2024/07/30

絵すごろく

 高校野球、三重県大会は菰野高校が十六年ぶりの優勝(鈴鹿高校も惜しかった)。いい決勝戦だった。

 『フライの雑誌』最新号「イブニング&ヒゲナガの釣り」。齊藤晃大「大学生活黙示録 留年篇」、大木孝威「無職亭釣日乗 明日はどうなる」など、昨今の文芸誌ではなかなか読めない私小説感溢れる文章(傑作)が読めて嬉しい。気のせいかもしれないが、同誌の執筆陣、仕事(生活)と趣味のバランスがおかしい人ばかりなのでは……。

 わたしは「健康でなければ釣りはできない 緒方昇と釣り」で富士川と笛吹川の話を書いた。緒方は『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)にも掲載されている釣人で新聞記者である。

 土曜、朝寝夕方起。夜明け前(午前四時ごろ)に散歩をするようになって睡眠時間がズレまくる。頭がまったく回らない状態で西部古書会館に行く。雨が降りそうな空模様。雷が鳴っている。山本博文監修『江戸の絵すごろく』(双葉社、二〇一八年)、『愛媛新聞創刊100周年記念 子規と漱石 その交遊と足跡』(愛媛新聞社、一九七六年)など。

『江戸の絵すごろく』はアウトレット本。東海道双六、膝栗毛の双六などもカラーで掲載。双六やカルタもそうだが、遊びながら地理や文芸の学習になる。よい文化だなと。

 すこし前に読んだ西村享著『旅と旅人 日本人の民俗4 都鄙の交流』(有楽選書、一九七七年)の第一章は「都と鄙」——「『ふりだし』と『あがり』」ではじまる。

《旅の道中の知識は、もっと本格的になれば道中記や名所図会の類によることになるが、そのほんの初歩のところを遊戯の形に移したところに道中双六の人気の因があったのであろう》

 さらに『旅と旅人』は浄瑠璃の『伊賀越道中双六』にも触れている。「伊賀越」は「日本三大仇討ち」の一つ。

 遊びを通して身につく知識はあなどれない。わたしは学生のころ『スーパー伊忍道』というゲームにはまり、戦国時代の地理(旧国名など)を学んだ。中年期以降、遊びながら何かを身につけるという経験が減った気がする。ゲームの『桃太郎電鉄』も双六といっていいだろう。

『子規と漱石』の文学展は松山三越七階特設会場で一九七六年三月開催。同パンフには「かまち用」というシールは貼ってあり、「愛媛大学蒲池文雄」と名前が記されている。蒲池文雄は愛媛大学教授(日本文学研究者)。同パンフレットにも原稿の寄稿などの協力者として名前が出ている。「交遊 大学予備門から大学時代」を担当したようだ(赤のボールペンで蒲池稿と書いてある)。

 正岡子規の上京(一八八三年)は松山市の三津浜から神戸、神戸から横浜と船旅だった。三津浜は行きたい(道後温泉は二回行った)。三津浜〜山口の柳井港の防予フェリーがある。防予フェリーは周防大島の伊保田港にも寄港する。

2024/07/26

末広(末廣)五十三次

 連日猛暑日、湿度も高い。自分は寒さに弱く、暑さに強いとおもっていたのだが、今年の夏は無理やな。昨今の高校野球にはクーリングタイムがあるが、寒暖差疲労は大丈夫なのか。でも昔の「水分補給禁止」みたいな根性論が廃れたのはよいことだ。

 水曜、神保町。神田伯剌西爾アイスコーヒー。『特別展 江戸の街道をゆく 将軍と姫君の旅路』(東京都江戸東京博物館、二〇一九年)——カラーで二百頁以上、折り込みの絵巻の頁あり。街道関係の資料を集めはじめて八年になるが、こんな図録があったとは……。手間のかけ方がすごい。分厚くて重い。読み終えたあと、これほど満ち足りた気分になったのはひさしぶりだ。二〇一九年に特別展が開催されれいたことに気づかなかったのは不覚である。

『特別展 江戸の街道をゆく』の幕末(慶應元年)の歌川広重(二代)らによる「末広(末廣)五十三次」の展示は見たかった。慶応元年の上洛では、江戸から東海道、名古屋から美濃路〜中山道(美濃廻り東海道)を通っているのだが、「末広五十三次」は伊勢廻りの東海道を描いている。徳川家茂一行が上洛する前から絵師たちが制作をはじめたようだ。

