2021/07/26

東京ゴールドラッシュ

 土曜日、高円寺のオリンピック(総合ディスカウントストア)の隣の西部古書会館に手ぶらで行く。

 この日、太田克彦著『東京ゴールドラッシュ』(TBSブリタニカ、一九八三年)の帯付の美本を百円で入手。帯には「ライブな東京の魅力を語るアクション・エッセイ」とある。すでに持っている本だが、きれいな状態のものが欲しかった。装丁・イラストは横尾忠則(対談も収録)。一九八〇年代の熱気がつまっている。

「差別の実態がなくなった地方と、東京とのジョーク的関係」というコラムにこんな記述がある。

《東京が地方をコケにした図式は、電波に活字にと、いまやいたるところで目につく》

 一九八三年の『週刊プレイボーイ』の某記事には「……この記事は東京都民以外は読んではいけない。(中略)東京都といえるのは、千代田・中央・港・品川・大田・目黒・新宿・中野・文京の一〇区だけ。あとは全部田舎だっ!!」とあった。もちろん、これは挑発して読ませようとする仕掛けである(いいかわるいか別として)。
 太田克彦は東京生まれだが、このコラムの執筆時には埼玉に住んでいた。そしてこう問いかける。

《いったいいつから、東京から他の地域を差別することが日常的になったのだろう》

 太田さんは万才(漫才)ブームの影響ではないかと指摘する。一九八〇年代、都会と地方の「差」がそれほどなくなり、地域の差別が“ジョーク”として成立するようになった。

《以前、イギリスのコメディアンが身障者をテーマにしたギャグを連発しているシーンを見たことがあるが、日本人の感覚では異常なものだった。そういう差別に慣れていない国で、名古屋とか埼玉の差別を耳にして平気でいることができるのは、いったいどういうことなのだろう》

 差別に関する感覚も時代とともに変わる。そのうち国内の地域差別もNGになるだろう。笑っていいもの、バカにしていいもの、叩いていいものも時代とともに変わる。

2021/07/23

眼がわるい

 たぶん秋花粉が飛んでいる。マスクのおかげでくしゃみ鼻水の症状はそれほどひどくないが、寝起き時に目がかゆい。寝起きの調子がわるいとすこし焦る。すこし前に神保町の一誠堂書店に行ったら棚の上のほうの本の背表紙の文字がまったく見えなかった。そろそろ眼鏡のレンズを交換の時期か。

 八木義徳著『男の居場所』(北海道新聞社、一九七八年)の「小説家とは?」を読む。初出は一九七七年。

《小説家は眼がわるい。すくなくとも彼は自分の眼がわるいことを知っている。だからこそ、よく見ようとする。普通の人がさっと見てさっと行きすぎてしまうところを、彼は立ちどまって、じっくりそこに眼を当てる。それは“見える”のではなく、“見る”のだ。いや、もっと正確にいえば、それは“見よう”とするのだ》

 こんな調子で「小説家は耳がわるい」「カンがわるい」「頭がわるい」と続く。いずれも含蓄のある意見が綴られている。
 頭がいいといわれる作家の小説は「文体も構成も整然」としていて「まるで理髪店から出てきたばかりの頭を見るような感じがする」と……。言い得て妙というか、文章を整えすぎると言葉の熱が弱まる。このあたりの問題は小説家だけではなく、多くの読者もすっきりとしたわかりやすい文章を求めるようになったからかもしれない。

 頭やカンのよしあしの問題でいえば、(そんなに考えなくても)すぐわかったり、すぐできたりすることって説明がむずかしい。

 逆にいうと、表現の世界には躓ける才能みたいなものがある。目的地への最短ルートは一つだが、遠回りすれば無数のルートがある。わたしはぐだぐだした文章を書くのも読むのも好きなのだが、そのよさを説明するのがむずかしい。

