2010/08/30

別の運命

 四十歳になって読書時間が減った。本を読まなくなった分、酒を飲んでいる。ぼんやりものを考える時間が増えた。三十代のころに本ばかり読んでいたのは、あまりにもひまでその隙間を埋める作業のようなところがあった。本をたくさん読むことが目的化していた。

 昔は今よりも情報に飢えていた。情報に飢えている人を相手に雑誌を作ったり、文章を書いたりしていた。
 本をどんどん読んでいくうちに、だんだん情報よりも、情緒に働きかけてくるような文章が好きになった。
 地味だけど、読んでいて飽きない、飽きないけど、読み返すたびにはっとさせられる作品を好むようになった。

 仕事のあいま、古山高麗雄の『袖すりあうも』(小沢書店、一九九三年刊)を読み返す。

《老いて青春の心を失わず、などと言う。気持はいつまでも若い、とか、永遠の青年、だとか、そういう言葉も耳にする。心だとか気持だとかというものは、もともと線の引きようや限定のしようのない得体の知れぬものであるが、世間では何歳から何歳ぐらいまでを青春と言っているのだろうか》(「“非国民”時代の友人たち」)

 市ケ谷の城北高等補修学校時代、古山高麗雄は安岡章太郎、倉田博光と知り合った。いわゆる「悪い仲間」である。

 古山さんは二浪して京都の第三高等学校に入ったが、すぐ中退し、放蕩し、転落した。ようするに、世の中に順応できなくて、ぐれた。
 倉田博光もその影響を受け、“非国民”の道を歩むことになった。

《私は、倉田が、私と共に世間から落伍するのを、歓迎もし、いけないとも思った。そう思いながら私たちは、坂を転げ落ちる自分たちを止めることができなかった》

 もし倉田が自分と出あわなかったら、「別の運命のコース」に進んだのではないか。久留米から満洲に送られ、満洲から福山の部隊に移り、フィリピンで戦死するようなことはなかったのではないか。
 どれだけの時間、古山さんはそういったことを考えたのだろうか。

 幸い、今の人は軍隊に入らなくてもいいし、戦地に送られることもない。それでも若いころの交遊が、その後の人生にすくなくない影響を及ぼしあうことはよくある。
 大学時代、自分の周囲では授業を真面目に聞いたり、試験を受けたりするのが、かっこわるいという空気があった。わたしは大学中退し、友人たちも留年したり、就職しなかったり、どこかおかしなことになってしまった。
 自分にも友人にも「別の運命のコース」があったのではないか。今さらそんなことを考えてもどうにもならないのだが、過去だけでなく、今だって、そうした岐路にいるかもしれない。

2010/08/26

二つの宴会

 日曜日、ペリカン時代で『活字と自活』の出版記念の飲み会を開いてもらう。
 数日前に、あまりにもアバウトな段取りに気づき、古書現世の向井さんに「開始時間に来る人が誰もいないかもしれないから、来て」とお願いする。カウンター席が埋まったときは、ほっとした。

 代理人の方から下坂昇先生の版画もいただいた。
 今、本棚の前に飾っている。

 十年くらい前にペリカン時代の増岡さん、原さんと知りあい、中央線界隈のミュージシャンと知りあい、いろいろな飲み屋を教えてもらい、ものすごく濃密な時間をすごした。
 当時、朝から飲んでいた店もなくなったし、いっしょに飲んでいた友人もそれほど頻繁には会わなくなった。
『活字と自活』の中には、藤井豊さんの写真といっしょに、そのころ書こうとして書けなかった文章もけっこう入っている。

 翌々日、仙台へ。この日、三十五度の猛暑だった。東京から補充本を二十冊くらい持っていったので、汗だくになる。
 夕方、18きっぷで来た藤井さんが合流し、仙台の繁華街を散歩する。

 夜、book cafe 火星の庭で宴会。
 次々と酒と料理が出てきて、楽しく酔っぱらう。

 打たれ強くなるにはどうすればいいのかと質問され、うろおぼえなのだが、何をしてもよくいわれたり、わるくいわれたりするし、それは避けようとおもっても避けられないことだから、自分がいいとおもうことをやり続けるしかないというようなことを話した。

 といいつつ、打たれ強くなればなったで、無神経だ、鈍感だ、といわれたりするわけで、打たれ弱い人は、むしろ弱さを武器にする方法を考えたほうがいいのではないかともおもった(もちろん簡単ではないけど)。

