2011/12/31
北の無人駅から
『北の無人駅から』は、原稿用紙一六〇〇枚の大著なのだが、これだけの枚数を費やさなければ書けないことが書いてある。無人駅のある町の歴史、そこで暮らす人々の半生を丹念に描いていて、まったく知らない町、知らない人のドラマにどんどん引込まれてしまった。
大学時代から札幌に移って、フリーライターになり、八年前に『こんな夜更けにバナナかよ』で大宅賞と講談社ノンフィクション賞を受賞。『北の無人駅から』は、それ以来の本である。
渡辺さんとは一年前にも高円寺で会って飲んでいる。
そのときは『北の無人駅から』を執筆中ということを知らなかった。
観光情報誌で、北海道について書こうとすると、どうしても雄大な自然や食物のおいしさを讚えるといった「定型」をなぞらなくてはならない。渡辺さんは、そのことに疑問をおぼえる。
それから果てしない取材がはじまる。これほど贅沢な(非効率な)時間の使い方をして書かれた本はそうない。
飲み屋では、渡辺さんが山田太一さんの大ファンだという話になった。『北の無人駅から』を執筆中、山田さんからの励ましの手紙を何度も読み返していたらしい。
その前日、山田太一さんと原恵一さんの対談が掲載されている『For Everyman/フォーエブリマン』を編集した河田拓也さん、松本るきつらさんと同じ店で飲んでいた。
一日ズレたことが悔やまれる。
*
どうでもいい話を書くが、高円寺は住んでいる人口にたいし、郵便局のキャッシュディスペンサーの数が少なすぎる気がする。
年末、行列にひるんで、お金を引き出せなかった。何に負けたのかわからないが、敗北感を味わった。
今年も携帯電話を持たなかった。もはや自分との戦いになっている。持ったら負け。でもいつか負けそうだ。ふだんはなくてもいいのだが、旅先で困る。
鮎川信夫は「その日その日の消費に浮かれる自己喪失者」と現代(といっても一九八〇年代)の日本人を評したことがあった。
わたしもそうした時代を通過し、日々、モノや情報を消費することに追われている。
来年はもうすこし平穏にすごしたい。平穏な一日を送るにもそれなりに手間がかかる。
たっぷり睡眠をとって、ちゃっちゃと部屋を片づけて、じっくり時間をかけて本を読み、文章を書きたい。
「自己喪失」しないためには、ひとりで静かに思索する時間が必要なのではないかとおもう。
2011/12/28
ゆるやかな崩壊
震災後、悲観しがちではあったが、なんだかんだいって、日本は恵まれた国だという実感はある。
内乱もなければ、飢饉もなく、医療、衛生、治安は非常に優れている。
これほどの災害に見舞われても、大きな混乱が起こらなかったのは、社会にたいする信用があったからだともいえる。
今回の震災でも、道路や線路の復旧、流通網の回復の早さは心強くおもえた。
世界から賞賛された日本の被災者のモラルを支えていたのは、個人の善良さだけではなく、自国の技術や国力への信頼も大きかったのではないか。
きっと救助が来る。水や食糧が届く。今さえしのげば何とかなる。
大震災と原発事故後の日本は安心や安全にたいする信用も揺らいだ。揺らいだけど、瓦解はしていない。今のところは。
すこし前のこのブログで紹介した「福島の惨事:未だ何も終わってはいない」(ジョナサン・ワッツ記者)の締めは次のような言葉だった。
《原子力の惨事は恐ろしいものだったが、想像していたほどではなかった。1年前に誰かが私に原子炉3基が同時にメルトダウンすると言っていたら、それは世界の終わりだと思っただろう。でも、今の日本は想像していたような終末の様相を呈していない。その代わり、ゆるやかな崩壊が起こっている。福島を3回訪問して1年前より放射能に対する恐怖は小さくなったが、日本に対する心配は大きくなっている》
この記事を読んでから「ゆるやかな崩壊」という言葉が引っ掛かっている。急激にではないが、徐々に「何か」が壊れはじめている。信用とか信頼とか目には見えない、これまで社会を支えていた何か。
安全といわれてもそれを信じない。
同時に危険といわれてもピンとこない。
そんな思考停止が世の中に蔓延しつつあるようにおもえてならない。
わたしもそうなってきている。
2011/12/25
鈴の音
求道型というか、年月を重ねて、渋く巧くなるという方向性だけではなく、新鮮さや楽しさを追い求めたり、どんどん独特で変になったり(どのバンドがどうということではなく)、ミュージシャンにはいろいろな道があるなあとおもった。
*
文章を書くときに「伝えたい」という欲求と「考えたい」という欲求があるのだけど、今は後者の時期なのかもしれない。
「考えたい」ときの文章は、どうしても重くなりがちで、行き詰まりやすい。
でも行き詰まる経験を積み重ねることも、何かの足しにはなっている気がする。
*
二十代のころ、古山高麗雄さんの『身世打鈴』(中央公論社)を読んで、どんどんわからない、書けない方向に進んでいくような文章に魅了された。
《私たちは、過去を思い出しているつもりでいて、実は、思い出せないのかも知れないのだ。思い出せない状態が続くことで、過去は失われているのかも知れないのだ》
二十代半ば、仕事を干されて、まったく書いていなかったころ、古山さんは「そのときでないと書けないことがあるから、どんどん書いたほうがいいですよ」といわれたことがある。
《多かれ少なかれ、人は恰好づけなしに自分を語ることはできない。その恰好づけに誤謬や錯覚を加えて、人は自分を語る。身上話とは、しょせん、自分だけにひそかに聞かせる自慰的な詠歌である。しかし、恰好づけと思い違いに充ちた他人の自慰的な詠歌を懇切に聞いて、その詠歌の底で鳴っている鈴の音を聞きださなければならないのだと思う》
言葉の中に「鈴の音」を聞く、あるいは鳴らす。
この「鈴の音」は何なのか。古山さんは自問自答をくりかえす。
わたしもなんとなくそういうものがあるということしかわかっていない。
たぶん「鈴の音」は人によって聞こえたり聞こえなかったりする。人によって聞こえる「音色」がちがうこともある。
その日の体調や得手不得手によって「鈴の音」を聞き逃してしまうこともある。
三十代前半で音楽ライターの仕事を辞めたのも、自分の好きなジャンル、ミュージシャン以外の「鈴の音」を聞き取れなくなってしまったからだ。好きなものはどんどん好きになるのだけど、好きになれるものが狭くなってしまった。
自分には聞こえないけど、聞こえる人には聞こえる。批評は、ちゃんと「鈴の音」が聞こえる人が書いたほうがいい。
*
そんなことをうつらうつら考えていたら、前田和彦さんから磯部涼著『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)が届いた。前田君が編集者の卵かそれ未満くらいのときから、ずっと著者の文章が好きだということを聞いていた。
第三章の前野健太評から読みはじめた。「鈴の音」が聞こえる人が書いた文章だとおもった。
言葉の奥に「静かな熱い問いかけ」がある。
それは「音楽」というジャンルにおさまり切らない、「人生」あるいは「世界」にたいする問いかけだろう。
二〇〇〇年代の音楽をほとんど通りすぎてきたわたしにもその問いかけは深く響いた。
2011/12/23
震災後に考えたこと その三
本を読んで、原稿を書いて、酒を飲んで、寝る。
いつも通りの日常。
でもどこかちがう。(自分の)日常の脆さを意識しながら、なるべく普段通りにすごしているかんじだ。
一言でいうと落ち着かない。
このままふだん通りの生活に戻ってしまうことは、今なお日常をとりもどせない人との溝を深めてしまうのではないか。
今回の震災や原発事故によって浮上した問題を解決しないまま、元に戻ろうとしていいのか。
東京に暮らしながら東京一極集中を批判するのは、満員電車に乗りながら「なんでこんなに人が多いんだ」と文句をいうようなものだけど、大地震でライフラインが寸断されたら……。
すでにベクレルやシーベルトという単位を目にする日常になっている。
近所のスーパーに行くと「お客様の要望にこたえて」というポップのついた西日本の牛乳や卵が売られている。
今回被災しなかった地域にしても安泰なわけではない。
全国いたるところに老朽化した原発があり、活断層がある。
古くなった原発を廃炉にするには数十年、さらにもっと長い歳月を要するかもしれない。放射性廃棄物の処理や管理をふくめて、財政を蝕み続けるだろう。
生きているあいだにこんなことになるとはおもわなかった。
政治や経済のことは誰かがなんとかしてくれる。なんとかならなくても、自分は自分のできることをやるしかない。
わたしはそんなふうに考えていたのだが、それではだめだとおもうようになった。
先のばしのツケはどんどんひどくなる。
しかしそこから目をそらしたところに希望はない気がする。
(……続く)
2011/12/22
震災後に考えたこと その二
三月から五月くらいの記憶も薄れつつある。
スーパーやコンビニでは水や電池などが品不足になり、節電の影響で町も暗くなった。
三月下旬、東京の水道水に放射性物質が検出されたときは、この先どうなるのかと心配した。
でも原発の話することは避けがちだった。すくなくとも愉快な話題ではないし、意見も分かれやすい。
原発の賛否だけでなく、内部被曝の問題に関しては、夫婦や親子ですら一致しないこともある。
たとえば、東北、関東の農家の心配をしている人と国の安全基準を心配している人がこの問題を話しあっても、おそらく平行線をたどるだろう。
同じように放射性物質のことを心配していても、人によって危機感もちがう。
年齢、住んでいる場所、小さな子どもがいるかいないか……。
日々の食事をどうするか。家族がいれば、自分だけの問題ではすまない。
とはいえ、あまりにも気にしすぎていたら、食べるものがなくなる。
・どこまで気をつければいいのか。
・いつまで気をつければいいのか。
そういったことを個人個人が判断せざるをえない(気にしないこともひとつの判断である)。
情報環境の差によって、その判断は大きく変わってくる。
*
原発事故は誰も望んでいたことではない。しかし起こってしまった。その結果、さまざまな理不尽と不平等が生じ、拡大しようとしている。
国や自治体に何とかしてもらいたいところだが、政治にできることは限られている。事故の収束とガレキの処理のほうが、何年後かに発症するかもしれない(しないかもしれない)放射性物質の影響よりも優先課題なのだとおもう。
国にできること、個人にできること。
その隙間がどんどん広がっている気がする。
ひとりひとりの安全と健康に関しては自衛していくしかない。
(……続く)
2011/12/19
震災後に考えたこと その一
といっても、まだ気持の整理がついていない。
生活が落ち着いたのは五月下旬にマンションの壁の修理が終わったころかもしれない。余震のたびに、ひびが大きくなって、天井のパネルが落ちてくる。
一時は引っ越しも考えた。引っ越しを考えているから、崩れた本を本棚に戻す作業をする気になれない。
*
三年くらい前から年に数回仙台に行くようになって、今回津波の大きな被害があった町も何度となく訪れていた。ふだん観光なんかしないのに、松島や塩釜に行って、フェリーにも乗った。
震災後、自分の知っている風景が一変してしまった。沿岸部のかつて店や家があったはずの場所は更地になり、海から離れた場所でも打ち上げられた漁船、横転した車を見かけた。
ある知りあいは「時間が経つにつれ、(被災地にいる)自分たちのことが忘れられてしまうのではないか」といっていた。
家も仕事も失った人がいる。半壊の住居で暮らしている人もいる。家族を失った哀しみが癒えない人もいる。
被災地では、日々の生活に追われて、安全な水だとか食べ物だとかそんなことを考える余裕のない人もたくさんいる。
電気が止まって、情報がまったく入らなかった場所では、その日その日の食料やガソリンを手にいれることが最優先の課題だった。
そういう経験をした人からすれば、原発の話をされても「今はそれどころではない」という気持になってもおかしくない。
ものの感じ方には個人差はあるから一概にはいえないが、わたしの場合、心身が弱っていると、厳しい論調や語調の文章や言葉を受けつけなくなる。
(……続く)
2011/12/17
浮かれ楽しむこと
……色川武大著『唄えば天国ジャズソング』(ちくま文庫)を読む。「アム・アイ・ブルー?」の冒頭の文章に目が止まった。
《今年の正月は私にとって、ジャズで明け暮れた。暮に私の師匠の藤原審爾が亡くなって、沈痛な気持になっていたので、浮かれ楽しむ機会があって救われた。哀しいから、浮かれられないということはない。浮かれているから、哀しくないというのでもない》
沈痛な気持になったら、楽しんだり浮かれたりしてバランスをとる。
無意識のうちにわたしもそうしている。
でもそのことにどこか後ろめたさがあった。
単なる現実逃避ではないかと……。
*
というわけで、本題にはいる。
「Genpatsu 福島原発事故に関する海外メディア報道」というサイトがある。国内のメディアとはちがった視点から原発のことを考える上で、ずいぶん参考になる。
中でも「福島の惨事:未だ何も終わってはいない」(ジョナサン・ワッツ記者)という英ガーディアンの記事は出色のものだ。
《他の国々では、人々は放射線源からの距離をもっと遠くしたいと思うかもしれないが、それは人口密度が高く雇用が固定している島国では困難だ。それにもかかわらず何千人もの人達が移住したが、しかし震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない。それも科学者や政治家から明確なガイダンスがあれば少しは容易になるだろうが、しかし、この点においても現代の日本は特に脆弱なようだ。最近、日本の首相は5年間で7回変わった。学者達とマスメディアは原子力産業界の強力な影響力によって腐敗している。その結果、体制に順応することで有名な国民が、突然、何に順応すればよいのか確信が持てなくなった》
《「食べて安全なものは何なのか、どこなら安全に暮らせるのか、政府がはっきり言わないので、個々人が決断することを余儀なくされています。日本人はそういうことが不得意です」と、臨床心理学で著名な高橋智氏は述べている。彼は、福島のメルトダウンの精神面への影響は、身体的な直接の影響より大きいだろうと予想している》
昨日、福島第一原発が冷温停止状態になったという宣言があった。ただし、安全な状態とはほど遠いというのが大方(海外の通信社など)の見解だ。安全か安全でないかは確率の問題だから、ある人は大丈夫で、ある人はそうでないということも起こりうる。
記事中のロシア人医師のコメントには「影響を受けた地域の人々は健康と生活状態に対する自己評価が極端に否定的で、自分の人生がコントロールできないと強く感じています」とあった。
わたしが知りたいのは「人口密度が高く雇用が固定している島国」で「震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない」状況下でどうすればいいのかだ。
《一方では、運命とあきらめている人達を見つけるのは難しくない。何人かは放射能より、ストレスと激変のほうがリスクが大きいと述べている。意見の食い違いは家族、世代、そして共同体の分割をもたらした。「留まるべきか、避難すべきか?」という問いが無数の人々に重くのしかかっている》
今いる場所に「留まる」という選択をした以上、心配しすぎることについても気をつける必要があるだろう。
電力会社に利する意見と受け取られるのは本意ではない。わたしは経済の停滞をまねいたとしても再生可能エネルギーへの転換を支持したい。でもそれと原発事故のストレスの問題は別だ。
原発事故の収束までの道のりは険しい。
心配性の人(わたしも)に心配するなといっても無理だろう。
だからこそ、心配しつつも、浮かれたり楽しんだりして心のバランスをとることの大切さも忘れないようにしたい。
それは諦めや開き直りではなく、生きるための知恵である。
2011/12/13
さよならカーゴカルト
この間、東京ローカル・ホンクの新しいアルバム『さよならカーゴカルト』を何度となく聴いていた。
アルバムに収録されている「昼休み」という町の風景と心情が溶け込んだ曲にやられて、そのまますぐあとの京都のライブを見に行った。
木下弦二さんのお父さんは労働歌や合唱曲をつくっていた音楽家なのだが、「昼休み」の曲調や詩は現代の労働歌として聞こえなくもない。もしかしたら、ホンクのコーラスは“うたごえ運動”を踏襲している……といったら、さすがにこじつけすぎか。
十年ちょっと前の話になるけど、東京ローカル・ホンク(当時は「うずまき」という名前だった)のドラムのクニオさんが、大晦日から正月にかけて五日間、当時住んでいた高円寺の下宿に入り浸っていたことがあった。後にも先にもあれほど酒を飲み続けた経験はない。
あのころ、まわりの友人たちもアルバイトをしながら、音楽をやったり、文章を書いたりしていた。
わたしも古本とレコードを売って、食費や酒代を捻出していた。
「こんな生活を続けていたら、ダメになる」と危惧しつつ、「こんなおもしろい日々はもう二度と味わえないかもしれない」とおもい、遊んでいた。
当時は文章を発表する場所もなかったし、そういう場所を自分で作る発想もなかった。
文章や音楽はある種の薬のようなものだとおもう。多くの人に必要とされる市販の風邪薬もあれば、かなり少数の人の症状にしか効かない薬もある。
売り上げでいえば、風邪薬のほうが売れるのだろうけど、かといって少数の人のための薬が不要ということにはならない。
自分の好きな文学は「売れる/売れない」という価値観でいえば、「売れない」ものばかりだ。でも「効く/効かない」でいえば、まちがいなく自分には効く。
当たり前だけど、「よく効く」=「よく売れる」とは限らない。
自分の中にも、多くの人に受け入れられる考え方とごく少数の人にしか理解されない考え方がある。
たとえば、世の中には活字中毒だとか音楽中毒といわれる人がいる。
彼らを満足させるような作品というのは、それほど多くない。
もちろん少数派を満足させながら、ちゃんと売れるものを作ることができる人だっている。そういう人は風邪薬と少数の人にしか効かない薬の両方を作る能力がある人なのだろう。
『さよならカーゴカルト』はわたしにはよく効いた。前作の『生きものについて』と同じくらいか、それ以上に。
懐かしいけど、未知の音がする。
アルバムの最後の曲を聴き終わって、余韻に浸る。
詩と音がからだ中に染みわたってくる。
忙しい日々の中ではなかなか余韻が味わえない。
本を読んだり、音楽を聴いたりする時間だけでなく、もっと余韻に浸る時間も作っていきたい。
2011/12/07
おとのわ
来年2月に一番町のライブハウス「Rensa」で、音楽イベント「おとのわ」が開催されます。
会場ではライブのほかに、おいしいフードやスウィーツのあるカフェブース。手仕事の販売ブース。そして、原発や放射能について情報を得たり、気軽に相談できるコーナーもあります。
《おとのわ》
2012.2.19(日)13:00〜19:30
会場:Rensa(レンサ) http://www.rensa.jp/
仙台市青葉区一番町4-9-18 TICビル7F
TEL:022-713-0366
【交通アクセス】地下鉄・勾当台公園駅 南口出口徒歩2分
JR仙台駅より徒歩17分 三越アーケードななめ向い。
1Fは「ツルハドラッグ」。
入場料/前売3500円 当日3900円
(ドリンク代別¥500/当日)
全席自由 *中学生まで無料
【LIVE】開場13:00 開演14:00〜19:00
<とものわ>
友部正人 曽我部恵一 タテタカコ
東京ローカル・ホンク 小野一穂
<せんのわ>
yumbo tenniscoats
rachael dadd & ichi おとのわこども楽団
【おちゃのわ】
うつろひカフェ せんだいコミュニティカフェ準備室
【もののわ】
飾人(かざりびと) Kitone
仙台こけしぼっこ+おりづめ Notre Chambre
【原発・放射能なんでも相談コーナー】
みやぎ脱原発・風の会
三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会(わかめの会)
