフェリー、値上げしていた。船旅、楽しい。桟敷席でごろごろしているうちに、港に着く。船で港に到着すると「旅をした」という気分になる。まったく疲れない。
 高松は行くたびに好きになる。人も空間もどことなくゆったりしている。季候もいい。
 玉藻公園に寄って、琴電で仏生山。仏生山温泉に入る。
 翌日、丸亀の金毘羅街道、琴平界隈を歩く。丸亀に行くのは、はじめてだった。骨付き鶏をはじめて食べる。金毘羅街道、素晴らしい。古い建物がたくさん残っていて、あちこちに灯籠がある。

 夜、本屋ルヌガンガで『些末事研究』を発行している福田賢治さんとトークショー。福田さんに難しい質問を連発され、答えに窮す。
「なぜ書くのか」という話になったのだが、自分でもわからないのだ。昔から書かないと頭の中だけで考え続けることができなかった。
「読者を意識するか」という質問もむずかしく、うまく答えられなかった。
 福田さんは同世代で『思想の科学』の最後のほうに関わっていて、当時はすれ違いだったのだが、鶴見俊輔さんの影響を多大に受けたという共通点がある。

 もともと福田さんは中央線沿線に住んでいて、高円寺の飲み屋で知り合ったのだが、四年ほど前に高松に移住している。
 イベント中、しどろもどろになっている時間が続いたが、最後のお客さんの質問で自分のいいたかったことがすこしいえた気がした。
 トークショーのあと、帰りの電車で読む本がほしくなり、橋本治著『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』(朝日新書)を買う。帯の「追悼 橋本治」の文字を見て、あらためて橋本さんの不在を痛感する。

 鶴見俊輔もそうだが、橋本治も百年、千年という大きな時間の幅の中でものを考えられる人だった。『鶴見俊輔対談集 未来におきたいものは』(晶文社)に鶴見さんと橋本さんの対談が収録されている。初出は『広告批評』の二〇〇二年一月号。

 打ち上げで酔っぱらう。終電がなくなり、瓦町から仏生山まで二時間ほどかけて歩いて帰る。LEDライトが役に立つ。
 翌日、JR高徳線で引田、それから徳島港に行き、南海フェリーで和歌山へ。フェリー+和歌山港〜なんばまで二千円の切符がある。大阪の梅田街道をすこし歩き、新大阪から新幹線で東京に帰る。

2019/04/18

連休進行中

 火曜日、新橋で取材(インタビューを受ける)。
 そのあと日比谷公園を通り、東京メトロの霞ヶ関駅から丸ノ内線で新高円寺駅に帰る。地下鉄だとJRより百円ちょっと安い。
 東京はすこし歩くと交通費が安くなるルートがたくさんある。これまでは百円ちょっとの差なら最短ルートを選択しがちだったが、街道歩きをはじめてからは遠回りが苦にならなくなった。というか、むしろ楽しい。

 何年か前に猪瀬直樹が都知事だったころ、東京メトロと都営地下鉄の料金を一本化する案が浮上していたのだけど、あの話は流れてしまったのか。一本化されたら、都内の移動がずいぶん楽になるのだが。
 それからいつの間にかJRの回数券が新幹線の切符と同じサイズになった。これは改悪だとおもう。

 連休進行(出版業界では大型連休前はしめきりが一週間くらい早まる傾向がある)。仕事中、一球速報でヤクルト阪神戦をチェック。延長十二回引き分け。両チーム勝ちの譲り合い。疲れて仕事にならず。目先の勝ち負け、順位に一喜一憂せず、淡々とペナントレースを楽しめればいいのだが、それができない。

2019/04/13

電車の話

 水曜日、神保町帰り。雨。寒い日。地下鉄に乗っていたら、男性(たぶん五十代前半くらい)が乗ってきた。しばらくすると男性はびしょ濡れの折り畳み傘を網棚の上に置いた。網棚の下に座っていた女性の服や鞄にポタポタと水滴が落ちてくる。女性は茫然としていた。男性はすぐ傘を網棚から降ろしたが、一言も詫びず、その場を立ち去った。

 男性はたまたまうっかり濡れた傘を網棚に置いてしまったという可能性もある。水滴が落ちたことに気づいて、すぐ逃げたということは、たぶん悪気はなかったのだろう。
 水滴の被害の女性は黙って濡れた鞄を拭いていた。
 もし自分が濡れた傘の下に座っていて古本を読んでいて本の上に水滴が落ちてきたら……と考えたら平静を保つ自信がない。かといって、追いかけて文句をいうこともしないかもしれない。自分が被害者ではないが、もやもやする。

 話はズレるが、満員電車でリュックなどを前に持ったり足元に置いたりするというマナーはそれなりに浸透した。それでもかなり混んでいる電車の中でもリュックを背負った人は一定数見かける。
 すこし前、夕方、満員の中央線で山登り帰りとおもわれるおじさんがデカいリュックを背負ったまま乗ってきた。電車が揺れるたびにまわりの人にリュックが当たる。周囲の人はリュックを押し返したり、小声で「なんだよ」と呟いたりしていた。
 それでもリュックおじさんは平然としている。強心臓というか鈍感というか。こういう人は満員電車でリュックを背負ったままだと邪魔とおもわれることに、どのタイミングで気づくのか。それとも気づかず一生を終えるのか。

