いつでもできるとおもってやらずにいる。いつの間にか忘れてしまう。いつまでもそれがあるとは限らない。あとどれくらい今と同じように歩いたり本を読んだりできるのか。時間があるようでない。近頃、そういうことをよく考える。
四月二十三日、はじめて九段下から小滝橋車庫前までの都バス(飯64)に乗った。小滝橋は「おたきばし」と読む。新宿大ガード西交差点から小滝橋にかけて小滝橋通りという約二キロの道もある。
十九歳、一九八九年春に上京して三十六年。その大半といっていい年月、神保町界隈で仕事をしてきた。九段下と小滝橋車庫前を行き来するバスのことは前から知っていた。たまに散歩で高円寺から早稲田通りを歩いて小滝橋、神田川の遊歩道を通り、東中野駅から電車で帰ることもある。
いちおう小滝橋車庫前はわたしの散歩圏内である。
九段下から小滝橋車庫前行きのバスに乗った日、夕方までは小雨が降っていた。仕事が終わるすこし前に雨がやんだ。
バスは十九時台。乗客は四人。席に座って、のんびり車窓を見る。まないた橋というバス停がある。飯田橋駅前で何人か乗ってくる。
大曲というバス停がある。江戸川橋で降りた人が何人かいた。
終点の小滝橋車庫前までの時間は約四十分くらい。東京メトロ東西線の九段下駅~落合駅が約十二分。バスと地下鉄の料金はほぼ同じだが、バスだと三倍ちょっと時間がかかる。途中、西早稲田の明治通り付近でドコモタワーがちらっと見えた。
小滝橋車庫前のバス停からひたすら早稲田通りを歩く。小滝橋~高円寺間の道は歩き慣れている。ただ、高円寺から小滝橋に向かう道は下り坂が多いのだが、それが逆になる。登り坂を歩いているうちに汗をかいた。水筒のお茶が空になる。歩道を徐行せずに突っ走ってくる自転車と何台もすれちがう(早稲田通りは車道に自転車レーンがある)。
中野のヨークフーズで焼きそば(五袋入り)、鴨のおつまみなどを買う。九段下から高円寺まで、バスの乗車時間も含めて家まで二時間くらいかかった。
小滝橋車庫前からは上野公園行きのバス(上69)も出ている。小滝橋車庫前から大曲までは(飯64)のバスと同じルートである。上野公園は御茶ノ水駅から一キロくらい。湯島四丁目、湯島三丁目のバス停のほうがちょっと近い。水道橋で何か用事があったとき、春日駅前、真砂坂上のバス停から乗って帰るのもありか。夜、バスで上野公園に行くも楽しいかもしれない。
2025/04/28
小滝橋車庫前
2025/04/26
中野の話
先週末の西部古書会館。中野区の郷土史関係の冊子がたくさん出ていた(一冊二百円)。元の持ち主は同じ人なのかもしれない。
『郷土中野』(東京都中野区教育振興会、一九六七年) 中野区立中学校教育研究会社会科研究部編『のびゆく中野 〈49年度版〉』(東京都中野区教育振興会、一九七四年改訂)、『なかのの地名とその伝承』(中野区教育委員会、中野区立歴史民俗資料館、一九八一年、二〇〇七年五刷)、『中野を読む Ⅰ 江戸文献史料集』(中野区教育委員会、中野区立歴史民俗資料館、一九九二年)など。あと『ねりまの文化財と散歩道』(練馬区教育委員会、一九八九年)も買った。
『なかのの地名とその伝承』に「沼袋の一枝郷 『大場村』の地名について」という記事あり。
《野方一丁目の環七通りに「大場(だいば)通」というバス停留所があります。(中略)現在の早稲田通りをはさんで大和町あたり一帯は、江戸時代から大場と呼ばれていたのです》
大場には「広い地域」「台地」の二つの意味がある。
《大和町に以前から住んでいる人の話によると、明治から大正にかけて、このあたりは、人家もほとんどなく、土地の高低もよくわかり、また近くに「北原」や「籠原」の呼び名が残されているように、雑木林や原っぱの広がるさびしい村落だったそうです》
早稲田通りも大和町や野方のあたりでは「大場通り」と呼ばれている。野方駅の北口が北原通りや籠原公園がある。野方に暮らしていた福原麟太郎の随筆に籠原観音(緑野中学校のそば)の話が出てくる。
『なかのの地名とその伝承』の「鷺宮」の頁には「昭和初期今の鷺宮駅付近から富士山をのぞむ」という写真も。今でも見える場所はあるらしい(未確認)。
