2021/12/31

終末のはじまり

 ちょっと前に稲井カオル『そのへんのアクタ』(白泉社)の二巻を読んで……何か感想を書き残しておきたいとおもいつつ、なんとなく、バタバタした日々を過ごしているうちに忘れていた。
 重厚な作品ではないので「名作」っぽさはないのだが、二〇二〇年代最重要作品になるかもしれない漫画だとわたしは予想している。

 ある日突然、「イズリアン」と呼ばれる地球外生命体が来襲し、人類の存亡をかけた死闘がはじまる。主人公のアクタは「終末の英雄」と呼ばれた戦士である。ところが、地球外生命体と人類の戦いは膠着状態に陥り、アクタは千葉基地から鳥取支部に「左遷」されてしまう。
 アクタは戦うこと以外は人付き合いをはじめ、とにかく不器用で出来ないことばかり。

 鳥取支部は元々ドライブインだった店舗がそのまま基地になっていて、隣のレストランはふつうに営業している。鳥取支部に来たアクタの最初の仕事は犬の散歩だ。そして廊下の拭き掃除を頼まれる。

 もちろん鳥取にも地球外生命体は襲来する。赴任後、初のイズリアンの襲来にアクタはようやく出番がきたと勇ましく出動しようとする。しかし副隊長の百福さんは彼を制止し、夜食の準備を手伝うことを命じる。
 百福さんはアクタにこう語りかける。

《私達が暮らすのは言わば「終わりそうで終わらない でもちょっとだけ終わりそうな世界」です》

《しかし私達はどんな時でも 毎日を過ごしていかなくてはなりません》

“戦闘マシーン”のような日々を送り、人間らしい思考と感情を削ぎ落としたアクタは鳥取に来て、食事の手伝いをしたり掃除をしたり散歩をしたり子どもと遊んだり「戦い」以外のことを学んでいく。

 わたしが子どものころに読んでいた漫画の「終末」は核戦争や隕石の衝突などで廃墟になった世界が舞台になっているものが多かった。弱肉強食の食うか食われるか、生きるか死ぬかのサバイバルの物語だ。しかしある時期——二〇一〇年代以降、じわじわと破局に向かうゆるやかな「終末」を淡々と暮らす作品が増えてきた。

『そのへんのアクタ』もその流れにある作品といっていい。地球外生命体との戦いは一進一退——いっぽう少子高齢化や過疎化による人口減の社会もさりげなく描かれている。でも悲愴感はない。緻密に練られたコントのような味わいもある。

『そのへんのアクタ』は、なかなか決着のつかない世界における長期戦、持久戦の心構えが描かれている漫画なのだ。
 人類の存亡をかけた戦いの中でも鳥取支部の隊員たちは、家事を怠らず、息抜きをし、冗談をいい合う。いろいろな仕事を掛け持ちしている。

《しかし私達はどんな時でも 毎日を過ごしていかなくてはなりません》

「終末の英雄」と呼ばれるような無敵の存在だったアクタが、左遷された理由もそこにある。自己を戦闘能力に特化し、まったく感情のブレがなく、ひたすら任務を遂行しようとする彼は知らず知らずのうちにまわりに無言のプレッシャーをかける。
——どうしておれと同じように自分の全てを捧げ、敵と戦わないのか。
 アクタはそんなことはいわないが、そういう雰囲気を発散し続けている。周囲の隊員たちはみんな息苦しくなる。

 いかに人類存亡の危機——に直面していようが、自分を犠牲にして、ずっと緊張し、集中し、戦いのことだけを考えるような毎日を過ごすのは「そのへん」の人には不可能である。イズリアンとの戦いはずっと続く。自分が生きている間には終わらない可能性もあるのだ。

 鳥取支部の隊員たちは緊張感がなく、みんなノリが軽く、いい加減だ。他愛もないことで笑ったり冗談をいったりふざけたりしている。戦うのが怖くて逃げ出してしまう隊員もいる。
 勝っても負けても、たとえゆるやかに衰退していく世界だったとしても、日々楽しく生きる。それがゆるやかな終末を生きるための知恵だろう。

『そのへんのアクタ』は今の時代に必要な思想——人生哲学をギャグをまじえて描いた作品ともいえる。もちろん、息抜きに読むにも最適な漫画だ。

2021/12/29

戦力外の話

 二十八日夜、年末恒例——「プロ野球戦力外通告」を観る。今年は番組には三十歳の投手が二人取り上げられていた(その二人以外では楽天を戦力外になった牧田和久投手も)。

 三十歳の選手は二人とも結婚していて子どもがいる。
 彼らは他球団から声がかからなければ、独立リーグに行くか海外でプレーするか現役引退か——そうした岐路に立っている。福岡ソフトバンクホークスの投手は引退し、球団職員の道を選び、今年台湾にいた元阪神タイガースの投手はトライアウトを受けたが期日までにオファーがなく、もう一年頑張ることに決めた。
 引退しても球団の職員、スタッフとして野球に関わる仕事ができるのはかなり恵まれた選手といっていい。

 真面目で練習熱心で試合に出ていないときでも味方の選手を大きな声で応援する。陽気でチームメイトに愛されている。そういう選手は引退後も球団のスタッフとして残ることが多い気がする。あと球団と出身校の関係なども左右することがある(ホークスの球団職員になった選手は福岡県の野球の名門校の出身だ)。逆に自分のことしか考えてなくて、ベンチの雰囲気をギスギスさせてしまうような選手はそこそこの成績を残していても戦力外候補になりやすいし、裏方としても声がかかりにくい。

 選手としては同じくらいの成績だったとしても、日頃の小さな積み重ねによって引退後の明暗は分かれる。

 戦力外になる選手は年齢もそうだが、プロとしての技術面で何らかの課題があるということだ。どんなに球が速くてもノーコンだとか、打撃は光るものがあっても守備がまずいとか、走攻守のセンスはあるけどケガが多いとか……。若いころは「伸びしろ」を期待され、多少の欠点があったとしても試合に出してもらえる。しかし三十歳の選手はそういうわけにはいかない。監督やコーチは同じような課題を抱えている選手であれば、若手に経験を積ませたいと考える。
 育成の期間が過ぎた三十歳前後の中堅の選手は確実性——計算できる選手かどうかが問われてくる。野手の場合でいえば、ゲーム終盤一点差で負けている局面でランナーを確実に送るバッティングもしくはバントができるかどうか。一アウトで三塁ランナーをホームに返すバッティングができるかどうか。レギュラーではない中堅選手であれば、複数のポジションを守れるユーティリティとしての能力も必要になってくる。投手なら四球が少なく三振がとれる——のが理想だが、とにかく簡単には崩れない、粘り強いピッチングができるようにならないと大事な場面を任せてもらえない。

 ベテラン選手になれば、自分の成績だけでなく、チーム全体のことまで考えないといけなくなる。そのときどきのチーム事情に応じ、様々な役割が求められるようになる。苦しいときにチームの士気を高める行動がとれるかどうかも大事な仕事だ。

 三十歳前後で戦力外になる選手は、自分のことで一杯一杯でまわりが見えていない。それからプロで生き残るための貪欲さみたいなものが足りない。

 一年前に戦力外通告を受け、今年台湾の球団にいた選手が妻にトライアウトの結果がダメだったらどうするのか——といったことを問い詰められる。選手は「今は考えられない」と答える。
 プロになるような選手はみんなアマチュア時代は野球の超エリートである。アルバイトなんてしたことがない選手が大半だろう。そういう選手が戦力外になった後、どういう人生を歩むのか……。

 一軍のレギュラーになれる選手は一握りである。そして本人の納得にいく形で引退できる選手はもっと少ない。野球好きとしては、みんな幸せになってくれることを願うばかりだ。

2021/12/24

大勢順応 その七

  午前中、銀行に行ったら店舗の外まで人が並んでいる。スーパーも混んでいた。諦める。自由業でよかったとおもうことの一つは混雑時を避けようとおもえばいくらでも避けれるところだろう。しかし長年、密を避ける生活を送っていると人混や行列にたいする耐性が落ちてくる。コンビニでも二人くらい並んでいると諦め、別の店舗まで足を延ばす。

 多くの人が集まる時間や場所をすぐズラそうとする。極力、他人といっしょに行動しない。わたしはそういう生活習慣がしみついてしまっている。

 三十代——というか三十歳前後、「大勢順応」しているフリして場数を踏んで経験値を上げよう作戦を考えた。わたしはおとなしそうにおもわれがちなのだが、協調性がまったくない。何でもかんでも自分のペースでやろうとする。要するに、しめきりさえ間に合わせれば、途中経過はどんなやり方をしてもいい——という感覚がどうやっても抜けない。
 経験値を上げよう作戦のさい、そこを直そうと考えた。そして無理なことがわかった。

 五十二歳の今のわたしが三十代前後の自分に助言するとすれば、「ちゃんと寝ろ」といいたい。昔のわたしはしょっちゅう徹夜し、体調を崩していた。睡眠と休息をとる。それから仕事する。そのほうが仕事も捗る。それがわかったことは大きな収穫だった。

 橋本治のいう「能力の獲得」とはちがうかもしれないが、自分の向き不向きや体調管理の大切さなど、失敗から学んだことはいろいろある。だから経験値上げ作戦は無駄ではなかった……とおもっている。

 その時代の「一つの価値観」に合うか合わないかの話でいえば、わたしの好きな戦中派の作家たちは十代二十代のときに「支配的な一つの価値体系」が崩壊する瞬間を目の当たりにした。昨日まで正しいとされていたものが一夜にして“悪”になる。とすれば、今日の“善”が明日“悪”に変わったとしても不思議ではない。

「みんな『いい人』の社会」は、自分に非がなく、“悪”は自分の外にある——それが集団になり、個人を排除、追放する。後になって、その個人に何の罪がなかったと判明しても、責任をとる人は誰もいない。それが「独裁者抜きのファシズム」の怖さである。法律も証拠の有無も関係なく、気分で人を裁く。一度動き出してしまうと歯止めが効かなくなる。

「独裁者抜きのファシズム」を止めるにはどうすればいいのか。個人で対処しようとすれば、一対百、一対千、一対万の争いになりかねない。こちらが「一」批判すれば、瞬時に「百」や「千」の反論が返ってくる。

 だから個別の戦いはできる限り避け(おそらく気力と体力が持たない)、その構造を解き明かすための地道な作業が必要になる。

 二十年以上前に橋本治は青年漫画誌の活字の頁でそういう作業をしていた。
「みんな『いい人』の社会」が「楽園」だとすると「失楽園」は「楽園」を失った世界——「支配的な一つの価値体系」が崩れ、消え去った世界とも解釈できる。

 では「失楽園」の「向こう側」に何があるのか。どうすればその「向こう側」に辿り着けるのか。
 おそらく「能力の獲得」というテーマも絡んでくるとおもうが、今のわたしはこの話を続ける余裕がない。もうすこし勉強し、体調を整えてから、この続きを書きたい。

(……未完)

2021/12/23

大勢順応 その六

 二十世紀の終わりに橋本治は「みんな『いい人』の社会」や「独裁者抜きのファシズム」について論じていたころ、三十代前半のわたしは仕事や生活が行き詰まり、社会への関心が薄れていた。だから『広告批評』の連載で「そして二十世紀は終わった」を読んだときも「独裁者抜きのファシズム」といった話よりも次の言葉のほうが印象深かった——記憶がある。

《私が「不自由」を感じるのは、自分とは違う他人の価値体系に侵される時である。私は、「自分とはなんだ?」とか、そういう哲学的な悩み方をしたことがない。根本で、自分のことをかけらも疑っていない》

《「根本で確固としている自分を展開するために必要なのは、能力の獲得である」としか思っていない》

「支配的な一つの価値体系」に自分の考え方や感じ方が合わず、「みんな『いい人』の社会」から脱落する。
 そうなると何をいっても書いても、落ちこぼれの変わり者がおかしなことをほざいているという状況に陥ってしまう。その状況を打破するにはどうすればいいのか。「大勢順応」しているフリをして、「いい人」そうだけど、ちょっと「ヘンな人」くらいのポジションに身を置くという方法もなくはない。極力、周囲との摩擦を避け、いろいろ制約がある中で自分のやりたいことをやる。あるいは隙間産業に徹する。そうやってすこしずつ信用を積み重ね、交渉力を身につけ、やりたいことができる機会を増やしていく。それも「能力の獲得」の一種だろう。

  三十代のわたしはそんなふうに仕事ができるようになることを目指した。

(……続く)

2021/12/22

大勢順応 その五

 橋本治が『ビッグコミックスペリオール』で「失楽園の向こう側」を連載していたころ、『広告批評』に「ああでもなくこうでもなく」という時評を書いていた。その連載は『さらに、ああでもなくこうでもなく』(マドラ出版、二〇〇一年)にまとめられた。同書の「そして二十世紀が終わった」に「独裁者のいないファシズム」という言葉が登場する。

《昭和というのは、「一つの価値観」しか持たない時代だった。支配的な一つの価値体系があって、そこに合致したものと合致しないものとの間には、歴然たる区別があった》

 この「支配的な一つの価値体系」が「独裁者抜きのファシズム」を読み解くキーワードになる。戦前戦中の軍国主義の時代には「支配的な一つの価値体系」から外れた者は「非国民」と呼ばれた。戦後の日本の一九七〇年代後半以降、「中流意識」が「支配的な一つの価値体系」になる。

《「支配的な一つの価値体系」は、「価値観の違う他者」の存在を許さない。たとえ譲歩しても、その存在を好まない》

 橋本治は「支配的な一つの価値体系」を成り立たせるのは「強制」ではなく「信仰」だと論じている。「中流意識」は「中流」を目指し、「横並びの均等」の実現を願った信仰ともいえる。

《日本的ファシズムの特徴は、「明白なる独裁者が存在しないこと」である。(中略)そこに「統合のシンボル」がありさえすれば、日本人はたやすく、「独裁者抜きのファシズム」を実現させてしまえるらしい》

 富国強兵も一億総中流も「支配的な一つの価値体系」への信仰によって支えられてきた。
 その後、そして今の「支配的な一つの価値体系」は何なのか。そんなものはもうない——のかもしれない。
 ただしいつの時代も自分たちの価値観を「支配的な一つの価値体系」に押し上げようと躍起になっている人たちがいる。「独裁者抜きのファシズム」は「支配的な一つの価値体系」に多くの人が順応することで達成される。

 国民一丸となって、国を強くしよう、社会を豊かにしよう、日々刻々と更新されるトレンドを広めよう。違いがあるとすれば、強さや豊かさは世代をこえて理解しやすく、体感しやすいが、日々更新されるトレンドは“情報通”にならないと付いていけないところだろう。一早くトレンドに同調できない人は“悪”だ“時代錯誤”だといわれても、多くの人は戸惑う。だから本人たちがどれだけ自分の正しさを立証しようとしても「支配的な一つの価値体系」になるのはむずかしい。もっとも、わかりやすければいいというものではない。

(……続く)

2021/12/21

大勢順応 その四

 橋本治の文章を読むと「何か大事なことが書いてある」ということは直感するのだが、真意を理解するまでにけっこう時間差が生じる。五年後十年後あるいはもっと時間がかかることがある。『貧乏は正しい!』シリーズ(小学館文庫)のときもそうだった。
『失楽園の向こう側』は二〇〇〇年から二〇〇三年の連載が元になっていて、「みんな『いい人』の社会」は約二十年前に書かれた批評だが、この五年くらいの社会情勢の変化と照らし合わせることで「独裁者抜きのファシズム」がどういうものか、わたしはなんとなくイメージできるようになった。

 真面目で善良な人々が、弾圧に加担している自覚のないまま、個人を追いつめ、職を奪おうとしたり、その土地に住めなくさせたりする。
 わたしたちは「いい人」である。「いい人」であるわたしたちが不快に感じるものは“悪”である。“悪”を排除することは正しい。その“悪”を擁護する人も“悪”の味方だから追放する。

 戦前戦中は「非国民」という言葉で他人を責めた。自分が「非国民」といわれないためには、誰かを「非国民」と罵るのが手っ取り早い。「非国民」に相当する言葉は時代によって変わってくる。今の欧米(そして日本も)では「差別主義者」や「排外主義者」がそれに当たる。

「独裁者抜きのファシズム」は日本特有のものではない。

 二十世紀末に書かれた時評を今読み返し、あらためてわたしは橋本治のすごさを再確認した。「みんな『いい人』の社会」は「独裁者抜きのファシズム」に転じる可能性がある。要約すると、そういう論旨になる。しかしこの話は要約してはいけないのかもしれない。
 橋本治がその気になれば、もっとすっきり書くことも不可能ではないだろう。なぜそうしないのか。自分は正しいと信じて疑わない「いい人」は「全体主義者」に転じる怖れがある——そういってしまった瞬間、その「全体主義者」もまた「非国民」や「差別主義者」と同じレッテルに転化してしまうからだ。

 ややこしい問題を簡単に説明する。「みんな『いい人』の社会」は「独裁者抜きのファシズム」である。そうまとめてしまうと「よかった、自分は全体主義者ではないからセーフだ」くらいの納得の仕方で自分には関係ないと安心する。

 ひょっとしたら知らず知らずのうちに「人並」な「いい人」の価値観に染まり、“悪”は自分の外にあるとおもう人間になっているのではないか。そう考えることがこの問題を理解するための糸口になる。

(……続く)

2021/12/19

大勢順応 その三

『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」を読み進めていくと「大勢順応」の例として、企業のリストラと学校のイジメの話が出てくる。「みんな『いい人』」の「いい人」は“悪”を引き受けない人という逆説を含んだ言葉であることがわかってくる。

 会社の業績が悪化する。その責任は社長をはじめ会社の上層部にある。しかしリストラの対象になるのは彼らではない。責任者たちは会社を立て直すためにリストラを敢行する。

《リストラとは、“悪化”という下り坂を転がりながら、経営悪化とは無関係な立場にいた人達が、順にクビを切られて行くことになっている。(中略)「君、会社を辞めてくれないか。君の責任じゃないんだが、このままじゃ会社が成り立たないんだ」と言われて、「はい」と言ったら、もうそこまでである。「会社を辞めた人間に対して、会社が責任を持つ必要はない」ということになる。辞めずに居座ったら、いやがらせの嵐がやって来て、辞めずにはいられなくなるのだが、そうなってもしかし、辞める時には必ず、「本人の意志によって」である》

「みんな『いい人』の社会」の「いい人」は“悪”を引き受けない。「イジメの構造」も同じだ。いやがらせをしたり、排除したりする側はそれを“悪”とは考えない。会社を立て直すため、クラスの和を取り戻すため——くらいの気持なのだ。
「人並」を達成した「いい人」にとって、“悪”は自分の外にある。自分が不快と感じれば、その原因は自分以外の誰かのせいだと考える。

《多くの人が一つの建前を信じて、それに基づいて共同生活をしている中で、ただ一人異を唱える人が出て来ると、その生活共同体の安全が脅かされる——だからこそ、これへの排除が必要になって、「村八分」という制裁も生まれる》

「村八分」に参加している人たちは、当然自分たちのことを“悪”とおもわない。村の安全のために一致団結し、平穏を取り戻そうとしているだけだ。そして排除される人も孤立する人も自分の意志で選んだことにされてしまう。

《日本では、「独裁者によって社会への適合を強制される」という事態があまり起こらない。たとえば、太平洋戦争へと向かう日本的ファシズムの中に、ヒトラーやムッソリーニのように強力な独裁者はない。だから、「誰が悪いのか」が明確に分からない》

 橋本治はそうした構造を「独裁者抜きのファシズム」といった。「独裁者抜きのファシズム」という言葉は『失楽園の向こう側』ではなく、同時期に橋本治が書いた他の本に出てくる。

 強力な独裁者が国民を同じ方向(価値観)に導くのではなく、国民自らが「大勢順応」し、社会への適合を果たすために努力する。「大勢順応」の努力を怠ったり、異を唱えたりする人を排除する。
「みんな『いい人』の社会」はそういう社会なのである。

(……続く)

2021/12/18

大勢順応 その二

『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」で橋本治が論じた「大勢順応」について、もうすこし考えてみたい。

『失楽園の向こう側』は文庫オリジナルで刊行は二〇〇六年三月。二〇〇〇年から二〇〇三年にかけての『ビッグコミックスペリオール』の連載を大幅加筆したものだ。橋本治は一九四八年三月生まれ、連載開始時、五十二歳だった。

 解説は熊田正史さん(京都精華大学教授)が書いている。

《十数年前、私は『ヤングサンデー』というコミック誌の編集をしていた。(中略)つまり、『ヤングサンデー』はコミック誌なのに橋本治が載っているというヘンなコミック誌だったのだ》

 学生時代のわたしは『ヤングサンデー』の連載「貧乏は正しい!」(連載時のタイトルは「こう生きるのが正しい」)を毎号愛読していた。同連載中「夏三泊四日の橋本治漬けセミナー」も開催していた。わたしはこのセミナーの第一回(一九九二年)の卒業生である。この合宿に参加した年に大学を中退した。

『失楽園の向こう側』は二〇〇〇年代はじめの連載で、当時三十歳前後の読者を想定した(連載開始時、わたしも三十歳だった)。
 わたしは同書の「みんな『いい人』の社会」を文庫化されてから読んだのだが、そこに書かれている内容を当時理解できていなかったとおもう。

——「人並」には「その先がない」の話はこう続く。

《ゴールが「人並」である以上、自分のやっていることは、「誰でもやっていること」なんだから、そこに「反省」などというものが入る必要はない。だから、モラルというものは低下する》

 大学を出て十年前後、ようやく仕事に慣れてきた三十代の読者はどうおもったかわからないが、文庫刊行時二〇〇六年の三十六歳のわたしは週三日のアルバイトをしながら原稿を書いている身だったから自分のことを「人並」とおもえる状況ではなかった。だから他人事として読んでいたのではないか。

《大勢順応が“善”だから、多くの人は大勢に順応する。大勢順応はさらなる大勢順応を呼んで、気がついた時には、そこにストップをかける人間がいなくなる》

 この部分にしても昨今のポリコレやキャンセルカルチャーをおもい浮かべる人もいれば、与党の政治家やその支持者のことを指していると考える人もいるだろう。この橋本治の発言は自分の価値観(傾向)に合わせて、好きなように解釈できてしまう。

「大勢順応」は自分の思考や志向や嗜好ではなく、自分の属している集団の価値観、ルールを優先しがちな人に当てはまる。と、わたしは解釈している。保守だろうがリベラルだろうが、集団の価値観に「適応」——「順応」することを“善”と考える人たちがいる。「みんな『いい人』の社会」は「適応」できない人を“悪”として「放逐」する社会でもある。「適応」できない人がいなくなれば、世の中は楽園になる。では、「みんな『いい人』の社会」で「いい人」ではないと認定されてしまった人はどうなるのか。その「いい人」の基準は誰が決めるのか。当然、そういう疑問が出てくる。

(……続く)

2021/12/17

大勢順応 その一

 経験上、体が冷えてくると気持も沈みがちになる。わたしはある種の精神論——気合や根性を否定する気はないが、とりあえず体を温めることのほうが手っ取り早いと考えている。

 何年も会っていないが、二十代のころ「とにかく起きたらすぐお湯で手を温めろ」と助言してくれた先輩ライターのNさんにはいまだに感謝している。冬になるたびにその言葉をおもいだす。Nさんの名前は橋本治著『失楽園の向こう側』(小学館文庫、二〇〇六年)の巻末に「企画協力者」として記載されている。

《日本社会で一番重要なのは、「適合」である。「適合」を完了した状態を「人並」と言う。日本での「人並」というのは、ある種の到達点だから、その先はない》(「みんな『いい人』の社会」/同書)

 子どものころから世の中への「適合」を目指し、それなりの収入を得て「人並」になる。その結果、自分は正しい、もしくはそれほど間違っていないと考える。ようするに自分を疑わなくなる。「人並」の自分と違う意見を見聞きすると「人並」以下の未熟な人間の妄言とおもってしまう。

《多くの人間が共有する「建前」は、それが共有されているものであればこそ、多くの人達にとって、「自分たちを成り立たせてくれる重要なもの」なのだ。だから、それに対して「違う」と言ったって、聞く方には意味が分からない。意味をなさないものに対して、多くの人は耳を傾けられない》

《「他人とは違う意見を言う人」は、ただ「不思議な人」で、そんな人間がなにかを言っても、「不思議なことを言う人がまた不思議なことを言っている」にしかならない》

《大勢順応が“善”だから、多くの人は大勢に順応する。大勢順応はさらなる大勢順応を呼んで、気がついた時には、そこにストップをかける人間がいなくなる。「大勢順応は悪だ」と言ったら、「大勢順応をとげている多くの善人を混乱させた」という罪に問われて放逐されてしまう——だから「違う」と言う人間がいなくなってしまう》

『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」は今の言論状況にも当てはまる。仮に「建前」が正しかったとしても、行き過ぎてしまうことはいくらでもある。しかしその行き過ぎに異論を唱えると「『大勢順応をとげている多くの善人を混乱させた』という罪に問われて放逐されてしまう」のである。

 「みんな『いい人』の社会」に「平均値が大好きな日本人は、平均値と基準値を同じものだと思ってしまう」という一文もあった。高血圧の人が多い村は、その平均値も高くなる。彼らは自分が暮らす外の世界の基準値を知らない。

《全員が高血圧の中に、一人だけ低血圧の人間がいて、普段から「起きて調子が出ない」なんてことを言っていたら、それはもう特別な仲間はずれの変わり者で、怠け者である》 

 そして「病気」ということになる。「病気」なら適切な治療を施せば治るだろう。その理屈は「大勢順応」に異論を唱えるような人にも適用されがちである。あなたが我々の正しさに疑問を抱くのは正しい情報を知らず、正しい判断ができていないからだと……。

(……続く)

2021/12/12

昼寝夕起

 金曜日、午前中から西部古書会館。毎年楽しみにしている歳末赤札古本市。木曜日が初日だったが、二日目も図録充実——けっこういい本(あくまでも自分の好み)があった。この日は早起きしたわけではなく、前日からずっと起きていた。
 古書会館で街道関係の図録や文学展のパンフレットを見ていると、同じ人の蔵書がまとまって出品されているのではないかとおもうことがよくある。郷土史料館の半券が同じ場所に貼ってあったり……。これだけ集めるのに何年くらいかかったのか。
 自分が集めている本や図録もいつかは手放すときがくる。古本屋に流れ、個人の蔵書は循環していく。生きているうちに読める本には限りがある。旅もそう。日本中の宿場町を歩いてみたいが、どう考えても時間が足りない。再訪したい場所をまわるだけでも道半ばで終わるだろう。
 古書会館から帰って寝る。起きたら夕方四時半。ひさしぶりに目が覚めた瞬間、朝か夕方かわからないかんじを味わう。
 三日連続、夕方に起きている。今日はこれから寝るのでたぶん夜起きる。

 先月、西部古書会館で柴田秀一郎著『バス停留所』(リトルモア、二〇一〇年)を買った。横長の変形本——素晴らしい写真集である(刊行時に気づけなかったのは不覚。十一年前はまだバスに興味がなかった)。全国各地の路線バスの停留所の写真(モノクロ)を見ているとたまらない気持になる。ほぼ見たことのない風景だけど、むしょうに懐かしい。時とともに価値が増す写真集かもしれない。わたしは写真をまったく撮らないのだが、こういう旅がしたいとおもった。
 柴田さんは一九六三年東京・杉並区生まれ。あとがきによると「サラリーマンと写真家の二足の草鞋を履いている」とある。

……ここまで書いて話が変わるが、田中敦子著『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)という本が出た。「note」連載中から「すごいものを読まされている」と本になるのが待ち遠しかった。

 田中さんの父の一家と尾崎一家の縁を語りつつ、尾崎一雄の作品を紹介している。尾崎一雄の文学の奥深さだけでなく、その人間味まで田中さんの温かい文章から伝わってくる。尾崎一雄の小説の続きを読んでいるような気分になる。

