2020/11/29

大岡昇平の世界展

 気温が下がり、空気が乾燥し、風が強い。新型コロナにたいし、自分の思考と感情が定まらない。家でひとりで考えていると「たいしたことない」という気分になってしまう。先日、自営業の友人と話をして、「密」と無縁な生活をしている自分は楽観に傾きすぎていたと気づかされる。

 二十四日、荏原中延、なかのぶスキップロードの隣町珈琲で岡崎武志さんと古本談義をする。隣町珈琲は、前の場所のとき、平川克美さんと木下弦二さんのイベントを何度か見に行ったことがある。

 対談後、カフェ昔日の客の関口直人さんも加わり、岡崎さん、関口さん、わたしの三人、餃子の王将で軽く打ち上げ。
 この日、関口さんは夏葉社の島田潤一郎さん、平川克美さんと鼎談していたそうだ。すこし前に関口さんと平川さんが高校の先輩後輩の関係と知って世間は狭いなと……。

 二十八日、神奈川近代文学館の大岡昇平の世界展(二十九日まで)。大岡展は三月二十日開催の予定だったが、新型コロナの影響で延期になっていた。春開催と秋開催の招待券が一枚ずつあったので、妻といっしょに横浜へ。神奈川近代文学館はけっこう人がいた。
 少年時代、大岡昇平は渋谷で暮らしているのだが、頻繁に引っ越し。当時の渋谷の写真が今とまったくちがう。
 原稿用紙を見ると、ものすごく推敲が多い。半分ちかく書き直している原稿もある。「俘虜記」関連の展示の前、人が動かずなかなか見ることができない。
 碁敵の尾崎一雄宛ての手紙をじっくり読む。武田泰淳、百合子夫妻の山荘前でいっしょに撮った写真もあった。今回、いい写真が多かった。写真の埴谷雄高はいつも面白い顔をしている。
 一時間半くらい堪能したか。『大岡昇平の世界展』のパンフレットを購入。会場を出ると関口直人さん夫妻、関口さんの母と会い、挨拶する。会場にいた時間がほんのすこしでもズレていたら、すれちがっていた。こういう偶然は嬉しい。

 家に帰って、大岡昇平著『昭和末』(岩波書店、一九八九年)を再読する。「狡猾になろう」というエッセイには「人がそのおかれている社会的条件を知ろうとする意志を失う時は、最も煽動に乗り易い時である」という言葉があった。

2020/11/24

忍耐

『有馬賴義と丹羽文雄の周辺』(武蔵野書房)所収の「丹羽文雄と『文学者』の人びと」(談・中村八朗)を読んだ。中村八朗は『十五日会と「文学者」』(講談社、一九八一年)の著者でもある。

 中村八朗は一九一四年長野生まれ。早稲田大学の仏文時代、吉江喬松に文学を学んだ(吉江は井伏鱒二の先生でもあった)。
 吉江喬松は長野県の塩尻出身で代々庄屋の家に育った。わたしは三重からJR中央本線で東京に帰るときはいつも塩尻に宿泊している。
 塩尻からの五千石街道には吉江喬松の生家がいまも残っている。それで気になっていた。

「丹羽文雄と『文学者』の人びと」の話に戻る。

《中村 吉江先生は、手をあげた者に対して、作家となるには、どういう素質が大切だと思うか、ひとりひとり聞きはじめるんだ。ぼくは何て答えたか忘れたけどね、みんな、ろくな答はでなかったね。そうしたら先生は、いきなり黒板に、フランス語で、パシャンス、と書くんだよ。もうスペルは忘れちゃったけどね。これ知っている者、と先生がいったら、八木だったか誰だったか、たぶん八木だね、八木はフランス語がよくできたからね、忍耐、ではないですか、といったんだ。すると先生は力をこめて、そのとおり、作家の大切な資質は忍耐である、といったね》

 八木は八木義徳。中村八朗と八木義徳は第二早稲田高等学院のころ、いっしょに同人雑誌を作っていた。

 話はあちこち飛んで恐縮だが、以前、古本屋で坪内祐三さんのサイン本を見かけ(買わなかった)、その署名の横に「忍耐」と書いてあった——というエッセイを『本の雑誌』に書いたことがある。吉江喬松の「忍耐」の話と関係あるのかどうか。

 中村八郎は吉江先生の教えを「じつにいい教訓だったね」と回想している。吉江喬松は作家を育てたいというおもいが強かった。当時、学生にたいし「作家になれ」とけしかける先生は珍しかった。