 参勤交代や日光社参の図、文久の「東海道名所風景」の一部も収録。鳥瞰図っぽい絵も多い。それにしても鳥瞰図を描く人の頭の中はどうなっているのか。不思議である。

 一日五時間くらい街道の研究(本を読んだり地図を見たり)をしているのだが、自分の切り口というか、独自の角度(ある種のこだわり)みたいなものが足りない。たぶん知らないことを知るだけで楽しい時期が続いているのだろう。

 街道について調べていると、どこもかしかも長年にわたってフィールドワークしている地元の郷土史家、愛好家がいて「こりゃどうやってもかなわん」みたいな気分になる。街道研究の場合、「地の利」がものをいう。もちろん東京にも「地の利」がある(古本屋が多いのもそう)。

 郷里(三重県鈴鹿市)に帰省したとき、伊勢・近江・美濃の街道を中心に鉄道+徒歩の散策したい。あと鈴鹿は愛知県の三河地方と船の行き来があったので、そのあたりのことも調べてみたら面白そうだとおもいつつ、何もしていない。家康の伊賀越(本能寺の変のあと、鈴鹿まで逃げのび、船で三河に戻った)も関係あるのかどうか。
 そのときどきの気になることを掘り下げていくうちに自分のとっかかりが見えてくる。見えてくるまでかなり時間がかかる。

 どうやって時間を作るか。そんなことを考えながら、高校野球の予選や相撲(十両の取組)を見ている。

2024/07/23

夏バテ散歩

 月曜夕方荻窪散歩。前日飲みすぎたので行きは電車。古書ワルツで『前田晁・田山花袋・窪田空穂 雑誌『文章世界』を軸に』(山梨県立文学館、一九九七年)、高木正一注『白居易 中國詩人選集』(上下巻、岩波書店、一九五八年)など。
『文章世界』は博文館の文芸誌(投書雑誌だった)。一九〇六年創刊。編集発行人は田山花袋、長谷川天渓、加納作次郎らがつとめた。

《人が読みそうなものは小さく扱い、そうでないものを大事に扱うという編集方法で読者を引きつけた》

 ユニークな編集方針である。窪田空穂の歌集と随筆も読みはじめている。長野・松本の窪田空穂記念館に行きたい。

 すこし前に阿佐ケ谷・古書コンコ堂で武田利男訳の『白楽天詩集』(六興出版、一九八一年)を買った。装丁は富士正晴。疲れているときに漢詩の訳文の文体が心地よく、気持が和らぐ。白居易、老いに関する詩もけっこう書いている(七十四歳没)。

 荻窪から杉並中学・高校近くの道を通って阿佐ケ谷へ。一見、住宅街なのだけど、カレー屋、中華料理店、サンドイッチの店、寿司屋などがある。斜めの道がいい。すこし南に釣り堀の寿々木園がある。寿々木園の向いのファミリーマートで一休み(二階に喫煙コーナーあり。窓から釣り堀が見える)。寿々木園の周辺は暗渠もある(井伏鱒二著『荻窪風土記』新潮社に阿佐ケ谷の堀の話が出てくる)。
 湿度が高く、汗が出る。年をとると、喉の渇きが鈍くなる。意識して水分を補給する必要がある(この日は水筒持参)。阿佐ケ谷のビーンズで涼む。中央線のガード下、電気がついていないところがあり、暗い。ビッグ・エーで涼む(冷凍のパスタを買う)。

 本を読むのも散歩をするのも楽しいときもあれば、そうでないときもある。でもたぶん続けることに意味がある。低迷しているなとおもうときも古本屋に行き、本の背表紙を見る。これまで興味がなかった本を買う。読む。飽きないように燃え尽きないように、だらだらとぼとぼ生きる。

 納豆となめこのそばを作る。ネバネバ食材は夏バテ予防になる……と信じている。

(追記)荻窪に行く前、一万円札をくずそうとスイカのチャージしたら、お釣りに新札の五千円札があった。千円、一万円の新札はまだ入手していない。

2024/07/21

DAIBON

 土曜昼三時、西部古書会館。今村秀太郎『大雅洞本』(並製、古通豆本、一九七九年)、『サライ』特集「金、絹、砂糖…を運んだ『物産街道』を歩く」(一九九九年十月二十一日号)、名古屋市博物館編『写真家 寺西二郎の見た昭和 表現と記録』(風媒社、二〇〇八年)など。『サライ』特集「物産街道」面白い。岐阜美濃から琵琶湖東岸の朝妻湊の「紙の道」は水路と陸路をつなぎ、近江、京へ。

