2006/12/25

文士とは

 とくに予定はないが、原稿料の代わりにもらった一万円の図書カードがある。さらに資料の整理をしていたら、封筒にはいった一万円札が出てくる。
 新宿に行くことにする。
 紀伊國屋書店五階で大久保房男著『日本語への文士の心構え』(アートデイズ、二〇〇六年十月刊)を買う。

 大久保氏は、吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作といった第三の新人を育てた『群像』の元編集長である。
 ちなみにわたしの母校の先輩でもある。三重県立津高校。大久保氏は、伊勢の津中学と略歴に記す。生まれは紀州の人。

 二十代から三十代のはじめに『文士と文壇』(講談社、一九七〇年)や『文士とは』(紅書房、一九九九年)を読み、あまりにも古くさくて、激しくて、厳しい文学観にうろたえつつも魅了された。

《終戦後間もなくのころは、まだ文士は威張って貧乏していた。貧乏は美徳のようでさえあった。貧乏するのは原稿の注文がないということも原因するわけだが、注文しようにも妙な注文が出来ない、つまらんことを持って来させんぞ、というものが文士にあった。このおれがたとえ金をうんと積まれても、そんなつまらんこと出来るか、というものが文士にあった。文士は気むずかしくて扱いにくかったが、そこに文士の魅力があった》(文壇の戦後/『文士と文壇』)

 大久保氏は「文壇には『主人持ち』という用語があった」という。

《主人持ちとは誰かに、あるいは何か従属している人のことだ。会社勤めをしているとか、師匠についているといった人たちのことだが、志賀直哉氏は左翼作家をも主人持ちと言った。党という主人に従わねばならず、自由が制限されているからだ。(中略)言いたいことを言い、したいことをする生活は誰しも望むところだが、現実の世の中では、そんな生活の出来るわけがない。しかし、出来る限りそれに近い生活をして、心にもないことは絶対に言わず、書きたいことを、書きたい時に、書こうとしたのが文士である》(主人持ちと一匹狼/『理想の文壇を』)

 野垂れ死にしても、心にもないことは書かない。それが大久保さんの考える文士なのである。

《私小説には貧乏な生活が描かれていても、貧乏臭いところがない。それは、豊かな生活がしたくて齷齪したが、うまく行かなくて貧乏しているのではなく、初手から堂々と貧乏しているからだと思う。(中略)
 昭和三十五年、健康を回復した尾崎一雄氏は、来年二百枚を越す小説を書く、と宣言した。翌年、約束の期限を随分過ぎてからやっと書き上げたのが『まぼろしの記』であった。私はその原稿を受け取った際に枚数を確かめたら、一三四枚しかなかった。思わず、二百枚以上と言っておられたのに、たったの一三四枚ですか、と言ってしまったら、二百枚が一三四枚なら目標の七割近くだ、半分以下になることがしょっちゅうのわたしとしては、七割の歩留りなら上々だ、と居直るような調子で尾崎氏は言った》(文士赤貧物語/『文士とは』)

《昔の文士には恐ろしかった俗物という評語が威力を失い、文壇用語としてのその言葉が文壇から消えてしまったのは、文学者がみな生活巧者になって、文壇が俗界と変わりなくなってしまったからではないか》(文士赤貧物語)

 出た、俗物。大久保氏は、この言葉でもって作家を斬る、最後の編集者だろう。「小説とは血を流して書くもの」と言いきる編集者でもある。
 処世は俗物のすること。文士は俗界に習俗に従ってはならない。
 作品を褒めようが貶そうが作者には関係がないことだから、褒められたからといって礼状を出すのはおかしい。何かをしてもらうために一席もうけたりするのは俗物の処世である。

《一般社会では、文士らしい文士の行動は、大人気ないということになるのだ》(文士と普通の人のちがい/『理想の文壇を』)

 大久保氏は、そんな大人気なさが文士の魅力だとおもっているようだ。

 新刊の『日本語への文士の心構え』を読んでいたら、次のような一文があった。

《文壇には戒律というと大袈裟だが、文章を書く上で三つの戒律のようなものがあった。
 一、常套句を使うな。
 二、オノマトペを使うな。
 三、記号を使うな》

 この三つのうち、文壇では「常套句を使うな」がいちばんきびしい戒めだったという。

《美しい景色を常套句によって書くことは極めて簡単だが、その景色がどのように美しいかを読者に感じさせる文章を書くことは、なまやさしいことではない》(正しく、美しく、強い文章)

 この本は、言葉や文章について助言を与えてくれるだけでなく、文士たちの残した言葉もいろいろ教えてくれる。

《尾崎一雄氏は、下向いて書くな、と言っていた。下向くとは、読者を自分よりも劣った者と見るということである。自分よりすぐれた人に、せいぜい自分と同格の人に向って、これが私の精一杯のものです、と差し出すのが文学であって、読者を自分より下に見て書いたものは通俗小説だ、と尾崎さんは言っていた》

 今日十二月二十五日は尾崎一雄の誕生日。『まぼろしの記』を読み返してみたくなった。 

2006/12/22

体力

 長年、体力は気力でおぎなえるのではないかとおもっていた。
 わたしは体力に自信がない。子どものころから年百日くらい風邪気味だった。そんなからだで生きてきたのだ。そのかわり気力は人並かそれ以上あると自負していた。気力にしても体力にしても回復させる方法は休むしかない。
 だから休んでばかりいる。休めば元にもどる。そうおもっていたのだが、このごろなかなか気力も体力も回復しないのである。
 昨日は充分休んだ。今日はやるぞとおもう。ところが、あんまりやる気がでない。最近そういうことが多い。

 なまけてばかりいるから、確実に体力が落ちている。あきらかに全身の筋力も衰えている。
 そのことは疑いようがない。
 体力が落ちるにともなって、気力も落ちるのかもしれない。気力でおぎなっているつもりだったのは、まだ若くて、体力があったから、そんな気になっていたにすぎない。そうにちがいない。

 話はかわるが、質と量の関係も似ているかもしれない。
 質より量、量より質。どちらがいいのかわからない。ただ量は質に転化することはあるが、質は量に転化しない。
 体力がないと、量を生みだせない。わたしの生活がなかなか向上しない理由はそこにある。仕事量が足りない分、質で勝負しようという気持はないでもないが、そう簡単に質は上がらない。あるていど量をこなさないと、質も上がらないのではないか。やっぱり場数がものをいうのではないか。

 体力あっての気力という発想に変えたほうがいいのかもしれない。といっても、体力は人並以下である。だからこれまではあんまり体力のことを考えないようにしてきたのである。でも体力がおとろえると、気力もおとろえることを痛感してしまった以上、なにか手を打たないとまずい。

 体力とはなにか。筋力と内蔵の丈夫さだとおもっている。
 わたしはあんまり食欲がない。ほぼ毎日、酒、タバコ、コーヒー漬けである。今のところその生活はあらためる気はない。不摂生をしながら、体力よりも気力で勝負というのは、虫のいい話である。
 すこしはからだを鍛えよう。食生活を見直そう。
 これからいろいろなことを改善していくつもりである。
            *
 先月、神保町の古書会館で「古本・夜の学校」というイベント(書肆アクセスの畠中さんと石田千さんとわたしのトークショー)があって、その中で今年の三冊を発表した。

 わたしはアンディ・ルーニーの『自己改善週間』(北澤和彦訳、晶文社)を三冊のうちの一冊にあげた。もちろん新刊ではない。
 この十年くらい、日本の私小説や身辺雑記をこよなく愛してきたのだが、せまいジャンルをひたすら読みつづけていると、行きづまってくる。
 なかなか尾崎一雄や古山高麗雄みたいに全作品を読みたくなるような作家もあらわれない。

 ところが、アメリカにも「人生派コラムニスト」と呼ばれる人たちがいて、その代表ともいえるマイク・ロイコとアンディ・ルーニーを読んだら、予想以上に好みの作品だった。

 とくにアンディ・ルーニーはわたしの理想のコラムニストだ。
 ちましましていて、ちょっとだめなかんじがほんとうに素晴らしい。アメリカは、大雑把で大味な国という印象だったが、考えをあらためなければいけないとおもった。

『自己改善週間』には「またやってしまった——何もせず」というコラムがある。

《いまだに学習していないのはわかっている。というのも、今年もまたやってしまったのだ。休暇先に山のような書類仕事を持っていったのはいいが、ひとつも片づかなかった。去年も一昨年もおなじことをしたし、思い出すかぎり何年も繰り返している。返事を出す手紙、未払いの請求書、書きたいことに関するメモを持っていった。何もせず。(中略)
 何かをしないというのはよくわかる。しかし、絶対にやれるはずがないと経験でわかっているのに、どうしていつも何かをやろうと甘い考えを抱くのか。わたしはそのあたりがわかっていない》