《中村 作家の素質について、あれやこれや言ってみても、勉強したり、調べものをしたりすれば、いろいろとついてくるもので、そんなものは素質といえないね。吉江先生のいう忍耐力がないから、消えていっちゃうんだね。書かないし、注文がないと書けないなんていっていては、だめなんだよね》

 中村八朗は、吉江喬松のほか浅見淵にもよくしてもらった。浅見は「後輩のために、損得ぬきで面倒をみる」人だった。浅見は新人をとにかくほめた。

《中村 そこでね、つくづく思うのは、作家の才能の中にはさ、普通でないものがある、ということだね。人間的には何か、こう少し、はずれたり、ゆがんだりしたもの、それを持っていた方がいいね。そう思うよ》 

 何か「おかしいところ」がないと文学にならない。面白い教えだ。そのとおりだとおもう。

2020/11/14

備忘録

 金曜日午後、西部古書会館。上坂高生著『有馬賴義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と「文学者」』(武蔵野書房、一九九五年)、中川竫梵著『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』(古川書店、一九八三年)など。

『有馬賴義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と文学者』を読んでいたら、「石の会会報」四号の色川武大「石の会阿呆列車」、十三号の後藤明生の「十一月例会記」などが、(おそらく)全文掲載されている。色川武大の「石の会阿呆列車」は石の会の金沢旅行の報告である。単行本で約二頁分くらい。

《二月八日午後一時半、かかることには神経質な小生はじめ、福井・佃・山田・桂・高井・黒須・高橋・早乙女氏等参加者一同、東京駅頭に粛然と揃いしが、肝心の有馬氏の姿が見えぬ》

 さらに色川武大は「街中で眠り、酒食に向かいて眼が開くことあらば金沢に失礼と案ぜしも、よいあんばいに眠りさめやらず。何がどうしたか我関せずなり。帰途道端の松の木に衝突してようやく目覚むるも、この時おそく一行は駅前解散にて、永平寺、能登、東京直行と三方に散り行き、“松風ばかり残るらん——”という次第」と書いている。著者の上坂さんは「色川さんは、市中見物で睡魔至ると書いているが、じつはこれは色川さんの持病のようなもので、のちのちそれに苦しめられていた」と補足する。会報は一九六九年二月二十八日付。

 年譜を見ると、前の年の一九六八年くらいから幻視幻覚に悩まされていたようだ。

 先日、河田拓也さんから色川武大の単行本未収録とおもわれる随筆のコピーをもらった。「石の会阿呆列車」の件はご存知だろうか。

 後藤明生の「十一月例会記」には「金沢ゆきの報告は確かマージャン名人の朝田(?)哲也氏こと色川武大氏だったと思うが、その中でわたしが、ゆきもしないのに、なんだったら報告だけ書いてもよいですよ、といったというデマを書かれたのをおぼえている」といった一文も。後藤明生、途中で阿佐田と朝田の誤記に気づくのだが、直さない。「色川武大=阿佐田哲也」を明かしている初期の文章かもしれない。

 同号で後藤明生は「課題随筆『わたしの癖』を書いている」。 

《「癖は運命のようなものだ」と題して、酒を飲むことに触れ、「そのことによって破滅もできるし、またそれを利用することもできる」と葉書ていどの文をしめくくっている。これは後藤文学を明かす一つの鍵になりそうだ、といえば、当たっているか、違っているか》

 上坂高生は「石の会」と「文学者」の両方に参加していた。「石の会」に誘われたときは横浜市立帷子小学校につとめていた。

『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』を読んでいたら、尾崎一雄の「父祖の地」にもふれていた。霊祭講社(伊勢市岡本)の隣に参宮館という旅館があり、その離れに尾崎一雄は住んでいたことがあり、その旅館は「今、某代議士の邸になっている」。

 某代議士は一九三七年に「腹切問答」で軍部の政治干渉を批判した浜田国松だった。
 軍が政治に関わるのは危険だ——という浜田の発言に寺内寿一陸軍大臣は軍を侮辱したと憤る。それにたいし、浜田は「速記録に自分が軍を侮辱した言葉があれば割腹して謝する。なければ、君が割腹せよ」と反論した。
 尾崎一雄の「父祖の地」は一九三五年の作。「腹切問答」の二年前だ。
『暢気眼鏡』(新潮文庫)所収の「父祖の地」を読んでいたら、七十八歳で亡くなった祖母の死について、次のように綴っている。

