2022/06/28

高円寺駅百年

 東京都心、今年初の猛暑日。昼すぎ、西部古書会館——出品少なめ(会場右の棚に本がなかった)。百円、二百円の本から息抜き用の雑本を探す。

 深夜、商店街を散歩中、「祝JR高円寺駅100周年」と記されたポスターを見かけた。
 今年七月十五日、高円寺駅は開業百年を迎える。百年前は一九二二年。翌年九月、関東大震災。新宿以西の中央線沿線の町も震災後に発展した。
 東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅は一九六一年十一月に開業。当時、丸ノ内線は帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の荻窪線だった(丸ノ内線に改称したのは一九七二年)。

 高円寺に駅ができる前から町はあった。江戸時代の地図にも高円寺村、馬橋村の名はある。そのころはJR側ではなく、丸ノ内線側の青梅街道沿いのほうが人口が多かった。

 高円寺に引っ越してきたのは一九八九年の秋。かれこれ三十三年になる。高円寺駅ができて百年——その三分の一くらいの期間をこの町で暮らしてきたことになる。町の歴史の一部と自分の半生も重なっている。

 大正の末に駅ができ、昭和のはじめごろから文人が住みはじめた。彼らが中央線沿線に移り住んだのは駅ができてそれほど時間が経っていなかった。

 深夜の高円寺駅前を歩いていると南口、北口両方の駅前広場で酒を飲んでいる若者がいる。ギターを弾きながら歌う人もいれば、ハーモニカを吹いている人もいる。わたしはこんな日々が続けばいいなとおもいながら酔っぱらって通り過ぎる。

2022/06/21

過日

 朝寝昼起が昼寝夜起になり夜寝朝起になる。調子が出ない。

 ここのところ、晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課の散歩も達成できないことが多かった。一万歩をこえる日は週一日あるかどうか。ただし五千歩以下の日はない。ひょっとしたら天気に関係なく、五千歩でいいと(無意識下で)おもっているのかもしれない。

 日曜日、杉並区長選挙と杉並区議の補欠選挙で近所の小学校に行った後、東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅方面に散歩する。オオゼキ(スーパー)でイチビキの八丁赤だしを買う。イチビキの味噌、高円寺でもよく見かけるようになった。近所のスーパーに無添加の八丁味噌も売っている。

 野上照代著『蜥蜴の尻っぽ とっておき映画の話』(草思社文庫、二〇二一年)、帯に井伏鱒二、太宰治などの名があり、手にとる。インタビューとエッセイの二部構成。巻末の自筆年譜を見ると、野上さんは一九二七年東京・中野生まれ。三一年、父(野上巖、ペンネーム・新島繁)が日本大学を解雇され、「高円寺に古書店『大衆書房』」を開いたとある。

 野上さんは杉並区立第四尋小学校に通っていた。その後の杉並第四小学校。一九二五年に開校。二〇二〇年三月末に閉校になった。わたしは「杉並第四小」の目の前に住んでいたことがある。二十年ちょっと前の話だ。

 野上さんは映画関係では黒澤明の作品に深く関わっていた人だが、編集者時代に八雲書店にいて「井伏鱒二、坂口安吾、椎名麟三、石川淳、内田百閒さんといった先生たちのところへ行きました」と語っている。八雲書店は太宰治の全集を刊行していて、戸石泰一もいた。

 第二部の「三鷹町下連雀」と題したエッセイで太宰治、戸石泰一の話も書いている。「井伏先生とスニーカー」というエッセイもある。

2022/06/10

乗り継ぎ旅 その四

 年をとると筋肉痛もそうだが、旅の疲れも二日後あたりにどっと出る。二〇二〇年のはじめごろから、新型コロナの影響もあって、どこかに行ってもなかなか遊んだ気分になれなかった。移動の疲れが回復し、日常に戻るまでのふわふわした感覚は心地いい。

 五日(日)の夜はホテルに戻ってすぐ熟睡した(帰り道の記憶がおぼろげだ)。六日(月)、午前六時すぎに目がさめる。午前六時四十分、京阪三条駅から地下鉄の東西線、京阪京津線を乗り継ぎ、びわこ浜大津駅へ。駅の近くで路面電車になる。京津線に追分駅がある。山科追分(大津追分)は東海道と伏見街道(大津街道)の追分。山科追分は髭茶屋追分という呼び名もある。街道関係は名称がいろいろあってややこしい。