子どもたちを放射能から守るみやぎネットワーク
5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会 せんだい みやぎ にじのたねプロジェクト
ブログはこちら。http://otonowa.blogspot.com/
2011/12/05
アンディ・ルーニーのこと
一九一九年一月十四日生まれ。アメリカのベストセラーコラムニストでコメンテーターだった。鮎川信夫は彼のことを「人生派コラムニスト」と定義した。
わたしは鮎川信夫経由でアンディ・ルーニーのコラムに親しむようになった。日本でいえば、山口瞳の『男性自身』のようなコラムを書いていた。
もっと後期のコラムも訳してほしいとおもいつつ、晶文社から一九八〇年代から九〇年代にかけて刊行された六冊くらいが何度も読み返すにはちょうどいい分量かなという気もする。
アンディ・ルーニーは、身辺雑記からスポーツ、文学、政治、経済、科学まで、守備範囲が広く、とぼけた口調、辛辣な毒舌、シリアスな文章の書き分けも鮮やかだった。
わたしの好きなアンディ・ルーニーの言葉をいくつか——。
●希望をもつこと、お祈りをすることは簡単だが、残念ながら懸命に努力をしたときほどはよい結果を生まない。
●それほど多くの人間がことさら自分の人生を変えられるわけではない。多かれ少なかれだれもがいまの自分に永遠に縛られている。しかし、そうでないふりをして前に進まなければならない(「人生の教訓」/『人生と(上手に)つきあう法』井上一馬訳)
*ものごとがうまく行かなかったら、熱いシャワーを浴びよ。
*長い眼で見れば、たとえまちがいが多くても決断は迅速にしたほうがいい。時間をかけて決断したことでも、まちがいの数でいえばそれほど変わりはしない(「一セントを貯めるのは時間の無駄」/『自己改善週間』北澤和彦訳)
2011/12/04
カーネーションのライブ
前に観たときは骨太でソリッドなロック色が強いかんじだったけど、今回は多彩でファンキー(という言葉が適切かどうか自信はない)なステージだった。
カーネーションが、音楽の壁を迂回せずにぶつかって、よじのぼって、乗り越えてきた歴史をかいまみた気がする。
「夜の煙突」や「It's a Beautiful Day」も聴くことができて大満足——。頭の芯からしびれました。
ゲストは梅津和時さん、武田カオリさん、渡辺シュンスケさん。
直枝さんの曲は、四、五人のバンド編成だと、より艶や華、あと宇宙感のようなものがかんじられるともおもった。
《新作構想中の3.11に時間が止まってしまった。失いかけた歌を取り戻すことについて考えていた4月、梅津和時さんとtatusとセッションする機会に恵まれ、過去に旅した石巻や女川の白い浜辺に捧げる「女川」を即興演奏した。
8月の終わりには南相馬の巨石ブラウンノーズと再会し、海を遠く眺めながら歌った。どたばたな日常を暮らす中で溢れ出してしまう想いが言葉や音になっていった。出会い、全力で楽しみ、祈り、歌う。
おそらくこのディスクはそれだけで成り立っている》(ミニアルバム『UTOPIA』より)
MCでは、梅津和時さんは仙台出身、直枝さんも親族が宮城にいるという話を聞いた。
ライブ会場で、学生ライター時代(大学時代)の先輩のIさんと再会する。十九歳のとき、スタッフ募集の告知を見て応募した雑誌の面接をしてもらった人。
わたしは、いきなり鞄からドストエフスキーの『悪霊』を出して、文学について語りはじめたらしいのだが……まったくおぼえていない。
Iさんにはドゥービー・ブラザーズやジャクソン・ブラウンの来日公演のものすごくいい席のチケットをとってもらったこともある。
2011/12/01
『SUB!』と神戸
打ち合わせから打ち上げまで、北沢さん、森山裕之さんと雑誌やコラムの話ができて楽しかった。
北沢さんは、雑誌は何か(自分がいいとおもうもの)に張らなければおもしろくならない……というようなことを語っていた。
有名か無名か、新しいか古いか、売れる売れない。そうした基準でものを考えることを疑い、その基準を壊す。
「ない」から作る。「自分が読みたい(見たい、聞きたい)」から作る。
編集の仕事のおもしろさもそこにあるし、それは書き手にもいえる。
『SUB!』の由来は、サブカルチャーの「サブ」で、命名者は谷川俊太郎。現代詩から音楽、写真、美術と幅広いジャンルの人が参加していた。辻まことや富士正晴の連載もあった。今、見ると、豪華な執筆陣に驚くのだけど、当時は大半は知る人ぞ知るくらいの存在だった。
この雑誌が神戸で作られていた。ただし『QJ』連載時、わたしは神戸の土地勘がほとんどなかったから、そのことを深く考えていなかった。
トークショーの当日、『SUB!』の発行人の小島泰治の父で歌人の小島清の『對篁居』(小島清歌集刊行委員会、一九八〇年刊)という遺歌集を持っていったのだけど、紹介しそびれた。
小島清は明治三十八年東京生まれ。大正四年に父のイギリス神戸総領事館就職に従い、神戸に移る。
《レインコートを肩にしてパイプくゆらし神戸は今も若き日の街》
《作品の上から見ても、彼の青春のすべては神戸にあった。
若き頃から国文学に身を置く希望は強く、国学院大学に入学しながら、東京大震災にはばまれて、空しく神戸に戻り、あとは独学で僅かに渇を医したという話にしても、戦中戦後の職の転々も》(「後記」頴田島一二郎)
小島清は後に古本屋を開業するのだが、店は昭和十三年の関西大水害で流され、さらに昭和二十年の神戸の大空襲で家屋が全焼し、戦後は京都で暮らした。
《こう見て来るとなまやさしい生き方ではなかったはずの神戸なのだが、多くの友に恵まれた神戸。妻子を得た神戸。何よりも爽やかな青春のすべてを燃焼した神戸は、彼にとって忘れようとしても忘れ得ない土地であったに違いない》(同書)
神戸に行きたくなってきた。
『Get back, SUB!』の刊行記念イベントは、関西でも行われる予定だそうです。
2011/11/29
仙台堪能
……今回の仙台行の目的のひとつはyumboのライブを見ることだった。
新メンバー(弦楽器も管楽器もできる)が加入してからのはじめてのライブ。yumboの音楽は、緻密で繊細だけど、きっちり作られた曲をところどころ崩したり、壊したりしていて、音で遊んでいるような自由さがある。ホルン(トランペットやトロンボーンがはいることも)とドラムとピアノの編成で、曲によってギターやベース、大正琴(?)など、次々と楽器の担当が入れ替わる。
わたしは今のyumboのライブが見たかった。仙台に行って、その時間を味わいたかった。
最近、簡単に得られる情報(文化)に食傷気味になっている。
ライブのあと、前野さんと会場で会った仙台在住のフリーライターのT君と壱弐参(いろは)横町で今月オープンしたばかり鉄塔文庫に行った。
しばらくして閖上のKさんも合流する。
店内には佐伯一麦さんの本がずらっと並んでいて、ちょっと前まで「まだ本を読む気になれない」といっていたKさんが次々とテーブルに本を積みはじめる。
料理もうまいし、雰囲気もよかった。
この日はyumboの澁谷さんの家に泊めてもらった。コタツにはいって、本に囲まれて、CD(主にスティーリー・ダン)を聴きながら、朝方まで雑談する。
翌日、マゼランで古本を買い、ホルン(澁谷夫妻の店)でコーヒーを飲んで、火星の庭に寄って、東京に帰った。
*
この三年くらいのあいだで、仙台の滞在日数は三十日以上になっている。
火星の庭を通して知り合った若い人たちと話していると、ここから新しい文化(暮らし方)が生まれてきそうな予感がする。それが何かはまだわからないのだが、五ヶ月ぶりに仙台を訪れて、その変化の兆しのようなものを以前よりさらに強くかんじた。
漠然とした感想ですみません。
もうすこし時間できたら、続きを書きます。
2011/11/22
閖上に行ってきた
先週の金曜日の夜、仙台へ。国分町のなんかんやで飲む。前日までは、高円寺の飲み友達のオグラさんとカメラマンの荒井さんもいたと聞いて驚く。
この日はごはん屋つるまきに宿泊する。
翌日、火星の庭の前野さんと今回の地震と津波で大きな被害を受けた名取市の閖上を訪ねた。
閖上は一年七ヶ月ぶり。朝まで古本を肴に飲み明かした海のすぐそばにあったKさんの家は津波で流されてしまい、周辺は更地になっていた。
今、Kさんは仮設住宅の寺子屋の先生をしている。六月ごろ、朝、ぼーっとNHKのニュースを見ていたら、子どもたちに勉強を教えるKさんが出てきてびっくりした。
Kさん、前野さんといっしょに閖上をまわりながら、震災当日の話を聞いた。
「地震直後は、津波がくるとはおもわず、家にいた」
「ここで津波が見えて、車を乗り捨てて逃げたんだよ」
「津波はバキバキって音がした」
「避難した学校は二階に行けなくて、一階の音楽室にいて、もし水が入ってきたら、娘といっしょに外に飛び出そうとずっと窓のところで構えていた」
「そのとき学生時代の先輩が流されてきて、腕をつかんで教室にひっぱりこんだんだよ」
「流されてきた家や車が学校にぶつかってきた」
車の外を見ると、横転した船がまだ残っている。海の底に車がいっぱい沈んでいるという話も聞いた。
前に来たときと風景が一変している。家がなくなっていて、車もほとんど通らない。
Kさんは寺子屋の活動だけでなく、閖上の日和山の神社の復興にもかかわっている。
Kさんの活動を支えているロシナンテスというNPO法人の話も聞いた。もともとロシナンテスは、スーダンで医療活動を行っていた団体なのだが、震災後、閖上の支援に尽力している。
三ヶ月ちかく避難所生活をしていたKさんは、自分で働いて生活したいとおもい、仮設住宅に入居せず、家を借りた。
まだまだお金やモノが必要な状況ではあっても、働きたい人が働き、自分たちの力で暮らしていけるようになることが、ほんとうの復興になるというようなことをKさんがいっていたのが印象に残った。
「被災地」と一括りにする危うさ、個別に考えていくことのむずかしさ……。
震災前の日常に戻りつつある東京でぐだぐだと暮らしているわたしは、閖上を訪れるまで、「(自分のような人間が)何をいってもどうにもならない」という気持でいた。残念ながら、今もその気持はくすぶっている。
難しく考えすぎて、最善の答えが出るまで何もしない。昔からわたしはそういうふうになりがちで、そうした姿勢(癖)はなかなか変わらない。いつも「動きながら考えたい」とおもっているのだが、立ち止まって呆然としてばかりだ。
自分が何もできなければ、ちゃんと真剣に考え、行動している人を支援する。
微力だけど、無力ではない。
それが今のところの結論。
(……続く)
2011/11/14
最近の仕事
・『小説すばる』(十二月号)の古書古書話では、先日行った長野・小布施の古本市の話を書きました。先日、Library of the Year 2011の大賞を受賞した小布施町立図書館「まちとしょテラソ」のことにもふれています。
・『本の雑誌』(十二月号)の連載は、山口瞳のことを書きました。たまたまなのですが、特集「いま作家はどうなっておるのか!」と連動(逆方向に?)した内容になっています。
・「INTRO」というサイトに内藤誠監督の『明日泣く』のレビューを書きました。
色川武大の原作、しかも主人公の父親役は坪内祐三さん。
十一月十九日(土)、ユーロスペースで上映(21:10より)です。上映期間中、劇場ロビーで斎藤工撮影による『明日泣く』の写真展も開催されるそうです。
「INTRO」特集:明日泣く http://intro.ne.jp/contents/2011/11/11_0012.html
・それから『本と怠け者』(ちくま文庫)が増刷になりました。
・というわけで、腰痛の回復をはかるため、これから寝ます。
2011/11/13
腰痛三日目
兆候はあったのだが、油断した。座り仕事を長く続けてしまったのが、よくなかった。
今回の腰痛は、右足にきた。
最初の日は、動けない。寝ていても痛い。仰向けがいちばん楽なのだが、自力で起きることができない。横向きかうつ伏せかの二択である。
鎮痛剤と関節痛に効くといわれる薬を交互に飲んで寝る。シップも気休めだとわかっているが貼る。
二日目、モノにつかまらないと歩くことができない。畳の部屋は這って、台所は車輪のついた椅子につかまりながら、移動する。
歩くことはできないが、すこしずつよくなっている。でも外出はできない。
三日目になって、ようやく何もつかまらなくても歩くことができるようになった。まだかがむ姿勢がとれず、段差がきつい。
とにかく急に気温が下がった日は、気をつけないといけない。
今日は初日に行けなかった高円寺の「本の産直市」や「縁台ふるほん市」に行こうとおもっている。
2011/11/08
秋元潔詩集成
袋の中には『秋元潔詩集成』(七月堂、二〇一一年刊)が入っていた。
秋元潔は、尾形亀之助研究の第一人者にして、『バッテン』『凶区』『現在』『横須賀軍港案内』『ぬう・とーれ』の詩人である。
二〇〇八年一月十四日に七十歳で亡くなった。
Aさんは秋元潔のご子息なのだが、まったく自分からはそのことを名のらず、たまたまコクテイルで知り合って、そのときはなんてことのない話をして別れた。名前は「アキモトです」といっていた気がするが、秋本か秋元かすら、わからなかった。
あとで共通の知り合いから、「Aさんのお父さんは詩人らしいよ」と聞いた。
アキモトで詩人といったら……。
ひとりしかおもいつかなかったが、正解だった。
『秋元潔詩集成』の年譜を見ていたら、秋元潔の長男の名付け親は、木山捷平とあっておどろいた。
この本におさめられたエッセイでも「木山捷平さんの初孫と私たちの子が偶然、荻窪の同じ病院で同じころうまれ、木山さんに名づけ親になってもらった」とある。
そんなことも知らずに、わたしはAさんの前で木山捷平の話をしたかもしれないと恥ずかしくなった。
わたしは学生時代に玉川信明さんの大正思想史研究会に参加し、辻潤や吉行エイスケを追いかけているうちに、尾形亀之助を知った。
秋元潔の『評伝 尾形龜之助』(冬樹社、一九七九年)、『尾形亀之助論』(七月堂、一九九五年刊)も繰り返し読んだ。
尾形亀之助の詩にひたっていると、どんどん無気力になる。それでも時々読み返し、その突き抜けたダメっぷりに救われたり、さらに気怠くなったりした。
それからしばらくして、わめぞで文系ファンタジックシンガーのPippoさんと知り合い、かつてPippoさんが思潮社にいて『現代詩手帖』の尾形亀之助特集号を担当した話を聞いた。
秋元潔さんが亡くなったことを教えてくれたのもPippoさんだった。
本のお礼を書くつもりが、関係ないことをいろいろ書いてしまった。
ありがとうございます。
大切に読みたいとおもっています。
2011/11/03
『Get back, SUB!』刊行記念トークショー
2011年11月27日(日)
『Get back, SUB!』刊行記念
SUB CULTUREのスピリットを求めて
北沢夏音×荻原魚雷×森山裕之
会場:ビリヤード山崎2F(予定)
開場:16:30/開演:17:00
料金:1500円
定員:50名
要予約
《雑誌にとって一番大切なのはスピリットだと、ぼくは信じる。クォリティを保ちながら出し続けることはもちろん重要だが、スピリットのない雑誌にいったい何の価値があるのだろう?》(『Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂』より)
一九七〇年代の伝説的雑誌『SUB(サブ)』とその編集者・小島素治の仕事と生涯を追った初の著書『Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂』を刊行した北沢夏音さん。「最後のマガジン・ライター」北沢さんが、『クイック・ジャパン』元編集長・森山裕之さん、同誌執筆者だった荻原魚雷さんとともに、連載時の裏話から雑誌論、サブ・カルチュア観まで、熱く語ります。
西荻ブックマーク
http://nishiogi-bookmark.org/2011/nbm56-5/
北沢さんの文章を一読者、一ファンとして読んできた。妥協のない取材や緻密な構成といった「プロの仕事」に驚嘆し、その気持のはいった文章を読むと、体温が上がるかんじがした。
この連載がはじまったころは、わたしは同人誌『sumus』を書いていて、その文章を読んで原稿を依頼してくれた最初の編集者が森山さんだった。
森山さんとはじめて会ったときにも、北沢さんの連載を愛読しているという話をした気がする。
当時、あのタイミングで、『SUB』の小島素治さんに会って、話を聞き出しているのは、奇跡のような仕事だ。単行本になった連載(大幅加筆されている)を読み返すと、ある雑誌が生まれた時代を浮かび上がらせるだけでなく、今の出版状況にたいする問いかけも鮮明になっている。
『sumus』は京都在住の同人が多く、関西の同人誌『ブッキッシュ』や貸本喫茶ちょうちょぼっこの人たちと大阪で集まったとき、取材中の北沢さんと森山さんも合流した。
そのときが北沢さんと初対面だった。
(この日、わたしはまだ学生だった前田和彦君の家に泊めてもらった。その後、前田君は上京して『クイック・ジャパン』を経て、現在はアスペクトの編集者になっている)
本の雑誌社の『活字と自活』を作っていたころ、担当者の宮里潤さんが『Get back,SUB!』を「本にしたい」といっていた。ようやく実現した。
今、心を燃やしながら読んでいます。
2011/11/02
京都にて
扉野良人さん主宰の徳正寺のブッダカフェで『本と旅のコラム』を作ったdecoさんのお話を聞きにいった。
目の前に北條一浩さんが座っていて、びっくりする。
decoさんから『For Everyman』の感想も聞いた。
この雑誌にこめた河田拓也さんのおもいがちゃんと伝わっていることがわかってうれしかった。
河田さんと話していると、「この話、自分ひとりで聞くのはもったいない」という気持になる。
これほど本気で物事を考え、本気で言葉を発しようとしている人はめったにいない。
ブッダカフェのあとは、メリーゴーランド京都で平出隆さんの展覧会を見る。
via wwwalnuts叢書をはじめ、装丁家でもある平出隆さんの著作(作品)が並べられ、閉店まぎわまで、人でにぎわっていた。
夜は扉野家で潤さんの手料理をごちそうになる。小さな子どもがいて、たいへんなはずなのに、ゆったりした空気が流れていて、落ち着く。こういう雰囲気はちょっとやそっとでは真似できない。
でも土鍋のごはんはやってみたいなとおもった。
朝、早く目がさめたので、鴨川まで歩いて一時間くらいぼーっとする。
東京でもこういう時間がすごしたいのだけど、そういうわけにもいかない。
午前中、出町柳に出て、臨川書店の店頭セール、知恩寺の古本まつり、古書善行堂をまわって、ガケ書房できょうと小冊子セッションを見て、バスで三条に戻って六曜社でコーヒー飲んで、金券ショップで帰りの新幹線の回数券を買って、サウナ・オーロラに寄って、バスで高野橋まで行って、恵文社一乗寺店に挨拶する。
夜、まほろばで東賢次郎さんと待ち合わせ。お店の常連のキョージュ(詩人・大学の先生)も加わって、三人で文学話をする。
もう一軒、元田中のHawkwindというバーに連れていってもらい、酔っぱらう。帰りの乗った瞬間、熟睡し、東さんの秘密基地のような家に宿泊する。東さんは元々東京で編集者をしていたのだが、七、八年前に京都に引っ越し、つれ・づれというバンドとソロでミュージシャン活動をし、小説も書いている。
最近、いろいろな場所に行くたびに、理想の暮らしについて考える。
(自分の)停滞の出口を見つける方法が知りたい。
帰りの新幹線で古書善行堂で買った吉本隆明の対談集を読む。
もう何年も『吉本隆明全対談集』を買うかどうか迷っているのだが、なかなか揃いを見かけない。
(……未完)
2011/10/25
『For Everyman』トークショー
河田拓也責任編集の雑誌『For Everyman』が創刊されました。
山田太一×原恵一超ロング対談や「悪名」「犬」シリーズ再見 藤本義一インタビューなど一癖ある特集を掲載。ここでしか聞けない裏話が!