 こういう文章、わたしはほんとうに好きだ。

 タイトルにもなっている「自己改善週間」というコラムでは、こう高らかに宣言する。

《ジョギングをし、グレープフルーツを食べ、運動をし、歯をみがき、新聞を読み、ズボンにアイロンをかけ、爪を切ったら、二、三分間力を抜いて黙想し、一日の計画を立てる。どこかで読んだが、みんな、朝まえもって一日の計画を立てるべきで、行き当たりばったりに始めてはいけないそうだ。わたしはそうする》

 体力は大切だ。体力はけっして気力ではおぎなえない。
 これまでの考えはまちがっていた。心をいれかえたい。
 いや、からだを変えたい。

2006/12/16

エンドレスブックストリート

 太田克彦の『エンドレスブックストリート』(総林社)という本を読んだ。そんなに分厚い本ではないけど、読むのに三日もかかった。かんがえることがいっぱいあって、途中で読みおわるのがもったいなくなったのだ。
 現実が停滞すると、読書も停滞する。ただ現実の停滞を読書によってすこしだけ動かすこともできる。
 そういう本が読みたい。そうおもっていたときに太田克彦の一連の作品に出くわしたのである。

《本にたいする価値観が、どこにあるのか自分でもよくわからない。たいていのものは値段が高いか安いか判断できるのだが、本に関してはどうもぼくだけの基準で考えているようだ。たった一行のために高い金を出すことも珍しくない》(“読者”といっても二つのタイプがある)

 行きづまった考えを、すこし先に進ませてくれるような、こんがらがった考えをほどいてくれるような、あるいは別の方向性に気づかせてくれるような一行を求めて、わたしも本を読むことがある。
 この本もそういう本だった。

 さらにこんなことも書かれていた。

《そのくせぼくは本が好きなのかと考えると、そうでもない。むしろ本なんて一冊もない生活だったら、サッパリするだろうと思っている。(中略)いまある本をすべて処分したら気分がいいだろうと思ういっぽう、周りに本がギッシリあるからなんとなく落ち着けるという実感とのあいだで、いつも心は揺れ動いている。事実、これまでに何度か手持ちの本を思いきって処分しているのだが、ものの一か月もたたないうちに後悔してしまう》

 まったく面識はないが、おもわず「先輩」と呼びたくなる。

 太田克彦は、読者の二つのタイプとして、ふだん本屋に立ち寄らない人と本屋にはいったらなかなか出てこない人にわかれ、「ベストセラーは日ごろ本を読まない層に支えられることが多い」という。だからマスコミの世界で働く本が好きな人は、作品を売るために「自分では身銭を切って買うことのないであろう」企画を立てることがよくある。

《どうも読者、読者と、幻の読者を気にしているのではないだろうか。いまの読者の傾向は、などと考える前に、自分の興味がこの時代の中でどこにあるかということを考えたほうが有効性を持つと思うのだ。自分の興味が発見できないと、たいてい幻の読者にすがろうとする。なんといっても説得すべき最大の読者は自分なのだ》

 自分の興味をひたすら追いかけて、追いかけているうちに迷いがしょうじる。これでいいのかとおもう。自己満足ではないのか。プロなら自分ではなく読者をよろこばせるようなものを書くべきではないのか。
 自分がおもしろいとおもうものは、自分以外にもおもしろいとおもう人がいる。

 この時代、一年、あるいは数ヶ月、いや、数日で情報は古くなる。そのテンポはますます早くなっている。この時代の中で古くならないものを見つけたい。わたしの古本屋、中古レコードへの興味のひとつはそこにある。
 文学についてもそうおもう。今の小説にしても、数年後、数十年後にちゃんと古書価のつくものはどのくらいあるのか。古書価はともかく、十年後、読者はいるのか。わたしはそういう目で新刊書を見てしまうことがある。

 一九八四年刊の『エンドレスブックストリート』は、一九七七年以降七年にわたる「時代」の本がたくさん紹介されている。
 浅田彰『構造の力』、中沢新一『チベットのモーツアルト』、『メイド・イン・USAカタログ』、ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』、『ワッサーマンのアメリカ史』、落合信彦『アメリカが日本を捨てる日』、宮内勝典『グリニッジの光を離れて』、ライアル・ワトスン『生命潮流』、沢渡朔『少女アリス』、篠山紀信『カメラ小僧の世界旅行』、荒木経惟『男と女の間には写真機がある』、藤原新也『東京漂流』……。
 そんな「当時」の本のあいだに、野尻抱影、稲垣足穂、小山内龍、山川惣治といった名前も出てくる。

《(小山内龍の)『昆虫放談』は、昭和十六年に発行されて以来、これまで単行本として三回上梓されている。それにしても四〇年もたったいまでも、みずみずしい感触がある本なんてそうザラにはない。驚きだ。バイクも釣りもそうだが、あらゆるブームはマニアがつくる。学者が書いた本ではなく、ひとつの世界にのめりこんだマニアが著した本には、やはり普遍性があるものだなと思っている》(できればゴリラになってしまいたい)

 新刊本の紹介の部分は多少古くなっている。またわたしの不勉強のせいもあって、ヴィジュアル関係の話にはほとんどついていけない。しかし本を読んだとき、写真集を見たときの太田克彦の心のうごきはまったく色あせていない。

《本についてぼくはいろいろ書いてきた。しかしその日の気分で、ピックアップする本も書き方もちがう。何の脈略も系統もない。けれどもとりあげる本は、その日に出会った風景の一部なのだ。ぼくにとって本とは、知性の道具ではなくて、感性の刺激剤だ》(いままでほんとうの“知”がブームになったことなど一度もない)

 選んだ本は「単に締切近くなって偶然出会い、心の琴線に触れた本ばかり」だという。
 新しいものを追いかけながら、古くならないものを書く。
 それはほんとうにむずかしいことだ。
 この新しい、古いの感覚も、個人の感受性に左右されるところもある。
 古いものの中に新しさを発見する感覚、そして心の琴線を麻痺させないためにはどうすればいいのか。

 そんなことも考えさせられてしまった。 

2006/12/06

冬さえなければ

「男の人でも冷え性になるんですね」
 そりゃなるよ。低血圧に低体温。おまけに貧血性。だから冬は苦手である。
 もともと悪い寝起きがさらにひどくなる。起きてから一時間くらい指に力がはいらない。靴下がはけない。
 足の裏が冷えるとすぐ風邪をひいてしまうから、長時間外出できない。
 冷たい風が顔にあたると、泣けてくる。
 コタツにストーブ、加湿器。室温は二十度以上に保つ。そうしないと仕事ができない。冬はいつもより光熱費がかかる。だから働かないといけない。

 アルバイト代が出たので、防寒グッズを買いそろえることにした。シャカシャカしたズボンとゴアテックス製の靴を買った。ズボンは安かったが、靴は一万円くらいした。かなりおもいきった買い物だがこの選択に悔いはない。
 すこしでも寒さを防げるのであれば、安いものだ。
 さっそくはいてみた。重い。このまま山登りができそうだ。重い靴は苦手なのだが、寒いのはもっと苦手なので、ガマンすることにする。
 耳が隠せる帽子、手袋、マフラーも完備している。なぜか帽子をよくなくす。毎年なくす。どこでなくすのかわからない。

 冬を越す。それが目標だ。冬を越せば、なんとかなる。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/12/05

紳士とは何ぞや

《立居振舞において、「紳士」という言葉が私の脳裏に浮ぶことはないが、その替りに浮かぶものがある。それは、「人間」とか「男子」とかいう言葉である。つまり、「こういうことをしては、人間として面目ない」とか、「男子として面目ない」とかいう発想である。
 そして、この「面目ない」ことを犯した場合は、長くそのことが傷となって私の心に残る。長い時日が経って、全く心の表面から消えうせたようになっていても、なにかのキッカケでなまなましく記憶がよみがえり、傷が痛むことがしばしば起る。そんなときには、
「あ、あああ」
 と、私の咽の奥でわれ知らず、声に似た音が鳴るのである》(紳士はロクロ首たるべし/吉行淳之介著『不作法紳士』集英社文庫)

 ときどき「文学とはなにか?」と自問する。偏っているかもしれないが、わたしは「あ、あああ」というものが、文学なのではないかとおもっている。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/11/27