 午前七時十三分、びわこ浜大津駅から京阪石山駅へ。ここでJRの石山駅に乗り換え、米原駅へ。雨は大降りと小降りをくりかえす。米原市内に行きたい宿場がいろいろあるのだが、雨の街道歩きは危険と考え、電車での移動を楽しむことにする。
 米原から大垣を経て午前九時二十二分岐阜駅着。名鉄に乗り換え、名鉄岐阜駅から豊橋まで行く。雨だけでなく、風も強くなってくる。天気がよければ、途中下車して東海道の赤坂宿か御油宿あたりを散策しようとおもっていたのだが……。

 二十代のころは新幹線にほとんど乗らず、在来線や私鉄を乗り継ぎながら移動することが多かった。移動そのものが楽しかった。そのころの感覚をちょっと思い出す。

 午前十一時すぎ、豊橋駅に到着。雨は小雨だが、すごい風だ。たまたま歩いた商店街が「雨の日商店街」だった(後で知った)。豊鉄の札木駅あたりの田原街道を歩く。豊川を見て、吉田城のあった豊橋公園を通り抜け、豊橋駅に戻る。
 JRで豊橋から浜松へ。浜松の金券ショップで小田原までの新幹線の回数券を買う。浜松も雨と強風で歩く気になれなかった。こだまの乗車時間まで駅の構内をうろつく。

 こだまで小田原へ。小田急の小田原駅に着いたら特急メトロはこね(北千住行)が止まっていた。メトロはこねは乗ったことがなかったので町田駅までの特急券を買う。座席がゆったりしていて快適だったが、急行と時間がほとんど変わらない(特急料金は六百三十円)。町田駅で途中下車してドトールでアイスコーヒーを飲む。
 町田は八王子と横浜を結ぶ街道(絹の道)の宿場町である。昨年の秋にすこし歩いている。

 町田駅から新宿駅までの電車、下校時間と重なったのか、学生(高校生?)がたくさん乗っていた。東京から京都の行き来でずっと空いている電車に乗っていたので、それはそれで新鮮だった。

2022/06/08

乗り継ぎ旅 その三

 五日(日)、午前十時すぎに郷里の家を出る。亀山駅まで行ってJRで京都に行くか、近鉄特急で行くか。悩んだ末、近鉄にした。

 近鉄特急は白子駅(鈴鹿市)からも乗れるが、津のあたりまでは急行とそんなに時間が変わらない。伊勢中川駅(松阪市)まで急行で行って途中下車し、すこし町を歩く。コロナ禍前までは鈴鹿と京都の間の旧街道をあちこち歩いていた。何年か前に伊勢中川駅を散策したときは、旧初瀬街道を歩いた。わたしが郷里にいたころ、伊勢中川近辺は一志郡だったが、二〇〇五年一月に松阪市に合併——。三重県内の市町村合併事情に追いつけていない。

 伊勢中川駅から近鉄丹波橋まで特急で行く。丹波橋で京阪電車に乗り換える前に駅のまわりを三十分くらい散歩した。財布の中身が二千円くらいになっていたので近鉄の丹波橋駅構内のゆうちょのキャッシュディスペンサーでお金をおろす。古書善行堂に行けば、先月の古本市の売り上げを受け取れる予定だが、さすがに二千円では心もとない。
 古本市には大きめのダンボールで二箱出品したが、部屋の本が減った感じがしない。仕事部屋の床積みの本をあと三列ほど減らしたい。

 三重と京都の行き来するさい、近鉄と京阪の丹波橋駅でしょっちゅう乗り換えているのだが、よく知らない町である。乗り換え駅で駅の外に出るのは面白い。
 午後三時ちょっと前に京阪三条駅に到着する。宿に行く前に六曜社の地下で珈琲を飲む。そのあと三条のホテルにチェックインし、一休みする。当日になるまでどんな部屋になるかわからない訳ありプランだが、三千円台(京都駅前でもそのくらいの値段のホテルがたくさんあった)。三重への帰省を考えていたとき、『些末事研究』の福田賢治さんが京都に行くと聞き、「だったら夜飲もう」と……。