河田氏は「文壇高円寺」の名づけ親でもあり、年がら年中、とりとめもない議論を交わしてきた友人です。その物事の本質を(まったく人とはちがった角度から)つきつめようとする姿勢に、刺激を受け続けてきました。
今回のトークショーの内容は未定ですが、いつもの河田氏の言葉の熱量のすごさを引き出すことができたらとおもっています。
11月6日(日)18時〜
場所:高円寺ハチマクラ 奥のギャラリー
出演:河田拓也(本誌編集長)
荻原魚雷、ゲスト オグラ(歌)
1000円(1ドリンク付)
※予約はハチマクラへ電話かメールで
お名前と人数を伝えてください。
ハチマクラのホームページ http://hachimakura.com/index.php
2011/10/24
小布施
前日、ずっと明け方まで仕事し、朝七時に家を出て、その日の夜に帰るという強行軍だったのだけど、行ってよかった。
はじめて長野行の新幹線に乗ったかもしれない。
小布施駅から歩いている途中、古本屋がありそうな気配がなくて、ちょっと不安になる。
ところが、会場に着いたら、わめぞメンバーがいて、さらに数メートル先に五っ葉文庫さん、その隣に長野の遊歴書房さん、つん堂さん……。
古本イベントと六斎市が同時開催で、本を見ながら、地元の料理を食べまくり(あちこちで試食できて、それだけでお腹いっぱいになる)、酒を飲んで、町歩きをぞんぶんに楽めた。
そば、うまかった。土産選びに迷うくらい、家に持って帰りたい食材があって、「この味でこの値段」という驚きの連続だった。
小布施は徒歩で回れて、休む場所がたくさんある。
駅から歩いてすぐのところに、図書館もあって、館内で自由に持ち込んだものを飲み食いできる。
本だけでなく、町の魅力を伝える意味でも、地元のイベント(お祭りとか)に合わせて古本市を開催するというのは、いい方法だとおもった。
都市型のブックイベントとはちがうあり方として、小布施の一箱古本市は参考になるところがたくさんあった。
このあたりのことは余裕ができたら、じっくり考えてみたい。
2011/10/19
表現と表出
前にも長時間うつ伏せで本を読んでいて右肘を痛めた。すぐには治らなかった記憶がある。
夜、沖縄そばっぽいものを作る。沖縄そばのスープ(市販のもの)に野菜と挽肉、ちゃんぽんの麺をいれる。残ったスープは雑炊にする。
『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ』の「放浪」の巻を読んでいたら、「節制しても五十歩百歩」というエッセイがあった。
《人は健康のために生きているわけじゃない》
《昨今の私がしていることの中で、もっとも身体にわるいと思えるのは、仕事である》
中年をすぎて節制してもたいして変わらない。ところが、戦争がなくなって、病気にならず、事故を避けていれば、永遠に生きられるかのような錯覚におちいった人が増えた。
色川武大は、節制ではなく、「うまく片づくという方向に努力すべきではないのか」と問いかける。
自分の言葉に殉じた作家、または自分が殉じることのできる思想のみを言葉にした作家だった。
だから、わたしは色川武大の文章に魅了される。同時にとんでもない人間だとおもう。
五年くらい前、わたしは鮎川信夫の次の言葉を引用したことがある。
《表現という問題そのものも、現代においてはそれほど骨身をけずるものではなくなっている。表現というより表出で、今ほとんどの表現はその段階にきていると思う。多くの雑誌を見ると、僕らみたいな昔者には真似できないぐらい皆うまくなっている。しかし、一定の技術・コツの中での表出である」(「『一九八四年』の視線」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社、一九八五年刊)
わたしは「表出」ではないものとは何だろうと考えていた。
「一定の技術・コツ」があれば、どんな意見であっても(自分がおもっていないことであっても)、それなりに読める文章にすることができる。
「骨身を削る」というのは「苦労する」という意味ではない。
たとえまちがっていたとしても、どうにも変えられない骨絡みの考えを身を削って書く。
鮎川信夫のいう「表現」はそういうものだった。
わたしはよくわかっていなかった。まだわかっているとはいえない。
ただ、目指したいのは、そういう「表現」なのである。
2011/10/14
きょうと小冊子セッション
わたしは友人の河田拓也さん責任編集のミニコミ『For Everyman』を推薦しました。
昔、河田氏が主宰していた線引き屋ホームページに間借りする形で連載していた「文壇高円寺」の第0回(一九九八年ごろ)を再録してもらい、対談も収録しています。
『For Everyman/フォーエブリマン』 vol.1
特集1
いま、木下恵介が復活する
対談 山田太一×原恵一
コラム 震災後に観た『二十四の瞳』
特集2
勝新太郎×田宮二郎
『悪名』『犬』シリーズ再見
藤本義一インタビュー
『仁義なき戦い』と『ガキ帝国』を結ぶミッシングリンク
伝説の未映画化シナリオ『六連発愚連隊』初稿掲載
追悼 高田純
『本と怠け者』&『ForEveryman』ダブル刊行記念
「高円寺文壇」再結成対談
荻原魚雷×河田拓也
『文壇高円寺』第0回再録
A5版 240ページ
価格 1000円
イベント期間中、「本の本の古本フェア」にも本に関する古本を出品することになりました。
「きょうと小冊子セッション」オフィシャルブログ
http://gakeibunsha.jpn.org/
2011/10/11
酒と音楽と…
パイレーツ・カヌーは、女性三人男性三人で、バイオリン、マンドリン、ギター、ベース、ドラムという構成。九月に京都に行ったときに「いいバンドですよ」と教えてもらっていたのだが、想像以上に素晴らしかった。
ホンクは文句なしのステージ。もうすぐ出るアルバムも楽しみ。
東賢次郎さんのライブは一ヶ月前にバンド(つれづれ)を見ている。今回はアコースティックのソロで、じっくり聞かせたり、笑わせたり、いろいろな意味でオトナの音楽だった。カバー曲(ろっかばいまいべいびい)のギターがうますぎて、酒を吹きそうになる。
二日続けて深酒したにもかかわらず、翌日からだがすっきりしている。ペリカン時代の新メニューのかす汁効果かもしれない。
東さんのライブに『埋葬』(早川書房)の横田創さんが来ていて、文学の話ができて楽しかった。
編集者のころ、東さんは横田さんの担当をしていたらしい。
あとオグラさんに自作の詩集(自分の好きな詩のコピーを綴じたもの)を見せてもらう。
昨日は夏用のシャツをしまって、布団を干して、業務スーパーとOKストアで買物して、シーツと布団カバーと毛布を洗濯して、味噌煮込みうどんを作っているうちに夜になってしまった。
一日の半分くらい酔っぱらっているから、仕事がちっともはかどらない。
2011/10/04
メリーゴーランド古本市
京都の子どもの本屋さん〈メリーゴーランド〉で恒例の古本市が開催されます。わたしも文壇高円寺古書部として出品予定です。
2011年10月9日(日)〜10月10日(祝月)
10:00〜19:00
出店の皆さん(順不同)
・ふるほんや俊(谷川俊太郎)
・6次元
・文壇高円寺古書部
・FORAN
・BOOKONN
・moshi moshi
・となり古書店(海文堂書店・北村知之)
・古書コショコショ
・貸本喫茶ちょうちょぼっこ
・とらんぷ堂書店
・トンカ書店
・古本オコリオヤジ
・古書善行堂
・口笛文庫
・蟲文庫
・GALLERY GALLERY
・りいぶるとふん
・増田喜昭
・小雀
・bookcafe 火星の庭
〒600-8018 京都市下京区河原町通四条下ル市之町251-2 寿ビル5F(四条河原町南徒歩3分)
TEL・FAX 075-352-5408
http://www.merry-go-round.co.jp/kyoto.html
2011/09/27
小休止
岡崎武志さんとの西荻ブックマークは無事終了。
言葉につまるたびに、岡崎さんが何度となく助け船質問を繰り出してくれて、話やすかった。すこし前に『本の雑誌』で岡崎さんと対談したときもそうおもった。
今回のトークショーでは、インタビューの仕事の話になった。アポイントの電話で緊張する。会いに行く途中でおなかが痛くなる。いざ会ってみると、まったく話がはずまない。かけだしのライター時代のわたしはそんなことの連続だった。
向き不向きというより、対人関係における基本能力が欠落しているのかもしれない。
苦手なことはしない方向で努力してきたのだけど、ちょっと変えていきたい。
*
疲れがたまってきたとき、(時間に余裕があれば)すこしだけ手間をかけた料理を作ると気持が落ち着く。
ここ数年、鳥がらスープを作ることに凝っている。ただ骨付の鳥肉(あるいはフライドチキンの残り)を煮込むだけなのだが、そのあいだ、火加減の調節に専念し、無心になれるのがいい。
味が薄いときは市販の鳥がらスープの素を足して調節する。
鳥がらスープができたら、野菜を煮込み、ラーメンにしたり、雑炊にしたりする。
仕上げのとき卵は、先にスープをすこし卵とまぜて温めからいれる。そうすると、ふわっとしたとき卵ができる。正しい方法かどうかは知らないが、昔からそうしている。
震災後、「日常を取り戻す」という言葉をよく目にした。わたしも似たようなことを考えていた。今は「日常を見つめ直したい」という気持に傾いている。
効率よく家事や仕事をすることへの興味が薄れている。
2011/09/24
約半年後 その五
悲観せず、体調を維持し、仕事ができるだけの余力を残すことを優先してきた。うまくできたかは別として。
水や食べ物に関しても、専門家の意見はわかれる。
今の状況では、いくら風評被害だといっても、不安をおぼえる人は後をたたないだろう。
科学知識のない人間にとっては、どの専門家を信用すればいいのかという問題になる。すくなくとも、わたしは自分の判断に自信がないときは、慎重論を採択しがちだ。もし自分の判断がまちがっていたとしても、なるべく被害を少なくしたいからだ。
半年もすれば、妥当な判断ができるようになっているだろう。
予想は外れた。
*
原発は失敗だった。事故の被害はあまりにも大きすぎる。処理方法のわからない放射性の廃棄物を後世に残すことも肯定できない。
そもそも地震国に安全な原発を作ることは無理だったのである。
といっても、原発は莫大な金や時間を費やしてきた国策である。推進してきた立場からすれば、そう簡単に失敗を認めるわけにはいかない。
わたしたちの社会には、引き返したり、途中でやめたりすることは、よくないという価値観がある。
まちがった選択をしても、行けるところまで行こうとしてしまう。わたしも失敗を認めないことに関しては、他人のことをとやかくいえない。
遠回りかもしれないが、原発をなくすには、あやまちを認め、撤退しやすい空気を作ることも必要なのかもしれない。
強い反対と弱い反対もあれば、強い賛成と弱い賛成もある。
わたしは弱い反対、あるいは弱い賛成の立場を大切にしたい。
強い反対が、弱い反対を批判する。そうすると、弱い反対は、中立(関わりたくない)、あるいは弱い賛成に傾いてしまうこともある。
・弱腰で保身で優柔不断な意見を穏やかに受け入れること。
・敵対する意見を頭ごなしに否定しないこと。
二十年前に運動に関わっていたとき、わたしはその逆のことばかりやってしまった。
失敗だったとおもっている。
(……続く)
2011/09/22
約半年後 その四
元通りになるのは喜ばしいことなのかもしれない。でも元通りになっていいのかともおもう。習慣に抗うことなく、押し流される日々をすごしている。自分の意志で生活を変えることのむずかしさを痛感する。
三月から五月にかけて仕事が減り、あらためて自分の生活基盤の脆さに直面し、うろたえてしまった。
マンションの壁にひびが入り、余震のたびにそれが大きくなる。
工事は五月下旬の予定だったが、大きな地震がきたら、どうなるかわからない。
散乱した蔵書の片付けも終わっていない。
落ちてきた本を元に戻しても、また地震がきたら落ちてくる。
そのころ毎週のように雑誌では「首都圏のホットスポット」といった特集を組まれていた。
同業の友人は「(放射性物質の影響は)いずれは光化学スモッグみたいかんじになっていくんじゃないかな」といっていたが、今のわたしの実感もそれと近い。
性格、年齢、子どもがいるいない、あるいは原発からの距離によって、事故の受け止め方、危機意識の個人差がある。この先、もっとバラバラになっていくだろう。
過度に心配しすぎることは精神衛生上よくない気もするし、レベル7の事故が起って何事もなくすむとも考えにくい。
(……続く)
2011/09/20
約半年後 その三
今回の原発事故の報道はあまりに稚拙すぎるとおもった。すくなくとも四十数年生きてきて、こんなに不信感がつのった報道は記憶にない。
地震、原発事故があって、水道水、食物から放射性物質が検出された。
「まさか生きているうちにこんな時代がくるとは」とおもった人も少なくないはずだ。
この先、生活にかまけて記憶は薄れていくかもしれないけど、わたしは「原発はもうこりごりだ」とおもった。原発に依拠しない生活ができるのであれば、多少の不便はがまんしてもいい。
わたしの感情に根ざした意見は、少数派の極論ではないと考えている。
震災と原発事故がもたらした価値観の変化を読み誤ることは、仕事を続けていく上で、致命傷になりかねない。
「興味がない」「自分の専門ではない」と距離をとるという手もある。でもそうした安全策自体、時代の価値観と合わなくなるかもしれない。
世の中とは無関係に、ひたすら趣味に耽溺する生き方は、それなりに社会が豊かじゃないと成立しない。
その前提はぐらついてきているし、この先、もっと不安定になるだろう。
震災と原発事故は、東京一極集中の負荷がはっきりと露呈したとおもう。
おかしいおかしいとおもいながら、わたしは都市生活の利便性を享受し、この社会を容認してきた。
原発事故のニュースを見ながら、「いつまで東京に住んでいられるのか」ということばかり考えていた。
(……続く)
2011/09/16
約半年後 その二
本が読めず、文章も書けず、自分のやっていることが無意味におもえ、気持が沈みがちだった。
二十歳前後、反原発運動に参加していた。その後、運動の世界から離れ、原発に関していえば、賛成ではなかったが、無関心になった。
推進派は利権、反対派は理想のために戦う。どんなにその危険性を唱え、原発が低コストではないといっても、無駄だとおもった。
賛成か反対か、そうした議論は平行線をたどる。それだけではなく、同じ賛成同士、同じ反対同士でも小さな差異を見つけていがみあう。
そういう場所にいることに疲れてしまった。
賛否が分かれるような議論にはなるべく関わらず、趣味の世界で生きていきたいとおもっていた。
震災後、インターネットの原発関係の議論を見ていたとき、東北と関東、あるいは関東と関西といった土地に住む人同士が、罵り合う文言をたくさん目にした。インターネット上では珍しくないことかもしれないが、読んでいてつらかった。
友人知人と会っても、政治や宗教同様、原発の話題はあまりしないようにしていた。
文章にすることにもためらいがあった。
まず自分がどうするかを考えよう。
いざとなったら、いつでも引っ越せる準備をしておこう。マンションにかなり大きなひびが入り、雨もりもした。
今度、大きな地震がきたら、どうなるのか。
あと水道水が飲めず、洗濯物が外に干せないくらいひどい状況になったら、都内に住んで安くはない家賃を払うのはアホらしいなとおもった。
幸いそうはならなかった。でも三月中は判断ができなかった。
それから四月下旬ごろ、浜岡原発停止のニュースを聞いて、これで新規の原発もできなくなるだろうし、脱原発に向うことになると楽観した。
この先、わたしは貧乏で不便になるかもしれない日本の未来を受け入れるつもりだ。
(……続く)
2011/09/13
約半年後の雑感
いろいろ自分の生活にも変化があった。
震災後、本棚の上に本を積むのはやめた。それから風呂場にペットボトルの水の汲み置きを何本か用意するようになった。空のペットボトルを風呂場に置いて、シャワーをつかうとき、お湯になるまでの水をすこしずつためる。たまった水はベランダや網戸を洗うときにつかってたまにいれかえている。
あと食生活も変わった。魚介類の消費量が減った。
野菜、乳製品を買うときも、かならず産地表示を見るようになった。
できるだけ被災地のものを買ったほうがいいし、そのことが支援につながるという考えもあるとおもう。
あまり気にすると、それこそ何も食えなくなるし、だいたいこれまで健康に気をつかった生活をしてきたわけでもない。食事はほぼ自炊だが、食材に関しては安さを重視し、胃の中に入れば同じ、味は調味料でどうにかなると考えていた。
三月、四月、原発事故の影響に関して、ちゃんと判断できる自信がなかった。とりあえず、半年は慎重すぎるくらいの対応をしておこうとおもった。半年もすれば、だいたいの状況はわかってくるだろう。ところが、半年後の今もよくわからない。
津波の被災地ではない東京に住んでいても、原発事故の影響は小さくない。風評被害云々は、実害が皆無と証明された場合につかえるいいまわしであり、どうなるのかわからない状態では、原発事故のあった土地、海からなるべく遠い産地のものを買いたいとおもってもおかしくない。ただ、そういう気持をどう言葉にすればいいのだろうかと今も書きながら躊躇している。
三月、四月は本も読めなくなっていた。ニュースとインターネット(主に原発情報)を見続け、今さらいってもしょうがないようなことばかり考えていた。
二十数年前、日本の経済が右肩上がりだったころの膨大な浪費(散財)を太陽光発電をはじめとする自然エネルギーに全力で注ぎ込み、二〇一〇年くらいまでに原発を止めていたら……。自分で書いていながらも、いってもしょうがない話だとおもう。ただ、もしそうなっていたらなあ、とおもったのである。すくなくとも、わたしは週に三日は刺身(半額シール付)を食う生活が続いていたはずだ。