明日のために

 雨の日でも換気する。一日一回は。
 それから布団を押入にしまう。掃除機をかける。
 そして好きな音楽をかけて、コーヒーを飲む。
 その日一日の気分をよくしようとおもったら、そんなちょっとしたことがけっこう大事だったりする。

 しかし、いま二日酔いで頭が痛くて何もできないでいる。
 ゴミも洗濯物もたまっている。

 いやな気分を切り替えたいとおもう。そのとき、楽しいことをおもいだすようにしている。
 友人の部屋で鍋をやったり、カレーを食ったりしたこと。そのときは楽しさの渦中にいて、そのありがたみに気がつかない。
 でもたのしいよなあ、鍋。なんでたのしいんだろう。
 別に鍋でなくてもなんでもいい。部屋で柿の種をつまみにただひたすら酒を飲むだけでもいい。
 学生時代にそうやって部屋飲みしていて、夜中、みんながおなかがすいたとき、さっと台所に立って、塩焼きそばを作ってくれた先輩がいた。
 あれはうまかった。十七、八年前の話だけど、いまでもときどきおもいだす。

 このあいだ「テレビで見てたら、おいしそうとおもったから、グリーンカレーを作ったの。普通のカレーもあるよ」とクーラーバックにいれて、Hさんが持ってきた。
 仲間数人と近所の居酒屋で焼酎のボトル(一升瓶)を飲んで、そのあとコンビニで電子レンジでチンするごはんを買って、わたしの家にきて、みんなで食った。
 カレーを食いながら、「そうなんだよ、これが幸せってものなんだよ」とおもった。
 楽しい生活にはそんなにお金はかからない。飲みたいだけ飲んで、眠くなったら寝て、帰りたくなったら帰る。

 居酒屋でわれわれはいちばんうるさい客になる。店にとっては、迷惑な客かもしれないが、誰かが、いつの間にか店主と仲良くなっていて、たいていのことは大目にみてもらえるようになる。
 わたしは、そういう場所でいまだにおっかなびっくりだ。でも彼らは「平気、平気」といいながら、どんどん飲んで、どんどんさわいで、酔いつぶれる。

 昔はよく近所の公園で中央線界隈のバンドマンたちとよく飲んだ。飲んでいる最中、誰かがケンカをはじめても、まったく気にせず、わいわい騒ぎ続けている。酒の席での失言や醜態なんて、ぜんぶ水に流してくれる。
 別にやさしいわけではない。怒るときは怒る。ときどきまわりがびっくりするくらい怒る。でもすぐ許し、すぐ忘れる。

 そんなふうに、わたしには見えているのだが、ほんとうのところはわからない。案外、ひきずったり、おちこんだりしているのかもしれない。それでもたいてい次に会ったときには、なにごともなかったかのように笑っている。

 彼らと飲むようになって、仕事がいちばんではない人生があることも知った。
 十年前はこんなかんじで大丈夫なのかと心配していた。食っていけるのか?

 家でカレーをいっしょに食った寿司屋の娘なのに刺身が食えないMさんは、金がたまると会社をぱっとやめて一年くらい海外に行ってしまう。そんなことをくりかえしている。仕事は遊ぶための金を稼ぐ手段だと割り切っているのかもしれない。
 仕事? 帰ってきたら、また探せばいいじゃん。
 とても真似できない。

 老後? わからない。でも楽しいことはわかる。それは楽しい人たちといっしょにいることだ。

2006/11/19

時間がたらたら流れてゆきます

 つかわない筋肉はおとろえる。
 走らない生活をしていると、ほんとうに走れなくなる。ちょっと運動すると、すぐ息があがる。
 からだのおとろえもあるが、意欲や意志だっておとえる。
 好奇心のおもむくまま……なんていってられない。

 枯れる。力をぬく。三十歳くらいまでは、そういうのもわるくないかなとおもっていた。しかし、別に努力しなくても、力は出なくなるし、枯れていくことがわかったので、今は無理をしても好奇心や向上心をもちつづけたいとおもう。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/11/13

専門と専門外

 わたしは自分のわからないものを否定する気はない。
 いくらプロ将棋の棋士の対局を見てもわからない。そのすごさがわかるためには、かなり将棋を勉強しなければならないことはわかる。でも将棋の棋士が、文学や政治や経済について意見を述べた場合、「ちょっとちがうだろう」とおもうことはよくある。

 スピリチュアル・カウンセラーや占い師が、霊やオーラについて語るのは別にいい。彼らはそういう専門家だ。でも家族関係や教育や政治、あるいは医学については、あんまり余計なことはいわないでほしいとおもっている。
「あなたの病気の原因は………」という以上、いちおう医学部くらいは卒業していてほしい。
 ただし、病は気からという考えもあることは否定しない。科学が万能であるともおもっていない。

 わたしはフリーライターという立場上、オタクのことやエハラー現象、エビちゃんOL、そのほかいろいろな原稿が書いている。いずれも専門ではない。専門ではないが、読めるかぎりのものは読んで書いているつもりだ。

 良書、悪書を見分ける能力は、あまり本を読まない人よりはあるとおもっている。文章になったものであれば、その矛盾や破綻についても、あまり本を読まない人よりは見える。

『新潮45』で連載中の江原啓之の「スピリチュアル世相診断」(二〇〇六年十一月号)では、日本の少子化問題について、かれはこんなふうに書いている。

《さて、先ほど子どもは親や国を選んで生まれてくると言いました。となると、日本で起きている少子化現象は、子どものたましいが日本人の両親を選ばなくなっているせいだからでしょうか》

《私たちのたましいはこの世を受け、それぞれの人生を生きています。同じようにこの世に生まれ、自らを浄化向上させていきたいと思っているたましいは、霊的世界にはたくさん待機しています。ところが、この世に肉体を持っている人がお腹を貸して産んでくれない限り、その願いは永遠に果たせません。
 ですから、親になって一人でも多くの人間をこの世に誕生させてあげることは、霊的世界に対する尊いボランティアなのです》

 わたしは霊は見えないが、この論理でいうと、「子どものたましい」は、戦争や飢饉に苦しんでいる国の子どものたくさん産む人のところを選んでいるということになる。

 また「一人でも多くの人間をこの世に誕生させてあげること」が、霊の世界にはよいことでも人口爆発で社会がめちゃくちゃになってしまうようでは本末転倒である。
 霊の世界によいことは、かならずしも人間の世界にとっていいとはかぎらないし、さらに地球上の生態系にとってもあんまりよいことではないということになる。

 もしわたしが霊の見える人間だったら、霊の世界に加担するかどうか、悩むだろう。「子どものたましい」は、戦争や飢饉がある国を選ぶのであれば、どんどん人が死ぬほうがいいという話になる。そうすれば、人が死ねば死ぬほど霊は増える。霊にとっては、そのほうがいいとなれば、わたしはそんな霊のいいなりにはなりたくない。

 すくなくとも、江原啓之の少子化対策に関する文章には説得力がないと判断した。
 でも彼の言葉に救われる人がいることは否定しない。

 最近、気になっているのは、爆笑問題の太田光の政治発言である。
 お笑い芸人という立場ではなく、政治家(あるいはその専門家)と対等の話し方になっているときがある。漫画家の小林よしのりもそうなってしまった。「専門外」から「専門」になった。そして「専門」になったとたん、余裕がなくなる。
 ようするに、おもしろくなくなる。
 おもしろいということは、特殊な才能である。

 爆笑問題のようなお笑い芸人になることは至難のわざだが、太田光くらいの政治発言をする人間はいくらでもいる。太田総理? 向いてないよ。

 わたしも専門外の政治についてものをいうと、中学生レベルの薄っぺらなことをいってしまい、いつもあとで恥ずかしいおもいをする。だから専門の深いことはわからなくても、薄っぺらなかんじだけはわかるのだ。

 専門外のことにたいして、なにかいいたくなる欲求はわたしにもある。
 ひょっとしたら、守護霊のせいかもしれない。

2006/11/08

ねむい日

 きのう午前中、宅配便(インターネットで注文した古本)が三回来て、睡眠が中断してしまった。しばらく部屋の掃除をして、正午すぎから午後三時くらいまで寝て、それから一時間くらい高円寺の南口のほうの散歩して、名曲喫茶ネルケンでコーヒーを飲んだ。
 風の強い日はからだがだるくなる。大潮のときは、頭が働かなくなる。
 夕方五時すぎ、また眠くなる。起きたら日付が変わっていた。

 深夜一時すぎ、コンビニにタバコを買いにいく。
 寒い。手が冷える。
 家に帰ってコタツ布団を出すことにした。十一月にコタツ布団を出すのは、はじめてかもしれない。いつもは十月の半ばごろには出ている。

