2010/11/26
盛岡の話
盛岡の雑誌『てくり』のことを紹介している文章なのだが、さらっと深いことが書いてある。
《この雑誌の肩書には、「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」とあるのだが、おれがおもうに、「ふだん」を語るのは、とても難しい。
たいがい、「伝えたい」「残したい」ものは、「ふだん」「ふつう」より、なにかしら「特別」で「非日常」で「群をぬいている」ことに寄りかかって偏りがちだし、世間の「文化財」だの「職人技」だの、「まちの誇り」というものは、そういうことで伝わり残っている》
《それは、とりもなおさず、「ふだん」「ふつう」の生活を上手に語れない、なにかしら人前で語るとなると、そこに「文化的」「芸術的」に高度な雰囲気をもたらす「言葉」が必要であるという》
もちろん、遠藤さんはそうした高度な「言葉」を肯定しているわけではない。
田舎にいたとき、わたしは「文化的」「芸術的」な雰囲気に飢えていて、自分も都会に出て、そういう世界で生きたいとおもい続けてきた。
そのせいか「ふつう」と「特別」に引き裂かれた、どっちつかずの中途半端な状態に陥りがちである。今もそうだ。だから「ザ大衆食つまみぐい」を読んで考えさせられた。
つい「印籠語」もつかってしまうし……。
でも「あっ」と声が出そうになったのは別の理由。
上京後、十代後半のかけだしのフリーライター時代に憧れていた人がいる。
文章も好きだったが、酒の飲み方や遊び方が、まぶしいくらいかっこよくおもえた。
たまにホームパーティーのようなものをひらくと、薄汚いかっこうをしたわたしやギター小僧だった友人をまねいてくれた。
部屋には、民族楽器がいろいろ転がっている。「なにかやれ」といわれると、友人と即興で歌をうたったり、踊ったりした。
怒るとちょっと(かなり)怖いところもあったけど、後にも先にもあんなに心をこめて若者を叱咤激励する人には会ったことがない。
その人の名前が今回の遠藤さんのブログに出てきておどろいたのである。
《林みかんさんは、なぜ呑み屋を始めたかについて、こう語る。「店をやろうと思ったのは、わりと最近。ある日、ふっと。つれあいが亡くなって、そう頻繁に人を招いてばかりもいられないし料理欲を満たすという意味では、店をやるのがいいかなと」》
東京から盛岡に移住するという話を聞いたときは、正直「なんで?」とおもった。
十年前、花見の季節のころ、みかんさんの家に遊びに行ったら、その疑問はすぐ氷解した。
地元の不良中年が次々と集まってきて、歌をうたったり、楽器をひいたりする。庭に桜の木がある家で手料理と酒をごちそうになった。
夜、酒を飲みながら、いっしょにRCサクセションのライブビデオを観た。
いっぺんで盛岡が好きになったくらい楽しい時間だった。
みかんさんからすれば、それが「特別」でも「非日常」でもない、「ふだん」の生活なのだとおもう。
まだ盛岡の「みかんや」には行ったことがない。
※ザ大衆食つまみぐい 「ふだん」を上手に語る『てくり』の魅力。
2010/11/24
答えの出ない問い
答えを出すということは、何か切り捨てることでもある。何かとは躊躇、逡巡、葛藤、その他もろもろの煮え切らない気持といってもいい。
どんなに迷っていても、将棋であれば、次の一手を選ばなければならないし、麻雀であれば、牌を捨てなければならない。
しかし人生の場合、自分の手番なのかどうかすら、わからないことが多い。
煮え切らない人というのは、同じことをくりかえし考える癖がある。
とにかく決断しなければ、先に進むことができない。
答えを出すことを先送りにしているうちに、いろいろなことがうやむやになる。だからいつまでも迷い続けてしまう。
目標やゴールを設定し、それにむかって邁進する。
わたしはずっとそういう生き方が苦手だった。
決断することの大切さは痛感している。
だけど、でも、うーん。