 今、わたしは尾崎一雄の本(刊行は来年)を作っていて、『父のおじさん』と関係している作品も収録している。田中さんの父が結婚したとき、その仲人を尾崎一雄、松枝夫妻がした——という話が出てくる随筆である。

2021/12/07

危機回避

 月曜日午後三時、ある本を受け取るため、西荻窪へ。帰りは荻窪まで歩く。途中、ミニコープ、ワイズマートで食材と調味料を買う。たまに西荻〜荻窪間を歩く。「上荻本町通り(商店会)」という道がある。長年この通りの名を知らずにいた。

 ワイズマートで買物中、万歩計の電池が切れる(よくある)。鞄から予備の電池を出し、交換する。その日歩いた歩数が消える。

 すこし前にバーバラ・N・ホロウィッツ、キャスリン・バウアーズ著『WILDHOOD 野生の青年期 人間も動物も波乱を乗り越えおとなになる』(土屋晶子訳、白楊社)を読んだ。
 書店で立ち読みしていたら「フライフィッシングをする優しそうな男性も、それがたとえおじいちゃんでも、実際には、太古からの捕食者のだましのわざを駆使する熟練したハンターだといえる」とあり、購入を決めた。海外のノンフィクションを読んでいると、釣りの本以外でもフライフィッシングの話をちょくちょく見かける。

 警戒心の弱い大人になったばかりの魚のほうが擬似餌の標的になりやすい。たぶんそうなのだろう。捕食者から身を守り、安全に生きるための知恵をつけること。それが生物(動物)の成長にとっては欠かせない。
 人間の子どももそうだ。一切の危険から遠ざけて育てようとすれば、危機回避能力は身につかない。
 同書で印象に残ったのは次の一節である。

《ここで、特筆に値するのは、モルモットからオマキザルまで、青年期に仲間と荒っぽい取っ組み合いごっこをたくさんした者たちは、ほかの個体と出会ってもすぐに戦いを始めたりはしない点である。(中略)遊びを通して、動物の若者はダメージを受けずに、対立の折り合いのつけ方を試すことができる》

 この部分を読んでいるとき、色川武大著『うらおもて人生録』(新潮文庫)の「野良猫の兄弟——の章」をおもいだした。色川武大は野良猫のオスの兄弟を観察する。兄は「なかなか戦闘的で、なおかつ開放的」でよく懐いた。弟は「どうにもひっこみ思案」で警戒心が強く、なかなか人に近づこうとしない。

《はじめ、俺は、警戒心の強い臆病猫は生き残るんじゃないかと思った。積極的な猫は、危険なことにもたくさんぶつかるはずだからね。
 ところが、ちがうんだ》

 臆病な猫は長生きできず、積極果敢な人懐っこい猫は何年も元気に生きた。色川武大は「危険を避けているだけじゃ駄目なんだねえ」と書いている。この兄弟猫の件はたまたまそうだっただけかもしれないが、危険を避けてばかりでは安全に生きられない。

 人生にも通じる教訓のような気がする。

2021/12/04

戦中派のこと

 気がつけば十二月。金曜日、昼すぎ西部古書会館。平日開催だけど、けっこう混んでいた。『品川区史料(十一)品川の古道』(品川区教育委員会、一九九八年)、『鎌倉街道と中世のみち 狭山丘陵の中世』(東村山ふるさと歴史館、二〇一〇年)など。

 部屋の掃除中、田村隆一著『退屈無想庵』(新潮社、一九九三年)の「余命」をパラパラ読んでいたら、こんな記述があった。

《十二月四日(水) 晴 暖。
 真珠湾奇襲攻撃五十周年をひかえて、TVでは、しきりと当時の映像を送る。(中略)ぼくは、あのとき、ブッシュ大統領とおなじように大学生であり、ぼくは十八歳、ブッシュ老人は十七歳だったのだ》

 五十周年ということは一九九一年、三十年前になる。文中のブッシュ大統領は“パパ・ブッシュ”のほう。同随筆は『新潮45』の連載で、当時、田村隆一は六十八歳だった。このころは戦中派の詩人や作家で存命の人が多かった。田村隆一と同世代だと遠藤周作、吉行淳之介、司馬遼太郎、山田風太郎といった作家がいる。

 五年前に亡くなったわたしの父は一九四一年十月生まれ。生きていれば、今年八十歳だったのだなと……。
 ちなみにわたしは先月五十二歳になった。三十年前は二十二歳だった。後にバブルといわれる時代だが、風呂なしアパートに住み、古本屋で第三の新人と「荒地」の詩人の本を買い漁っていた。
 戦後の平和主義教育を受けてきたせいか、戦中派作家の回想を読んで戦争観が大きく変わった。

 鮎川信夫著『すこぶる愉快な絶望』(思潮社、一九八七年)の菅谷規矩雄との対談「〈戦争〉と〈革命〉が終わった時代へ」では、戦中、小学生や中学生で空襲に怯え、ひもじいおもいをした世代と軍隊にいた自分たちとは戦争にたいする感覚がちがうといった話になり——。

《鮎川 (略)軍隊だけは食い物の心配もせずにたらふく食えるし、それに軍隊は攻撃する立場だから敵襲というものに対する感覚がすでに違う。つまり内地なんかの一方的にやられて逃げまどう立場と較べて、こっちもやってるんだから襲って来るのが当り前だというくらいの受け止め方なんです。そういうかなりな違いというのがある。同じように、戦争体験だけでなく占領体験でも、どのくらいの年齢だったとか、どこに住んでいたかということでも相当違うんです。
 菅谷 そうですよね。占領軍の基地の周辺に住んでいた人もいれば、占領軍の兵隊と一度も顔を突き合わせることのないまま、占領時代が終ってしまう人もいたでしょうね》

 いつどこに生まれ育ったか。自分の生まれた時代、場所のちがいで感覚も風景も変わる。当たり前といえばそうなのだが、すくなくとも二十歳前後のわたしはそうおもっていなかった。もっと単純に考えていた。家や仕事を失った人もいれば、何も失わず無事切り抜けた人もいる。同じ軍隊にいても将校と歩兵ではちがう。

 そういうことは戦時中にかぎらず、あらゆる時代にも当てはまるだろう。今のコロナ禍にしても、学生と社会人、都市と地方——生まれた時代、どこに住んでいるかで経験が変わる。それがどんなふうに歴史にまとめられていくのか、ちょっと興味深い。

2021/11/26

低迷期の心得

 十一月のはじめに首の寝ちがえから左肩、左の二の腕、左肘あたりまで神経痛になった。数日前に首と肩の痛みは緩和し、今は左肘のみ。ずいぶん回復した。もう痛め止めの薬は飲んでいない。わたしの場合、体が治ってきて活力が戻ってくると、むしょうにコーヒーが飲みたくなる(昨日まではずっとほうじ茶だった)。

 年をとると、肉体の限界や時間の限界について、若いころより切実に感じるようになる。何かやりたいことをおもいついても体力は持つのか、時間はあるのかという疑念がすぐ頭をよぎる。さらに体に不具合が生じている状況だと考えていることがどんどん後ろ向きになる。不調時の延長線上の未来を想像し、悲観する。そういうときは余計なことを考えないに限る。どうせなるようにしかならない。

 寝込んでいる間に岡崎武志さんの新刊『ドク・ホリディが暗誦するハムレット』(春陽堂書店)と南陀楼綾繁さんの新刊『古本マニア採集帖』(皓星社)が届いた。
 岡崎さんの本を読むと、中央線文士だったり第三の新人だったり、読書傾向は似ているとおもう半面、それ以外の抽出の数がまったくちがうなと。演芸、映画、音楽それぞれ年季が入っている。ここ数年わたしは街道歩きにのめりこんでいるのだが、岡崎さんはかなり長期にわたって文学散歩の実践者でもある。多種多様な趣味と文学との掛け合わせ方も面白い。同じことはできないが、勉強になる。

 南陀楼綾繁さんの新刊、目次を見ると知り合いも何人か出ている(『些末事研究』の福田賢治さんも)。日本の古本屋のメールマガジンで連載中もけっこう読んでいた。最終回が退屈男さんだった——今まで知らなかったことがたくさんある。わたしの中では南陀楼さんと退屈男さんは、本のまわりに生息している、どうやって暮らしているのかよくわからない人と認識している。

 岡崎さん、南陀楼さんとは『sumus』という同人誌をやっていたつながりがあり、三十代前半の一時期、南陀楼さん主宰の読書会にも参加していた。

 二十代の終わりから三十代のはじめに多くの古本好きと知り合いになり、自分の知識のなさをおもい知った。そこから開き直ってやりたいことをやろうと決意した。世の中の流行りと関係なく、自分の好きなものを追いかける。そうした本流ではない傍流の生き方がわたしには合っていた。おかげで生活はしょちゅう困窮している。

 自分の意志で道を切り開くというより、半分くらいはなりゆきまかせで気がついたら、わけのわからないところにいるというのが、今のわたしの理想である。

 不調時に気持が落ち込んでいたときも、心のどこかでどうにかなるだろうとはおもっていた。二十代のころ、中央線沿線の高円寺や阿佐ケ谷界隈の深夜の酒場でよく見かけた五十歳すぎくらいの定職についていないふらふらしたおっさんに憧れていた。今の自分はまさにそれではないか。傍目には気楽そうに見えていたが、いざなってみるとしんどいものだな。今さらいってもしょうがないが、あるていど人生設計はしておいたほうがいいとおもう。

2021/11/17

続・多分大丈夫

 先週日曜日に首を寝ちがえて十日ちょっと。完治とまではいかないが、痛みはずいぶん軽くなった。寝起きから一時間くらいまではつらいが、しばらく動いて体が温まってくるとだんだん楽になる。

 今回の寝ちがえは三、四日目が一番きつかった。麺をすすったり、肉を噛んだりするだけで痛みが走った。ドアノブや蛇口をひねる動作もつらい。手さげを肩にかけたり、リュックを背負ったり、ふだん無意識にやっている動きの中にも危険が潜んでいる。
 一行書くたびに痛みで思考が止まる。この一週間ずっとそんな感じだった。頭で考えたことを腕と手をつかって文章化する。書くことが頭に浮んでも首が痛くて腕がおもうように動かないと文章がどんどん消えていってしまう。座業も体が資本だと文字通り痛感した。

 平日の夕方、ラジオを聴いていると神経痛、リウマチの漢方のCMが頻繁に流れる。尾崎一雄の「虫のいろいろ」に出てくる「ロイマチスの痛み」のロイマチスはリウマチのこと。「痩せた雄鶏」では神経痛の痛みを「烈震、激震、強震、弱震」とたとえている。

 激震になると「冷えた手足を縮め、自分の胸を抱き、うめいている外に法はないのだ」と綴り——。

《それが、強震となり、弱震にまで来ると、甚だ快適な気分になる。痛みが弱まったということもだが、それよりも弱まりつつある、という意識の方が、はるかな喜びなのだ。そうして、あれほどの痛みが、うそのように治まった時は、非常な幸福感を覚える》

 当時、尾崎一雄は四十九歳。
 一九四四年八月、四十四歳のときに胃潰瘍で昏倒——郷里の下曾我に帰り、第一次生存五ヶ年計画に入る。「痩せた雄鶏」は生存五ヶ年計画の五年目の作品である。

 わたしは基本不健康だ。元気な日が少ない。体を冷やさず、疲れをためず、調子がよくないなりにだましだましやっていくしかない。

2021/11/12

多分大丈夫

 先週の土曜日、昼前、西部古書会館に行ったら休み。うっかりではなく、古書即売展一覧(紙)では開催の予定になっていた。そのまま大和町まで散歩する。マスクに色付きのフェイスガードをつけて自転車に乗っている人がこちらに向かってくる。どこを見ているのかわからず、左右どちらに避けていいのかわからなくて困る。スマホを見ながら自転車に乗っている人もよく遭遇する。危ない。

 高円寺の北口に賞味期限切れ間近の商品(インスタントコーヒーや粉チーズなど)やお中元お歳暮の売れ残り商品などが格安で並んでいる小さなスーパーがある。コロナ禍中、都内では入手難のコーミソースも売っていて、三本買った(今は売っていない)。さらに散歩コースの他の店では寿がきやのインスタント麺が売っている店がある。

……とここまで書いて中断。

 日曜日、首を寝ちがえる。軽度だが、痛いは痛い。二、三日は痛み止めと神経痛を緩和する作用があるといわれるビタミン剤を交互に飲み、気休めに鎮痛消炎剤を塗って安静あるのみ。といっても簡単な家事や資料の整理など、日常の細々としたことをやっているほうが気がまぎれて痛みを忘れる。布団の上で痛みの少ない姿勢を研究したところ、仰向けになり、右手を上、左手を横にするポーズが楽なことがわかった(薬のことも含め、すべて個人の感想です)。

 昨年の春、五十肩になったときはあらゆることに難渋した。立ったり座ったり、服を着たり脱いだりするだけでもつらかった。スナック菓子の袋、ペットボトルの蓋をあけるのも大変だった。それに比べれば楽。楽だが、痛い。体のどこかに不具合があると思考がほとんどそれに奪われる。つくづく若くて健康というのは才能の一種だとおもう。二十代のころの体力があれば、何でもできるんじゃないかと……。酒飲んでゲームしていた時間を取り戻したいと悔やんでも時は戻らず。

 尾崎一雄の代表作ともいえる「虫のいろいろ」に神経痛などの痛みのことを書いている箇所がある。

《神経痛やロイマチスの痛みは、あんまり揉んではいけないのだそうだが、痛みがさほどではない時には、揉ませると、そのままおさまってしまうことが多いので、私はよく妻や長女に揉ませる。しかし、痛みをこうじさせて了うと、もういけない。触れば尚痛むからはたの者は、文字通り手のつけようが無い》

 痛みへの対処の仕方はむずかしい。温めたほうがいいのか冷やしたほうがいいのか、いまだにわからない。昔、寝ちがえたときに低周波の治療器をつかって、余計に症状が悪化したこともあった。

「痩せた雄鶏」でも持病の肋間神経痛の痛みのことを書いている。若いころに読んだときは神経痛の箇所はピンとこなかったけど、今は深く共感する。年をとるのも、体が痛いのもわるいことばかりではない。

《その痛みは、多くは冷えと湿気によって誘発されるようだ。過労も勿論いけないが、病人たることを一寸の動きにも思い知らされつけた緒方の起居には、時たま、のっぴきならなくて書く原稿の仕事以外には、過も労もないのだった》

 四十歳を過ぎたあたりから、毎年のようにわたしは腰痛やら寝ちがえやら膝痛で体がおもうようにならない経験を積んだおかげで、その対処法を学べた。
 中年になると、初日より二日目三日目のほうが痛みがひどくなる……ことがよくある。これが意外と精神面にくる。明日はもっとひどくなるのではないか。そう考えてしまうと気持がどんどん沈んでくる。
 つらいときこそ、希望を持つことが大切だ。すこしずつよくなる。昨日より今日のほうがマシになる。一進一退だが、回復の途上にいると信じる。

 金曜日の夜、まだちょっと首が痛い。でもかなりよくなっている。

2021/11/03

可もなく不可もなく

 コロナ禍以降、家で体温をちょくちょく計るようになった。だいたい三十六度。古書会館の非接触型の体温計だと三十六度二分。十月はじめ、古書会館に行ったさい、三十六度八分と表示されたことがあった。すぐ「昨日、ワクチン(二回目)を打ったからだ」と気づいた。副反応はそれくらい。からだの怠さでいえば、一回目のほうがきつかった。

 今のところ都内の感染者数は少なめで町の活気も戻ってきた。夜になっても人がたくさんいる。一時期は午後九時すぎで町が暗く、歩いている人も少なかった。コロナ以前は日付が変わるころよく飲みに行っていた。町中、酔っ払いだらけだった(わたしもその一人である)。

 郷里にいたころ、夜七時にはほとんど店が閉まってた。道が暗くて夜は怖かった。もともと歩いている人が少ないから、車もかなりスピードを出す。ここ数年、帰省したときはLEDのヘッドライトを手に持って足元を照らしながら歩くようになった。
 街道歩きのときも基本は日没までと決めている。

 外飲みを控えていた数ヶ月——何てことのない雑談が自分の生活にとってすごく大切だったと痛感した。家で仕事する。本を読む。一人で考える。頭の中がごちゃごちゃしてくる。ふらっと飲み屋に行って常連客と喋る。自分がまともかどうかは別として人と話が通じる。それが嬉しい。おかしなことをいえば、それはちょっとちがうんじゃないかと反応が返ってくる。
 どんな人にも常識と非常識の部分がある。その比率は人によってちがう。

 わたしは定職に就いた経験がなく、ずっとフリーランスということもあって、非常識の比率が少し高めかもしれないと自覚している。非常識というか、世の多数派とはちがう考え方をしているとおもうことがよくある。多数派が正しいときもあれば、そうでないときもある。それは少数派にもいえる。
 かれこれ三十年以上夜型生活を送っているが、すくなくともわたしの体調はそのほうが良好だから間違っているわけではない。間違ってはいないが常識とはズレている。自分はどうにかなっているが、世間の基準とズレていることが多々ある。年々そのズレみたいなものが修正が困難になっている。

 今の自堕落な生活を改善したい。自分なりにそういう努力をしているつもりである。その気になれば、今すぐ変えられる(ただし、なかなかその気にならない)。集団はそうはいかない。個人個人のバラバラの生活、人それぞれのバラバラの感覚を調整し、落とし所を決める作業が必要だ。その結果、可もなく不可もなくならまだしも誰にとってもやや不満みたいな状況になりがちである。でもそれでよしとするしかない。

 昔からそうおもっていたわけではなく、年をとるにつれ、だんだんそんなふうに自分を納得させるようになった。

2021/10/29

六年ぶり八度目

 火曜日、東京ヤクルトスワローズがセ・リーグ優勝。シーズン前、今年のヤクルトは「育成の年」とおもっていた。例年と比べ、主力選手の故障者が少なく、毎年恒例の大型連敗がなかった。それでもマジック点灯以降、あと一歩のところで優勝を逃した二〇一一年のシーズンの記憶が何度も頭をよぎった。優勝が決まるその日まで浮かれてはいけない。「ゆだんたいてき おでんたいやき」である。

 六年前、二〇一五年の優勝決定の瞬間は神宮球場のライトスタンドにいた。あの日延長戦でサヨナラ安打を打った雄平選手は今年で引退する。雄平選手が投手から野手に転向した年にわたしはヤクルトの二軍の成績をチェックするようになり、ファームの面白さを知った。

 高津臣吾著『二軍監督の仕事』(光文社新書、二〇一八年)に五十歳近くなって野球にたいする考え方の変化を述べている箇所がある(高津監督は一九六八年生まれ)。

《野球の場合、相手もあることなので、こちらが最高の準備をしたとしても、相手が上回ってこちらが負けることは往々にしてある。
 一生懸命やって負けたら仕方ない。
 指導者になると、そう思える境地に達するようになるのだ。
 だから、選手が失敗しても責める気にすらならない。
 ひたすら、努力を怠らず、失敗した経験をプラスに変えてほしいと願うばかりだ》

 二軍の試合は目先の勝ち負けより選手の成長のほうが大事である。応燕しているわたしもそういう気持で試合を観る習慣ができた。

 すこし前——というか、つい先週、エラーをきっかけに逆転負けをした試合があった。二位とのゲーム差は〇・五。大事な試合での痛恨のミスだった(ずいぶん昔のことのようにおもえる)。試合後、高津監督の次の言葉が印象に残った。

《負けること、ミスを恐れてグラウンドに立つなんて絶対してほしくないし、全力でプレーしてくれたらそれでいい》

 プロとして長く活躍するためにはどれだけ失敗を乗り越えていけるかにかかっている。ミスを引きずらず、いかに気持を切り替えられるか。抑えのピッチャーだった高津監督は現役時代からメンタルの管理に長けていたのではないか。

 一時期は試合後にインターネットの掲示板の野球談義を楽しんでいたが、ここ数年、熱心なファンによる監督や選手への批判、他球団の選手への罵詈雑言を見るのがつらくなり、スポーツ新聞派に戻った。

 (追記)
……切り抜き帖を見ていたら、一九七八年十月二十七日の朝日新聞(夕刊)の尾崎一雄が文化勲章を受章したときの記事に「ヤクルトのファン。とくに母校の早大出身の広岡監督が大好きだそうで、ヤクルトの『日本一の座獲得』を追いかけるような受章の朗報に、うれしさを隠しきれない様子だ」とあった。記事の見出しは「一割打者が本塁打」。これも尾崎一雄の言葉だ。

2021/10/26

自分およびこの世

 今年は十月二十三日にコタツ布団を解禁した。コタツ、あたたかい。すでに長袖のヒートテックを着込み、貼るカイロも付けている(カイロは昨年買った分がけっこう残っている)。
 土曜日、西部古書会館の初日午前十一時すぎに行くと大盛況——もうすこし空いてからゆっくり本を見ようとおもい、しばらく近所を散歩する。いい本は売れてしまうかもしれないが、それはしょうがない。インターネットの古本屋が普及したおかげで古今東西の様々な書物を入手しやすくなったが、活字を身になじませる時間は減った気がする。

 富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、一九八〇年)は、わたしの枕頭の書で、気分が晴れぬ日にしょっちゅう読み返す。表題「不参加ぐらし」は自身の暮らしぶりについて「どうにかしようと努める気にもならない」と述べ——。

《それでは発展もなく進歩もなく充実もなくということになるかも知れないが、今更発展しても進歩しても充実しても仕方がない》

 齢のせいか、もともとの性格のせいか、わたしもそういう気分によくなる。何かをする時間ではなく、何もしない時間がほしいとよくおもう。最新の流行、新しい価値観を否定する気はないが、できれば距離をとりたいという気持がある。この先の未来をつくるのは自分たちの世代ではない。すこしずつ次の世代のために場所を譲り、なるべく邪魔しないよう、ひっそりと好きなことをして暮らしたい。

《還暦もすぎれば少しは自分およびこの世が判って来るかと若い頃には思っていないでもなかったが、その年になってみると、自分およびこの世が一つ判れば二つ判らないことが出て来る有様で、これでは死ぬまで、自分およびこの世について茫漠とした認識を持ち続けるばかりだなという感じがする》(「憂き世」/『不参加ぐらし』)

 還暦はまだ先だが、五十歳をすぎたあたりからわたしもそういう感慨にとらわれるようになった。生きていく上での最低限の適応は心がけるつもりだが、世の移ろいについていこうという気持を失った。それよりもっと大事なことがあるような気がするのだが、それはあくまでも自分の問題で他人にあれこれいうべきことではない。そんな感じで口ごもることが増えた。

2021/10/21

八木義徳生誕百十年

 夕方神保町。午後五時すぎでもう薄暗い。冬が近づいている。そろそろコタツの準備を考える。

 行きと帰りの電車で『何年ぶりかの朝 八木義徳自選随筆集』(北海道新聞社、一九九四年)を読む。本書に「作家の姿勢」という随筆がある。
 八木義徳は原稿執筆中に悪寒に襲われる。熱を計ると三十九度六分。しばらく静養していると野口冨士男からこんな手紙が届く。

《高熱を発せられたご様子、いけませんねえ。自身の方法が最善だなどと主張する気は皆無(六回も七回も書き直すんですから、むしろ最悪ないし最低かも)ですが、馬券の一発勝負より日掛け貯金のほうがアンゼンなことだけは間違いありません。(中略)なにか今とは別の方法を考えないと大変なことになりますよ。病気は何度でもするけれど、人間は一回しか死なないという言葉、肝に銘じてください。(後略)》

 引用した手紙の「(中略)(後略)」は八木義徳自身によるものである。「作家の姿勢」の初出は一九八八年十月二十二日(北海道新聞夕刊)。八木義徳は一九一一年十月二十一日生まれだから、七十七歳のときの随筆だ。今日、生誕百十年。

『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店)には八木が高熱を出したことを伝える野口宛の手紙(九月十二日)は収録されているが、その返事(野口発、九月十五日過ぎ)は「逸失」とある。
「作家の姿勢」の引用部分は野口発の「逸失」した手紙の可能性が高い。
 八木義徳は野口からの手紙を次のように解説している。

《ここで野口のいう「馬券の一発勝負」というのは、仕事の締切りがギリギリに迫ったところで、半徹夜つづきで一気呵成にやっつけるという私のやり方のことで、「日掛け貯金」というのは、締切りの期限にまだ余裕のあるうちに、ともかくも机に向かって一日に二枚でも三枚でも着実に書き貯めて行くという野口自身のやり方のことである》

 八木はできれば野口のやり方で執筆したいが「どうしてもそれが出来ない」。そして「馬券の一発勝負」派、「日掛け貯金」派の二つの流儀は「作家それぞれの資質の問題」だと……。
 野口の手紙は「自身の方法が最善だなどと主張する気は皆無」と断っているとおり、八木の方法を否定しているのではなく、八木の体の心配をして書かれたものだ。

「作家の姿勢」はそう簡単に変えられるものではない。その姿勢は作風とも切り離せない。

……わたしは八木義徳の随筆を読み、「日掛け貯金」派を目指すことにした。

2021/10/19

詩とアナキズム

 急に寒くなる。やる気が出ない。しばらくは低気力でどうにかやりくりするしかない。
 気力の回復には休息や睡眠が大切なことはいうまでもないのだが、ただ歩いて風呂に入って酒飲んで寝るだけの一泊二日くらいの小旅行がしたい。今はその気力をチャージしているところだ。

 新刊、田中ひかる編『アナキズムを読む』(皓星社)に「のらりくらりの哲学」という文章を書いた。新居格の随筆に触れながら、自分のアナキズム観を述べたつもりなのだが、一人だけやる気がなくて浮いている(沈んでいる)かも——と心配していた。

《アナキズムについてもそれが正しいという前提に立たないことが重要だと考えている》

 わたしが書きたかったことはこの一文に尽きてしまうのだが、そういえるまでに三十年くらいかかった。

 同書の斉藤悦則さんの「経済の矛盾を考察し軽やかな社会変革をめざす」はプルードンの思想の根幹部分について次のように説明している。

《ものごとの内部の相反する二つの面(善と悪、あるいは肯定面と否定面)の対立を、プルードンは矛盾と呼ぶより「アンチノミー」と呼びたがるのも大事な点です。それは二つの面がどちらも等しく存在理由があり、ともに必然であると言いたいからです。良い面だけを残して、悪い面のみを除去することはできない(マルクスはこれを誤解したうえでプルードン批判を展開した)。矛盾をなくせば永遠の幸せが訪れるという思想は怪しい、とプルードンは考えます》

 わたしもそうおもうのだが「社会をよくする=悪い面を除去する」と考える人は多い。
「アンチノミー」は日本語では「二律背反」と訳されることが多い。世の中は矛盾だらけなのが常態であり、善の中にも悪があり、悪の中にも善があるなんてことは珍しいことではない。

 万人共通の理想はない。それゆえ理想を旗印にした争いに終わりはない。その矛盾をどうするか……ということは、アナキズムにかぎらず、様々な思想および社会運動の課題だろう。
 柔軟性を失い、変化を止めてしまった思想はだいたい十年か二十年で消える。

 話は変わるが『望星』十一月、特集「詩のない生活」に「鮎川信夫雑感 詩を必要とするまでに」というエッセイを書いた。『望星』は「いとしの愛三岐」「続・愛しの愛三岐」など、この四、五年かなり読んでいる雑誌である(連載陣も坂崎重盛さんをはじめ、好きな書き手が多い)。今回、詩の特集の依頼ということもあって、頑張って書いた。これまで何度となく鮎川信夫のことを書いてきたが、今のところ一番出来ではないかと秘かに自負している。

2021/10/16

自由とは

 すこし前に荻窪の古書ワルツで田村隆一著『もっと詩的に生きてみないか きみと話がしたいのだ』(PHP研究所、一九八一年)を買った。立ち読みしていて、いくつか読んだことのある文章があったので「ひょっとしたら持っているかも」と迷ったが、装丁に見覚えがない。家に帰って未入手本と判明した。