それと同じことは、何年か後、何十年か後にもおもうのかもしれない。この先、日本のどこかで稼働している原発が深刻な事故が起こったとき、「なんで、あのフクシマで懲りて、方向転換しておかなかったのか」と悔やんでも悔やみきれないだろう。
チェルノブイリ事故のあと、『まだ間に合うのなら』という小冊子が反原発運動家のあいだで、よく読まれていた。
残念ながら、今回は間に合わなかったけど、これで終わりではない。
(……続く)
2011/09/11
西荻ブックマーク
九月二十五日(日)、岡崎武志さんとトークイベントをします。
公開の場で岡崎さんとふたりで対談するのは今回がはじめてです。
第54回西荻ブックマーク
2011年9月25日(日) (古)本と怠け者(ちくま文庫)刊行記念トークイベント
荻原魚雷×岡崎武志
会場:今野スタジオマーレ
開場:16:30/開演:17:00
料金:1500円
定員:30名
要予約
http://nishiogi-bookmark.org/
九月上旬に発売された『本と怠け者』は雑誌「ちくま」 の連載に「震災後日記」他をくわえた文庫オリジナルのエッセイ集です。
今回は巻末解説を書き、先日同じちくま文庫から『女子の古本屋』を出された岡崎武志さんをお迎えし、魚雷×OKATAKEの中央線黄金コンビによる古本談義を堪能していただきます。
2011/09/03
トークショー
石田千さんの本は初の小説集。芥川賞候補の表題作をはじめ、古本小説大賞受賞作「大踏切書店のこと」など、五作を収録しています。
わたしの『本と怠け者』(ちくま文庫)は、雑誌「ちくま」の連載に書き下ろしをくわえた文庫オリジナルのエッセイ集です。
●日時 九月十八日(日) 午後六時〜
●チャージ:入場無料
※飲食代別途かかります。1ドリンク以上オーダーをお願いします。
※予約はcocktailbooks@live.jp まで(アットマークを半角に変換)。
お名前、人数、当日ご連絡のつく電話番号を明記してください。
●古本酒場コクテイル
東京都杉並区高円寺北3-8-13(「藪そば」と「理容サムソン」のあいだ)
電話 03-3310-8130
http://www2s.biglobe.ne.jp/~wb2/cocktail/contents/tempo.htm
2011/08/29
アート・スピリット
すこし前に新聞の短評欄で紹介文を書いたのだが、ロバート・ヘンライ著『アート・スピリット』(野中邦子訳、国書刊行会)は、素晴らしい本だ。若い芸術家に向けたアジテーション、励ましが、ぐっとくる。アナーキストっぽいところも気にいった(ヘンライは、エマ・ゴールドマンの肖像画を描いている)。会う人会う人にすすめているのだが、大きな書店に行かないと見つからない。
《われわれがここにいるのは、誰かがすでになしとげたことをなぞるためでない》
《芸術を学ぶ者は最初から巨匠であるべきだ。つまり、自分らしくあるという点で誰よりも抜きんでていなければならない。いま現在、自分らしさを保っていられれば、将来かならず巨匠になれるだろう》
最近、こういうことをいってくれる大人がすくなくなった気がする。「自分らしさ」とか「個性」とか、ちょっとかっこわるい言葉にすらなっているかもしれない。
わたしも四十歳をすぎ、それなりに常識やバランス感覚を身につけた。でも心の中では「巨匠」のつもりでいなければならない。誰ひとりとして「巨匠」扱いしてくれなくても、自ら卑屈になってはいかんとおもった。
『アート・スピリット』の中にあったヘンライの箴言には、はっとさせられる言葉、ある意味、耳に、目に痛い言葉が頻出する。
《表現したいことがあるのに、技術の習得にばかり熱心な人間は、表現に必要な技術をけっして身につけられない》
《語りたいことが身のうちにあふれているのに、言葉の使い方がわからない。そうなって初めて、その言葉を習得すればいいのだ》
文章を書く仕事をはじめたころ、技術に頼ろうとしすぎて、一時期、自分本来の文章が書けなくなってしまった。そのうち文章が活字になっても、まったく読む気になれなくなった。
仕事に追われて、自分を磨り減らす。
気がつくと、目の力が弱くなって、どんよりとした顔になってくる。
自分もそうだが、同世代の知人にもその兆候を発見することがある。
2011/08/23
旅の記
ほとんど行き先も知らないまま、前日、藤井さんの家に泊る。翌日、藤井さんの家の近所の岡山天文博物館(子供のころ、憧れの場所だった)、木山捷平の生家(長年、訪ねたいとおもっていた)を案内してもらい、鴨方駅で火星の庭の前野さん親子と合流し、みずのわ出版の柳原一徳さんのいる山口県の周防大島に遊びに行く。途中、広島の原爆ドームやオノ・ヨーコ展に寄ったりして、到着時間は大幅に遅れた。
扉野良人さん親子、『クイックジャパン』編集長時代にお世話になった森山裕之さん一家も来ていた。旅館と柳原さん宅で宴会になった。子供がたくさんいて、にぎやかだった。
周防大島は宮本常一の郷里でもあり、素晴らしくいいところだった。柳原さんの料理もうまかった。何より楽しかった。来てよかった。
帰りは、藤井さんといっしょに倉敷の蟲文庫さんに寄り、そのあと藤井さんの家にまた泊めてもらう。藤井さんの息子と将棋を指す。この子は藤井さんが十年ほど前、高円寺に住んでいたころ、岡山で生まれて、赤ん坊のときに一度だけ東京で会っている(採用されなかったが、わたしも名前を考えた)。もう小学四年生と聞いて、時の流れをかんじた。まったく父親っぽく見えないが、藤井さんには小学二年生の娘もいる。
翌日、藤井さんといっしょに学校のPTAの剪定作業に参加する予定だったのだが、雨で中止に。なんとなく、扉野さんと話し足りないとおもい、「京都に行こうか」と誘うと、藤井さんがすぐメールを送信する。岡山からJR赤穂線経由で京都へ。夜、写真家の甲斐扶佐夫さんが営む八文字屋で飲んだ。雑談しているうちに、わたしと上京中の藤井さんがいっしょに仕事をしていたときの共通の恩人と甲斐さんが古い知り合いということもわかった。
次の日、六曜社、古書善行堂に寄って東京に戻る。
ここ数年、旅慣れることが自分のテーマになっている。そこには「自由とは何か」という問いもある。
わたしの考える自由は、行きたいときに行きたいところに行くことで、もちろん、それは簡単なことではない。
仕事やお金との兼ね合いもあるし、体力や気力との兼ね合いもある。
この数年、わたしが旅行中の失敗から学んだのは「食べすぎず、飲みすぎず、動きすぎず」だ。旅先は誘惑が多い。「せっかく、ここまで来たのだから」とついペースを崩し、うまいメシや酒を食いすぎ、飲みすぎ、何度となく、旅の途中でダウンしてきた。
周防大島に滞在中、藤井さんが「ここはまた来る気がするけえ」といい、終始、楽しそうに過ごしているのを見て、「これだ」とおもった。話しかけ上手で、どこに行っても、すぐ場に溶け込んでしまう藤井さんの真似はなかなかできない。
旅慣れるというのは「また来ればいい」とおもえることかもしれない。見習いたい。
2011/08/14
ぼんやり迷読
その中の三木卓の「文学の領土へ導かる」という文章を読んで、考えさせられた。
《本を読むということが、読んだ人間に残す痕跡というものは当人の自由にならない。自分が必要だと思ったり、読むべきであると思って一生けんめい読んだ本が、その人間に対して必ずしも力を持つとは限らないと思う。(中略)反対に、何気なく手にとって読んでしまったもの、あるいは、好きだ、ということに気づかないでいて、しかし無意識にひきつけられて読んでしまったものが、あとで意味を持って自分自身に働きかけていることがあり、しかもそれにずっとあとになってから気づくということもある》
(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)
2011/08/09
バリエーション
コピー資料が散乱し、どこになにがあるのかわからない。
今日火曜日発売の『サンデー毎日』で、星野博美著『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)の書評をしました。
ちょうど読みたいとおもっていた本を編集部から依頼されたのでおどろいた。担当者は、わたしが星野博美のファンだということを知らなかったみたい。
本の紹介に専念しようと、自分の話は書かなかったのだけど、わたしの父は三重県鈴鹿市の自動車の下請け工場の労働者、母は伊勢志摩の漁師町出身ということもあり、漁師と町工場勤めの親族に囲まれた星野家のルーツの物語を興味深く読んだ。
すこし快方にむかってきたので、中野ブロードウェイに行き、古書うつつで『季刊アーガマ 文藝特集 川崎長太郎 その世界』を買う。
店でパラパラ読んでいて、保昌正夫さんの「川崎長太郎の徳田秋声」の中にあった一文に目が止まる。
《「私小説」の作家は繰返し(バリエーション)によって自身の創作方法の確認をとってゆくのだ》
同じようなことを書きながら、すこしずつ変わっていく。
川崎長太郎もそうだし、作風はちがうが、尾崎一雄もそういう作家だ。
言葉の背後にあるものはなかなか出てこない。ぴったり合う表現が見つからない。何かがちがう、どこかがちがう。書いてみないと、そのちがいに気づかない。気づくのは、一日後のこともあれば、十年後、二十年後のこともある。
川崎長太郎は、同じテーマを何度も繰返し書きつつ、そのたび、小さな工夫や変化を重ねている。
その持続力(執念)を見習いたい。
もうすこしバリエーションも増やしたい。
2011/08/05
自分の条件
その一年前にパソコンが壊れ、数ヶ月分の原稿が消えた。バックアップをとればいいのだが、忘れる。原稿をブログに載せておけば、データが残る。後に推敲がしやすいことにも気づいた。
しばらくして古書現世の向井さんとブログ「退屈男と本と街」の退屈君と高田馬場の居酒屋で飲んでいて、「ブログをはじめたんだけど」というような話をして、非公開から公開に切り替えた。
五年前、何してたかなあ。
当時というか、今でもなのだが、わたしは二十代のころからずっと古本屋のある町に住んで、どんな形でもいいから本に関する仕事がしたいとおもっていた。
夢とか目標とかではなく、それ以外の仕事を続けられる自信がまったくなかった。
仕事や人間関係がうまくいかず、何もする気になれないときでも、近所に古本屋があって、一冊百円くらいの文庫を買って、家に帰って読めば、それで一日乗り切れる。しかも、生活がしんどいときほど、読書がおもしろくなるという法則もある(だからといって、わざと苦しい生活を送ろうとはおもわないが)。
*
秋花粉の症状らしきものが出ている。今年は七月下旬から、クシャミが出はじめた。花粉症の薬(漢方)を飲んだら、すぐおさまったが、微熱は続いていて、睡眠時間が毎日五、六時間ずつズレていく。
例年八月中旬か下旬くらいだから、こんなに早く来るのは珍しい。夏風邪かもしれない。
その日その日のかろうじて頭の働く時間をつかまえて原稿を書いている。それ以外の時間はたいていぐったりしている。そういう生活をしていると、なかなか他人と協調して何かいっしょに行動することができない。
自分の体調や性格を考慮した上で最善を尽す。
やりたいこともやりたくないことも、すべて自分の条件に左右される。多くの仕事は、自分の条件だけではうまくいかない。
半人前の癖にわがままばかりいうことは、なかなか許されないのが現実である。半人前だからこそ、自分の条件に合ったことしかできないともいえる。
もし有能だったら、こんなふうにはなっていない。
いろいろな本を読んできたけど、まず自分の条件と合致する人はいない。でもどこかすこしでも重なるところがあれば、もうけものだし、まったく重ならない場合も、自分の進む方向ではないことがわかる。
そうこうするうちに、汎用性のない自分の条件のようなものがすこしずつ見えてくる。
見えたからといって、何がどうなるわけではない。ただ、自分の条件に合わないことを諦められるようになる。
それがいいことなのかどうかは一概にはいえない。
2011/07/31
常連と一見
過去の土台もすべて見せながら、新しいことをやろうとしている。
はじめてこのバンドを見た人もわたしのような年に何回も見ているような常連にも楽しめるライブだったのではないかとおもう。
曲や演奏が素晴らしいのだが、東京ローカル・ホンクの一回一回のステージで見せる初々しさもこのバンドの魅力である。
今、秋に出る本の初稿ゲラのチェックをしていて、過去三年分くらいの連載で使用した本の山がある。さらに三月の地震後、本棚の上に積んでいた本(ぜんぶ落ちてきた)を床におろしている。
通常の仕事に本の仕事が重なり、掃除をする時間がない。これまでのペースで古本を買っていたら、どこに何があるのかわからなくなる。
そんなわけで、このひと月くらい古本買いを自粛していた(まったく買わなかったわけではない)。
それで行くかどうか迷いながら、日曜日、西部古書会館の古書展の二日目の午後四時に行く。
西部古書会館に十九歳の秋から通っている。当時も日曜日の午後によく行った。百円から三百円くらいで好きな作家の随筆集や対談集、全集の端本を買い漁っていた。
食費と本代がせめぎ合う生活だったから、今よりずっと真剣に本を選んでいた。
年々、コンプリート欲のようなものがなくなっている。新しく何かを揃えようとおもうと、愛着のある何かを売ることになる。
若いころに好きになった作家というのは、なかなか強力である。そう簡単にはこえられない。自分の好みにしても、昔読んだ本によって作られている。白紙の状態で新しい本に向うというのは、かなりむずかしいことだ。
文章を書いていても、それはよくおもう。
そうしてはいけないとおもいながら、どうしてもこれまで自分の書いたものを読んでいる人、自分のことを知っている人を前提に、文章を書いてしまいがちだ。
そうすると、はじめて自分の文章を読む人には不親切な原稿になる。はじめて自分の文章を読む人に合わせて文章を書くと、そうでない人には「またその話かよ」とおもわれる。
毎回、自己紹介からはじめるとくどくなるし、何より自分も飽きてくる。
自分のことを誰も知らないという前提で文章を書いたほうがいい。
でもマンネリになってもいけないし、敷居を高くしすぎてもいけない。
何らかの変化は必要なのだが、変化を追い求めすぎると自分を見失う。
常連と一見の客を同時に満足させるのはどうすればいいのか。
この話、もうすこし考えてみたい。
2011/07/25
雑記
今回は飲み友達のカズマクラ君(手まわしオルカンのオグラさんの弟)がわめぞイベント初参加ということで、いろいろな人に紹介したかったのだが、ええっと、酔っぱらいました。今後ともよろしく。
日曜日、ユータカラヤに買物に行ったら、ぼらの刺身(サク、三百九十八円)があって、おもわず購入してしまった。
母の田舎(伊勢志摩の漁師町)で、アホみたいに釣れたから、子供のころよく食った。お金を出して食うのは、はじめてかもしれない。ぼらは油がすごくのって身がしっかりしていて、めちゃくちゃうまい(とおもう)。
田舎にいたころによく食べた魚は、カワハギ(うちのほうではハゲといっていた)もそう。こちらも東京では見かけない。
仕事の合間、『3月のライオン』と『ちはやふる』と『乱と灰色の世界』の最新刊を読む。
「週刊将棋」は森内俊之名人のインタビューが載っていた。これがすごくよかった。
わたしが「週刊将棋」の定期購読をはじめたのは、一九九六年の羽生善治さん、森内俊之さんの二十五歳同士の名人戦がきっかけだった。
当時、わたしはこの名人戦の大盤解説会にFAXで棋譜を送るアルバイトをしていて、「自分とほぼ同世代なのにすごいなあ」とおもい、将棋のわけのわからなさに魅了されてしまったのである。
今回のインタビューでは、名人復位の共同記者会見のさい、森内名人が「最近は勝ち急いだり、短気になったりすることがある」といったことにたいし、インタビュアーが「年齢的なことが関係しているのでしょうか」と質問——。
現在四十歳の森内名人は「以前、同世代の棋士仲間が原稿に書いていましたけど、結論を急ぐのは典型的な加齢の傾向だと。それが勝率ダウンとかにつながって…私も例外ではないということですね」と答えている。
齢をとると、根気よく考えるのは疲れる。
この記事を読んで「結論を急がないこと」と何度も自分にいい聞かせた。
2011/07/13
断片と全体
ただ、左右されて、ふらふらしているなりに、これまでの断片を集めると、そのときどきには見えなかったものが見えてくる。
何をしようとしているのか、どの方向に進もうとしているのか、というようなことが全体になってはじめてわかる。
文章は、断片の集積である。
断片のひとつひとつに意味がある。しかし、それが集まって全体になったときには、断片の意味が変わることがある。
同時にたったひとつでも断片に傷があれば、全体を否定されてしまうことがある。
なるべくそういうものの見方をしないようにしたいとおもっているのだが、なかなかそういうふうにはできない。
好きな作家の作品を通して読むと、自分と意見がちがったり、ちょっとおかしいとおもったりする作品や一文に出くわすことがある。
もしはじめにそういう作品を読んでいたら、その作家を好きになったかどうかわからない。
全体をとらえるためには、もうすこし断片に寛容でありたい。そうおもいつつ、つい小さなことを気にしてしまう。
全体の中のたったひとつの断片であっても、自分にとって重大な問題であれば、なおさらだ。
一読者だったときには、わたしは断片にも全体にもわりと厳しい人間だった。もともと、ちまちました性格である。
ところが、書き手の側になると、その厳しさが倍になってはね返ってくることを知った。
いい勉強にはなるが、心は痛む。でも、その痛みに慣れてはいけないともおもう。
神は細部に宿るというが、わたしの断片は、しょっちゅう言葉足らずだったり、言いすぎたりする。
長い目で見守ってほしい、すこしくらい大目に見てほしいとおもったら、自分もそうしたほうがいいことを名前も知らない人から教わった。
いまだにその教えはなかなか守れていないのだが、そのことに気づかせてくれた人には感謝している。
2011/07/11
背のびをすること