《長良川を下り、揖斐川の支流牧田川沿いの船附・栗笠・烏江の三湊に荷揚げされた美濃紙は九里半街道を運ばれた》

 美濃紙の歴史は奈良時代まで遡る。「紙の道」は米原、関ヶ原などを通る中山道(東山道)とも重なる。木曽三川は流れが変わっているので「紙の道」も時代により経路の変遷があったとおもわれる。

『写真家 寺西二郎の見た昭和』は二〇〇五年刊の復刻、昭和三十年代、四十年代の名古屋の写真集。わたしは昭和の最後の年に名古屋の予備校に通っていたのだが、再開発前の名古屋駅周辺の写真を見ると懐かしさがこみ上げてくる。

 夕方、大和町八幡神社の大盆踊り会(DAIBON)に行く。途中、あづま通り、ヨーロピアンパパの店頭ワゴンで尾仲浩二責任編集『街道マガジン』(vol.4、二〇一七年)を買う。早稲田通りをこえたあたりから雷が鳴り出す。住宅街に提灯もちらほら。珍盤亭娯楽師匠のDJ盆踊り(「NEBUTA BOUND GET DOWN SNOW FUNK」など)を見て、生ビールを飲んで帰る。雨が降りはじめる。大和町八幡神社は小さな参道もあり、日課の散歩でよく寄る。

 深夜、豪雨になる。

2024/07/19

怪談

 水曜夕方、御茶ノ水。夜七時すぎ、一橋徳川屋敷跡から代官町通りを歩く。途中、東京スカイツリー、東京タワーを見る。千鳥ヶ淵をこえ、麹町。何度か歩いているコースだけど、麹町駅付近でいつも方向感覚がおかしくなる。一時間くらいで四ツ谷駅。汗をかいた。中央線快速、けっこう空いていた。

 十九、二十歳のとき、麹町の編集プロダクションに出入りしていた。電話番が主な仕事だった。
 同じころ、月に二回くらい水道橋にあった会員制の情報紙の会社でも発送業務の手伝いをした。封筒にニュースレターを入れて郵便局の夜間窓口に持っていく。一回五千円。手書きの原稿をワープロで打ち直すアルバイトもした。記憶があやふやになっているが、水道橋の会社で田原総一朗さんの姿を見かけたことがある。一九三四年生まれだから当時五十五歳。急に思い出した。あれから三十五年。秋にわたしも五十五歳になる。

 鮎川信夫著『私のなかのアメリカ』(大和書房、一九八四年)を再読。「コラムニストの椅子」の章に「怪談」というエッセイがある。
「昨年の暮に、田村隆一と会った」という一文からはじまる。「昨年の暮れ」は一九八二年の暮れと文中にあるから、鮎川六十二歳、田村五十九歳。四十年をこえる付き合いだが、会うのは四年ぶり。

《あれこれ考えてみたが、うまい答えが浮ばない。何か知らないけれど、友人関係を保つエネルギーがひどく稀薄になってきているというのが一番の正直な答えなのだろうが、それも表面的な話で、本当はどうか分らないのである》

 そしてテーマが老後に移る。

《世界史に類のない高齢化社会の到来で、この国は、年を追うごとに頭を痛めるようになっている。これからは、誰にとっても老後が大問題になるだろう》

 鮎川信夫は「老後対策皆無」と書いている。六十六歳で亡くなっているから、老後の心配は必要なかったといえる。

《私にしてみれば、人生という切れ目のない続きを続けているだけで、どこから老後という仕切りがないのである。ただひた走るだけ——そう思っていれば、歩行困難に陥っていた足も、自然と治ってしまうのである》

 ひさしぶりに「怪談」を読み返し、「おっ」とおもったのは次の一節。

《私たちの青年期には、癩と結核が恐ろしい病気だった。どんな人でも、この二つの病気を怖れていた。若くしてこれらの病気で死なねばならなかった人たちからみれば、そんな恐ろしい厄病から解放された今の世は極楽で、老害によって二度わらしが増えていることなど、ぜいたくな悩みということになってしまうだろう》

 二度わらし(二度童子)は年をとってまた子どものようになること。認知症のこと。四十年前のエッセイに「老害」という言葉が出てくる。そこで「おっ」とおもった。今の「老害」とはニュアンスがちがう。手元にある一九八六年の国語辞典には「老害」は載っていない。
 最近、「老い」について考えているせいか、本を読んでいても、つい「老」という字に反応してしまう。中国語だと「老」はいい意味でつかわれることも多い。
「老大」は「ボス」という意味もある。李暁傑「老大」という中国のヒット曲があって、それで知った。DJ版「老大」をたまに聴く。