昨年末、中野区大和町に仕事部屋を移した。その前から妙正寺川沿いの道はよく歩いていた。とくに白鷺せせらぎ公園から鷺ノ宮駅方面に向かう途中の大きく蛇行する道が気にいっている。
『中野を読む Ⅰ 江戸文献史料集』を見ていたら「大正末期の鍋屋横丁界隈」という地図(コピー)が挟まっていた。『のびゆく中野 〈49年度版〉』の「江戸初期の中野」の頁には中野の鍋屋横丁付近の「追分」に関する記述あり。
《もとの橋場町に「追分」という地名が残っていた。この地名によってもわかるように鍋屋横丁あたりから祖師堂街道と青梅街道とが二つに分かれていた。(一説には、このあたりは青梅街道と旧鎌倉街道との分岐点であったために名付けられたともいわれている)》
《祖師堂街道そのものが旧鎌倉街道の名残りだという説も別にある》
東京メトロ丸ノ内線の新中野駅付近、中野区中央四丁目に「追分公園」 、鍋屋横丁の青梅街道付近に道標(鍋横道しるべ)がある。杉並区堀ノ内三丁目の妙法寺、祖師堂の前の妙法寺商店街から鍋横までの道は何度か歩いている。
旧鎌倉街道……だったかもしれない道は中野区、杉並区の散歩圏内のあちこちにある。阿佐谷パールセンター商店街もそう。
2025/04/20
九段下
あたたかい日が続く。長袖のヒートテックをしまう。貼るカイロは三十袋入り一箱未開封のままだ。そろそろコタツ布団を片付けようとおもう。晴れの日一万歩の日課もなんとかこなせている。
木曜夜、神保町から靖国通りを歩いた。九段下周辺の夜景を楽しむ。九段下の昭和館から高灯籠のすこし先まで歩くと東京タワーが見える。靖国神社沿いの道から東京スカイツリーが見える場所もある。
九段下のバス停から小滝橋前車庫行きの都営バス(飯64)がある。まだ乗ったことがない。九段下駅からすこし北に歩いて、セブンイレブンの北の丸スクエア店の近くにバス停がある。十九時台のバスも四本。小滝橋前車庫は東京メトロ東西線の落合駅のすぐ近く。早稲田通りを歩けば三、四十分で高円寺に着く。
一口坂の小諸そば市ヶ谷店で春盛天のうどん。一口坂はなか卯九段南店もある。ちなみに今月初の外食である。ずっと自炊していた。
市ヶ谷橋から外濠(市ヶ谷濠、新見附濠)を眺める。市ヶ谷の濠、上京してしばらくは川だとおもっていた。もともと四十歳前後から川を見るのが好きになったのだが、五十の坂をこえてから、樹木にも興味が芽生えてきた。家にこもって仕事をしていると、むしょうに木が見たくなる。この日は四ツ谷駅まで歩くつもりだったが、市ケ谷駅から電車に乗る。
そのうち米の値段は下がるだろうと二キロずつ買っていたのだが、もう諦めた。今の米がなくなったら五キロずつ買うことにする。胚芽米も昨年の今の時期と比べて倍の値段になっている。
先日買った石川浩司著『地味町ひとり散歩 「たま」のランニングの大将放浪記』(双葉社)、埼玉県の高麗(こま)を歩いている。今年の三月はじめにわたしも高麗川を散策する計画を立てていたのだが、急遽、郷里の三重に帰省する用事ができてしまい、まだ行ってない。斎藤潤一郎著『武蔵野』(リイド社、二〇二二年)の第一話も高麗である。
高麗、あるいは新羅が元になった地名は日本のあちこちにある。馬に関係する土地が多い。古代の街道の整備に渡来人が関わっている。
2025/04/14
宿場町、地図その他
旧街道を歩いて宿場町に寄る。本陣、脇本陣、常夜燈、一里塚、道標……。歩きながら町の歴史や地理を知る。週末、「マケイン」という言葉が気になってアニメ『負けヒロインが多すぎる!』全十二話(二〇二四年七月放映)を二日かけてアマゾンプライムで視聴した。東三河の学校が舞台で二川宿、吉田宿周辺の東海道がちょくちょく出てくる。「吉田中安全秋葉山常夜燈」や豊橋鉄道の駅や周辺の町も描かれている。四月十二日の中日新聞のサイトに「続編制作決定」の記事が出ていた。
郷里に帰省するさい、浜松と豊橋はよく途中下車して街道を歩いている。まだまだ知らないところがたくさんある。
土曜の昼、西部古書会館、『同時代 第三十一号 特集Ⅰ 樹について 特集Ⅱ 辻まこと』(法政大学出版局、一九七六年)、『歴史カタログ 第2集 幕末維新古地図大図鑑』(新人物往来社、一九七七年)、佐佐木信綱著『ある老歌人の思ひ出 自伝と交友の面影』(朝日新聞社、一九五三年)など。いずれも百円〜二百円だった。