2021/07/19

ある時代には

 竹書房文庫の装丁の雰囲気が変わっていい感じ(語彙不足)になっているのだが、新刊書店の文庫の棚のチェックを怠っていたせいで気づくが遅れた。眉村卓著、日下三蔵編『静かな週末』は帯も含めてすごくかっこいい。海外のSF作品もラインナップに入っている。

 老舗の出版社がいつの間にか従来とはちがう傾向の本を出す。四、五年前まではそういう変化によく気づいた。自分の守備範囲外のジャンルの棚もなんとなく見ていたからだろう。

 八木義徳著『文学の鬼を志望す』(福武書店、一九九一年)をインターネットの古書店で購入——。三十年前に出た随筆集だが、刊行時の記憶がない。大学時代は、ほとんど古本しか買わなかったから、新刊の単行本はほとんどチェックしていなかった。
「孤高の魅力」と題したエッセイが面白い。
 新宿の居酒屋で五、六人の文学青年らしい若者が同人仲間の作品が「マスコミ」にのるかのらないかの議論をしていて、八木はその話に耳を傾ける。テレビやラジオで取り上げられ、映画化される。つまり「売れる」小説かどうか。

《私たちが文学青年であった時代は、その作品が、「うまいかヘタか」——それが作品の価値判断の主たる基準だった》

 当時の八木は小説の芸もしくは技術を競っていた。しかし一時代前の先輩はそうした姿勢を不満におもい、「小説は技術ではないよ。魂の問題だよ」と忠告した。

《ある時代には「ほんとかウソか」が、ある時代には「美か醜か」が、ある時代にはその「階級性」が、ある時代にはその「社会性」が、ある時代にはその「主体性」が、またある時代にはその「民族性」が、そうしてまたある時代には……》

 このエッセイの初出は一九五八年。六十年以上前のことだ。
 わたしは十代の終わりから二十代にかけて、小説よりもいわゆる軽エッセイ(主に角川文庫)ばかり読んでいた。
 ようするに、ちょっと不健康な怠け者、あるいは落ちこぼれの視点から世の中を見たり、人生を論じたりする文学を愛読していた。深刻な作品よりちょっとくずれたフマジメな作品が好きだった。

 ある時代の「新しい価値観」もいずれ古くなる。
 プロレタリア文学の隆盛期には「階級が描けていない」という理由で否定された作家がいる(貧乏作家の私小説が「ブルジョワ文学」と揶揄された)。いつの時代にも一つの基準で他の作品を否定する人たちは後をたたない。残念ながらその流行だけは終わらない。

(追記)「三十年前に出た随筆集」のところを「二十年前」と書いていた。訂正した。

2021/07/14

大均一祭

 七月十日から三日間——西部古書会館の大均一祭。初日二百円、二日目百円、三日目五十円で三十冊以上買う。『近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む』(日本近代文学館、二〇〇七年)、『日本近代文学館創立20周年記念 近代文学展』(日本近代文学館、一九八二年)など。

『近代文学展』のパンフはすでに持っていたのだが、同展覧会の新宿伊勢丹(伊勢丹美術館)のチラシ(優待割引券)付だった。当時、百貨店で文学展をしょっちゅう開催していた。
 ちなみに一九六三年十月に伊勢丹で開催された近代文学館創立記念の「近代文学史展 文学百年の流れ」の会場の写真は満員の人だかり。

《いま二十周年を迎える近代文学館が、もし私達のこの世界に思いがけずこともなく、やがて××年(例えば、大きくいって二百年)を迎える日を想像すると、どのような景観がそこに現出するであろうか》

 これはパンフレットの中にあった埴谷雄高の言葉だ。すでに一九八二年から四十年近い歳月が過ぎている。この四十年くらいの間に原稿用紙に手書きの作家は激減した。
 文学館には作家が愛用したワープロ、パソコンが展示されるようになるだろう(すでに携帯電話の展示は見た)。

『近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む』には、文学館設立基金を集めるための「色紙展」の記録などもあった。
 すこし前に読んだ福原麟太郎著『この道を行く わが人生観』(大和書房)の「老いの術」にも色紙展の話が出てきた。