2024/07/14

雑記

 次から次への予想外のことが起きる。ドナルド・トランプ前大統領、無事でよかった。

 前からなんとなくおもっていたことだが、民主主義というか社会システムのあり方としてはトップに立つ個人の影響力をなるべく抑えたほうがいいのかもしれない。

 たとえば政権が変わったり、政権の中核を担う人材が途中でやめたりしても、いつも通りの日常が続く。そのほうがいい。そういう意味では、日本の政治は安定しているほうだろう(選挙のあと暴動が起こるような国と比べてだが)。

 その人がいなくなった途端、社会や地域が大混乱に陥るのは困る。
 会社もそうだろう。社長がぎっくり腰になったら、すべての業務が止まって大赤字なんてことになったら大変だ。

 一人の人間に権限が集中すると組織は不安定になる。しかし安定しすぎると停滞する。逆にトップに権限を集中させると、不安定になる分、小回りが効いたり、即断即決できるよさもある。
 バランスというか、安定と不安定の配分はむずかしい。

2024/07/13

古本案内処

 西部古書会館の古書展がない週末、中野まで散歩する。早稲田通りを歩いている途中、小雨が降り出す。

 古本案内処が七月十四日(日)で店舗を閉める。半額セール中。レジのところに今後もインターネットでの販売、古書会館の催事は続けていくとあって一安心。古書会館でも古本案内処の本(とくに雑本)は見ているだけで面白い。
 木下忠編『双書フォークロアの視点 背負う・担ぐ・かべる』(岩崎美術社、一九八九年)など。頭上運搬をはじめ、古来から伝わる人力運搬の記録。三砂ちづる著『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』(光文社新書)の書評(東京新聞二〇二四年五月十二日付)を書いたのだけど、人力運搬は奥が深い。街道歩きをはじめるまでは自分の歩き方や体の使い方に無頓着だった。膝や足首を痛めて、すこしずつ負担の少ない歩き方を身につけたいとおもうようになった。靴も足の裏全体に体重が分散するタイプのウォーキングシューズに変えた。

 同じような日々をくりかえしていても、たまたま読んだ本によって興味関心が変わり、気がつくとすこし前の自分なら読まなかったであろう本が山積みになっている。読むことも書くことも歩くことも行き当たりばったりだ。

 昨年の今ごろは福原麟太郎の話ばかり書いていた。それから古典や和歌の本を読むようになった。興味がないと読んでも身にしみない。読むこと以上に新鮮な興味を持ち続けることが老年期の課題かもしれない。

 古本案内処のあとライフに寄り、かつおのたたき、クーリッシュ(桃)、ごまパンのウインナーリング、ごま油などを買う。雨が降っているし、刺身も買ったので総武線で帰る。

(追記)「古本案内処」を「古書案内処」と書いていた。訂正した。

2024/07/09

衰弱者の夢想

 日曜午後三時、都知事選の投票会場へ。番狂わせはないだろうと判断し、若手の候補者の名前を書いた。投票後、会場の近くの二十数年前に住んでいたアパートを見に行く(アパートの前の駐車場が猫の集会場だった)。スーパーで六個入りのアイスを買って帰る。

 この日、杉並区は光化学スモッグ警報が出ていた。選挙の後、警報解除の放送を聞いた。
 先月(六月十七日)のブログで「何年か前まで、夏になると、日中、環七付近はしょっちゅう光化学スモッグ警報が鳴っていた」と書いたが、今も鳴っている。暑い日の昼間は出歩かないから気づかなかった。光化学スモッグはよく晴れて気温が高く風が弱い日に発生しやすい。とくに七月から八月は要注意である。

 一九七〇年七月、杉並区の環七付近の学校の上空に紫色の雲が覆い、女生徒四十三名が次々と倒れる事件があった。翌年、高円寺地区の住民が大気汚染の改善を目指す運動がはじまった。
 高円寺は光化学スモッグの“基点”となった町だった。

 小・中学生のころ、郷里の三重県鈴鹿市も光化学スモッグがひどかった。校庭で級友が倒れる瞬間を何度か目撃した。光化学スモッグか熱中症(当時は日射病といっていた)か、今となってはわからない。

