2015/03/31

マクリーンの川(リバラン)

 ノーマン・マクリーン著『マクリーンの川』(渡辺利雄訳、集英社文庫)が届く。この作品には『マクリーンの森』という続編もあり、同じく集英社から単行本が出ている。

 深夜一時すぎに読みはじめて読み終えたのは午前四時半。途中、本にひきこまれすぎて、何度か頭がくらくらした。ノーマンと三歳年下の弟のポールと牧師の父——宗教と釣りで結ばれた親子、そして兄弟の物語は静かにはじまる。兄のノーマンは真面目で善良、弟のポールはフライフィッシングに関しては名人級の腕前だが、私生活は酒やギャンブルに溺れ、喧嘩に明け暮れている。

 ノーマンは弟を助けたいとおもうが、どうしたらいいのか、そもそも弟は自分に助けてほしいとおもっているのかもわからない。兄の遠回しの申し出を弟は拒み続ける。

 自分にできることは限られていて、限られていることは必要とされない。

 この小説の主題を何かひとつに絞りこむのはむずかしい。「家族愛と兄弟の絆の物語」と紹介されている作品だが、家族愛や兄弟の絆をもってしても、どうにもならない現実を描いた作品ともいえる。

 フライフィッシングに関する描写を読んでいると、技術の繊細さと緻密さ、さらに魚や昆虫の生態、山や川(水)にたいする知識や洞察の深さに圧倒される。兄はたくさんのフライ(毛鉤)の入ったフライボックスを持ち込み、釣り場を飛んでいる羽虫に一致するものを使い分ける。弟は大きさのちがう数種類のフライしか持っていないが、それを幼虫から羽化まで、あらゆる昆虫の生態を真似て操ることができる。釣りの仕方も、兄と弟はまったくちがう。ただし、どちらも頑固者だ。

 ノーマンは釣りを通して、弟を理解しようとする。

 フライフィッングをもっと深く知れば、さらにこの小説のすごさがわかるようになるのかもしれない。『マクリーンの川』の釣りの場面で「あることをまず最初に考えないかぎり、そのものが眼に見えてくることはない」という文章があった。そのあたりは釣りも読書も共通しているとおもう。興味がなければ、どんなにおもしろい本が書店に並んでいても見すごしてしまう。しかも、わたしは映画化されていたことさえ知らなかった。

『フライの雑誌』の堀内さんに、この作品について問い合わせてみたところ、日本の四十代以上のフライフィッシャーの間では、映画「リバー・ランズ・スルー・イット」は「めちゃくちゃ有名」とのこと。映画を観たことがきっかけでフライフィッシングをはじめた人も少なくないらしい。略して「リバラン」と呼ばれているとも……。また『フライの雑誌』で「Through It」の「It」が何をさすのかみたいな記事が掲載されたこともある……といったことも教えてくれた。

 訳者のあとがきによれば、一九八〇年代のアメリカの大学の若手研究者に、最近、印象に残った小説を聞くと「リバー・ランズ・スルー・イット」という答えがいちばん多かったそうだ。

 著者のノーマン・マクリーンは七十歳でシカゴ大学の教職を引退し、それからこの小説を書きはじめ、七十四歳で完成させた。

 読後の興奮がしばらく続きそうなので、映画はもうすこし時間をおいてから観るつもりだ。

2015/03/28

友は野末に

 今月の仕事が一段落した(校正は残っているが)。

 まもなく……ひょっとしたらもう書店に並んでいるかもしれないが(インターネットの書店では購入可能になっている)、色川武大著『友は野末に 九つの短篇』(新潮社)が刊行。表題作を含む九つの短篇は単行本未収録、嵐山光三郎、立川談志との対談、色川孝子夫人へのインタビューも入っているようだ。

 三月二十八日は、色川武大の誕生日(一九二九年生まれ)で、なんとなく色さんの話を書こうかなとおもっていたところ、この本の刊行を知った。「友は野末に」は『色川武大阿佐田哲也全集』の三巻にも収録されている。初出は『オール讀物』(一九八三年三月号)。

《某日、小さなホテルにこもって仕事をしているとき、家からの電話でまた一人の友の死を知らされた。五十をすぎるとそういうことが頻繁になってきて不思議はないし、自分の命だって風前の灯なのだから、他人が死のうと自分が死のうと日常茶飯のことといえなくもない》(友は野末に)

 本の詳しい感想はまた後日ということで。

2015/03/27

フライフィッシングは反知性主義?