 あと電車の中でイヤホンで音楽か何かを聴きながら、咳払いをくりかえす人がいる。自分は周囲の音を遮断し、まわりに不快な音を聴かせるという行為はずるい気がする。

2019/04/08

怠惰の技法

 日曜日、哲学堂公園に散歩。中野から新井薬師を通り、満開の桜を堪能する。哲学堂、久しぶりに行ったのだが、高低差があって面白い公園だ。花見客もほどよいかんじでのんびりできた。
 帰りは沼袋の氷川神社を通り、野方方面に歩いて高円寺に帰った。

◎今月、香川県高松市の本屋ルヌガンガで『古書古書話』(本の雑誌社)と『些末事研究』第四号の刊行記念の「怠惰の技法 創作の技法」というイベントを開催します。

日時 :4月21日(日) 19:30 – 21:00
場所 :高松市「本屋ルヌガンガ」 〒760-0050 香川県高松市亀井町11−13
参加費:1500円(1ドリンク付) 
定員 :30名

『些末事研究』は創刊号から座談会に参加していて、仕事や生活のことなどを喋ってきた。今回のトークショーのテーマの「怠惰の技法 創作の技法」となっているが、わたしは常々、怠けたり、休んだりしないと仕事もうまくいかないとおもっていて、その考えが正しいと主張するつもりはないが、「労働時間の長さ」だけが評価される世の中はちょっと変だよなと……。

 わたしは就職したことはないが、一時期、一つの職場に長時間拘束されて、家に帰って寝るだけの生活を送ったことはある。疲れてミスをくりかえし、本を探す時間も読む時間もなく、人とも会う時間もなく、旅行もできず、やることなすことうまくいかなかった。
 自分がフリーランスという働き方を選んだのも時間がほしかったというのが大きな理由だ。

 何か企画を考えようとおもったら、一人の時間は必要だとおもうし、遊ばないとおもしろい(とおもう)ことが浮んでこない。自由業の場合も雑務はたくさんある。手を動かす時間だけでなく、いろいろなことを調べたり、考えたりする時間も必要だ。
 さらにいうと目先の仕事と関係ないことをする時間もほしい。そういう時間がないと次の仕事につながらない。

 仕事はいわゆる適性——向き不向きを重視したほうがいい。
 陸上でいえば、短距離と長距離でそれぞれ得意なタイプが分かれるように、仕事のやり方もそういうところがある。
 週五日コンスタントに働くことが合っている人もいれば、週三日くらい集中して働いて後はだらだらしたほうがいいという人もいるだろう。
 共同作業が得意な人、一人でこつこつ働くのが得意な人もいる。
 一日の労働時間にしても短距離型の人はけっこういるはずだ。わたしは三十分おきくらいに休憩しながら働くのが好きだ。

 どんな話をするかはまだ決めてないが、四十代で東京から高松に移住し、半農生活を送っている福田さんの話もいろいろ聞いてみたいと……。

2019/04/04

ヒップとスクエア

 三月末、豊橋まで新幹線、あとは青春18きっぷであちこち寄りながら、京都へ。ホホホ座で橋本倫史さんの『ドライブイン探訪』(筑摩書房)のトークショー。
 本も素晴らしいが、取材の仕方もおもしろい。
 今、多くのライターは取材費に困っている。取材費を稼ぐために仕事をしているようなところがある。取材すればするほど赤字になる。
 トークショーのあと扉野良人さん宅に泊めてもらい(『些末事研究』の福田賢治さんもいっしょ)、翌日、メリーゴーランド京都店の古本市に寄り、三重に帰省する。

 途中、近鉄の青山町駅で途中下車し、初瀬街道を歩いたのだが、泣きたくなるほど寒かった。気温五、六度。しかも快晴の空が一転して雨。山の天気は目まぐるしく変わる。
 ここのところ、街道歩きは雨ばかりだ。
 郷里の家に二泊し、青春18きっぷで東京に帰る。

 旅行中も植草甚一の「ヒップ」と「スクエア」の問題を考え続けた。

《なにか楽しいゲームをやりましょう。仲間に入れてあげるけどルールはちゃんとまもっておくれ。そうしないとヒドイ目にあうぞ。これがスクエアの世界であって、みんながビクビクしながらリーダーのいいなりになっている。そこから制度が生まれ、政府や教会や保険会社や電話局ができあがった。そしてそういういろいろな施設がスクエアを保護し、そのなかで彼らは生活をエンジョイしている。
 だからヒップのほうでは、なんというつまらない生活だろう、と考えるようになるのだ》

「サブカル」と略される以前のサブカルチャーは、政治におけるスタンスだけでなく「世俗に染まらない」「多数派の価値観に順応しない」というスタンスもあった。
「ヒップ」は、ヒッピー、ヒップホップの語源でもある。

 今は「ヒップ」と「スクエア」といった対立軸そのものが曖昧になっている。「スクエア」の一員として安定した生活を送り、「ヒップ」なカルチャーを消費するのが「クール」……というのが皮肉にならないくらい時代風潮は変わってしまった。

2019/03/27

ここ数日

 土・日、本のフェス。本の雑誌商店街で「古本ツアー・イン・ジャパン」の小山さんの隣で古本を売る。古本屋のことを聞くと、何でも即答してくれる。全国各地を飛び回っているせいか、街道にも詳しかった。