 いつもコタツで仕事をしている。子どものころからコタツが机がわりだった。せまい長屋で親子三人でくらしていたので、机というものがなかった。

 十九歳でカバンひとつで上京したとき、真っ先に買ったのは、コタツと電気スタンドだった。質屋で買った。合わせて千五百円。電気スタンドは店の人におまけしてもらった。
 布団がなかったのでコタツで寝ていた。
 一九八九年、バブルの最盛期だったが、部屋にはテレビも電話も冷蔵庫も洗濯機もなかった。
 電話も風呂もトイレも共同だった。
 電車賃がなくて新宿から高円寺までよく歩いた。
 全国のコミューンを訪ね、電気もガスも水道もない村で、朝五時に薪割り、鶏をしめたり、堆肥をつくったり、豚小屋の掃除なんかもした。
 そういう環境になれば、自分はちゃんと適応できることがわかった。

 それから何度か引っ越しをくりかえし、ものが増えた。もうほしい電化製品はない。置く場所もない。壊れたら、買い替える。それだけだ。

 花森安治著『逆立ちの世の中』(河出新書、一九五四年)に「暮しの中から」というエッセイがある。

《電気センタク機があつたら、真空掃除機があつたら、電気冷蔵庫があつたら、どんなにかたのしい暮しが出来るだろうと思うのは人情であろう。反対はしない。
 しかし、センタク機どころか、肝腎の電気ひとつ自由に使えない世の中に暮して、あれがあつたら、これがあつたらは夢の話に近い。むろんこの夢の話が実現しなくては、暮しの向上も、解放も出来ないということもわかる》

 半世紀前の日本の話である。
 センタク機、掃除機、冷蔵庫が、夢の電化製品だった時代があった。

 さらにこんな話も出てくる。

《みかん箱でもいいから、椅子の代りに、台所に置いたら、と言つたら、ミカン箱の椅子なんてそんなミミッチイこといやですわ、と答えたひとがいる。
 ミカン箱の椅子は、たしかにミミッチイ。出来ることなら、外国雑誌に出ているような、純白のラッカア吹きつけの、ハイカラな椅子がいいにきまつている。
 しかし、そんな椅子を買えなかったら、どうすればいいのだろう。いまの日本の暮しは、まあ、そんな状態なのだから》

《美しく暮したいと思うことは、たしかに人間の、すべての人間の権利である。
 百のことが出来なければ、ゼロでよろしい、というのは玉砕主義である。百のことをするなというための、ゴマカシを言うつもりではなく、百のことが出来ないとき、たとえミミッチかろうと何であろうと、一つでも二つでも、ほんのすこしでもいまより美しく暮したいと思い、思う以上は、それをやってみる、それが、人間としての権利なのだろう、という気がして仕方がないのである》

 生活の向上という目標は、いつごろ達成されたのだろう。
 まだまだ、もっともっと向上したいとおもう人もいるかもしれないが、現在多くの日本人の物欲、消費欲の対象は、生活必需品ではなくなってしまった。
 冷暖房のある部屋に住んで、着る服にも食うものにも困らない。
 むしろものが増えすぎて困っている。
 いったいどれだけの時間を整理整頓に費やしているか、わからない。

 読んでいない本を売る。まだ着られる服、履ける靴を捨てる、賞味期限のきれた食材を捨てる。
 おかしなことになっているとおもう。
 向上心をもつことがむずかしくなっている。
 自分はなんのために生きているのかわからない人がいてもおかしくない。昔の人だって、そんなことはわからなかった。ただ、そんなことをかんがえるひまがなかった。

 このあいだ、神保町で編集者と酒を飲んだとき、「昔は、このへん、コンビニもなにもなくて、夜、泊まりで仕事だとほんとうに困ったんだよ」という話になった。
 編集部に泊まりこみで仕事をすると、十五分くらい歩いたところにある二十四時間営業の牛丼屋でメシを食った。
「ここで屋台やったら、ぜったい儲かるよ」
 貧乏ライターと会うと、そんな話ばかりしていた気がする。

 今、高円寺では駅前のスーパーも二十四時間営業だし、通りという通り、いたるところにコンビニがある。
 人の欲望は、暮らしをどんどん便利にしていく。
 インターネットのおかげで家にいながら、なんでも買える。
 家事代行サービスなんていうものもある。

 そのうちロボットが働いて、人間は遊んで暮らしていけるような世の中になるかもしれない。そうなったら、趣味で苛酷な労働をやりたいとおもうような人も出てくるかもしれない。
 今だってわざわざ高いお金をはらって、スポーツジムで汗を流す人がいるくらいだ。
 昔の日本人からすれば、かんがえられないぜいたくだ。

《買いものをするのは、誰でもたのしいにちがいないと思うが、それも買うものによりけりで、今夜からどうしても必要なたわしを買うとか、いよいよ使えなくなつた土瓶を一つ買うとかいうのは、おなじ買いものでも、あまりたのしくないのはどうしたわけだろう。
 これに反して、なにを買うというあてもなく、ふところにいくらかのお金を持つて、飾り窓をのぞいて歩く気持は、無類格別である》

《お金を上手に使うというのは、たのしく暮らすための技術である。上手に使つたつもりなのに、かえつてたのしくないとしたら、それはほんとうに上手な使い方ではあるまい、きちんと整理された家計簿であればあるほど、その費用の一つに「むだづかい」という項を入れるべきだと思う。いくらいそがしいからといつて、まさか、十日も一月も眠らないですませようというひとはないだろう。働くためには、ムダにみえる「寝る」ということが実は必要なのである。老子だかの言葉に、「無用の用」というのがあるが、つまりそれである。目の先の合理的にとらわれて、「無用の用」をわすれると、結局は大きい意味で、非常な不合理をしていることになつてしまう》
 (高価なものと美しいものと/『逆立ちの世の中』)

 ちなみに「無用の用」は、老子ではなく、荘子だったような気がするのだが、それはさておき、むだづかいばかりして、遊んでばかりいて、寝てばかりいる人間も、世の中にとっての、なんらかの「無用の用」の役割をはたすのか、はたさないのか?
 いそがしい人が読まない本を読んだり、かんがえないことをかんがえたり、悩まないことを悩んだりすることが人類の役に立つことだってあるかもしれない。
 いや、今、日本中が生活必需品ではなく、「無用の用」を作り出すことにあくせくしているのではないだろうか?

 そんなことをかんがえていたら、また眠くなってきた。

2006/11/03

京都帰り

 京都、百万遍の古本まつりに行ってきた。前日から「sumus」同人の扉野良人さんの家に泊った。ちなみに扉野さんは学生時代、東京にいたころからの知り合いで、扉野さんが東京にきたときはうちに泊る。

 扉野家に行く前に、河原町の六曜社でコーヒーを飲んで、寺町三条アーケードからちょっと横にはいったところにある常盤というそば屋で親子なんばうどんを食べた。
 高校生のころから、京都にいくと同じことをしている。

 それにしても、つくづく丸善がなくなったのはさびしい。

 昨年の十月、元青山ブックセンターの書店員の柳瀬徹さん(現在編集者)と京都にあそびにいったときには、たまたま丸善の閉店の日とかさなった。営業時間終了の瞬間にも立ち合い、柳瀬さんと閉まるシャッターをながめた。
 今年の春先には、かつて駸々堂があったあとに入ったブックファーストの京都店もなくなった。
 京都に来てあらためて書店業界のきびしさをおもいしる。

 河原町から加茂川沿いに出町柳まで歩き、京都大学付近の古本屋を散策。そのあと叡山電車で恵文社一乗寺店に行く。
 そこで『天野忠随筆選』(編集工房ノア)が二冊、目の前で売れてゆく瞬間を目撃する。さすがは京都だとおもった。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/23

低人雜記

 やっと秋の花粉症がぬけたとおもって調子にのって毎晩飲んでいたら、風邪をひいてしまう。またまたいろいろ不義理をしてしまう。

 布団の中で『石神井書林古書目録』の「モダニズムの詩1/マヴォの周辺・アナプロ他」の頁を読みながら長考する。
 
 西山勇太郎著『低人雑記』(無風帯社、昭和十四年七月刊)が出ているからである。
 序文は辻潤が書いている。辻潤がらみの本を追いかけると、ほんとうに破産しかねないので、いつも強めにブレーキを踏んでいるのだが、これはほしい。百円均一の文庫本が五百冊くらい買える値段だ。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/20

