2016/01/28
コースの果て
《簡単にいうと、太平洋戦争は、あのとき愚かにして狂信的な軍閥が、突如として起こしたものではない。明治以来、日本人の大半がめざし、走りつづけて来たコースの果てだ、ということである。従って、太平洋戦争を否定することは、明治以来の日本の歴史を否定することになる》
山田風太郎は「愚かで、悲惨で、『不正』の分子をふくむ戦争であったことは否定しない」といいつつ、それでもなお全否定しない。日本人は、欧米列強の傍若無人な弱肉強食ぶりに衝撃を受けた。列強に学び(山田風太郎いわく「猿真似」)、その餌食になる難を逃れようとした。
戦前も戦後も日本は「コース」を走り続けている。戦前は軍事大国、戦後は経済大国を目指す「コース」だ。「コース」を修正することは、おもいのほかむずかしい。
山田風太郎は昭和二十年以前と以後を「昭和前期」「昭和後期」に分ける。「昭和前期」は、黒船以来、日本は武力による侵略という欧米列強の物真似に奔走した。
《その日本の歴史の流れが、実は世界の歴史の流れに逆流するものであったことは、戦後になって日本人がはじめて知ったことである》(私と昭和)
今の日本はどんな「コース」「流れ」にあるのか。
わたしの希望としては、いかなる「コース」や「流れ」であれ、邁進してほしくない。暴走してほしくない。どんなに「コース」や「流れ」が正しくおもえても、常に懐疑すること。ときどき立ち止まり、もしくはスピードを落とし、まわりを見渡すこと。できれば「コース」はひとつに絞らないほうがいい。
(追記)
山田風太郎の「コースの果て」という言葉について考えているうちに、邁進や暴走ではなく、なしくずしで危機に陥るケースも多いことに気づいた。むしろ、怖いのはこっちかもしれない。
2016/01/19
まじめとテキトー
明け方、雪がつもる。雪の日は睡眠時間がズレる。朝十時くらいまで眠れなかった。ニュースで高円寺駅の改札前が映っていた。中央線が間引き運転で、ホームから人があふれるのを避けるため、入場規制していたようだ。
起きたら夕方。仕事と関係ない本を読みながら、部屋の掃除する。
……『望星』2月号の古書現世の向井透史さんのインタビュー「街と古本屋さんの関係」を読む。
この四半世紀くらいの世の中の移り変わりについて、考えさせられるインタビューだった。すごく読みごたえがあった。
《昔はまじめにやっている古本屋とテキトーにやっている古本屋の差があまりなかったのですが、いまはテキトーにやっていたら商売になりません》
テキトーにやっている人がそこそこ食えて、まじめにやっている人はそれなりに儲かる。理想はそうなのだが、現実はそうではなくなりつつある。だったら、まじめにやれよということになるのだが、みんながまじめになったら、まじめにやっていても食えない人が出てくるわけで……。
これは古本業界にかぎった話ではなく、あらゆる仕事がそうなっている。
まじめに生き残る努力していくか、まじめ競争から降りて独自路線でいくか。
仕事(商売)でむずかしいのは、これさえできればうまくいくというやり方を続けていると、いつしか行きづまってしまうことだ。
うまくいったやり方が、うまくいかなくなる境目みたいなものはどこにあるのか。
自分の仕事に関していえば、まじめとテキトーがほどよく混ざっているかんじがいちばんしっくりくる。
ベース(土台)の部分はまじめにやりつつ、どこかしらテキトーな部分を残しておく。
向井さんがこれからやろうとしている方向性も興味深い。
2016/01/16
禅とオートバイ修理技術
原稿を書いて、編集部にメールで送信する。そのあとゲラが出て、誤字脱字事実誤認などをチェックする。
そこで一段落——。
ところが、原稿を書き上げたときに「終わったー」と安心する。メールのソフトを立ち上げると別件のメールが届く。急ぎの用件だとすぐ返事を書く。返事を書いているうちに、書き終えたばかりの原稿を送信し忘れ、そのまま寝てしまったり、外出してしまったりする。……というミスを昨日やってしまった。どうにか事無きを得たが。
慣れた仕事や作業でもミスは出る。ミスはしないほうがいいが、どんなに用心しても完全に防ぐことはむずかしい。
ロバート・M・パーシグ著『禅とオートバイ修理技術』(上下巻、五十嵐美克訳、ハヤカワ文庫)を読みはじめる(まだ一巻の途中までしか読んでいないが、傑作の予感)。著者のプロフィールが壮絶すぎる(ぜひ書店で手にとって見てほしい)。原書は一九七四年に刊行。
《バイクの旅には二級道路がいい。何と言っても舗装された郡道は最高である。その次が州道で、高速道路は最悪である。私たちは、ただひたすら楽しく時を過ごしたいのである。いまの私たちにとっては、「時間」よりも「楽しい」ことが大切であり、いったんその重きを移動してしまえば方法のすべてが違ってくる》
昨年、読んだジョッシュ・ウェイツキン『習得への情熱 チェスから武術へ』(吉田俊太郎訳、みすず書房)にも『禅とオートバイ修理技術』の話が出てきて、ずっと気になっていた。ちなみに、ジョッシュ・ウェイツキンは、映画『ボビー・フィッシャーを探して』のモデルになった少年でもある。
心、精神の問題を習得(修理)可能な“技術”としてとらえ直す。今のわたしはそういうことに興味がある。もうすこし研究が進めば、うっかりミスも減らせるのではないかとおもっている。
2016/01/12
近鉄の時刻表