《病みついて暫くすると「これは治らぬ病気だ、放っておけ」そう自分から云った。初めは冗談にして笑っていた家の者も、やがて慌て出した。医者を断われ、薬は要らぬ、そう云う祖母に、母がすがりついて泣いたことを覚えている。
「死ぬときは死ぬ」と、祖母は笑っているのだ。一と月程して死んだ。非常におだやかな死にぎわだった》

『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』の中川竫梵は、県立伊勢高校の先生である。同書の写真とイラストは高校時代の同級生が担当している。この本、前の持ち主の付箋がびっしり貼ってあった。

 時間をかけ、歩いて調べた郷土文学の本は勉強になる。

2020/11/11

井伏鱒二展

 毎日睡眠時間がズレる。いつになったら生活のリズムが戻るのか。ライターの仕事の場合、絶不調でさえなければ、どうにかなることも多い(小さなミスは増える)。
 土曜日、夕方四時すぎ、西部古書会館。未見の街道資料を何冊か。適当に手にとった随筆もパラパラ見ていたら街道の話が出てくる。
 日本の地理も歴史も知らないことばかり——勉強時間が足りない。

 日曜日、高円寺から歩いて杉並文学館へ。準常設展で「井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士 風流三昧」が開催中(十二月六日まで)。大宮八幡宮、和田堀公園を通って阿佐ヶ谷へ。十四、五キロ歩いたか。 阿佐ヶ谷文士の文学は近所の散歩がそのまま作品の世界につながっている。 

 家に帰って杉並区郷土博物館発行の『生誕百年記念特別展 井伏鱒二と『荻窪風土記』の世界』(一九九八年)をパラパラ読む。そのあと『荻窪風土記』(新潮文庫)を再読する。

 一九五八年一月、井伏鱒二は腹膜炎で二十日あまり入院する。退院後、井伏鱒二はこんなことを考える。

《自分は以前のまま、身すぎ世すぎのこういった稼業をしている存在である。作品というものは、偶然どんなに巡り合わせがよくて、あるいは出来栄えのいいものが書けたにしても、満点の作品ということはあり得ない。まして巡りあわせのいい偶然など一度もなく、今後ともその機会の来る見込みはないと仮定する。
「そうだ、絵を描くことにする。自分の一番やりたいことは、絵を描くことだった」》

 還暦ひと月前に井伏鱒二は天沼八幡通りの新本画塾に通いはじめる。画塾には六年通った。しかし描けば描くほど自分の絵が拙くなる。それで絵を諦める。さらに釣りもうまくならないとぼやく。

《自分にとって大事なことは、人に迷惑のかからないようにしながら、楽な気持で年をとって行くことである》

 将棋と釣り、絵や骨董などを愛しながら井伏鱒二は九十五歳まで生きた。日本の作家の中でもかなり恵まれた人生を送った人物かもしれない。

2020/11/05

掃除の途中

 気がつけば十一月。部屋を掃除し、コタツ布団を出す。押入からコタツ布団を出すと扇風機をしまう。
 コタツ布団期が十一月から四月末、扇風機期が五月から十月末――どちらも半年くらいなのだが、扇風機の時期のほうが調子がいい。

 朝九時くらいに寝て、昼すぎ起き、二時間くらい仕事して、それからまた寝て起きたら夜八時とか九時とかになっていて、それから朝まで起きている。体内時計が二十四時間周期と合わない。そういうときは神経を休めることに専念する。古本を読むか、レコードを聴くか。あと散歩か。それでよしとする。

 古山高麗雄著『一つ釜の飯』(小沢書店、一九八四年)に「死んでもラッパを」というエッセイがある。
 昔、修身か何かの教科書に弾丸が当たってもラッパを手放さない兵隊の話があった。作家も死ぬまでペンを持ち続けるべきか。古山さんはそういう考え方を「億劫」におもう。

《毎日を大切にして生きいそぐのもよい、死ぬまで励むのもよい、が、私は、自分がそうだからか、日本人はもっと、互いに、だらしなさやいい加減さをゆるす気持をもってもいいのではないか、と思っている。(中略)無論、本人が励むのはいい。しかし、他人にもそれを求め過ぎてはいないだろうか》

 そのときどきの体調と相談しながら、必要最低限の仕事(家事)をして、あとはのんびりすごしたい。

 というわけで、これから掃除の続きをする。