 夕方四時半くらい、三条からバスで錦林車庫、ホホホ座の浄土寺店に寄り、古書善行堂へ。“古本”の自著にサインする。『岡田睦作品集』(第二版、宮内書房)を購入する。京都に行ったとき、善行堂で買いたいとおもっていたら、初版はあっという間に売り切れ。今年三月に増刷された。
「一月十日」(『群像』一九九七年二月号)という短篇の冒頭の文章がよかった。

《“序論”のボク、といわれている。
 自分でも承知しているつもりだが、ジンム、スイゼイから始めないと気がすまない。
 いきなり、結論をいう。そうして、あとからいきさつを述べる。このタイプが大方には好まれているようだ。
 だが、私にはできない。性分なのだろうか。それでいて、“本論”はたったの二、三行ですんでしまう》

 二十五年前の文章だが、そのころから結論を先に書けという風潮はあったのか。わたしも書き出しだらだら派なので編集者によくそのことを指摘されていた。“序論”というか、書き出だしでどうでもいいことを書く作家が好きなのだが……。梅崎春生や古山高麗雄の短篇や随筆も朝起きるのがつらいとか寒いとか、愚痴からはじまる作品がけっこうある。

 善行堂でいろいろ話をしたあと、歩いてまほろばへ。この日、恵文社一乗寺店で山田稔さんと黒川創さんのトークイベントがあり、その打ち上げの会場がまほろばだった。福田賢治さん、扉野良人さんもイベントに行っていた。打ち上げ後にどこかで合流しようとおもっていたのだが、わたしが携帯を持っていないこともあって、混ぜてもらうことになった。数年ぶりに会う人がたくさんいて顔を出してよかった。

 夜九時ごろ、大阪に行っていた世田谷ピンポンズさんと六曜社(この日二度目)で福田さんといっしょに待ち合わせ。世田谷さんとは先週高円寺のコクテイルとペリカン時代で飲んだばかり(酔っぱらって喋りすぎた)。扉野さんは銭湯に行った。

2022/06/07

乗り継ぎ旅 その二

 土曜日、朝九時ごろ、高円寺を出て、あれこれ電車を乗り継いで名鉄の東岡崎に着いたのは十三時四十五分。モダン道路から伝馬通りを歩いていると朝鮮通信使のことを紹介する標石(けっこう新しい)があった。朝鮮通信使関連の本、図録を集めているが、ちゃんと読み込めていない。御馳走屋敷(朝鮮通信使が泊った)の標石もあった。

 岡崎公園の手前あたりで万歩計の電池が切れる。あとすこしで一万歩くらいだった。公園で電池を交換する。

 岡崎公園駅から名鉄で名古屋に出た。名鉄から近鉄に乗り換え途中にある北野エース(食料品店)が、成城石井になっていた。インターネット上には北野エースは二〇二一年八月十五日に閉店とある。昨年は一度も三重に帰ってなかった。

 三重に行って名古屋から東京に帰るときは、かならず北野エースで買物していたのだが……。

 夕方、名古屋から近鉄で鈴鹿へ。ここまでおにぎり一個だけ。空腹でふらふら。桑名に寄るか、それとも鈴鹿の平田町まで行って鈴鹿ハンターでうどんを食うか。迷ったあげく、ハンターのうどんに決めた。ハンターの二階で夏用の靴下も買う。

 ハンターの近所のスーパーのぎゅーとらが「ぎゅーとら ラブリー平田店」に名前が変わっていた。酒とあられを買う。

 わたしが生まれ育った長屋は平田町にあった。今、母は別の町に住んでいる。生家から一番近い宿場町は東海道の庄野宿だったが、今は伊勢街道の神戸(かんべ)宿のほうが近い。
 十九歳まで鈴鹿にいたが、町の歴史に何の関心もなかった。