ちょっと気になるところがあり、久々に『借家と古本』(スムース文庫、コクテイル文庫、品切)と『古本暮らし』(晶文社)を読みかえした。誤植だらけ、勘違いだらけ、訂正したいところはいっぱいあるのだが、背のびして精いっぱい書こうとしていたときの気持をおもいだした。
この二冊がなかったら、今、まったくちがう仕事をしていたかもしれない。不格好でも粗削りでも、とにかく形にしてよかったとおもった。
寝ても覚めても文章の続きを考える日々に、毎日睡眠時間がズレていき、もともと不規則な生活が、さらにぐちゃぐちゃになっている。
そんな中、古本酒場コクテイルとペリカン時代のハシゴ生活も続けている。
土曜日、ペリカン時代で、雑誌『For Everyman』を制作中の河田拓也さん、グラフィックアーティストの泰山(TAIZAN)さん、インチキ手まわしオルガンのオグラさんたちの飲み会にまぜてもらったら、大分の出身で福岡を中心に活動していたircle(アークル)の河内健悟(Vo.G)さんを紹介してもらった。中学時代にバンドを結成し、まだ二十三歳にして結成十年というからおどろいた。バンド名は円(circle)の「c」をとった造語だと聞いた。
泰山さんは彼らのジャケットのアートデレクションをしている。
ライブ会場限定発売のミニアルバム『You』のサンプルをもらったのでさっそく聴いてみたら、かっこよかった。おもわず、正座した。
疾走感のあるギターサウンドに、ひねりのある歌詞、詩がちゃんと届く歌い方、声もいい。
とくに「2010」という曲がしみた。
これからどんどん変化していきそうな予兆がある。
音楽や絵をやっている人と話していると、ふだんあまり考えていないことをいろいろ気づかされる。
既存のジャンルにくくられたり、自分たちのバンドが他のバンドにたとえられたりするのはあまりうれしくないというような話を聞いて、そういうものかとおもった。
音楽を言葉で説明するのはむずかしい。
だからつい「何とかみたいなバンド」や「誰それみたいなミュージシャン」といったかんじで安易にたとえがちになる。絵もそうかもしれない。
わたしは自分の文章が誰かと比較されてもとくに何ともおもわない。
文章でも音楽でも絵でもかならず誰かの影響は受ける。近づきたい、早くそのレベルに到達したいとジタバタしているうちに、自分のスタイルのようなものができてくる。
古本屋通いをしていると、自分のオリジナルのアイデアとおもっていたことや文章上のちょっとした遊びまで、昔の人がやりつくしていることを知り、ガッカリすることがよくある。
でも続けているうちに、いろいろな影響がごちゃまぜになって、独自のものになっていくのではないか。
背のびをして、自分の限度を知る。
そこから引き返す途中にも何か大切なものがある気がする。
昔の自分の文章を読み返して、そんなことをおもった。
2011/07/04
星を撒いた街
山本善行さんの撰者解説に「読み返した作品を全部入れたくなり」とあって、そうだろうなあとおもう。
文庫(品切も多いけど)で読める代表作をいれるかどうか、作品の年代やテーマの重複を避けるべきか、頁数の制約もあるし、ものすごく迷ったようだ。
そして残った七篇。
読む前にどんな作品が収録されているのか、これほど気になったアンソロジーはない。これを読んだら、もっと上林暁の小説が読みたくなる。そんな七篇だ。
ちなみに、わたしがいちばん好きな上林暁の作品は六作目に入っていた。
*
夏葉社の島田さんが最初に刊行したマラマッドの『レンブラントの帽子』に、京都で古書善行堂を営む山本さんが熱烈なエールを送った。エールだけでなく『レンブラントの帽子』を売りまくった。さらに本を売るだけでなく、次に夏葉社から出してほしい本のタイトルまでブログに公表した。
それが関口良雄の『昔日の客』だ。
まだそのころ島田さんと山本さんは面識がなかったらしい。
島田さんは『昔日の客』も知らなかった。
『昔日の客』は、山王書房という古本屋が遺した随筆集で長く入手難になっていた。インターネットの古本屋の相場は一万五千円くらいしていた。
驚いた島田さんは、国会図書館で『昔日の客』を借りて読んで、その作品に惚れこみ、即刊行を決意する。
そして今回の上林暁の本が出ることになった。
上林暁は『昔日の客』の関口良雄、そして山本さんが敬愛し続けた作家である。とにかく山本さんは口を開けば、カンバヤシ、カンバヤシといっている。何回聞いたかわからない。
『星を撒いた街』は、東京の古本屋の関口良雄と京都の古本屋の山本善行さんの上林暁への愛情が、時空を超えて結晶化した一冊である。
ゆっくり味わいたいとおもう。
2011/07/01
隠居の時間
一日の大半は、本を読むかレコードを聴くか文章を書くかしていて、それに飽きると飲み屋に行く。仕事がほどほどにあって、家賃と生活費がどうにかなって、人ごみを避け、面倒を避け、好きな時間に寝起きができて、本を読んで、酒を飲んで、ときどき旅行ができたら、わたしの欲望は、ほぼ充たされる。
人によっては、贅沢とおもうかもしれないし、退屈とおもうかもしれない。
《なにもしなければ、金もかからない。わたしはいろいろなことが面倒くさくなると、いつも金をつかわない方向に物事をかんがえてしまい、その結果、行きづまる。行きづまると、旅に出たくなる。二十代のころから、えんえんとそういうことをくりかえしてきた。よくわからんけど、とりあえず、電車に乗っちゃえ。そうすれば、余計なこと考えなくてすむ》
たぶん、四年くらい前に書いた自分の文章の一部で、どこかに発表したかもしれない(しなかったかもしれない)。
旅といっても、わたしは二泊三日くらいの国内旅行が好きで、旅先でもほとんど日常の延長の行動しかない。つまり、古本屋と喫茶店と飲み屋をまわるだけだ。
日常と旅先では何がちがうのかといえば、仕事の有無である。移動先では仕事をしない(できない)。
年々、仕事をしない(できない)時間の大切さを痛感している。
仕事をしない(できない)時間が減ると、どんどん消耗していくような気がする。
今のわたしは次の仕事にとりかかるまでの準備期間がもっとほしいのだとおもう。
自分の性格や体力を考えると、低迷や停滞を受け入れつつ、あまり無理をしないほうがいいことがだんだんわかってきた。
省エネは得意なほうだとおもう。
2011/06/28
Book! Book! SENDAI
出張わめぞが設営中。カバンを置かせてもらって開始前の会場を散策する。
サンモール一番町商店街からちょっとそれたところにある野中神社が一日限りのBook! Book! 神社になるとのことで、担当のジュンクのジュンちゃんに案内してもらう。
おみくじは大吉だった。
午前十一時、開始。
人通りがとぎれず、ものすごく、にぎわっている。
わめぞエリアも、すぐ人だかりができ、次々と本が売れていく。
昼すぎ、書本&cafe マゼランに行って、喫茶ホルンで休憩する。
マゼランでは折原脩三著と『辻まこと・父親辻潤』(平凡社ライブラリー)と『パーキンソンの政治法則』(至誠堂)を買った。
パーキンソンは昨年の(自分内)課題図書だったのだが、「政治法則」は未読だった。
今年の下半期は辻まことを読みまくりたい。
会場に戻って、三月の震災直前にサンモール一番町商店街に移転した中古レコード屋のヴォリューム1をのぞく。ゴールドブライアーズの紙ジャケCD、ジェームス・テイラーの「IN THE POCKET」などを買う。
前の店のときより古本コーナーも増えていた。店主さんに、石巻の日本酒をいただき恐縮する。大事に飲みたい。
ワインを飲んで、ほろ酔いで古本市の会場をうろうろしているうちに、出発前にはいろいろ気になっていた震災のことをすっかり忘れていた。夕方くらいまで残っていたら、買おうとおもっていた本はことごとく売れていた。
終了まぎわに『てくり』の木村さんに挨拶することができた。
韓国料理の店で開催された打ち上げにわめぞ枠でまざる。
ひさしぶりに会う人も多くて、時間がぜんぜん足りない。
南陀楼綾繁さんがごはん屋つるまきに泊ると聞いて、その場で交渉し、宿を確保した。また若生さんのお世話になることに……。
前日まで東京は気温三十度をこえていたのだが、仙台は長そでのシャツ(さらに薄い上着)でも涼しくかんじた。
日曜の夕方、東京駅に着いたら、東北新幹線のホームが帰省ラッシュ並に人でいっぱいだった。
2011/06/24
冷やし雑炊
あまりにも大量に作りすぎてしまったので、残りをどんぶりに分けて、冷蔵庫にいれておいた。
その冷蔵庫にいれた雑炊を電子レンジで温めずにそのまま食ってみたら、けっこういけることがわかった。
ここのところ、うどんと雑炊ばっかり食っている。毎回味は変えているのだが、さすがに飽きてきた。
なぜうどんと雑炊ばっかり食っているのかというと、毎年恒例の夏バテ対策を実施したのである。
完全にバテる前に、バテたときと同じような生活をすることで、体調を整えようという算段だ。
これは風邪の予防のときにもよくやる。
風邪をひいていないくても、風邪をひいたときと同じくらい十分な栄養と休養をとる。
傍目には怠けているだけにしか見えないのが、つらいところだ。
昨日、阿佐ケ谷駅北口に新しくできた古本屋・コンコ堂に行ってきた。
音羽館で働いていた天野さんが、満を持して開店した店なのだが、期待以上にいい店だった。広くてきれいで本も揃っている。
天野忠の詩集や山田稔の小説がずらっと並んでいる姿は壮観の一言。渋い本だけでなく、読んで損はないとおもえるような本がずらっと並んでいる印象を受けた。
平日の夕方にもかかわらず、ひっきりなしにお客さんがやってくる。
阿佐ケ谷散歩の楽しみができて嬉しい。
夜は高円寺飲み。『本の雑誌』の宮里さんが、三輪正道さんから届いた郵便物をもってきてくれる。『黄色い潜水艦』が同封されていた。
今年の三月半ば以降、わたしは三輪さんの本を何度も読み返していた。
『泰山木の花』(編集工房ノア)の中に、阪神大震災のあと、本の整理もできず、なかなか小説やエッセイを読む気になれなかったと綴っている文章があって、すごく身にしみたのだ。
この本の「もだもだ日乗」という日記風の随筆も好きで、読んでいるうちに、他人とはおもえないような気分になる。
《今の私は仕事のストレスがとれたはずなのに、何か体全体の生気が失われたようで、歩くことも忘れ(万歩計が淋しく眠っている)文学への情熱も薄れがちだ。今は生きることへのリハビリのとき、とでも言うかのように、辛うじて生きている》
わたしもしょっちゅう「生きることへのリハビリのとき」をすごしている。低迷しているなとおもいながら、どうにかその状態を飼いならそうと、内心はいろいろあくせくしているのだが、やっぱり、怠けているだけにしか見えないのが、つらいところだ。
2011/06/16
無用な余白
当然、多くの人には有用でも自分には無用なものもある。
はたして自分が有用だとおもうものを共有できる人間はどのくらいいるのか。
世の中をよくしたいという気持がないわけではないのだが、社会が改善されても自分の生活がつまらなければ意味がない。逆に、社会がどんなにぐずぐずでも自分がそこそこ楽しく生きていけるなら、それはそれでわるくない気もする。
ただし、わたしが酒飲んで本読んでふらふらしていられるのも、世の中にとって有用な仕事をしてくれている人々がいるおかげだとおもうので、まあ、なるべく足をひっぱらないようには気をつけたい。
(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)
2011/06/11
隠居願望
根をつめて仕事をすると、肩とか腰とかが痛くなる。二十代後半くらいから、こんな感じだった気もするが、それなりにガタがきているのだろう。
水曜日、西荻窪のなずな屋、古本酒場コクテイルに古本の補充してきた。古本のパラフィンがけ、値付をするのもひさしぶりだ。
『本の雑誌』の今月の特集「私小説が読みたい!」で岡崎武志さんと対談した。雑誌で岡崎さんと対談するのは、はじめてかも(※)。対談場所は高円寺のペリカン時代で五、六時間は喋ったとおもう。
とりとめもないことを考えたり、結論の出ないことをだらだら語り合ったりするのは楽しい。そういう時間をもっと作りたい。
自分の好きな文学が隠居系ということもあるかもしれない。
四十代になってしばらくして人生五十年と考えたとき、急に隠居願望がわきおこってきて困っている。世間でいえば、働き盛りということになるのだろうけど、どうもそういう気持にならない。
《私は、早く、隠居という身分になりたいと思っている》(山口瞳「隠居志願」)
このとき山口瞳、四十七歳。年齢は四十七歳だが、肉体年齢は六十歳をこえているような気がするという。
昭和の初期には、四十歳の男が酒場に入ってくると爺さんが来たという目で見られた。当時の四十歳は今の六十歳くらいに相当した。
《人生五十年と思いさだめて、ヤリタイコトヲヤルというのが男の一生なのではないか。そうやって、偶然に七十歳まで生きてしまったのが古稀であり、古来稀なりということになる》
わたしの隠居願望は、学生時代の下宿生活くらいの生活水準に戻せば、どうにかなりそうな気もする。仕事部屋をたたんで、今より家賃の安いところに引っ越せば……。
自分の思考が拡大ではなく縮小にどんどん向かっている。
楽になるのだが、無気力にもなる。
気をつけたい。
(※)ずいぶん前に『彷書月刊』で対談していたことをおもいだした。
2011/06/05
盛岡にて
その後もふらふら散歩。
この日の夕方、すでに万歩計の歩数は三万歩をこえていた。
開運橋ちかくのビジネスホテルに宿を決め、ちょっとだけ横になり、体力回復をはかって、桜山神社へ。
桜山商店街をぐるっとまわる。
どこもかしこも似たような町並になっていく中、わたしがくりかえし訪れる町は、たいていごちゃごちゃした路地がある。路地裏にはいると、秘境に迷いこんだような楽しさがある。一度や二度、行ったくらいでは、何もつかめない。だからまた行きたくなる。
昨年秋、この桜山商店街に、かけだしのフリーライター時代にお世話になった林みかんさんのみかんやというお店ができた。
連絡せずに訪れたら「急に来る奴」といわれる。
本名でもペンネームでもなく、わたしのことを昔のあだ名で呼ぶ人は、今ではみかんさんと学生時代からの友人の小郷永顕くらい。
「小郷はオープンの日に来たよ」
わたしと小郷はみかんさんの家でよくごちそうになった。
みかんさんのまわりには、田舎から出てきたばかりの世間知らずで空回りばかりしていた二人組をおもしろがってくれる面倒見のいい遊び人が集まっていた。
で、フリーライターになったら、こんなふうに朝も夜もなく、遊んでいられるんだ、と勘違いした。
人生の方向性のようなものは、たいてい勘違いで決まるのかもしれない。後は強引に、辻褄や帳尻を合わせるしかない。
それとおもいどおりにいかないことをどれだけ楽しめるか……。
ウィスキーから日本酒に切りかえたところで、フィービー・スノウの曲がかかる。
四月二十六日、五十八歳で亡くなった。
飲みながら、いろいろ昔話を拝聴する。
昔、みかんさんがニコニコ堂の長嶋康郎さんといっしょに活動していた話は初耳だった。
閉店後、同じく桜山商店街のCROSSROADというライブバーに連れていってもらったのだが、飲みすぎて眠くなってしまった。不覚。
盛岡から帰りの帰りの東京行きのやまびこの自由席は半額だった(六月十三日まで)。
2011/06/02
仙台に行って
お気楽な身の上でありながら、愚痴や不満をこぼしてばかりいるのは、どうなのかとおもう。どうなのかとおもうが、どうすればいいのかわからない。
五月末、東京駅から深夜バスで仙台に行った。扉野良人さんの誘いだった。バスは途中、佐野と安達太良のサービスエリアに止まった。降りる人は少なかったが、わたしは降りた。真っ暗なバスの中で、帰ってから書く予定の原稿を頭の中で考えていた。
早朝、火星の庭に着くと、おにぎりとお茶と布団が用意されていた。ありがたい。
この日の河北新報の一面は、前日の宮城沿岸を襲った大雨と強風の記事だった。
昨年十月に佐伯一麦さんの読書会で仙台に行っている。あれから半年以上経っている。この三年間くらい、二、三ヶ月に一度のペースで仙台通いをしていた。春、夏、秋、冬、どの季節に行っても、すごしやすい。食い物がうまい。くつろげる。
火星の庭で知り合った人たちと飲むのも楽しい。
昼すぎ、前野久美子さんの運転で塩釜、石巻、七ヶ浜を案内してもらう。
車の中から町を見ると、道一本、川ひとつ隔てて、津波に巻き込まれた場所、巻き込まれなかった場所が分かれている。
石巻の日和山公園から北上川の河口付近を見た。マルハニチロの建物があって、そのまわりは更地になっている。その更地の上にショベルカーやトラックがまばらに行き来している。
テレビの映像で何度も見た光景だったが、呆然とした。
七ヶ浜のほうは倒壊して家、横転した車が残っていた。屋根の上に船が乗っている。
前野さんの説明によると、このあたりは高級住宅地とのことだった。大きな家が多い。海がきれいで、関東でいうなら、湘南とか鎌倉とかの雰囲気に近い。
視覚からの情報でからだが重くなる。生まれてはじめての経験だった。
避難所で暮らす人が「仮設住宅ができたらすぐ出ていくから」という理由で不動産屋に部屋を貸してもらえないという話も聞いた。
夕方、仙台市内に戻ってきて、メディアテークの向いの喫茶ホルンに行った。三月はじめにオープンしたばかりのyumboの渋谷さんの店。お店をはじめてすぐ地震にあった。ひっきりなしにお客さんが来る。もう何十年も続いている店のような不思議な落ち着きのある店だった。またひとつ仙台に遊びに行く楽しみができた。
夜、扉野さんの知り合いの仙台在住で東北大学博士課程で数学を研究している学生と待ち合わせて、住宅街のアパートの一室で営業しているごはん屋つるまきに行く。店主は、版画家の若生奇妙子さん。お店のコンセプトは「ごはんのときだけシェアハウス」。
ごはん屋つるまきには、Book! Book! Sendai!のスタッフの人たちも集まっていた。
かねてから扉野さんと火星の庭の前野健一さんが似ているとふたりを知る人のあいだでは評判になっていたのだが、この日、念願の二ショットを見ることができた。顔だけでなく、表情やのんびりした雰囲気も似ている。
本人同士も「似てるとおもいます」といっていた。
