《ただ私が生きるために持ちつづけていなければならないのは、仕事、力への自信であった。だが、自信というものは、崩れる方がその本来の性格で、自信という形では一生涯に何日も心に宿ってくれないものだ》(「いずこへ」/坂口安吾著『風と光と二十の私と』講談社文芸文庫)
ときどき、坂口安吾を読み返したくなる。
読むとちょっと救われる。
わたしは、この自信の崩れを食い止めたくて文学を読むことがある。そうした効能のある文学を探している。
仕事をするようになってからも自信をなくすことがよくあった。
自信というのは、自分ではコントロールできない要素が多い。
たとえば、単純に収入の増減によって、自信をつけたり、なくしたりというようなこともあった。
でも、かならずしも収入=自分の力ではない。フリーライターの場合、原稿料はほとんど出版社ごとに決まっている。交渉の余地はないし、景気にも左右される。
わたしが仕事をはじめたのは一九八九年でバブルの最盛期だった。
若い読者をターゲットにした雑誌が増えたおかげで、若い書き手というだけで重宝されたのである。わたしに力があったわけではない。でも、勘違いした。
数年後(今おもうと阪神大震災と地下鉄サリン事件の年だ……)、次々と雑誌が廃刊になり、仕事が激減し、あっけなく、わたしの自信は崩れてしまった。
不遇な時期をすごしているうちに、自信をもちつづけるためには、周囲の状況に左右されない価値観が必要であることを痛感した。
無理をすれば、「背伸びしている」「余裕がない」といわれ、無理をしないと「手抜きしている」「やる気がない」といわれる。
中途半端な年齢、経験不足ということから、何をどうやっても批判された。
一々、そうした批判につきあっていると、自分を見失う。
いや、見失っていた。
二十代後半、ひまになって、わたしは古本屋通いばかりしていた。
古本を読んでいるうちに、自分が漠然と書きたいとおもっていたことを、はるかに高い水準で書き残している作家がたくさんいることを知った。
その水準に近づくこと、あるいはズラすこと。その手ごたえさえあれば、自信をもちつづけることはできるのではないか。すくなくとも、崩れても立て直すことができるのではないか。
自分の出来不出来、好不調を把握する。
そのころ、友人に借りたビデオで、文士を特集したテレビ番組のタイトルに「悲観も、楽観もせず」というものがあった。
わからないことが多く、不安になると、この言葉をおもいだす。
悲観も、楽観もしないことのむずかしさをかみしめつつ、そうありたいとおもう。