2020/10/31

戸石泰一

『フライの雑誌』次号のエッセイの校正――「ペッテリーさん」という人名を「ベッテリーさん」と書いている。半濁点と濁点が見分けられないこと多し。老眼か。
 読むのもそうだが、眼鏡をしているとペンで字を書くとき、よく見えない。かれこれ二年くらい遠近両用眼鏡を買うかどうか迷っている。

 金曜日の昼、荻窪、古書ワルツ。はなや(中華)でラーメンと半チャーハンのセット。涼しい。夜、コクテイル。戸石泰一著『五日市街道』(新日本出版社、一九八〇年)を買う。
 古山高麗雄著『袖すりあうも』(小沢書店、一九九三年)の「逝きし人・触れし人」の一番最初に名前があがっているのが戸石泰一である。

《戸石泰一君とは、昭和十七年の十月に、仙台の歩兵第四連隊の同じ中隊に召集されて、知り合った》

 古山さんは軍隊にいたころ「孤独に閉じこもっていた」が「戸石泰一君だけは、本音の話ができると感じた」と回想している。
 古山さんは外出日になると、戸石家に行き、彼の妻に文学書の購入を頼んだ。当時、陸軍の一等兵が兵舎に文学書を持ち込むのは禁止されていた。発覚すれば、処罰される。その違反の協力を新婚時代の戸石夫妻に頼んでいた。
 戸石泰一著『消燈ラッパと兵隊』(KKベストセラーズ、一九七六年)に古山さんの話が出てくる。

 戸石泰一は一九一九年仙台生まれ。『五日市街道』所収の短篇の何作かは古山さんが編集者をしていた『季刊芸術』が初出。同書は没後刊行された短編集で「五日市街道」「三鷹下連雀」は三鷹を舞台にした作品だった。

 戸石は高校の講師をしながら小説を書いていた。

 一九七八年十月三十一日、急性心不全で亡くなった。享年五十九。命日の前日に『五日市街道』を古本屋で手にとったのは何かの縁か。

2020/10/24

ちよろちよろだ

 土曜日、西部古書会館。高円寺フェスも開催中。
 新高円寺方面まで散歩する。いなげやで百円均一パンを買う。帰りに馬橋稲荷神社に寄る。

 そういえば、昨年の九月下旬ごろ、帯状疱疹になっている。どうやらわたしは九月から十月くらいに体調を崩しやすいようだ(秋の花粉症の影響もあるかもしれない)。今年の春は五十肩(完治していない)。季節の変わり目の寒暖差が激しい時期は要注意ということか。
 一年働き続ける体力はとっくの昔になくした。

《はつきり云へば、(あんまり云ひたくもないが)もともと僕なんかの泉は細々としたものなのだ。ちよろちよろだ。そいつをしぼるやうにしながら、辛くも五十といふ年までやつてきた。いつも「財布の底をはたいたやうな」(志賀先生の言葉。随筆の中にある。)仕事しか出来なかつた。それでも、身体が丈夫なら、まだ何とか自分を掻き立て、自惚れを持つこともできようが、この病体では、どうにも仕方がない》(「下曾我放談」/尾崎一雄著『わが生活わが文學』池田書店、一九五五年) 

 尾崎一雄の愚痴に勇気づけられる。他にも「自分は生来の怠け者だ」とも書いている。それでもずっと名作を書き続けてきた。隙あらば横になる。冬は休む。たぶんそれが正しい。

 今発売中の『散歩の達人』十一月号の特集「読書は冒険だ」で「同世代座談会 50代編」にマンガ研究者のヤマダトモコさん、往来堂書店の笈入建志さんといっしょに参加しました。
「街にゆかりの本が知りたい」にも東京の本を五冊紹介しています。外に出てカメラマン、ライター、編集者といっしょに仕事をするのは久しぶりだった。雑誌の現場から離れて何年になるか。 

 すこし前まで「蔵書を整理して、もうすこし狭い部屋に引っ越して……」とかなんとか考えていた。ほんとうにそうしたいのだが、その引っ越しも面倒くさい。

2020/10/22

風呂

 書いては消してをくりかえしているうちに、二日くらいすぎてしまった。

 疲労と空腹に弱い。こういう感覚は、他人比べることはむずかしい。わたしは疲れていると苛々して余計に体力を消耗してしまう。もともと短気な性格を体力で抑えているせいかもしれない。そういうときは風呂に入る。疲れていると浴槽にお湯をはることすら面倒くさいのだが、ゆっくり風呂につかってさっぱりすると、心からよかったとおもえる。
 気分転換にもなるし、体温が上がるとそれだけでちょっと元気になる。