安吾百歳

 昼間から酒が飲みたくなるが、ぐっとこらえる。これだけはガマンしている。
 二十代半ばのとき、自由業者の友人と将来のことを話していたとき、「昼から酒を飲むのだけはやめよう」という結論になった。
 そのころ近所の公園でいつも昼から酒を飲んでいたのである。
 やっぱり自制心と向上心だ。
 規則正しく、ちゃんとした生活をしたい。自分のコンディションをつねにととのえ、仕事以外の時間はひたすら勉強するような暮らしにあこがれる。
 そこで問題になるのは、勉強とはなにかということである。
 たとえば、本を読むことは勉強になるのか?
 本を読んでいると、勉強しているような気になるが、ひたすら現実逃避しているともいえる。

 仕事で昔のことをやるなら、「なぜ今○○なのか?」ということをはったりでもいいから、説得する必要がある。
 でも「なぜ今?」といっても、今がいやだから、古本や中古レコードが好きだったりするわけですよ。
 もちろん、生誕百年、没後百年といった区切りの年をつかう手はある。

 今日二〇〇六年の十月二十日は、坂口安吾の生誕百年である。
 あと竹中英太郎も十二月十八日が生誕百年である。
 すっかり忘れていたが、吉行エイスケも生誕百年だった(五月十日)。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/15

囲碁随筆

 古本屋めぐりの醍醐味のひとつは、なんとていっても「掘りだしもの」を見つけることだろう。
 ほぼ毎日古本屋をのぞいているが、手にとった瞬間、「おお、これは」と感激にふるえるような本にはなかなかお目にかかれない。日ごろの善行が足りないのかもしれない。

 先日、神保町をふらふら歩いていて、いつものようにぶらじるでお茶を飲もうとおもい、その前に三冊五百円の均一コーナーを見ていたら、ひさしぶりに「おお、これは」という本があった。

 榊山潤編『囲碁随筆 碁苦楽』(南北社、昭和三十七年十月)である。
 わたしは碁将棋の随筆には目がない。碁のルールもわからないのに囲碁随筆が好きなのだ。
『碁苦楽』は、榊山潤編『囲碁随筆 碁がたき』(南北社、昭和三十五年十二月)の続編である。『碁がたき』はすでに入手していたが、『碁苦楽』のほうは、はじめて見た。

 執筆者は、徳川夢声、梅崎春生、大岡昇平、江崎誠致、小沼丹、高木彬光、近藤啓太郎、小田嶽夫、尾崎一雄といったそうそうたる顔ぶれである。
 かつての文壇は、囲碁、将棋がとても盛んだった。しかも、碁将棋をめぐって、おとなげないケンカをしていたりして、とてもおもしろい。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/10

受け身の生活

 二十八歳のときだった。
 ある日、近所の喫茶店でハンバーグランチを注文した。子供のころから、ハンバークが好きだった。
 しかし食後、胃がもたれた。半日くらいむかむかした。
 その日以来、ハンバーグだけでなく、トンカツや天ぷらも、体調がよくないと受けつけなくなってしまった。
 しだいにこってりしたものより、あっさりしたものを好むようになった。

 こうした味覚の変化は、まず音楽の趣味にも影響をおよぼしはじめた。
 ロックをあまり聴かなくなった。熱唱するボーカルがだめになった。アコースティック系のポップスばかり聴くようになった。
 ドン・クーパー、ピーター・アレン、ジェイムス・テイラー。だいたい一九七一年から一九七三年くらいに集中している。たまにロックのCDも買うが、いわゆるソフトロックとよばれるジャンルに偏っている。手当たりしだいに聴いて、だんだん同じものばかり聴くようになって、以前とくらべて、レコード、CDを買わなくなった。

 二十代の終わりごろ、読書の趣味も変わった。「淡々とした」とか「飄々とした」とか形容されるような作風を好むようになった。
 尾崎一雄にはじまり、木山捷平や小沼丹を経て、梅崎春生を読み、そのあたりで足が止まった。気がつくと再読ばかりしている。

 ほぼ毎日、古本屋か中古レコード屋をまわる。本ばかり買う時期、レコードばかり買う時期が、交互にやってくる。
 低迷期を経て、しばらくすると、また琴線にふれるものがあらわれる。

 三十代以降、自分のアンテナというかセンサーだけでは、すぐ行き詰まってしまうので、友だちがすすめるものを読んだり、聴いたりすることが多くなった。
「あれ、けっこうおもしろかったよ」
「じゃあ、読んでみようかな」
 最近教えてもらったのは、コーリイ・フォードの『わたしを見かけませんでしたか?』(浅倉久志訳、ハヤカワepi文庫)という本。ユーモア・スケッチの第一人者だそうだが、海外文学にうといわたしはまったく知らなかった。

 デパートやレストランでなかなか店員に気づいてもらえない。タクシーも止まってくれない。

《ひょっとすると、わたしは存在しないのかもしれない。ここにさえいないのかもしれない。わたしは紹介された相手が、つぎに会ったときにわたしをおぼえていたためしがない》(「わたしを見かけませんでしたか?」)

 かなり好きなタイプの作品だ。
 こちらの趣味のツボのようなものを心得ている友人がいるとたのもしい。
 映画に関しては、主体性を捨てた。二十代のころから人にすすめられた作品をビデオで借りて観る生活をしている。

 それでもときどき、三ヶ月にいちどくらいハンバーグを食いたくなる。挑戦という気持もなくはない。もう若くないという現実を受け容れるのには時間がかかる。

2006/10/03

三十五歳定年説

 菊池寛は編集者は三十五歳(三十歳だったかも?)で定年といっていた。きびしい意見である。
 自分をかえりみると、新しいものにたいする反射神経は鈍ってきたなとおもったのは三十歳前後だった。

 CDの新譜を買う枚数があきらかに減った。もともと中古レコードが好きだったということを差し引いても、新しいものがわからなくなった。お金をつかわなくなった。

 自分の年齢プラスマイナス十歳くらいの考え方、感覚はなんとかわかる。ただプラスマイナス二十歳がわかる人というのはすくない。本人はわかっているつもりでも、ズレている。
 三十五歳は、四十五歳と二十五歳の感覚はなんとなくわかる。でも十八歳、二十歳の感覚となると、ちょっとあやしくなってくる。
 年輩の人で話しかけやすい人と話しかけにくい人がいる。自分の父親と同じくらいの年齢なのに、いっしょになってふざけたり、冗談がいえたりする人がいて、そういう人はちょっとすごいなあとおもう。貫録はまったくないんだけど、特殊な能力だとおもう。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/09/22

われ関せず

 最近は調子のいいときしか人と会わないよう心がけているので、外ではわりと元気なすがたを見せている(……とおもう)。
 でも基本は不安定である。天候にも左右される。とくに台風がだめだ。気温の変化にも弱い。
 日常生活においても「疲れをとる」「ストレスをやわらげる」ということの優先順位は高い。仕事よりも上にくる。

 人間社会というものは、たいてい弱い人、あるいは弱い立場にしわよせがいくようになっている。そのことに弱者は文句をいう権利がある。ただ文句をいうことによって、余計こじれてしまうこともある。
 だからなるべく社会のかたすみでひっそり生きてゆくのもひとつの手だろう。負け犬の発想といわれたら、そのとおりだとおもうが、自分の心を消耗させるようないざこざからは「距離をとる」という選択はあってもいい。

「そんな腰くだけの発想では、世の中はよくならない」という人は、なぜ自分はそういう弱腰で弱気な人を見ると、意見したくなるのかいちどよくかんがえてみてほしい。
 無意識の闘争本能が(自分の勝てそうな、言い負かせそうな)弱者に向かっているだけではないのか? あるいは弱い人の平穏な生活をかんがえず、ひたすら自分の意見を押しつけたいという気持はないだろうか?

 わたしも他人の生き方を干渉してしまうことがある。
「なにがしたいのか?」
「それでいいのか?」
「そのやりかたはおかしい」
 ついつい、そういうことをいってしまう。いわれたほうは「余計なお世話だ、ほっといてくれ」とおもう。自分がいわれたら、やっぱりそうおもう。
 そういうことをいろいろかんがえると、他人とどう関わればいいのかわからなくなる。

 ひたすら専守防衛でいこうと決めたこともある。自分からはいっさい他人を批判しない。ただし批判されたら、そのときは倍にしてやりかえす。でも倍にしてというのがよくなかった。たいてい泥沼になる。
 批判を受け流すという技もおぼえた。しかし受け流されたほうは、不満がのこるから、どうしてもそのあと関係がぎくしゃくしてしまう。
 どうすればいいのか?