日付が変わってしばらくして、コタツに入って手料理を食って、お酒を飲んでいるうちに、いつの間にか寝てしまった。楽しかったなあ。生きているからには楽しまなければ損だとおもった。
(……続く)
2011/05/30
程よい怠惰
健康すぎるとだめだ。外に出たくなる。酒が飲みたくなる。からだを動かしたくなる。じっとしていられない。かといって、風邪をひいていたり、疲れすぎたりしていてもいけない。体調がわるいと、活字も頭にはいってこない。
程よく怠いこと。
わたしが本を読んでいるとき、集中できるというか、しっくりくるのはそういう状態である。
程よい怠さは、酒を飲んだときのほろ酔いの状態と似ている。狙ってその状態を作り出せない。
ずっとほろ酔いが続けばいいのになあとおもっていても続かない。たいてい痛飲し、泥酔し、二日酔いになる。
尾崎一雄の「日記」という随筆がある。
これまで日記を書いてこなかったのだが、今年の元旦から書きはじめたという。
志賀直哉の全集の日記の巻を読んで「文章はどうでもいい、その日あつたことを簡単に書きとめ、かつは又何か感想でもあつたら、自分があとで読んで判る 程度に書いておく、将来何かの足しになるかならぬかはしばらく措き、現在の自分を整理するための一助にはなるだろう」とおもい、毎日何かを書き記そうと決 めた。
《志賀先生の日記には、一日分として、「忘れた」あるいは「無為」などと書いてあることがある。私のにもそんなのが続々と出てくるかも知れぬが、とにかくつけることはつける》
わたしもかつて日記をつけよとしたことが何度かあるのだけど、あまりにも毎日同じようなことしかやっていなくて続かなかった。
でも「無為」な時間が、何かの拍子に「有意義」に変わることがある。
そのときそのときはただただどうしようもなく怠惰にすごしているだけなのだが、後からふりかえると、そんな無意味におもっていた時間から得るものが、あったりなかったりする。
本を読んでいるあいだ考えていたことは、ほとんど忘れてしまうのだが、やっぱり、それも何かの拍子におもいだすことがある。
今は何もおもいだせない。
2011/05/24
散財散歩
《昔からずーっと、そんなに仕事をしないやつと思われていて。だけど、それにしちゃあね、まめに仕事をしているんだよ》
どうやって食ってきたのかと聞かれて、「ようするに、基本的にはずっと親のすねをかじっていたんですよね」「すねっていうのは、かじり続けていれば、かじれるんですよ」と悪びれずに語っているかんじが、おかしい。
新聞代や光熱費などの生活費は、タウン誌(『うえの』)の編集でどうにかなった。
「新日本文学」のような左翼系の場合、労働組合の新聞や雑誌の仕事があり、それが定収入になることもあったようだ。
あまりお金をつかわない生活をしていれば、サラリーマンの平均収入の半分くらいでも大丈夫という話に勇気づけられる
*
午後、ひさしぶりに阿佐ケ谷散歩。最近、十二枚セットの布巾を見かけなくて困っていた。以前は二百円前後だったのだが、三百円前後になっている。
帰りは新高円寺のほうに向かって歩き、アニマル洋子、ルネサンスに寄る。
昔住んでいたアパートの近所にdaysという文房具のセレクトショップがあり、カッターナイフと消しゴムを買う。
そのあと円盤に行って、かえる目の『拝借』をようやく購入。
しばらくかけっぱなしになる予感。
最近、京都のガケ書房に行ったとき、ちょうど店内でかかっていた平賀さち枝の『さっちゃん』というCDをずっと聴いていた。「阿佐ケ谷の部屋」「高円寺にて」という曲も収録。
歌手になるしかないような声だなとおもう。
散歩して古本屋をまわってCDを聴きながら酒を飲んで気分がよくなる。
2011/05/19
そこにいること
古本博覧会は若い(といっても、わたしと同世代)古書店主が参加しているせいか、いつもの古書展と棚の雰囲気がずいぶんちがう。
棚の数を減らし、本も見やすい。量を重視するお客さんには物足りないかもしれないが、わたしはこの試みはすごくいいとおもう。昔から、棚と棚のあいだで押しあいへしあいになるかんじが苦手なのである。
そのあと仕事があって、あずま通りの青空市は日曜日に行った。
こちらも楽しかった。
*
『活字と自活』(本の雑誌社)の写真を撮った岡山在住の藤井豊さんが、一ヶ月以上、青森から福島まで、ほぼ徒歩で写真を撮り歩き、その帰りに東京にやってきた。
ペリカン時代で珍道中としかいいようのない話を何時間にもわたって聞かせてもらったのだが、いずれ写真といっしょに藤井さん自身が語るときがくるとおもうので、その内容は秘しておく。
ただ、藤井さんは顔つきが別人のように変わっていて、野人化していた。
写真家にとっての才能は、いろいろなセンスもあるのだろうけど、何よりも「そこにいること」だろう。
では、わたしにとって「そこにいること」とは何だろう。
外出するときにマスクを着用し(今のところしていない)、水や食べ物を気にしたり(まあ、多少は)、洗濯物を外に干すかどうか迷ったり(やむをえず部屋干し)、そんなおもいをしてまで、東京にいる理由はあるのかと自問する。
酒びたりの不健康な生活をしていても、四十歳すぎていても、子供がいなくても、放射性物質は怖いし、いやだよ。
地震や原発事故と関係なく、いつ食えなくなってもおかしくないという不安もある。
このままここにいられるのか。
どこにいけばいいのか。
毎日のように考えてしまう。
まあ、答えはいつも同じなのだが。
2011/05/14
仕事と自信
ときどき、坂口安吾を読み返したくなる。
読むとちょっと救われる。
わたしは、この自信の崩れを食い止めたくて文学を読むことがある。そうした効能のある文学を探している。
仕事をするようになってからも自信をなくすことがよくあった。
自信というのは、自分ではコントロールできない要素が多い。
たとえば、単純に収入の増減によって、自信をつけたり、なくしたりというようなこともあった。
でも、かならずしも収入=自分の力ではない。フリーライターの場合、原稿料はほとんど出版社ごとに決まっている。交渉の余地はないし、景気にも左右される。
わたしが仕事をはじめたのは一九八九年でバブルの最盛期だった。
若い読者をターゲットにした雑誌が増えたおかげで、若い書き手というだけで重宝されたのである。わたしに力があったわけではない。でも、勘違いした。
数年後(今おもうと阪神大震災と地下鉄サリン事件の年だ……)、次々と雑誌が廃刊になり、仕事が激減し、あっけなく、わたしの自信は崩れてしまった。
不遇な時期をすごしているうちに、自信をもちつづけるためには、周囲の状況に左右されない価値観が必要であることを痛感した。
無理をすれば、「背伸びしている」「余裕がない」といわれ、無理をしないと「手抜きしている」「やる気がない」といわれる。
中途半端な年齢、経験不足ということから、何をどうやっても批判された。
一々、そうした批判につきあっていると、自分を見失う。
いや、見失っていた。
二十代後半、ひまになって、わたしは古本屋通いばかりしていた。
古本を読んでいるうちに、自分が漠然と書きたいとおもっていたことを、はるかに高い水準で書き残している作家がたくさんいることを知った。
その水準に近づくこと、あるいはズラすこと。その手ごたえさえあれば、自信をもちつづけることはできるのではないか。すくなくとも、崩れても立て直すことができるのではないか。
自分の出来不出来、好不調を把握する。
そのころ、友人に借りたビデオで、文士を特集したテレビ番組のタイトルに「悲観も、楽観もせず」というものがあった。
わからないことが多く、不安になると、この言葉をおもいだす。
悲観も、楽観もしないことのむずかしさをかみしめつつ、そうありたいとおもう。
2011/05/06
連休中
京都では、徳正寺のブッダカフェに参加し、みやこめっせの古本まつり、拾得で薄花葉っぱと東京ローカル・ホンクのライブ、メリーゴーランド京都で鈴木潤さんとオグラさんのライブを見る。
火星の庭の前野久美子さん、めぐたんとも会えた。
福島、宮城から関西に子供を連れて避難している人たちと会い、その葛藤を聞いて、考えさせられた。
いまだに余震も続いているし、物不足の問題も残っている。
わたしは動ける人は動いて、平穏な場所で、のんびりしたり、支援したりするのはいいことだとおもうのだが。
長年、ボランティア活動をしている人から、あれこれ勝手に想像するより、直接会って話を聞くことが大切だと教えられる。
古書善行堂で、川崎長太郎著『私小説家』(川崎長太郎文学碑を建てる会)を買う。
滞在中、扉野良人さん宅、東賢次郎さん宅にお世話になる。
京都は、余震もなく、町の雰囲気もまったくちがった。気がゆるみすぎて、ライブも古本屋めぐりも楽しかったのだけど、どんどん現実とズレていくような不思議な気分だった。
車で東さんに北大路駅まで送ってもらい、しばらく川のそばでぼっとして、下鴨を通って一乗寺のほうまで歩いた。
このあたりに住めたらなとおもったり、いや、東京で働いて、ときどき遊びに行ったほうがいいのかなとおもったり……。
四条河原町の阪急百貨店のあとに丸井ができていて、人がごったがえしていた。三階くらいまでエスカレーターに乗って、うろつく。滞在時間五分。なんとなく、薄暗く、空気の重い東京から来た身には刺激が強すぎた。
京都滞在後、郷里の鈴鹿に寄り、スーパーに行くと、高円寺で品薄になっている商品が山のようにあった。店内も明るい。
前回、帰省したときに行きそびれたゑびすやのうどんを食い、すがきやのラーメン、コーミソース、田舎あられなどを購入し、京都で買った本といっしょに宅配で送る。
この数日、京都も三重も黄砂がひどく、町中を歩きまわっていたら、目やノドが痛くなった。
両親(とくに母)とは平和な距離を保とうと、何をいわれても、反論しないように心がけていた。
自分がいったおぼえのないこと(いうはずのないことを)を前提に、文句をいわれ、戸惑う。たとえば、いきなり「あんた、昔から間寛平がおもしろいっていっとったけど、どこがええの」といわれたり……。そんなことはいったおぼえがない。齢のせいだろうか。疲れる。
今回の収穫は、両親の家のちかくに港屋珈琲という喫茶店を見つけたこと。
夜十二時まで営業している。
帰りは、近鉄電車ではなく、JRの鈴鹿駅から「快速みえ」(だいたい一時間に一本)にはじめて乗る。早く着きすぎて、駅のそばのあおい書店で時間をつぶす。
鈴鹿駅から名古屋まで四十五分。新幹線の乗りかえも楽だった。
連休中、原稿を書かなければいけなかったのだが、まったく進まなかった。
2011/04/27
サバイバーズ・ギルト
災害や戦争、あるいは事故などで、運よく生き残った人が、犠牲者にたいし、自分が何もできなかったことを悔やんだり、罪悪感を抱いたりすることだそうだ。
東日本大震災、福島原発の事故の被災地だけでなく、被災地以外の人でも、多かれ少なかれ「サバイバーズ・ギルト」になる。
気を病む前に、そうした症例はよくあることだとおもうし、ある意味、人間の普遍性に根ざした感情なのかもしれないともおもう。
戦中派の作家、詩人の作品にも、生きのびた者の悲しみや戸惑いが底流にある。
その底流の感情が、反戦、というか、戦争だけはもうこりごりだという厭戦思想とも結びついていた。
阪神大震災、地下鉄サリン事件の年、わたしは二十代半ばだった。
その年から五年間、半失業状態に陥った。地震やサリン事件のせいだけではない。
その前から、自分には需要がないことを痛感していた。
だったら、最低限の生活費と古本屋と飲み屋と喫茶店に通えるお金を稼いで、あとは好きなことだけやろうとおもった。
ここ数年、平穏な生活を送っていた。
でも、気をぬくと、すぐ停滞する。
つまり、余裕がない。
今の自分の不安もサバイバーズ・ギルトに似た症状なのだろう。
この先の時代の変化に順応できないかもしれない予感がある。
ただ、願わくば、原発にかぎらず、自分たちの手に負えないもの、後の世代にツケをまわすような社会は変わってほしいし、今の自分の生活も変えたい。
まだいろいろいい足りないことがあるが、寝ることにする。
2011/04/22
どうでもいいこと
辻潤の文章を読んで、ちょっとほっとした。ここまで役立たずであることに開き直れるわけではないのだが、常々、酔っぱらいの戯れ言に寛容な世の中であってほしいとおもっている。
とはいえ、東京はだいぶ落ち着いてきた。
近状のスーパーでは、市販の水はまだ「おひとり様一本まで」という札がついているのだけど、たいていのものは不自由なく買えるようになった。
《なにかあることをいおうとすると、同時にいくつも異なった考えが浮んでくる(これは立派にアルコオリック患者の症状だ)。それをいちどにみんな表現することが出来れば一番いいと思うのだが、それは到底不可能だ。だからその中のどれか一つを選択しなければならない。もしそれを一時に表現出来たとしても、恐らくそれは人から理解されることはむずかしいことだと思う》(同前)
わたしは辻潤のような「いちどにみんな表現すること」を志している文章が好きだ。
なにかをいおうとすると、迷いが生じる。その迷いをとりのぞくと、いいたいことではなくなる。
話はズレるけど、数年前からわたしは、週二日ほど休肝日なるものを実践している。
休肝日を実践して以来、体調がよくなった。そのかわり、おなかが減る。よく食うから腹が出る。
とうとうスーツのズボンがすべて(といっても二着)はけなくなってしまった。
体型が変わることで性格も変わるのか。
前より細かいことが気にならず、温和になった気がする。
ただし、細かいことが気にならず、いろいろなことが面倒くさくなったから、太ったという説もある。どっちなんだろう。
いろいろ心配事がないわけではないが、無意味で無内容なことが書きたくなった。
2011/04/19
2011/04/10
ババを握りしめないで
「どうも、何かありそうですね——」
「何かありそうというと、地震——?」
《特に政治家。
必死になって政権を奪い合っているようだが、ドシーンと来たらどうするつもりなんだろう。不時のことに直面してうまく対応できる能力など人間にないといえばそれまでだが、そういう不安すら忘れてしまっているように見えるが如何なものか》
《弱い奴が総理になるなんていうのは、大変おそろしいことだ。そいつが総理になったとたんに、すべてがツカなくなってしまって、国民はもちろん、彼自身も大苦しみの末に斃れるなんということにならなければいい》
もちろん、今の話ではない。
色川武大は一九八九年四月十日、六十歳で亡くなっている。
《天災であれ、経済変動であれ、どうやって身を処したらいいかわからないが、とにかく、私に投票させれば、今は防備の時、という方に賭けるだろう。
楽しいことは、もうしばらくの間は、売り切れだぞ、と思った方がいい》
さて、今はどうか。いや、どうかもクソもないのだが、個人の生き方として、常に、攻めるべきか守るべきかというような判断、選択がある。
わたしは迷っているところだ。
先日、飲み屋で知り合ったAさん(初対面)と雑談していたとき、わたしは「今年一年くらいは停滞しそうだなあ」というような愚痴をこぼしてしまった。
すると、すかさずAさんは「五年は無理でしょう」といった。
社会が、ではなく、自分が、である。
二十代のときも、三十代のときも、何をやってもうまくいかず、空回りする時期があった。
たぶん四十代にも、そういう時期がくるだろう。
世の中の空気の変わり目というものがある。
たぶん、今もそうだ。
渾沌に向かうのか、安定に向かうのか。
まだその変化を見定められていない。
世の中がどう変わろうと、これまで通りの生き方を貫くという選択もある。
その場合でも、あるていどは世の中と自分とのズレを自覚していないと、どこか滑稽なかんじになってしまう。
そんなことを考えていたら、頭がこんがらがってきた。
これからちょっと飲みに行ってくる。
2011/04/01
四月になれば
ひまだから、どっか行きたいなあ、とおもっていたら、京都からおもしろそうな催しの知らせが。
「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」
各人が身の回りに持っているもの(モノ、唄、作品、ことば etc・・・)を投げ銭という形で手放す(リリース)ことで、「想像力を善きことに使う」(古川日出男)試み。
4月10日(日) 12:00〜日没まで(15:00から震災避難されている方達の集会あり)
於・ガケ書房正面(ライブステージ随時あり、飲食・古本・雑貨、出店あり)
古本、作品、歌声やお経や演奏、パフォーマンス、身の回りのものなんでもをすべて投げ銭で交換する。
ライブステージが無い時間は、自由参加枠として、飛び込みで自由に個人の所有物を販売したりも可能。
タイムテーブル:
AUX 12時〜
かりきりん 12時35分〜
かえるさん 13時10分〜
たゆたう 13時45分〜
長谷川健一 14時20分〜
前野久美子(bookcafe火星の庭)、早尾貴紀 15時〜
(関西に一時避難されている方たちの震災避難集会)
スズメンバ 16時40分〜
ふちがみとふなと 17時15分〜
林拓 17時50分〜
<出店>
町家古本はんのき 柴洋(オーガニック洋裁カフェ)
100000t(古本) 古書コショコショ ほか
ガケ書房
住所 京都府京都市左京区北白川下別当町33
TEL 075-724-0071
http://www.h7.dion.ne.jp/~gakegake/
2011/03/29
あいもかわらず
築添正生の(母方の)祖母は平塚らいてう、祖父は奥村博史である。
一九四四年十二月十九日、疎開先の茨城県生まれ。二〇一〇年三月二十三日、六十五歳で亡くなった。
演劇をやったり、金工をやったり、草野球をやったり、ずっとふらふらしていた人らしい。
辻潤やウラ哲の話も出てくる。
ぼんやりとした何てことのない回想記もいい。
ずっと読んでいたくなる文章だ。
《「ひとは、なんでいつもこういう風に生きられないのかな」
たしかに、父はそう言ったようだった。
ぼくにむかって話しかけているのかとおもって、読んでいた本から顔をあげたが、父はテレビをみながらひとりごとを言ったらしく、テレビの画面に顔をむけたままだった。