性格や体質はそうすぐには変えることができない。立ち止まってしまうと、だんだん動くことが億劫になる。かといって、自分のペースを無視して動こうとすれば、すぐ息切れしてしまう。
そのいっぽう、三十代後半あたりから、煮え切らなさを持続することがしんどくなってきた。
ときどき、中断したまま、うやむやになっていることを切り捨てて、楽になりたいとおもう。
同じ場所に立ち止まっていると、下り坂から転がり落ちてしまうのではないかという不安もある。ところが、書こうとして書けなかったことの未練が重しになって、どうにかふみとどまっているようなところもある。
……というわけで、未完。
2010/11/18
黒岩比佐子さん
その前後の記憶が飛んだ。
気がついたら、ふらふらと神保町を歩いていた。
黒岩比佐子さんとはじめて会ったのは、五反田の古書会館である。古本仲間数人と戦利品をかかえ、ハンバーガーショップに行って、お互い、自己紹介をした。
どんな紹介だったかは忘れてしまったが、わたしは「伝書鳩の人」とおぼえた。
収入のほとんどを資料代に費やしているという話も聞いた。
つい数ヵ月前、「『パンとペン』って『活字と自活』みたいなタイトルでしょ」と話しかけられた。
黒岩さんは、明治大正の世界を自在に見聞きできる貴重な目をもっていた。まだまだいっぱい書きたいことがある人だったし、書いてほしかった。
でも古本を通して年齢の倍以上の時間を生きたとおもう。そうかんがえてやりきれなさを誤魔化そうとしてみたが、無理。
また飲んだ。二軒目の店でNEGIさんと会った。
2010/11/15
まだ脱線
——この話は個別の案件であって、有無をいわせないような才能があったり、周囲との衝突や摩擦を苦にしない人には関係ないといってもいい。
食うに困らない身の上であれば、問題の九割くらいは解決してしまうかもしれない。
長年、やる気のなさや社交性のなさを自覚しつつ、ごまかしごまかしやりくりし、それなりに生きるための工夫はしてきた上でのていたらくなのである。そこを否定されると立つ瀬がない。立つ瀬がなくても仕事をしないわけにはいかない。
昔、友人との愚談で「われわれは仕事がきらいなわけでも、社交性がないわけでもなく、ただ、そのための燃料のようなものが、ちょっと人より不足しているだけではないか」という話になった。わたしは「そうだ、そのとおりだ」と同意した。
たとえば、コタツにはいって酒を飲んで寝っ転がっているとき、わたしはよく喋る。あるいは原稿を書くのも、机の前に座っている時間は一日三時間くらいが限度だが、布団の中であれこれ考えている時間はかなり長い。脳というのはものすごくエネルギーをつかうといわれている。おそらく、どうでもいいことを考えてばかりいるから、疲れるのである。
その結果、からだを動かしたり、人前で明るくさわやかにふるまったりするための燃料が足りなくなるのではないか。つまり、こんな屁理屈ばかり考えているから、社交性がなくなってしまうのである。
三十代後半くらいから、あちこち旅行したり、外で飲み歩いたりする機会が増えたのは、二十代のときよりも考える時間が減ったからかもしれない。
自分の考えていることをブログに書くことによって、書いたことの続きから考えることができるようになった。長年の堂々めぐりの蓄積によって、思考の省略が可能になったともいえる。
その分、文章が薄味になってきているという自覚もある。掘下げなくてもいいことを掘下げたり、考えなくてもいいことを考えたり、そうした非効率な作業をどんどんしなくなっている。言葉にする前にジタバタする時間も減った。
……話がどこに向かうかわからなくなっているが、続ける。
2010/11/13
個別の案件
もともと癖が強くて社交性のない人間にとっては「内輪受け」すらむずかしいのである。
社交性がない人というのは、他人に非寛容であることが多い。他人に非寛容にされるから、非寛容になるのか。非寛容になるから、非寛容にされるのか。どちらが先かはわからない。
この話は個別の案件であって、有無をいわせないような才能があったり、周囲との衝突や摩擦を苦にしない人には関係ないといってもいい。