 新刊書店で森本あんり著『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を立ち読みしていたら、「フライフィッシング」という言葉が出てきた。迷わず、レジに。

 第四章の「アメリカ的な自然と知性の融合」の「釣りと宗教」で、若き日のブラッド・ピットが出演した映画「リバー・ランズ・スルー・イット」について論じている。「リバー・ランズ・スルー・イット」は、シカゴ大学で英文学を教えていたノーマン・マクリーンの同題の自伝小説——邦訳は『マクリーンの川』(集英社文庫)として刊行されている。

 マクリーンの父は、ふたりの子どもを信仰とフライフィッシングで教育した。しかし、兄弟はまったくちがった人間に育つ。

《釣りといっても、どんな釣りでもよいわけではない。釣りは、フライフィッシングでなければならないのである》

 なぜならフライフィッングは「崇高な芸術」で「宗教的な献身」が求められる釣りだからだ。

《フライは、メトロノームのように正確な四拍子で投げなければならない。それは、厳格な規律に従うことを意味する。人は神のリズムに身を委ね、それに従って生き、正しくフライを投げる時にだけ、魚を釣ることができる》

 森本あんりによると、「リバー・ランズ・スルー・イット」は、「アメリカの大自然に抱かれたことがなければけっしてつくれない映画で、そこには巧まずしてアメリカ的な精神の有り処がそのまま析出している」という。

《釣りをしている間、ひとは自然の中にただ一人で存在する。仕事の面倒も忘れ、明日を思い煩うこともない。聞こえるものといえば、川のせせらぎと鳥の声、木々をわたる風の音だけである。人生の余分な意味は消え失せて、山と川、魚と自分、それらがむきだしの存在となり、自然の中の対等なパートナーになる》

 反知性主義と聞くと、傍若無人で考えの足りないマッチョイズムみたいな印象があったのだが、それほど単純なものではない。

 詩人のラルフ・ウォルド・エマソン、ヘンリー・ディヴィッド・ソローなど、この本におけるアメリカの反知性主義には、「ヨーロッパ的な知性」への抵抗という要素もある。たとえば、書物に頼りすぎることの警戒心もそうだ。自然から学び、身体を通して考える。アメリカの反知性主義には、そういう一面もある。

 反知性主義からは、進化論を否定する創造論みたいな考えも出てくるわけだが、中にはそう簡単には否定することのできない文明批判もある。

 とりあえず、ノーマン・マクリーンの小説と映画のDVDを注文した。

2015/03/20

充電中

 昨日は十時間以上眠り続けた。変な夢をいっぱい見たが忘れた。疲れがたまっていたのかも。あと急に暖くなったせいもあるかも。

 東京ヤクルトスワローズ公式サイトで「戸田配信」(ファームの試合の中継)がはじまった。時間がいくらあっても足りない。

 四十代半ばになって、時間がほしいとおもうことが増えた。生きていくためには、あるていど時間を売ってお金を得ないといけないわけだが、自分の時間を確保しないと心身が磨り減ってしまう。

 仕事と休息のバランスをどうとるか。体力面に不安がある分、その配分には人一倍気をつかっている。若いころは、無理をしないと身につかないものがいろいろある。しかし中年以降は無理をして身につくものより、失うもののほうが多くなるような気がする。

 とにかく漫画を読む時間がほしい。

 というわけで、滝田ゆうの『寺島町奇譚(全)』と『泥鰌庵閑話(上・下)』が電子化されていたのでダウンロードした。『泥鰌庵閑話』は寝る前にちびちび読むのにピッタリの作品だとおもう。どちらも文庫版で持っていたが、字が小さくて読みづらかった。
 まさか電子書籍で滝田ゆうの漫画を読む日が来るとはおもわなかった。わるくない。

 水木しげるの『河童の三平』をはじめ、貸本まんが復刻版も電子化されていた。そのうち買うことになるだろう。

 すこし前に「自分のやりたいことしかしない」という水木さんののルールの話を紹介したが、水木しげるは、しめきりをかならず守るという話を聞いたことがある。単なる怠け者ではない。見習いたい。

2015/03/17

定点観測

 土曜日昼すぎ珍しく西部古書会館の初日に行く。今年の目標は(旅行中以外)西部の古書展に通うこと。定点観測というか、惰性も含めてこれまで続けてきたことは大事にしたほうがいい。

 継続と変化のバランスはむずかしい。継続だけだとマンネリに陥るし、変化を追い求めすぎると長い時間をかけて培われるものが得られない。料理店にたとえると、定番メニューと新規メニューのバランスをどうするかという話と似ているかもしれない。

 日曜日の夜七時からコクテイル。岡崎武志さん、世田谷ピンポンズさんたちと飲む。起きたら夕方六時半すぎだったのでちょっと焦る。でも何とか間に合って愉しく飲めてよかった。世田谷ピンポンズさんの歌も聴けた。