《近代文学図書館(ママ)の設立資金を得るために、折りから開かれている佐藤春夫記念展覧会に隣って色紙展をひらくから、色紙へ何か書くようにすすめられた。私などがと思うけれど、こういう際は遠慮しない方がいい》

 福原麟太郎は色紙にチャールズ・ラムの「われ愚人を愛す」、ブラウニングの「われとともに老いよ」などの文句を書くことが多かったらしい。

2021/07/10

八木義德展(十三年前)

 木曜日小雨。新宿のち神保町。すこし前の話だけど、上京以来、一番通っていた新宿西口の青梅街道の宿場町が描かれたガード下のトンネル抜けてすぐのところにある金券ショップがなくなった。
 新幹線の回数券や図書カード、たまにレターパックなどを何軒かまわって一番安いところで買う。この日は一万円の図書カードを九千五百円で買った。新型コロナの影響か、新幹線の回数券が安い(東京−名古屋八千円台のチケットも見た)。

 コロナ禍中の出来事といえば、野菜の値段のことを記しておきたい。昨年くらいからジャガイモが高騰している。高円寺の最安値のスーパーですら一個七十円。一時期、百円ローソンで売っている小さなジャガイモ(二個入り)が二百円以上だった。ジャガイモ高いから冷凍の里芋ばかり買っていた。冷凍野菜はだいたい価格が安定しているのがいい。
 あと高円寺に関しては小店舗営業の八百屋さんが何軒かできた。だいたい安い。

 新宿駅から都営新宿線に乗り神保町。特別企画展『文学の鬼を志望す 八木義德展』(町田市民文学館ことばらんど、二〇〇八年)を買う。前の日に見つけて買おうかどうか迷ったのだが、どうしても欲しくなった。新刊の『八木義德 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店)も気になる。
 八木義德は一九一一年十月北海道室蘭生まれ。暇さえあれば、いろいろな作家の年譜を眺めているが、八木義德の半生はほんとうに壮絶だ。文学展パンフには師・横光利一のこと、野口冨士男との半世紀におよぶ交友について記されている。
「円の会」では八木義德、野口冨士男、芝木好子、青山光二、船山馨、豊田三郎らが集まり、文学談義を交した。会は高円寺の芝木家で行われることもあった。一九五〇年から三十年以上続いたようだ。

 戦中、八木義德は中野区川添町(現・東中野一丁目)に住んでいたこともあった。
 コロナ禍以降、わたしは高円寺から東中野までよく散歩するようになった。神田川の遊歩道がいいのだ。川添町と呼ばれていたあたりは線路の南側の“川沿い”にある(川添公園という公園がある)。

 町田市の山崎団地に移り住んだのは一九六九年一月——五十七歳のとき。それで町田市民文学館で文学展が開催されることになった。

 今年に入って田畑書店は野口冨士男の『巷の空』、田畑書店編集部『色川武大という生き方』も刊行している。創業者の田畑弘は一九四五年に京都で三一書房を興した一人ということを同社のホームページで知る。

 それはさておき「文学の鬼」ということでいえば、わたしはまったくそういう生き方をしていない。

 世の中の価値軸とズレたところで生きる——そこに開き直らず、悩んだり迷ったりしながら言葉を紡いでいく。わたしはそういう文学が好きだし、できれば自分もそういう文章を書いていきたいとおもっている。自分の考え方に同調してほしいわけではない(そんなことは無理に決まっている)。ただ、個人個人の趣味嗜好を鋳型にはめていくような思想や主義とは距離をとりたい。わたしの理想を突きつめていくと“棲み分け”ということになる。

2021/07/08

文学展パンフ

 水曜日、神保町。古本屋をまわって神田伯剌西爾。澤口書店で『池波正太郎の世界展』(世田谷文学館、二〇〇四年)を購入。師・長谷川伸とのツーショット写真が素晴らしい。長谷川伸は若手作家のために自宅の書庫を開放していた。いい話だ。