 前野家にはお世話になりっぱなし。藤井さんも仙台を気にいり、次の日、塩竈と松島に行ったらしい。

2010/08/23

西荻窪と高円寺

 土曜日、高円寺あづま通りの古本縁日後、西荻窪のなずな屋へ。
 この日、リニューアルオープン。マッチラベルなど、紙ものが増え、店内には澄子さんのシルクスクリーンのポスターも展示していた。
 そのあとなずな屋のすぐ近所の新刊書店、颯爽堂に寄る。深夜営業で、いろいろな人からいい店だと聞いていたのだが、ゆっくり本を見ることができて居心地がいい。
 西荻窪駅南口のSAWYER CAFEへ。五月末にオープンしたばかりの店。久住昌之さんの切り絵展を見る。飲んでいるあいだに、絵がどんどん増えていくのが面白かった。

 再び、高円寺に戻り、藤井豊さんの写真展「上京高円寺」開催中のペリカン時代へ。
 一階の入口から階段の壁面にも写真が飾られている。レイアウトは中嶋大介さんとわたしも手伝った。
 今はない高円寺北口の庚申通りのドトール(現在はおかしのまちおか)が写った一枚があって、それに反応するお客さんが多い。
 昔、わたしが住んでいたアパート、朝五時から営業していたいこい食堂、ネブラスカ、馬橋公園、様変わりする前の高円寺駅前……。

 今回展示してある写真の何枚かは、わたしのその現場にいた。そのときの藤井さんの反応がおもしろかった。「え? 今、撮るの?」「なんで、それ、撮るの?」と何度おもったことか。
 ところが、十年後にその写真を見ると、かすかにしか記憶に残っていない時間が写っている。

 二十代後半、社会人になった友人と疎遠になったり、文章書いたり音楽やったりしていた友人たちも田舎に帰ったりして、「この先どうなるのかなあ」と不安におもっていたときに、ペリカン時代の増岡さんと原さん、手回しオルガンのオグラさんたちと知りあい、毎日のように公園で飲んだり家で飲んだりするようになった。

 あまりにも楽しすぎて、仕事どころではなかった。

 藤井さんが岡山から上京してきたのもそういう時期だった。

2010/08/16

上京高円寺と縁台古本市

・高円寺屋根裏酒場「ペリカン時代」で藤井豊写真展『上京高円寺』を開催します。現在、岡山在住の藤井さんが高円寺にいた二〇〇〇年前後に撮った写真を大公開。けっこう大きな写真もあるので、銀塩ならではの粒子感も堪能できるのではないかとおもいます。
 拙著『活字と自活』(本の雑誌社)所収の写真も展示される予定です。

8月20日(金)〜8月26日(木)
営業時間 夕方5時〜深夜1時頃
(※日曜定休日)

「ペリカン時代」
★JR高円寺駅「南口」に出て、線路脇の道を阿佐ヶ谷方面へ約3分直進。
中華「味楽」の隣、道沿い左手の建物の2階です。(1階はスナック「みやび」と定食「団らん」)

詳しくは「ライター原めぐみのブログ」にて http://ameblo.jp/masume55/

・高円寺あづま通り 弁天さまのご縁日
縁台ふるほん市
8月21日(土)
午後3時から午後6時まで

高円寺あづま通りの商店街が古本ストリートに。あちらこちらに縁台並べて、本も並べて、お待ちしています。

参加メンバー(まだまだ追加予定!)
*サンダル文庫=Paradis(パラディ)
*茶房 高円寺書林
*えほんやるすばんばんするかいしゃ
*コクテイル書房
*杉並北尾堂(北尾トロ)

※文壇高円寺古書部も参加することになりました!

弁天さまのご縁日
詳しくはこちら
高円寺あづま通り商店会 http://www.koenji-azuma.com/

2010/08/14

京都・倉敷

 八月十日(火)、午後の新幹線で京都。恵文社一乗寺店で京都新聞の記者と待ち合わせ、すぐ近所のつばめという店で取材を受ける。
 そのあと下鴨神社そばのユーゲで『活字と自活』の出版記念会(?)というか、ゆるい飲み会。扉野良人さんに『活字と自活の過日』というカラーコピーの小冊子まで作ってもらった。