 月曜日、確定申告。行きは阿佐ケ谷まで電車、帰りは高円寺まで歩く。帰り道の途中に寄った古本屋で野村克也のあまり見かけない本があったのだが、迷った末に見送る。千円だった。

 火曜日、たまたま水中書店のホームページを見ると、ふだんは定休日なのだが、月曜日が臨時休業のかわりに十七日(火)は営業するとあったので三鷹に行く。三鷹に行くのは何年ぶりだろう。

 水中書店はささま書店のN君に「もう水中に行きましたか?」と会うたびにいわれていた。噂以上に充実した棚。野球と釣りと詩の本と漫画を買う。釣りの本は最近探していた小島信夫の本でしかも署名入り。

 帰り、三鷹駅周辺を散歩して電車に乗る。吉祥寺をすぎたあたりで、ふと顔を上げると、斜め向いの席で岡崎武志さんに似たかんじの人が本を片手にずっとノートをとっている。うつむいていて顔が見えないので別人かもしれないとおもい声をかけるかどうか迷う。が、読んでいる本の表紙がちらっと見えて、岡崎さんにちがいないと確信し声をかける。本人だった。

 高円寺に帰って、家でちょっと休憩。昨日見かけた野村克也の『うん・どん・こん(運・鈍・根)』(にっぽん新書)がほしくなる。残っているかどうか心配だったが、買うことができてほっとした。あとでわかったのだが、けっこう入手難の本らしい。迷って買いそびれると買えないことのほうが多い。これまで何度も失敗している。

2015/03/13

古本屋の人気作家

 町のそれほど大きくない新刊書店にはいったら、ベストセラーのコーナーと同じくらいの枠で曽野綾子のコーナーがあった。不思議におもう。謎だ。

 吉田健一著『汽車旅の酒』(中公文庫)を読む。書き出しが、自由気ままなかんじでおもしろい。

《旅行をする時は、気が付いて見たら汽車に乗っていたという風でありたいものである》(金沢)

《旅行をする時には、普通はどうでもいいようなことが大事であるらしい》(道草)

《何の用事もなしに旅に出るのが本当の旅だと前にも書いたことがあるが、折角、用事がない旅に出掛けても、結局はひどく忙しい思いをさせて何にもならなくするのが名所旧跡である》(或る田舎町の魅力)

 十代後半に古本屋めぐりをはじめたころの「古本屋の人気作家」のひとりが吉田健一だった。あと内田百閒もそうかな。ふたりとも今は新刊でけっこう読める。

 わたしはあまり読んでいないのだが、そのころ、夢野久作や稲垣足穂も「古本屋の人気作家」だった。

 この四半世紀で「古本屋の人気作家」もいろいろ移り変わっている。近年は「古本屋の人気作家」がどんどん文庫化されるという流れがある。

 著作権が切れてしまった作家は青空文庫に入ったり、電子書籍化されたりすると古書価がつきにくい。没後五十年以内で新刊書店では買えないおもしろい作家……というのは限られている。

 そういう作家を探すのも古本屋通いの愉しみなのだが、今は誰だろう。

2015/03/09

昔の書評誌

 散歩のついでに新しい靴を買う。
 この一年くらい靴底に空気の入った靴を履いていて、これが軽くてすごく楽なのだ。たまに雨の日用の靴を履くと重い。これまで晴天用と雨天用の二足の靴でやりくりしていたのだが、晴天用が二足あってもいいかなとおもった。

 十二月から二月いっぱいまではのんびりして、三月くらいから徐々に活動量を増やし、十月、十一月くらいにピークがくるようにする。
 なんというか、一年中、ずっと調子を維持したいとおもっても、それは無理だということが骨身にしみている。無理をすると、どこかで反動がくる。

 日曜日、西部古書会館。今年は皆勤賞継続中。赤いドリルさんが出品の『50冊の本』(玄界出版、冬樹社)を創刊号から五号まで買う。一九七八年創刊の月刊書評誌。一九七〇年代後半のリトルマガジンは、おもしろいものが多い気がする。

 ちなみに『50冊の本』の創刊号には「新入学・進学/新卒のきみたちにすすめる本」というアンケートがある。

 野呂邦暢は(1)新入学、進学する人たちにすすめる本でトルストイの『戦争と平和』、(2)新卒・就職する人たちにすすめる本でA・トインビーの『歴史の研究』をあげている。それぞれ「…文学の源泉」「…若いうちにカタイ本を読むこと」というコメントも。