「本をめぐる対話 斎藤とも子君と」の初出は一九八〇年九月。同じ名の女優(近年、新聞雑誌では「俳優」と書かないといけない)がいる。一九六一年生まれ。斎藤とも子は「十七歳」「高校二年」と語っている。たぶん本人だろう。
 田村隆一は「本をめぐる対話」の一冊にスタンダールの『パルムの僧院』を取り上げている。太平洋戦争前夜、年上の友人たちは兵隊になり、命を失った。日本が戦争に敗けそうになり、大学生の徴兵延期が廃止され、昭和十八年に田村隆一も兵隊になる。そんな話をして——。

《斎藤 ああ、そうなんですか、学徒動員で。
 田村 (笑)で、しようがなくてねえ。それでまあ、せいぜい畳の上で本が読めるってのは、わずかな時間だと思いましたしね。とくに日本の軍隊ってのは、いろんな先輩から話を聞いてると、たいへんなところらしくてね、とにかく畳の上で自分の好きな文学の本読めるなんてのはね、もう最後の唯一の自由なんですがね、それもだんだん迫ってきて、しようがなくて、どういうわけだかなあ、スタンダールの小説、また読み出してね。で、兵隊に行くまえの晩までこの『パルムの僧院』読んでて……》

 しかし『パルムの僧院』は途中までしか読めなかった。

《田村 ところが不思議なもんでね、まあ、不思議と命ながらえて、敗戦で、生き残ったんですけどね。どうもその中絶したところから読み出す気になれなかったですね。そのままついうっかり三十何年たっちゃってね。あなたに会ったおかげで、そのつづきをこれから読もうとおもって……。
 斎藤 フフフ。私もまだ、ファブリスが、恋人のクレリアとめぐり会うところまでしか読んでないんですけど》

『パルムの僧院』は、生島遼一や大岡昇平訳が有名だが、戦中、田村隆一が読んだのは齋田禮門訳か。戦時中、畳の上で好きな本を読む。若き日の田村隆一にとって、それが自由であり、贅沢だった。すくなくともそういう感覚はわたしにはない。今のわたしは「老眼で字がかすむ」「目が疲れた」と心の中でしょっちゅう愚痴をこぼしながら本を読んでいる。

《田村 フフ、でも、いま……なかなかねえ、人間の自由っていうのは、これ、不思議なもんで、ほんとうに不自由にならないと自由ってのはわからないところもあるんですねえ。あまり、こう自由ってものがね、こう空気のようにいつでも周りにあるとね……。
 斎藤 あると……。
 田村 うん、やはり自由ってものが目に見えてこないわけ》

 この一年数ヶ月、コロナ禍を経験し、自由がちょっと見えた気がする。
 深夜日付の変わる時間あたりにふらふら飲み歩く。仕事帰り、神宮球場にふらっと寄る。ライブハウスで友人のバンドを見る。それまで当たり前にやっていたことができなくなった。
 営業再開した知り合いの店でウイスキーの水割を飲んだ。家でも同じ酒を飲んでいるのに「いやー、うまいな」と。戦争に比べれば、新型コロナの緊急事態宣言なんてたいしたことではないが、それなりに不自由を知ることができた。

 そのうち日常が戻って、いろいろ忘れてしまうのだろう。それはそれでよしとしたい。

2021/10/13

ドラフトの後

 ドラフトから一夜……と書いてからさらに一夜。毎年のことだが仕事がまったく手につかない。昔、プロ野球のドラフト会議は十一月の下旬(二十日前後)に開催されていた。ペナントレース中のドラフトには違和感がある。

 今年ひいきの球団は四分の一のクジを外し、二分の一のクジを当てた。ドラフトの答えが出るのは三年後、五年後。当たりクジがそうでもなかったり、外れ、もしくは外れの外れで入団した選手が大活躍したり……。下位で入った選手がチームには欠かせない選手になることもある。指名順位がその後の野球人生に影響することもあるが、入団してからがほんとうの勝負なのだ。

 ドラフトの直後、専門誌が各球団に点数をつける。何年後かにふりかえると、当たったり当たってなかったり、正解率は三割未満という印象だ。

 即戦力か素材か。そのときどきのチーム状況にも左右される。さらにいうと、スカウトの人たちは記録(数字)には表れない人柄や練習態度なども考慮し、選手を選ぶ。よい選手であってもチームの補強対象から外れていれば指名しないことはよくある。

 野球にかぎらず、うまくいかなかったおかげでよい結果が出るということはよくあることだ。そのときはよくても五年後十年後どうなるかはわからない。二分の一のクジの行方すら予見できないと考えると、未来なんてわからなくて当然である。

2021/10/10

一日無事

 水曜日、神保町。新刊の文庫と新書をチェックして、神田伯剌西爾。十月なのに暑い、というか、生暖かい。すこしずつ衣替えをしているのだが、夏用のシャツばかり着ている。

 西部古書会館は金曜日と日曜日に行く。最終日、ゆっくり図録を見ていたら『東海道双六の世界 東海道宿駅制度400年記念 PART3』(横浜市歴史博物館、二〇〇一年)、『国芳の描く中山道』(安土城考古博物館、二〇〇二年)など、背表紙に文字のない薄い図録があった(いずれも三百円)。薄い図録は混んでいるときだとつい見落としてしまう。

 昔と比べるとつまらない日々を何となくやり過ごせてしまうようになった。若いころの自分が今の自分を見たら、退屈な生活を送っているように見えるだろう。夜遊びもせず、家でごろごろしてばかり。今のわたしは面白いかつまらないかより、一日無事ならそれでいいやといった気分だ。特筆すべきことのない日々の中にも楽しみがないわけではない。日頃歩かない道を歩き、普段行かないスーパーで近所の店には売っていない調味料を買う。そんなことでもそれなりに満足感を味わえる。

 古本に関しては知れば知るほど、知らないことが増えていく。若いころには味わえない再読の楽しみもあるし、旅でも再訪の面白さもある。

 来年はもうすこし仕事をしようとおもっているが、どうなることやら。

2021/10/02

東高円寺

 ようやく緊急事態宣言が解除。今年の冬あたりが峠かそれともこのまま収束するのか。

 高円寺に暮らして三十二年。コロナ禍以降、近所の散歩時間が増えた。昼と夕方と夜——三回くらい歩く。今の時期、夜の散歩は涼しくて気持いい。

 東京メトロ丸ノ内線の東高円寺や新高円寺方面にも頻繁に行くようになった。
 金曜日、東高円寺に用事があり、環七沿いを歩いていて、デイリーヤマザキのすこし先の歩道橋の手前にある都営バスの新宿駅西口行きのバス停を通りかかる。高円寺駅入口のバス停は野方や王子方面には何度か乗っているが反対方面は未乗車だった。バス停の場所も知らなかったくらいだ(北に向かうバス停と南に向かうバス停がけっこう離れている)。

 バス停で時刻表を見ていたら、ちょうど新宿駅西口行きのバスが来た。風は強かったが雨は止んでいたし、東高円寺駅までは歩いて二十分くらいなのだが、つい乗ってしまう(バスだと七分)。バスに乗り慣れていないのですこし緊張する。
 途中、高円寺陸橋のバス停で運転手が交替した。
 この都営バスは王子駅から新宿駅まで回る。高円寺駅入口のバス停は駅からはすこし離れているのだが(環七沿い)、新宿駅西口に向かう途中、東高円寺駅、新中野駅、中野坂上駅を通る。

 片道バス+徒歩の半バス散歩も面白い。

 帰り道は徒歩。東高円寺の細い路地の商店街を通る。北海道の居酒屋のワンコイン弁当をテイクアウトし、オオゼキで半額シールの付いた牛肉などを買う。

 東京メトロ丸の内線の新高円寺駅近辺にはブックオフがあるのだが、かつては南口のルック商店街だけで大石書店、西村屋書店、アニマル洋子、勝文堂書店、ほかにも漫画と文庫本が中心の古本屋などがあり、青梅街道沿いにも何軒か古本屋があった。高円寺の南口で一番通っていたのは飛鳥書店かもしれない。飛鳥書店の均一台は文庫五冊で百円だった。

 一九八九年の秋に高円寺に引っ越してきたころ、どの商店街にも新刊書店があり、個人経営のレンタルビデオ店があった。

 二十代のころをふりかえると、その日一日、文庫本を一冊読んだ、レコードを一枚聴いた、知らない映画を一本観た——そういうことが活力になっていた。単なる錯覚だったにせよ、いろいろな文化を吸収することで、ちょっとはマシな人間になれるのではないかとおもっていた。昨日より今日のほうが、文庫一冊分、レコード一枚分、映画一本分、人生のレベルが上がったと……。

 今は毎日歩くことがその日その日の充足につながっている気がする。家事もそうかな。自炊をはじめたころ、野菜の皮むきのが苦手だった。ある時期からピーラーを使うようになったら簡単にむけた。そのうち皮むきが苦でなくなり、何年かして再び包丁でやってみたら難なくできるようになっていた。

 仕方なくやっていることでもいつの間にか何らかの技術が身につく。すぐに実感することはむずかしいが、経験値というものはバカにできない。

2021/09/27

そんな日々

 土曜と日曜、西部古書会館。初日午前中は人が増えた。図録、雑誌、街道関連、文庫を少々。街道や宿場関連の本を探しているせいか「古道具」の本を見て「古道」の本かと反応してしまう。あと「武士道」や「茶道」など、「道」という字が入った本を見ると「そんな街道があるのか」と……。

 この数年、図録関連は同じものを二冊買ってしまうことが多い。記憶力の衰えと蔵書の整理が行き届かず、把握し切れなくなっているせいか。

 日曜日、ロマンコミック自選全集、あすなひろし『行ってしまった日々』(主婦の友社、一九七八年)を格安で買えたのは収穫だった。巻末「そんな私・そんな日々」は読者からの便りを紹介し、あすなひろしが返事のようなものを書いている。

 水戸の大学生からの手紙に「先生は『シティーボーイ』でもあり、また音楽はジェームス・テイラー、ディブ・ロギンス等のシンガーソングライターがお好きなのではないでしょうか。そして今の一番のお気に入りはマイケル・フランクス?」とあった。

 あすなひろしは読者の勝手なイメージに困惑。ちなみに水戸の学生の音楽の好みはわたしと似ている。たぶんこの時代のアメリカの音楽でいえば、スリー・ドッグ・ナイトも好きだったにちがいない。
 お便りコーナーは読者の住所が印刷されている(水戸の学生は住所なし)。昔の本、雑誌にはよくあることだった。このコーナーに『わが青春の鎌倉アカデミア』(岩波同時代ライブラリー、一九九六年)などの著作もある脚本家の廣澤榮(広沢栄)の「ヤツが描く人たちはみんなステキなンだなあ」という手紙も。廣澤榮はあすなひろしの漫画の原作・脚色もしていた。

 すこし前に『東京古書組合百年史』(東京都古書籍商業協同組合)を入手した。「中央線支部史」に西部古書会館の土足化の改修工事のことが書いてあった。以前は(お世辞にもきれいとはいえない)スリッパに履き替えていたのだが、いつ切り替わったか記憶があやふやになっていた(東日本大震災の前だったか後だったか……)。
 お客さんが多いときは入口の前の靴が積み重なり、自分の靴を探すのに苦労したのも今となってはいい思い出だ。

《この改修工事を境に、「B&A」「小さな古本博覧会」「均一祭」などの独自のコンセプトの即売会が新たに登場した》

 改修工事は二〇一〇年八月。十一年前か。月日が経つのは早い。

2021/09/25

井伏備忘録 その七

 金曜日、午後二時半ごろ、高円寺駅に行くと電車が止まっているとアナウンスが流れた。この日、荻窪か西荻窪の古本屋を回るつもりだった。新高円寺まで歩いて丸ノ内線に乗る。
 古書ワルツで井伏鱒二著『たらちね』(筑摩書房、一九九二年)を買う(持っていたはずなのだが、探しても見つからなかった)。

《私が福山(誠之館)中学に入学して、寄宿舎に入ると、上級生たちが先輩の噂をして、「この学校には、卒業生のなかに、福原の麟さんといふ秀才がゐた。とてもおだやかな秀才だつた」と云つてゐた》

「福原の麟さん」は英文学者でエッセイストの福原麟太郎。一八九四年十月生まれ。井伏鱒二は一八九八年二月、早生まれだから学年でいえば三年ちがいか。同郷ということは知っていたが、これまで二人の年の差を意識したことがなかった。

 午後三時すぎ、まだ電車は動いてなかったので途中阿佐ケ谷の古本屋に寄り、高円寺まで歩いた。
 家に帰り、井伏鱒二著『鶏肋集・半生記』(講談社文芸文庫)所収の「牛込鶴巻町」を読み返す。初出は一九三七年。学生時代の六年間、井伏鱒二は(ほぼ)早稲田界隈に下宿していた。

《鶴巻町の裏通りは本郷や神田や三田の学生町とちがい、ずぼらな風をしても目立たないような気持がする。街が引立たないせいもあるだろう。(中略)三十男が悄気込んで歩いていても、不自然な姿とは思われない。ふところ手で腕組して歩いても町の人は怪しまない。本郷や神田などに行くと、私はとてもそういうずぼらな恰好をして散歩する心の余裕がない。勝手にずぼらな恰好ができるところは牛込鶴巻町である。鶴巻町は私の散歩みちの故郷である》

 この話も井伏鱒二の好みがよくあらわれている気がする。
 近年すこし町並は変わってしまったが、荻窪界隈もずぼらな恰好で歩ける気楽さがある。

 以前、井伏鱒二の随筆でその人の歩き方と文章は似ているという話を読んだ記憶があるのだが、今はどこに書いてあったか思い出せない(勘違いかもしれない)。
 勘違いを元にした想像だが、堂々と歩く人は堂々とした文章を書く。逆にとぼとぼ歩く人はとぼとぼとした文章を書いてしまうのではないか。井伏鱒二の文章は着の身着のままの恰好でなじみの町を歩いているような感じがする。

2021/09/24

井伏備忘録 その六

 秋分の日、高田馬場から早稲田——鶴巻町のあたりを散歩し、古書現世、丸三文庫に寄る。
 家に帰って河盛好蔵編『井伏さんの横顔』(彌生書房、一九九三年)所収の今日出海「かけ心地の悪い椅子」を読む。井伏鱒二の小説について「彼の作品は面白いが、面白がらせようとは一切しない」と批評し、そして——。

《井伏は年をとって気むずかしくなったのではなく、始めから気むずかしかったのだ。だから自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった。気分が鬱屈すると旅に出た。それも余り人目につかぬ甲州あたりの山の湯へ行って、ひっそりと湯につかっていた》

「自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった」という言葉は井伏鱒二を的確に言い表わした言葉のようにおもう。今日出海はそのことをよくもわるくもいっていない。
 自分の資質、特性を守り抜くこと。たぶんその先にしか詩や文学はない——たぶん少数意見かもしれないが、わたしが好きな文学はそういうものだ。

「かけ心地の悪い椅子」では今日出海が京都の旅先で井伏鱒二と会い、飲み歩いたときの話も書いている。
 真夜中、店を閉めようとしている老婆が営む赤提灯の小汚い飲み屋があった。井伏鱒二は「一杯だけ飲ませてくれないか」と頼んだ。飲みはじめると、いつの間にか老婆は井伏鱒二を「先生」と呼び、次々とつまみを出した。二人は午前三時すぎくらいまでその店で飲んだ。

《かけ心地の悪い椅子に、あんなにゆっくり落ち着いていられるのは、余程修業を積まねば出来るわざではない》

 むしろ井伏鱒二はそういう店のほうが落ち着く性格だったのではないか。

『井伏さんの横顔』所収の木山捷平「眼鏡と床屋」にこんな話が出てくる。

 戦時中、ある春の日、木山捷平は荻窪の井伏邸を訪ねた。井伏鱒二は留守で、井伏の妻は「いまそこの床屋に行つてゐますから」といった。待っていても、まっすぐ家に帰ってくるかわからない。

《教えてもらつて行つてみると、その床屋は間口一間奥行二間あるかないかの粗末なミセだつた》

 木山捷平は「荻窪にはもつとハイカラな店が沢山ある筈なのに、どうしてこんな店に井伏氏が来てゐるのか訳がわからなかつた」と訝しみつつ、次のように推理する。

《これは多分、井伏氏が荻窪に引越して来た時、はじめて行つた店なのであらう。そのころ、昭和初年には、この井荻村へんは草深い田園だつたので、床屋といへばこの店が、ただ一軒あつただけなのかも知れない》

 あくまでも木山捷平の想像だが、いかにも井伏鱒二らしい話だなと……。

2021/09/22

井伏備忘録 その五

 甲州街道は江戸から甲府ではなく、長野の下諏訪まで続いている。諸説あるのだが、甲州街道は江戸に何かあったとしても、甲府まで出れば富士川を下って駿府へ、あるいは下諏訪に出て中山道に辿り着く。いわば脱出路として整備された道だ。

 井伏鱒二は関東大震災後、甲州街道〜中山道——中央本線で郷里の広島に避難した。疎開先の甲府が空襲を受け、再疎開したときもそうだ。

《下戸塚の自警団員に訊くと、七日になれば中央線の汽車が立川まで来るようになると言った。箱根の山が鉄道線路と一緒に吹きとんで、小田原、国府津、平塚は全面的に壊滅したと言われていた。中央線だけは息を吹き返しそうになったので、立川まで歩いて行けば、そこから先は乗車させてくれると言う。広島行きならば、塩尻経由で名古屋で乗り換えればいい》(「関東大震災直後」/『荻窪風土記』新潮文庫)

 『荻窪風土記』の「関東大震災直後」は当時の高円寺の話が詳しく書かれている。高円寺駅まで来たが、訪ねようとおもっている先輩の住所がわからない。幕府の鳥見番所があったところ、桐の木畑の中の二十軒あまりの借家の一軒という記憶がある。通りすがりの警防団員に訊くと「鳥見番所のあったところなら、南口だね」と教えてくれた。
 光成信男は大学の先輩で学科はちがったが、小説を書いていた。学生時代の井伏を岩野泡鳴の創作月評会に連れていったのも光成だった。
 光成の家に行った井伏は自警団員として高円寺の夜警をした。震災後、井伏は歩いて立川まで行く途中、中野と高円寺で一泊ずつしている。後に光成から井伏は出版社の仕事を紹介してもらうが、最初は三ヶ月、再び同じ社に戻ったが一ヶ月でやめている。計四ヶ月。このころ小説は書いているが、ほとんどが同人雑誌である。

《中央線の鉄道は、立川・八王子間の鉄橋が破損していたが、徐行できる程度に修理が完了したという》(「震災避難民」/『荻窪風土記』)

 わたしは『荻窪風土記』を読み、九月一日の関東大震災だけでなく、九月二日に新潟の柏崎地方でも大きな地震があったことを知った。この地震で柏崎駅前の倉庫が倒壊した。
 また関東大震災のとき、駿河湾で大海嘯もあった。

《浮島沼は水位が六尺も高くなって荒れ狂い、三保の松原では何十艘もの船を町のなかに置き去りにして行くほどの大津波を起した》

 立川駅から汽車に乗る。井伏鱒二の乗った汽車は「避難列車第一号」だった。

 高円寺から先、井伏鱒二はだいたい中央線を線路沿いに歩いた。そのとき、いずれは荻窪あたりに住みたいと考えたのではないか。東海道線が不通になっても中央線沿線であれば、郷里に帰ることができる。

 そして震災から四年後、一九二七年九月——井伏鱒二は荻窪に新居を建てた。二十九歳。

2021/09/18

小休止

 木曜日、御茶ノ水駅から坂を下って東京堂書店と三省堂書店で新刊本をチェックする。以前、松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九九年)を見かけた神保町の古本屋に行ってみたのだが、値段を見てひるむ。松本武夫は『井伏鱒二自選全集』の年譜の作成者でもある。「井伏備忘録」はあと二回ほど書く予定——。

 そのまま九段下方面に歩いてブンケンロックサイドへ。店頭のワゴンで図録が半額で売っていた。『特別展 弥次さん喜多さん旅をする 旅人100人に聞く江戸の旅』(大田区立郷土博物館、一九九七年)を買う。以前、滋賀の草津宿街道交流館に行ったときにこのパンフレットを閲覧して、いつか欲しいとおもっていたのだ。ようやく買えた。あと別の店で『生誕一〇〇年 漂泊の俳人 種田山頭火展』(毎日新聞社、一九八一年)と『産經新聞創刊六十周年 もうひとりの芥川龍之介 生誕百年記念展』(産經新聞社、一九九二年)も。『山頭火展』は百八十頁、『芥川展』は百六十頁以上もある。新聞社主催の文学展の図録は力作揃いだ。家に帰り、積ん読状態の図録を整理していたら『もうひとりの芥川龍之介』は入手済だったことが判明した。よくあることだ。

 先週の水曜日、毎日新聞夕刊にかごしま近代文学文学館の「向田邦子の目 彼女が見つめた世界」の記事があった。今年没後四十年だったことを思い出す。かごしま近代文学文学館は過去に梅崎春生や黒田三郎の企画も開催していた。鹿児島は父の郷里(生まれは台湾)で五歳から高校卒業まで大口市(現・伊佐市)にいた。父方の親戚とはわたしはまったく交流がなかったが、年に一度、芋焼酎を送ってもらっていた。家には黒伊佐錦と伊佐美があった。父は年中お湯割りで飲んでいた。

2021/09/16

井伏備忘録 その四

『鶏肋集 半生記(※鶏は旧字)』(講談社文芸文庫)に「疎開記」「疎開日記」が収録されている。

《昭和十八年六月上旬、私は家族をつれて山梨県石和町附近の甲運村に疎開した》

 疎開記では六月上旬。しかし文芸文庫の年譜は「五月、山梨県甲運村に疎開」とある。ずいぶん前に「日本の古本屋」で松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九八年)という本があることを知った。今のところ未読(未入手)である。読みたい気持ともうすこしいろいろ自分で考えたい気持が半々。著者の松本武夫は文芸文庫の『鶏肋集 半生記』の「人と作品」の筆者でもある。

 井伏鱒二「半生記」には関東大震災のころの回想も綴られている。
 大正十二年、一九二三年九月一日——井伏は下戸塚の下宿の二階に住んでいた。地震から七日目、中央線経由で一時帰郷を決める。大久保から中野、そして「高円寺に所帯を持っていた光成という学校の先輩のところに寄った」。
 光成は新聞記者の光成信男である。井伏は立川まで線路づたいに歩いた。

《立川から汽車に乗った。避難民は乗車切符の必要がなかった》

 立川から甲府、上諏訪、岡谷、塩尻の駅名も出てくる。愛国婦人会の団体に豆、餡パンなどをもらっている。
 塩尻では汽車は二時間停車すると知らされ、町に草履を買いに行く(下駄が片方割れかけていた)。
 草履代を払おうとすると「避難民からお金を受取るわけには行かない」と押し戻された。中津川で愛国婦人会から握り飯と味噌汁をもらった。

「半生記」では中津川までは詳細に記されているのだが、そこから先は「郷里に帰ると一箇月あまりで上京した」と話が飛ぶ。
 中津川から名古屋——おそらく東海道本線、山陽本線で広島に帰ったのだろう。

 再び上京すると、高円寺で世話になった先輩に聚芳閣という出版社を紹介してもらった。

《編輯の能力がないのに出版社に勤めていたので、著者に対しても気の毒なことになるようであった》

 それで社をやめるが、翌年同じ会社に再就職する。

《今度は無欠勤で出社していたが、つい奥附のない本を出すという大失敗をした》

 二十七歳。「恥ずかしくて社にいられなくなったので」一ヶ月あまりで退社する。井伏鱒二のエピソードの中でも一、二を争うほど好きな話だ。

 大正末に井伏鱒二は同人雑誌に参加するが、プロレタリア文学が隆盛となり、「私を除く他の同人がみんな左傾して雑誌の題名も変えた。私だけが取り残された」という。

《私が左翼的な作品を書かなかったのは、時流に対して不貞腐れていたためではない。不器用なくせに気無精だから、イデオロギーのある作品は書こうにも書けるはずがなかったのだ》

『井伏鱒二対談集』の河盛好蔵との対談「文学七十年」にもそのころの話が出てくる。

《河盛 つまり井伏さんの時代の文学青年は、いかにして自然主義文学から逃れるべきかということに苦心したのですか。
 井伏 それがタコの足に捕まったようになってしまったな、僕は。脱却できなかった。それと左翼運動、これはどうしても駄目だった》

2021/09/15

井伏備忘録 その三

 再び山梨の話に戻る。

 石和から温泉が出たのは昭和三十年代——観光地としてはまだまだ歴史は浅い。
 井伏鱒二の「旧・笛吹川の趾地」によると「昭和三十六年一月二十四日、山梨交通の社員保養寮の宿舎に井戸を掘つてゐると、不意に温度五十度の温泉が吹き出した。(中略)吹き出た場所は、明治四十年の大洪水で被害を受けた笛吹川の趾地であつた」そうだ。

《旧笛吹川は小さな川にして、差出の磯から平等川といふ名前で甲運亭のわきを流すようになつてゐる》

 すこし前に「泰淳とも桃の花見で行ったのだろうか」と書いたが、河盛好蔵編『井伏さんの横顔』(彌生書房、一九九三年)の武田泰淳「『五十三次』と『三十六景』」にこんな記述があった。

《山梨の万力山の桃観に先生と同行した日、まことに楽しかりし風無くしてうららかにはれた春のまひる、むれかえるほどの桃花の色が暖気の裡に、ものうげにかすむあたりの田園風景に溶け入り、二台の車を連ねて行く我ら一同が、ことごとく先生を中心とした「井伏的人物」と化したが如くだった》

 泰淳は一宮ではなく、万力山と書いている。このときの桃観には深沢七郎も同行していた。井伏鱒二の桃観は恒例行事(四月のはじめごろ)だったから、甲運亭の人と行ったのは別のときの可能性もある。

『井伏鱒二対談集』(新潮文庫)の深沢七郎との対談「自然と文学」にも武田泰淳一家、井伏鱒二、深沢七郎の桃観の話が語られている。

《深沢 あれはもう七、八年前ですか
 井伏 あれから僕は、桃の花を見に毎年行っているのです、四月十日前後に》

 対談の初出は『文芸』(一九六九年六月号)。七、八年前ということは一九六一年か二年。場所は——。

《深沢 あれは勝沼の上のほうでしたね。
 井伏 一宮の上のほうです。去年、一人であそこをずっとまわってみたが、いまの県知事の家のあたりがいいですね、塩山(えんざん)の南のほうですよ》

 萩原得司著『井伏鱒二聞き書き』(青弓社、一九九四年)には武田泰淳が荻窪にいたころの話が出てくる。

《武田泰淳は、ぼくが戦争後ここへ来たときに、この裏あたりにいたんだ。小説を書いている奥さん(武田百合子)がいるだろう。あのひとと一緒になった前後の頃だ。この近くの裏にいたので、それで知り合いになった。……あれは秀才だよ……》

 井伏鱒二は一八九八年二月十五日、武田泰淳は一九一二年二月十二日生まれ。鈴木(武田)百合子と結婚したのは一九五一年十一月——。

《武田とは、荻窪駅のまえで酒飲んだりしたけど、あの人はあまり飲まないほうで、ビールが好きだったんだ。晩年はだいぶ飲んでいるということは、噂で聞いていた》

 井伏にとって、泰淳は秀才で頭のいい人という認識だった。かつて泰淳と同じ京北中学校(東洋大学の井上円了が作った学校)出身の古川洋三から「クラスでいつも成績がいちばん良かった生徒が、武田泰淳だった」と教えられた。

『井伏鱒二聞き書き』の略年譜は山梨の疎開は一九四四年七月となっている。
 本文中の註釈には「甲府に疎開していた期間は一年と六日間」(本人談)で「逆算すると従来の年譜と若干のくいちがいがでてくる」。