この日の収穫は、近鉄の時刻表(一九八五年)だ。この年、鈴鹿から津の高校に通うため、はじめて近鉄の定期券を持つようになった。時刻表そのものは、とくに使い道はないのだが、時刻表の中の路線図、近鉄百貨店の広告を見ているだけで、忘れていたことをおもいだす。
近鉄沿線は名古屋、大阪、京都につながっている。わたしは高校卒業するまで、ほとんど沿線の外に出たことがなかった。またその外で暮らそうともおもっていなかった。
高校三年のとき、父は今のわたしの年齢で東京に単身赴任していた。父は自動車の部品を作る工場で働き、風呂なし台所トイレ共同の四畳半の寮に住んでいた。
一浪した後、東京の私大に入学し、そのまま父の住んでいた寮の部屋が空いていたので転がり込んだ。
一九八九年の春——後にバブルと呼ばれる好景気のころの話である。もし十代後半がこの時期と重ならず、父が単身赴任で東京にいなかったら、たぶん上京するという選択肢はなかった気がする。父の会社の寮の家賃は光熱費込みで月千円だった。
近鉄文化圏から東京に暮らすようになって二十七年。
二十七年前と今では世の中もずいぶん変わった。人生は小さな選択のくりかえしで、その選択のひとつひとつはどっちを選んでもたいしたちがいがないようにおもえる。
ただ、どこに住むかという選択は、想像以上に大きなちがいが生じることがある。
近鉄の時刻表を見ながら、もし近鉄沿線に暮らし続けた場合の自分を考えてみる。どうなっていたか、想像もつかない。
2016/01/08
G線上のあなたとわたし
寿退社した当日に婚約破棄されてしまった主人公の小暮也映子(二十五歳)が、バイオリン教室に通う。也映子以外の教え子は、パート主婦の北河幸恵(四十一歳)、大学生の加瀬理人(十九歳)。講師の久住眞於(二十六歳)は、理人の兄の元婚約者である。物語はそんな四人の人間模様(それぞれ悩みを抱えている)を軸に展開していく。
三人の教え子たちは、別にこれから音楽の道で生きていこうというような夢や野心はない。
「先週うまく弾けてたところが今日はもう弾けない」
「あたしたちの発表会なんて誰が失敗しようが怒る人もいないし失うものなんてなんもないし」
素人が素人に毛がはえたレベルに到達するために悪戦苦闘する。そんな素人なりの微妙な不安と迷いが、見事というしかないくらい絶妙に描かれている。
わたしも二十代の半ばごろ、将棋の勉強をはじめた。四十六歳の今、釣りをはじめたいとおもっている。
どんなに低いレベルであっても、わからないことがわかったり、できなかったことができたりするのは楽しい。楽しいけど、同時に空しい気持にもなる。
最初から趣味と割り切り、遊び半分の気持でやっても楽しくないこともわかっている。
ただ、やってみることで見方が変わる。プロもしくはアマチュアの上級者のレベルがどのくらいすごいのか、やっているうちにすこしずつわかってくる。簡単に見えることが、すごくむずかしい。そういう意味では、できないことも貴重な経験になる。
とにかく続きが読みたい。
2016/01/07
正月ボケ日記
八〇年代後半のくらもちふさこの作品も読みたくなる。
初夢ではないが、正月明けくらいから郷里の夢をよく見た。今はもうない喫茶店でピラフっぽい炒飯を食べたり、空気の抜けた自転車に乗って川沿いを走ったり、東京に帰る前に寄った名古屋駅の地下街で迷ったり……。ぜんぶ夢の話ですが。二時間か三時間ごとに目が覚め、また寝る。そういう周期のときはよく夢を見る。ピラフっぽい炒飯の喫茶店では、中南米の酸味の強いコーヒーをいれていた。メニューには「ブレンド」としか書いてなかった気がする。
六日、今年初の神保町。小諸そばでから揚げうどん、神田伯剌西爾でマンデリン。パターン化している。
上京したころ、外食が苦手で喫茶店のメシばかり食っていた時期がある。高円寺に引っ越してからは、南口のちびくろサンボという喫茶店と阿佐ケ谷のゴールド街の娥楽亭という漫画喫茶にもよく通った。ちびくろサンボではサンボ丼、娥楽亭ではあんかけチャーハン——昔から同じ店で同じものばかり注文していた。この二軒も今はない。阿佐ケ谷のゴールド街も昨年閉じた。
今あるメニューがいつまでもあるとは限らない。
持続と変化——についていろいろ考えたが、今はまとまらない。
2016/01/03
新春日記
ばってん荒川は、おばあさんの扮装でこの歌を唄っていた。
自分以外の誰かになりきって何かを伝えるというのは——演歌ではわりと王道の表現方法だ。紅白歌合戦は、時代やジャンルによる表現方法のちがいを見ることができておもしろい。
一日、年越し蕎麦のつゆ(すこし味を変えて)で雑煮作る。
昼すぎ、氷川神社に初詣。そのあと商店街を散歩する。いつもと比べるとかなり人が少ない。
ここ数年の高円寺は、大晦日も元日もスーパーやドラッグストアは営業している。
学生のころは、十二月三十日から一月三日くらいまで、ほとんどの店が閉まっていた(ような記憶がある)。帰省する近所の友人のアパートをたずねて、冷蔵庫の中身をもらっていた。
二十代の十年間、年末年始を高円寺ですごした。当時、自分の周囲の上京組で正月に東京に残るのは少数派だった。二十代のわたしは、多数派か少数派かの二択があれば、なるべく後者を選ぶことにしていた(ルールといえるほど厳密ではない)。
・大学を卒業する/しない=しない。
・就職する/しない=しない。
・朝型/夜型=夜型。
・携帯電話をもつ/もたない=もたない。
そういう選択を五年十年と続けていたらどうなるのか。
自分にもわからない。ある意味、自分をつかった人体実験をしているようなものだ。
その結果、すこし変な人になったかもしれない。
好きでやっていることなので、心配せんでよか。