 家に帰って炊き込みご飯を作っている間、鮎川信夫著『最後のコラム』(文藝春秋、一九八七年)を再読する。
 ジョージ・ギルダー著『信念と腕力』(小島直記訳、新潮社、一九八六年)の書評にこんな一文があった。

《思想家や知識人が、資本主義の衰滅を予言したくなるのは、今を歴史の頂点と考え、そこに老化のイメージを重ねてしまうためである》

 ギルダーはこうした予言を「衰弱者の夢想」と一蹴する。人口減少社会を生きるわたしは当分の間、日本はゆるやかな下り坂が続くとおもっていた。たぶん自分の老化と重ねてしまっていたのだろう。考えを改めたい。

 前回引用した橋本治の「人間の行動の多くは習慣的で、だからこそ、“習慣”が満杯状態になっている人間の体に、脳が新しい習慣を教え込むのは大変だ」という意見も老化のイメージと関係ありそうだ。

 つい最近まで、老いてゆく自分(一般論ではない)の最適解は“一、二歩下がって脱力する”だとおもっていた。しかし五十代半ばになると脱力するにも体力および余裕が必要で——いろいろ失敗続きである。

 (追記) 「衰弱者の夢想」云々についてはギルダーの『信念と腕力』ではなく、『富と貧困 供給重視の経済学』(斎藤精一郎訳、日本放送出版協会、一九八一年)で語られる内容である。まぎらわしい書き方をしてしまった。

2024/07/05

新しい習慣

 東京都心気温三十五度。二日連続猛暑日。午後三時すぎ西部古書会館。先週の大均一祭で買った本が山のままだ。買いすぎないようブレーキを踏みながら棚を見る。『芥川龍之介展 生誕一〇〇年』(神奈川近代文学館、一九九二年)、『横浜市歴史博物館 企画展 東海道保土ヶ谷宿』(横浜市歴史博物館、二〇一一年)など。保土ヶ谷も何度か歩いて好きになった町である。旧街道の雰囲気も残る。

 前回、年をとると変化を望まなくなる……と書いたが、スーパーに無人レジが導入されたとき、最初は面倒くさいなとおもったが、いつの間にか慣れた。某飲食チェーンのタッチパネル式の券売機には苦戦している。

『考える人』特集「あこがれの老年時代」(二〇一〇年冬号、新潮社)の橋本治のインタビューを読んだ流れで『いつまでも若いと思うなよ』(新潮新書、二〇一五年)を読む。

『新潮45』の連載時、わたしは毎号読んでいた。同誌の休刊が発表されたのは二〇一八年九月。かれこれ六年か。橋本治の「年をとる」の連載は二〇一四年だから十年前。

 前回『いつまでも若いと思うなよ』の「年寄りは、今のことに関心がない。関心を持とうとしても、どうも頭に入りにくい」という文章を引用した。その続き。

《どうして入りにくいのかと言うと、根本のところで「今のことになんか関心を持つ必要がない」と思っているからですね。自分の頭の中を探ってみたらそうだった》

 このとき橋本治、六十代半ば。初読時——わたしは四十四、五歳。「今のことになんか関心を持つ必要がない」という言葉が十年前に読んだときよりも現在のほうが身にしみる。もちろん、それじゃいかんという気持もある。
 変化を望まない人たちが多数派かつ主流になると世の中は停滞する。少子高齢化社会のひとつの難題である。
 日本の全人口の年齢の中央値(中位年齢)は一九八〇年に三十四、五歳だったのだが、今年か来年あたりで五十歳を超えるといわれている。近い将来、人口の中央値が五十五歳くらいまで行くという予想もある。

 そんな現実もしくは未来にたいして、自分はどうするかと考える。そもそも自分はいつまで生きるのか、その答えがわからない。

 今月から新紙幣が登場したが(まだ未入手)、『いつまでも若いと思うなよ』に店をやっていた橋本治の祖母の話が出てくる。
 祖母は八十歳を過ぎたあたりからお釣りを間違えるようになった。

《なんでそんなことになったのかというと、その理由は簡単で、実はその時、紙幣のデザインが一新された。五千円、一万円札から長く続いた聖徳太子が消えて、派手な伊藤博文の千円札が地味な夏目漱石に変わった。その切り換え時だから、新旧六種類の紙幣が混在して流通している》

 一万円札が聖徳太子から福沢諭吉に変わったのは一九八四年十一月——今から四十年前。ちなみに五百円玉(初代)は一九八二年四月である。野口英世(千円札)、樋口一葉(五千円札)は二〇〇四年十一月から。