 お客さんは初日のほうが多かったが、二日目のほうが本がたくさん売れた。
 初日は他のイベントが目当、二日目は本を買う目的で来た人が多かったのかもしれない。睡眠時間がズレまくる周期に入ってしまい、終始、頭がぼんやりしていたが、楽しかった。
 宮田珠己さんにも会えた。宮田さんも旅メシはコンビニ派だ。わたしが旅先でコンビニのおにぎりばかり食べるのは店に入ると日没までの貴重な歩く時間が減るからだ。
『人生と道草』を刊行している旅と思索社の方とも話をすることができた。以前、このブログでも紹介したけど、『人生と道草』は街道の歩き方を模索中に読み、「自己流の歩き方でもいいんだ」と気づかせてくれた冊子だった。
 会場で西尾勝彦さんの『のほほんと暮らす』(七月堂)も購入。西尾さんの哲学(だとおもう)がすこしずつ浸透していったら、いい世の中になりそう。全頁支持したい。

 新刊の『古書古書話』も会場で販売した。
 サインを書くときに、(何度か)自分の名前を書きまちがえそうになる。
 本の刊行直後は、ふだんの一・三倍くらい神経質になる。ゲラで過去の原稿を何度も読み返し、「粗」をいっぱい見つけ、気が滅入ってしまうせいもある。
 中年のおっさんになった今は「粗」のない本を作ろうとおもったら、十年二十年かかってしまうことがわかっている。十年二十年でも足りないだろう。

 そうした開き直りがいいのかわるいのか。

 高松在住の福田賢治さんが作る「些末事研究」の最新号(特集「働き方怠け方改革」)が出ました。
 わたしも東賢次郎さんと福田さんとの座談会に参加している。わたしはプラスの意味で「怠ける」という言葉をつかい続けている。こちらもすこしずつ世の中に浸透させたい。

2019/03/22

植草甚一のことを考える

 掃除中、晶文社編集部・編『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(二〇〇八年)が出てきた。十年以上前になるのか。
 わたしも執筆者のひとりで「植草ジンクスと下地作り」というエッセイを書いた。執筆時三十八歳。「好奇心の持続」がどうのこうの——といったことを書いている。そのころの自分の大きな関心事だった。今、植草甚一のことについて何か書いてほしいという注文があったとしても、また同じことを書いてしまうだろう。

 同じ本の中に北沢夏音さんの「植草さんのことをいろいろ考えていたら、ムッシュかまやつの『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』を久しぶりに聴きたくなってきた」という文章も収録されている。北沢さんはわたしが書こうとしていたことを別の角度からものすごく深く掘り下げている。

《植草さんの原稿やインタビューを読んでいると、ときどき「落っこちる」という言葉にぶつかる。それは「情熱を失う」ことと同義であって、俗にいうドロップ・アウトとは意味がちがう》

 落っこちそうになると植草さんは「あたらしい関心事」「あたらしい情熱」によって「生まれ変わるように人生をサヴァイヴしてきた」と北沢さんは綴る。

 好きなことを仕事にする。遊ぶように仕事する。
 わたしは植草さんにフリーランスの理想像を見ていた。その理想を体現するための職人気質の部分に焦点を当て「植草ジンクスと下地作り」を書いたのだが、北沢さんのエッセイを読み返し、それだけではないことにあらためて気づかされた。

 四十代後半、五十歳を前にして、ようやく北沢さんのいう「サヴァイヴ」の意味がわかった気がした。

 三十代から四十代半ばにかけてのわたしはそれこそ「職人」の意識で仕事をしてきた。
 依頼されたテーマを決められた字数でまとめる。その技術を磨いていけば、(裕福な生活を送ることは無理だとしても)食いっぱぐれることはない。そうおもっていた。

 しかし技術に頼って仕事をしていると言葉の熱が失われていく。

 北沢さんの文章を読んで、植草甚一の『ぼくは散歩と雑学がすき』(ちくま文庫)の最初のコラムを読み返した。

《ヒップは夜の時間がすきだ。朝の九時から午後五時まではやりきれない。そのあいだの八時間というのは、つまり働いて報酬をうけ、その金を浪費しているスクエアたちの時間だから。スクエアのための時間。そんな時間でうまった世界は荒涼としているし、刺激がない。歩く気にもなれない世界だ》

 ヒップとは何か。スクエアとは何か。
 そのことについて考えないといけないのだが、これから新宿に行く用事がある。この続きはいつかまた。

2019/03/21

本のフェス

 新刊『古書古書話』(本の雑誌社)が本日発売。四百六十四頁。二千二百円(+税)。十年ちょっと続いた『小説すばる』の連載をまとめた本です。横井庄一、竹中労、辻潤、平野威馬雄、トキワ荘、野球、実用書……。そのときどきの雑誌の特集に合わせた回もあるので、けっこう幅広い内容の本になっているのではないかと……。
 恋愛小説とミステリー特集に合わせた回が苦戦した記憶がある。