 田中小実昌は「…すみません、わからないので」と無回答にもかかわらず、名前を出されている。もし自分がやられたら、すごくいやだな、これは。

2015/03/03

資料の整理

 日曜日の晩から掃除。二月分の仕事の校正がぜんぶ終わったので、古い資料、コピーの整理をはじめるが、まったく終わらない。夕方、荻窪に行って、ささま書店のちタウンセブンで買い物(鍋の具などを買う)。

『フライの雑誌』『BOOK5』を読む。『フライの雑誌』の特集は「これが釣り師の生きる道」。最近、古本屋以外にも釣具屋もときどき見ている。近々釣り竿を買う予定……。それから予備用の眼鏡のレンズを交換したい。

『BOOK5』は、特集「二足のわらじ 本業と本業のあいだ」。この号、おもしろいです。本業(別の仕事)をしながら、本業(本にかかわる仕事)をしている人が多く登場する。

 わたしもライターの仕事をはじめたときから、アルバイトと並行して……いや、フリーターをしながら、ときどきに原稿を書くという生活が長く続いた。当時は生活費(家賃食費光熱費健康保険料など)はアルバイト、書籍代と酒代と交通費を「本業」で稼ぐのが目標だった。「本業」にあまり支障が出ない「副業」探しは、フリーランスの知人と飲むとよく話題になる。

 鍋にうどんを入れて食い、雑炊を作ってから飲みに行く。軽く飲んで、さくっと寝て、珍しく午前中に起きたので、銀行と郵便局に通帳の記入、掃除をしていたら未使用の年賀ハガキ(十年くらい前の)がけっこう出てきたので、八十二円切手と二円切手に交換する。電気代とガス代の支払いなどをすませる。
 それでも午前中だ。早起きすると、一日が長い。

 紙袋十袋分の資料を台所に全部に出して残すものと捨てるものを仕分ける。ボロくなった紙袋五つ捨てる。半分にする予定だったが、ちょっと無理そう。途中、蔵書も減らしたくなって(おそらく『BOOK5』の南陀楼綾繁さんの文章を読んだ影響だろう)、古本の整理もはじめる。本棚のすきまから、一九九〇年前半のミニコミもいくつか出てきて、二十代のころの自分の原稿をいくつか読む。

 旅先でもらった地図とか観光案内、各種イベントのチラシなど、見るといろいろおもいだすこともある。神宮球場のチケットの半券、ライブの半券も出てきた。迷ったら捨てるつもりだったのが、捨てられない。

 仕分けの結果、十袋→七袋に。それでも床の面積がちょっと増えた。その倍以上に箱に入った資料があるのだが、今はそれに手をつける気力がない。何が入っているのかまったくおぼえていない。

2015/03/02

雑記

 ようやく三月。先週くらいから貼るカイロをつかわない日が増えた。散歩の距離ものびた。今日(……書いているうちに日付が変わって昨日)はまたカイロに頼った。

 西部古書会館の古書展最終日に行く。今年はいちおう今のところ皆勤賞(初日はほとんど行ってないが)。以前とくらべると買う量は減ったが、それでも何かしらほしい本は見つかる。

『水木しげるのカランコロン』(作品社、一九九五年刊)を再読する。

《才能は始めからあるわけではない。一日一日とつみかさねるのだ。空っぽの頭に入れてゆくのだ》(マンガのかき方――プロになる三つの道の巻)

 十二月~二月のあいだ、ずいぶん酒量を減らした。活発に動かない分、せめて自己メンテナンス期間にしようとおもった。十日以上外で飲まない時期もあった。そのかわり飲みはじめるとだらだらと飲んでしまう。自戒しているのだが、酔っぱらうと帰ろうとする知人を引き止めてしまう。「あと一杯」とかいって。

 暖くなったら蔵書の整理もすこしずつしていきたい。かれこれ二十年以上、買っては売り、売っては買いをくりかえしているのだが、本棚からあふれた本が山積みになってくると、本を買う意欲が減退する。
 何度も何度もその気分を味わいながら、油断すると、ちょっとやそっとのことでは片づかないくらい部屋中が本だらけになる。野球や釣りの本が増えた分、何かを削らないといけない。電子化されている本は売ってもいいような気がしている。

 このまま本が増え続けて、もっと広い仕事部屋を借りることを考えたら、電子書籍で買い直したほうが安くすむ。

 しかし日々の暮らしの中で本の背表紙を見る。そのことによって、本のなかみをおもいだしたり、思考が切り替わったりすることはよくある。何もかも電子書籍で……というふうにはならないだろう。今後も。

 今、売っているキンドルは作品をフォルダに分ける機能がついているらしく、できれば買い替えたい。