 吉行淳之介に「追悼・立原正秋」というエッセイがある(山本容朗編『吉行淳之介 人間教室』実業之日本社ほか)。
 かつて『風景』という月刊の小冊子を主宰していた舟橋聖一と立原正秋がケンカしたことがある。立原正秋は『男性的人生論』(角川文庫)という著書で当時の文壇のドンであった舟橋聖一をはげしく批判、当然、舟橋氏は怒り、あちこちで立原氏を罵った(さっきまで、変換ミスで「立原氏」が「立腹氏」になっていた)。
 吉行淳之介は『風景』の編集長をしていたとき、立原正秋に原稿を依頼したことがあった。また舟橋聖一と亡父の吉行エイスケは親しい友人だった。つまりふたりのあいだで「板挟み」状態だった。

《私としては、立原の舌鋒にもいささか行きすぎを感じたし、舟橋さんにも言われるだけのところはあるとおもったので、「われ関せず」の態度をしていた。いや、むしろ編集会議においても、立原の名前を避けずに出していた。舟橋さんの死で『風景』は解散し、結局立原は『風景』と絶縁のまま終ったが、おわりの頃には舟橋さんは立原の話題にたいしても、厭な顔はしなくなっていた。もう少し時間があれば、和解が成立していたとおもう。
 このときの問題処理において、立原は私の態度を評価してくれたようだ》

 この吉行淳之介の態度を「したたか」と受けとる人もいるかもしれない。でも平然としているようで、内心とても困っていたのではないかとおもう。
 また「われ関せず」が、かならずしもうまくいくとはかぎらない。こればかりはケースバイケースなので、場数をふまないとわからない。舟橋対立原のケンカは、文士どうしの対等のケンカだった。どちらかいっぽうが反論できないような立場の人であった場合は、「見て見ぬふり」は後味がわるい。
 ただし、ヘタに気の弱い人があいだにはいると、どちらにもいい顔してしまい、どちらからも恨まれることになりがちなので、そういう人は「われ関せず」をとおしたほうがいいとおもう。

 いっぽう吉行淳之介の「追悼・舟橋聖一」では、舟橋氏のことを「大きな駄々っ子という感じ」と書いている。「大きな駄々っ子」という言葉には、困ったなあという気持もあるのだろうが、困りつつもおもしろがっているかんじがする。

 わたしは就職経験もなく、まわりの同業者や友人関係も「大きな駄々っ子」ばかりである。ようするに社会人としては「困ったやつ」が多い。だからトラブルも多い。どこかそういうことを楽しめないとやっていけない。
 無理難題をふっかけられて困ったとき、「大きな駄々っ子」という言葉をおもいうかべると、「しかたないか」という気持になる。
 
 疲れとストレスの話をするつもりが、脱線してしまった。
 人付き合いの悩みはつきない。たいていそれは疲れとストレスの元になる。それでしばらく距離をとると、そのうち元気になって、人恋しくなってくる。すると、また人付き合いのことで悩む。

 そのくりかえしで進歩なし。不徳のいたすところである。

2006/09/15

練習と習慣

 永倉万治の『大青春。 明日はこう生きよう』(主婦の友社、一九九六年刊/のち幻冬舎文庫)のなかに「練習について 不可能を可能にする」というエッセイがある。
 著者は、居酒屋で女子大生にむけてこんなセリフを語る。

《私が脳溢血になって二年くらいたった頃のことだ。たまたまテレビドラマで小泉信三の家族の物語をやっていた。たしか山田太一さんの作品だと思う。その中にこの言葉が出てきた。“練習とは不可能を可能にする”。小泉信三が息子にあてた言葉だ。なんの変哲もない言葉だけど、私は思わず“これだ”といっていた。恐らく健康だったら、ハイ、ごもっともで終わっただろうな。あの時私は大病をして体が不自由になり、クサっていた。急に歩けなくなったり、言葉が喋れなくなれば、誰だってクサるよ。その時、この言葉が目に飛び込んできた。“練習は不可能を可能にする”。宝石のようだった。その時から私は、練習の人になると自ら決めたのだ。何でも練習すれば必ずうまくなる。できなかったら人の倍やればいい。練習すればできる。そう暗示をかけた》

 永倉万治は、一九八九年三月、JR中央線四ツ谷駅のホームにて脳溢血で倒れた。四十歳のときだ。
 若いころはレスリングの選手でからだは丈夫だと思いこんでいた。ところが、突然、右半身がマヒし、失語症になり、歩くことも、走ることも、喋ることも、書くこともできなくなってしまったのだ。
 それが一年後には小説が書けるまでに回復する(後に奥さんがかなり手伝っていたことが判明するのだが……)。

 そして『大青春。』の「習慣について 大いなる無為」では、「誰がいったか忘れたが、人間、三十過ぎたら習慣しか残らないという」という一文が出てくる。

 誰の言葉なのか気になるがわからない。ただ、古代ギリシヤに「習慣は第二の天性なり」ということわざがある。「狂ったソクラテス」の異名をもち、数々の奇行で知られるディオゲネスの言葉らしい。
 それはさておき、このすこしあとにつづく、永倉万治の文章を紹介したい。

《時間を守りたいと常々思っている。時間を守れば、一日が規則正しく、てきぱきとリズミカルに過ぎていくだろう。
 ところが、実際は、なんだかわからないうちに時間がたってしまい、気がついてみると一時間も遅刻している。しかも弁解するのに嘘八百を並べ立てている。
 もはや習慣が悪いのだと思うしかない。
 良い習慣。
 この言葉に憧れる》

 練習、練習、よい習慣。気がつくと、そうつぶやいている。
 育ちのいい人は、きっと良い習慣が自然と身についているようにおもう。
 わたしは長屋に生まれ育ち、両親もまた貧乏な家の生まれだった。
 生まれ育ちは変えられないが、習慣は変えられる。そのために必要なものは、変えようとおもう意志(気合)だけだ。
 でも悪い習慣を身につけてしまった人は、意志も弱い。意志が弱いから、努力が続かない。練習もしない。
 つまり、よい習慣が身につかない。
 明日から生まれかわろう。その明日が明後日になり、キリがわるいから来月から、来年からとひきのばしてしまう。
 人生、努力の報われないことはいくらでもある。それはたいてい努力が足りないからなのだが、あきらかに無駄な努力というものもある。
 練習はどうだろう。
 結果だけを求めれば、練習しても負けることはある。勝負の世界は勝者がいれば、かならず敗者もいる。
 でも練習すれば、練習しないよりはうまくなる。うまくなることはたのしい。練習なら、失敗をおそれる必要もない。
 かくしてわたしも、“練習の人”になろうと決めた。できないとおもったら、とりあえず、練習してみる。はじめのうちはギクシャクする。やっぱり向いていないとおもう。もっと練習する。練習の仕方をかんがえたり、うまくいっている人の観察する。とにかく、 いろいろなやり方を試してみる。

 もうひとつ大切なことがある。
 指針、あるいは目標だ。
 永倉万治のエッセイのおもしろさは、自己啓発書や経営の本に書いてあるようなことが、文学の装いをまとって物語や会話の中に溶け込んでいたりするところかもしれない。自己啓発書に抵抗感をもっているような、書店のビジネス書のコーナーを避けてしまうようなタイプの人間にも届く言葉で、その趣旨が書かれている。
 わたしの好きな遠藤周作や山口瞳のエッセイにもそういうところがある。

 永倉万治はこうもいっている。

《私は、いつも正しい方が好きだ。不潔なこと、卑怯なこと、後ろめたいこと、いやしいこと、その全部が嫌いだ!
 問題なのは、いつの間にか嫌いなことばかりしていることだ。
 なぜ、そうなるのか?
 不道徳で、怠惰で、不健康な習慣ほど身につきやすいのはどうしてだろう。
 悪い習慣はなるべくつけないにこしたことはないが、まったくないのがいいのか。
 それはまた別の問題だ。
 世界は広い。
 人間の幅は良い習慣ばかりでは生まれない。絶対そうだ》(習慣について)

 人間の幅を広げたい。寛容な人になりたい。
 規則正しい生活を送っている健康な人でも、そうでない人にたいして不寛容であれば、人間の幅がせまいということになる。
 ひたすら前向きなメッセージを私のからだは受けつけない。
 それだけだと世界はとても窮屈なものになる。

 永倉万治は一九八〇年代、『ホットドッグプレス』にコラムを連載していた。私の同世代の男子にすくなからぬ影響を与えたライターである。リアルタイムではまったく読んでいなかった。
 惜しいことをしたとおもっている。
 二〇〇〇年十月五日、五十二歳で永眠−−。