 愛知県の岡崎によく泊っていた色川武大は三重にも何度か来ている。

《私は面倒臭がりやのわりに方々を旅して歩いている。昔、ばくち場を伝わって歩いたからで、乞食旅だし、そのぶん巣造りをおろそかにしているが、だからこの近鉄鳥羽線もよく利用していた。公営の賭場だけをあげても沿線に、四日市のはずれの霞ケ浦競輪場、津競艇、松阪競輪場、がある》(「暴飲暴食」/『引越貧乏』新潮文庫)

 わたしは四日市、松阪の競輪場は行ったことがない。色川武大は近鉄鳥羽線と書いているが、霞ヶ浦駅(四日市市)は近鉄名古屋線(名古屋〜伊勢中川駅)、松阪駅(松阪市)は近鉄山田線(伊勢中川駅から宇治山田駅)。近鉄鳥羽線は宇治山田駅(伊勢市)から鳥羽駅(鳥羽市)までの区間である。三重県民でも近鉄の路線名を知らない人は多いとおもう。
 さらに鳥羽駅から賢島駅まで近鉄志摩線が走っている。わたしの母の郷里は志摩線の鵜方駅からバスで数十分のところにある浜島町。「暴飲暴食」で色川武大といっしょに三重を旅する逐琢(山際素男)は大王町の船越の出身である。二〇〇四年十月に浜島町も大王町も志摩市になった。

《私たちは車をチャーターして、逐琢の生まれである奥志摩に向かった》

 初老の運転手は「昔は船でしか行けんかった一帯ですがね」といった。

《船越は、入江のかげに人々が集まってひっそりしゃがんでいるような感じの村で、防波堤に波がくだけ散っており、清涼飲料水のポスターが濡れてはりついている》

 わたしは大王町には行ったことがない。船に乗ったとき、大王町の灯台を見たような気がするが、その記憶もかなりあやふやだ。

乗り継ぎ旅 その一

  週末、三重と京都へ。行きは小田急で新宿から小田原まで行き、小田原からこだまで浜松、在来線で浜松から豊橋、名鉄で豊橋から東岡崎というルート。岡崎宿を散策して名鉄の岡崎公園駅から名古屋へ。名古屋から近鉄で鈴鹿に帰った。

 小田急だと新宿駅から小田原駅まで九百円。小田原から浜松の新幹線の切符は金券ショップで五千二〜三百円くらい。浜松と豊橋は在来線の本数も多く、三十分くらいで着く。六百八十円。この区間は在来線のほうが海が近くて楽しい。弁天島、素晴らしい。

 名鉄で豊橋から名鉄名古屋駅は千百四十円(わたしは東岡崎で途中下車したが)。
 新幹線より二千円ちょっと安い。乗り換えのたびに駅の外に出て軽く散歩したり、コーヒーを飲んだりもできる。

 東岡崎は、はじめて来た……つもりだったが、なんとなく商店街に見覚えがある。いろいろ街道関係の本を読んだせいかなとおもったが、歩いているうちにやっぱり来たことがあると……。予備校時代に一度何の予備知識もなく行った。完全に忘れていた。

 岡崎宿は東海道の宿場町で「岡崎二十七曲り」が有名である。冠木門から岡崎城までの道が曲りくねっている。旅籠は百軒以上あったが、戦災で残っていない。
 このあたりから足助街道(塩街道)ともつながっている(東岡崎から足助行きのバスあり)。岡崎から足助までは二十七キロ。頑張れば一日で歩けそうだが、途中、バスを利用したほうが無難か。

 色川武大が時々岡崎のビジネスホテルで仕事(逃避)をしていた話を書いている。名古屋でも豊橋でもなく、岡崎というのが気になっていた。JRの岡崎駅、名鉄の東岡崎駅ではなく、岡崎公園駅の板屋町のあたりの気がするが、わからない。名鉄の岡崎公園の旧東海道沿いに小さな旅館やホテルがいくつかあった。

《愛知県岡崎市の片隅に、これは完全な商人宿ふうだが、好きな宿がある。一泊朝食付三千円。古びた色町と寺町がまざりあったようなところにあって、ここの二階の六畳で炬燵に入って仕事したり酒を呑んだりしている》(「私の日本三景」/『いずれ我が身も』中公文庫)

 名鉄といえば、色川武大は豊橋にも行っている。

《豊橋競輪場の中の売店で、この地の名産の小ぶりの竹輪に醤油をかけて飯を喰った。あれはオツな昼飯になった》(「駄喰い三昧」/阿佐田哲也著『三博四食五眠』幻戯書房)

