2017/09/29

負けいくさ

《戦後の日本の復興が目ざましかったのは、陸海軍が極秘にしていた一流の技術がみるみる民間にちらばったからです。一例をあげればホンダのオートバイがたちまち一流になったのはこのせいです》(山本夏彦著『誰か「戦前」を知らないか』文春新書)

 日本には、軍艦や零戦を建造する技術があった。戦艦大和の艦内には電気冷蔵庫も装備していた。そうした技術を軍は極秘にしていた。
 工場が破壊されても、技術は残る。かといって、戦後の日本の復興は、アメリカの占領政策のおかげではないというのは、飛躍しすぎだろう。

 占領期のことについて、山本夏彦は何か書いていたかなと何冊か読んでみたところ、『かいつまんで言う』(中公文庫)の「歓声と拍手」というコラムがあった。一九七五年五月――ベトナム戦争が終結を伝える新聞記事の感想のあと、山本夏彦はこう続ける。

《サイゴンの市民はいま拍手と歓声で革命軍を迎えたと読むと、そうかとうなずく。私はサイゴンのことを知らないが、負けいくさのことなら少し知っている。負けた国は勝った国の軍隊を、歓呼して迎えるのが常だということを知っている。
 もし歓呼して迎えないなら、進駐軍は何をするかわからない。進駐するほうは、あれはあれでこわいのである》

《マッカーサーは、わが国が無条件降伏したのに、なおそれを信じなかったという。東京へ入城するまでに、流血は避けられないと思っていたという。ひょっとしたら、何十万の犠牲者を出しはしまいかと恐れたという。
 だから私たちは、歓呼と拍手でアメリカ人を迎えたのである。旗をふったのである。与野党あげて恭順の意を示したのである》

 昭和十八年、イタリアは連合国に降参した。ナチスと連合国の勝敗がわからなかったころ、イタリア人は二種類の旗を用意していた。
 山本夏彦は、どこの国もそうするだろうと述べる。戦中の日本が中国に侵攻したときも、現地の人は日章旗を振って出迎えた。当時の新聞は、そうした光景をしょっちゅう報道していた。武器を持った兵隊が進攻してきたら、歓迎するしかない。それがほんとうの歓迎だったかどうかは、後からわかる。

2017/09/27

「戦前」という時代

《昭和五年はいわゆるエロ・グロ・ナンセンスの最後の時代だった。タキシーは「円タク」といって市内一円(ただし当時東京は十五区)だったのが五十銭で、甚しきは三十銭で乗れる時代だった。満州事変はおこったが半年で終った。世間は軍需景気でうるおったがそれはほんの一部で、全体は不景気だった。ネオンは輝きデパートに商品はあふれカフエーバーダンスホールは満員だった。金さえあれば贅沢できた》(山本夏彦著『「戦前」という時代』文春文庫)

 戦後、多くの日本人は「昭和八年はよかった」とおもっていた。当時の物価指数に追いつくのは昭和三十年代である。
 戦前の日本人が衣食に困りだすのは昭和十六年から——とはいえ、日米開戦の日、山本夏彦は新橋の天ぷら屋で友人と酒を飲んでいたと回想している。昭和十四年、山本夏彦は半年働いて半年遊ぶという暮らしぶりだった。毎日のように銀座や上野で酒を飲んでいた。

 山本夏彦さんに会ったのは一九九五年の春。『無想庵物語』(文春文庫)の感想を手紙で送り、話を聞かせてもらった。戦前のアナキストの話を教えてくれた。辻潤の尺八の話も聞いた。わたしの郷里は鈴鹿の生まれで、両親は斎藤緑雨の生家のちかくに暮らしているという話をしたら、「正直正大夫だね」と、かすれた声で笑った。
 帰りぎわ、山本さんは伊藤整の『日本文壇史』を読みなさい、はじめからではなく、終わりから読んだほうがいいといった。『ダメの人』(中公文庫)をおみやげにもらった。署名本である。

「荒地」の詩人、鮎川信夫、田村隆一は、山本夏彦のコラムを愛読していた。鮎川信夫の弟子でペンキ屋の河原晋也は、山本夏彦の相撲のコラムに怒り、批判の手紙を送った。後に、笑い話になった。
 山田風太郎は辻潤や武林無想庵をモデルにした小説を構想していたが、『無想庵物語』を読んで断念した。わたしが愛読していた戦中派の詩人や作家は、山本夏彦に一目置いていた。

