2011/05/30

程よい怠惰

 本を読むときのからだの調子や頭の具合についてよく考える。
 健康すぎるとだめだ。外に出たくなる。酒が飲みたくなる。からだを動かしたくなる。じっとしていられない。かといって、風邪をひいていたり、疲れすぎたりしていてもいけない。体調がわるいと、活字も頭にはいってこない。
 程よく怠いこと。
 わたしが本を読んでいるとき、集中できるというか、しっくりくるのはそういう状態である。
 程よい怠さは、酒を飲んだときのほろ酔いの状態と似ている。狙ってその状態を作り出せない。
 ずっとほろ酔いが続けばいいのになあとおもっていても続かない。たいてい痛飲し、泥酔し、二日酔いになる。
 尾崎一雄の「日記」という随筆がある。
 これまで日記を書いてこなかったのだが、今年の元旦から書きはじめたという。
 志賀直哉の全集の日記の巻を読んで「文章はどうでもいい、その日あつたことを簡単に書きとめ、かつは又何か感想でもあつたら、自分があとで読んで判る 程度に書いておく、将来何かの足しになるかならぬかはしばらく措き、現在の自分を整理するための一助にはなるだろう」とおもい、毎日何かを書き記そうと決 めた。

《志賀先生の日記には、一日分として、「忘れた」あるいは「無為」などと書いてあることがある。私のにもそんなのが続々と出てくるかも知れぬが、とにかくつけることはつける》

 わたしもかつて日記をつけよとしたことが何度かあるのだけど、あまりにも毎日同じようなことしかやっていなくて続かなかった。
 でも「無為」な時間が、何かの拍子に「有意義」に変わることがある。
 そのときそのときはただただどうしようもなく怠惰にすごしているだけなのだが、後からふりかえると、そんな無意味におもっていた時間から得るものが、あったりなかったりする。
 本を読んでいるあいだ考えていたことは、ほとんど忘れてしまうのだが、やっぱり、それも何かの拍子におもいだすことがある。

 今は何もおもいだせない。

2011/05/24

散財散歩

『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(編集グループSURE)を読む。聞き手は、津野海太郎、黒川創。

《昔からずーっと、そんなに仕事をしないやつと思われていて。だけど、それにしちゃあね、まめに仕事をしているんだよ》

 どうやって食ってきたのかと聞かれて、「ようするに、基本的にはずっと親のすねをかじっていたんですよね」「すねっていうのは、かじり続けていれば、かじれるんですよ」と悪びれずに語っているかんじが、おかしい。

 新聞代や光熱費などの生活費は、タウン誌(『うえの』)の編集でどうにかなった。
「新日本文学」のような左翼系の場合、労働組合の新聞や雑誌の仕事があり、それが定収入になることもあったようだ。

 あまりお金をつかわない生活をしていれば、サラリーマンの平均収入の半分くらいでも大丈夫という話に勇気づけられる
           *
 午後、ひさしぶりに阿佐ケ谷散歩。最近、十二枚セットの布巾を見かけなくて困っていた。以前は二百円前後だったのだが、三百円前後になっている。
 帰りは新高円寺のほうに向かって歩き、アニマル洋子、ルネサンスに寄る。
 昔住んでいたアパートの近所にdaysという文房具のセレクトショップがあり、カッターナイフと消しゴムを買う。

 そのあと円盤に行って、かえる目の『拝借』をようやく購入。
 しばらくかけっぱなしになる予感。

 最近、京都のガケ書房に行ったとき、ちょうど店内でかかっていた平賀さち枝の『さっちゃん』というCDをずっと聴いていた。「阿佐ケ谷の部屋」「高円寺にて」という曲も収録。
 歌手になるしかないような声だなとおもう。