 からだを冷やさない。寒さをガマンしない。

 何度も紹介している一文だが、アンディー・ルーニーの「ものごとがうまく行かなかったら、熱いシャワーを浴びよ」という言葉が好きだ(『自己改善週間』北澤和彦訳、晶文社)。
 アンディー・ルーニーの忠告では「なにごともヴォリュームを落とすこと。塩とおなじである。少ないことには慣れる」というフレーズも気にいっている。家にいるときだけでもなるべくそうしたい。

2020/10/14

半信半疑

 すこし前まで二十五、六度だった気温が急に下がる(とおもったら、また上がる)。冷えもそうだが、わたしは寒暖差にも弱い。肩凝りがひどい。そろそろコタツ布団を出す季節か。連日、朝昼晩と三回くらい寝ている。一日の半分くらい寝ているかもしれない。年に何回かそういう時期がある。からだが休息を求めているのだろう。従うしかない。

 火曜日、仕事ようやく一段落。
 山田風太郎著『人間万事嘘ばっかり』(ちくま文庫)を再読する。
「ハリの話」は中共の話からはじまる。中国礼賛一辺倒の報道を山田風太郎は警戒している。

《いま手ばなしで中共の讃歌を歌っている人々は、ちょうどかつてのナチス讃美にのぼせあがっていたのと同じタイプの連中で、ああ、またはじまったか、と憮然たらざるを得ない》

 初出は一九七二年七月(『週刊ゴールド』)。文化大革命期、日中国交正常化の二ヶ月ちょっと前に発表されたエッセイである。
 さらに同エッセイはこう続く——。

《要するに、中共にせよアメリカにせよ、スエーデンにせよフランスにせよ、光があれば必ず影がある。光だけの国家があるものではなく、その光のあたっている一面ばかり云々するやつがあるとすれば、その論旨や報道には必ず虚偽があると見ていい》

 山田風太郎、五十歳。慧眼である。ここでは「光」と「影」という言葉がつかわれているが、たとえば「健全」な社会というのは「不健全」を排除していく社会でもある。

 それとは別に山田風太郎は麻雀とハリを発明した中国人はすごいともいう。
 ギックリ腰になった風太郎はハリ治療を受け、快癒する。いっぽう「普通の医者にゆけば癒るべき病気が、ハリを盲信するあまりにとり返しのつかない手遅れとなる危険はある」と警戒心をとかない。

 終始、半信半疑。けっして盲信しない。わたしはそういう姿勢の人が書くエッセイが読みたい。

2020/10/07

自治の話

 昨日今日と寝てばかり。九月の中旬くらいから秋花粉の症状が出ている。近所のビルとビルの隙間にブタクサが生えている。
 五日、NHK「ひるまえほっと」の「中江有里のブックレビュー」で『中年の本棚』が紹介される。わたしが「中年本」を集めはじめたのは三十五歳のときに中村光夫を読んだことがきっかけだった。当時、晶文社のウェブ連載で中村光夫の「青年と中年のあいだ」というエッセイを書いた。
 三十五歳から五十歳まで十五年。それなりに時間をかけたテーマを形にすることができたのは季刊の連載というペースが自分に合っていたのかもしれない。

 臼井吉見著『教育の心』(毎日新聞社)の「歴史と教育」を読み返す。長野県の塩尻、東筑摩の教育会で話した速記録をもとにしたエッセイである。臼井は一九〇五年長野県安曇野生まれ。

《『安曇野』では、作者ながら、ちょっと思い出せないくらい多くの師弟愛を描いています。(中略)先輩後輩のことで特色ありと思うのは、石川三四郎、新居格、大宅壮一ですが、みんな子年で十二歳ずつ違うんですが、これを同年輩の友人の如く描きました。一まわりずつ違う三人の友情と信頼、どこかで本当に強く結ばれているこの特別な友情、どうぞ読んでくださいよ》

 石川三四郎は一八七六年埼玉生まれ、新居格は一八八八年徳島生まれ、大宅壮一は一九〇〇年大阪生まれ。年齢も出身地もバラバラだ。石川三四郎と新居格は「自治」の大切さを説いていた人物でもあった。

 お上が決めたことに従うのではなく、自分たちが国に参加し、国を変えていくことができる——そういう考え方が「自治」の根本である。
 明治期以降の日本は「自治」が根づく前に中央集権国家の「型」を先に作ってしまった。当時の国際情勢を考えると、近代化を急がざるを得なかったのはやむをえないところもあった。

 臼井吉見は「自治」なき近代化を日本社会の「最大の欠点」と批判している。戦前だけでなく、戦後もこの欠点を引きずっている。

『教育の心』の「青春の文学」は今読んでもまったく古びていない。

《要するに、いま若い諸君にとって一つの不幸は——不幸といっていいと思いますが、本がありすぎて、本に対する飢えというものをおそらく経験しないことだろうと思います。本に対する飢えですね、ぜひ読みたいけれどもなかなか手に入らない。昔はそれがふつうでありました》