『同時代』は矢内原伊作が編集発行人の雑誌(発行所「黒の会」)。辻まことは一九七五年十二月に亡くなったので没後刊行の特集である。巻末に辻まことの書誌も載っている。
『歴史カタログ 第2集』は岩田豊樹・歴史に親しむ会編集。表紙カバー裏に年表や図版、大判のカラー印刷で凝っている。一番すごいとおもったのは「海陸道中図絵」(安政年間=一八五四年〜六〇年)。鳥瞰図として精密で素晴らしい。この地図ははじめて見た。版元は仁龍堂(信州)である。阿賀川、信濃川が描きこまれていて、会津や越後の地形がよくわかる。
『歴史カタログ』第1集は「日本歴史大図鑑」。巻末の「歴史カタログ」刊行予定には第3集「日本紋章大図鑑」、第4集「日本肖像大図鑑」、第5集「日本甲冑図鑑」、第6集「戦国合戦古地図大図鑑」と告知しているが、刊行されたかどうかは不明である(もし第6集が出ていたらほしいのだが)。
佐佐木信綱は郷里・三重県鈴鹿出身の歌人で目次の最初に「石薬師・松阪・東京」とある。
《廣重の東海道五十三次の画を次々に見てゆくと、終りに近づいて、本陣の前を馬に乗った旅人が通って行く、家つづきのうしろは林で、近い山は色こく、遠い山が淡く聳えつづいてをる構図がある。これが自分のふるさと、伊勢石薬師駅である》
石薬師には佐佐木信綱記念館がある。わたしが生まれ育った町は東海道の石薬師宿の隣の庄野宿がもよりの宿場町だった。今、親が暮らしている家は伊勢街道の神戸宿が近い(父の墓は神戸宿の寺にある)。
石薬師宿を歩くと「信綱かるた道」がある。わたしが郷里にいたころはなかった(二〇〇四、五年ごろにできた)。
(追記)四月十二日放送の「ブラタモリ」、伊勢街道の神戸宿界隈を歩いていたと知る。見逃した。
2025/04/10
戸田球場
PR誌『ちくま』四月号に梅崎春生の『ウスバカ談義』に関するエッセイを書きました(九日「webちくま」に公開)。
『フライの雑誌』(133号)の特集は「日本の渓流のスタンダード・フライラインを考える」。わたしは「国道16号線と小流域」というエッセイを書いた。先月、三重に帰省したときに柳瀬博一著『国道16号線と「日本を創った道」』(新潮文庫)を再読した。国道16号線を通して、地域の地理、歴史、文化を論じる。道や川にたいする見方が大きく変わった。
フライフィッシングショップなごみの遠藤早都治さんのエッセイはいつも引き込まれる。「時間」という言葉が重い。
調べて考えて試して……。すぐ答えが出るわけではないが、それを続けていくしかない。
火曜日、久しぶりに埼京線に乗る。くもり空で富士山は見れず。武蔵浦和駅からバスで戸田球場。イースタンリーグのヤクルト西武戦をつかだま書房の塚田眞周博さんと観戦する。三月下旬に塚田さんと相談して、この日に決めたのだが、村上宗隆選手の復帰、ドラフト一位の中村優斗投手、バウマン投手の初登板という試合をネット裏から観ることができた。塚田さん、野球運が強い(二〇一五年のヤクルトのセ・リーグ優勝決定試合も塚田さんにチケットを取ってもらった)。中村優斗投手はブルペンで投球練習中、軽く投げている感じなのだが、すごい球だった。一軍で投げる日が楽しみだ。
西武の先発、アンダースローの與座海人投手もよかった。スピードガンの表示は百二十キロ台なのに速いし、力強い球に見える。変則派の投手は見ているだけで面白い。昔からわたしはアンダースロー、サイドスローが好きである。
試合は負けたけど、ファームの試合は選手の活躍が見れるだけで嬉しい。順位や勝ち負けを気にせず、野球を楽しめるのもありがたい。戸田球場のレフト側の桜も咲いていた。
二軍の愛称、西武の「子猫軍」は微笑ましい。ヤクルトは「戸田軍」である。他もファームの球場の所在地+軍が多い。二〇二七年にヤクルトのファームは埼玉県の戸田から茨城県の守谷に移転する予定なので「戸田軍」と呼べるのは来年までか。
帰りは武蔵浦和駅から赤羽駅で途中下車し、ひたすらビンの赤星を飲む。赤羽駅からは高円寺駅までバスで帰る。
2025/04/07
散歩道
晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課は今年に入って達成率七、八割といったところ。雨の日はほぼ五千歩以上歩いている。