 先日買った『特別展 くにたちを愛した山口瞳』(くにたち郷土文化館、一九九九年)を見ていたときもおもったのだが、山口瞳や池波正太郎は小説や随筆だけでなく、絵もたくさん残している。絵を描いていた作家の文学展パンフは面白い。

 かれこれ四半世紀くらい気長にだらだらと文学展パンフを蒐集している。ずっと購入のさい、金額の上限やジャンルなどに縛りを設けていたせいで、買いそびれたものもたくさんある。ワンコイン以下なら迷わず買う。七、八百円から千円くらいまでなら悩みながら買ったり買わなかったり。千円以上だったら(よっぽどの入手困難なもの以外は)見送る。パンフレット系は古書相場が定まっていないから百円二百円で買えることもあれば、五、六千円の値段がついていることもある(SF作家の文学展パンフは入手難のものが多い気がする)。あと新刊書店には並ばないから、表紙や背表紙すら見た記憶がなく、判型もわからないことがあるから探すのに苦労する。

 東京、緊急事態宣言。新型コロナに関しては、情報はたくさんあっても自分には理解する能力がない。油断せず、体力温存生活を心がける。
 散歩中、マスクを外したり、ズラらしたりしているのだが(眼鏡が曇るから)、周囲を見渡すと、マスクをつけたままの人ばかりだ。

 市や区のホームページを見ると、屋外でもマスクの着用をお願いしているところもある。その根拠が知りたい。

2021/07/05

国立と野方

 雨続き、部屋の湿度は七〇%以上。部屋干しの洗濯物がなかなか乾かない。肩凝りがひどい。
 七月の即売展一覧を見たら、金曜日から西部古書会館の古書展があることに気づき、午後三時ごろ、会場へ。図録『特別展 くにたちを愛した山口瞳』(一九九九年)を購入。二十年以上前の図録だけど、古本屋で見かけた記憶がない(さっき見たら「日本の古本屋」にはあった)。山口瞳の年譜その他をじっくり読む。生まれは東京府荏原郡入新井町。今の大森駅(大田区)の周辺。そのあと新井宿や戸越銀座のほうにも移り住んでいる。何度か『血族』(文春文庫)を読んでいるが、このあたりの地名はピンとこなかった。
 そのあと川崎、麻布、鎌倉……と転々。結婚して文京区関口台町に暮らし、寿屋(サントリー)時代は川崎の社宅に住んでいた。
 国立に引っ越したのは一九六四年三月、山口瞳三十七、八歳か。山口瞳は二十六年十一月生まれだが、一月生まれという説もある。

 街道関係の図録を探すようになってから、文学関係の大判の図録を見つける頻度が増えた気がする。これまでは棚を見ているようで見ていなかったともいえる。買う本の種類が変わると棚の見方も変わる。

 福原麟太郎著『この道を行く わが人生観』(大和書房、一九七一年)は別紙のサイン本。福原署名本は西部古書会館でよく見かける。地元だからか。福原麟太郎は野方に住んでいて、たまに練馬まで散歩した。帰りはタクシーに乗った。
 わたしも高円寺から練馬まで歩くことがある。帰りはバスに乗る。

 高円寺の北口を出て、早稲田通りのあたりから大和町、野方になり、中野区になる。「かわる」という随筆では町名番地の改称のことを書いている。

《私の番地は、中野区野方町一丁目五七六であったが、こんどは野方(町をぬいて)四丁目三九の九となった》

 日曜日昼すぎ、小雨の中、西部古書会館。旧街道、峠の本など数冊買う。二十代、三十代のころなら買わなかった本ばかり。年をとると、食べ物の好みが変わるように読書傾向も変わる。最近、読書に「感動」とか「心揺さぶられる」とかいったことを求めなくなっている。

 そのあと都議選、近所の小学校へ。一つの党が勝ちすぎて調子に乗るとロクなことがないというのが、わたしの政治認識(床屋政談レベル)である。