 かならずしも本人の記憶が正しいとはかぎらない。甲府疎開は一九四四年五月か六月か七月か。しばらく宿題としたい。

2021/09/12

井伏備忘録 その二

 土曜日、西部古書会館。『井伏鱒二自選全集』(新潮社、全十三巻)を衝動買い。全巻揃いの美本が、一巻分の定価よりも安いとは。嬉しいやら悲しいやら。でも退屈しのぎに全集はもってこいだ。

 井伏鱒二の山梨疎開時代の話はあちこちで読んできたが、いつごろだったかはあんまり意識してこなかった。

《昭和十九年六月、私は戦争中に山梨県の甲運村(今の石和町の地続き)に疎開して、甲府市が空襲で焼けた翌々日、広島県福山市外加茂村に再疎開して、終戦後二年目に(昭和二十二年六月)東京に転入し、それからは毎年のように笛吹川へ釣りに行つた》(「旧・笛吹川の趾地」/『井伏鱒二自選全集』第一巻』)

 井伏鱒二が山梨県の甲運村に疎開したのは一九四四年六月(年譜では五月や七月となっているものもある)、そしてその翌年に——。

《七月十日(昭和二十年)
 甲州から広島県に再疎開。妻子を連れ八日午後一時、日下部駅発、中央線経由にて名古屋より京都に至り、大阪空襲中の故をもつて山陰線を選び、万能倉駅に下車、午後十時生家に着く》(「疎開日記」/『井伏鱒二自選全集』第八巻)

 一九四五年七月六日の深夜から七日にかけて甲府空襲があった。それからすぐ広島に再疎開したことになる。日下部駅は現・山梨市駅である。八日の昼に山梨を出発し、三日かけて郷里に辿り着いた。広島に向かうのに京都から大阪、神戸などの都市を通らず、いったん日本海側に出る。このあたりの用心深さが井伏鱒二らしい。行動が素早く、なおかつ遠回りし、時間がかかっても安全そうなルートを選ぶ。

 万能倉駅は福塩線。井伏一家は鳥取駅のホームで一泊し、その後、伯備線に乗り換えたとおもわれるが、そこから先のルートがわからない。倉敷に出て山陽線で福山駅に出るコースか、途中で芸備線に乗り換えるコースか。空襲の危険が低そうなのは後者だが、ものすごく時間がかかる。

2021/09/11

井伏備忘録 その一

 暑さが戻る。神保町で探していた『別冊 井伏鱒二 風貌・姿勢』(山梨県立文学館、一九九五年)を買う。『別冊』ではない『井伏鱒二 風貌・姿勢』(山梨県立文学館、一九九五年)もいいパンフレットだ。監修に飯田龍太、小沼丹、河盛好蔵、庄野潤三、三浦哲郎、安岡章太郎の名がある。

『別冊』の八木義徳のエッセイ。『風景』の編集長時代、井伏鱒二の名前を「井伏鰌二氏」と誤植した。井伏鱒二を敬愛する八木義徳は「失態中の大失態」とショックを受け、お詫びの手紙を出す。その返事には——。

《そういうことはよくありがちなことだから、あまりお気づかいなさらぬように、という寛容な言葉が書かれていた》

 井伏鱒二自身、編集者時代、「奥付」なしの本を作っている。

『別冊』の「傍証・甲運亭」(湧田佑)に「元女中頭 岩崎むら氏聞き書き」がある。

 甲運亭は笛吹川支流平等川から引いた堀割の岸にあった。

《この近くでは平等川の鮠(ハヤ)を釣られるのですが、いつ見に行きましても余り釣れません。(中略)この近くに一宮という桃の名所がありますが、春など桃の花見にお供したこともございます》

 わたしも山梨に行くと平等川沿いの宿によく泊る(もより駅は石和温泉駅)。甲運亭は、甲府市と笛吹市の境くらいのところにあった。戦時中、井伏鱒二が疎開していたのもこのあたりだった。

 深沢七郎との対談で井伏鱒二は、山梨で余生を送りたいという話の流れで、「いつか、武田(泰淳)君なんかと行った、一ノ宮ですか、あそこらもよさそうですね。西日がよく当たって」と語っている。

 泰淳とも桃の花見で行ったのだろうか。山梨は日本一の桃の産地である。

 井伏鱒二は神経痛を患ってからは「土手から釣る隠居釣り」を好むようになったとも語っている。

《現に私は、五十過ぎても水に立ちこむ釣をして神経痛を拗らせてしまった。私のうちから荻窪駅まで六丁。その道を大通りに出るあたりまで行くと腰痛がこみあげて来る》(『釣人』新潮社、一九七〇年)

 この話どこに書いてあったか思い出せずにいた。付箋大事だ。

 先月、井伏鱒二と河盛好蔵が熱海に行ったときの話に「当時、志賀直哉と広津和郎は熱海に住んでいた。一九四八年か四九年ごろか」と書いたが、井伏鱒二の年譜(『釣師・釣場』講談社文芸文庫、二〇一三年)に「一九四九年 一月、志賀直哉を熱海大洞台に訪ねる」とあった。井伏鱒二、五十歳。まちがってはいないが、確認してから書けばよかった。

 話は変わるが、一九八一年二月に『新潮』で「豊多摩郡井荻村」の連載がはじまった。この連載は後に『荻窪風土記』となる。八十二歳(まもなく八十三歳)で書きはじめている。

2021/09/09

書くインタビュー

 緊急事態宣言再延長。都内、感染者数は減少傾向だが、ワクチン接種率がもうすこし上がるまではガマンといったところか。

 佐藤正午著『書くインタビュー4』(小学館文庫)を読みはじめる。『3』は二〇一七年五月刊だから四年ぶりの刊行——。

 デビュー当初、佐藤正午は安岡章太郎に「けちょんけちょん」に貶された。『ビコーズ』のあの台詞がそうだったのか。

 この巻はインタビュアー(メールでの往復書簡っぽい体裁)に盛田隆二も登場する。
 どこまで本当でどこまで嘘か。本当の中に嘘があって嘘の中に本当が混ざっているかんじ。というわけで、このシリーズは一巻からずっと半信半疑のまま読み続けている。盛田隆二も架空の盛田隆二なんじゃないかと……。

 中年以降、いろいろな感覚が鈍くなったせいもあるが、本を読んでいて、作家から怖さを感じることが減った。しかし佐藤正午の「書くインタビュー」シリーズは自分の読みにまったく自信が持てない。そこが怖い。

 わたしは佐藤正午を(熱烈に)愛読するようになったのは、エッセイ「転居」(『豚を盗む』光文社文庫)を読んだのがきっかけだった。

《生きることの大半はまず、繰り返しである》

 繰り返していくうちにちょっとずつ変わる。わたしはそういう変化の仕方を好ましくおもっている。マンネリ、ワンパターンが嫌いではない。

2021/09/07

秋の声

 土曜、午前中、西部古書会館。小雨。涼しい。夏が終わったみたい。朝寝昼起が昼寝夜起になる。

 先週、三省堂書店の神保町本店が来年の三月に建物を建替える件について知らされる。
「困るんじゃないですか」
「神保町界隈の出版社で働いている人はみんな困るとおもいますよ」

 月曜、東高円寺。住宅街を歩いていたら高円寺天祖神社があった。三十二年くらい住んでいる町でもまだ知らない神社があるとは……。
 この数年、東高円寺は月一くらいのペースで散歩しているのだが、いつもはスーパーのオオゼキのある商店街を通る。東高円寺駅の近くの北海道料理の居酒屋でザンギの親子丼をテイクアウト。ワンコインでずっしり。

『犀星 室生犀星記念館』のパンフレットに「小景異情」の原稿用紙の写真が載っている。犀星の字、丸っこくて読みやすい。いろいろな文士の字を見てきたけど、犀星の字がいちばん好きかもしれない。
 同パンフレットに「金沢の三文豪」という言葉が出てきた。その一人は室生犀星。あと二人の名前は記されていない。泉鏡花はすぐにわかったが、あと一人がおもいだせない。なぜか秋田雨雀が浮んだが、絶対にちがうよなと……。
 ちなみに、雨雀の本名は秋田徳三。金沢の三文豪の残りの一人の名前と似ている(それですぐごっちゃになる)。

 金沢は北陸新幹線が通ったけど、名古屋や大阪から特急で行くルートもいい。現実逃避で旅の計画ばかり立てている。北陸方面は二泊三日だと足りない。というか、移動だけで疲れる。中年の旅は一県一県ゆっくり回るほうがいいのか。

2021/09/03

小景異情

『週刊大衆』(九月六日号)の連載『ニューシニアパラダイス』(監修・漫画 弘兼憲史/企画・文責 木村和久)を読んでいたら「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という小題が付いていた。
 室生犀星の「小景異情」の一節だが、同コラムには「タイトルは室生犀星の有名な詩の冒頭です。還暦を過ぎると妙に故郷が恋しくなります」とある。
 たしかに犀星の「小景異情」のこの部分はものすごく「有名」だが、「ふるさとは〜」は「小景異情(その二)」の出だしなんですね。

「小景異情(その一)」の冒頭は、
「白魚やさびしや
 そのくろき瞳はなんといふ」
——である。昔、わたしも「小景異情」は「ふるさとは〜」ではじまる詩だとおもっていた。まさか六篇の連作詩だったとは……。
 偶然というか何というか『週刊大衆』の同コラムを読む数日前、神保町の古本屋で『犀星〜室生犀星記念館』(二〇〇二年)を買い、「小景異情」のことを考えていたところ、かつての自分と同じ勘違いをしている文章に出くわしたわけだ。

「小景異情」が収められた『叙情小曲集』(感情詩社)は大正七(一九一八)年九月刊。パンフレットの年譜を見ると、一九一三年に『朱欒(ザンボア)』の五月号に「小景異情」掲載とある。『朱欒』は北原白秋が作った文芸誌である。朱欒は「ザボン」とも読む。
 室生犀星は一八八九年八月一日生まれだから、二十三歳のときに「小景異情」を発表した。『叙情小曲集』覚書には「二十歳頃より二十四歳位までの作にして、就中『小景異情』最も古く、『合掌』最も新しきものなり」とある。犀星の言葉をそのまま信じるなら「小景異情」は「二十歳頃」の作ということか。鮎川信夫の『現代詩観賞』(飯塚書店、一九六一年)には「小景異情」は「作者が十九歳のときの作品」と記されている。犀星、早熟、否、老成しすぎ。

 犀星は二十二歳ごろまで東京と金沢を行ったり来たりしている。年譜によると、上京した年は大正二(一九一三)年十一月。「ふるさとは遠きにありて〜」は上京前——金沢時代の詩なのだ。これも意外といえば意外である。

 ちなみに「小景異情」の「その二」には「うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても 帰るところにあるまじや」という言葉もある。

 この部分もいろいろな解釈ができそうだが、今日のところはこのへんで……。

2021/09/02

きりがない世界

 先日、おそらく四半世紀ぶりくらいに村松友視の『夢の始末書』(角川文庫)を読み返し、いろいろ忘れていたことをおもいだした。

《私は、好きな作家しか担当しなかった。そして、その作家たちは、それぞれにきわめて個性的な存在だった》

 村松の好きな作家の一人に後藤明生もいた。後藤明生が亡くなったのは一九九九年八月。わたしは没後しばらくして古書価が上がりはじめてからちょこちょこ読むようになったが、生前は守備範囲外の作家だった。

『夢の始末書』の中では後藤明生は重要な登場人物の一人である。

《「挟み撃ち」を読んで、私は後藤明生に長文の手紙を書いた》

《手紙は、原稿用紙をかなり費やし長ったらしいもので、封筒に入れて宛名を書くときに、その厚さに私自身がおどろいた》

 それが『海』の「夢かたり」の連載(一九七五年)につながる。同作はつかだま書房の『引き揚げ小説三部作』にも所収——。

 村松友視は後藤明生の担当編集者だったが、後藤は作家志望の村松に小説を書くことをすすめ、文章の指導をした(当時、後藤は平凡社の『文体』の責任編集者でもあった)。

《「ぼくはね、歌うたいと同じだと思うんですよ」
「歌うたい……」
「つまり、風呂やトイレの中でいくらうまく歌っているつもりでも、客の前で歌ってみなければ、駄目だということですね」
「駄目、ねえ……」
「つまり、一回恥をおかきなさいってことですかねえ」》

 このあたりのやりとりも読んでいたはずなのにおぼえていなかった。今回の再読で「風呂やトイレの中で……」のセリフが強く印象に残った。

《「載ったあとは、作品のひとり歩きですよ」
「はあ……」
「誰か編集者が喰いつけば成功」
「喰いつかなければ……」
「また、新たに挑戦する」
「はあ……」
「きりがない世界ですよ、これは」》

 物書の世界は下手な鉄砲ではないが、どれだけ弾を撃ち続けられるか。何だったら小説——文学にこだわる必要もない。武田泰淳は開高健に小説が書けなくなったらルポを書きなさいと助言した。いろいろ書いているうちに、自分に合ったジャンルが見つかることもある。

2021/08/28

『海』創刊前

 金曜昼すぎ西部古書会館。木曜日から開催していたことに気づかなかった。でも大収穫。街道と文学関係の図録がいろいろ買えた。今回、神奈川の古本屋さんも参加していた。大和市の香博堂はいい本をたくさん出品していた。今年の西部で一番の出費になってしまった。
『海』発刊記念号(一九六九年六月号)、創刊特大号(一九六九年七月号)の二冊も格安で買えた。わたしは一九六九年十一月生まれなので同い年の雑誌ということになる。

『海』発刊記念号「シンポジウム 文学と現代社会」の「人物をいかに描くか」は武田泰淳、野間宏、安岡章太郎の座談会。ほかにも武田泰淳の「富士と日本人 長篇『富士』をめぐる感想」も掲載——。

 武田泰淳が富士の山梨側に山荘を建てたのは一九六四年十一月。

《ある時、深沢七郎さんが山小屋にやってきて、そわそわしながら「ここは富士山ですか」と聞くんだ。まあ富士の一部だよ、と言ったら、どうしてこんなこわいところに住むのかと言って、たいへん心配してくれる》

 深沢七郎の郷里の山梨県の石和では「富士山は恐怖の対象とする語りつたえがある」とのこと。

 創刊号の編集後記には「前号の予告でお知らせした武田泰淳氏の連載小説『富士』は、氏の懸命な努力にもかかわらず、ついに時間切れとなって、掲載にいたりませんでした」と……。
 その経緯は村松友視著『夢の始末書』(角川文庫ほか)に詳しい。

《そうこうしているうちに、創刊号が出てしまい、その号にはついに武田泰淳の「富士」は載らなかった。(中略)すでに発刊記念号で予告している武田泰淳の「富士」はいったい実現するのか……社内でも取沙汰されたらしく、編集長も私の押しが足りないのではないかという表情をしている》

 結局、『富士』の序章が届いたのは創刊から四号目のしめきり直前だった。
 武田泰淳だから許されたのか。半世紀ちょっと前の編集部がゆるかったのか。『富士』は泰淳の代表作となった。原稿を落としても良好な関係が続いたおかげで、その後の泰淳の作品だけでなく、武田百合子の諸作品も中央公論社から刊行されることになった。
『海』創刊時、泰淳は『新・東海道五十三次』を毎日新聞に連載していたが、その単行本は中央公論社から出ている。

 武田泰淳、野間宏、安岡章太郎の座談会でも安岡が「武田さんいま、『道』の小説書いておられるけれども」と街道の話をしている。中央公論社の編集者は、泰淳のために街道関係の資料もいろいろ渡していた。『富士』に「大木戸」という名の人物が登場するのもその影響だろう。

『夢の始末書』はずいぶん前に読んでいるのだが、記憶がけっこう薄れている。『夢の始末書』の角川文庫版は吉行淳之介が解説だったことも忘れていた。

2021/08/27

他人の雑誌

  木曜日、神保町。九州の街道本数冊。長崎から佐賀にかけての宿場町はよさそうなところばかりだ。九段下寄り某古書店、均一に串田孫一が三十冊以上並んでいた。未読の随筆を一冊(線引有)買う。仕事の合間にちょこちょこ読むのに串田孫一の随筆はちょうどいい。

 東京堂書店の今週のベストセラー、色川武大著『オールドボーイ』(P+D BOOKS)が一位だった。
 すこし前に小学館の『色川武大・阿佐田哲也電子全集』の二十三巻「単行本未収録作品&対話集」を買った。
「吉行さんはいつも吉行さん」というエッセイを読む。どこかで読んだような記憶がある。吉行淳之介全集の別巻だったか。

 かつて色川武大が出入りしていた小出版社が若き日の吉行淳之介がいた雑誌社の近くだったという話からはじまる。それから吉行が「驟雨」で芥川賞を受賞した後、「その頃、私にとって、文芸誌の創作欄に吉行淳之介の名前があるのとないのとでは大ちがいで、吉行さんの書いてない号は、なんだか冷たい他人の雑誌のような気がした」——。

 初出は「本」(一九八三年七月号)。

 同巻には吉行淳之介、山口瞳、色川武大の座談会(『想い出の作家たち』)も収録。三人とも元編集者という共通点がある(それにみんな不健康だ)。共通の知り合いだった五味康祐の逸話はだいたいひどいのだが、吉行淳之介は「憎めないところがあったな」と語り、山口瞳も「でも彼がいなくなってみると、やっぱり懐しいね。文壇のパーティに行っても、五味さんのような、いかにも剣豪作家だって感じの人がいなくなった」と回想している。

《吉行 ここに色川さんがいる、剣豪作家じゃなくて、剣豪という感じ(笑)
 山口 それと、尾崎一雄さんとか木山捷平さんのような、いかにも小説家だな、という風貌の人がいなくなった。今の作家はみんな銀行員みたいでしょう。
 色川 ぼくは大泉の都営住宅にいた頃の五味さんのところへ原稿依頼に行ったんです。ちょうど選挙の時期でね、五味さんの家は交叉点の角にあったから、その家の窓の外に選挙カーが停って演説を始めた。すると五味さん、ステレオをかけて音を最大限に大きくした。これが演説も何も聞えなくなるほどのボリュームでね、選挙カーは途中で演説を中止して行っちゃった。しかし、物も言わずに突然大きな音を出すとは、ヒステリックな人だな、と思いましたね》

 この三人の“文芸雑談”はずっと読んでいたくなる。初出は『オール讀物』(一九八三年七月臨時増刊号)。わたしは文芸誌の小説には興味がなく、読むのは専ら対談と座談会である。小説は本になってから読めばいいかなと……。

2021/08/24

一病息災

 十代から二十代にかけて、わたしは虚弱体質で年がら年中風邪をひいていた。そのおかげで風邪のひきはじめの二、二歩手前の症状を察知できるようになった。
 たとえば、肩凝り、背中のだるさ、足の冷え、酒(サントリーの角)、お茶、珈琲の味など、すこしでも異変を感じたら葛根湯を飲む。二日おきに納豆を食い、食べなかった日は整腸剤を飲む。微熱(三十六度後半)があるときはビタミン剤(気休め)を飲む。

 とくに毎日飲んでいる(自分で作る)お茶、珈琲の味覚の変化は体調のバロメーターになる。いちおう「個人の意見です」と断っておく。

 今のわたしは健康なのかというとそうではない。疲れるとすぐ体調を崩す。だからなるべく疲れないよう、休み休み生活しているにすぎない。一般の五十代の日本人の平均より体力がないだろう。

 新型コロナの前から部屋の換気の必要を唱えているが(『日常学事始』本の雑誌社)、これも若いころに風邪をひきまくったことで学んだ。
 換気をしないと部屋の空気が澱み、ウイルスだけでなく、カビも繁殖しやすくなる。

 あと中年以降の健康状態の大きな変化は貼るカイロのおかげかもしれない。冷え性がかなり改善された(これも個人差があるとおもう)。

《一病息災という言葉があるね。あれも、一種のバランス志向の言葉なんだろうね。まるっきり健康な人よりも、ひとつ病気を持っている人の方が、身体を大事にするので、かえって長生きする、というわけだ》(「一病息災——の章」/色川武大著『うらおもて人生録』新潮文庫)

 色川武大は健康だけでなく、生き方にも、どこか不便かつ生きにくい部分を守り育てたほうがいいと説く。完全無欠な生活を目指せば、それはそれで心身に負担がかかる。

 みなさんお大事に。

2021/08/22

世間とチグハグ

 木曜日、新宿と神保町(仕事)。東京堂書店、色川武大著『オールドボーイ』(P+D BOOKS)がベストセラーの二位。収録作の半分くらいは『明日泣く』(講談社文庫)と重なる。“芹さん”こと将棋の芹沢博文の晩年を描いた「男の花道」は再三四読している。“神童”、“若き天才”と呼ばれ、テレビにもひっぱりだこだった棋士が年齢とともに勝てなくなり、酒、ギャンブルに溺れ、親しい人たちの忠告も聞かず……。芹沢九段が亡くなったのは一九八七年十二月、享年は五十一。

 表題「オールドボーイ」のヒロインのみどりは三重県の僻村の出身という設定である。三重といっても広いが、この僻村は色川武大の友人でインド研究家の山際素男の郷里——志摩郡船越村(現・志摩市大王町)あたりではないかと勝手に想像する。

 ただし、みどりは上京前の一時期、名古屋で過ごしている。

《そして東京。まぶしい都会の、眼くるめくような光源の部分に夢中で突進した。それはまったく別世界で、三重の生家のことなど頭の中から消えていた。石にかじりついても、自分はこの光の中で生息しなければいけない。頭のてっぺんから爪先まで、ナウい、ピカピカした人の中で》

「オールドボーイ」の初出は『週刊小説』一九八九年二月十七日号。
 三重は田舎かもしれないが、名古屋、大阪、京都に出ることはそれほど難しくない。この小説の時代設定が八〇年代だとすると、名古屋に暮らしていたこともあるみどりからすれば、東京は「まったく別世界」というほどの差はない……気がする。すくなくとも僻村と名古屋、名古屋と東京を比べたら、僻村と名古屋の差のほうが大きいだろう。

……というのが三重県民(母は志摩育ち)で一浪して名古屋の予備校に通い、「オールドボーイ」の初出年に上京したわたしの感想だ。

 一九二九年三月生まれの色川武大がこの小説を書いたのは還暦前——。最晩年の作品である。
「オールドボーイ」の主人公・館石は小説の中でこんなふうに評されている。

《不良少年がそのまま四十近くになってしまって、それで世間とチグハグになっている顔なのだ》

 色川武大は「世間とチグハグ」な人たちへの郷愁を誘う作品が多い。単に昔はよかったという話ではない。昔には戻れないと諦めつつ、世間と折り合いがついていない生き難い人に寄り添う。寄り添うというか、色川武大もそちら側に身を置く作家だったといってもいい。

『うらおもて人生録』(新潮文庫)の「向上しながら滅びる——の章」にこんな一節がある。

《人間がこの世に住みつこうとするならば、その土台に合わせて、自分をどこかで適応(状況にあてはめる)させていかなければならないんだな》

……「土台」と「適応」の話はいずれまた。

2021/08/17

閑話休題

 土曜日、西部古書会館。ガレージのところにあった七〇年代の古雑誌を何冊か買う。『文芸』(一九七二年一月新年特大号)は永井龍男、井伏鱒二の対談「文学・閑話休題」が目当。この対談は『井伏鱒二対談集』(新潮文庫)にも収録されているが、初出の雑誌には二人が歓談中の写真がある。
 志賀直哉が亡くなったのは一九七一年十月二十一日。雑誌の発売日から逆算すると、この対談は志賀が亡くなってからまだそれほど日が経っていない。
 戦後しばらくして、井伏鱒二は河盛好蔵に連れられて志賀直哉の家に行った。しかし志賀さんは留守で「広津さんのところか映画館ということで、広津さんのところに行ったら……」。
 当時、志賀直哉と広津和郎は熱海に住んでいた。一九四八年か四九年ごろか。広津家に行くと「いまここへ帰っていらっしゃいますと広津さんの奥さんが言う」。
 志賀さんは河盛さんから井伏さんを紹介されるや否や近所の店でサントリーの角瓶を買いに行き、「ひとりごとのように、井伏君は酒で有名だからねと言われた」。

 井伏鱒二が志賀直哉に会いに行ったことについては——。

《永井 別に用事ということではなしに?
 井伏 話を聞きにね。僕はほとんど口がきけなかった。河盛さんは話題が豊富だからよく話した。志賀さんの禁煙当時だが僕はプカプカとタバコばかりふかしてウイスキーを飲んでいた。あとで人から聞いた話だが、井伏君というのは無口だねと》

 志賀直哉は井伏鱒二の十五歳年上だから当時六十五歳。井伏五十歳前後、河盛四十代半ばくらいか。井伏、河盛は荻窪に住んでいた。そこから宿もとらず連絡なしに熱海行く。居なければ居ないで別にかまわなかったのだろう。電話が普及する前の文士の交遊はのんびりしていた。

《永井 僕は晩年のものはあまり読んでないので、まとめて読みたいのですが、晩年というか、筆を断つ直前のものを読みたいと思っているが。
 井伏 最晩年のものでは、産経に出た新年随筆の「雀の子」に感心した。感心のあまり、その原稿がほしいと思って、産経記者の吉岡達夫君にいろいろ交渉して、吉岡君からもらった》

 大らかな時代というか何というか。後に志賀直哉は自分の原稿を井伏鱒二が所持していることを知るが、自分が書いたのか妻が清書したのか覚えてなかった。吉岡達夫は小沼丹の小説や随筆にもよく出てくる。
 井伏鱒二は他にも志賀直哉の原稿を持っていることを自慢すると、永井龍男は「二つも持ってるとは不届き千万だ」と……。

《井伏 原稿に消しがあるね。清書したあと、「しかし」を消して前からの続きで「が」にしたり……その話はいつかあんたにしたよ。そしたら、僕達一生あれで苦労するのだなあと。「が」とか「しかし」でね。
 永井 そういうことがありましたな》

 対談時、井伏鱒二は七十三歳、永井龍男は六十七歳。なんてことのない雑談だが、二人の言葉の端々から志賀直哉への敬意、そして文学の滋味が漂っている。

《井伏 その作家を研究しようとすれば、その作家の失敗作は非常にためになるね。
 永井 そうそう。そして若いうちの作品というのは、破綻だらけで一向さしつかえないと思う。そのなかに、ここのところが光っているぞというものが一ヶ所あればいいでしょう。そういうものがなんかこのごろ無視されているような、人の目に立つようなテーマを扱って、そしてアッピールすること。そういうことのほうが強くなっていますね》

 五十年くらい前の対談だが、今の編集者も永井龍男の発言を噛みしめてほしい。名文家で知られた永井龍男の言葉というのがまたいい。

2021/08/13

新居格のこと

  八月十二日(木)から九月二十日(月・祝)まで「モボ・モガの生みの親 新居格の仕事」が徳島県立文学書道館で開催(『些末事研究』の福田さんのツイッターで知る)。こんな状況でなければ今すぐ行きたい。徳島には東京からフェリーで行きたいのだが、まだ実現していない。

 新居格は徳島県坂野郡大津村(現・鳴門市)生まれで上京後は長く高円寺に住んでいたアナキストであり評論家である。戦後、杉並区の区長や生活協同組合の理事長もつとめた。

『随筆集 生活の錆』(岡倉書房、一九三三年)の「断想」に「わたしは天下国家のことを論ずるのはきらひだ。村のこと、町のこと、町の中の知合ひのこと、その人達の商売の好調、生活のよさ、運命の明るさについて考へることがすきだ。その人達と陽気な挨拶を交はし、朗らかに語ることがすきだ」とある。
 新居格の随筆の軸は散歩と読書だった。日常、そして生活を大切にしていた。彼は精神の平穏を保つために歩き、本を読んでいたようなところがある。そして平熱の文章を書くことを心がけていたようにおもう。
 さらに表題の「生活の錆」にはこんな一節がある。