◎三月二十三日(土)、二十四日(日)に「第四回 本のフェス」が開催。わたしも「本の雑誌商店街」に参加(二日間)、『古書古書話』(本の雑誌社)も発売します。

 二十三日(土)は10:00〜19:00
 二十四日(日)は10:00〜17:00

◎会場 DNP市谷左内町ビル(新宿区市谷左内町31-2)
■本の雑誌が今年も本のフェスに!
3/23(土)・24(日) 全日
今年もやって来ました、本のフェス名物「本の雑誌商店街」!本の雑誌執筆陣や古書店、出版社が本を並べて、わいわいがやがや本や雑誌を販売。今夜のおかずに商店街で美味しい本などいかがですか?
◎出展者 
140B、岡崎武志、荻原魚雷、カンゼン、北原尚彦、キリンストア、国書刊行会、古書いろどり、古書ますく堂、コトノハ、小山力也(3月23日のみ)、
酒とつまみ社、星羊社、盛林堂書房、旅と思索社、八画文化会館、ホシガラス山岳会、本の雑誌社、森英俊、山と渓谷社

◎詳しくは「本のフェス」ホームページにて
https://honnofes.com

2019/03/18

戦前の高円寺

 朝寝昼起。洗濯して荻窪へ。ささま書店、はなやでラーメン、タウンセブンで調味料などを買い、北口の住宅街を通って高円寺に帰る。
 JR中央線の線路と青梅街道が交差するあたりの道を北に向い、天沼二丁目の道(区立天沼児童館などがある道)を東に行くと、ほぼ一本道で阿佐ケ谷駅の北口あたり(世尊院前の信号)に出ることができる。

 先週、台湾で映像関係の仕事をしている人が高円寺に来ていて、高円寺の出版社・有志舎の永滝さんとわたしで戦前の高円寺の話、台湾人作家・翁鬧(おんどう……と読むのかな?)と交遊のあった新居格、辻潤の話などをした。
 翁鬧は昭和十年代に高円寺に暮らし、モダニズム小説を発表していた。
 たまたまなのだが、わたしも永滝さんも父親が台湾生まれ。

 翁鬧は「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」という作品があり、戦前の高円寺の文士や喫茶店の話などを詳細に綴っている。「レーンボー」という喫茶店に行けば、三度に一度は新居格と会えた。あと辻潤の俳句(?)の話もあった。

 一九三〇年代、落合(東中野)、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪界隈は、モダニズム系、ダダイズム系、アナキズム系、プロレタリア文学の作家や芸術家がいた。
 翁鬧が新居格と知り合いなら、同じく高円寺にいた龍膽寺雄とも接点があったかもしれない。

 戦前の中央線沿線に住んでいた作家たちは、よく歩いている。といっても、東京メトロの東西線の落合駅と高円寺駅はたった二駅、高円寺駅と荻窪駅も二駅だ。
 落合も高円寺も戦前の一九三〇年ごろは豊多摩郡(一九三二年に東京市に編入)。
 豊多摩郡は新宿や渋谷の一部も含まれていた。西早稲田、歌舞伎町、千駄ケ谷、渋谷も同じ郡だった。

2019/03/17

近所の散歩

 土曜日、昼。中野郵便局へ。中野に行くときはガード沿いか桃園川遊歩道を歩くことが多いのだが、環七を渡ってあみだくじのように住宅街を歩いてみた。はじめて通った道もあったかもしれない。
 中野五差路に出るくねくねした坂がいい(この道はよく通る)。下り坂で歩幅を小さくする歩き方にもすこしずつ慣れてきた。

 郵便局の用事をすませ、中野駅の北口へ。中野ブロードーウェイを通って古本案内処(また街道本を買ってしまう)。中野ブロードーウェイの中におっさん服(安くて丈夫で派手じゃないシャツ)を売っている店があったのだが、もうない。阿佐ヶ谷のおっさん服の店もなくなった。ここ数年、ズボン以外の衣類は郷里の三重に帰省したときに買っている。
 久しぶりに薬師あいロード商店街(新井薬師参道)を歩く。道幅が旧街道っぽい。道がカーブしている。そのまま歩いていると、新井五差路に出る。
 以前は何ともおもわなかったが、五差路はおもしろい。
 このあたりも西武新宿線の沼袋駅も近い。住宅街を通ってあみだくじ方式で早稲田通りを目指す。はじめて歩く道だが、さすがに中野高円寺界隈では道に迷う心配はない。東京警察病院の前に出る。
 早稲田通りを高円寺に向かって歩く。前から行ってみたかった喫茶に寄る。靴を脱いで店に入る。アイスコーヒー、三百八十円。すべてのメニューが良心価格だ。
 津村記久子著『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社文庫)をゆっくり読む。

 そのあと高円寺の庚申通りで買物して家に帰る。

2019/03/14

まず休む

 四十代最後の確定申告。学生時代からずっとやってきたことだが、慣れない。
 昼前に行ったが、あまり並ばずにすんだ。昨年も同じ日の午前中に行ったが、けっこう並んだ記憶がある。
 さすがに杉並税務署(阿佐ヶ谷)からの帰り道は迷わなくなった。北に向かって青梅街道を目指せばいいのだが、なぜか途中で南の方向に歩いてしまうことがよくあった。阿佐ヶ谷は方向感覚がおかしくなる道がところどころある。

 四十代の十年(あとすこし残っているが)——早かった気がする。老眼が進むのも早い。高校時代から近眼だったが、本を読んだり字を書いたりするのに眼鏡が邪魔になる日が来るとはおもわなかった。いっぽう疲労の回復は遅くなった。