 二〇〇〇年に岡崎武志さんの紹介で『sumus』の同人になり、以来、京都にしょっちゅう行くようになった。

 辻潤が縁で知りあった扉野さんとも京都で再会した。
 ひさしぶりに会って、わたしは尾崎一雄、扉野さんは川崎長太郎を愛読していることがわかり、私小説話で盛り上がった。
 小冊子には、高円寺の飲み屋で終電をなくし、学生時代の扉野さん(当時は本名だった)がわたしの下宿に泊ったときのことが記されていた。
 その日の記憶がないとあったが、たしか尾形亀之助の話をした……ような気がする。京都に帰る直前くらいだったせいか、まだ東京にちょっと未練があるようなかんじだったことをおぼえている。

 会には、岡山からカメラマンの藤井豊さん、東京からは神田伯剌西爾の竹内さんもかけつけてくれた。
 薄花葉っぱの即興ライブもあった。楽しい時間だった。
 藤井さんと扉野家に泊る。深夜、いっしょに銭湯に行って、帰り道、軽トラックを改造したあやしいラーメンの屋台を見つけ、道端でラーメンを食べた。

 翌日、下鴨の古本まつり。いろいろ収穫あり。そのあと藤井さんとレンタサイクルを借りて、出町柳散策。ガケ書房と古書善行堂に寄る。善行堂、本が増えている。ビックリ。ものすごく珍しい写真集を見せてもらう。

 自転車を返して岡山へ。わたしは京阪から阪急に乗り換え、私鉄で神戸に寄りたい。藤井さんは青春18きっぷで岡山に行きたい。京阪の四条で別行動、倉敷の蟲文庫で待ち合わせすることにする。
 三ノ宮のから元町のガード下を通って、喫茶店で休憩して海文堂書店に寄る。

 倉敷の蟲文庫に着くと、武藤ボエー画伯、日焼けサンダル王子、ネギっちょが宴会中。しばらくして藤井さんが合流。「曇天画」開催中のせいか、曇りのち雨。
 飲みながら、しきりに「倉敷にいる気がしない」とぼやきあう。
 そのあと蟲さんの家で合宿。ひとりでひじき一皿食ってしまう。

 翌日、駅前のラーメンからうな丼までやたらメニューの幅が広い居酒屋で昼酒を飲む。
 倉敷駅の改札前で万歳見送りをされ、郷里の三重へ。

2010/08/10

限度の自覚 その七

 際限なく「限度」をひろげていこうとすれば、いつかは破綻する。あらゆることを犠牲にし、自分の好きなことだけにのめりこめるような人は、そもそもどこかおかしい……のではないか。

 自分はそういう人間ではないとあるとき気づいてしまった。
 今はぱっとしなくても、いろいろな課題をひとつずつクリアーしていけば、どうにかプロのライターとして食っていけるようになるのではないか。
 なんとなく、文章の職人みたいなものになりたいとおもうようになった。
 九〇年代半ばに雑誌の廃刊があいついだのは、かけだしの身にはつらかった。あっという間に仕事がなくなった。

 ひまになったから、どこまでだらだらできるか、その限度を試してみた。怠けていただけ、といってもいい。自堕落方向の「限度」がひろがるにつれ(それはそれでそれなりの快楽があるのです)、さらに「野心」は衰える。

 わたしの「無謀な野心」は空回りしながらどんどんしぼんでいった。しぼんだ野心をもういちどふくらませるのはむずかしい。

《僕等のような凡人の抱く理想は多くの場合その実生活の要求を殺し切る強さはない。芸術や宗教に職業として携わる人々も正直のところ出世もしたいし金もほしいというのが大部分である》(「幸福について Ⅱ」/中村光夫著『青春と女性』)

 こうした理想を中村光夫は「世俗の野心」という。
 わたしにも「世俗の野心」がある。
 すこしは金がないと仕事を続けられない。すこしは偉くならないとずっと不本意な扱いが続き、おもうような仕事ができない。
 しかし「世俗の野心」を充たすための努力も楽ではない。だから、斜に構えて、初手から投げてしまっていたところもある。

 ほんとうは「無謀な野心」をもって、ジタバタしながら、自分の「限度」いっぱいまで突っ走ってみたかった。でもそれができなかったのは、自分の「限度」だったともおもう。

(……しばらく休みます)