「駄喰い三昧」と題した随筆は、色川武大著『喰いたい放題』(集英社文庫)にも入っているが、『三博四食五眠』の収録作とは別である(さっき気づいた)。

 名鉄の沿線は知らない町ばかり。三重に帰る途中、どこかしらの駅で降りたい。岡崎は一度宿に泊ってみたい。

2022/06/03

暑熱順化

 先週の日曜日、東京都心で今年初の真夏日(最高気温三十度以上)、群馬県高崎市は猛暑日(三十五度以上)を記録した。

 すこし前の夕方のニュースで「暑熱順化」という言葉を知った。軽く運動したり、湯船にゆっくりつかったりして、夏の暑さに備え、体を慣らしていくといいようだ。冬は「寒冷順化」という。
 晴れの日一万歩(だいたい六キロ)、雨の日五千歩(だいたい三キロ)の散歩をするようになって、以前と比べ、気温の変化への耐性がついた——気がする。

 わたしの場合、家にずっとこもっていると、面白そうなこと、楽しそうなことへの反応が鈍くなる。
 夜、近所の飲み屋に行こうかなとおもっても「今日はいいか」となる。翌日、顔を出すと「昨日は誰それさんが来ていて盛り上がったよ」と教えられる。
 東京近郊で気になる文学展があっても、ずるずると行くのをためらっているうちに期間が過ぎてしまうことも多い。
 行こうとおもったら、さっと体が動くようになりたい。こういうことは精神論よりも慣れである。

 とりあえず家を出て歩きはじめる。散歩中、「そういえば、誰それの個展は明日までだったな」と思い出し、そのまま会場に向う。電車で帰る途中、適当な駅で降りて知らない町を散歩する。そんな感じで自分の動きを軽くできたらいいなと……。

2022/06/01

ここにいる理由

 先週、近所の青果店に行ったらジャガイモとタマネギが一袋百円台(小ぶりのジャガイモ十個、小ぶりのタマネギ五個)で買えた。高騰していた野菜の値段も落ち着いてきたか。
 高円寺は北口南口ガード下と縦横無尽に商店街がある。わたしの家からはすこし離れているが、東高円寺(東京メトロ丸の内線)界隈のニコニコロードもたまに散歩する。昔——明治以前は中央線の駅周辺より青梅街道沿いの東高円寺のほうが栄えていた。中野もそう。

 一九八九年、十九歳十一ヶ月——二十歳になる直前、東武東上線沿線の下赤塚駅から高円寺のアパートに移り住んだ。二十代の十年は更新のたびに高円寺内を引っ越した。三十代は二度、高円寺内で引っ越した。四十代以降は自宅の引っ越しをしていない。ただし仕事部屋として借りていた風呂なしアパートが取り壊しになり、引っ越した。
 引っ越し回数は年を経るにつれ、少なくなっている。

 同じ町に住み続ける人生、転々といろいろな町に移り住む人生——どちらかしか選べない。

 最初はなんとなく三十歳くらいまで高円寺で暮らしたいとおもっていた。三十歳になるかならないかの時期、京都に引っ越そうと考えたこともあった。結局、高円寺に住み続けた。どこにいても似たような生活をしていた気もする。一つの町にいることは自分の思考にも少なからぬ影響を及ぼしている。二十代のころは高円寺が自分の町という気持は希薄だった。三重から上京して様々な偶然が重なってここにいるにすぎない。三十年以上、同じ町に住んでいると自分が選んだ、選び続けてきた結果ここにいると受け容れるほかない。

 京都とまではいかなくても三十代のころに都内のどこか別の町に移り住んでいたら自分の書くものも変わっていたかもしれない。人間関係も変わっただろう。こんなに長く高円寺に住むとわかっていれば、リーマンショックの後くらいに中古のマンションを買っていれば……といった考えが、頭によぎる。これまで払ってきた家賃を計算するとむなしくなる。

 五十代、終の住み処について考えてもおかしくない年頃である。この先も同じ町に住み続けるのか、それともどこか別の町に引っ越すのか。わからないから先送り。