《僕は号令を発するような調子で物を云ふことを好まない。肩を聳やかす姿勢は大きらひだ。啖呵を切るやうな云ひ方をするのが勇敢で悪罵することが大胆だと幼稚にも考へてゐるものが少くないのに驚く。形式論理はくだらない。まして反動だの、自由主義だの、小ブルジョワだのと云ふ文字を徒らに濫用したからと云つて議論が先鋭になるのではない。どんなに平明な、またどんなに物静かな調子で表現しても内容が先鋭であれば、それこそ力強いのだ》

 たしかに新居格の文章は「平明」で「物静か」なものが多い。戦前戦中の時代状況を考えれば、稀有な資質といってもいいだろう。わたしがくりかえし読みたくなる文章もそういうものだ。

『遺稿 新居格杉並区長日記』(波書房、一九七五年)を読むと、娘の新居好子さんの「父を語る」で「父は成人になって柔和な寛容な性格の奥に、幼い頃の孤独を秘め、個人的に誰れ彼れと騒いだり、はめをはずすことはなかった」とありし日の新居格を回想している。

2021/08/11

「列外」の人

 火曜日、最高気温三十八度。晴れの日一万歩、雨の日五千歩を目標にしているのだが、最近は晴六千歩、雨三千歩くらい。ただ歩数に関してはあくまでも目安にすぎす、目的はなるべく家の外に出ることなので気にしない。
 先週、神保町の澤口書店で『幻妖 山田風太郎全仕事』(一迅社、二〇〇七年)を入手。後に再編集したものが角川文庫から刊行されているが、一迅社版はB5判(週刊誌サイズ)で新刊書店、古書店でも見た記憶がなかった。二〇〇〇年代以降に刊行された好きな作家の書籍でも見落としがある。

『幻妖 山田風太郎全仕事』の「山田風太郎という『生き方』」に「もう何もやらなくても、全然良心にとがめを感じないなあ」という発言があった。『図書新聞』(一九九三年一月一日号)に掲載された中島河太郎との対談での言葉。風太郎、七十歳ごろか。さすがは「列外」の人である。

《「山田、列外へ!」——これはいい言葉だ。そうだ。私はいままで、いつもこの世の列外にいるような気がし、やがてそのことに安らぎを得て来たようだ。列の中にはいると、かえって、これは変だと違和感を感じるのである》(「風々院日録」/『半身棺桶』徳間文庫)

 このエッセイの初出は『新潮45』(一九八八年一月号)。風太郎、六十五歳(まもなく六十六歳)。「風々院日録」はこんな文章も出てくる。

《このごろ若い人に、「出世なんかしなくっていい、えらくなんかならなくっていい。好きなことをやって、平凡に一生を過したい」という風潮がはやり出しているそうだ。もしそれがほんとうなら、私は彼らの偉大なる先人である》

 やりたいことはないが、何とか気楽に暮らしたい。若いころから風太郎はそう願っていた。わたしものんびりした生活を送りたかった。親の期待を拒否し、競争を避け、面倒な責任を背負わされずにすむ「列外」の人に憧れていた。しかし「列外」で食っていくにはどうすればいいのか——。

 山田風太郎は「忍法帖」をはじめ、多額の印税があったから、飲むぞ寝るぞの暮らしができたのは事実だろう。永井荷風は貯金があったから戦中、軍への不服従を貫けたという話とも重なる。

 貯金があっても、もっと働きたい、もっと影響力を行使したいという人もいる。ようするに、金の多寡、才能の有無だけでなく、気質や体質の問題でもある。

 三つ子の魂百までというが、「列外」の人は幼少期から列からはぐれがちでそんな自分がどうやって生きていけばいいのかを考え続けてきたにちがいない。誰もがそうなれるわけでもない。なりたくてなるというより、気がついたらそういうふうにしか生きられなくなっていた——というのが実状なのではないか。

2021/08/06

退避火

 マイケル・ルイス著『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(中山宥訳、早川書房)の第七章「アマチュア疫学者」にブラッド・ピット主演の映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作者ノーマン・マクリーン(一九〇二−一九九〇)の名が出てきた。
『リバー・ランズ・スルー・イット』は『マクリーンの川』(渡辺利雄訳、集英社文庫、単行本は一九九三年)と『マクリーンの森』(渡辺利雄訳、集英社、一九九四年)として日本でも刊行されている。あと『マクリーンの渓谷 若きスモークジャンパーたちの悲劇』(水上峰雄訳、集英社、一九九七年)という作品もある。一九九〇年代の集英社の海外文学の編集者は素晴らしい本を作った。しかしこの邦題では何の本なのかさっぱりわからないのが残念である。前二作は『リバー・ランズ・スルー・イット』のままで刊行していれば……。

 ノーマン・マクリーンは大学で英文学を教え、退官後、七十歳を過ぎて小説を書きはじめる。「リバー・ランズ・スルー・イット」という題は鴨長明の「方丈記」の「ゆく川の流れは絶えずして」にも通じる気がする(自信はない)。

『最悪の予感』で取り上げられているのは「リバラン」ではなく『マクリーンの渓谷(原題は『Young Men and Fire』)』である。一九四九年夏のモンタナ州のマン渓谷の森林火災におけるスモークジャンパー(森林降下消防士)を綴ったノンフィクションでノーマン・マクリーンの遺著でもある。
 なぜ森林火災の話が感染症のパンデミックについて書かれたノンフィクションに登場するのか。
 山火事の消火と防疫には共通点がある。火災と感染症は拡大する前に抑えたほうがいい。火は小さいうちに消せ(そのほうが楽だ)。今回は失敗したが、後世にこの教訓は伝えねばならない。

『マクリーンの渓谷』にはワグ・ドッジという人物が猛烈な炎に迫られたさい、あらたな火を放ち、難を逃れるエピソードがある(その後、彼の行為は問題になる)。その話を『最悪の予感』は次のように紹介する。

《消防隊員がそんな行動をとった前例はなかったものの、以後、草むら火災の消火活動ではそれが標準的な手段となった。「エスケープ・ファイア(退避火)」と呼ばれる》

『最悪の予感』に登場する退役軍人省の“上級医療顧問”のカーター・メシャーが『マクリーンの渓谷』から得た教訓は「煙が晴れるのを待っていてはいけない。事態が明確に見えてくるころには手遅れになっている」というものだった。
 さらに『最悪の予感』の第八章は「マン渓谷にて」という小題で『マクリーンの渓谷』の引用からはじまっている。

 最晩年のノーマン・マクリーンが書き残したメッセージは三十年の歳月を経て、新型コロナの最前線で甦る。感染拡大を止める「エスケープ・ファイア」に相当するものは何か——。

『最悪の予感』には、未知の感染症の危機に一早く気づき、その後の予測を立て、最善の対策を提言しようとした人物が何人も登場する。ただし、優れた知見が実施されるためには、さまざまな障害がある。決定権を持つ人のところにその声が届くか否か。

《カーターはよく、二週間後の自分を想像して、その自分にこう問いかけてみる。「きみが知っている未来にもどづくと、二週間前、どんな行動をとっていればよかったと思う?」と》 

『最悪の予感』の主要人物にチャリティ・ディーンという保険衛生官がいる。
 カーターたちは公衆衛生の専門家を探していて、チャリティの居所を突き止める。チャリティは分厚いバインダーを持って現われ、「六週間前に、ウイルスの重要な特徴をかなり正確に突き止めてあり、それを活かして将来を予測できそうだと伝えた」。

 マイケル・ルイスは「もし彼女が全権を握れたら、アジア諸国が採用しているきわめて賢明な戦略の数々をカリフォルニア州に導入するだろう」と綴っている。当時のチャリティは担当を外され、何も手伝うことができない状況にいた。

 適材適所というのは、ほんとうに難しい問題だ。

2021/08/01

四〇五八

 二十九日(木)、夕方神保町。この日も文学展パンフレット漁り。『愛媛新聞創刊120周年記念 高橋新吉の世界展』(一九九六年)など。愛媛の文学展は正岡子規と夏目漱石が多い。『高橋新吉の世界展』が開催されていたことは知らなかった。高橋新吉は一九〇一年西宇和郡伊方町の生まれのダダイスト詩人である。

 土曜日、西部古書会館のち阿佐ケ谷散歩。コンコ堂、八木義徳の本がたくさん並んでいた。『家族のいる風景』(福武書店、一九八五年)など。この日、都内の新型コロナの感染者数は過去最多の四千五十八人(※訂正しました)。

 この生活はいつまで続くのか。今の状況はよしあしでいえば、「あし」ばっかりな気もするが、強引に「よし」を見いだすなら、何か一つのことに専念したい人からすれば、集中しやすい環境といえるかもしれない。
 人付き合いが減り、散財する機会が減り、その分、自分一人の時間が増える。

 新刊のマイケル・ルイス著『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(中山宥訳、早川書房)を読む。プロローグから引き込まれた。二〇〇四年、中学生の女の子が科学研究コンテストのために未知のウイルスによるパンデミックに関する調査をはじめる。父は科学者でその人脈(一流のプログラマー)も加わり、感染症がどのように拡大していくかのモデルを築き上げていく。

 ワクチンの数が足りないときどうすればいいか。アメリカ政府は「最も死亡リスクの高い、高齢者にワクチンを投与する」という方針だった。これは今回の新型コロナにおける日本の対策も同じだ。

 ところが――。

《「さかんに社会的な交流をして、感染を拡大させているのは、若い人たちなのよ」と娘が言い出したんです》

 若者にワクチンを投与した場合の予想を計算した結果、「病気を媒介する能力」が減少し、「高齢者は感染しなかった」。もちろん、この研究がそのまま現実になるとはかぎらない(ワクチンを打っても感染が防げるわけではなく、無症状の感染者が増えることで拡大してしまうこともあるだろう)。
 ただ、それでも十七年前にこうした着眼点でパンデミックについて研究していた人物がいたわけだ。

 本書にはワクチンの確保のための提言をはじめ、感染症に関する危機管理についても記されている。

 どれほど優れた理論(もしくは技術)があったとしても、実行する人がいなければ、机上の空論に終わる。『マネー・ボール』では、出塁率などの指標を駆使して躍進する野球チームを描いたが、その理論自体、八〇年代から野球ゲームの世界では知られていた。

 過去、何度となく感染症は流行してきた。どれだけデータがあってもそれを正しく読み解くのはむずかしい。理論や理屈では人は動かない。集団の動きにはイレギュラーがつきものだ。困ったことに民主主義のルールではできないことも多い(選挙で不利になるような政策は採用されない)。 

 結局、自衛しかない。マスク、手洗い、栄養と休養、部屋の換気を忘れずに。

2021/07/26

東京ゴールドラッシュ

 土曜日、高円寺のオリンピック(総合ディスカウントストア)の隣の西部古書会館に手ぶらで行く。

 この日、太田克彦著『東京ゴールドラッシュ』(TBSブリタニカ、一九八三年)の帯付の美本を百円で入手。帯には「ライブな東京の魅力を語るアクション・エッセイ」とある。すでに持っている本だが、きれいな状態のものが欲しかった。装丁・イラストは横尾忠則(対談も収録)。一九八〇年代の熱気がつまっている。

「差別の実態がなくなった地方と、東京とのジョーク的関係」というコラムにこんな記述がある。

《東京が地方をコケにした図式は、電波に活字にと、いまやいたるところで目につく》

 一九八三年の『週刊プレイボーイ』の某記事には「……この記事は東京都民以外は読んではいけない。(中略)東京都といえるのは、千代田・中央・港・品川・大田・目黒・新宿・中野・文京の一〇区だけ。あとは全部田舎だっ!!」とあった。もちろん、これは挑発して読ませようとする仕掛けである(いいかわるいか別として)。
 太田克彦は東京生まれだが、このコラムの執筆時には埼玉に住んでいた。そしてこう問いかける。

《いったいいつから、東京から他の地域を差別することが日常的になったのだろう》

 太田さんは万才(漫才)ブームの影響ではないかと指摘する。一九八〇年代、都会と地方の「差」がそれほどなくなり、地域の差別が“ジョーク”として成立するようになった。

《以前、イギリスのコメディアンが身障者をテーマにしたギャグを連発しているシーンを見たことがあるが、日本人の感覚では異常なものだった。そういう差別に慣れていない国で、名古屋とか埼玉の差別を耳にして平気でいることができるのは、いったいどういうことなのだろう》

 差別に関する感覚も時代とともに変わる。そのうち国内の地域差別もNGになるだろう。笑っていいもの、バカにしていいもの、叩いていいものも時代とともに変わる。

2021/07/23

眼がわるい

 たぶん秋花粉が飛んでいる。マスクのおかげでくしゃみ鼻水の症状はそれほどひどくないが、寝起き時に目がかゆい。寝起きの調子がわるいとすこし焦る。すこし前に神保町の一誠堂書店に行ったら棚の上のほうの本の背表紙の文字がまったく見えなかった。そろそろ眼鏡のレンズを交換の時期か。

 八木義徳著『男の居場所』(北海道新聞社、一九七八年)の「小説家とは?」を読む。初出は一九七七年。

《小説家は眼がわるい。すくなくとも彼は自分の眼がわるいことを知っている。だからこそ、よく見ようとする。普通の人がさっと見てさっと行きすぎてしまうところを、彼は立ちどまって、じっくりそこに眼を当てる。それは“見える”のではなく、“見る”のだ。いや、もっと正確にいえば、それは“見よう”とするのだ》

 こんな調子で「小説家は耳がわるい」「カンがわるい」「頭がわるい」と続く。いずれも含蓄のある意見が綴られている。
 頭がいいといわれる作家の小説は「文体も構成も整然」としていて「まるで理髪店から出てきたばかりの頭を見るような感じがする」と……。言い得て妙というか、文章を整えすぎると言葉の熱が弱まる。このあたりの問題は小説家だけではなく、多くの読者もすっきりとしたわかりやすい文章を求めるようになったからかもしれない。

 頭やカンのよしあしの問題でいえば、(そんなに考えなくても)すぐわかったり、すぐできたりすることって説明がむずかしい。

 逆にいうと、表現の世界には躓ける才能みたいなものがある。目的地への最短ルートは一つだが、遠回りすれば無数のルートがある。わたしはぐだぐだした文章を書くのも読むのも好きなのだが、そのよさを説明するのがむずかしい。

2021/07/19

ある時代には

 竹書房文庫の装丁の雰囲気が変わっていい感じ(語彙不足)になっているのだが、新刊書店の文庫の棚のチェックを怠っていたせいで気づくが遅れた。眉村卓著、日下三蔵編『静かな週末』は帯も含めてすごくかっこいい。海外のSF作品もラインナップに入っている。

 老舗の出版社がいつの間にか従来とはちがう傾向の本を出す。四、五年前まではそういう変化によく気づいた。自分の守備範囲外のジャンルの棚もなんとなく見ていたからだろう。

 八木義徳著『文学の鬼を志望す』(福武書店、一九九一年)をインターネットの古書店で購入——。三十年前に出た随筆集だが、刊行時の記憶がない。大学時代は、ほとんど古本しか買わなかったから、新刊の単行本はほとんどチェックしていなかった。
「孤高の魅力」と題したエッセイが面白い。
 新宿の居酒屋で五、六人の文学青年らしい若者が同人仲間の作品が「マスコミ」にのるかのらないかの議論をしていて、八木はその話に耳を傾ける。テレビやラジオで取り上げられ、映画化される。つまり「売れる」小説かどうか。

《私たちが文学青年であった時代は、その作品が、「うまいかヘタか」——それが作品の価値判断の主たる基準だった》

 当時の八木は小説の芸もしくは技術を競っていた。しかし一時代前の先輩はそうした姿勢を不満におもい、「小説は技術ではないよ。魂の問題だよ」と忠告した。

《ある時代には「ほんとかウソか」が、ある時代には「美か醜か」が、ある時代にはその「階級性」が、ある時代にはその「社会性」が、ある時代にはその「主体性」が、またある時代にはその「民族性」が、そうしてまたある時代には……》

 このエッセイの初出は一九五八年。六十年以上前のことだ。
 わたしは十代の終わりから二十代にかけて、小説よりもいわゆる軽エッセイ(主に角川文庫)ばかり読んでいた。
 ようするに、ちょっと不健康な怠け者、あるいは落ちこぼれの視点から世の中を見たり、人生を論じたりする文学を愛読していた。深刻な作品よりちょっとくずれたフマジメな作品が好きだった。

 ある時代の「新しい価値観」もいずれ古くなる。
 プロレタリア文学の隆盛期には「階級が描けていない」という理由で否定された作家がいる(貧乏作家の私小説が「ブルジョワ文学」と揶揄された)。いつの時代にも一つの基準で他の作品を否定する人たちは後をたたない。残念ながらその流行だけは終わらない。

(追記)「三十年前に出た随筆集」のところを「二十年前」と書いていた。訂正した。

2021/07/14

大均一祭

 七月十日から三日間——西部古書会館の大均一祭。初日二百円、二日目百円、三日目五十円で三十冊以上買う。『近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む』(日本近代文学館、二〇〇七年)、『日本近代文学館創立20周年記念 近代文学展』(日本近代文学館、一九八二年)など。

『近代文学展』のパンフはすでに持っていたのだが、同展覧会の新宿伊勢丹(伊勢丹美術館)のチラシ(優待割引券)付だった。当時、百貨店で文学展をしょっちゅう開催していた。
 ちなみに一九六三年十月に伊勢丹で開催された近代文学館創立記念の「近代文学史展 文学百年の流れ」の会場の写真は満員の人だかり。

《いま二十周年を迎える近代文学館が、もし私達のこの世界に思いがけずこともなく、やがて××年(例えば、大きくいって二百年)を迎える日を想像すると、どのような景観がそこに現出するであろうか》

 これはパンフレットの中にあった埴谷雄高の言葉だ。すでに一九八二年から四十年近い歳月が過ぎている。この四十年くらいの間に原稿用紙に手書きの作家は激減した。
 文学館には作家が愛用したワープロ、パソコンが展示されるようになるだろう(すでに携帯電話の展示は見た)。

『近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む』には、文学館設立基金を集めるための「色紙展」の記録などもあった。
 すこし前に読んだ福原麟太郎著『この道を行く わが人生観』(大和書房)の「老いの術」にも色紙展の話が出てきた。

《近代文学図書館(ママ)の設立資金を得るために、折りから開かれている佐藤春夫記念展覧会に隣って色紙展をひらくから、色紙へ何か書くようにすすめられた。私などがと思うけれど、こういう際は遠慮しない方がいい》

 福原麟太郎は色紙にチャールズ・ラムの「われ愚人を愛す」、ブラウニングの「われとともに老いよ」などの文句を書くことが多かったらしい。

2021/07/10

八木義德展(十三年前)

 木曜日小雨。新宿のち神保町。すこし前の話だけど、上京以来、一番通っていた新宿西口の青梅街道の宿場町が描かれたガード下のトンネル抜けてすぐのところにある金券ショップがなくなった。
 新幹線の回数券や図書カード、たまにレターパックなどを何軒かまわって一番安いところで買う。この日は一万円の図書カードを九千五百円で買った。新型コロナの影響か、新幹線の回数券が安い(東京−名古屋八千円台のチケットも見た)。

 コロナ禍中の出来事といえば、野菜の値段のことを記しておきたい。昨年くらいからジャガイモが高騰している。高円寺の最安値のスーパーですら一個七十円。一時期、百円ローソンで売っている小さなジャガイモ(二個入り)が二百円以上だった。ジャガイモ高いから冷凍の里芋ばかり買っていた。冷凍野菜はだいたい価格が安定しているのがいい。
 あと高円寺に関しては小店舗営業の八百屋さんが何軒かできた。だいたい安い。

 新宿駅から都営新宿線に乗り神保町。特別企画展『文学の鬼を志望す 八木義德展』(町田市民文学館ことばらんど、二〇〇八年)を買う。前の日に見つけて買おうかどうか迷ったのだが、どうしても欲しくなった。新刊の『八木義德 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店)も気になる。
 八木義德は一九一一年十月北海道室蘭生まれ。暇さえあれば、いろいろな作家の年譜を眺めているが、八木義德の半生はほんとうに壮絶だ。文学展パンフには師・横光利一のこと、野口冨士男との半世紀におよぶ交友について記されている。
「円の会」では八木義德、野口冨士男、芝木好子、青山光二、船山馨、豊田三郎らが集まり、文学談義を交した。会は高円寺の芝木家で行われることもあった。一九五〇年から三十年以上続いたようだ。

 戦中、八木義德は中野区川添町(現・東中野一丁目)に住んでいたこともあった。
 コロナ禍以降、わたしは高円寺から東中野までよく散歩するようになった。神田川の遊歩道がいいのだ。川添町と呼ばれていたあたりは線路の南側の“川沿い”にある(川添公園という公園がある)。

 町田市の山崎団地に移り住んだのは一九六九年一月——五十七歳のとき。それで町田市民文学館で文学展が開催されることになった。

 今年に入って田畑書店は野口冨士男の『巷の空』、田畑書店編集部『色川武大という生き方』も刊行している。創業者の田畑弘は一九四五年に京都で三一書房を興した一人ということを同社のホームページで知る。

 それはさておき「文学の鬼」ということでいえば、わたしはまったくそういう生き方をしていない。

 世の中の価値軸とズレたところで生きる——そこに開き直らず、悩んだり迷ったりしながら言葉を紡いでいく。わたしはそういう文学が好きだし、できれば自分もそういう文章を書いていきたいとおもっている。自分の考え方に同調してほしいわけではない(そんなことは無理に決まっている)。ただ、個人個人の趣味嗜好を鋳型にはめていくような思想や主義とは距離をとりたい。わたしの理想を突きつめていくと“棲み分け”ということになる。

2021/07/08

文学展パンフ

 水曜日、神保町。古本屋をまわって神田伯剌西爾。澤口書店で『池波正太郎の世界展』(世田谷文学館、二〇〇四年)を購入。師・長谷川伸とのツーショット写真が素晴らしい。長谷川伸は若手作家のために自宅の書庫を開放していた。いい話だ。

 先日買った『特別展 くにたちを愛した山口瞳』(くにたち郷土文化館、一九九九年)を見ていたときもおもったのだが、山口瞳や池波正太郎は小説や随筆だけでなく、絵もたくさん残している。絵を描いていた作家の文学展パンフは面白い。

 かれこれ四半世紀くらい気長にだらだらと文学展パンフを蒐集している。ずっと購入のさい、金額の上限やジャンルなどに縛りを設けていたせいで、買いそびれたものもたくさんある。ワンコイン以下なら迷わず買う。七、八百円から千円くらいまでなら悩みながら買ったり買わなかったり。千円以上だったら(よっぽどの入手困難なもの以外は)見送る。パンフレット系は古書相場が定まっていないから百円二百円で買えることもあれば、五、六千円の値段がついていることもある(SF作家の文学展パンフは入手難のものが多い気がする)。あと新刊書店には並ばないから、表紙や背表紙すら見た記憶がなく、判型もわからないことがあるから探すのに苦労する。

 東京、緊急事態宣言。新型コロナに関しては、情報はたくさんあっても自分には理解する能力がない。油断せず、体力温存生活を心がける。
 散歩中、マスクを外したり、ズラらしたりしているのだが(眼鏡が曇るから)、周囲を見渡すと、マスクをつけたままの人ばかりだ。

 市や区のホームページを見ると、屋外でもマスクの着用をお願いしているところもある。その根拠が知りたい。

2021/07/05

国立と野方

 雨続き、部屋の湿度は七〇%以上。部屋干しの洗濯物がなかなか乾かない。肩凝りがひどい。
 七月の即売展一覧を見たら、金曜日から西部古書会館の古書展があることに気づき、午後三時ごろ、会場へ。図録『特別展 くにたちを愛した山口瞳』(一九九九年)を購入。二十年以上前の図録だけど、古本屋で見かけた記憶がない(さっき見たら「日本の古本屋」にはあった)。山口瞳の年譜その他をじっくり読む。生まれは東京府荏原郡入新井町。今の大森駅(大田区)の周辺。そのあと新井宿や戸越銀座のほうにも移り住んでいる。何度か『血族』(文春文庫)を読んでいるが、このあたりの地名はピンとこなかった。
 そのあと川崎、麻布、鎌倉……と転々。結婚して文京区関口台町に暮らし、寿屋(サントリー)時代は川崎の社宅に住んでいた。
 国立に引っ越したのは一九六四年三月、山口瞳三十七、八歳か。山口瞳は二十六年十一月生まれだが、一月生まれという説もある。

 街道関係の図録を探すようになってから、文学関係の大判の図録を見つける頻度が増えた気がする。これまでは棚を見ているようで見ていなかったともいえる。買う本の種類が変わると棚の見方も変わる。

 福原麟太郎著『この道を行く わが人生観』(大和書房、一九七一年)は別紙のサイン本。福原署名本は西部古書会館でよく見かける。地元だからか。福原麟太郎は野方に住んでいて、たまに練馬まで散歩した。帰りはタクシーに乗った。
 わたしも高円寺から練馬まで歩くことがある。帰りはバスに乗る。

 高円寺の北口を出て、早稲田通りのあたりから大和町、野方になり、中野区になる。「かわる」という随筆では町名番地の改称のことを書いている。

《私の番地は、中野区野方町一丁目五七六であったが、こんどは野方(町をぬいて)四丁目三九の九となった》

 日曜日昼すぎ、小雨の中、西部古書会館。旧街道、峠の本など数冊買う。二十代、三十代のころなら買わなかった本ばかり。年をとると、食べ物の好みが変わるように読書傾向も変わる。最近、読書に「感動」とか「心揺さぶられる」とかいったことを求めなくなっている。

 そのあと都議選、近所の小学校へ。一つの党が勝ちすぎて調子に乗るとロクなことがないというのが、わたしの政治認識(床屋政談レベル)である。

2021/06/29

暇つぶし

 土曜日曜、高円寺の西部古書会館。二日連続で岡崎武志さんと会う。精算後、喫茶店で雑談。仕事の話、街道の話など。
 最近、西部でばかり本を買っている。あとこの一週間くらい部屋の掃除ばかりしている。いろんな本が行方不明だ。買ったり売ったりしているから、もう売っちゃたかなとおもって買い直すと忘れたころに出てくるのはいつものことだ。売らなければよかったと悔いることもあるが、売らなければ本を買い続けられない。

 何を売って何を残すか。その判断はそのときどきの気分にもよるが、対談や座談集はなるべく売らずに残しておくことが多い(なんとなく探すのに苦労する)。

 古書会館では『街道歴史散歩』(日本通信教育連盟)という冊子を買った。刊行年は未記載。刊行年のわからない場合、文中に「国鉄/JR」でJRであれば一九八七年以降のもの、東京二十三区の電話番号が「九桁/十桁」で十桁なら一九九一年以降(例外あり)、郵便番号が「五桁/七桁」で七桁なら一九九八年以降——と判別できる。都内の電話番号が十桁、郵便番号は五桁。ほかにも六十里越え・羽州街道の「羽黒手向・楢下」のところに「JR山形新幹線」とある。山形新幹線の開業は九二年。九二年から九七年に刊行された本だろう。あと市町村名の変更など、もうすこし読み込めば、年代を特定できそうだ。

 ちなみに日本通信教育連盟はユーキャンの前身の組織。九〇年代に「街道」の通信講座があったのだろうか。

 日曜日、『話の特集』の九一年八月号も買った。「特集 ゆっくり瞑れ!竹中労」の号で刊行時に買った記憶があるのだが、いつの間にか行方不明になっていた。

 座談会では出版プロデューサーの伊藤公一さんがこんな話をしている。

《竹中さんが無署名から署名家になったのもルポライターと言い出したころですね。『処女喪失』という本で初めて竹中労という名を使った。だから無署名時代から付き合いのある人は「竹」とか「タケさん」と呼ぶ。それ以後の人は「ロウさん」が多い。それで何となく知り合った年代の区別がつく》 

 竹中労が亡くなったのは九一年五月十九日。三十年前か。当時、玉川信明さんと読書会をしていて、竹中労と玉川さんは古い知り合いで「今度会わせてやるよ」といわれていた。そのころの自分が何をやっていたのか。二十代の自分は何を読んで何を考えていたのか。記憶が薄れている。ただし、西部古書会館には通っていた。