 四十年前の新紙幣にまつわる祖母のエピソードを通して、橋本治はこんな考察をする。

《人間はかなりのことを、考えずに条件反射的に処理しているから、それが成り立たなくなると混乱する。「そういうこともあるか?」と我が身に問うたら、「あるな」という答が返って来たので、「人間の行動の多くは習慣的で、だからこそ、“習慣”が満杯状態になっている人間の体に、脳が新しい習慣を教え込むのは大変だ」ということが分かった》

 この話にも続きがあるのだが、暑さで頭が回らなくなってきた。本日はここまで。

2024/07/02

大均一祭

 土曜昼すぎ、高円寺西部古書会館大均一祭。初日(全品二百円)は宮内庁三の丸尚蔵館編『をくり 伝岩佐又兵衛の小栗判官絵巻』(一九九五年)、山根ひとみ+葦の会『街道を歩こう』(廣済堂出版、一九九九年)、郷津弘文著『千国街道からみた日本の古代 塩の道・麻の道・石の道』(銀河書房、一九八六年)など五冊。『をくり』の照手姫がいた青墓の宿の絵を見る。中世の美濃の垂井〜青墓あたりは交通の要所ということもあるが、かつてはかなり裕福な土地だった。昨年、相模市の上溝(照手姫の伝承が残る)も歩いた。小栗判官は美濃廻り東海道、熊野道、北陸道など、中世の街道や宿場町が舞台になっている。又兵衛(の作といわれる)小栗判官絵巻は三百メートル以上もあった。
『街道を歩こう』は「ウォーキングBOOK」というシリーズで他の本も気になる(読みたい)。

 日曜昼すぎ、大均一祭二日目(全品百円)。林英夫ほか著『旅と街道 朝日カルチャー叢書』(光村図書、一九八五年)、山本周五郎著『青べか日記 わが人生観』(大和書房、一九七一年)、西東三鬼著『神戸・続神戸・俳愚伝』(出帆社、一九七五年)、伊藤正雄著『伊勢の文学』(神宮文庫、一九五四年)、小池正胤著『膝栗毛の世界 NHK文化セミナー 江戸文芸をよむ』(NHK出版、一九九六年)ほか十六冊。西東三鬼の本、昨日は見かけなかったから補充されたのか(それとも見落としていたのか)。西東三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』は講談社文芸文庫、また『神戸・続神戸』は新潮文庫にも入っているが、矢牧一宏の出帆社の函入本は嬉しい。『旅と街道』の背表紙は「林英夫ほか」となっているが、新城常三、児玉幸多といった街道研究の第一人者も講師をしている。一九八三年の朝日カルチャーセンター講座「旅と街道」をまとめた書籍である。

 月曜昼すぎ、西部古書会館三日目(全品五十円)。『重要伝統的建造物群保存地区概要 海野宿』(東部町教育委員会、一九八七年)、『考える人』特集「あこがれの老年時代」(二〇一〇年冬号、新潮社)など十四冊。三日で三十五冊か。『海野宿』はガレージのところの古雑誌の間に埋もれていた。海野宿は信州・北国街道の宿駅。北国街道は信州と越後をつなぐ街道である。『考える人』はロングインタビュー「橋本治 年をとるって?」が読みたくて買った。

《年をとるってどういうことかというと、自分が年をとっていることをつねに発見しつづけることみたいですよ》

《老いというのはやすらぎかもしれない。やすらぎたいと思うと、老人にあこがれるんじゃないかな》

 橋本治は一九四八年三月生まれ。インタビューは二〇〇九年十一月に行われている。六十一歳。『新潮45』の連載「年をとる」は二〇一四年一月号からはじまっているので、その四年ちょっと前のインタビューだ。「年をとる」は『いつまでも若いと思うなよ』(新潮新書、二〇一五年)の元になった連載である。

 十年、十五年前がほんのすこし前のようにおもえる。『いつまでも若いと思うなよ』に「年寄りは、今のことに関心がない。関心を持とうとしても、どうも頭に入りにくい」とある。
 自分が六十代になるのも、そんなに先の話ではない。新しいことへの興味が薄れると変化を望まなくなる。今まで通りのほうが楽だから、変化を必要としなくなる。
 かつての老人はそれでよかったのかもしれない。二、三十年という周期で世代が交代し、世の中も移り変わった。今は高齢者が増え続け、変化を堰き止めているようなところがある(わたしもその一員になりつつある)。