《私は「赤い鳥」で育っている。冨山房の「模範家庭文庫」で育っている。今にして思うといわゆる大正デモクラシーの最後にいた。軍人を憎むことほとんど生理的なものがある。陸海軍人を区別して海軍をほめる人があるが、なに一つ穴のむじなだと思っていた》

 山本夏彦は、中江兆民や幸徳秋水を敬愛していた。明治のリベラリストが好きだった。右か左か、保守か革新か。人はそんなにすっきりとは分けられない。

2017/09/26

釣りとスキレット

 日曜日、JR日野駅。『フライの雑誌』の堀内さん、『朝日のあたる川 赤貧にっぽん釣りの旅二万三千キロ』(フライの雑誌社新書)の真柄慎一さん一家と浅川で釣りとランチの会に参加する。快晴。真柄さんは二児の父になっていた。子どもたちが川で釣りをしているところをビールを飲みながら眺める。不思議な時間だった。

 もともと釣りに興味がなかったわたしが『フライの雑誌』と縁ができたのは『朝日のあたる川』のおかげだ。最初の数頁読んで一気に引き込まれた。
 アルバイトでお金を貯め、仕事も住居も捨て、ひたすら川釣りの旅をする。終始、行き当たりばったり。何かひとつ、打ち込めることさえあれば、人は立ち直ることができる——読み終わった後、そんな気持になった。真柄さんの人徳というか、憎めない人柄あっての生き方かもしれないが。

 屋外でスキレットで焼いた肉はうまかった。帰りに寄ってもらった日野の豆腐屋の豆腐(厚揚)もおいしかった。川の近くに暮らしたくなる。
 以前、堀内さんと会ったときにスキレットの話を聞いて、わたしも三週間後くらい購入した(安いのだが)。今、手入れしながら育てているところだ。

(付記)
 帰途、日曜日は中央線の快速が高円寺に止まらないので三鷹駅で乗り換え……ようとおもったが、途中下車して水中書店に寄った。いい店だ。

2017/09/25

マッカーサー神社の話

《昭和二十六年(一九五一年)四月十二日(日本時間)、マッカーサー元帥解任。この驚天動地の報に、日本人はひっくりかえった》(「幻の『マッカーサー神社』」/半藤一利著『ぶらり日本史散策』文藝春秋、二〇一〇年刊)

 多くの日本人はマッカーサーに心酔していた。マッカーサー元帥記念館(マッカーサー神社)やマッカーサーの銅像を作ろうという運動も起こった。
 ところが、今の日本にそんなものはない。それはなぜか。

 マッカーサーの「日本人はまず十二歳の少年である」という言葉が伝わってきた。半藤さんはこの「日本人十二歳説」によって、マッカーサーを讃えていた国民が我に返ったと見ている。

《熱しやすく冷めやすい、これぞ日本人。とはいうものの、よくよく考えてみると、こん畜生め、と憤ったばかりではないのではないか。戦後の日本人はGHQの命ずるがままに唯々諾々、敗戦・占領という現実にあまりにもやすやすと身を寄せた。下世話にいえば、GHQと“寝てしまった”ことへの恥ずかしさ、情けなさ。それをマッカーサーの発言によって気づかされたゆえではないか》

 一時期、戦後の日本人はGHQに「洗脳」されたという意見をよく耳にした。たしかに、GHQのシビリアン・コントロールはそこそこうまくいっていたかもしれない。しかし、そこまで日本人は単純ではない。またGHQも一枚岩の組織ではなかった。

 明治政府が西洋の近代化を模倣しようとしたように、戦後の日本人はアメリカの物質文明を模倣しようとした。ナショナリズムの方向を軍事から経済に切り替えた。そう考えたほうが腑に落ちる。