 五十歳を前にしておもうのは、お金より時間のほうが大事だということだ。生活苦に陥るのは困るが、時間があれば、そんなにお金をかけずにのんびりすることができる。急ぎ足だと楽しいこと(読書や旅行)ですら、つらくなることもある。
 中年になると、疲れをとるのに時間がかかる。わたしは暇がなくなると気持が荒んでくる。疲れがたまると、ちょっとしたことで苛々してしまう。
 そうならないためにはぐだぐだ、だらだらする時間が必要なのである。

 仕事にしても生活にしても、あんまり先のことは考えず、一日一日楽しくすごせればそれでいいやとおもっているのだが、疲れてくると、将来を悲観しがちになる。そういうときにあれこれ考えてもすぐ行き詰まる。
 まず休んで、ゆっくり寝て、これからどうするか考えることにする。

2019/03/06

三月になって

 三月になった――と書いてから五日経った。

 三日(日)、ペリカン時代。ミュージシャンで作家で最近はラテン音楽やアフリカ音楽のDJもしている東賢次郎さんのライブ。大盛況。話もおもしろい。
 いいライブだった。東京に来たのは四年ちょっとぶりらしい。年に一、二回、高松や京都で会っていたのでそんなかんじがしなかった。

 今月末あたりに発売予定の新刊の作業中だ。『小説すばる』の「古書古書話」という連載をまとめた本。
 単行本になる前の原稿を読んでいると、自分の変遷みたいなものが見える。ある時期から本の選び方、読み方が変わり、その消化の仕方も変わった。
 本を読んでいるときに気にするポイントが年々変わっている。
 今は十年前みたいな原稿は書けないし、五年前みたいな原稿も書けない。校正しながら「こういう本はもう二度と出せないだろうな」と何度となくおもった。

 原稿に関しては十年分だが、古本屋通いは三十年以上続いている。
 スポーツ関係の本ばかり読んでいた時期もあれば、釣りの本しか読んでない時期もあり、今は「街道本」の底なし沼にはまっている。

 古本屋に行くと、たいてい自分が探している本ではない本を買う。
 明日、自分がどんな本を買うかわからない。
 そうした日々が積み重なって、今に至っている。

 五日くらい前にそういうことを書こうとしていた。

 今は酒を飲みたい気分だ。

2019/02/26

坂の上り下り

 先週、神保町の古書会館、高円寺の西部古書会館に行った。いずれも初日だ。「街道本」蒐集をはじめてから、古書展の初日に行くことが増えた。
 今は道の本だけでなく、散歩や歩き方の本も買っている。
 春からは足が遠のいていた五反田の古書会館にも行く予定だ。そのあと五反田から北品川のKAIDO BOOKS&COFFEEと街道文庫に寄りたい。五反田から品川宿までは歩いて十五分くらいで行ける。

 北品川に街道専門の古本屋とブックカフェがあることは一年以上前に知っていた。まだ東海道と中山道を歩きはじめたばかりで、街道に関する方針が定まってない状態で訪ねるのは畏れ多い気がしていた。杞憂だった。行ってみたら初心者大歓迎という雰囲気だった。

 北品川は町全体が宿場町の雰囲気を残そうとしている。商店街も素晴らしい。
 品川の印象が一変した。

「街道本」を読んでいると、足のマメ、膝の痛みに関する記述を目にする。
 すこし前にわたしも膝を痛めた。何度か足をひきずりながら高円寺に帰ってきた。
 十五キロくらいまではいいのだが、二十キロを越えたあたりから、膝が痛みだす。曲げると痛い。階段の上り下りがつらい。自然と痛いほうの足をかばっているうちにもう片方の足も痛くなる。

 たぶん長距離向けの歩き方とはちがう歩き方をしているだろう。

 家の近所の坂道で下り坂の歩き方を練習している。下り坂は歩幅を狭くて歩く。
 平地と同じ感覚だと、傾斜の分、歩幅が広くなってしまう。それで知らず知らずのうちに足に負荷がかかってしまうのだ。
 膝を痛めてからそのことに気づいた。膝が痛いとだんだん歩幅が狭くなる。自然と足に体重を乗せないような歩き方になる。

 山登りの本などには下り坂歩きのいろいろなテクニックが記されているが(けっこう難しい)、今は歩幅を気にすることに専念したい。

 上り坂は上体をやや前傾気味にして歩く。体重を前方に逃がしながら進むイメージだ。正しい歩き方がどうかはわからないが、昔からそうしている。

 五反田から北品川までの道もゆるやかな長い下り坂がある。街道歩きのいい練習になる。

2019/02/25

焦りは禁物

 昔、回転ダイヤル式の電話機のころ、最後の数字を回そうとして失敗し、最初からかけ直す夢をよく見た。急用があって、公衆電話の場所を探し、ようやく見つけ、十円玉を何枚か入れる。電話番号はおぼえている。途中までは順調。しかし最後に「八」か「九」を回そうとして指が滑ってしまう。
「ああ、またやり直しか」とおもったところで目が覚める。
……という話は、今の若い人には通じにくいだろうか。

 電話をかけそこなう夢はプッシュホン(押しボタン式)になってからも何度か見た気がする。やっぱり焦って最後の数字を押し間違えてしまうのだ。

 わたしはスマートフォンや携帯電話を持っていないのでその夢は見ない。

 すこし前にパソコンのパスワードをおもいだせなくて焦る夢を見た。

 山梨県の石和温泉に宿を予約し、出かける準備をしている。
 宿の名前も場所も電話番号もすべてパソコンの中にある。パソコンを起動させないかぎりわからない。そのパソコンを起動させるパスワードがわからない。