 臼井吉見は旧制中学の二年のころ、同じ下宿にいた先輩から『中央公論』を借りた。大正八年九月号だった。臼井青年は『中央公論』という雑誌が出ていることも知らなかった。
 その号には芥川龍之介、正宗白鳥、菊池寛、佐藤春夫、谷崎潤一郎の作品が載っていた。
 とくに正宗白鳥の「あり得べからざる事」に感銘を受け、文学に深入りするきっかけになった。その話を亡くなる数年前の正宗白鳥にいったら、「君、僕はそんな小説を書いているかね」と……。
 臼井吉見は「あり得べからざる事」を読み、「文学というものを初めて知って、自分を考え、人間というものを考えずにはおれない、そういうことが僕の心の中に起こってきたわけです」という。この正宗白鳥の話と旧制中学時代の自由と規律の素晴らしさについて、臼井吉見はくりかえし書いている。しかしそれは当時の少数のエリートしか経験できないことでもあった。

『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)の「戦中派の発言」では、青年将校と農村青年の兵とのあいだの「断層」を次のように述べている。

《田植の辛さとくらべれば演習など何でもないという農村出の兵、住みこみの奉公人生活よりは軍隊のほうがよっぽどましだという職人や丁稚たち。食って、着て、寝るところのある軍隊生活を内心は喜んでいた多くの兵をぼくもまた知っている。例の近江絹糸の女工さんたちが、最初はたからいろいろ言われても、自分の家にいたときのことを考えれば何一つ不平はないと語っていたのと事情は同じであろう》 

 二十代のころから戦中派作家のエッセイを読んでいるが、終戦時四十歳の臼井吉見のこの指摘は印象に残っている。

 臼井吉見は軍隊生活をこんなふうにふりかえる。

《自分と同じような大学出が数十名いっしょに入隊したのだが、農村や工場からやって来た青年たちとくらべて、無論自分もふくめたわれわれの仲間が、なんという身勝手で、思いあがった、そのくせ空虚で、あいまいな存在であるかを骨身にしみて思い知らされたことであった。これは生涯と通じて忘れることはないだろう》 

 この「戦中派の発言」は、戦後の「進歩的文化人」の批判にもつながる。
 石川三四郎が東京郊外で半農生活の道を選び、新居格が生協運動に尽力したのは「食って、着て、寝る」生活なくして自治も文化も成り立たないと考えていたからだろう。

 大宅壮一の話はいずれまた。

2020/10/02

浜島町の写真集

 十月。今年もあと三ヶ月。例年通り、十二月になったら「冬眠」モードに切り換える予定だ。
 衣替えの洗濯、布団カバー、毛布も洗う。

 毎日新聞の日曜版で連載していた「雑誌のハシゴ」は九月二十七日が最終回。「巷の好奇心」「そのほかのニュース」とタイトルを変えながら、夕刊、日曜版で二〇〇〇年一月から二十年以上続いた連載だった。
 雑誌関係の大量のスクラップをすこし整理したい。

 十月七日(水)から毎日新聞の夕刊で「ラジオ交差点」というラジオのコラムを週一で連載することになった。急に決まった話で今ちょっとバタバタしている。

 今日、金曜日だけど、西部古書会館の古書展が開催していた。『写真集 浜島の昔と今 百景』(浜島町教育委員会、一九八九年)を買う。「五か村合併100年・町制施行70周年記念」と記されている。こんな写真集があったとは知らなかった。

 浜島は母の郷里でわたしも物心つく前から毎年夏になると祖母の家に行っていた。
 祖母の家は水産試験場のすぐそばにあった。水産試験場は明治三十二年に創立されたものだったらしい。近くには堤防もあり、そこでよく釣りをした。
 昔は平和劇場という映画館があったが、一九七六年にスーパーマーケットになった。わたしはスーパーの記憶しかない(その記憶もぼんやりしている)。
 明治三十四年建築の浜島座という芝居小屋もあったそうだ。けっこう大きな芝居小屋だ。岩崎商店街の古い写真には人がたくさん映っている。江戸時代から続く船宿もあったようだ。もちろん記憶なし。

 かつての浜島は芝居小屋や映画館があり、漁業が盛んで複数の造船所を有する豊かな町だった。母からは戦後の苦労話ばかり聞かされていた。母の父は四十代前半で亡くなっている。大工だった。
 海をはさんだ向いにはポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)の発祥の地として知られる合歓の郷もある。

 浜島には四十年くらい行ってない。鳥羽は何度か行っているのだが……。