集団行動が苦手な協調性のない人の生息領域はずいぶんせばまっている。統計があるわけではなく、あくまでも実感でしかないのだけど、この十年、二十年で五分の一くらいに減少しているのではないかとおもう。
不況の影響もあるだろう。競争がきびしくなると、ある種の癖の強い人は排除されやすい。就職するにせよ、バランス感覚があって何でもできる人(またはその意志のある人)でないと採用されにくい。
今回の話に該当するようなタイプは、排除されるか、囲いこまれて二進も三進もいかなくなるか、どちらかの選択しかなく、出口の見えない状況にある。
たぶん、昔のほうが「しょうがねえ奴だなあ」といいながら、偏屈で不器用な若者を調子にのせるのがうまい大人の数は多かった気がする。
どこの世界にも、素直で明るい若者だけでなく、そういう若者をおもしろがる人がいたわけだ。
長所と短所は表裏一体で、ある種の欠点はその人の独自性につながる。
順調な人があまりしない失敗や挫折を経験し、そういう経験をしたことのない人が考えないことを考える。そうした経験や思索が底にとごっている人の表現というのは、一見わかりにくいところもあって「一般受け」はしにくい。
……この話、もうすこし続ける。
2010/11/12
奇特な人
巌松堂は均一台の本ばかり買っていたが、それでも神保町に行けばかならず寄る店だった。
週一回、巌松堂、田村書店、小宮山書店の均一を見て神田伯剌西爾でコーヒーを飲む。それから小諸そばでから揚げうどんを食う。帰りは岩波ブックセンターの並びの古本屋に寄りながら九段下に向かう。
東京メトロ東西線で九段下駅から中野駅で降り、中野ブロードウェイに寄り道して高円寺に帰る。
秋以降、中野から高円寺までよく歩くようになった。
『本の雑誌』の十二月号で、坪内祐三さん、古書現世の向井透史さんとわたしの対談が掲載されている。向井さんとの対談は、西荻ブックマークのときの再録である。
東川端参丁目さん、松田友泉(u-sen)さん、橋本倫史(HB編集人)さんの鼎談もある。リード文に「第二の荻原魚雷を夢みる」云々とあるが、絶対に夢みてないとおもう。
二十代のころのわたしはまったくハキハキしたところがなく、やる気のない若者だとおもわれていた。
たぶん、そういう性格はなかなか変えられない。「こいつはだめだ」とおもわれている場所にいるとますますだめになる。編集者と打ち合わせをしていても「ああ、自分は何も期待されていないなあ」とおもったり、「場違いなところに来てしまった」と悔やんだりしてしまう。
ほんとうは見返してやるくらいの気持があったほうがいいのだろうが、一度だめなやつというレッテルを貼られてしまうと、ちょっとやそっとのことではその印象を変えられない。
相手の認識を変えさせるのは、自分の性格を変えるよりもむずかしい。
しかし百人中九十九人にだめだといわれても、一人くらいはおもしろいといってくれる人がいる。そういう奇特な人を探すしかない。仕事につながらなくてもいい。
できれば自分もそういう奇特な人間になりたい。
一般受けしないおもしろさを発露する場に飢えている人はけっこういる。そういう人と手を組んで、お互いに自分たちの(わかりづらい)得意ネタを引き出し合う。そうこうするうちに相手のツボもわかってくる。
不特定多数を相手にすれば、萎縮して何もいえなくなるけど、徐々に身近なあぶれ者(お互い様)を楽しませることができるようになる。「これをおもしろいとおもっている人間は自分だけではない」という自信がつく。そうすると、これまで萎縮していた相手にたいしても、すこしずつ立ち向かっていけるようになる。
わかりやすい才能がない人間は「一般受け」ではなく「内輪受け」をどれだけ広げていけるかに賭けるしかない。
では、どうすれば「内輪受け」を広げられるのか。
2010/11/06
今日から外市
「外、行く?」
第23回 古書往来座 外市〜軒下の古本・雑貨縁日〜