2017/09/22

インタビューと座談会

 朝日新聞のウェブ版「&30」で「働かない、訳でもない。文筆家・荻原魚雷が高円寺で実践する『半隠居』のほんとうのところ」というインタビュー(文・金井悟)をしていただきました。
 隠居願望はあるけど、働かないと食っていけない――というニュアンスを絶妙にまとめてもらったとおもっています。『閑な読書人』(晶文社)に収録したものの、ほとんど反響がなかった隠居エッセイに着目してもらえたのも嬉しかった。
 仕事に限った話ではないが、何事も個人差というものがあって、人によって「できる範囲」はちがう。このインタビューで喋った「半隠居」は、あくまでもわたしの理想であって、正しい生き方とは考えていません。甲斐性なしであることは自覚しています。
 フリーランスの仕事も楽ではない。仕事をしすぎて生活が荒んだり、からだを壊したりしたら元も子もない。だから、なるべく自分のペースで働きたいというのが本音なのだが、そうすると貧乏になる。もっと働くか、お金をつかわない工夫をするか。わたしは後者を選択した。今の生活だっていつまで続けられるかわからない。
 
http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2017092037371.html


 それから『屋上野球』Vol.3の「特集 野球はラジオで」の「野球をラジオで聴くのが大好きだ!」という座談会(木村衣有子さん、退屈男君)に出席。わたしはBSやケーブルテレビに未加入なので、野球はほとんどラジオで聴いている。
 ひいきの球団が負けたとき、いちばん悔しいのがラジオだ。ラジオ派のわたしはこの号はすごく読みごたえがあった。
 今年のヤクルトは語ることなしという状況で……この座談会以降はひたすらファームの応援をしている。たぶん、二年後くらいには強くなっているはず。ペナントレースだけが野球ではないというのは、弱小球団(九〇年代をのぞく)ファンの矜恃でもある。

2017/09/21

京都・高松記

 九月十七日、台風接近中だったが、新幹線で京都に行く。雨は降ってなかったので、バスで古書善行堂。善行堂の山本さんが選者になった『埴原一亟 古本小説集』(夏葉社)の話を聞いて、三重県の高校生が作った『詩ぃちゃん』という詩の冊子を受け取る。

 埴原一亟は、はにはら・いちじょうと読む。古本屋を営みながら、小説を書いていた。一九四〇年~四二年にかけて、芥川賞候補三回(「店員」「下職人」「翌檜」)。室生犀星は、「一寸いいけれども、文章が非常に拙くて、息絶え絶えに書いているようなところがあるナ」と「下職人」を評した。むしろ、「息絶え絶え」感こそが、素晴らしい。
 善行堂のあと、丸太町のギャラリー恵風の二階で開催中の林哲夫さんの油彩画展を見に行って、ホホホ座の三条大橋店に寄って、六曜社でコーヒー。
 松本清張著『対談 昭和史発掘』(文春新書)がおもしろい。鶴見俊輔さんとの対談でGHQの話をしている(いつか紹介したい)。夜七時、ファニィで東賢次郎さんと待ち合わせ。飲んでいるあいだに豪雨。次の日、三ノ宮から船でいっしょに高松に行く。ジャンボフェリー、快適だ。

 高松に着くと『些末事研究』の福田賢治さんがお出迎え。Nöra(ノラ)というお店でお茶を飲んでから、仏生山温泉。魚のうまい居酒屋で酒。福田さん、子育てしながら、畑もやっている。高松暮らし、楽しそう。仕事と遊びの境目がないみたいなことをいっていた。

 翌日は小豆島。船の中で東さん、福田さんと座談会。ふたりとも東京で二十年くらい暮した後、東さんは京都、福田さんは高松で文字通り悠々自適の生活を送っている。座談会でもそのあたりの話をいろいろ聞かせてもらった。
 森國酒造で日本酒を飲みながら、座談会の続き。高松に戻って、もり家でうどん。
 日常の交通手段に船がある暮らしはいいとおもった。

 高速バスで大阪に出て東京に帰る。高松から大阪や京都に行く場合、バスで神戸まで行って、そのあとは阪急を使ったほうが早いし楽——と福田さんに教えてもらっていたのだが、たしかにそのとおりだった。大阪市内に入ると、渋滞にまきこまれた。

 かっぱ横丁の「阪急古書のまち」が移転していた。

2017/09/15

トーマス・ブレークモア

 先日、『フライの雑誌』の堀内さんと飲んだとき、わたしが占領期のことに関心があるという話をしていたら、ロバート・ホワイティング著『東京アウトサイダーズ 東京アンダーワールドⅡ』(松井みどり訳、角川文庫)のことを教えてくれた。
 この本にはGHQで「ジャップ・ラヴァー」と呼ばれていたトーマス・ブレークモアの話が出てくる。フライフィッシングが好きで、養沢毛鉤専用釣場を開設した人物でもある。わたしも一度、堀内さんに連れて行ってもらった。