 散歩して古本屋をまわってCDを聴きながら酒を飲んで気分がよくなる。

2011/05/19

そこにいること

 土曜日、西部古書会館の古本博覧会。ひさしぶりに初日の午前十時前に並ぶ(前日から時差調整していたのだ)。盛林堂がいい本を格安で出ていた。股旅堂が出品していた本もけっこう買った。

 古本博覧会は若い(といっても、わたしと同世代)古書店主が参加しているせいか、いつもの古書展と棚の雰囲気がずいぶんちがう。
 棚の数を減らし、本も見やすい。量を重視するお客さんには物足りないかもしれないが、わたしはこの試みはすごくいいとおもう。昔から、棚と棚のあいだで押しあいへしあいになるかんじが苦手なのである。

 そのあと仕事があって、あずま通りの青空市は日曜日に行った。
 こちらも楽しかった。
            *
『活字と自活』(本の雑誌社)の写真を撮った岡山在住の藤井豊さんが、一ヶ月以上、青森から福島まで、ほぼ徒歩で写真を撮り歩き、その帰りに東京にやってきた。
 ペリカン時代で珍道中としかいいようのない話を何時間にもわたって聞かせてもらったのだが、いずれ写真といっしょに藤井さん自身が語るときがくるとおもうので、その内容は秘しておく。

 ただ、藤井さんは顔つきが別人のように変わっていて、野人化していた。
 写真家にとっての才能は、いろいろなセンスもあるのだろうけど、何よりも「そこにいること」だろう。
 では、わたしにとって「そこにいること」とは何だろう。

 外出するときにマスクを着用し(今のところしていない)、水や食べ物を気にしたり(まあ、多少は)、洗濯物を外に干すかどうか迷ったり(やむをえず部屋干し)、そんなおもいをしてまで、東京にいる理由はあるのかと自問する。

 酒びたりの不健康な生活をしていても、四十歳すぎていても、子供がいなくても、放射性物質は怖いし、いやだよ。

 地震や原発事故と関係なく、いつ食えなくなってもおかしくないという不安もある。

 このままここにいられるのか。
 どこにいけばいいのか。
 毎日のように考えてしまう。

 まあ、答えはいつも同じなのだが。

2011/05/14

仕事と自信

《ただ私が生きるために持ちつづけていなければならないのは、仕事、力への自信であった。だが、自信というものは、崩れる方がその本来の性格で、自信という形では一生涯に何日も心に宿ってくれないものだ》(「いずこへ」/坂口安吾著『風と光と二十の私と』講談社文芸文庫)

 ときどき、坂口安吾を読み返したくなる。
 読むとちょっと救われる。

 わたしは、この自信の崩れを食い止めたくて文学を読むことがある。そうした効能のある文学を探している。

 仕事をするようになってからも自信をなくすことがよくあった。
 自信というのは、自分ではコントロールできない要素が多い。

 たとえば、単純に収入の増減によって、自信をつけたり、なくしたりというようなこともあった。
 でも、かならずしも収入=自分の力ではない。フリーライターの場合、原稿料はほとんど出版社ごとに決まっている。交渉の余地はないし、景気にも左右される。

 わたしが仕事をはじめたのは一九八九年でバブルの最盛期だった。
 若い読者をターゲットにした雑誌が増えたおかげで、若い書き手というだけで重宝されたのである。わたしに力があったわけではない。でも、勘違いした。

 数年後(今おもうと阪神大震災と地下鉄サリン事件の年だ……)、次々と雑誌が廃刊になり、仕事が激減し、あっけなく、わたしの自信は崩れてしまった。

 不遇な時期をすごしているうちに、自信をもちつづけるためには、周囲の状況に左右されない価値観が必要であることを痛感した。

 無理をすれば、「背伸びしている」「余裕がない」といわれ、無理をしないと「手抜きしている」「やる気がない」といわれる。
 中途半端な年齢、経験不足ということから、何をどうやっても批判された。
 一々、そうした批判につきあっていると、自分を見失う。
 いや、見失っていた。