テレビには、イタリアかフランスらしい田舎町の祭りの風景がうつっていて、着飾った人々が、若者も年寄も、男も女もワインで顔をほてらせ、楽しそうに唄い踊っていた》(あいもかわらず)
築添正生の父は、転々と職場を変えた。変わるたびに、若い人を家に呼んで酒宴をひらいた。
そんな父が気分よく酔っぱらうとうたう唄があった。
あいもかわらず
日ぐれになれば
あいかわらぬ夜が
のそのそやってくる
いろいろのぞみも
いだいちゃみたが
となり同士に
仲良く住んでる
どうせ浮世は
こうしたものと
暮らしてゆくうちに
時は流れるよ
楽しいくらしも
つらいくらしも
いろいろあるけれど
いづれをみても
たいしたことはない
*
日曜日、月島のあいおい古本まつりに行った。
寝坊したが、どうにかインチキオルガンミュージシャンのオグラさんのライブには間に合った。
オグラさんは自分の曲と古い唱歌をうたっていた。
銭湯の歌や猫を探す歌や季節をいとおしむ歌を聞いても、被災地のことが頭をかすめた。
あいもかわらず、わたしは本を読んで、音楽を聞いて、酒を飲んで、暮らしている。
この日も月島でもんじゃを食べ、そのあと高円寺の魚民で、ハチマクラのオグラさん、みどりさん、ペリカン時代の増岡さん、原さんとずっとくだらない話をして、酔っぱらって、家に帰った。
あいもかわらず、とおもいつつ、こういう風に生きていたい、とおもった。
2011/03/25
均衡の感覚
町を歩けば、気が晴れる。
すこしずつ日常に戻りつつある。
昨日、神保町で自動車にはねられた。
信号は青。横断歩道を渡っていたら、右折してきた車(側面)が、背中に当たり、しりもちをついた。
運転していた人は、すぐ車を降り、大丈夫ですか、病院に行きますかと声をかけてきた。
頭を打ったわけでもなく、すり傷もない。ちょっと転んだくらいのかんじだったので、大丈夫です、といってその場を立ち去った。
しかし、とおもう。もうすこし車のスピードが出ていたら、車の側面ではなく正面だったら、どうなったのだろう。
わたしは考え事をしながら歩く癖がある。
この日も心ここにあらず、というかんじで歩いていた。
もしかしたら運転手もそうだったかもしれない。
幸い、ケガも何もなかった。
立ち上がって、そのまま古本屋をまわり、喫茶店でコーヒーを飲み、夜は飲み屋をハシゴした。
《「それにしては、おまえの言うことは平凡であり、常識的だ」という人があるかもしれない。それに対する答えは、こうである。私は、自己の生き方とか趣味とかにおいては偏奇でも破格でもかまわぬが、世の中のことに対しては、できるだけ正しい均衡の感覚をもってのぞみたいと思っているのだ、と》(鮎川信夫「一人のオフィス」あとがき)
鮎川信夫の『一人のオフィス』(思潮社、一九六八年刊)は、もっとも読み返している本だとおもう。ほとんど癖にちかい。
平静でいようと心がけているときは平静ではないように、わたしが「正しい均衡の感覚」を保ちたいとおもうときは、気持が不安定になっている。
自分のことだけを考えていればいい状況であれば、冷静でいられる。でも「今」はそうではない。ほんとうに心配事だらけだ。
適度にうろたえ、ときどき気晴らしをしながら、目の前の仕事に専念しようとおもう。
あと車に気をつけたい。
2011/03/22
善意の解釈
わたしの理想は、そんなにお金はかからないとおもう。つまり、そんなに仕事をしなくても実現する。
食事はほとんど自炊だし、エアコンは苦手だし、車に乗らない。でも夜型生活だから深夜から朝にかけて照明がないと困る。また平和でないと困る。不測の事態は困る。そんな当たり前のことを四十歳すぎて、あらためて知らされた。
三月十三日、山口瞳の妻の山口治子さんが亡くなった。享年八十三。
一度だけお会いしたことがある。
山口瞳が亡くなったのは一九九五年八月三十日だった。最晩年、「男性自身」で震災のことを書いている。
《阪神大震災で亡くなった方にも怪我をされた方にも無事だった方にも老人が多いのに驚かされた。老人社会だと言われてもピンとこないのだが、TVの画面でもって、そのことをまざまざと見せつけられたように思ったというのが私という老人の感想である》
震災のとき、老人が困ったのは入れ歯を忘れて逃げたことだったという。もうひとつは履き物。目がわるい人は眼鏡がないのも困るだろう。
布団のそばに予備の眼鏡を置いている。
『この人生に乾杯!』(TBSブリタニカ、一九九六年刊)所収の「瞳さんのラブレター」という山口治子さんの回想を読んだ。
その中に「あなたの行動を僕は全て善意に解釈しています。あなたも僕に対して、そうであってほしいと思います。それでないと、余計な神経をつかわなければならなくなりますから」(本文は旧字)という山口瞳が送った手紙の文面が紹介されている。
そのように解釈する習慣を身につけたい。ごく自然に、そういうふうにできる人もいるのかもしれないが、わたしはできない。かならずしも自分が善意にもとづく行動(や思考)をしていないせいでもある。だけど、きれいごとだとはおもわない。山口瞳もいっているように、そのほうが余計な神経をつかわずにすむ効用がある。
ようするに、そう考えたほうが楽なのである。といっても、誰にでも、いつでも、というわけにはいかない。ごく身近な、いっしょに暮らす人、長く付き合いたい友人、あと……。
その先には、ちょっとした平穏があるような気がする。
2011/03/18
人間信頼
帰りは地下鉄の東西線で中野駅に行って、中野から高円寺まで歩いた。高円寺北口のひっぱりだこのたこ焼き(ソースが選べて、わたしはポン酢が好み)がむしょうに食いたくなる。この店のお兄さんが気のいい人で、「地震のとき、大丈夫だったですか。お客さんで今日岩手から来たって人がいましたよ。応援してあげたいよね」と話しかけてきた。
ようやくスピーカーとケーブルをつなぎなおした。部屋に音楽が流れるだけで、ずいぶん気持がなごむ。
本が好きな人は本を、音楽が好きな人は音楽を、映画が好きな人は映画を、酒が好きな人は酒を。
腹の足しにならない喜びが、生きる活力になる。
わたしも食って寝て読んで書いての生活に戻ろうとおもう。
《とにかく、大きな意味で、人生や人間を佳しと思はせるやうな(建設的な)小説がもつともつと欲しい。「お互ひによくも人間に生れて來たものだ、二度と生れないのだし、仲よくしようよ、そして力いつぱい生きようぢやないか」そんなことを理窟なしに感じさせてくれる小説が欲しい。文學は、人生に於いてそんな役目を果たし得る大きな仕事の一つだと思ふ》(「人間信頼」/尾崎一雄著『玩具箱』文化書院、一九四七年刊)
大震災、戦争を乗りこえてきた作家の言葉だ。
仲良く、力いっぱい生きる。
わたしもそうする。
2011/03/14
余震の日々
また揺れたら、とおもいながら、本棚に本をもどす。
*
地震発生時の直前に京都駅に着いた。午後三時すぎ、古書善行堂に行ったときには、何も知らず、世間話をして、古本を買っていた。そのあとガケ書房に行くと、山下さんが「たいへんですよ」とノートパソコンを見せてくれた。
公衆電話から妻に電話するが、つながらない。自宅の電話は話し中(受話器が外れていたみたい)。妻の会社にはじめて電話する。妻の実家、田舎の両親に無事を伝える。
夜、東賢次郎さんのライブ前、扉野良人さんの携帯電話で火星の庭とわめぞ界隈のツイッターを見せてもらう。
そのあと、まほろばで飲んだ。
こういうときだからこそ、人と話をしたい。
なんとなく、飲み屋に行くのは不謹慎だという意見もあるかもしれないが、わたしは知り合いの店にはできるだけ行こうとおもっている。まあ、飲みすぎないようには気をつける。古本屋や新刊書店にも行きたい。
過度の自粛は、別の何かを疲弊させてしまう気がする。
なるべくふだん通りの生活を続けながら、被災した友人のためにできることをしたい。
2011/03/13
2011/03/11
もうひとつのタイプ
二十代のはじめごろまでは、他人との価値観のちがいに戸惑うことが多かった。戸惑うというより、価値観のちがうとわかった途端、話が止まり、何をいっても無駄だという気分になった。
前回の話の続き——もうひとつのタイプはあまり感情に左右されない建設型である。
破滅型も調和型も基本は感情にそって生きている。押しが強いか弱いかの差にすぎない。
建設型の人は自分の感情よりもどうすれば形になるかを優先する。そのときそのときに必要な役割を引き受け、場を仕切るのが得意で結果を重視する。
建設型と破滅型はそりが合わないし、建設型と調和型が組むと効率はいいが、無難なものしかできない。
建設型と破壊型と調和型の三タイプがうまく噛み合うと、おもしろいものが作れそうな気がするが、なかなかそうならない。
それぞれ相性がよくないからである。
破滅型と調和型はどちらもマイペースだが、趣味嗜好がちがいすぎる。
建設型と破滅型はどちらもあまり躊躇しないが、目的がちがう。
調和型と建設型は衝突はしないが、建設型からすれば、調和型はやる気がない怠け者だと判断しがちだし、調和型からすれば、建設型を非人情で冷たいとおもいがちだ。
お互いすこしずつ何かが足りない。お互いの得意分野を理解し、自分の足りないものを持っている人間を認める。
これがむずかしい。ミもフタもないことをいえば、現実はこれほど単純に類型化できない。それぞれの類型からもこぼれ落ちたりはみだしたり混ざりあったりしているタイプがある。
ひとりの人間の中に破滅型と調和型と建設型が入り混じっている。ひとりの人間の中の性格の類型の比重は変わることもある。
わかりにくいかなあ、この話。
(……続く)
2011/03/10
性格の類型
昔から自分の向き不向きについて考える癖がある。後先考えずに自分の好きなことに邁進できる人や大らかで何でも受け容れる人に憧れる。逆にいえば、そういう人からすれば、わたしはちまちましたことばかり考えているように見えるだろう。
子どものころから「何を考えているのかよくわからない」とよくいわれた。
人の性格は大人になってもなかなか変わらない。でも多少融通がきくようになった。
できないことは人にまかせる。誰かにやってもらう。そのかわり自分ができることに専念する。それでいいのだ、とおもう。
おとなしい性格とそうでない性格、前向きな性格と後向きな性格、あるいは社交性のようなものはどうやって作られるのか。
わたしは文学作品を読みながら、自分と似た人を探している。
私小説には破滅型(無頼派)と調和型(慎重派)がある。
もちろん作風はすっきりと二分されるわけではない。破滅型の中にも調和型の要素はあるし、調和型の中にも破滅型の要素がある。その比重がどちらに偏っているかの問題にすぎない。
誰だって自分の性格をひきずったり背負ったりしながら生きていくしかないわけで、そこからなかなか自由になれない。
先程の私小説作家の類型をもとに、組織や場について考えると、破滅型ばかりだと持続しないし、調和型ばかりだと物事が進展しない。
だから、もうひとつ別のタイプが必要になってくる。
(……続く)
2011/03/08
四十一歳の春だから
「イケブックロ2」も終了。土曜日は山手線で五反田、日曜日は総武線で吉祥寺まで寝すごし。飲んで電車に乗るとすぐ寝てしまう。
イケブックロの会場で立石書店の岡島さんと四十歳談義。わたしは今、四十一歳の春だという話をする。つまり、バカボンのパパと同い齢。四十一歳とはこんなかんじなのか。たしかに鼻毛はよく伸びる。
三十代以降、知らない町の知らない古本屋に行く回数が減った。だいたい決まった店をまわる。どうしても読みたい本は、インターネットで買う。年々、どうしても読みたい本の数が減っていく。
わたしの趣味は狭く、すぐ行き詰まる。ほしい本は安くない。桁が五桁になる。
先日、日本の古本屋で梅崎春生宛の尾崎一雄の署名本を見つけ、酔っぱらって注文してしまう。カバーなしの本はもっていた。
『わが生活わが文学』(池田書店、一九五五年刊)
オープンしたばかりの京都の古書善行堂でカバー付のこの本が格安で売っていたときに買いそびれてしまい(そのときは他にもほしい本がいっぱいあった)、ずっと悔やんでいた。
その後、五千円くらいで見つけたことはあったが、やはり、カバーなしの本をもっているということで見送った。
梅崎春生宛の尾崎一雄の署名本はその三倍くらいの値段である。
酔っぱらって注文したというと衝動買いのようにおもうかもしれないが、購入する一週間くらい前から気になっていた。仕事中も売れてしまったらどうしようと何度も日本の古本屋を見ていた。躊躇していたわたしの背中を押したのが「四十一歳の春だから」という言葉だった。ここで見逃したら、ものすごく後悔する気がした。
『わが生活わが文学』には「古本回顧談」「古本回顧談 補遺」というエッセイがある。
このエッセイの中に東京の若い知人水落清君の力で萩原朔太郎の『月に吠える』の極美本を入手したという話が出てくる。
群馬県の小見一郎の旧蔵書で、本の扉には「小見君のために。萩原朔太郎」と署名があった。さらに、新聞雑誌評の切り抜きが貼ってあり、この旧蔵本は、三好達治の説では、朔太郎に直接もらった本であるとしている。
「朔太郎の『月に吠える』」では、学生時代にも尾崎一雄は『月に吠える』の初刊本を愛蔵し、のちに手離してしまった話が出てくる。
当時、尾崎一雄が持っていたのは岩野泡鳴宛の本で、途中、頁が切り取られ、ゲラ刷りをはりこんで補ってあった。
朔太郎は検察官によって削除された詩(「愛嬌」と「恋を恋する人」の二篇)を見せようとしてゲラ刷りをはったのではないかという。
また小見氏旧蔵本については「この本は、削除の無い完本である」とも記されている。日本の詩集の中でも稀少本中の稀少本である。
《三好達治が見て、「僕が持つてゐるより綺麗だ」とうらやましそうな顔をした。恐らく日本一——つまり世界一の美本(「月に吠える」では)だらう》
もし古書価をつけるとすれば、いくらになるのか。
2011/03/02
イケブックロ2
前野健太さんの新譜『ファックミー』ようやく聴きました。「コーヒーブルース」はライブで盛り上がりそう。新境地。「鴨川」に続く京都の歌「タワー浴場」もよかった。
*
三月四日(金)から六日(日)に「イケブックロ2〜わめぞの古本・雑貨市 in 池袋〜」(豊島区民センター1階総合展示場)を開催します。
・豊島区民センター http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/
洗濯中、毎日新聞の朝刊(三月二日)を読んでいたら、古書現世の向井さんのインタビューが載っていて驚く。「外市」のことから「みちくさ市」、新しい試みの「あいおいブックラボ」、「イケブックロ2」のことも紹介されていた。
記事中、向井さんは、古本屋の店主と客の高齢化が進んでいるから、若い人が入ってこられる状況をつくりたいと話している。
むしろ高齢化している業界というのは、若い人には狙い目という気がする。若いってだけで、重宝してもらえるし。まあ、三十代四十代になっても若手というのは、ある意味きびしい世界かもしれないけど……。
2011/02/24
雑記
今度は京都にも見に行くつもり。
*
すこしずつ温かくなってきて体調もやや上向きに。
ペリカン時代の原さんに教えてもらった高円寺と阿佐ケ谷のあいだ(南口)にある「料理書専門古本屋onakasuita」に行ってきた。
(http://onakasuita.ocnk.net/)
ありそうでなかったかんじの店です。
あ、岡崎武志さん、女子の古本屋でしたよ。
高円寺から都丸書店、アニマル洋子の巡回ルートを通って、ひさしぶりに阿佐ケ谷の古本屋をまわる。
いちど手放して、なかなか見つけられずにいた田中小実昌著『新宿ゴールデン街の人たち』(中央公論社)などを買う。
昔、年輩の知り合いに「四十代は目先の仕事に追われるうちにあっという間に終わっちゃうから気をつけなよ」といわれたことがあった。
それほど仕事に追われているわけではないのだが、自分にできることばかりやりがちになって、新しいことを勉強しなくなってきている。
本を読むことや文章を書くことが惰性になっている。惰性を続けることも大切なのだが、守りに入ってはいかんと気をひきしめる。
2011/02/19
条件のちがい
条件のちがいは、どこまでも細分化することができる。ただし細分化しすぎると一般性を失う。
何かをはじめるさい、恵まれた条件とそうでない条件がある。
まず自分の条件を見きわめる。
何が自分の武器になるか(ならないか)。
自分の条件がわるければ、恵まれた条件の人とはちがう方法をとる。同じレースには参加しないというのも手である。
このあたりの考え方は、ほとんど色川武大の『うらおもて人生録』(新潮文庫)の受け売りですね。
《——俺はだらしがない。ものを整理整頓したり、清潔にしたり、そういうことは最大の苦手なんだね。むりにやってできないことはないけれども、毎日そうするとなると、その点に全力がかかってしまって、整理整頓のために生きてるようになってしまう。これでは俺の能力が生かせない。
そうだとすれば、まず第一に、だらしがないということが致命傷になるようなコースは、避けるべきなんだ。やっちゃいけないんだ》(「一病の持ちかた——の章」)
《俺はとにかく、だらしがないという欠点を、せめて、人から愛されるようなものにしたい、と思ったんだな。それでないと、ただ、だらしがない、という直球では、一病が大病に発展しかねない。(中略)とにかく、欠点が陰気になってしまってはいけない。だらしなさに関して明るくふっきれること。(中略)だらしなさも極まれば、マイナスのヒーローにもなりうる。が、これをやるには相当の洗練を必要とするな》(「つけ合わせに能力を——の章」)
色川武大は「だらしなさ」という欠点を軸に自分の生き方を組み立てた。
自分の欠点が致命傷にならないような生き方をする。
それによって、努力の方法や方向性もちがってくる。
自分の条件(欠点)が通用する入口を見つけられるか。せっかく入口を見つけても鍵を持っていなければ入れないこともある。
鍵が見つかっても、そこから先にまたいろいろ条件のちがいが出てくる。
だからなかなか話が進まない。
欠点に関して明るくふっきれる。むずかしいことだが、大切な助言だとおもう。
2011/02/16