金曜日、阿佐ケ谷方面に向かって桃園川遊歩道を散歩中、そぞろ書房の山川直人漫画原画展「本の街を散歩」(四月二十日まで)を思い出し、立ち寄る。
八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店で石川浩司著『地味町ひとり散歩 「たま」のランニング大将放浪記』(双葉社)のサイン本を買う。鈴鹿市の長太ノ浦(なごのうら)も歩いている。石川浩司、文章の軽みがすごい。
土曜昼すぎ、西部古書会館。大均一祭初日(二百円)。『蘆花の生涯 徳冨蘆花記念文学館図録』(徳冨蘆花記念文学館、一九九七年)、NHKテレビロータリー編『わたしの散歩道』(竹井出版、一九八〇年)、豊田武、児玉幸多編『体系日本史叢書 交通史』(山川出版社、一九七〇年)、『S・Fマガジン 眉村卓追悼特集』(二〇二〇年四月号)、あと漢詩(白居易、陶淵明)の本など。蘆花の図録ははじめて見た。徳冨蘆花記念文学館は群馬県の伊香保にある。伊香保はまだ行ったことがない。
『わたしの散歩道』は春・夏・秋・冬の四章構成。出演者は四十六名。冒頭は谷内六郎(砧緑地)。梶原一騎(西大泉)、園山俊二(上高井戸)、滝田ゆう(国立)の名も。田中澄江は中野の哲学堂周辺(公園内に妙正寺川が流れている)を散歩。野方あたりに暮らしていたとも。
井出孫六は国分寺の「旧鎌倉街道・万葉植物園」を散策している。当時、四十代後半くらいだが、見た目が若々しい。歩き煙草の写真も載っている。
滝田ゆうはどこを切り取っても滝田ゆう。
《散歩に出るのは、仕事が手につかない時ですね。散歩といっても、ほとんど何か虚な感じで(笑い)あてもなく歩くっていうような感じになっちゃうと思うんですけれども》
昔のテレビ番組の多数のゲストが登場する本は面白い(写真も貴重)。竹井出版は一九九二年に致知出版社に改称。地産グループの故・竹井博友が作った出版社である。
西部古書会館のあと早稲田通りを歩く。中野区大和町から東に向かって早稲田通りを歩いて環七を渡ると住所が野方になる。普通の家みたいな喫茶店がある。路地に小さなパン屋がある。大新商栄会という小さな商店街がある。銭湯の上越泉、理髪店、和菓子屋、酒屋、クリーニング店……。
早稲田通り沿いに大新横丁というバス停(関東バス)がある。時刻表をメモする。野方駅〜新宿駅西口のバスも走っている。一時間に一本から三本。行きと帰りで停車順がちがう。新宿駅西口からのバスは大新横丁で停まるが、新宿方面に向かうときは早稲田通りの一つ手前の東京警察病院北門前のバス停まで行く必要がある。それなら環七の大場(だいば)通りの都営バスのバス停から新宿駅行きのバスに乗るほうが近い。
野方駅や練馬駅から高円寺駅行きのバスに乗るようになって、大場通り(早稲田通り)の名を知った。
夜、「イマキュレートイニング」という言葉を知る。四月五日のヤクルト中日戦、ヤクルトの石山泰稚投手が一イニング三者連続三球三振で試合を締めた。スワローズとしては国鉄時代の金田正一投手以来、七十年ぶりの記録とのこと。イマキュレートは「完璧」という意味だそうだ。
2025/04/04
歩き花見
寝る時間と起きる時間が五、六時間ズレる日が一週間以上続く。寒暖差のせいか。
月曜夕方、小雨の中、小学校や中学校の桜を見ながら、野方、練馬を散歩する。野方北原通りの肉のハナマサのあと、環七の豊玉南歩道橋からスカイツリーを見る。東武ストアに寄り、練馬駅のすぐ北の平成つつじ公園で桜を見る。
『ウィッチンケア』十五号届く。「先行不透明」という心境小説を書いた。随筆とどこがちがうのかはよくわかっていない。自然や風景と向き合いながら自分のことを思索する私小説っぽい随筆、もしくは随筆っぽい私小説というのが、わたしの考える心境小説である。今のところ、そういうふうに理解している。
前号の「妙正寺川」も心境小説のつもりで書いた。
《五十四歳、今年の秋で五十五歳になる。一九五〇年代ならもうすぐ定年である。
十九歳で上京し、その年の秋に高円寺に引っ越した。老いたとおもう。気分は余生だ》(妙正寺川)