 二十代後半、ひまになって、わたしは古本屋通いばかりしていた。
 古本を読んでいるうちに、自分が漠然と書きたいとおもっていたことを、はるかに高い水準で書き残している作家がたくさんいることを知った。

 その水準に近づくこと、あるいはズラすこと。その手ごたえさえあれば、自信をもちつづけることはできるのではないか。すくなくとも、崩れても立て直すことができるのではないか。

 自分の出来不出来、好不調を把握する。
 
 そのころ、友人に借りたビデオで、文士を特集したテレビ番組のタイトルに「悲観も、楽観もせず」というものがあった。
 わからないことが多く、不安になると、この言葉をおもいだす。
 悲観も、楽観もしないことのむずかしさをかみしめつつ、そうありたいとおもう。

2011/05/06

連休中

 五月一日から五日まで京都と三重に。
 京都では、徳正寺のブッダカフェに参加し、みやこめっせの古本まつり、拾得で薄花葉っぱと東京ローカル・ホンクのライブ、メリーゴーランド京都で鈴木潤さんとオグラさんのライブを見る。
 火星の庭の前野久美子さん、めぐたんとも会えた。

 福島、宮城から関西に子供を連れて避難している人たちと会い、その葛藤を聞いて、考えさせられた。
 いまだに余震も続いているし、物不足の問題も残っている。
 わたしは動ける人は動いて、平穏な場所で、のんびりしたり、支援したりするのはいいことだとおもうのだが。
 長年、ボランティア活動をしている人から、あれこれ勝手に想像するより、直接会って話を聞くことが大切だと教えられる。

 古書善行堂で、川崎長太郎著『私小説家』(川崎長太郎文学碑を建てる会)を買う。

 滞在中、扉野良人さん宅、東賢次郎さん宅にお世話になる。

 京都は、余震もなく、町の雰囲気もまったくちがった。気がゆるみすぎて、ライブも古本屋めぐりも楽しかったのだけど、どんどん現実とズレていくような不思議な気分だった。

 車で東さんに北大路駅まで送ってもらい、しばらく川のそばでぼっとして、下鴨を通って一乗寺のほうまで歩いた。
 このあたりに住めたらなとおもったり、いや、東京で働いて、ときどき遊びに行ったほうがいいのかなとおもったり……。

 四条河原町の阪急百貨店のあとに丸井ができていて、人がごったがえしていた。三階くらいまでエスカレーターに乗って、うろつく。滞在時間五分。なんとなく、薄暗く、空気の重い東京から来た身には刺激が強すぎた。

 京都滞在後、郷里の鈴鹿に寄り、スーパーに行くと、高円寺で品薄になっている商品が山のようにあった。店内も明るい。
 前回、帰省したときに行きそびれたゑびすやのうどんを食い、すがきやのラーメン、コーミソース、田舎あられなどを購入し、京都で買った本といっしょに宅配で送る。

 この数日、京都も三重も黄砂がひどく、町中を歩きまわっていたら、目やノドが痛くなった。

 両親(とくに母)とは平和な距離を保とうと、何をいわれても、反論しないように心がけていた。
 自分がいったおぼえのないこと(いうはずのないことを)を前提に、文句をいわれ、戸惑う。たとえば、いきなり「あんた、昔から間寛平がおもしろいっていっとったけど、どこがええの」といわれたり……。そんなことはいったおぼえがない。齢のせいだろうか。疲れる。

 今回の収穫は、両親の家のちかくに港屋珈琲という喫茶店を見つけたこと。
 夜十二時まで営業している。

 帰りは、近鉄電車ではなく、JRの鈴鹿駅から「快速みえ」(だいたい一時間に一本)にはじめて乗る。早く着きすぎて、駅のそばのあおい書店で時間をつぶす。
 鈴鹿駅から名古屋まで四十五分。新幹線の乗りかえも楽だった。

 連休中、原稿を書かなければいけなかったのだが、まったく進まなかった。