『東京アウトサイダーズ』の第七章「いいガイジン」では、トーマス・ブレークモアにかなりの紙数をさいている。

《GHQでの彼の任務は、「すでに完成されているこの国のシステムがアメリカ人によって破壊されるのを阻止すること」だったという》

 GHQのメンバーには、日本および日本人を見下している人もいた。日本語もろくに喋れない同僚も少なくなかった。ブレークモアはちがった。彼は一九三九年に来日し、東京帝国大学で法律を学んでいる。日本の法律書を日本語で読みこなせるのは彼くらいだった。
 ブレークモアは、アメリカ側が自分たちのシステムを日本に押し付けることに抵抗し続けた。

《日本はすでに立派な法体系があるのに、GHQはわざわざ前時代的なものにすげ替えようとした。もったいない話さ》

 いっぽう起訴前の容疑者を無期限で拘留する制度の改革には尽力した。明らかな人権違反だからだ。「日本人のためになる」改革は採り入れ、そうでないものは反対する。

 GHQ退職後は、日本語で司法試験を受験し、一九五〇年、東京に弁護士事務所を開設した。弁護士活動以外にも、フライフィッシングの釣場や五日市に農業試験場(東大の実習生に開放)を造った。その農地造りには、植村直己も参加していた。
 晩年、日本を去るとき、農地は生活クラブに委譲した。莫大な資産を売却し、日本研究を志す学生の奨学金財団設立にあてている。
 一九八三年にオープンした東京ディズニーランドの法律事務を担当したのも彼だ。

 前回「幸運な占領」という小題をつけたとき、占領期の不幸な話もたくさんあることが頭によぎった。単純に考えすぎかなと……。

 ただ、占領期におけるアメリカ批判を見聞きするたび、仮に日本が戦勝国だったとして、ブレークモアのような態度を貫ける日本人がどれだけいたのだろうと考えてしまう。

2017/09/11

幸運な占領

 占領期に関する本を読み続けているのだが、鮎川信夫著『時代を読む』(文藝春秋)にも「〈日本占領革命〉の全貌」「〈占領〉と経済の民主化」といったコラムが収録されている。

 いずれもセオドア・コーエン著『日本占領革命 GHQからの証言』(上下巻、大前正臣訳、TBSブリタニカ、一九八三年刊)について書かれたものだ。
 セオドア・コーエンは一九一八年生まれ。大学時代に日本の労働運動を研究し、GHQの労働課長をつとめていた人物である。
 鮎川信夫によると、コーエンは「左翼(共産主義者)と見なされて監視されていたらしい」とのこと。後に、日本人女性と結婚し、退官後はカナダの商社の代表として東京に住んでいた。

 コーエンの著書を読んだ鮎川信夫はマッカーサーの占領政策について「傲慢なまでの正義貫徹と解したほうが、わかりよいかもしれない」と述べている。
 わずか数カ月のあいだに「主要戦犯容疑者三十九人の逮捕、検閲制度の廃止、人権の確立、治安維持法撤廃、政治犯釈放、婦人の解放と参政権の施行、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由主義化、秘密警察制度と思想統制の廃止等々」を断行した。

 コーエンの「あのきわめて風変りな占領」という言葉を受け、鮎川信夫は「風変りもなにも、歴史上、他に比べるものがない占領であった。(中略)今の米国には、とてもあんな力はないから、おそらく絶後といってもよいだろう」と記す。

《それにもまして、マッカーサーが軍事戦略家としての習慣から「つねに自らを相手の立場に置く傾向」があって、自分が農民なら自分の土地を求めるし、労働者であれば組合を結成すると考えていたという指摘は重要である》

《戦前と戦後の政治を考える場合、一番大きな違いは、戦前は政治家の顔が、軍閥と財閥の方に向けられていたのに、戦後は、労働者と農民の方に向けられていることである。これも軍閥を消滅させ、財閥を解体させた占領政策のおかげである》