2010/08/07

限度の自覚 その六

「あれもしたい、これもしたいとおもっていたのに、時間が経つうちに、これしかできないになってくる」と書いたが、これもまた「限度の自覚」といえるかもしれない。
「これしかできない」になったときに、悩みがなくなるといえば、なくならない。ただ、すこし悩み方が変わる。
 これしかできない自分はどうすればいいのか。それがわからない。たぶん万人共通の答えはない。だからそのつど自分だけの答えを作るしかなくなってくる。

「無謀な野心」と「限度の自覚」の調和点について考えるつもりだったのだが、どんどん話がズレていく。おそらく「無謀な野心」と「限度の自覚」は対立概念ではない。

 中村光夫の「限度の自覚」という言葉は、カミュの「すぐれた芸術作品は、作者の限界の自覚から生まれる」という言葉を意識したものだ。その言葉を受け、中村光夫は「こういう幸運は誰にも恵まれるわけには行かない」とも述べている。

 ひとつのことに打ち込んで、ギリギリまで自分を追い込んだ結果、自分の限界を知る。しかし環境や許さなかったり、時間がなかったりして、そういう経験はなかなか積めるものではない。
 限界に挑むには何より体力がいる。

 二十代のころは、数メートル単位で限度がひろがっていくかんじだったのだが、三十代になると、数センチ単位、四十代になると、数ミリ単位といったかんじになってくる(当社比)。
 気持にからだがついていかない。その逆もある。限度が見える。見て見ぬふりをしても、ごまかせなくなる。こんなことは誰にでもある、珍しいことではない。今おもうと四十歳のちょっと手前くらい、思春期とはちがった形の不安定な気持になることが増えた。

 そんなときに中村光夫を読んで救われた気がした。自分と同じだ、とおもう症状がいっぱい出てくるのだ。新しい小説がわからなくなったり、歴史に興味が出てきたり、これまでの半生をやたらふりかえるようになったり……。
 その症状をすべて肯定するわけではないが、あるていど受け容れて、そのときどきの自分にできることを探すしかない。そんなふうにおもえるようになった。

 同時に「無謀の野心」は持ち続けたほうがいいともおもう。しかし「無謀」を「無謀」とわかるようになると、もはやそれは「無謀」ではない。

(……まだ続く)

2010/08/05

雑誌の曲り角

 出版不況というのは、若者にお金がまわらないことが問題なのかもしれない。若者にお金がないから、中高年を対象にした本や雑誌が増える。金儲けと健康に関する企画ばかりになる。だから編集者になりたい、ライターになりたいとおもう人がどんどんいなくなる。

 かつての雑誌は情報格差に依存していたところもある。
 大半の読者は、海外の流行を知らない。だったら最先端のアメリカやヨーロッパの文化を紹介しよう。
 中・高生のころ、わたしがラジオの洋楽番組を聞いたり、音楽雑誌を読んだりしたのも、田舎にいて情報に飢えていたからだ。知らず知らずのうちに、いつかは自分も情報を送る側の仕事がしたいとおもうようになった。

 今だって情報の飢えはあるだろう。でもその飢えは、かつてのそれとはちがってきている。インターネットで検索すれば、ただ同然で、昔、中古レコード屋で血眼になって探していたミュージシャンのライブ映像を見ることもできる。

 二十代のころ、エロ雑誌の仕事をしていたことがある。そこでは何を書いてもいいという雰囲気があった。雑誌を買う人は、グラビア目当てだから、中の文章なんかどうでもよかったのだ。すくなくとも、雑誌の売り上げには貢献しない。
 ストリップの合間の漫才みたいなものといえば、わかりやすいだろうか。

 グラビア目当ての雑誌に文章を書く。おもしろいものを書けば、次の仕事につながる。最初は無署名だけど、運がよければ、そのうち署名の原稿が書けるようになる。署名の原稿が書けるようになると、他の雑誌でも仕事がしやすくなる。

 フリーライターの仕事は「仕事があるうちに次の仕事を探せ」という鉄則がある。
 では、最初の一歩はどうするのか。今も昔も、新規参入がむずかしい。
 雑誌の創刊ラッシュのときは、人手が足りないから、実績がまったくない素人でももぐりこむ隙間がいくらでもある。わたしもそうやってこの世界にもぐりこんだ。新刊書店で雑誌を立ち読みしていると「スタッフ募集」みたいな告知が出ている。同じ人が何本も原稿を書いている雑誌、若い書き手の原稿がたくさん載っている雑誌、ふざけたペンネームの書き手が多い雑誌が狙い目である。