「先行不透明」にも「五十五歳」「定年」「余生」という語句が入っている(書いているときは気づかなかった)。常々、自分の年齢(心境)と文章をうまくなじませたいとおもっているのだがむずかしい。十年くらい試行錯誤して、ようやくなじんだころには合わなくなる。
昨年末、高円寺から妙正寺川に向かう途中の大和町に仕事部屋を引っ越した。本や本棚は台車で運んだ。いわゆる立ち退きなのだが、おかげで妙正寺川に近づくことができた。
「先行不透明」は引っ越しのあと、夜、仕事帰りによく歩く道について書いた。五十歳を過ぎたころから、都心の夜景が好きになった。暗い道を歩いていて、光るタワーが見える場所を通りかかると嬉しくなる。なぜ嬉しくなるのかもよくわかっていない。
高円寺の桃園川緑道の桜もけっこう咲いていた。
2025/04/01
寅彦の勉強法
昨日の夜、ブログを更新したつもりが、されてなかった(たまにある)。
金曜夕方(寝起き)、西部古書会館。『漱石と高浜虚子 「吾輩は猫である」が生まれるまで』(新宿区立漱石山房記念館、二〇一九年)、『夏目漱石 漱石山房の日々』(高知県立文学館、二〇〇七年)、『ふくやま文学館 開館20周年記念 夏目漱石 漱石山房の日々』(ふくやま文学館、二〇一九年)など、漱石関連の文学展パンフを三冊。「漱石+子規」の文学展パンフは何種類もあるが、「漱石+虚子」は珍しい。文学館の企画で「漱石+他の作家」の組み合わせはもっとあっていい気がする。
『夏目漱石 漱石山房の日々』はタイトルと目次の並びが途中までは同じで高知県立文学館版は「第3部 漱石と寅彦」、ふくやま文学館版は「漱石と広島」(寄稿「広島の旧友井原市次郎」瀬崎圭二)となっている。同タイトルの図録は各地の文学館から出ている。わたしが古本屋でよく見かける『漱石山房の日々』はB5変型(縦にちょっと細長い)の図録(鎌倉文学館、二〇〇五年、その他)である。
寺田寅彦は東京生まれだが、父方が土佐藩の士族の家系で四歳から高知市小津町の家で暮らしていた。そのあと熊本の五高に入学し、漱石と出会う。 地元が高知で熊本の五高といえば上林暁もそう。
『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を購入後、ひょっとしたら一九九〇年代に寅彦の文学展があったのではないかと「日本の古本屋」を検索した。すると『開館記念特別展 第一回 寺田寅彦展 内なる世界の具現』(高知県立民俗資料館、一九九一年)があった。注文した。「第一回」ということは他にも寅彦展があるのだろうか。
寝る前に電子書籍で寺田寅彦の随筆「わが中学時代の勉強法」(一九〇八年)を読む。
《故意になまけるというと、なんだかおかしく聞こえるが自分はいやになった時、無理につとめて勉強をつづけようとせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出かければ、好きなものを見にゆく。はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよくのみ込める》
たぶん寅彦流の勉強法は理にかなっている。勉強だけではなく、仕事もそうだろう。根を詰めてずっと机に向かい続けるより、遊んだり散歩したりしながらのほうが(わたしの場合)捗る。
そのあと「科学を志す人へ」(一九三四年)を読んだ。
《誰であったか西洋の大家の言ったように、「問題をつかまえ、そうしたその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年をとってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ」というのは、どうも多くの場合に本当らしい》
だから学生時代は「一つの問題」に執着せず、「問題の仕入れ」をたくさんしたほうがいい——といった助言をしている。寅彦流の怠けたり遊んだりする勉強法は「問題の仕入れ」につながっていたのではないか。
寺田寅彦は多才な人だった。詩歌、絵、音楽、さらに学問に関しても専門の物理以外に地理学を志していた時期もある。「科学を志す人へ」は寅彦五十五、六歳のときの文章である。翌年十二月三十一日没。享年五十七。