『大青春。』のおわりのほうに、「若ければ、それだけ持ち時間が多いということだ。何度でもやり直しがきく」ということばが出てくる。
 ただしいつのころからか「持ち時間」が「残り時間」にかわる。

 三十歳すぎたころから、人生の残り時間ということをかんがえるようになった。
「このままぱっとしないで……」というおもいがしょっちゅう頭をかすめるようになった。いかん、いかん。「今さら」とか「もう手おくれ」というかんがえをふりはらいつつ、なんとかもうすこしマシな人生をおくれるように気持の立て直しをはかる。
 今もそのくりかえしだ。
 それが習慣になっている。
        (晶文社ホームページ連載「近眼時計」より転載)

2006/09/11

気がめいったとき研究

 ときどきひとりごとをいう。だいたいそういうときは調子がよくない。
 よくいうひとりごとは「まいったなあ」と「むずかしいなあ」で、このふたつのコトバがおもわず口から出るようなときは要注意である。
 しかし要注意といっても、なにをどう注意すればいいのか。それがむずかしい、まいったなあ。
 まあそういうときはなにはなくとも散歩と掃除である。
 家の中にいると気がめいる。気がめいっていると外に出る気がしない。それでも外に出たほうがいいようだ。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/09/06

針がふれる

 スポーツでも芸事でも、はじめのうちは上達が早い。しかしそのうちいくら努力しても練習してもなかなか伸びなくなる。
 一〇〇メートル二〇秒で走っている人がタイムを一秒ちぢめるのと、一〇秒台で走っている人が〇・一秒ちぢめるのとでは、難易度がちがう。でも練習しないとからだがなまる。タイムが伸びなくても毎日走る。
 読書もそうかもしれない。なにも知らないときは、次から次へと読みたい本、好きな作家が見つかるが、いずれは壁にぶちあたる。壁にぶちあたると、またちがう作家、ちがったジャンルに手を出す。そんなことのくりかえしだ。そんなことをくりかえしているうちに、古本屋の棚を見ても、心の針がまったくふれなくなる時期がくる。

(……以下、『古本暮らし』所収)

2006/09/02

杉並区民証

 すこし前にマンションの更新があり、写真入りの身分証が必要になった。これまでは国民健康保険+期限切れのパスポートでなんとか許してもらった。パスポートは二十歳のときに作ったもので「今度の更新するときは新しいものを持ってきてくださいね」と不動産屋の人にやんわりたしなめられてしまった。

 今のところ海外に行く予定もないのにパスポートを作るのは億劫だなとおもっていたら、次のような告知を見つけた。
「免許証をもっていなくて、身分証明に困ったことはありませんか?
 そんな方に、○○区では『○○区民証』を発行しています」

〈申請に必要なもの〉
○印鑑
○印鑑と顔写真二枚(たて4・5×よこ3・5)
○本人確認資料
(運転免許証、健康保険証、年金手帳等公的機関が発行したもの)
 手数料は三〇〇円。

 というわけで、本の話をしよう。
 わたしはビル・ブライソンのファンである。アメリカ生まれで長くイギリスに滞在していたコラムニストで、中でもいちばん再読するのが『ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー』(高橋佳奈子訳・朝日文庫)だ。
 あるとき著者は、空港で飛行機に乗るさい、写真入りの身分証の提示をもとめられた。
 焦って財布のなかをさぐる。

《身分証ならありとあらゆるものがあった。図書館のカード、クレジットカード、社会保障証、健康保険証、それに航空券。どれも私の名前は書いてあったが、写真はついていなかった》

 困ったあげく、持ち物をぜんぶひっくり返してみると、自分の写真が印刷された本が出てきた。しかしチェックイン係は「これは許容される本人確認の撮影物のリストには載ってませんね」と却下されてしまう。

《まさかバッファロー行きのフライトにこっそり乗り込むために私がこの本を特別に印刷したとでも?》(規則一 すべての規則に従うこと)

その後、どうなったかは読んでのお楽しみ。
            *
 写真入りの身分証がないとほんとうに困る。レンタルビデオ屋の会員になれず、本やCDを売るときも断られることもある。原付免許をとるかどうか本気で悩んだこともあった。
 たぶん杉並区以外でも同種のカードは発行されているとおもうので、同じ悩みを抱えている人は区役所、市役所で確認してみてはどうでしょうか。

(追記)
 マイナンバー導入により、現在、杉並区民証は発行していない。

2006/08/23

本の売り買い

 お金がないときはお金がないときなりの楽しみ方がある。五冊百円の文庫本の均一台でも探せばおもしろい本はある。ほんとうにお金に困ったら、古本屋に売るという手もある。
 古本業界では、本は買うより売るほうがむずかしいという格言がある。売ることはほんとうに勉強になる。
 たいていはじめのうちは、予想よりはるかに安く買い取られ、落ち込む。「もう二度と売るもんか」とおもう。店で高く売っていたとしても、高く買ってもらえるわけではない。逆に安くていい本を売っている店が、期待以上の値段をつけてくれることもある。こればっかりは売ってみないとわからない。
 よくいわれるのは店の人と親しくなるのがいちばんいい。ただし親しくなるまで時間がかかる。わたしもずいぶん時間がかかった。店の人と親しくなると、ヘンな本を買うのが恥ずかしくなるとおもって、あんまり近づかないようにしていた。

 ただ知りあいになると、古本屋さんはいろいろなことを教えてくれる。
 濡れた傘を店にもちこまないとか平台の上にカバンを置かないといったマナー(古本は返品がきかないから、とにかく本をいためる行為はご法度)も教えてもらったし、古本を高く売るコツも教わった。

・本は店に持ち込む
・いちどに大量に売らない。
・ジャンルを分けて売る。
・引っ越しシーズンをさける。

 もちろん教わった通り実行しているわけではないが、なにごとも経験だ。売っているうちにいろいろわかってくる。
 小分けに売るのは、めんどくさい。でも手間をかけずに得しようとおもうのは虫のいい話だ。ただ、まとめて売って、時間を節約して、その分仕事をすればいいという考え方もある。
 それなりに自分が苦労して買った本を売る。査定される。昔はその査定が低いと、自分も低く見られているような気がした。
 今はそうおもわない。本は本だ。市場にたくさん出まわっている本は安くて当然だし、在庫がダブついている本も安くなる。本の中身のよしあしとは関係ない。
 一度か二度、本を売ってみて、それがあまりにも安くて、売るのがいやになったという人はけっこういるとおもう。

 あんまりむずかしくかんがえず、自分が好きな店で売るのがいいかもしれない。
 多少予想より安くても、その店が続いてくれたら、それでいいと……そこまで寛容な気持にはなかなかなれないけれど、まあ、部屋が片づいたことをよしとしようとおもえばあきらめもつく。

2006/08/13

あとひと部屋

『別冊新評 星新一の世界』(新評社、一九七六年)に「本」と題したエッセイが収録されている。

《本、すなわち書物というものは、私にとってふしぎな存在である。なぜか捨てる気にならないのだ》

 書斎を作ったが、すぐ本でいっぱいになった。そして「まあ二度と読まないだろうと思われる本を、百冊ずつ二回」古本屋に売った。

《しかし、こんな程度の処分では、焼け石に水。わが家の本は間断なくふえつづけている》

 星新一は組立式の物置を敷地に一部に立てた。さらに家を大改造して書庫を作った。この書庫は「かなりの費用をかけた」。レールを敷いた移動式の書架を三台導入したのだ。しかしすぐ本でいっぱいになった。某所に別荘を建て、「日当たりの悪い部分を利用して、大きな書庫を作った」という。

《それにしても、読書家やほかの作家たちはどうしているのだろう》

 読書家のひとりとして、この三十年前の星さんの問いに答えたいとおもう。

 二DKで妻とふたり暮らしをしているわたしは買った分だけ売っている。
 本棚からはみだした本をどんどんダンボールにいれて、その箱が六〜八箱くらいになったら古本屋に売る。紙袋にいれて、自転車でちょくちょく近所の古本屋に持っていったりもする。ほぼ毎月、二ヶ月に一度は本を売っていることになる。
 ただ、そうするしかないからそうしているだけで、そうしなくてもいいのならそうしたくない。
 近所に月八千円のトランクルームがある。たぶん借りれば、八百冊くらいは入るとおもう。今年なんどかその倉庫を管理している会社に電話をしようとした。
 しかし月八千円×一二ヶ月で九万六千円。年間約十万円である。おそらくそのトランクルームにいれた本はそうしょっちゅう読むことはない。いや、まず読まない。読まない本のために年十万円。近所の飲み屋で酒が五十回飲める。
 そんな計算をして、借りるのをやめる。

