2020/01/25

半隠居遅報

 毎年恒例——というか、自分のためのメモとして書いていることだが、今年も「冬の底」と名付けている心身不調のどん底の時期がやってきた(ような気がする)。
 今年は一月二十四日か二十五日か。でもまだわからない。昨日午後一時すぎに起きて、原稿の校正、図書館に行って調べてものをする予定が午後四時すぎまで指先に力が入らない。頭蓋骨に膜がはっているかんじがして頭がまわらない。こんな調子が続くようなら仕事にならない。ただしそんなに悲観はしていなくて、経験上はここからすこしずつ上向きになっていくと考えている。昨年も一昨年もそうだった。

 そんなわけで、絶賛不調中なのだが、QJWEBで「半隠居遅報」という連載をはじめることになりました(いちおう隔週で三ヶ月の予定)。第一回は「気楽に休める社会 休み休み歩いたほうが遠くまで行ける」です。
https://qjweb.jp/journal/4383/

「半隠居」という言葉は山口瞳の『男性自身』シリーズの中で見つけた言葉で、杉浦日向子が提唱していた「晴れ時々隠居」のニュアンスもある。ようするに、働かないと食べていけない「金のない隠居」ですな。

 山口瞳の『隠居志願』(新潮社、一九七四年)に「小さい海」というエッセイがある。『男性自身』シリーズの中でも大好きな一篇だ。

《どうも現在の俺は半隠居かもしれないと思い、半隠居というのも落ち着かない感じだなと思った》

 初読は二十代半ばころか。父の本棚にあった。ブラックジャーナリズムの仕事を辞め、週三日くらいアルバイトをしながら、古本やレコードを売って暮らしていた。

「小さい海」を書いたころの山口瞳は四十六歳。同エッセイにはこんな文章もあった。

《以前、ある小説家に、おれたちは、五十歳を過ぎないと自分の仕事が出来ないと言われた》

 自分の仕事とは何か。あと何を書き残しておきたいか。
 最近、そんなことばかり考えている。

2020/01/19

貧乏は不便

 土曜日、外は雪(のち雨)。書くことも書かないことも気が重い。感情が安定していない。
 コタツでごろごろしながら新居格著『心のひゞき』(道統社、一九四二年)を読む。新居格の随筆は寝ころんで読むのに適している。心が落ち着く。

「金について」という一篇にこんな文章があった。

《わたしは時々こんな風にいふことがある。——金のないのが何で恥づべきことであるか。と、いつてのけた後で、「しかし不便ではある」と附け足さゞるを得なかつた》

 たしかにそのとおり。
 新居格は書籍を買う金と自然と親しむ旅をするための金を望んでいた。
 しかし——。

《そんな単純な、金持からいふと大凡吝臭い欲望でさへが金のないためになしえないことが多い》

 本を読み、旅をする。そのためにはお金もいるが、時間も必要である。
 先週高円寺の西部古書会館で大均一祭があった。初日一冊二百円、二日目百円、三日目五十円。二日目と三日目で三十一冊本を買った。二千三百円。買った本を読むひまがない。

 お金がないからできないのか。やる気がないからできないのか。そのあたりの線引きはいつだって曖昧だ。

2020/01/16

桐生の安吾

 坂口安吾の「ゴルフと『悪い仲間』」を読む。
 初出は「文学界」一九五四年八月一日発行。群馬県の桐生市にいたころの安吾の日記である。

《十六日
 久々の晴天。朝九時にゴルフに出発。女房より、本日ヒルすぎに安岡君来訪の由注意があったが、ヒルすぎにもいろいろある。(中略)
 安岡君の一行すでに来着。はからざる次第。早朝に文春記者に叩き起された由である。この一週間ほど前に河出書房のF君が来て、自分は安岡君の悪友で「悪い仲間」その他のモデルだと名乗り、安岡君について一席弁じていった。むやみに人に絶交したがる男だと云っていた。しかし、安岡君の方がだいぶおとなしい感じ。外面如ボサツというのかも知れん。絶交するのはもっぱらF君の方ですとは安岡君の説であった。ボクの青春時代にも今は死んだけれどもF君のような悪い仲間がいて絶交したりされたりしたのを思いだした》

 F君は古山高麗雄。二十代のころ、青山にあった事務所で古山さんとはじめてお会いしたときも安吾の話を聞いた。河出書房時代、安吾の担当だった。編集の仕事は好きだった。安吾が語った歴史の話は抜群に面白かった。そんな話をしてくれた。