2021/06/25

そのへんのアクタ

 グーグルの検索で「と」を入力すると「東京コロナ」が一番上にくる。
 二十五日、都内の感染者数は五百六十二人、連日、前週の同じ曜日より百人以上の増加――まだまだ収束の見通しは立たず、というか、急激にものすごくひどい状況になる心配はないが、よくなりそうな気配もない。

 手洗い、うがい、マスク、密を避けるという感染症対策だけでなく、日々の栄養と心身の休養も大切だろう。気晴らしは大事だ。

 稲井カオル『そのへんのアクタ』(白泉社)は、地球外生命体と人類の存亡をかけた戦いが膠着状態に陥った日常を描いた漫画——。鳥取県が舞台なのだが、鳥取支部そのものが元ドライブインがあった場所が基地になっている(隣はレストラン)。赴任した元英雄の芥は、犬の散歩をしたり、隊員のための夜食を作ったりする。人類滅亡の危機は去ったが、人々は「終わりそうで終わらないでもちょっとだけ終わりそうな世界」に暮らしている。

《しかし私達はどんな時でも毎日を過ごしていかなくてはいけません》

 いっぽう地球外生命体による侵略よりも少子高齢化の人口減のほうが深刻という日本の現実が見え隠れする。

 おそらく新型コロナが収束しても日本の人口は減り続け、地方の衰退も止まらない。解決の難しい問題を抱えながら、「そのへん」の人として食って寝て働いて遊んで生きていく。そういう生き方はありかなしか。わたしは「あり」派だ。

2021/06/23

ボロ家の春秋

 書いては消してをくりかえしているうちに六月下旬、今年の夏至は二十一日だった。先週は掃除ばかりしていた。

 今日発売の梅崎春生著『ボロ家の春秋』(中公文庫)の解説を書いた。直木賞受賞作、候補作を並べたオリジナル編集本である。解説にも書いたことだが、『ボロ家の春秋』と題した文庫は角川文庫、旺文社文庫、講談社文芸文庫から出ていて、その収録作はすべてちがう。

 中公文庫版は野呂邦暢の巻末エッセイも入っている。野呂邦暢の筆名の「野呂」は「ボロ家の春秋」の主人公の名からとった。すこし前に出た『愛についてのデッサン 野呂邦暢作品集』(ちくま文庫)の解説で岡崎武志さんもそのことに触れている。

 野呂邦暢と梅崎春生の本が同じ月に復刊されたのは偶然だが、なんとなく本と本が呼び合ったような気がしてならない。そういえば、梅崎春生をすすめてくれたのは岡崎さんである。一作の短篇を読んですぐ全集を買いに行った。三十歳前後だったか。かれこれ二十年くらい前の話なので記憶があやふやなのだけど、「梅崎春生は面白いよ。魚雷君、気にいるよ」といわれたような……。飲み屋だったか、電車の中だったか。

 わたしは梅崎春生の戦争文学ではなく、日常文学から入った。日常の中にも文学がある。

 ちなみに梅崎春生は新書(文芸新書)が多い作家でもある。三十代前半、梅崎春生の新書を揃えたくて毎日のように古本屋に通った。そのころ文芸の新書をずいぶん集めたが、その大半は売ってしまって手元にない。

2021/06/14

初心

 土曜日、午前中から西部古書会館。五月のあいだ、古書展が中止だったせいか、前回、今回ともに本をたくさん買ってしまう。

 この日は署名本が大量出品。値段は五百円から二千円くらい。ほしい本が十冊くらいあったが、悩んだ末、武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中央公論社)、福原麟太郎著『チャールズ・ラム伝』(垂水書房)、伊馬春部著『土手の見物人』(毎日新聞社)の三冊購入。伊馬春部は劇作家。太宰治の友人としても有名かな。『土手の見物人』にも「太宰治ノオト」や「“ぴのちお回想”」など、太宰関連の随筆がたくさん入っている。“ぴのちお”は阿佐ケ谷会のたまり場だった中華料理店ですね。永井龍男の兄が経営していた。

 サイン本はたまに偽物もある。福原本と伊馬本は贈り先が学者(福原と同じ大学の卒業生)と編集者(わたしも会ったことがある)なので、ほぼ間違いないだろう。
 福原麟太郎は本に直接書かず、別紙にサインしている。わたしは名刺に相手の名前だけ署名した福原本を持っている。
 買うかどうか最後まで迷ったのが泰淳の署名本だ。「武」の字は原稿用紙などでよく見かける癖のある字なのだが、それゆえ真似しやすい。マジックペンのカクカクした字なのも引っかかる。他の署名本をいろいろ見てみないとわからない。でも買わずに後悔するよりも、買って後悔したほうがいいと判断した。迷ったら買う。

『フライの雑誌』の最新号は「はじめてのフライフィッシング」。初心者向けといっても、ほんとうに何も知らない人、まったく興味がない人には何をどういっても伝わらない。数ある釣りの中で「なぜフライフィッシングなのか?」。語れることはそれだけなのかもしれない。どんな趣味でもその面白さと奥の深さはやってみないと、やり続けてみないとわからないことだらけだ。

 フライフィッシングを構成する三要素は「キャスティング(フライを思い通りに操る)」「タイイング(望みのフライを作る)」「観察と実践(楽しく釣るための知識と技術の蓄積)」とある。

《たまたま魚が釣れた、釣れた、では進歩がありません。釣れたのがなぜか。いったい何がよかったのか。(中略)五感をフルに活用して自然を観察して、悩んでクリエイトして技術を磨いて、釣れたなら、また悩む。その繰り返しです》

 傍から見れば、なんでこんなことをやっているんだと不思議なのだが、おそらく当人もしょっちゅうそうおもっている。それでもやめられないのは「知識と技術の蓄積」——それを元にした経験の末にしか味わえないものがあるからだろう。

 はじめたときはできなかったことが、いつの間に難なくできるようになる。しかし一つのことができるようになると、二つ三つできないこと、知らないことが増えていく。

 初心者といわれる時期にどれだけわけがわからないままのめりこめるか。基本に躓き、自己流に走るもうまくいかず、結局、基本からやり直す——みたいなこともよくある。基本の大切さも「知識と技術の蓄積」の末にしかわからない。

2021/06/10

一生の方向

 水曜日、夕方、神保町。『大正の詩人画家 富永太郎』(渋谷区松濤美術館、一九八八年)を購入し、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。同図録の大岡昇平の「富永太郎における創造」というエッセイを読む。

《私は太郎が死んだ年の十二月、成城学園中等部へ入って、太郎より八歳下で私と同じ年の、弟の次郎と同級になったのです。太郎の画が壁にかけてある家を訪れ、小林秀雄たちとやっていた同人雑誌『山繭』に載った「秋の悲歌」「鳥獣剥製所」など、散文詩を読んだのでした。

 十七歳の少年にはよくわからぬながら、その硬質な文体に惹かれたのが、私の一生の方向を決定したといえます》

 大岡昇平著『昭和末』(岩波書店)に「富永太郎の詩と絵画」という松濤美術館の講演が収録されている(初出『群像』八九年一月号)。

《この松濤美術館の位置は私が十二歳から二十二歳まで住んでいた家から三十メートルぐらいしか離れていないので、昭和二年に家蔵版『富永太郎詩集』が最初に出たときには、三十七篇ですぐ読めますから、十八歳の私は一日に一度全部読んでいたわけです》

 富永太郎展は一九八八年十月十八日から十一月二十七日まで開催された。大岡昇平が亡くなったのは同年十二月二十五日——。

 一九八八年といえば、わたしは一浪中だった。高校時代から京都の私大の文学部を志望していたのだが、一浪して東京の私大を受験しようと気が変わった。何度か書いていることだが、予備校の講師の人に「物書きになりたい」と話したら「だったら東京に行ったほうがいい」と……。

 若いころはちょっとしたことで人生が変わってしまう。一冊の本、一本の映画、一枚のレコード、誰かの何の気なしの一言によって「一生の方向」が決まってしまうこともある。

 十九、二十のころに考えていた方向からはどんどんズレてしまっているが、その話はまとまりそうにないし、眠くなってきたので終わり。

2021/06/06

途中でやめる

 金曜日、荻窪、古書ワルツ。そのあと木下弦二さんのCD(『ノッス・ノイズ』)をペリカン時代に届け、アイスコーヒーを飲みながら聴く。ノンアル営業なので喫茶店にいるような気分になる。

 家に帰ると山川直人さんの『はなうたレコード』(平凡社)が届いていた。「ウェブ平凡」に連載していた作品。毎回楽しみに読んでいた。散歩のついでに古本屋と中古レコード屋に寄って、喫茶店で珈琲を飲んで——といったかんじの日々の暮らし。つつましいけど、都会の贅沢ともいえる。「夜の散歩」の回、ライブハウスっぽい場所の地下の階段に「〜ピンポンズ」「〜野清隆」「吉上恭太」といったチラシが貼ってある。山川さんの漫画は細かい遊びや描き込みが多い。表紙もレコードのジャケット風でカバーを外すと……。

 土曜日、昼すぎ、東中野まで散歩し、夕方、ひと月ちょっとぶりの西部古書会館——。
 街道資料、文学展パンフ、ヤクルト・スワローズの一九九二年の優勝記念の写真集などを購入する。街道本に関しては集めても集めても「道半ば」という気持になる。

『些末事研究』の最新号(vol.6)の特集は「途中でやめる」。昨年十一月、京都の飲み屋で座談会を行った。たまたま店に「途中でやめる」の山下陽光さんがいて(リメイクした古着の展示販売をしていた)、途中から座談会に参加し、そういう話になった。メンバーは山下さんの他、福田賢治さん、東賢次郎さん、世田谷ピンポンズさん、わたし。久しぶりに酔っぱらって、妙なトーンというか、酒癖のわるいおっさんみたいな喋り方になっている。山下さん、面白い人だったなあ。半年前の話だが、楽しい一夜だった。

 京都では哲学の道と奈良街道などを歩いた。時間に余裕があれば、鞍馬のほうの街道も歩きたかった。

 わたしは現役のころに京都の私大に落ちて、一浪して東京に出てきた。とはいえ京都でも東京でも散歩して古本屋に寄って喫茶店で珈琲を飲んでという日々を送っていた気がする。

2021/06/01

人気マンガ家Tさんの話

 先週、先々週と新刊本のチェックのため、新宿に行った。雨の日、新宿は地下の通路で移動できるので助かる。

 元人気マンガ家T著『元人気マンガ家のマンション管理人の日常』(興陽館)は、百万部超の漫画誌に連載し、テレビドラマ化した作品を何作も持っていた漫画家の話。本業の仕事が途絶え、現在はマンション管理人をしながら、アルバイトを掛け持ちしている。おそらく「T」は姓ではなく、名だろう。『大東京ビンボー生活マニュアル』の人だとおもう。

《わたしは売れないマンガ家である。いや、あったというべきか》

 Tさんには妻子がいる。管理人の仕事はゴミ出し、清掃作業、電灯の好感、破損部のチェック、植栽の水やり、落ち葉拾いなどがある。自宅(別のマンション)から電車や自転車で通う。

 管理人の仕事の話も興味深いが、第6章の「わたしのマンガ家時代」が何かと身につまされる教訓でいっぱいだった。
 Tさんは大学は法学部だったが、文学にのめりこみ、就職活動をしないまま卒業してしまう。その結果、アルバイト生活——ある日、定食屋で四コマのマンガ誌を読んでいたら、「新人募集」の告知が載っていた。Tさんは早速四コマを描いて、応募——郵送ではなく、編集部に直接持ち込む。すると「ウチの社風には合わないが他の出版社ならどこかで採用してもらえるかも……」といわれる。
 そして別の出版社を訪れ、作品を見せると「次号に載せよう!」とデビューする。

 とんとん拍子で漫画家になったように見えるが、何の経験も基礎もないままプロになってしまったTさんはすぐ行き詰まり、自信を失う。ところが「連載はいったんやめ、単発で短い好きなものを描くように言われ、大学時代のなんの変哲もない生活を描いたところ、これが意外に評価され」た。後にこの作品はTさんの代表作になった。

 ヒット作を出してもTさんは自信が持てない。仕事が減ってもどうにかしようとしない。絵を描くのは好きだが、読んでもらいたいという情熱に欠ける——と自己分析している。

 この第6章でTさんは残りの人生で何がしたいかについても書いている。おそらくTさんの年齢はわたしの一回りくらい上だ。今のわたしもそのことばかり考えている。

2021/05/27

努力か余力か

 火曜日、ラジオを聴きながら掃除。東京・練馬の最高気温は三十度だった。本の山から野村克也著『裏読み』(KKロングセラーズ、一九八四年)が出てきた。

「『すべてに全力を出す』の裏にあるもの」は、雨の阪神-巨人戦(甲子園)の話。この試合は七回終了でコールドゲームになった。一九八四年五月十三日の試合だろう。

《その五回表の巨人の攻撃で、打席に入った西本投手が一生懸命、ヒットを打とうとしているのです》

 五回表、巨人リード。裏の攻撃を抑えれば試合は成立し、いつゲームが中断しても西本投手は勝利の権利を得る。雨天の試合で自分たちのチームがリードしている局面では、まず試合成立を優先することがセオリーだ。ところが西本投手はピッチャーであるにもかかわらず、打席でヒットを打とうと全力プレーした。野村さんはその真面目さを微笑ましくおもいつつも「状況を的確に判断してほしい」と助言する。

 また「真面目人間ほど陥りやすい『穴』とは」では、西本選手が投球練習やランニングでも手を抜かないことについて。

《考えてもみてください。西本投手がいまさら、ブルペンで、汗みどろになって投げ込んで、なんのプラスがあるでしょうか。
 これ以上、速いストレートがマスターできるわけでもない。コントロールという点では、球界でも現在の投手の中でも指折りです》

 西本投手が夏場、調子を崩すのは練習のしすぎでコンディションの管理が疎かになっているから、というのが野村さんの分析である。

《それなら、マウンドへ上がるために、いいコンディションさえつくれば、結果は自然とついてきます。それに、ヘバるほど練習しても、たいしてプラスはありません。かえって、マイナスのほうが多いのです》

 当時の西本投手は二十七、八歳。毎年のように二桁勝利していたころだ(ちなみに、この年は十五勝十敗)。ガムシャラに練習することがプラスになるのは何歳くらいまでなのか。個人差はあるとおもうが、三十代になれば、疲労の蓄積がマイナスになる。
 いっぽう西本選手の場合、人並外れた練習量が自信や体力の強化につながり、長く現役で活躍できた——という可能性もある。

 二十代と三十代、三十代と四十代でコンディションの維持の難易度がちがう。年々、心身に負荷のかかる努力がきつくなる。そもそも万全なコンディションなんてない。中年になると、努力と同じかそれ以上に余力が大事になってくる。やりたくても全力プレーができなくなる。余力を残しながら努力するしかない。

2021/05/24

今から思えば

 書いても書かなくてもどちらでもいい——といったくらいの力加減の文章を書きたい。そういう気分にならないと書けないこともある。
 どんどん無駄な部分を削ぎ落とし、正確な文章を書けば人に伝わるかといえば、そうとも限らない。一読者として文章を読んでいるとき、だらだらと書いているような部分を読むことで、作者の気質や体質がわかってくる(気がする)。

 日曜日、ニッポン放送のナイターを聴きながら部屋の掃除をした。床に積んでいた本の中から山際淳司著『エンドレスサマー』(角川文庫)が出てきた。この本に「0−1のスコア」というコラムがある。「0-1」は江川卓投手のいた作新高校と松山商業の練習試合のスコア。試合は江川の決勝打で作新が勝った。相手の松山商業の西本聖投手は一度も甲子園に出場しなかったが、この練習試合から一年半後、一九七四年にドラフト外でジャイアンツに入団する。

 前年のドラフトで江川は意中の球団から指名されず、法政大学に進んでいた(江川がプロ入りするまでの紆余曲折は長くなるので省略)。

 プロになっても活躍しないまま引退してしまう選手はたくさんいる。

《「今から思えば」と、すでにユニフォームを脱いでしまった男たちはいう。「今から思えば、努力の差なんだと思いますよ。天分としかいいようがない力を持った選手もいますけどね。それはほんの一握り。高校を出てプロの世界に入ってくる選手の力なんて、さほど変わりませんよ。要は、そのあとなんだ」と》

 ファームの選手はみな猛練習をする。しかしたまに息抜きに酒を飲みに行くこともあるという。巨人の選手というだけでチヤホヤされる。誘惑も多い。

《週に一度のつもりが二度になり、三度になる。そうなると、二軍の色に染まってしまう》

 西本はちがった。チームメイトの息抜きに付き合わず、孤立した。みんなが休んでいるときでも監督やコーチにアピールするかのように走り込む姿を見せつけた。「やりすぎ」「わざとらしい」とバカにする選手もいたが、気にしなかった。

 野球関係の統計でキャリアハイ(自己ベスト)が多い年齢は二十八歳から三十二歳くらいという記事を読んだ記憶がある。

 二十代後半から三十歳くらいのわたしは週に一度が二度三度どころか、ほぼ毎日飲んでいた。仕事もなく、何をやっても空回りしていた。努力もしないし、アピールもしなかった。フリーターをしながら気が向いたときに原稿を書く。それでいいとおもっていた。野球選手がキャリアハイを残す時期を怠けて過ごした。今さら悔やんでも仕方がないが、もったいない。
「今から思えば」
 仕事があるとかないとか気にせず、どんどん書けばよかった。一日一枚書けば一年で三百六十五枚になる。時間はいくらでもあった。

 しかし二十代後半のぐだぐだ、だらだらしていた時間があったから今の自分がある——そういう気持もなくはない。自分は正しい生き方をしてきたわけではないから、偉そうなことをいっても説得力がない。そんな自分に書けるものは何か。
 怠けていたからといって、努力を笑う人にはなりたくないし、それを無駄だとはいいたくない。自分を棚に上げて、怠けるな、もっと努力しろと説教したり批判したりすることもしたくない。ダメな生き方を肯定しつつ、今よりすこしずつでもいいからマシな人生を目指そうというスタンスで書いていこうと……。

 自分の立場をはっきりさせないと、うやむやのどっちつかずの意見になりやすい。しかしはっきりさせると書けなくなることもある。

2021/05/18

考え中

 五月中旬、日中の最高気温二十五、六度。近畿、東海地方はもう梅雨入り。東京も湿度が高い日が続く。洗濯物がなかなか乾かない。

 インターネット上の議論に一人暮らしの自炊問題がある。自炊しても食材を無駄にしてしまうし、一人分の料理の手間を考えれば、外食のほうが楽だし得だという意見もある。
 最初は調理道具や調味料なども揃える必要がある。

 わたしの場合、自炊することが外食するより安く上がるし、それほど苦ではないと実感できるようになるまでには二、三年かかった。肉や野菜を冷凍するようになり、すこしずつ包丁をつかうことに慣れ、煮たり焼いたりのコツがわかってくるのにそのくらいの時間がかかった。

 仕事や趣味でもそういう時間差がある。自分に合うやり方、合わないやり方がわかるまでにもそれなりに時間がかかる。

 複雑な工程を短時間でこなせるようになるのは、何だって大変だ。
 効果を実感できるようになるまでには時間差がある。はじめのうちは失敗や無駄も多いから、ついやらないほうがマシだったのではないかと考えてしまいがちである。わたしも自分の苦手なことはだいたいそうおもう。

 努力か才能かは、人類の永遠のテーマである。才能というのは、何かをはじめ、効果を実感する、上達の手応えを感じる早さも含まれる。そのスピードは努力では埋められない。
 何かを会得するのは早いけど、飽きっぽくてすぐ次のことをやりたがる人より、地道にこつこつ続けられる人のほうが、安定した力を身につけやすい。地道な作業に楽しさや喜びを見いだせるのも才能といえば、才能だ。

 近年「努力は報われるか報われないか」の論議が盛んだが、どういう状態を報われたとするかによって結論もちがってくる。
 たとえば、スポーツをやっていて、オリンピックで金メダルをとる、プロの選手としての大成する——みたいなレベルが報われることだとすれば、ほとんどの人は報われない。しかしスポーツを趣味として楽しい時間を過ごす、体力をつける、体型を維持する——あたりが目標であれば、話もちがってくる。

 このテーマは精神論と技術論が混ざり合いやすい。そのへんの話も書きたいのだが、眠くなってきたので寝る。

2021/05/11

ノンアル

 今年は五月五日にコタツ布団を押入にしまった。ついでに部屋の掃除もした。
 散歩中、なみの湯の大きな鯉のぼりを見る。
 高円寺で最初に住んだアパートと二番目に住んだアパートがなみの湯の近所だった。かれこれ三十年くらい前の話だ。当時、高円寺北口のなみの湯と小杉湯のあいだに住んでいたので、交互に通っていた。

 なみの湯の鯉のぼりを見た後、阿佐ケ谷まで歩き、古本屋をのぞき、高円寺に戻って近所の店でノンアルコールビールの飲みながら、緊急事態宣言の延長その他について雑談した。
「コロナ中、ゲームが売れたらしいね」
「電子書籍のコミックスの売り上げも伸びたって話を聞いたよ」

 それからわたしは仕事と関係なく研究しているライトノベルの話をする。
「乙女ゲームの世界の悪役令嬢に転生した主人公が商売をはじめるんだけど、だいたいお菓子か化粧品を作るんだよ。なんかたまたま領内でカカオの実が採れたりして」
「俺は酒をつくりたいかな。で、飲み屋をやる」
「すでに異世界の飲み屋の漫画はあるよ」

 人間の発想というのは空想の世界であっても現実に縛られている。未来だって今の延長線上にある。

 そのうち異世界で感染症が流行する漫画も現われるだろう。

2021/05/03

文学四方山話

 四月末、西部古書会館の西部展も中止。飲み屋はノンアルコール営業。毎日寝てばかり。ラジオを聴いたり、本を読んだりして過ごす。

 古書ワルツで買った『文学四方山話』(おうふう、二〇〇一年)を読む。大河内昭爾の対談(鼎談)集。目次には杉浦明平、安岡章太郎、眞鍋呉夫、檀ふみ、三浦哲郎、秋山駿、深沢七郎、水上勉の名がある。

 大河内昭爾と安岡章太郎の対談「覚悟ということ」では——。

《安岡 僕はね、この頃はそう文芸雑誌とも深く付き合ってないけど、一番憂えるのは編集者に語感がないんじゃないのかな、と思いますが。出版社というのはいずれも難しいわけですね、入社試験。
 大河内 最近、優秀なのばかり採るようです。
 安岡 そうでしょう。だけどその優秀って何ですか。これ意味ないんじゃないですかね。
 大河内 単に偏差値が高いというだけで、文学が好きな人が来るかどうかは別の問題です》

 大河内は同人雑誌のいい作品を編集部に紹介しても「将来性がない」「部数に結びつかない」「今風でない」といった理由で断られる現状を嘆くと、安岡は「要するに、彼らのそういう固定観念ね。感覚があればね、まだいいんだ」と語る。また大河内は「表向きの素振りはともかく、愛する作家というか、そういう気持ちを持っていなければ、少なくとも文学を愛していなければ、文芸雑誌にかかわる意味がない」という。

 安岡はジャーナリズムにたいして、うわべの知識だけが発達して「何か自分でものを考えたという形跡が少ない」とぼやく。

 大河内によると、井伏鱒二や尾崎一雄が学生だったころは「文学を最上に考える。文学や哲学に一生懸命なら学校はサボってもしょうがないという発想があった」と……。

 この対談は一九九八年七月に行われたもので、本人たちも「老人の繰り言」と自嘲しているが、二十年ちょっと前の出版界の状況をおもいだす。当時、学生運動に参加し、ドロップアウトした編集者が五十代になって現場を離れてしまった時期とも重なる(わたしは商業誌の仕事を干されていた)。この対談で語られている「感覚」や「覚悟」について、もうすこし考え続けたい。

2021/04/29

宮脇俊三の特集

 雨。新型コロナの感染者は三ヶ月ぶりに都内千人以上。季候は関係ないのか。終わりが見えない。旅行したいが、しばらくはガマン。郷里に帰省できない学生向けの「ふるさとセット」みたいなものがあることを新聞で読む。学生に限定する必要はないんじゃないかな。わたしも三重のあられや調味料、干物などを買いたい。

 先週土曜日、西部古書会館。カゴ山盛り買う(一冊平均二百円以下)。街道本、旅雑誌、郷土文学資料、文学展パンフ……。古本に関しては「安物買いの銭失い」という格言は通用しない。一行でも二行でも表紙でも背表紙でも奥付でも広告の頁でも何だって貴重な資料になる。

『旅』(二〇〇〇年九月号)は特集「宮脇俊三の世界」。カラー頁、写真多数、年譜あり、別冊付録「宮脇俊三自選集」も。当時の定価は八百八十円。
 阿川弘之と北杜夫の「われらが“俊ちゃん”を語ろう」も読みごたえあり。阿川弘之の最初の鉄道本『お早く御乗車ねがいます』(中央公論社、一九五八年)の担当編集者も宮脇俊三。あとがきに「この本は、中央公論社出版部の宮脇俊三さんという、奇特な汽車気狂いのお蔭で陽の目を見ることになったので、私にとっては思いがけぬ臨時電車を出して貰ったようなもので、感謝しています」とある。収録作は『旅』に発表したものが大半だという。『旅』の担当編集者は岡田喜秋だった。

 自分の中では八〇年代までは古本、古雑誌という感じがするが、今のところ九〇年代以降は「新しい」とおもってしまう。二〇〇〇年代は「つい最近」だ。でも古本や古雑誌にたいする時間感覚もすこしずつ変わってくる。

2021/04/26

つくづく別冊

 毎日、寒暖差が厳しい。安静というか、週末のんびり過ごす。体調の管理は自分に合ったものでないと意味がない。日々の食事、適度な運動、休息……。野菜中心の食事で調子がよくなる人もいれば、肉をがっつり食うと元気になる人もいる。街道を歩くときは、朝抜いて、昼おにぎり一個くらいですまし、空腹のまま歩くことが多い。満腹だと体が重くなる。

 金井悟(タオル)さんが編集している『つくづく別冊 特集 友だちと互助会』が届く。いい出来だ。脱帽。創刊以来「雑誌とは何か?」を問い、様々な実験と迷走を経て、いい感じに力抜けたのかもしれない。この号は読者がずっと手元に残したい雑誌になったんじゃないかな。

 今年の1月末に北品川のKAIDO book&coffeeで金井さんとカメラマンの木原基行さんとの座談会に参加した。もともと昨年の秋、長野の街道を歩こう——という計画を立て、日程もほぼ決まりかけていたのだが、都内の新型コロナの感染者数の激増で延期になった。
 その代案として品川宿の散策を提案して……。行きあたりばったりなのも雑誌の醍醐味ですね。

 執筆、対談や座談会の参加時はバラバラだった『ウィッチンケア』『隣町珈琲の本 mal"』『別冊つくづく』の三誌がこの四月に出た。もうしばらくすると高松在住の福田賢治さんが編集している『些末事研究』というミニコミも出る。

 上記の雑誌を全部読んだという人は何人くらいいるのだろう。いずれにせよ、相当風変わりな人だろう。

2021/04/22

隣町珈琲の本

 月曜日、仕事部屋でTBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」を聴いていたら、小田嶋隆さんのコーナーの冒頭で『隣町珈琲の本 mal"』の話(四月二十七日発売)をしていた。隣町珈琲は平川克美さんの店。『mal"』は喫茶店が発行元の文芸誌である。

『mal"』の特集は「記憶の中の本と街」。関口直人さん、島田潤一郎さん、平川克美さんの鼎談「『昔日の客』が残したもの」では山王書房の関口良雄さんの貴重な写真も多数ある。古本好きは永久保存版でしょう。
 わたしは岡崎武志さんと「安い古本と“高円寺”がオレたちの青春ダ!!」という対談をした。座談会も対談も動画で観ることができるが、雑誌で読めるのが嬉しい。
 岡崎さんとの対談で五十歳になった感慨を訊かれ「何でしょうか、もういい」と答えている。ちょっと補足すると「(自分のことだけやるのは)もういい」という気持になったんですね。
 十九歳でライターになって以来、どうやって生きていくか——自分のことばかり考えていた。それは「もういい」かなと。もちろん働かないと食べていけないわけだが、生活費を稼ぐ手段は文筆業である必要はない。仕事が減ったら他にやりたいことをやればいい。そうおもったら気が楽になった。