 それで運よく、編集部に呼ばれて、仕事にありついても、食っていける保証はどこにもない。
「三号雑誌」という言葉があるように、創刊から三号で潰れてしまう雑誌も多い。雑誌ではなく、出版社が潰れてしまえば、原稿料を貰えないこともある。

 そうなれば、いきなり窮地である。

 長くフリーで仕事をしている人は、何度もそういう目にあっているとおもう。わたしも金に困るたびに、あのときの未払いの原稿料があれば、とおもいだす。
 親が金持で、自宅住まいで家賃と食費を考えずにすむような境遇だったら、とおもうこともある。
 でも三十歳すぎて、収入がほとんどないような状態で親と同居というのは、それはそれでプレッシャーがあるだろう。自分の生活費分はアルバイトで稼いでいたとしても、何かと文句をいわれるにちがいない。

 夢とか憧れとか、そういうのがないとやっていけない仕事にもかかわらず、不況になって、どんどんそういうものが削ぎ落ちてきている。
 そして雑誌の「雑」にあたるようなものも求められなくなってきている。
 誰それの連載を目当てに雑誌を買うのではなく、連載の単行本化を待つ。漫画はすでにその傾向があるが、文章だってそうかもしれない。

 たまたま自分の好きな作家が連載しているから買って、それで知らない作家の文章を読んで、「こんな人いたんだ」というようなことが、雑誌のおもしろさにはあるとおもうのだが、検索でピンポイントで目的地に行き着くことに慣れてしまうと、お金を払ってまで自分で探すのは面倒くさくなる。

 知らないことを知りたいとおもう。その知ることが簡単になっている。
 わたしが古本屋で古雑誌や雑本を探すのは、そこに意外性があるからだ。それこそが雑の魅力だ。
 不便で面倒くさいおもしろさを啓蒙する。
 今、そういうことが雑誌作りに求められている気がする。

2010/08/04

イケブックロ

 ノートパソコンの上に保冷剤を置きながら仕事する。

 夕方、散歩。気温に慣れる修業のつもり。都丸均一のち北口あずま通り古本屋(新店舗が!)のちOKストアに行く。

 その新店舗で森銑三著『古い雜誌から』(文藝春秋新社)を買う。短い随筆ばかりで息抜きの読書にもってこい。
 寿司に関する話で「お上品ぶるといふことは根本を忘れるから起ることだ」という一文があった。
 東京に来て驚いたことのひとつは、寿司屋の人がエラそうなことだった(もちろんそうじゃない人もいっぱいる)。

 わたしの感覚だと、漁師のほうが寿司職人よりエラくなければおかしい。どう考えても、そっちのほうがたいへんな仕事だとおもう。

 そのあと北口庚申通りの高円寺文庫センターに行く。新刊本と古本の店(というか大半が古本)としてリニューアルしていた。入口は百円均一。店内の棚はまだ埋まっていない。かすかに動揺する。近所に新しい古本屋ができたらうれしいはずなのだが、それとこれとは話がちがう。同じはずがない。

 高円寺文庫センターは(かつて)中央線を代表するサブカル系の書店だった。

 ひょっとしたら今の日本の若者はもう新刊本を買う余裕がなくなりつつあるのではないか。月の手取りが十数万円で、家賃と食費と光熱費と携帯電話代を払ったら、ほとんどお金が残らないという生活をしていて、実用性のないサブカル漫画を買う余裕がどこにあるんですか、月に一回、インターネットカフェの三時間パックで漫画を十冊読むのがいちばんの贅沢ですよ、みたいなことになっているのではないか。

 そういう現実もあるとおもうのです。あくまでも想像ですが。

 とまあ、ぼやいたあとになんですが、告知を。


■イケブックロ〜わめぞの古本・雑貨市

池袋駅の近くで古本1万冊! 池袋に本の文化が根付きますように、街の中に本がいつでもありますようにという思いをこめてイケ「ブック」ロ。真夏の池袋に3日間だけ「本のオアシス」が出現します。(財)としま未来文化財団さんとの共催企画です。

■会期
2010年8月6日(金)〜8日(日)
10:00〜20:00(最終日17時まで)

■会場
豊島区民センター1階 総合展示場
豊島区東池袋1−20−10
http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/