 桐生は安吾が最後に暮らした町だった。晩年の安吾は古墳をまわり、ゴルフをしていた。

 すでにわたしは安吾が亡くなった齢(四十八歳)より二歳年上になっている。

2020/01/12

甲州の太宰治

 街道歩きをはじめて以来、もともと好きだったがさらに好きになった町は甲府、それから石和温泉である。高円寺からの距離感もほどよい。朝、JR中央線で新宿方面ではなく、高尾方面に向かう電車に乗るのも気分がいい。

《甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さったのは、井伏鱒二氏である》

 これは太宰治の「九月十月十一月」という随筆の一文だ。山梨時代の太宰治の文章は心なしか明るい。

《ひそかに勉強するには、成程いい土地のやうである。つまり、当たりまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである》

 三年くらい前、山梨で家を探したことがある。甲府あたりで格安の平屋の一軒家はないか。探してみたら何軒かあった(今はどうかわからない)。二〇二七年にリニア新幹線が開通したら、甲府から郷里の三重まであっという間に帰省できる——なんてことを考えていたわけだ。

 以前もこのブログで引用したが、「十五年間」という随筆でも甲府の暮らしを回想している。「十五年間」は故郷・津軽を離れていた歳月のこと。上京後、十五年で二十五回転居。太宰治はこの引っ越しを「二十五回の破産である」と記した。

《私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である》

 最小の家はどんな家だったか。「東京八景」に次のような記述がある。

《昭和十四年の正月に、私は、あの先輩のお世話で平凡な見合い結婚をした。いや、平凡では無かった。私は無一文で婚礼の式を挙げたのである。甲府市のまちはずれに、二部屋だけの小さな家を借りて、私たちは住んだ。その家の家賃は、一箇月六円五十銭であった》

「I can speak」でも甲州の話を綴っている。御坂峠の天下茶屋で仕事をしていたが、太宰治は山の寒気で体調を崩す。

《甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当たりのいい一部屋をかりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った》

 その後、東京に戻ったが、三鷹の家が空襲で焼け、再び甲府市水門町にある妻の実家に移り住んだ。そこも焼夷弾で焼け、太宰治の甲州生活は終わった。

2020/01/06

年明け

 三日、氷川神社に初詣。今年、高円寺のスーパーは四日から営業のところが多い。
 三十年くらい前は年末三十日から三日までチェーン店以外の店はほとんど閉まっていた。二十代のころは年末年始に帰省しなかったので、その間、ちょっとした非日常を味わえた。地方出身で帰省する友人から冷蔵庫の中身をよくもらった。
 年末年始の食事はたいてい鍋だった。それからうどんと雑炊、そして雑煮。あとカレーか。

 二〇二〇年の初読書は山田風太郎著『秀吉はいつ知ったか』(ちくま文庫)。山田風太郎のエッセイは読むたびに感銘を受ける。「政治家の歴史知識」は自分の知識のなさゆえ、初読のときには山田風太郎の慧眼に気づけなかった。

 たとえば、次の文章——。

《外務省の「終戦史録」をみると、昭和二十年八月九日、米内海相は部下の高木惣吉少将にむかって
「総理は口をひらくと、小牧長久手だの大坂冬の陣だの、そんなことばかりいっているのだからね。……」
 と、嘆声をもらしている。いうまでもなく総理は鈴木貫太郎である。鈴木はこのとき数え年で七十九であった》

 この部分だけ読むと、敗戦の直前に「小牧長久手だの大坂冬の陣だの」と寝ぼけたことをいっている困った総理という印象だ。もちろん、そうではない。

《では、小牧長久手の戦いとはいかなるものであったか。これは秀吉と家康の戦いだが、家康はこのとき秀吉の心胆を寒からしめる痛烈な一撃を与えてから和睦を結んでいる。のちになってみれば、秀吉はこれで家康に舌をまき、この一撃が家康の後半生を護る遠因になったのである。
 鈴木首相は、負けるにしてもなんとかもう一度アメリカに一泡吹かせてから、と熱願し、その思いが右の言葉となって出たのだろう。空頼みとはいえ、望みとしては別に時代錯誤な歴史知識ではなかったのである》

 本能寺の変(一五八二年)から関ヶ原の戦い(一六〇〇年)までの十八年間は、日本史の激動期で……要するにややこしい。わたしは高校時代、世界史を選択していたので、小牧長久手の戦いのこともうろ覚えだった。小牧長久手の戦いが、その後の歴史に与えた影響の大きさについて考えたことすらなかった。
 昨年、鈴木貫太郎の郷里の千葉の関宿を歩いた。終戦時の首相が鈴木貫太郎だったことは昭和史の幸運のひとつだ。

 山田風太郎を読んだあと、山田芳裕の『へうげもの』(講談社)も再読。小牧長久手の戦いの場面はあっさりしていた。全二十五巻。しかし読みはじめたら止まらない。