 家のちかくに四畳半か六畳の風呂なしの部屋を借りようとおもうこともある。
 JR中央線の高円寺だと、四畳半なら二万円台、六畳なら三万円台の部屋を借りることができるだろう。
 部屋ならちょっとした仕事部屋にもなるし、また遠くから友だちが遊びに来たとき、宿泊所にもなる。
 古本好きの知りあいの何人かはこの方法をとっている。「あんまり家から遠いとつらいよ。歩いて五分くらいが限度だよ」と助言された。
 散歩の途中、不動産屋の貼り紙を見ながら物件をさがした。いや、今のところ貼り紙を見るだけで、中にはいったことはない。決断しかねているのである。
 家賃月三万円とすると、年三六万円。さらに電気ガス水道の基本料金もかかる。生活するわけではないが、最低でも月五千円くらいはかかる。仕事部屋にするなら電話もほしい。エアコンもほしい。コタツもほしい。
 いろいろ合わせると年四十万円くらいになる。さらに二年に一度更新料もかかる。
 四十万円、安くはない。安いとおもうようなら、こんなことで悩まない。今より年収が四十万円くらい安いときでも生活できたことを考えると、ぜったいに無理とはいえない金額である。そこがむずかしいところである。

 もし車を持っていれば、駐車場が月三万円。ガソリン代やその他もろもろの金をいれると、年四、五十万円はかかるだろう。幸い、わたしは自動車の免許をもっていない。別に車もほしくない。
 だったら、いいんじゃないか? 本のためにもうひと部屋借りても……。
 あとひと部屋でいいのだ。一部屋があれば、押入の中で眠っている本が片づくし、本棚からあふれだした本も片づくし、読み返すことはそうないけど売りたくない本を収容することもできる。
 あとひと部屋があれば、今の悩みは解決するのだ。ただし、その悩みは解決するようで解決しないこともわかっているのだ。今よりも広い部屋にひとりで暮らしていたときも、「あとひと部屋ほしい」とおもっていたのだ。
 あとひと部屋借りる。一年も住めば、その部屋は本でいっぱいになるだろう。さらに本でいっぱいになるだけではなく、住居とその部屋の往復、掃除やたまった資料の整理などの雑用も増える。家賃も増え、その分、仕事も増える。
 結局、本を読む時間が減ることになる。

 いやでもしかし、わたしは年間どのくらいの時間本の置き場所のことで悩んでいるだろうか? ほぼ毎日のように悩んでいるといってもいい。その時間もっと有意義なことにつかえば、立派な人間になれるかもしれない。その分、仕事をしようとおもうかもしれない。
……と、そんなことをずっと考えている。おなじことを考え続けている。「タバコをやめれば……」とよくおもうが、おもうほど簡単に実行できない。人生、そういうことが多すぎる。
「ぐだぐだ考えているひまがあれば、とりあえず動いてみることだよ」
 人にはいえる。いくらでもいえる。自分のことになると、そうはいかないものだ。
 動くときは、衝動とか激情とかにかられて後先かんがえずに動いてしまう。なぜだろう。すくなくとも自分とはおもえない決断をしてしまうことがある。AかBかで悩んでいるときに発作的にCを選んでしまうことがある。
 そういえば、引っ越しや旅行はけっこう衝動でする。結婚もそうだった。

 今住んでいる部屋も、「あとひと部屋、近所に風呂なしの四畳半はないかな」とおもって、高円寺の賃貸アパートマンション情報のホームページを見ていたら、急に引っ越したくなって、朝一で不動産屋に駆け込んで即決した。
 その半年前に前の部屋の更新料を払ったばかりだったのに、なぜそんな決断ができたのか理解できない。
 引っ越しする理由もしない理由もいくらでもある。いくらでもある理由は、たいていなんの役にも立たないのだ。
 そもそも日々買っている本だって、買う買わないの理由はいろいろあるけど、ほしいとおもう気持が決め手になる。ほしい本はいつもわけもわからずほしくなるのだ。
 住みたい部屋があれば、無理をしてでも引っ越しする。
 本を置くための部屋は、住みたいという気持があまりない。家のそばで安ければなんでもいい。だから決められないのかもしれない。

 これまでの自分の行動から推測すれば、たぶん、なにもかんがえずに散歩をしている最中に、衝動で借りてしまう可能性が高い。それがいつなのかはわからない。

 あと星新一とわたしのちがいは(というか、共通点なんてほとんどないよ)、自分の場合、本が捨てられるのである。長年の経験で、売れそうにない本はすぐわかる。たとえば、カバーのついていない本(しかも希少価値のない本)はまず売れない。
 いらなくて売れない本が捨てられるようになったのは、二度の立退のせいである。
 二度の立退は、わたしの何かを変えた。
 立退のあと引っ越した部屋はいずれも前の部屋よりも狭くなった。
 蔵書だけでなく、本箱も捨てた。本箱を捨てるのは、本を捨てるよりも、もっとつらかった。粗大ごみなので、捨てるのにお金がかかるからだ。
 これまで本棚を十架以上捨てた(半分は人にあげたのだが)。

 収入も増えたり減ったり、部屋も広くなったり狭くなったりする。
 本を増やし続けられる人生をうらやましくおもうこともあるが、無理なことを望まない節度ある生活もきらいではない。

 欲をいえばキリがない。
 なんどそう己に言い聞かせてきたことか。
 でもキリがないくらい強い欲に突き動かされたいとおもうこともよくある。

2006/08/05

二DKの読書生活

 自分にとって必要な本を残し、不必要なものは売る。もしくは捨てる。その判断はむずかしいがおもいきって決断するしかない。理想をいえば、もっと広い部屋に住みたい。でもその分、家賃も高くなる。家賃が高くなれば当然生活が苦しくなる。すると今度は本が買えなくなる。本を買うために仕事を増やすと、本をさがす時間と読む時間がなくなる。
 もうすこし家賃の安い郊外に引っ越すという手もあるが、今度は交通費その他の行動の不自由が出てくる。
 今、住んでいるところは二DKのマンションだが、同居人がいる。同居人はマンガの編集者なので、毎日のように漫画を買う。今わが家は玄関から台所からトイレ押入れまで本だらけといった状態だ。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/08/01

本のマナー

 五年ほど前、立退きをせまられ引っ越しをすることになった。
 七月末、テレビで毎日のように熱中症のニュースが報じられているころだった。からだの水分がすべて入れ替わるくらい汗をかいた。
 それにしても本は重い。
 ヤマト運輸でアルバイトしている友人と元ペリカン便のセールスドライバーの友人に手伝ってもらった。
 彼らは本の多い家の引っ越しがいちばんいやだといっていた。
 ダンボールにぎっしり詰めこんであったりすると、プロでもキツいのだそうだ。
 愛書家なら、引っ越しや古本屋に本を売るとき、運ぶときに苦にならないような荷造りをするべきだとおもう。
 わたしはペットボトルのダンボールをよく利用する。一・五リットル×八本と二リットル×六本のものがある。コンビニやスーパーに行けば、いくらでももらえる(店によってはすぐ裁断してしまうところがあるので、前もって必要な数をいっておくといい)。
 文庫がちょうど三列はいる(二リットル×六)。単行本のおさまりもよい。ちなみにCDやレコードもうまい具合にはいる。
 二段、三段に積んでおけるし、それほど重くならない。以前、本を売ったときに使ってみたら、「これは運びやすいですね」と古本屋さんにも好評だった。
 とはいえ、二百箱以上になると話は別だ。結局、新居には三分の二しか運ぶことができず、残りは売ることになった。

 本のマナーについていろいろ考えてみたい。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

売るべき本の基準

 本でも映画でも音楽でもそうなのだろうが、読む力、見る力、聴く力があればあるほど、たのしめるという作品がある。逆に、読む力や見る力や聴く力がわざわいして愉しめないこともある。
 わたしはあまり映画を見ない。映画を見ることにも慣れていない。だからその年の大ヒット映画を(テレビとかで)見ると、たいていはおもしろい。お金のかかっている映画を見ると、得した気分になる。
 すると、年数百本映画を観ている知り合いは怪訝な顔をして「あの映画は、○○と比べたら、ぜんぜんだめだね」といったりする。正直、あまりいい気持はしない。
 しかしこれが本になると、わたしも同じことをおもう。書評の仕事をしている関係で年に百冊くらい新刊本は読む。さらに趣味で古本を同じかそれ以上読む。「泣いた、感動した」といわれるような作品を読むたびに「え? どこが?」とおもう。
 かつて自分が読んだ名作と比べ、「ぜんぜんだめ」とおもってしまうのだ。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)