……それから中野ブロードウェイのタコシェに『活字と自活』のサイン本あります。お近くの方はぜひ。

2010/08/02

限度の自覚 その五

 どんな人間にも「限度」がある。いちばんわかりやすい「限度」は「時間」だろう。
 青年が中年になるにつれ、一生かかってもできそうにないことが見えてくる。
 もっと時間があれば、とおもうのだが、人間に与えられている時間は無限ではない。フリーライターの仕事でいえば、しめきりがある。

「無謀な野心」は、時間の壁に阻まれる。時間の壁を意識してはじめて諦めもふくめた自分の限度を知る。お金もそうだ。ただ、あればいいというものではない。食うに困らないくらい十分な金があったら、わたしは怠けるだけ怠けてしまうだろう。

 どんな仕事でも十年くらい続けていると、なんとなく、自分の限度みたいなものが見えてくる。その限度が見えてくるにつれ、「無謀な野心」が失われてくる。あれもしたい、これもしたいとおもっていたのに、時間が経つうちに、これしかできないになってくる。
 自分の限度だけでなく、まわりの状況も見えてくる。不景気だし、出版の世界の展望はけっして明るいものではない。とくにフリーは……。愚痴はよそう。

 はじめのうちは、早くたくさん書く技術を身につけると、それなりに役に立つが、時間に限りがあるように、書ける枚数にも限りがある。何を書くかではなく、何枚書くかで、収入が決まる。量よりも質なんてことをいっていると収入が減る。しかも量と比べて、質の評価は曖昧だから、どんなに時間をかけて、丁寧に書いても、つまらないといわれたら、それまでだ。

 三十歳前後、量で勝負する世界で限度が見え、質の世界で勝負する困難さが見え、八方塞がりの状態にいることを自覚した。

 おそらく「無謀な野心」も現実にたいする「無知」と関係している。
 自分の能力にたいする錯覚が「無謀な野心」を生む。時に、それが無理だとおもわれることを可能にする。すくなくとも人を前進させる力にはなる。自分では気づかないままやっていて、後からふりかえって、わかることもある。

 しかし、いつかは考えないと、先に進めない局面を迎える。先に進めなくなって、元の道に戻ったり、迂回路を探したり……この文章もそうだ。そのまったく大丈夫ではない状況をどうやって楽しむか。
 ある種の文学は、八方塞がりの、ぱっとしない、低迷期を乗りきる知恵の宝庫でもある。

(……まだ続く)

2010/08/01

限度の自覚 その四

 考えが行き詰まってきたので、中村光夫の『青春と女性』(レグルス文庫)を読むことにする。
 すると、こんな文章に出くわした。

《人々は普通青年は人生を知らぬという。だがこういうとき彼等は人生とはまさしく人生を知らぬ人間によって築かれるという大きな事実を忘れている。彼等は結婚するとき、果して結婚生活とは何かを知っているであろうか。まためいめいの職業を選んだとき、彼等は果してその職業が実地にどのようなものか知っていたであろうか》(青春について)

 知らないうちに何かを選択したり、決断したりする。青年といわれるような年齢のときは、当り前のようにそうしてきた。
 仕事の選ぶのも恋人を選ぶのもたいてい曖昧だ。どんなに突き詰めても、結局、なんとなく、好みに合っていたといった程度の理由しか出てこない。いや、これはわたしのこと。

 では「限度の自覚」とは「人生を知る」ことなのか。

 前述の文章のあと、次のような言葉が続く。

《青春とは僕等が人生の未知に対して大きな決断を下すべきときであり、その決断がやがて僕等の生涯を支配するものだからである》

 若いころの決断に多少は抗ったとしても、なかなか大きな変更はきかない。(うっかり)決断してしまった人生にたいし、どんどん時間を注ぎ込む。その時間が長くなれば長くなるほど、引き返しにくくなる。
 未知だった人生は、やがて既知もしくは半知半解くらいになる。何かを習得するための時間や手間にしても、まったく予想のつかないものではなくなる。
 毎日が同じことのくりかえしのようにおもえてくる。そのくりかえしにたいする免疫のようなものもできてくる。

「無謀な野心」と「覚悟の自覚」の調和点というのは、ひたむきさを持ちつつ、地道なくりかえしにたいする忍耐を身につけた状態といえるかもしれない。ひたむきさ、と同時に、地道さ、いいかえると、マンネリとおもえることに耐える力がないともの作りは持続しない。

 その状態は、意識して作ることができるものなのか。それとも自分では気づかないうちにすぎさってしまうものなのか。

(……まだ続く)