 焦っても何の解決にもならない。焦っている時間ほど無駄な時間はない。

 焦る夢を見るときは何かやらなければいけないことを忘れていることが多い。それが何なのかおもいだせない。

2019/02/22

独学の愉しみ

 今週、川越街道を歩いた。筋肉痛だ。久しぶりに東武東上線の下赤塚にも寄った。三十年前、上京して最初に住んだ町だ。下赤塚、いい町だ。公園も多いし、植物園もあるし、城跡もあるし、東京大仏もいい。
 下赤塚の話(だけではないが)は四月くらいに出る予定のインディーズ文芸創作誌『Witchenkare(ウィッチンケア)』にも書いた。web本の雑誌の「街道文学館」にも書く予定だ。

『フライの雑誌』の最新号の特集は「小さいフライとその釣り」。趣味の世界というのは高じれば高じるほど、外の世界の人にはわけのわからないものになるのだが、『フライの雑誌』は書き手の熱量がすごくて理解できなくても読んでしまう。

《政治家がいい例だが、数字をぶら下げて自分を大きく見せようと考える人間にろくなのはいない。
 釣り人だって、他人との比較で釣った魚のサイズとか匹数とかの数字にこだわりすぎると、まるで営業しているみたいで、だんだ気持ちがざらついてくるのではないか》

 編集発行人の堀内さんの言葉。いつもドキっとすることを書く人だ。
 この数字ハッタリというのは古本の世界でもある。
 わたしもたまにつかう。「蔵書は何冊ありますか」「数えたことはないけど、五桁はあるかなあ」みたいなかんじで。でも「数じゃないんだよなあ」とよくおもう。

 話はそれたが、わたしはこの号で「永井龍男のハゼ釣り」というエッセイを書いた。永井龍男の兄、永井二郎は中央線文士の溜まり場だったピノチオの店主だが、その前は魚藍堂という釣具店を営んでいた。
 永井龍男の著作はたくさんあるけど、永井二郎に関する記述は(わたしの調べ方が足りないせいもあるが)あまり見かけない。
 そのときどきの興味で読み散らかしてきた本が自分の予想外のところで連鎖する。

 わたしは二十代のころから永井龍男の短篇や随筆が好きだった。まさか将来、釣りの雑誌に永井龍男の話を書くことになるとは予想していなかった。しかも永井龍男がハゼ釣りをしていた場所が三重県の東海道筋の“宿場町”なのだ。

 文学にしろ釣りにしろ街道にしろ、掘り下げていけば、どこで何かとつながる。

2019/02/12

橋本治さん

 橋本治の訃報は先週の『AERA』の記事で知った。

 この数年、訃報が日常のような日々が続いていて、人の死にたいして、ちょっと麻痺していた。一々動揺していたら、仕事に支障が出る。
 だけど、橋本治の訃報は堪えた。

 高校時代、一九八〇年代半ばにファンになり、その後、今に至るまでずっと新刊を読み続けている作家は橋本治だけだ(著作が多すぎて、時評しか読まない時期もあったが)。
 上京後、一九九〇年に『'89』(マドラ出版)が刊行された。『'89』のインパクトはすごかった。わたしの周囲の本好きの友人の部屋にはかなりの確率でこの本があった。

『'89』が出た翌年の一九九一年から『ヤングサンデー』で「貧乏は正しい!」という連載がはじまった。八〇年代半ばから九〇年代半ばごろまで、漫画雑誌の「活字」の頁は、読みごたえのある連載が多かった。中でも空前絶後の最高傑作が「貧乏は正しい!」だとおもっている。
 一九九二年の夏、「貧乏は正しい!」の橋本治七十二時間耐久合宿という企画があり、応募して参加した。当時橋本さんは四十四歳。今の自分より若かったとおもうと不思議なかんじだ。
 橋本さんの合宿の年、わたしは大学四年目で卒業できる見込みはゼロという状況だった。大学を中退するかどうか迷っていたとき、この合宿に参加し、橋本さんから「卒業証書(修了証書)」をもらい、気持がふっきれた。これで十分だとおもったのだ。
 一度だけ橋本さんの事務所に行ったこともある。

 このブログでも何度か『貧乏は正しい!』(小学館文庫、全五巻)について書いているが、このシリーズは年に一回くらいは再読している。年末年始、郷里の三重に帰省したときにまとめて読み返すことを自分に課していた時期もある。

《過疎が起こるということは、その場所が、「そこに生まれてそこで育って来た人間の欲求に合わなくなってしまっている」ということだ。だから、過疎がいやなら、その場所を、そこで生まれ育って来るような人間の欲求に合うように変えて行けばいい。ちょっとずつでも、未来の欲求に合わせて、自分たちの現状を変えて行くということを、そこに住んでいる大人たちがすればいい——すればよかった。
 でも、そういうことをしなかった。そういう必要性を理解しなかった。だから、過疎というものは、あっという間に日本全国に広がってしまった。過疎というものは、今やイナカにだけ起こるものではない》