 この先、気が変わるかもしれないが、「場所」や「受け皿」を作る仕事に興味が出てきた。

2021/04/21

梅崎春生と甲州街道

 街道について調べ、掘り下げていけば、文学とつながる。すくなくともわたしは地図を片手に小説や随筆を読むようになった。知らない地名が出てきたら、地図を見る。
 街道以前と以後で読書の仕方が変わってしまった。

 梅崎春生の「拾う」(『梅崎春生全集』第三巻、新潮社)を読む。

《新宿から甲府にむかう甲州街道。その新宿から一里ほども来たところに、下高井戸というへんてつもない宿場がある。そこは街道と上水の間を、ほこりっぽい空地で区切って、都心からくるバスの終点にもなっている》

 文中の「上水」は玉川上水。世田谷付近は、甲州街道と玉川上水が並行している区間がある。「拾う」は現代の街道を舞台にした短篇である。主人公の穴山八郎は、その後、「拐帯者」にも登場する。穴山はあるものを「拾う」。その心理と行動を精密に描く。片岡義男の「給料日」と似ているかもしれない。

 ちなみに直木賞受賞作の「ボロ家の春秋」も甲州街道が出てくる。

 晩年の梅崎春生が住んでいた豊玉中二丁目(練馬区)は、町の真ん中を環状七号線(環七)が通っていて、高円寺から赤羽や王子行きのバスの停車所もある。

2021/04/17

バスの話

 月曜日、午前中に目が覚めたので高円寺から赤羽行きのバスに乗り、羽沢(西武有楽町線の新桜台駅のすぐそば)で下車する。それにしてもバスの停留所の名前はわかりにくい。
 先月、バスで王子行のバスに乗り、環七を見ていて新桜台駅を通ることを知った。新桜台なら西武池袋線の江古田駅までも徒歩数分だ。
 江古田でオープンしたばかりの古本屋(snowdrop)に寄り、江古田の森公園を散策し、新井薬師を通り、中野へ。地図は持ってなかったが、だいたい南に向かって歩けばどうにかなる。途中、方向感覚がおかしくなって西のほうに歩いていた。これからは都内の散歩でもオイルコンパスを持ち歩くことにする。

 火曜日、確定申告。杉並税務署のち五日市街道を歩いて高円寺に帰る。新高円寺(中野)から吉祥寺に行きのバスがあり、五日市街道を通る。途中、小さな弁当&惣菜屋さんで唐揚げを買う。五日市街道、コープ、サミットなどのスーパーだけでなく、個人営業店がけっこうある。

 泉麻人著、なかむらるみ絵『大東京 のらりくらりバス遊覧』(東京新聞)を読むと、吉祥寺駅から西武バスで新座栄や成増駅、小田急バスで深大寺のルートが面白そう。同書は二月に続編が出たばかり。バス+徒歩の選択肢が増えれば、行動範囲が拡がる。

 旅に出て、電車の駅から目当の街道まで三、四キロ歩かないと行けないときがある。徒歩だと往復二時間くらいかかる。街道まではバスで行きたい。しかし知らない土地だとバスがどこを通るのかわからない。
 急ぐ旅ではないので適当に乗って気が向いたところで降りてそこから歩けばいいのだが、行く先のわからないバスに乗るのは不安だ。たぶん慣れだろう。

2021/04/12

街道と城下町

 五十肩は完治したのかどうか。たまに重いドアを左手で開けようとして、嫌な痛みが走り焦る。

 日曜日、西部古書会館大均一祭二日目(全品百円)。会場入ってすぐの棚に『文藝春秋 臨時増刊 目で見る日本史 街道と城下町』(一九七三年)があった。気長に探そうとおもっていた雑誌だ。
「特別企画 心のふるさと・宿場町 東海道五十三次」は、保土ケ谷(平野威馬雄)、藤沢(阿部昭)、小田原(尾崎一雄)、江尻(江国滋)、府中(三木卓)、藤枝(小川国夫)、四日市(田村泰次郎)……。

「日本の街道細見」 という地図も付いている。貴重な街道資料である。当時の定価は五百円。編集人は半藤一利。広告も面白い。三菱信託銀行の広告の「貸付信託」を読むと「元金保証」の五年もので年七・一二%。五年で一・四倍とある。

 今、東海道の特集を作るとしたら、日本橋から三条大橋まで一つの宿場町ごとに執筆者を揃えるのは大変だろう。
 できないことはなかなか考えようとしない。予算の範囲、人手の範囲で作れるものを作るしかない。

 古雑誌を読んでいると「こういう雑誌はもう作れないな」とよくおもう。お金や時間のかかる企画は通らない。おそらくテレビの現場もそうかもしれない。

2021/04/09

春の夜の夢

 あっという間に一ヶ月が過ぎる。プロ野球界も新型コロナが広がり、ひいきの球団を直撃する。先週末、野手の数が足りず、二軍の試合が中止になった。ケガ人続出で「ヤ戦病院」と揶揄されていたころをおもいだす。野球を観ていると、負けそうな試合を逆転したり、勝てそうな試合を落としたりというのは日常茶飯事だ。六回までリードしている試合を確実に勝ち切るのが難しい。今年は一試合一試合の勝ち負けを気にせず、のんびり野球を楽しみたい(昨年もそう考えていた)。

 昨日、寝る前に書くつもりでいたことを忘れてしまう。メモくらい残しておけばよかった。

《私は本を読む時には自問ばかりしているから、読むのが遅い》(『橋本治という立ち止まり方』朝日新聞出版、二〇一二年)

 橋本治にとって「面白い本」は「ものを考えさせてくれる本」だった。

《世の中や人のあり方の「多様化」が広がったのは、豊かさのせいかもしれない。しかし、ローカリティというものが生きていた時代、すべてはもっと「多様」であったはずだ》

 言葉が飽和状態というか供給過剰になっている。あらゆる表現がそうなっている。人間の一生の時間では読みきれない膨大な言葉がすでにあり、それが溢れ返り、増え続けていけば、どうなってしまうのか。

 話はズレるかもしれないが、たとえば「多様化」を訴える雑誌がどんどん「一元化」している。ウェブメディアもそうだ。インパクトのあるタイトルを付け、閲覧数を増やす。わかりやすく、読みやすく、結論をまず先に。一週間も考えれば、その結論はいくらでも引っ繰り返せる。しかしそのころ次の話題に移っている。

 今のわたしは話題の移り変わりを追いかける体力と気力がない。というか、面倒くさい。

 この話の続きはいずれまた。

2021/03/31

日光御成道

 金曜日、高円寺環七沿いのバス停から王子行のバスに乗る。前に乗ったのは二〇一九年二月。二年ぶりか。野方を通り、練馬を通り、氷川台を通り、板橋を通り、十条を通り、王子駅ひとつ手前のバス停で下車した。電車で行くより遠回りだし、時間はかかるが、バス楽しい。

 権現坂から飛鳥山公園を桜(満開)を観ながら歩く。公園沿いの本郷通りは日光御成道ですこし歩くと西ヶ原の一里塚がある。
 赤羽、十条、王子あたりも古鎌倉街道といわれている道がある。
 高円寺からは赤羽行きのバスもあり、なんとなく赤羽には親近感を抱いている。

 読書と散歩、そして睡眠——。生活における優先課題になっている。定年後の生活みたいだ。

 庄野潤三著『世をへだてて』(講談社文芸文庫)を読んでいたら、長女の今村夏子さんの「父の散歩」に「一万五千歩より少ない日は、ほとんどありません」とあり、もっと歩こうと……。一万五千歩は難しい。九キロくらいか。

 わたしは晴れの日一万歩、雨の日五千歩を目標にしているが、達成率は七、八割という日が多い。あくまでも一万歩は目標であって、七割くらいでよしとしようとおもっているからそうなる。無理は続かないから、それでいいと考えている。
 人間の心の動きは不思議なもので散歩の途中、万歩計を見たときに七、八千歩くらいだと「今日はこれでいいかな」とおもうのに九千歩くらいだと「あと千歩なら」と一万歩まで頑張る気になる。 

 この心理は何だろう。

2021/03/26

紙とウェブ

 水曜日、神保町。『歴史と旅』(二〇〇一年四月号)の「開道四〇〇年記念特集 東海道五十三次を歩く」を均一台で購入。『歴史と旅』は二〇〇三年に休刊。いっても仕方がないことだが、街道の研究を二〇〇〇年前後くらいに始めていれば……。この時期、江戸の五街道関連の博物館や史料館のイベントがたくさん開催されている。この先も“間に合わなかった感”を抱えて生きてゆくことになるだろう。とにかく今のわたしの目標は雑誌で街道特集を組むときに呼ばれるライターになることだ。十年以内に。

『ウィッチンケア』volume11が届く。今回は「古書半生記」と題したエッセイを書いた。
 二〇一七年に「わたしがアナキストだったころ」、二〇一八年に「終の住処の話」、二〇一九年に「上京三十年」を発表している。同誌では四作目だが、いずれも私小説風随筆である。
 しめきりと文字数さえ守れば何を書いてもいいという条件は、ライターとしては嬉しくもあり苦しくもある。つまらなかったときに言い訳がきかないからだ。結局、自由に執筆できるなら、面白いかどうかはさておき、自分の生きた証を書き残したい。
 わたしの半生を要約すれば、本を読んで酒飲んで原稿を書いてたまに旅して、就職せず、ふらふらと生きてきた——ということになる。

 仮にもし今自分が二十代であれば、そういう生き方は目指さないだろう。わたしの二十代は、ほぼ一九九〇年代と重なっている。定職に就かなくてもアルバイトでもそこそこの暮らしができた。まちがいなく時代の恩恵を受けている。定職につかなかった分、生活は不安定だったが、時間はたっぷりあった。その時間を本と酒に注ぎ込んだ。

 最近、若いライターと話をする機会があると、どこかのタイミングで何か一つのテーマに絞って、自分の看板を作ったほうがいいと助言する。好きなものはたくさんあっていいし、好奇心旺盛であることはわるくない。ただし“何屋”かわからない店だと仕事を頼みにくい。だからまず本業をはっきりさせる。そして自費出版でも何でもいいから形にする。名刺代わりになる作品をつくる。守備範囲を広げるのはそれからでも遅くない。

 もちろん最初からライフワークになるようなジャンルを絞りこめたら苦労はない。人生、乱読迷走期は不可避である。

 今はブログやSNSでも作品は発表できる。どうしてわざわざ紙に印刷しなければいけないのか。触れるか触れないかの差しかないではないか。そうおもう。わたしも漫画や雑誌は電子書籍で買っているし……。
 それでも「これは!」とおもう文章を書く人に出会うと「自費出版でも何でもいい、五十部でもいいから紙の本を作れ」といいたくなる。ネット上の無数の表現から切り離されたモノとして所有したいという気持が強いのかもしれない。

 現在、紙とウェブの仕事が半々くらいになっている。電子書籍の印税もちょこちょこ入る。いまだにウェブの仕事のスピード感にはついていける気がしない。紙の雑誌のテンポのほうが好きだ。

2021/03/23

前途

 三月、暖かい。桜の開花予想、各地で観測史上最も早い記録が出ている。この冬、貼るカイロを三箱(一箱三十個入り)買ったが、このままいくと一箱分くらい余りそう。すこしずつ衣替え、薄手のシャツなどを洗濯する。

 土曜日、東中野に散歩。早稲田通りから小滝橋。小滝橋は上野公園や九段下方面のバスが走っている。地下鉄の東西線とルートは重なっているが、バスは車窓から景色を楽しめる。
 この日は神田上水公園の遊歩道を歩く。けっこう桜が咲いている。花見客がちらほらいる。
 東中野のライフで衣類と食材を買い、電車で高円寺に帰る。だいたい一万歩くらい。

 庄野潤三の『前途』(講談社、一九六八年)を再読する。学生時代に読んだときは「小高」が島尾敏雄(をモデルにした人物)と気づかなかった。島尾敏雄と庄野潤三は九州大学の東洋史科の先輩後輩の間柄だった。『大菩薩峠』、佐藤春夫、長崎高商といったキーワードでやっとわかった。そもそも「小高」という名前自体がヒントになっている。小高(現・福島県南相馬市小高区)は、島尾敏雄の両親の郷里である。
「木谷数馬」は詩人の林富士馬か。

 この作品は主人公の漆山正三が伊東静雄に文学を教わる場面が何度となく描かれている。

《文は人なりという風な文学が本当にいいのだと思います》

 これも伊東先生の言葉——。

『前途』は難しいことがさらっと書かれている小説なのだ。文学だけでなく、あらゆる表現に通底するような話がけっこう出てくる。

 伊東先生は、若き日の庄野潤三(がモデルの主人公)に「とにかく、あなたはずっと文学を続けて行きなさい」という。

《近くの野原で坐って、煙草を吸いながら話していたが、それから田辺へ行く。途中、お酒飲む金でどんどん旅しなさいと云われる。いまごろ、どこかの小さい町の宿にいたらいいだろう。身も心もなく、見知らぬ土地を歩いていたら——》

 酒飲む金でどこかに旅か。若いころにそうしていれば、今とは別の人生になっていたにちがいない。

 酒の席で失敗するたびにこの言葉を思い出す。

2021/03/18

羅針盤

 思考の筋道を正確に書こうとすると、話があちこちに飛ぶ。わたしは中村光夫の批評が好きなのだが、読んでいるとけっこう振り回される。書きながら考え、考えながら書く人だからだろう。

《人間は元来、群をなして生きる動物です。だから僕らの意識は群のなかで自分の占める地位を、いつも鋭敏に感じるようにできています。
 僕らが行動する場合にも、自分の考えにしたがうより、他人の考えによることが多い、というと逆説めきますが、あることをするとき、それが自分の眼にどう映るかより、他人たちにどういう効果を生ずるかを考えるのは、僕らにとって、自然なことです》(「自分は大切か」/中村光夫著『秋の断想』筑摩書房、一九七七年)

「自分は大切か」は、近代における個人と集団の関係を論じたエッセイである。自分の行動の規範を持つには、船でいうところの羅針盤がいるという。

《群居する人間が、自分のなかに行動の基準を持たず、もっぱら他人の指図にしたがい、あるいは彼らを模倣して行動するのは、ちょうど、船隊の一隻として進む船のようなものです。こういう生き方をする人々は、彼らの内面に規準を持たなくとも、他人に倣っていれば、誤りなく目的地に、比較的骨を折らずに達することができます。全体の動きを導く指揮者は、彼自身より錬達である場合が多いからです》

《各自の羅針盤を持つということは、このような全体の動きから自分を切り離し、独自の進路を自分の判断できめて行くことで、たんに骨が折れるという点から見れば、前者よりずっと厄介な仕事なのです》

 さらに中村光夫は「自分」を「多くの他人の影響の複合体」と定義する。

《自分の内心の声を聞いたつもりでも、実は時代の流行を追っていたにすぎないという経験は、おそらく誰にもあるでしょう》

 中村光夫は「誰にもあるでしょう」というが、たいていの人はそのことに気づかない。

 話はズレるかもしれないが、自分の羅針盤——自己判断は絶対ではない。わたしもそうだが、自己本位で何でもかんでも選択、決断しがちな人は、周囲の人の助言や苦言を無視する傾向がある。病院に行かず、症状が悪化するまで放置したり、次の職のアテがないのに急に仕事をやめたり……。

 自分の羅針盤をちゃんと機能させるには、知識や経験だけでなく、自分の得手不得手、向き不向きを知る必要がある。自分の判断を過信せず、時には周囲の意見とすり合わせていくことも大事だ。

 中年になると、自分が間違った方向に進んでいても、忠告、注意してくれる人がだんだんいなくなる。気をつけないと。

2021/03/16

黄色いやづ

 日曜日、仙台。七北田宿を歩いて、仙台文学館に寄る。昨年十一月の京都以来、約四ヶ月ぶりの遠征。一泊二日で宮城、福島、栃木の宿場(奥州街道)を疲れない程度にちょこちょこ歩いた。それでも筋肉痛になる。
 福島の街道は、会津方面、いわき方面——行きたい場所がいっぱいある。

 出発前に『黄色いやづ 真柄慎一短編集』(フライの雑誌社)が届く。挿画はいましろたかしさん。鮮やかな黄色い表紙の本(気合の箔押!)。わたしは解説を担当。真柄さんはこの十年くらいずっと注目していた文章家(釣人)です。心にしみる作品揃い。

 わたしのお気に入りは「あの頃の電車通い」という短篇である。

《月の半分はバイトして、もう半分は釣りのための生活だった。日銭を手にしては車に飛び乗るのではなく、始発電車に飛び乗るのだ》(あの頃の電車通い)

 電車の中でも釣りのことを考えている。車窓から谷間の川を眺め、どの駅で降りるかを決める。淡々と釣り場に向かうまでの様子が綴られている。釣りに行く交通費や釣り道具を買うお金を捻出するためにアルバイトを頑張る。何かに突き動かされているかのようにフライフィッシングという釣りにのめりこむ。
 川辺での高校生とのやりとりも微笑ましい。

『黄色いやづ』は山形で釣りをはじめた少年時代の回想から、上京後、アルバイト(一時期、無職)時代を経て、結婚や就職を経て父親になり、釣りにもおもうようにいけなくなるボヤキまで、良質な私小説の連作短篇としても読める。

『フライの雑誌』の堀内さんは、十年以上にわたって真柄さんに原稿を依頼し続け、発表の場を提供してきた。そしてこの短篇集を現代版の「ニック・アダムス物語」(ヘミングウェイ)だと——。そのくらい素晴らしい。いや、それ以上かも。

2021/03/12

雑誌の街道特集

 金曜日、西部古書会館。ひさしぶりに午前十時すぎに行く。今回も街道関係の資料が多かった。『旅』一九七六年十一月号。特集は「街道と宿場」。東京と三重県松阪を結ぶフジフェリーの広告があった。フェリーの名前はいせ丸としま丸だ。東京−松阪航路が廃止になったのはわたしが小学四年のときだから一九七九年。一度も乗ったことがない。復活は……むずかしいか。
 ネスカフェゴールドブレンドの広告は指揮者の岩城宏之が白いセーターを着ていて、乳首が透けている。

 このころ『旅』で富士正晴が「藪の中の旅」、開高健が「わがフォークロア」(対談)を連載していた。

『歴史と旅』(九七年五月増刊号)の特集は「古街道を探検する」。「東海道伊勢路五宿」は「石薬師、庄野、亀山、関、坂下」のこと。わたしの郷里近辺の宿場町のレポートだ。もともと東海道は四日市の次が亀山で鈴鹿市内の石薬師宿と庄野宿の二宿は新しくできた宿場町である。

《新参者の両宿には悩みがあった。なによりもまず、地の利が悪かった。当時、庶民の旅といえば伊勢参宮が多かった。東国からくる参詣者は、日永の追分から参宮街道に入り、西国からくる参詣者は、関宿から伊勢別街道を通ったからこの二宿はかすりもしない》

《村というには家並は多く、町というには少なすぎるいまの庄野に、通過駅としてのわびしさを重ねてみた》

 さらに補足すると、石薬師、庄野はJR関西本線なのだが、鈴鹿は近鉄沿線のほうが町が栄えている。県外からJRで来た人は、庄野宿に寄った後、バスで近鉄の平田町駅のほうに行けば、飲食店もあるし、ホテルもある。ただし観光の要素はなきに等しい。

 江戸方面から伊勢神宮に向かう人は日永の追分から伊勢参宮街道を歩く。鈴鹿でいえば、今も市役所などがある神戸(かんべ)を通った。もよりの駅は近鉄の鈴鹿市駅。こちらは古い寺社町で城跡が公園になっている。「東海道中膝栗毛」で弥次喜多が通ったのも神戸である。

 同誌には「東海道七里の渡し」(日下英之)という記事も。常々春から秋の土日祝だけでも熱田と桑名を結ぶ「七里の渡し」を復活させてほしいとおもっている。たぶん東海道観光の目玉になるだろう。

2021/03/11

どんぐり

 水曜日、神保町。靖国通り沿いの古書店で『永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺』(新潟市美術館、一九八九年)を買う。そこそこ状態がいいのに均一台にあった。書き込みがあるのか——家に帰って調べる。蛍光灯の光が当たると、表紙に筆圧の強い字で手紙か何かを書いたような跡が見えた。おそらく図録を下敷にしたのだろう。これも“痕跡本”か。

 西脇順三郎は一八九四年新潟県北魚沼郡小千谷町生まれの詩人。一九二四年に英国人の画家マージョリ・ビドルと結婚(後、離婚)。この図録にはマージョリの絵も何点か収録されている(離婚後の絵も)。

 わたしは絵の良し悪しがわからない。

 寺田寅彦、中谷宇吉郎『どんぐり』(山本善行撰、灯光舎)をゆっくり読む。寺田寅彦の「どんぐり」から、一篇はさみ、中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」につながる。いろいろ感想が浮んだが、今は余韻に浸りたい。

 二十代のころ、寺田寅彦の短文をひたすら模写していた時期がある。

《思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要という場合もあるかもしれない》 (『柿の種』岩波文庫)

 わたしの「かもしれない」多用癖は、寺田寅彦の影響……かもしれない。

 前にどこかに書いた気がするが(書いてない気もするが)、高校の物理の老先生が寺田寅彦の弟子の平田森三の元助手だった。授業中、何度となく寺田寅彦の名前を聞いた。わたしは居眠りして定規で「この庄助!」とよく叩かれた。寺田寅彦を読むとその物理の先生を思い出す。

2021/03/09

政治は妥協

  渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社)の「Ⅱ インタビュー」の章は何度読んでもいい。わたしは所収のインタビュー「二つに割かれる日本人」を『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬号)で読み、このブログ(「残りの一分」二〇一六年九月十八日)で紹介した。すでに『さらば、政治よ』は刊行されていたが、ブログ公開時には未入手だったため、「二つに割かれる日本人」が本書に収録されていることを記せなかった。

——今回も前回と同じ部分を引用する。

《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》

 一見、理想を求めることはよいことのようにおもえるが、弊害もある。水清ければ魚棲まず——少数の清く正しく賢い人しか住めない理想社会は、そこに適応できない人にとって苦界となる。

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》

 わたしの政治観も渡辺さんの意見と近い、というか、ほぼ同じなのだが、もしかしたら「妥協」という言葉をよくない意味にとらえる人もいるかもしれない。

 ラ・ロシュフコーに「(ほとんどの場合)美徳は悪徳の偽装に過ぎない」という箴言があるが、わたしはそこまでいうつもりはない。

 何事にもどっちつかずであやふやな立場の人、いいかげんなものやくだらないものが好きな人が許される世の中がわたしの理想である。今は妥協している。

(追記)理想社会について、あれこれ考えているうちに戦後の日本は他力というか敗戦の結果とはいえ、短期間のうちに社会が改良された例ではないかという気がした。このテーマに関しては、結論は保留ということで。

2021/03/07

理屈と感情

 久々にWEB本の雑誌の「街道文学館」を更新。昨年十一月の京都と三重の旅。

 この一週間、廣岡大志選手と田口麗斗選手のトレードの件で脳と心を酷使した。チーム事情からすれば、投手の補強のため、野手を出すのはやむをえないと理屈では納得しつつ、感情ではヤクルトのユニフォーム姿の廣岡選手が見れなくなって残念におもう(とはいえ、ヤクルトのユニフォームを着た田口選手を見た途端、応援したくなっている)。

 五日午後、荻窪まで散歩。古本と晩メシの食材を買う。阿佐ケ谷と高円寺のガード下を歩いているとき小雨が降ってきた。

 六日午後、西部古書会館、街道本充実。『特別展 開設四百年 中山道武州往来』(埼玉県立博物館、二〇〇二年)など。埼玉県は中山道だけで九つの宿場町があった。埼玉の市の数が多いのは、中山道、日光街道、川越街道など、宿場町が多かったからという説がある。

  渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間よ』(晶文社、二〇一六年)を再読。

《そこで私はひとつ提案をしたい。東京に住んでいる職業的な文筆家は、みなてんでに気に入った地方都市に移住したらどうか。一歩進んで農山村に住んでみたらどうか》(「物書きは地方に住め」/同書)

  郷里の三重にいたころ、「東京」という言葉は単なる都会の記号だった。今でも「東京が好きか?」と訊かれてもピンとこない。しかし「高円寺が好きか?」と訊かれたら「もちろん」と即答する。渡辺さんの提案にたいし「東京」を自分の暮らす町の名前に変えた途端、わたしの答えはかなり強めの「ノー」となる。

 何度となくこのブログで地方移住のことを書いている。収入が減るたび、このまま今のところに暮らし、家賃を払い続けることができるのかという不安が頭をよぎる。しょっちゅう地方移住のメリットとデメリットを考える。地方ではなく、もうすこし家賃の安い郊外に住み、古書展のときだけ電車で通えばいいではないか。本はネットで買えばいいではないか。

 理屈ではそう考えられても、感情が出す答えは別ということはよくある。

2021/03/04

早稲田古本村通信の話

 もう三月。昨年の今ごろはマスクが買えなかったり、トイレットペーパーが売り切れの店が続出したりした。あれから一年。

 復刊した「早稲田古本村通信」(メールマガジン)毎号面白い。古書現世の向井透史さんの古本の話、昔、BIGBOXの古本市でセドリしたある署名本を千五百円で古書目録に載せたところ、とんでもない数の注文が……。

 失敗をくりかえし、悔しいおもいをしながら仕事を覚える。

 インターネットの古本屋が普及する前、古本の値段は店ごとにかなり幅があった。なぜこの本はこんなに高いのだろう。稀少価値か、それとも何か他に理由があるのか。それを知ることも古本屋通いの楽しみのひとつだった。

 わたしが「早稲田古本村通信」で「男のまんが道」を書きはじめたのは二〇〇五年秋、かれこれ十五、六年前だ。出来不出来はさておき、月一回、テーマに沿った原稿を書くことは勉強になったし、連載中に最初の単行本も出た。その後「高円寺だより」というエッセイも「早稲田古本村通信」に書いた。連載前に向井さんから「若い人向けの文章を書いてみませんか」といわれた。当時、読者として想定していた若者も四十歳くらいか。いまだに君づけで呼んでしまう。前田君とか。

2021/02/28

休カン日

  金曜日、西荻〜荻窪の古本屋をまわる。街道関係とラジオ関係の資料を買う。荻窪の南口の住宅街のほうも歩いたが、高円寺と比べて町が大きいかんじがした。
 月末の仕事で気力がややすり減ったので、藤子不二雄Ⓐ著『Ⓐの人生』(講談社、二〇〇二年)の「休カン日をつくろう」を再読した。

《“休カン日”といっても、“休肝日”のことではない。(中略)ぼくのいう休カン日というのは、休感、つまり感覚を休める日のことである》

 気がつくと起きているあいだずっと文字を読み続けている。目が疲れる。頭も疲れる。何より精神衛生によくない。
 三十代以降、Ⓐ先生の教えにならい、ぼーっとしたり、散歩したり、とにかく言葉と離れる日を作るようにしている(よく忘れるが)。

 同書には「一人でいる時間」というエッセイもある。子どものころは人付き合いが苦手だったが、三十歳すぎてから「仕事でも遊びでも、さまざまな人たちとつきあうよう心がけた。若いころは文学青年をきどって、フザケタことを軽蔑していたぼくだが、中年になると、“遊び大好き人間”になった」という。

《たしかに人間には一人でいる時間を持つことは必要だ。一人で自分を見つめ直し、そのうえで自分にアクセルをかけたり、ブレーキを踏んだりしなければならない。冷静に自分を客観視して、ハンドルを調整しなければ、人間は暴走してしまう》