……『日本占領革命』を読みたくなった。

2017/09/09

雑文

 佐藤愛子と田辺聖子との対談集『男の結び目』(集英社文庫)を再読。後半、野坂昭如が参加している座談会にこんな発言があった。

《雑文っていうのは、こっち側にチョット引かなきゃ書けないんじゃないかとボクは思ってるんですけどね。自分の考えてることが全部正しいと思って書いてると、その雑文たるや、ものすごくツマらない》

 野坂昭如の言葉である。この「チョット引く」のがむずかしい。たぶん、引きすぎてもいけない。この対談集の単行本は一九七五年刊だから、四十年以上前の話。今でも自分が「全部正しい」というような言葉をよく目にする。余裕がないかんじがする。

2017/09/07

仙台にて

 二年ぶりの仙台。平日の昼だから新幹線の席、余裕でとれるだろうと出発数時間前に予約したら、通路側の席が残りわずかという状況だった。ちょっと焦る。車中の読書は、田辺聖子。

 喫茶ホルンでコーヒーを飲んで、火星の庭へ。岡崎武志さんと待ち合わせ。会場のTHE 6はシェア型の複合施設。おしゃれな空間に緊張する。
 トークショーは……役に立つ話ができたかどうかは自信がないが、どうにか終わって一安心。宮城県の丸森町(スローバブックス)や気仙沼(イーストリアス)に古本屋ができたことを教えてもらった。

 岡崎さんは青森をまわってから仙台に。大人の休日倶楽部、うらやましい。あと二年ちょっと。五十代どうなることやら……。

 打ち上げも楽しかった。宿(一軒家?)に宿泊。すぐ寝てしまい、朝六時くらいに目が覚める。
 岡崎さんと喫茶店(エビアン)でモーニング。駅で別れ、塩釜駅へ。港に行くには本塩釜駅のほうが最寄りだった。小雨の中、歩く。歩道が広くて歩きやすい。

 塩釜から松島まで船に乗る。

 震災前、それから震災の年にも乗った。海苔や牡蠣の養殖も再開していることを知る。
 松島で海鮮丼を食べ、仙台に戻り、昼の新幹線で東京に帰る。美味しい蕎麦の店を教えてもらったのが、今回は時間がなかった。次に期待。

2017/09/04

たった三行

《昭和恐慌は左翼をつくり、次いで反作用として右翼をつくり、右翼的部分がひろがって満州事変(一九三一年)という冒険をやらせ、うわべだけの解決を見た。が、十四年後には日本そのものをほろぼした》

 昭和恐慌から敗戦まで文庫本でわずか三行。司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』(文春文庫)の「新春漫語」の言葉である。初出は「中日新聞」(一九九四年一月一日)。

《簡単にいうと、太平洋戦争は、あのとき愚かにして狂信的な軍閥が、突如として起こしたものではない。明治以来、日本人の大半がめざし、走りつづけて来たコースの果てだ、ということである》

 この要約もすごい。やはり文庫本で三行。山田風太郎著『昭和前期の青春』(ちくま文庫)の「太平洋戦争私観」の言葉である。初出は「週刊読書人」(一九七九年八月二十日号)。

 歴史はむずかしい。太平洋戦争にしても全肯定から全否定までいろいろな解釈がある。資料や証言にしても何を信じ、何を信じないかで答えはちがってくる。そもそも答えが出るのかどうかすらわからない。だから常に考え(疑い)続けるという姿勢が問われる。司馬遼太郎の「反作用」、山田風太郎の「コースの果て」は考えさせられる言葉だとおもっている。

2017/09/01

ビブリオフィル叢書

 一九九四年ごろの図書出版社の図書目録を見ていたら、近刊(予定)として、H・ジャクソン著『愛書家の解剖』(河内恵子訳)、A・S・W・ローゼンバック著『本と古書市』(戸田慎一訳)など、気になる題名の本が載っている。いずれも「ビブリオフィル叢書」のラインナップなのだが、刊行されているのかどうかわからない。

《深遠該博な知識と犀悧な鑑識眼とを二つながらに備えた著者が書物と書物人を見事に「解剖する」》(『愛書家の解剖』)

《今世紀初頭に米国の代表的な古書業者として活躍した著者が古書の売買や収集をめぐる様々な逸話を紹介する》(『本と古書市』)

 読みたいではないか。