 シリーズ三巻目の『貧乏は正しい! ぼくらの東京物語』の言葉である。
 これほど自分が当事者だとおもえた本は読んだことがなかった。なぜ自分はイナカを離れ、東京に暮らし、そして帰るに帰れなくなっているのか(当然、自業自得という面もある)。自分の置かれている状況を的確な言葉に置き換えることで、世の中の見え方が変わってくる。
「わからない」ことを考える。自分の「わからない」ことを見つける。そうした思考法は橋本さんから学んだ。

 すこし前に『橋本治という立ち止まり方』(朝日新聞出版、二〇一二年)を再読した。この本が出たあたりから病気の話が増えてきた。

《現実社会では経験がものを言う。いくら新しい理論が登場したって、それがそのまま現実社会に適応できるわけはない。(中略)現実と理論の間では、さまざまな妥協が必要になって、その妥協を実現させる主体は、現実の中で生きて、「経験」を体現している人達だ》

《経験則で生きて来た人間と、新理論で生きる者の断絶は、「戦後日本」というものが誕生した時に「将来的な必然」として生まれていたものだろう》

 橋本さんはこの「経験則」と「経験値」の話をくりかえし書いてきた。橋本さんは、何度となく、もう若い人向けのものは書かない、時評はやめる——といっていたが、結局、一度も立ち止まらずに「時評のようなもの」を書き続けた。

 橋本さんの仕事はひとりの人間にこなせる量ではなかった。大きな空白ができた。その空白をどう埋めればいいのかわからない。

2019/02/05

クマ本

 週末、街道旅。日光街道その他の街道を歩いてきた。今、筋肉痛だ。

 旅行前から、山﨑晃司著『ムーン・ベアも月を見ている クマを知る、クマから学ぶ現代クマ学最前線』(フライの雑誌社)を読みはじめる。
 入口は狭いが、奥は広い。副題に「クマ学」という言葉が入っているが、学術書というより、ノンフィクションの読み物として堪能した。

 街道歩きをはじめる前までは、クマについて、そんなに深く考えたことがなかった。どこらへんに生息しているのかも知らなかった。なんとなく北海道とか東北とかにはいそうだなくらいの認識だった。

 甲州街道や青梅街道ですら、クマの出没エリアだと知り、急に身近に感じるようになった。山梨にもクマが出るのかとおもったら東京都にもクマが出る。

《1970年代終わり頃までは、クマ撃ちの漁師は奥山に分け入ってクマを探す必要があったものが、最近は前山と言われる集落の近くでも容易にクマが発見できるという話もよく聞く》

 現在、クマの分布はかなり人里に接近し、ちょっとした散歩やハイキングですらクマと遭遇する可能性があるのだ。

 本書の「クマと遭ったらどうなるか」は勉強になった。
 とにかく背中を向けて逃げてはいけない。クマスプレーも有効とのこと。
 ただし、知識としてクマの対処法を知っていても、現実に遭遇すると冷静な行動はできないものらしい。またクマ(ツキノワグマ)は臆病な動物で人を襲うケースもたいてい防衛本能によるものということも知っておいて損はないだろう。クマのほうが人間を避けることも多いのだそうだ。

 突然、森の中でクマに出会ったら怖いが、何も知らずに出くわすほうがもっと怖い。

 クマの生態以上に、クマの研究者の試行錯誤を綴った部分もおもしろい。「プロ」ですら、クマがどこに出没するのか予想はむずかしい。はじめてGPSが搭載された「衛星首輪」をクマに装着するのに二年かかった――なんて話を読むと、しょっちゅう報われない調べ事をしている身としては勇気づけられる。

 専門分野を追求しながら、社会のことも深く考えている著者の姿勢もこの本の魅力だ。

2019/01/23

書きかけ

 資料がたくさん必要な仕事をして、部屋が散らかっている。コタツの上とそのまわりに本が散乱。途中、仕事でつかう本が行方不明になり、その本を探しているうちに、まったく関係のない本を読みふけってしまい……。仕事と掃除の両立はむずかしい。

 気がつくと、パソコンのデスクトップが書きかけの原稿だらけになる。しかもタイトルをつけずに保存したものが多いため、どこに何が書いたのかわからない。今、その未完成原稿を整理をする暇がないので「書きかけ」というフォルダを作り、とりあえず、そこに入れる。
 どんな文章であれ、書き上げようと強くおもわないと、たいてい未完に終わってしまう。
 書いているうちに、他に気になることがでてくる。無理矢理つなげると、おかしな文章になる。だからそれらは別々に書く。すると、また別の気になることが浮んでくる。その結果、どんどん書きかけの原稿が増える。

 一つ一つ区切りをつけ、次に進んだほうが効率がいい。しかしそれはできない。

 書きかけの文章であってもタイトルくらいはつけたいのだが、いかんせん、書き上げるまで題名がおもいつかない。仮の題をつけるとすれば、大半は「雑記」とか「ここ数日」といったかんじになる。

 整理整頓も仕事のうち。どこかに歯止めがないと際限なくとっちらかっていく。

2019/01/20

冬の底

 毎年のように、このブログで「冬の底」について書いている。寒さが苦手なわたしは、冬のあいだは慎重かつ省エネを心がけ、だましだまし生活しているのだが、それでもおもうように体が動かなくなる時期がある。