自由業者の生存戦略
仕事をはじめたころから、不安定な生活をしている身としては、お金があったりなかったりというのが当たり前のことになる。
お店をやっている人の雨とか雪とか台風のときだと、売り上げはさっぱりという感覚にちかいかもしれない。
先月と比べて、収入が倍になることもあれば、半分になることもある。ゼロになることもある。
当たり前だけど、ゼロが続くと食っていけない。
だから、まず考えるのは、最低限の収入の確保である。
(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)
2011/02/12
雑感
あと壊れていた台所用の小さな時計も買う。電波時計で温度と湿度も表示される。千円以下。安すぎるのではないか。
昼すぎ、西部古書会館の古書展に行って、鶴見俊輔、野村雅一『ふれあう回路』(平凡社、一九八七年刊)などを買う。
『ふれあう回路』の冒頭のほうで堺利彦、山川均のことが語られる。野村雅一が明治の社会主義者は観察が細かくて文章がうまかったといい、鶴見俊輔はふたりとも明治の暮らしの気分、商人の気分を受け継いでいるというような話になる。
ところが、時代が進むにつれて、学問の力が強くなり、商人の気分があまり尊重されなくなってくる。
そして話題は脱線、飛躍——。
《鶴見 私は毎日ものを買いに出るんだけど、私の住んでいる岩倉で、同種のものを商っているうちが三軒か四軒ある。そうすると、自分の足が向くのはそのうちの一軒ですね。なぜ、その一軒を選ぶかというと、別に長話をするわけではなくて、二言三言なんだけど、そこへ行くとだんだん元気が出てくるような人がいる。つまり、人生の応援歌みたいな感じがする人がいるでしょう。言葉に花があって、それがおまけなんだよね。机の上で経済学者が商行為といってとらえているのとはちょっと違って、やりとりがあるわけでしょう》
店をやっている側からすれば、原価や利益を考えなくてはならない。でも鶴見俊輔のいう「商人の気分」というのは、数値化できない「ゆるさ」「大らかさ」のようなものが含まれている。こうした「ゆるさ」や「大らかさ」というのは、自由業にとっても、大事なことのようにおもう。
元気で明るいというだけではなく、その店に行きたくなる雰囲気というものは何なのか。
それは明治の社会主義者の文章の味わいとも関係しているのか。
2011/02/08
運ということ
*
尾崎一雄の『沢がに』(新潮社、一九七〇年刊)の中に「運ということ」という随筆がある。
関東大震災のすこしあと、大学時代の友人の山崎剛平、中林康敏といっしょに日本中を旅行しようという話になった。尾崎一雄はそんなお金があったら酒が飲みたいといって断った。
しばらくして山崎、中林の二人は東北、北海道、樺太を旅行した。
そして二人が乗る予定だった樺太から北海道に帰る汽船が小樽港外が沈むという事件が起こる。ほとんど生存者はいなかった。
ところが、二人は無事だった。
中林が宿に写真機を忘れて取りに戻ったおかげで船に乗り遅れたのである。
《現在彼らは、それぞれ家郷にあって悠々と自適している。それにしてもその旅行に私が加わっていたら、運命はどう展開したか判らない》
船に乗り遅れて助かる人もいれば、逆にたまたま予定してなかった船に乗ってしまった人もいる。
今、無事に生きているということは、自覚の有無にかかわらず、そうした運不運をのりこえてきているといえる。
運に関していえば、かならずしもその人にとって予定通りにいくことがいいとはかぎらない。何が幸いし、何が災いするのか、わからない。
しくじったり、ついていないことが続いたりしたとき、ひょっとしたら、そのおかげで知らず知らずのうちに命拾いしたかもしれないと考えると気休めになる。
「今日何するか、明日何するか」
そういうことが決められない不安定な生活をしていると、偶然に左右されやすい。
最近、予定にしばられすぎている気がする。
予定に合わせた生活だと変化がすくない。
もうすこし運まかせの生活を送りたい。
2011/02/05
冬の俺
2008/02/04
充電
日曜日、雪。昨晩、カレーを作る。食事の心配もないので一日中家にこもる。一歩も外に出なかった。寝てばかりいた。いつものことだが、寒くて、からだが動かん。以前はこういう何もしない日があると、「ああ、なにやってんだ」と気持が沈みがちだったが、最近は、おもいきり休むことの効能を実感し、布団の中で心ゆくまで漫画を読んでいたりする。
2009/01/14
明哲保身
寒さに弱く、寝起がわるい。そのかわり睡眠時間はやたら長くなる。酒量も増える。外出するときは、ユニクロのヒートテックの長そでのシャツ(中に半そでのも着る)を着て、防寒仕様の靴をはき、耳まですっぽりはいる帽子をかぶり、さらに腰に温楽を貼って、葛根湯も飲む。文明の力を借りて、どうにかなっているかんじだが、こんな生活をしていたら、ますます脆弱になってしまうのではないかと心配だ。
2010/01/25
怠け癖
最高気温が十度以下になる日は、二時間以上外にいると、かなりの確率で体調をくずしてしまう。
サッカーのカズ選手が休息をとるのも仕事のうちだといっていた。数々のカズ語録の中でこの発言だけはおぼえている。
常々わたしもそのとおりだとおもっていたからだ。
*
以上です。進歩なし。一年のうち、二ヵ月(か三ヵ月)くらい捨ててもいいやと開き直っている。無理をしなくてもいい時間を作るために働いているのかなとおもうことがある。
好不調の波をコントロールできなくても、ゆるく把握しておけば、それなりの対処の仕方がある。
「一、楽にできること」
「二、ちょっと無理すればできること」
「三、かなり無理すればできること」
そのうち調子がいいときは「一」と「二」と「三」をする。
ふつうの調子のときは「一」と「二」をする。
調子がよくないときは「一」だけに専念する。
「一」〜「三」はそのときどきによって変わる。
低迷期には、できないこと、やりたくないことがわかるという効用もある。
2011/02/03
自宅入院
名づけて「自宅入院」。
お金をつかわず、体調を崩す前に体力や気力を回復するために家にひきこもる。
からだを休めるだけでなく、自分の生き方を見つめ直す効用もある。
新刊のロバート・ホワインティング『野茂英雄』(松井みどり訳、PHP新書)を読んだ。
野茂英雄がメジャーリーグに移ったのは、日本のプロ野球の無意味な練習がいやだったから、というのは有名な話だ。シーズン後、肩を休ませなければいけないときに何百球の投げ込みを強いられる。
メジャーの奪三振王のノーラン・ライアンは先発で投げたあとは三、四日休養し、筋肉組織の疲労を回復させる必要があると主張していた。
野茂はライアンの教えを信奉していたのだが、当時の近鉄の監督は、試合がない日もブルペンでも毎日投げろといい続けた。
根性を美徳とする監督は、肩の不調を訴える野茂に「痛みを治すためにはもっと投げろ」といった。その命令を拒否すると、彼のことを怠け者と決めつけた。
イチローもオリックス時代のコーチにバットの握り方を変えろといわれて、拒否したら二軍に落とされたことがある。
おそらく野球に限らず、中学や高校の部活でも、からだを壊した選手がたくさんいたとおもう。ケガをしても走れ、風邪をひいても走れといわれる。
中には過酷な練習に耐え、力をつけた選手もいるとおもう。
また野茂やイチローのように監督やコーチもしくは先輩に逆らって、そのまま干されてしまうケースもあるとおもう。野茂やイチローには有無をいわせないだけの力があったから、通用したやり方なのかもしれない。
かならずしも誰かにとって最適なやり方が、自分に合っているとはかぎらない。これが最適とおもうことを常に疑うことも大切だろう。
その最適は時代によっても変わる。トレーニング理論や環境が整備されていなかったころであれば、酷使に耐えられることが、プロで通用するいちばんわかりやすい目安だった。
いまだにこうした考えは残っている気がする。
「風邪は気合で治せ」みたいなことをいう人がいたら、逃げたほうがいいとおもうよ。
2011/01/31
部分と全体
ちょっと疑問におもう。登りは自分の足で下りはエスカレーターやエレベーターを使えということなのだろうか。
膝のことだけ考えると、そのほうがいいのかもしれない。
しかし人間は階段や坂を登るときには前に重心が傾く。下るときは逆である。
登ってばかりいたら、降りるときの重心のかけ方がおかしくなったり、それに伴う筋力が衰えたりしそうな気がする。
その結果、膝は無事でも、坂や階段を下るときに転んで大ケガをする危険性が高まりはしないのだろうか。
人間のからだだけではなく、世の中もそうだろう。
部分にとってよくても全体によくない、もしくは全体にとってよくても部分にはよくないということがある。
分けて考えるとどこかおかしくなる。
2011/01/27
国会雑感
いっぽう与党のバラマキや年金問題を批判する(かつて与党だった)野党にたいし、国民の大半は「おまえがいうな」とおもうだろう。
昨日のニュースで、あるキャスターが(政治家や政策の)欠点を指摘するだけでは何も生まれない、われわれ(マスコミ側)も反省しなければいけないのかもしれません、というようなことを語った。
遅いとおもうが、一歩前進だとおもう。
チャンネルを変えると、別のニュース番組で与野党の若手議員(といっても若くないのだけど)が国会内のエチケット(審議を妨害する野次にペナルティを与えようなど)について話し合っている。
この番組のキャスターは「今、こんなことを議論している場合なのでしょうかねえ」と呆れた顔をする。
与党も野党も議事進行を改めないと、衆参が「ねじれ国会」では何もできない。これは何千時間費やしても(それほど意見のちがいはない)合意点に至る可能性のない議論を続けることに意味があるのか、という問題である。
「ねじれ国会」に状況だと数の力で押しきるだけでなく、調整型の政治をせざるをえない。そのさい、無意味な野次を禁止しようといったことを話しあうことは、すくなくとも、これまでの議論よりは三歩くらい前進しているとおもう。
まあ、些末だけど。
2011/01/26
田舎の両親
地方はその逆。進学あるいは就職を機に都会に出て、都会で仕事を見つけ、そのまま住み続ける。
今年七十歳になる父は、七十五歳になったら車の免許は更新しないといっている。そうなれば、買物のたびに車が必要な場所には住み続けることはできない。
年金(企業年金大幅カット)暮らしの身では、都会に移住したら、地方にいるときより格段に生活が苦しくなる。
親孝行はしたいが、できる範囲は限られている。親のほうも不安定な生活をしている一人息子に面倒みてくれとはいいだせない。共倒れになるのが目に見えているから。
最善手ではないが、両親には田舎(三重県)の特急の止まる駅のスーパーのそばに引っ越してもらうことを考えている。そうすれば、近くに親戚もいるし、車がなくても歩いて買物に行ける。
こちらも乗り換えが楽だし、名古屋、大阪、京都あたりに用事があって出かけたときにも寄りやすくなる。
ただし、その前にかなりの荷減らしをしなければならない。
リミットは五年。
さて、どうしたものか。
2011/01/25
屁理屈
寒さに弱い。夏の睡眠時間は平均六時間くらいなのだが、冬だと十時間以上になる。二時間以上外出すると、具合がわるくなる。
まあ、昨日今日こうなったわけではなく、かれこれ三十年くらいこんなかんじなのだ。
時間に縛られない職業を選んだのもそのためである。寝たいときに寝て、調子のわるいときに休みたい。それがわたしの職業選択の最優先事項だった。
大リーグの松井秀樹選手は、自分の才能について訊かれたとき、「からだが丈夫なことだとおもう」と答えている。
からだが丈夫だから、人より練習ができる。だからうまくなれる。
素晴らしいことだ。
でも彼の方法論は、わたしには何の参考にもならない。
では、からだがあまり丈夫ではない人はどうすればいいのか。
ひとつは、なるべく早い段階で体力がものをいう世界に見切りをつけ、なんとか自分ひとり食っていけるだけのお金が稼げたらそれでよしとすることだ。
多少、不安なこともあるが、月十万円くらいあれば、生きていけるという自信がつくとけっこう楽になる。
また体力がなくても「ちまちましたことを地道に続けることは苦にならない」とか「楽をするための工夫はわりと得意」とかその人に合った(生き方の)方向性がある。
たまに大昔、石器時代だったらどうか、あるいは戦国時代だったらどうかみたいなことを考えるのだけど、怠け者にもそれなりに生きる場があったようにおもう。
体力があって勇敢な人が命がけで狩猟やいくさに励んでいるあいだ、からだを動かすことがあまり好きではない人は新しい武器を作ったり、楽な火のおこし方を考えたりしていたのではないか。
激しく動いて生きのびる人の比率とあまり動かずに生きのびる人の比率は、その時代時代によってちがうかもしれない。でも生きのび方の幅が広く、その種類が多い世の中のほうが、わたしはいいなとおもっている。
やたらと早寝早起を奨励する人がいるが、だったら誰が天文学を発達させたんだ、誰が夜襲に備えるための見張りをしてたんだ、夜中は誰ひとり働かない社会で暮らしたいのか、とわたしはいいたくなる。心の中で。
そろそろ仕事しようとおもう。
2011/01/11
人間風眼帖
ずっとFAXの調子が悪い。半分くらい印字がかすれる。今日受信したものも、ほとんど読めない。説明書を読んで、書いてあるとおりに掃除をしたのだが変化なし。
あきらめて新宿の電気屋に行く。東口のヤマダ電機LABIにはじめて行く。出費がかさむ。
山田風太郎は、飯がうまいのは料理がいいとはかぎらず、腹が減っているからということがあるといっていた。その逆もしかり。
読書もそういうところがある。
活字にたいする飢え、何かを知りたいという気持が薄れているときは、目で文字を追うばかりで頭にはいってこない。
ここのところ、知識にたいする貪欲さが薄らいでいる。昔とくらべて生活がすこし落ち着いたせいだろう。
お金がなくておもうように本が買えないときのほうが、切実に本が読める。仕事が忙しくて、時間がないときのほうが、おもしろく本が読める。
《金があるときはひまがない
ひまがあるときは金がない
金もひまもないことはあっても
金もひまもあることは曾てない
不公平である》(山田風太郎『人間風眼帖』神戸新聞総合出版センター、二〇一〇年刊)
『人間風眼帖』は、山田風太郎の箴言集といった本なのだが、最近まで刊行されていたことを知らなかった。
《戦後30年にわたる日記から著者自身が抜粋し、大学ノート丸2冊に書き遺していた、新発見の「太平洋戦争風眼帖」「人間風眼帖」を復元、収録》
読み終わるのがもったいない。どこに何が書いてあるのか丸暗記できるくらい読み込みたい。おすすめです。
2011/01/08
小さな書斎
休み中、天野忠の『余韻の中』(永井出版企画、一九七三年刊)を再読した。
詩人は、京都市左京区の小さな家のトイレの横に、二畳半の小さな書斎を作った。
そしてこんな感慨を述べる。
《勤め仕事がなくなって、念願の自分の部屋がまがりなりにも持てて、そしてまあ何と最低線ギリギリではあっても、その日暮らしが出来る境遇(それを何十年も希求していた)、その境遇にいまやすっぽり自分の躯がはまって、ああ嬉しやと思った瞬間から私という奴はもう何をする、いや何をしたらよいのか、何をしたいとも思わなくなり、そう思うことが今度は罪悪のようにも思えてきて、そして手も足も出ないほど何もすることがないらしいのである》(書斎の幸福)
天野忠は、長年求めていた幸福の中に「別の顔」があることに気づく。
先がわからないということは、不安ではあるが、今の仕事を続けていく上では、わるくないのかもしれない。
わからないから本を読む。わからないから考える。
天野忠は、四十年ちかく勤め人をやっていたが、人見知りと対人恐怖症を克服できなかった。
たぶん、詩人であることをやめなかったからではないかとおもう。
三十代になったとき、その先の十年がまったくわからなかった。目の前の仕事、月々の生活をのりきることに追われているうちに、時間がすぎていく。
長く生きていると、ふとしたはずみに「こういうときはこうしておけばいいんだ」といったかんじの処世のコツのみたいなものを掴んでしまうことがある。
処世のコツに頼りすぎると、世慣れしたふるまいをしがちになる。
たぶん、そこに落とし穴がある。
2011/01/02
新年
近所を散歩。人も少ない。
南口の氷川神社に初詣。
今年最初の読書は、色川武大の『街は気まぐれヘソまがり』(徳間書店、一九八七年刊)。
この本の「馬鹿な英雄がんばれ」というエッセイが心に響いた。
昔、明治大学出身の清水という大酒呑みの投手がいた。二日酔いでふらふらにもかかわらず、試合で好投し、逆に酒を飲まないと調子が出ないと豪語していたらしい。
色川武大は「身持ちを慎んで切磋琢磨する努力型」より「庶民のやれないような無茶をしながら能力を発揮するタイプ」を好んだ。
《で、そのまま長続きすればよいのだけれど、清水も何年かするうちに肥り出してきて、球威も落ち、南海から中日に移籍してからはコントロールでごまかす投手になって、凋落が速かった。
それが困る。それでは、“ありときりぎりす”の教訓そのもので、面白くもなんともない》
まあ、それが現実というものだろう。
このエッセイに出てくる投手は清水秀雄。一九一八年島根県生まれ。左投左打。プロ野球在籍は一九四〇年〜一九五三年。生涯通算成績は一〇三勝一〇〇敗だった。
「馬鹿な英雄がんばれ」には元阪神の掛布選手の話も出てくる。シーズン前に酔っぱらい運転をした彼のことをオーナーが「掛布は馬鹿だ」と叩いた。しかし色川武大は掛布を擁護する。
《たしかに利口ではないかもしれないが、私などはそういう選手こそヒーローになる資格があると思っている。(中略)プロスポーツは馬鹿な英雄こそ歓迎し、大金を投じてかかえるべきで、小利口な英雄なんていらない》
こうした感覚は、今の時代には通じにくいかもしれない。
スポーツ選手にかぎらず、節制して小利口にならないと生きていくのはむずかしい。
新年の抱負のようなものを書くつもりだったが、何もおもいつかない。
二日酔いでだるい。