 エッセイには虚実がある。Ⓐ先生はトキワ荘時代から(若手漫画家たちの中では)社交性があり、ムードメーカーのような存在だったという話もある。いっぽう文学青年だったのは事実で、二十代の日記には尾崎一雄や梅崎春生の名前も出てくる。
 疲れがたまると感情の自制が効かなくなる。暴走しないためには休んで気力と体力を回復させるしかない。そのためにも週に一日くらいは“休カン(感)日”を作る。一日のうちにも、気持を鎮め、何も考えない時間があるのが理想だ。

 そんなこんなで二月も終わり。冬眠期終了。といっても急発進はしないつもりである。毒蛇はいそがない。

2021/02/24

集団思考

 月曜日、二月というのに日中の最高気温は二十三度。阿佐ケ谷まで散歩し、味噌と野菜を買う。町に出ると半袖の人を何人か見かけた。都内の新型コロナの感染者数も減少傾向か。

 埴谷雄高著『薄明のなかの思想 宇宙論的人間論』(筑摩書房、一九七八年)の「政治について」にこんな一節がある。

《ちょうど文学がひとりの個人が感じ、見たところのものの延長にのみ築きあげられるのとまったく対照的に、政治は自らが感じ、見たところのものではなく、他人が見て感じたところのものの上にのみ支えられている——(後略)》

 そして「他人の見て感じたところのものが真実であるか否かは、多くの場合、判定不可能であるので、その真実の基準は、彼が同一党派にあるか否かでたちまち決定されてしまう」と論じる。

 ある特定の集団のスローガンがあり、そのスローガンに自分の思考を重ねる。いつの間にか集団の思考に染まり、自らが信奉するスローガンに呼応しない人間を敵視するようになる(傾向がある)。集団思考の人は「世のため人のため」という感覚が、個人主義者よりも強い。いっぽう同じスローガンを掲げる同志(他人)が批判されたときに、まるで自分が攻撃されたかのような痛みをおぼえる。 

 なぜ戦前戦中の軍国主義者があれほど「非国民」をなじったか。「自分=国」の軍国主義者にとって「国にたいする批判=自分にたいする攻撃」と錯覚したからだ。

 他人の痛みを自分の痛みのようにおもうことは、心優しく想像力豊かでいいことのようにおもえるが、自我が拡大、拡散していくにつれ、集団思考に感染しやすくなる。文学者だって例外ではない。

 たとえば、プロ野球のファンが、自分のひいきのチームがひどい負け方をしたときに感じる心の痛みを想像してほしい。
 わたしはまるで自分のことのようにつらい気持になる。ひいきのチームの選手が死球でケガをしたら、ボールをぶつけた相手の投手にたいし、怒りをおぼえることもある。

 ライトスタンドにいるときのわたしは集団思考に感染している。応援してる球団の選手のことを(相手はこちらのことをまったく知らないにもかかわらず)家族や友人のように錯覚している。

 ただし、しょせん野球である。片方が勝てば、もう片方が負けるゲームだ。負けるたびに絶望していたら身が持たない。だから明日のために気持を切り替える。自分の仕事は野球ではない——と我に返る。

 政治の場合、自分の日常と地続きになっている分、そうした気持の切り替えがむずかしい。今はSNSが普及し、ひとりの時間でさえ、他人とつながってしまう。どんなに警戒してもしすぎることはない。

2021/02/20

ワインかブドウ酒か

 円地文子、吉行淳之介、小田島雄志『おしゃべり・えっせい』の「シリーズⅠ」(朝日新聞社、一九八四年)所収の田中小実昌がゲストの「まじめになるとき」を読む。先日、「シリーズⅡ」を古本屋で見つけ、「シリーズⅠ」も読みたくなり、ネットの古書店で注文していたのだ。
 何を飲むかという話からはじまって、田中小実昌は「白ワインね。できればドライなヤツを」と注文する。すると——。

《円地 このごろみんな「ワイン」って言うのね。わたしなんかブドウ酒って覚えているんだけど。
 吉行 体にこもりますね。でもどうしてワインなんて言い出したの?
 田中 いや、強いの飲むと、すぐ酔っぱらっちゃうんですよ》

 田中小実昌は家で飲むブドウ酒を一度に百本(一升瓶)買うという。

《田中 もう何年も前からですよ。十年ぐらいになりますよ。
 小田島 それはどこのものですか
 田中 山梨県です。甲府市ではないんです。
 小田島 茶色いようなやつですか。
 田中 そうそう、茶色です。赤でもなきゃ白でもない。茶色です。絞りかすです》

《田中 だからデパートなんかでも売れないブドウ酒なんですよ。今は密造酒はほとんどないみたい。あれはね、刑が重いらしいんですよ。だから、ばからしくて作れないんですって》

 この座談会を読んでしばらくして田中小実昌著『ほろよい味の旅』(中公文庫)が刊行された。
「酔虎伝」の章は山梨のブドウ酒の話がけっこう出てくる。

《山梨県からブドウ酒を送ってもらうようになって、もう十年以上たつ。(中略)一升壜にはいったそのブドウ酒は赤でもなく白でもなく、またローゼのようでもなく渋茶色、おまけに壜の底に澱がたくさんたまっていた。こんなブドウ酒はデパートの食品売り場あたりでは売れない》(ノンベエむきのブドウ酒)

「ノンベエむきのブドウ酒」は『おしゃべり・えっせい』の座談会と重なるところが多い。
「甲州産ブドウ酒」というエッセイでは甲州のブドウ酒を「一升壜で四十本ぐらい」送ってもらうと書いている。

《ブドウ酒の前は日本酒を飲んでいた。「千福」の二級酒だ。ぼくは、もとは軍港だった広島県の呉市でそだった。「千福」は呉の酒で、そっけない味がいい》

 田中小実昌が飲んでいた一升壜のブドウ酒は山梨県勝沼産だった。
 エッセイではブドウ酒と書いたり、ワインと書いたりしている。

「喉とおりのいいブドウ酒」では、シアトル、サンフランシスコ、オーストラリアで飲んだときはワイン、うちに帰って飲むのは山梨のブドウ酒といったかんじだ。 外国産はワイン、国産はブドウ酒と書き分けている……のかもしれない。

 『おしゃべり・えっせい』の「まじめになるとき」では、吉行淳之介と田中小実昌とのあいだでこんなやりとりがある。

《吉行 この人ね、何のときにまじめになるかというと、英語のとき。
 田中 ハハハハ。
 吉行 ぜったいまじめなことを言わない人なんだけど、ぼくが英語のことを質問すると、必ずちゃんと電話がかかってきてね。それはふしぎな男よ。英語以外はまじめにならない人なんだ》

2021/02/14

心理の深所

 昨夜二十三時すぎ、福島と宮城で震度六強の地震。東京は震度四だが、長い揺れだった。積んでいた本が崩れた。

 二月というのに暖かい。日中の最高気温の予想は十八度。貼るカイロなしの日が続いている。
 日曜日、西部古書会館、ようやく今年の催事の予定表を入手。後藤裕文著『伊勢・志摩路』(有峰書店、一九七三年)、山本偦著『歴史再発見の旅 峠の旧街道テクテク歩き』(講談社、一九九二年)、酒井淳著『会津の街道』(歴史春秋社、一九九三年)など。

 自分の地理と歴史の知識は穴ぼこだらけだ。郷里のことも知らないことばかり。旅をしてもその土地の歴史を知ろうとしなかった。何をするにも時間が足りないとよくおもう。いっぽう今さら急いでもしゃーないという気持もある。

 枕元の近くに積んでいて崩れた本の一冊、中村光夫著『自分で考える』(新潮社、一九五七年)をパラパラ読む。「現代の表情」は新聞に週一回連載していた断想である。

《旅行者の感想は、それがどんな一般的真実の形でのべられていようと(あるいはそうであればあるほど)実は彼個人の印象にすぎないことを忘れて読むと、とんだ喜劇や不幸を生みかねません》

 これは一九五〇年代にソ連や中国を旅行した人たちの土産話、ジャーナリズムにたいする中村光夫らしい皮肉だ。

 ある国の人たちの「心理の深所」を外国からの旅行者がどれだけ探れるのか。何年その国にいようが、わからないことがわかるだけ——。

《南千島をソ連にゆずれば、アメリカは沖縄を領有する権利があるといったダレスの言明は、政界にも大きな衝撃をあたえたようですが、考えて見ればこれはいかにも戦争中ソ連の同盟国であったアメリカの言いそうな理屈で、なぜそれを予想できなかったかということの方がむしろ問題でしょう》

 ダレスはアイゼンハワー大統領時代の国務長官ジョン・フォスター・ダレス。日米安保や北方領土問題が語られるさい、よく目にする名前だ。わたしは一九五〇年代の国際政治について、というか、東西冷戦期に関して今の感覚でとらえてしまっているところがある。敗戦国の現実がピンとこないのは平和ボケの一種だろう。漠然と、茫洋としか時代状況を把握できていない。

《国家が存在する限り、その行動の基本は何時の時代にも集団としてのエゴイズムでしょう》

《僕等にはとかく個人のつきあいと同じ気持で外国との関係を考える癖があり、自分の方で親愛感を持てば、相手もそれに応じてこちらのために計ってくれるように思いがちです》

《今日の国論を二分している「親米」「親ソ」の動きも、戦時中の「親独」「親英」と同じように感情的なものだとしたら、僕等は敗戦の経験から、何も学ばなかったことになります》

《資本主義でも共産主義でも、国家間の関係を決定するものは各自の利害と力であり、その間に処して、自分の利害を見失った国民はやがて独立の看板も外されるほかないのです》

 利害と力、エゴイズム——「親米」「親ソ」は、今は「親米」「親中」か。アメリカにたいしても中国にたいしても、甘い幻想を持てば、痛い目を見る。

2021/02/06

汽車に乗り遅れて

 金曜日、荻窪の古書ワルツので円地文子、吉行淳之介、小田島雄志『おしゃべり・えっせいⅡ』(朝日新聞社、一九八四年)を買う。『銀座百点』のホストが三人の座談集。シリーズ「Ⅰ」のほうは尾崎一雄や田中小実昌もゲストだった。

 シリーズ「Ⅱ」のゲストは服部良一(作曲家)、大庭みな子(小説家)、小沢昭一(俳優)、田代素魁(画家)、木の実ナナ(俳優)、和田誠(イラストレーター)、江國滋(随筆家)、山口瞳(小説家)、暉峻康隆(国文学者)、太地喜和子(俳優)、加藤芳郎(漫画家)、佐多稲子(小説家)、佐野洋(小説家)、山本紫朗(プロデューサー)、宮尾登美子(小説家)、丸谷才一(小説家)、奈良岡朋子(俳優)、飯沢匡(劇作家)、吉村昭(小説家)、斎藤茂太(医者)、東海林さだお(漫画家)——。

 日劇のプロデューサー、山本紫朗がゲストの「レビューの華やかなりし頃」は興味深い話がいろいろあった。

 戦争末期、山本は新潟で長谷川一夫、笠置シズ子、芳村伊十郎らといっしょにいた。

《小田島 豪華メンバーですね。
 山本 どうしてそこへ行ってたかというと、はじめ北海道へ渡るはずだったんです。それが笠置がちょっと汽車に遅れたんです。
 小田島 ああ、それで助かったという》

《吉行 さっきの、船に乗れなかったという話、もうちょっと詳しく話してください。
 山本 いや、長谷川さんたちの一行が、北海道に渡るために青森で青函連絡船に乗るはずだったが、笠置シズ子が汽車に乗り遅れたために、それを待っていたのです。その船が爆撃されて沈んじゃった》

《円地 でも、運がいいですねえ。
 吉行 笠置さんがブギウギで大スターのころ、日劇の楽屋でインタビューしたことがあるんです。
 小田島 「モダン日本」のころ。
 吉行 そう。きちんとした、遅れそうにない人だったですよ(笑い)。
 山本 それが上野へ遅れてきた。それで結局、待っていたために爆撃に遇わずにすんだ、と》

 ちょっとしたことで助かったり、助からなかったり。ふだん遅刻しない人が遅刻したおかげで沈む船に乗らずにすんだ。でも逆に遅刻したせいで沈む船に乗ってしまうこともある。戦時中ではないが、今だって人はこうした運不運の分れ道を歩んでいる。人間万事塞翁が馬。だから遅刻に寛容になろうという話ではなく、いやまあそういう話だ。

 あと昔の日劇の話で山本紫朗が踊り子にヘソが出る衣装を着せようとしたら、みんな泣いて怒ったという話も時代のちがいを感じた。ところが、ミニスカートが流行したときは平気ではいた。そのあとヘソを出すことに抵抗がなくなったと……。

2021/02/04

運だらけ

 水曜日、神保町。草思社文庫の二月の刊行予定を見ていたら、古山高麗雄著『人生しょせん、運不運』と北村太郎著『センチメンタルジャーニー ある詩人の生涯』があった。どちらもわたしの愛読書である。二冊とも絶筆となった自伝風エッセイだ。

《人生とは、運だらけ、自分ではどうにもならないものだらけ、ではありませんか。選択は自分の意思であり、それが招来したものについては、当然、引き受けなければならない、なんて、えらそうなことを言ってみても、選ぶ、ということは、自分の力の及ばない“流れ”の中にあり、“運”の中にある。(中略)人は、自分が選んだのだから引き受けなければならないのではなく、選ぼうが選ぶまいが、自分にふりかかって来るものを、引き受け、付き合って行かなければならないのです》(『人生しょせん、運不運』)

 わたしも物事を考えるときに運や偶然の要素をわりと重視している。古山さんの影響もあるだろうし、もともとそういう気質があったから古山さんの作品を愛読するようになったともいえる。

 生まれた時代、場所、親などは選べないが、何かと制約はあるとはいえ、自分の進路や仕事を選べた境遇というのは幸運なことだ。一年早く、あるいは遅く生まれるかで人生は大きく変わってしまう。いっぽう年々自分の力の及ばないことをあれこれ考えたり、意見したりするのが億劫になっている。

 古山さんは「あなたは若いんだから運命論者になってはいけない」と二十代のころのわたしにいった。時々この言葉の意味を考える。「しょせん、運不運」かもしれないが、その結論に至るまでには膨大な思索と迷いがある。そもそも運の見極めはとてつもなく難解であり、おそらく一生わからない。この本自体、未完の遺作だから結論はない。おかげでその続きを想像する楽しみがある。

2021/02/02

元気です

 一月三十日(土)、ひさしぶりに北品川のKAIDO book&coffeeへ。いつ来ても街道本が充実している。北から南まで地域ごとに本が並んでいるのもいい。この日は雑誌『つくづく』の取材で品川宿の旧街道を歩きながら雑談した。どんな記事になるのか、いつ雑誌が出るのかわからないが、楽しかったからよしとする。

 日曜日、西部古書会館。けっこういい本が百円、百五十円で売っている。安すぎて心配になる。

 先週、部屋の水まわりの工事があって、他にも調子のよくないところをいろいろ直してもらっている。午前中から工事の人が出入りしている状況で、本の移動やらなんやらで腰痛の兆候もすこしあったりして、そのせいでブログの更新が滞ってしまった。とりあえず元気です。仕事もやってますが、終わりません。今頑張っているところです。仕事をしながらカレーを作っていたら鍋をこがした。何とかリカバリーした。

 昨年の春に五十肩になったときもおもったのだが、とくに面白いことや楽しいことがなくても、これといった問題のない日々を送れることは幸せなのだな。やっぱり無事がいちばんです。

 都内の新型コロナの感染者も減少傾向——やはり二月が正念場か。こんなに春が待ち遠しいとおもったことはちょっと記憶にない。

2021/01/23

どう転んだところで

 木曜日夕方神保町。神田伯剌西爾でマンデリン、家に帰って三時間くらい寝て朝まで仕事する。

 鮎川信夫の『最後のコラム』(文藝春秋、一九八七年)に古井由吉の『「私」という白道』(トレヴィル)の感想を述べたコラムがある。鮎川信夫が私小説について論じているのだが、深く頷いてしまう内容だった。
 葛西善蔵とその心酔者について「有用なことは一切ダメだが、かかわりあった女を不幸にすることなら誰にも負けないぞという、ヘンな勇者が結構いたのである」と述べる。
 そして日本の文学史の裏面に「現実に負けてもへこたれない連中」がいたことを懐かしむ(褒めているわけではない)。

《一言でいえば、彼等の文学は「失敗」の讃美である。世の成功に対する強い不信が根底にある。人を惹きつけるのも、人を逸らすのも、そこを基軸としている。どのみち、人生に正解はないというおかしな確信。成功も失敗も等しく仮象である。どう転んだところで人間に変りはないという諦念乃至無常観が、その支えになっている》

 すこし前に青森県近代文学館の『葛西善蔵 生誕130年特別展』のパンフレットを『フライの雑誌』の堀内さんが送ってくれた。
 同パンフレットには全集未収録の「帰郷小感」(『青年』大正十三年九月)も全文掲載されている。
 父の三周忌に郷里に帰った葛西善蔵は「或る特殊な思想」を持った何人かの青年たちと会う。

《君等は恵まれてゐる青年達だ。君等の思想にも理解は持てる筈なんだが、同時に地方教育のため、産業のため、大ざつぱに云へば、文化のために小反抗を捨てゝ、和衷協同の大道に立つて貰いたいものだと僕は涙を持つて言ひたいのである》

 葛西善蔵にもそういうおもい(だけ)はあった。いろいろな意味でもらい泣きしそうになる。
 年に何日か私小説しか読めない日がある。何もする気になれない日に失敗の結晶のような作品を読むと妙に安心する。それにしても「現実に負けてもへこたれない連中」っていい言葉だなあ。

2021/01/18

冬の底

 毎年「冬の底」と名づけている時期がある。一月の終わりから二月のはじめのあいだの数日、頭の中がもやに覆われたようになり、気力がゼロに近くなる。寝ても寝ても眠く、朝七時ごろ寝て夕方ちょっとだけ起きてまた寝て夜の十時ごろ起きるといったかんじになる。
 例年一日か二日かくらいで過ぎ去り、すこしずつ調子が戻ってくる。「また今年も来たか」と諦めるしかない。完全休養日と割り切っている。
 昨年は一月二十四日から二十五日にかけてがそうだった。「頭蓋骨に膜がはっているかんじがして頭がまわらない」と書いている。
 近年では「夏バテ」ではなく、「冬バテ」という言葉もあるようだ。気温の低下、寒暖差による疲労などが原因といわれている。
 解決策は栄養と休養しかない。不調のときに焦らないこともすごく大切だ。誰にだって調子のよくない時期はある、よくあること——とおもうことにしている。

 津田左右吉の「日信」一九二六年一月分をパラパラ読む。

《カアテンをあげて、ガラスごしの日光を背に浴びつゝ読書をしてゐると、からだだけは春にあつややうにあたゝかであるが、手さきがつめたい。(中略)あたゝかいやうな、寒いやうな、調子の整はぬ感じが自分を支配している》(一月四日)

《カアテンを少しおし開けて、そこから入つて来る日光をからだに受けてゐると、非常にあたゝかい気がする。ちやうどすきま風がひどく寒く感ぜられると同様である。人間の幸福もこんなものではないかと思ふ。幸福は小さいがよい。せまい窓からさし込む明るい日光と同様、生活のどの部分かにそれが感ぜられるだけの程度のがよい》(一月七日)

 冬のあいだ、津田左右吉はカーテンの隙間からの日向ぼっこをするのが好きだった。ここ数日、カーテンを開けてなかったことに気づく。

《せなかに日光をうけて机に向つてゐると、うとうととねむくなる。眼をあけてゐるでもなし、閉じてゐるでもなし、半ばゆめみごこちでゐると、此のせまい部屋が限りなく広い世界のやうでもある》(一月二一日)

《目がさめたまぎはにはもう少しはつきりしてゐたが、いま書こうと思ふと、殆ど書けない程にぼんやりしてゐる》(一月二十八日)

《仕事にも考へることにも気分といふものがある。それは一つの調子である。調子の無い音楽が成り立たぬやうに、気分の整わぬ仕事は出来ない。今日の僕は調子のない楽曲を作らうとするやうであつた》(一月三十日、三十一日追記)

 津田左右吉のような大学者でもこんなかんじで苦労していたことを知ると安心する。

 インターネットで「冬バテ」対策を検索したら、肉を食べたほうがいいとあり、 夜、豚バラとしょうがをたっぷり入れたとん汁作る。食べたらすこし元気が出た。

2021/01/16

視野の狭さ

 アンディ・ルーニー再読。「政治は子どもの遊びか?」と題したコラムがある(『下着は嘘をつかない』北澤和彦訳、晶文社)。「わたしは民主党員です」という十一歳の子どもからの手紙へのアンサーとして書かれたコラムだ。ルーニーの父は「いつも共和党に投票していたが、熟慮の末ではなかったと思う」と回想し、ルーニー自身、両党の細かな相違点は「訊かないでいただきたい」と記す。

《ふたつの政党のちがいを訊いたとき、父は、民主党は外国がアメリカで売ろうとして輸出する製品の輸入関税を下げようとし、共和党は外国製品を締め出すために関税を上げようとする、と教えてくれた》

 アンディ・ルーニーは一九一九年生まれ。彼の子どものころの話だから、一九三〇年前後の話だろう。今のアメリカでもその傾向があるようにおもえる。

《自分の応援していた候補が落ちると、われわれはその敗北を耐え忍び、世の中は実際にそう変わるまいと確信してまた仕事に出かける》

 彼自身はどちらの党も支持しない。政党に関係なく、現職の大統領に反対の立場をとる——と他のコラムで書いている。常に「中立」でいることが彼の政治信条だった。

「共和党派か民主党派か」(『人生と(上手に)つきあう法』井上一馬訳、晶文社)と題したコラムに以下のような一節がある。

《民主党支持者は、(私が勝手に思うには)、リベラルで、性善説を取り、自分たちの生活をまもるために政府の助けが必要だと考えている。(中略)さらに貧乏人と無学な人間は不平等な制度の犠牲者であり、その人たちの環境は自分たちが手を差しのべれば、改善されると信じている》

《共和党支持者は、(私が勝手に思うには)、保守的で、人間が性悪説を真摯に受け止めることがもっとも大切なことだと考えている。(中略)彼らは貧乏人に対して無感覚というわけではなく、貧乏人は働こうとしないから貧乏なのだと考える傾向がある》

 四十年くらい前のコラムだから、今はちがうかもしれない(そんなに変わっていないかもしれない)。 「視野の狭さ」(『人生と(上手に)つきあう法』所収)というコラムにはこんな言葉がある。

《(人間は)明日の安全のために今日の人生の楽しみをなんらかの形で犠牲にすることを快しとしない》 

 わたしはちがうといいたいところだが、自信がない。

2021/01/12

やる気はないが、体力はほしい

 一月八日から二月七日まで東京、神奈川、埼玉、千葉の一都三県で緊急事態宣言。気温と湿度の低い冬のあいだは新型コロナの感染拡大を抑えるのは難しいだろうが、何もしないよりマシか。寒いのでわたしは家にいる時間が長い。本読んで寝てばかり。数日前、腰に違和感をおぼえ、腰痛の三歩手前と察知し、安静を心がけていたら、朝寝昼起から昼寝夜起になり今は夜寝朝起になる。

 一日中、頭がぼーっとしているので「こういうときは漫画だ」と吉田秋生の『詩歌川百景』(小学館)を読む。『海街diary』のその後というか、四姉妹のいちばん下の妹の血のつながらない弟の和樹、そして山形の温泉町(河鹿沢温泉)の物語である。まだ一巻目にもかかわらず、話の密度の濃さ、人間模様の複雑さに読後放心状態になる。

 山田鐘人、アベツカサの『喪送のフリーレン』(小学館、現在三巻まで)は勇者一行と共に魔王退治をしたあと、長命のエルフが過去を回想しながら旅をする。そこはかとなく淋しい雰囲気がただよっているが、暗くない。喜怒哀楽の乏しいエルフが、人の気持を時間差で理解していく。ストーリーに作者の個性が溶け込んでいるようにおもう。新刊が待ち遠しい作品である。

 最近読んだエッセイ集では、宮崎智之著『平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)と渡辺優著『並行宇宙でしか生きられないわたしたちの暮らし』(ホーム社、集英社)がよかった。どちらも昨年十二月に出ているのだが、「二〇二〇年の三冊」みたいなアンケートの依頼があったら、わたしはこの二冊を入れたい。あと一冊はスズキナオ著『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)である。『酒ともやし〜』は八月刊行。タイトルだけで自分が読むべき本だとおもった。千駄木の往来堂書店でサイン本を買った。この三冊は気分や体調がすぐれない日に読んで面白かった本である。

 宮崎智之さんの「『細マッチョ』をめぐる冒険」は、整体院に行ってたとき、整体師に「施術は精一杯しますけど、そもそも筋肉が極端に少ないので、すぐ戻ってしまいますよ」といわれる。

《なるほど、筋肉か。やっぱり「ターザン」だったか》

 渡辺さんの「体力」と題したエッセイの書きだし「生まれ変わったら体力のある人間になりたいです。筋力も欲しいです」も素晴らしい。

 三十代半ばごろ、わたしも自分の体力のなさを痛感した。運動はしなかったが、昼酒をやめ、休肝日を作り、整腸剤を飲むようになった。二十代のころのような自堕落な生活を続けていたら、その後どうなっていたか。
 わたしは体力を欲しながらも「筋力」をつけるという発想がなかった。今後もないだろう。

2021/01/07

ソローの話

 昨年十一月にマクシミリアン・ル・ロワ文・彩色、A・ダン絵『自由を求めて「森の生活」ソローの生き方を漫画で読む』(原正人訳、いそっぷ社)が刊行された。『シンプルに暮そう! ソロー「森の生活」を漫画で読む』の姉妹版で『自由を求めて〜』のほうはソローの思想と実践に焦点を当てている。

 巻末のミシェル・クランジェ(リヨン大学名誉教授)へのインタビューでは「傑作『森の生活』の中でも『日記』の中でも、ソローは『よく生きる』ということを定義しようとしました。それは自分自身を陶冶し、シンプルな暮らしを心がけ、お金や消費に抵抗することに他なりません」といい、その思想は「不服従」ではなく「反抗」という言葉のほうがより忠実に彼の立場を示していると解説——。

《一般に流布しているイメージでは、ソローとは非暴力の賢人ですが、それは見直す必要があるでしょう》

 先月末、而立書房から『ヘンリー・ソロー全日記 1851』が刊行された。
 ソローは一八一七年生まれ。『コンコード川とメリマック川の一週間』(一八四九年)と『森の生活』(一八五四年)のあいだに書かかれた日記だ。どの頁も面白い。
 百七十年前の一月七日の日記の一節にこんな言葉がある。

《科学は人間が知っているすべてではない。科学に携わる人のためのものだけを表しているにすぎない。木こりは箱の罠でマスのとり方、カエデの樹液をとる桶をマツ材で作る方法、大きな樹心のハゼノキかトネリコでの雨樋の作り方を、私に話してくれる。彼は自分の経験した事柄を人間生活に関連させることができる》

 いっぽうソローは、十九世紀のアメリカでヒンドゥー教や東洋思想の本まで乱読していた知識人である。読書家であると同時に、自然と職人の知恵を愛した。鶴見俊輔は、ソローが鉛筆作りの名人だったことをその思想の「根拠地」になっていると指摘する。

 哲学、思想を学びつつ、自然に傾倒した人物といえば、日本だと辻まこともそうかもしれない。辻まことは書物偏重に警鐘を鳴らしていたショーペンハウエルの影響を受けている。
 定義上は、ソローや辻まことも反知性主義者に当てはまる(詳説&異論あり)。

 反知性主義には、西洋近代の哲学にたいするカウンターの思想という一面もあるのだが、今は単なる「バカ」の言い換え語としてつかわれがちなのが残念だ。

『ヘンリー・ソロー全日記』の帯に「全12巻予定、順次続刊」とあった。わたしは一八五九年の『日記』が読みたい。