 とにかく眠い。寝ても寝ても疲れがとれない。しかも睡眠時間がズレる。一日の大半が頭がまわらず、全身が怠い。熱が出たり食欲がなくなったりするわけではない。ただし、活字が頭にまったく入ってこない。おそらく、ガス欠みたいなものだろう。一年を通し、自分の不調のどん底みたいなものが「冬の底」だ。たぶん、昨日がそうだった。いつもは二月のはじめごろのことが多いので、今年はすこし早めにきたようだ。

 すこし前まで、今年の冬はいつもと比べると楽だとおもっていたのだが、そうではなかった。
 丸一日、ひたすら休養し、頭のなかのもやが晴れた気分になった。ためこんでしまった仕事にちょっとひるむ。でも毎年乗り切っているのでなんとかなるだろう。

2019/01/11

旅の本

 年明けの読書は牧野伊佐夫著『画家のむだ歩き』(中央公論新社)、それから池内紀著『東海道ふたり旅 道の文化史』(春秋社)でスタート。
 牧野さんの本の「ふろ会」というエッセイでは、高円寺の抱瓶、古本酒場コクテイル、唐変木のイラストが入っている。
 あと「甲府で家さがし」というエッセイに「晩年は田園のなかに暮らして絵を描きたい」という言葉があった。

 わたしも昨年石和温泉あたりの物件を見てきた(今すぐ移住する予定はない)。
 甲府も候補のひとつだったが、駅がちょっと大きすぎるとおもった。もうすこしこじんまりとした駅の町がわたしの理想だ。

 池内紀著『東海道ふたり旅 道の文化史』は刊行前から気になっていた本だ。
 わたしは郷里が東海道沿いで、東京との行き来も東海道線ばかりつかってきた。でも長年、東海道の宿場や歴史のことを知らずにいた。この齢になって、地元のことすら、知らないことばかりだ。知らなかった街道や郷土史について知識が増えていくにつれ、日本の見方もすこしずつ変わってきている。
 駅前なんてどこも同じ、ロードサイドはチェーン店だらけ……なんておもっていたが、旧街道を歩くとその印象が一変してしまう。多様性は自分の興味や関心の持ち方にも左右される。
 釣りに興味を持つ前は川の魚をほとんど知らなかった(子どものころに釣りをしていた時期もあるが、ほぼ海釣りだった)。知ろうとおもわなければ、見えてこない。

 東海道に関しては、静岡から名古屋(鞠子〜宮)、滋賀(土山〜草津)のほうは行ったことのない宿場が多い。

 通り過ぎてきた場所に途中下車していくだけでもどれだけ時間がかかるのかわからない。

2019/01/05

年末年始

 大晦日、妻といっしょに三重に帰省。桑名に寄り、七里の渡し跡を見て、東海道を歩く。
 桑名からはJR、快速みえで鈴鹿駅へ。桑名駅からスイカで駅に入ったら、伊勢鉄道の鈴鹿駅では使えない。キャッシュレス社会の道は険しい。
 鈴鹿ハンターに行き、ゑびすやで天もりうどん。ゑびすやのうどんを食わないと鈴鹿に帰ってきた気がしない。

 元旦、近鉄の平田町駅からバスで加佐登神社に行く。初詣。加佐登神社はヤマトタケルの笠と杖がまつられている神社である。すぐ近くに白鳥塚古墳もある。
 広重の「庄野の白雨」の絵を見たとき、加佐登神社から橋を渡ったところの坂道あたりの絵ではないかとおもった。
 今回歩いてみて、すくなくとも庄野宿の近くよりは加佐登神社付近の坂のほうが白雨の絵の光景に近いかなという気がした。自信はないが。

 加佐登神社から庄野宿まで歩き、そこからバスで鈴鹿ハンター。長袖シャツ、靴下などを買う。この日は寿がきやの野菜ラーメンを食う。

 翌日、青春18きっぷで名古屋から中津川駅、中津川駅から木曽福島駅へ。雪がすこし積もっている。福島宿を訪れるのは二度目だが、素晴らしいとしかいいようがない。しかし冬は寒い。氷点下の空気は顔が痛くなる。
 関所のあたりまで軽く歩く。駅に戻ると足の指が爪ですこし切れていた。寒さで痛みが麻痺していてわからなかった。雪が降ったときのことを想定し、いつもとちがう靴をはいたのがよくなかった。靴や足のコンディションについてはまだまだ勉強しないといけない。

 木曽福島駅から塩尻駅へ。駅前のほっとしてざわが閉まっていたので庄屋で晩メシ。大繁盛。
 行きは東海道、帰りは中山道(+甲州街道)で東京〜三重を行き来するようになり、もっとも宿泊しているのが塩尻である。塩尻に宿をとっておくと安心して、いろいろなところで途中下車できる。帰りも甲府まで出てしまえば、高円寺まであっという間……ではないが、だいたい座って帰ることができる。
 塩尻から甲府までの景色も好きだ。
 帰省ラッシュのピークの一月三日でも座って帰れた(混んでいたが)。
 18きっぷの季節なら名古屋から新幹線で東京に帰るより、一泊二日で中央本線で帰るほうが安い。こんな快適なルートに気づかなかったのは不覚だ。しかし寒い。貼るカイロのおかげでどうにか乗りきれた。

 東京に帰り、夜、仕事。余力を残して旅行から帰ってこれるようになったのは成長といえよう。