2015/03/27

フライフィッシングは反知性主義?

 新刊書店で森本あんり著『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を立ち読みしていたら、「フライフィッシング」という言葉が出てきた。迷わず、レジに。

 第四章の「アメリカ的な自然と知性の融合」の「釣りと宗教」で、若き日のブラッド・ピットが出演した映画「リバー・ランズ・スルー・イット」について論じている。「リバー・ランズ・スルー・イット」は、シカゴ大学で英文学を教えていたノーマン・マクリーンの同題の自伝小説——邦訳は『マクリーンの川』(集英社文庫)として刊行されている。

 マクリーンの父は、ふたりの子どもを信仰とフライフィッシングで教育した。しかし、兄弟はまったくちがった人間に育つ。

《釣りといっても、どんな釣りでもよいわけではない。釣りは、フライフィッシングでなければならないのである》

 なぜならフライフィッングは「崇高な芸術」で「宗教的な献身」が求められる釣りだからだ。

《フライは、メトロノームのように正確な四拍子で投げなければならない。それは、厳格な規律に従うことを意味する。人は神のリズムに身を委ね、それに従って生き、正しくフライを投げる時にだけ、魚を釣ることができる》

 森本あんりによると、「リバー・ランズ・スルー・イット」は、「アメリカの大自然に抱かれたことがなければけっしてつくれない映画で、そこには巧まずしてアメリカ的な精神の有り処がそのまま析出している」という。

《釣りをしている間、ひとは自然の中にただ一人で存在する。仕事の面倒も忘れ、明日を思い煩うこともない。聞こえるものといえば、川のせせらぎと鳥の声、木々をわたる風の音だけである。人生の余分な意味は消え失せて、山と川、魚と自分、それらがむきだしの存在となり、自然の中の対等なパートナーになる》

 反知性主義と聞くと、傍若無人で考えの足りないマッチョイズムみたいな印象があったのだが、それほど単純なものではない。

 詩人のラルフ・ウォルド・エマソン、ヘンリー・ディヴィッド・ソローなど、この本におけるアメリカの反知性主義には、「ヨーロッパ的な知性」への抵抗という要素もある。たとえば、書物に頼りすぎることの警戒心もそうだ。自然から学び、身体を通して考える。アメリカの反知性主義には、そういう一面もある。

 反知性主義からは、進化論を否定する創造論みたいな考えも出てくるわけだが、中にはそう簡単には否定することのできない文明批判もある。

 とりあえず、ノーマン・マクリーンの小説と映画のDVDを注文した。