南池袋・古書往来座の外壁にズラリ3000冊の古本から雑貨、楽しいガラクタまで。敷居の低い、家族で楽しめる縁日気分の古本市です。7月、9月と暑すぎる気候が続きましたが、いよいよ外市日和の時期到来。2010年度最後の開催となります。
■日時
2010年11月6日(土)〜7日(日)
雨天決行(一部の棚などは店内に移動します。)
6日⇒11:00ごろ〜19:00(往来座も同様)
7日⇒12:00〜18:00(往来座も同様)
■会場
古書往来座 外スペース
東京都豊島区南池袋3丁目8-1ニックハイム南池袋1階
http://www.kosho.ne.jp/~ouraiza/
→池袋ジュンク堂から徒歩4分
→東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅・2番出口から徒歩4分
→都電荒川線「鬼子母神前」電停より徒歩6分
▼メインゲスト
盛林堂書房 from 西荻窪
http://d.hatena.ne.jp/seirindou_syobou/
2010/11/05
京都から博多、また京都
知恩寺の古本まつりを見て、山田稔さんを囲む会に参加する。そのあと古書善行堂もうでをして、東京に帰る。三泊四日。
*
えいでんまつりの一箱古本市の会場は屋根もあって、おにぎり、弁当、焼きそば、電車焼(電車の形のどらやき)などを販売するブースもあった。
さっそく電車の中で古本を並べる。向かいは林哲夫さん、隣は名前がわからず「ええ本売っている人」と呼ばれていたブック・アット・ミーという屋号の方。この方、本だけでなく、電車の模型など、鉄道グッズも売っていて、ずっと人だかりができていた。
お客さんは、鉄道マニアが大半、家族連れが多かった。
わたしは完全に選書失敗(文学系を揃えた)……かとおもいきや、山本善行さんが『京都画壇周辺』(用美社)を買ってくれたおかげで、なんと、売り上げ一位になってしまった。
ブックオカは、着いたのが、午後二時すぎ。荷物をもったまま、けやき通りをかけ足でまわる。そのあと徘徊堂に行ったら、店内にかえるさんがかかっていてレジで「かえるさんですね」といったら、変な人を見るような目をされた。
バンドワゴンで値段のついていない石黒敬七の本があって、「いくらですか」と聞いたら、「これは高いよ」というので、緊張したのだが「千五百円」といわれて、もう一冊の本はおまけしてもらう。
夕方、いったんビジネスホテルに荷物を置いて、ちょっとのんびりしていたら集中豪雨。ほんとうにゴーっと音が鳴るような雨で、夜、中洲の屋台に行くのを断念し、結局、ホテル近くのラーメン屋(居酒屋みたいなところ。激安)で、店内の日本シリーズを見ながら、ラーメンをつまみにハイボールを三杯飲んだ。
これといった予定のない旅行だったので、下関では一時間くらい駅周辺(駅の改札すぐ前の名店街にブックセンターという古本屋があって、通学前の高校生が文庫本を立ち読みしていた)をぶらいついて、電車に乗って岩国に向かい、岩国の古本屋に行くつもりが、駅を出たら錦帯橋行きのバスが止まっていたので、何も考えずに乗って、何も考えずに観光し、そのあと一度も降りたことがなかった福山と笠岡の駅周辺を歩いて、倉敷の蟲文庫へ。
翌日、再び京都に戻り、山田稔さんを囲む会があると扉野さんに聞いて、飛び入りで参加させてもらう。
編集者時代の古山高麗雄さんの話を教えてもらったり、逆に、佐藤泰志の『海炭市叙景』のことを質問されたり、富士正晴、久坂葉子の話を聞いたりして、あっという間に時間がすぎた。
今は目の調子があまりよくなく、一日三十分くらいしか本を読んでいないとのことだったが、「名医を紹介してもらったけど、目が見えなくなるのが先か、寿命が先か、わからないから、手術するのやめちゃったんですよ」と冗談っぽくいっていて、話を聞いているだけで、齢をとるのもわるくないなあという気になる。
新刊の『マビヨン通りの店』(編集工房ノア)を持っていけばよかった。
東京に帰ると仕事が山積み。今週末の外市に出品する本の値付をする。今回はけっこう珍しい本があるかも。